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鬼和尚に聞いてみるスレ part8

398蓮恵:2017/02/22(水) 23:35:10 ID:Bfk7ET5s0
>>397
クンダリニー(擬き)が上がるときは、
毎回死ぬかも知れないと思うのですが、むしろ抵抗せずに死んだふりというか、リラックスするとダメージもなく終わるのです
これが修行の障壁になる無我への恐怖に役立つかなと思いまして
確かにエネルギーが上がっている最中は無我かもしれません

399避難民のマジレスさん:2017/02/23(木) 18:34:05 ID:czRftzgI0
>>394
無念無想は非常に集中力を要して大変でしたが、おかげさまで新たな気づきを得ることができました。
ありがとうございました

400避難民のマジレスさん:2017/02/23(木) 18:47:23 ID:/LtJi/2c0
鬼和尚さん、楽しいことが終わってしまい元気が出ない場合、その原因は何になるのでしょうか?
何となく、この楽しいこと自体が麻薬のようなものだっただけで、それがなくなった今の方が本来の状態のような気がしますが、これが本来の状態だったら元気がなさすぎて疲れます。
どうしたら良いのでしょうか?
人間は本来、生活が平凡で何もなくても元気ですか?
例えば、悟った人は、とくに何もなくても毎日が新鮮で楽しいのですか?

401鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/23(木) 22:06:37 ID:1d4drIFg0
>>398 クンダリニーがあがれば自然にサマーディに入れるのじゃ。
 それによって我を忘れられるのじゃ。
 何度も味わえば無我への恐れも薄らぐかもしれん。
 精進あるのみなのじゃ。

>>399 どういたしまして、またおいでなさい。

>>400 それに依存していたからじゃろう。
 執着する者が無くなれば苦が起こるものじゃ。
 自分の心を観察して、執着から苦が起こったと気付けばよいのじゃ。
 苦が無ければ安楽なのじゃ。

 元気じゃろう。
 安楽と喜びが常にあるのじゃ。
 しかしそれにすらも執着せず特に必要ともしないのじゃ。
 大金持ちが小銭にはもはや執着しないようなものじゃ。
 永遠の意識に至ればもはや喜びさえも必要ではないのじゃ。

402避難民のマジレスさん:2017/02/24(金) 15:10:52 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚に質問です。
観照が進むと、自分の目玉をくり貫いて、焼肉のたれをつけて、網で炙って賞味することも
やろうと思えば簡単に出来ますか?

403蓮恵:2017/02/24(金) 16:44:10 ID:/840N4pM0
今日感じたのですが、唯識論でいうように、人間の意識は一つのみではなくて人間には眼耳鼻舌身意の六処とマナ識とアラヤ識がありますが、今まで一つの意識が8つの階層を持っていると見ていましたが、

実際はそれぞれ独立した別々の8つの意識があり、それらが合わさるの(五蘊仮和合的な意味で)我在ると思う意識と人格を持った人間が存在しているように見えるというのですか

我在るという意識を8つの別々の意識の集合としてみるならば、空観もしやすいです

404蓮恵:2017/02/24(金) 16:48:30 ID:/840N4pM0
>>401
ありがとうございます、恐怖の質は似ているか同質のようなので、工夫すればクンダリニーを観察するのもよい手段ですね
といえど私はクンダリニーが制御できず寝てるときに勝手に上がるときが多いです笑

405避難民のマジレスさん:2017/02/24(金) 18:41:39 ID:czRftzgI0
大悟は内面を観察することの他に肉体を観察して乖離しておくことが必要なのでしょうか
肉体の乖離無くしてサマーディも大悟もないのでしょうか?

406鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/24(金) 20:55:56 ID:1d4drIFg0
>>402 やろうとおもえばできるじゃろう。
 無意味であるからやらないであろうがのう。

>>403 そのように感じるならばそれでよいのじゃ。
 自分のやり易いようにみるがよいのじゃ。
 それが一番なのじゃ。

>>404 そうじゃ、なんでも実践するとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>405 それは絶対に必要というものではないのじゃ。
 肉体に執着したり、肉体を自分と思っているものには効果があるものじゃ。
 法は全て人の性質に従って行なうものなのじゃ。
 それもまた法のうちの一つに過ぎないのじゃ。

407避難民のマジレスさん:2017/02/24(金) 20:59:03 ID:BvB6XB0M0
>>401
鬼和尚さん、ありがとうございます。
執着というのは、それがなくなった後でも、それがあれば良かったのにと思って囚われてしまうことですよね?
自覚はなかったのですが、私は楽しいことに執着して、それがなくなったことを悲しんで辛いと思っていたのかもしれません。
それを知って、はっきりと自覚してはいないのですが、楽になってきました。
もう少しよく観察してみます。

悟った人は永遠の意識に至っているのですね。
それは安楽も喜びも超えたところにあることは想像もつきませんが、救いがあるのだと思って、それを覚えておこうと思います。

408避難民のマジレスさん:2017/02/24(金) 21:19:09 ID:czRftzgI0
>>405
よくわかりました。また何かあればお願いします

409避難民のマジレスさん:2017/02/25(土) 11:57:08 ID:lWDDL8yU0
鬼和尚様。
清浄道論やアビダンマッタサンガハは正しいというか参考になりますか?

410鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/25(土) 21:51:23 ID:1d4drIFg0
>>407 そうじゃ、それも執着なのじゃ。
 善い気付きなのじゃ。
 既に苦が離れてきたようじゃ。

 そうじゃ、永遠の安楽を目指して精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>408 どういたしまして、またおいでなさい。

>>409 全て正しい訳ではないのじゃ。
 無因の心があるなどおかしなことも書いてあるのじゃ。
 しかし、参考程度にはなるじゃう。
 全て正しいという囚われる事がなければ参考になるものじゃ。
 ためしに読んでみると善いのじゃ。

411としぼっくり:2017/02/25(土) 22:22:50 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、悟りを得る為には、数息観を合わせて1日何回、どれくらいの時間、瞑想したらよろしいでしょうか?

412鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/26(日) 21:43:38 ID:1d4drIFg0
>>411 それは修業する者の性質とか上達で変るものじゃ。
 最初は朝と夜に五分やる程度でよいのじゃ。
 よく眠れるようになるじゃろう。
 なれてきたら10分ぐらいにふやすのじゃ。
 さらに上達して長く座っているのが苦にならなくなったら20分位にすると善いのじゃ。
 それからは観察もしてみると善いのじゃ。
 たまに長くやるよりは五分でもよいから毎日やるのがよいのじゃ。
 そうすれば上達も早いのじゃ。

413避難民のマジレスさん:2017/02/27(月) 01:37:32 ID:GXTFMGi.0
鬼和尚が観察を本格的にやり出してから無認識へ至るまでは具体的にどれくらいの期間を要しましたか?

414入り口の人:2017/02/27(月) 02:30:24 ID:dFAk.kvU0
数息感で1,2,3…数えていくと集中が弱って気がつくと11,12,13と進んでしまう事があるのですが
数字の代わりに、あかさたなはまやらわ と数えても良いですか?
これなら、わの次は無いので必ず止まります。

415素人A:2017/02/27(月) 08:54:27 ID:uMEXtJH60
数息感は吸う息感何かなあ吸つて吐いてだけ鼻先を心て観ていれば?
でも私は試みが習慣づかなくて昨日の想いが完全に死んでいて
今日は新でいて自分でも呆れる地球はど声いった

416としぼっくり:2017/02/27(月) 10:06:22 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん何度も同じ事を聞いてすいません。観察は数息観とは別に、観察の瞑想として行った方がよろしいのでしょうか?するとしたら何分位したらよろしいでしょうか?

417としぼっくり:2017/02/27(月) 10:21:40 ID:DAY232aw0
連投すいません。観察の瞑想をするとすれば、数息観に続けて行った方がよろしいのでしょうか。

418鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/27(月) 22:14:17 ID:1d4drIFg0
>>413 わしは観察をしていなかったのじゃ。
 経典を読んでいて観照が起こったのじゃ。
 悟った後にお釈迦様が止観を説いていたと知って観察を勧めたのじゃ。
 
>>414 やってみるとよいのじゃ。
 それが合っているかもしれんのじゃ。
 自分にやり易いように法を実践するとよいのじゃ。
 
>>415 毎日なんども行えば必ず習慣は根付くのじゃ。
 そんなに長くなくてもよいのじゃ。
 一日五分ぐらいでもやってみるのじゃ。 
 その位でも毎日やれば上達していくのじゃ。

419鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/27(月) 22:17:36 ID:1d4drIFg0
>>416 何度でも聞いてよいのじゃ。
 そうじゃ、別にやるとよいのじゃ。
 上達したら一緒にやる方法もできるのじゃ。
 最初は別々にやらないと何をやっているのかわからなくなるのじゃ。

>>417 続けてやったほうがよいのじゃ。
 心が集中しているからのう。
 雑念も少なく観察もはかどるのじゃ。
 日々自分の本心の新しいところを探すつもりでやってみるのじゃ。

420としぼっくり:2017/02/27(月) 23:03:31 ID:DAY232aw0
ややこしい質問に答えて下さりありがとうございます。
まだ質問なんですが、観察の瞑想は、観察の行と同じでよろしいのでしょうか?
数息観と観察の瞑想の時間配分は、どれくらいなのでしょうか?

421避難民のマジレスさん:2017/02/28(火) 04:58:49 ID:GXTFMGi.0
>>418

わかりました、ありがとうございました。

422蓮恵:2017/02/28(火) 19:37:34 ID:Bfk7ET5s0
鬼和尚さま
>>292の説法の続きとか詳細かありましたら、お聞かせ下さい

423蓮祥:2017/02/28(火) 20:37:25 ID:V7DzBOsQ0
鬼和尚、自分も>>422の蓮恵さんと同じく、聞きたいです!

424鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/28(火) 22:10:13 ID:1d4drIFg0
>>420 同じなのじゃ。
 観察も五分でよいのじゃ。
 日常でも特に時間を決めずに自らの心を観察すると善いのじゃ。
 そうすれば上達も早いじゃろう。

>>421 どういたしまして、またおいでなさい。

>>422>>423 もはや無いのじゃ。
 自ら実現していくことだけが残っているのじゃ。
 やがて全ての人間に悟りという最高の境地があると知らしめるのじゃ。
 それが続きなのじゃ。

425避難民のマジレスさん:2017/03/01(水) 04:05:15 ID:czRftzgI0
私は後発なので292の説法を今知りました。
世界に変革が起きると。でも、私はそれを種々の予言から第三次世界大戦・天変地異などが起きるからだと考えていました。
和尚さんの話だと、そういう最悪のことはこの地球に起きないということでいいですか?
みんなから始まるとありますが、和尚さん自身は先頭に立って世界を導くご意志はないのですか?

426としぼっくり:2017/03/01(水) 06:52:28 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。どんどん観察もして行こうと思います。沢山の質問にお答え下さりありがとうございます。

427避難民のマジレスさん:2017/03/01(水) 07:09:01 ID:GXTFMGi.0
自分が行為者であるという感覚、自分が行為を行っている主体なんだというこの感覚は
観照が起こり、無我になった瞬間に消えるのでしょうか?

それ以前の段階でこの感覚が消えることはないのですか?

428としぼっくり:2017/03/01(水) 12:55:59 ID:jGbOOhtA0
>>424
鬼和尚さんすいません。質問ですが、心を観察するとは、本心を観察するという事ですか?

429蓮祥:2017/03/01(水) 18:53:31 ID:Fpl15Aq20
>>424
鬼和尚、ありがとうございました。
知らしめるには知らねばならぬですよね…う〜ん、自分にはちょっとハードル高いかもw
それでも後方支援できるレベルにはなっておきたいので、がんばってみます!

430鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/01(水) 22:10:51 ID:1d4drIFg0
>>425 おぬしが諦めたりしたらおきるかもしれん。
 おぬしが誰かを教えたらその誰かが又誰かを教え、智慧と慈悲の絆が途絶える事無く繋がっていくのじゃ。
 そして多くの者が賢い選択和するようになり、災いも防げるのじゃ。
 おぬしがもはややっていられないと諦めたら、人々は自らを破壊する道を良いものと思って選択してしまうじゃろう。
 全て今のおぬしの選択にかかっているのじゃ。

 すでに今ここが先頭なのじゃ。
 人々の心に慈悲と智慧の種を植えることによってのみ、世界は変るのじゃ。
 
>>426 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>427 我を忘れる忘我にょっても消えるのじゃ。
 一時的に自分を忘れているだけであるが、無我と同じ感覚になるのじゃ。
 強い集中力によってそれも可能になるのじゃ。

>>428 そうじゃ、本心を観察するのじゃ。
 本心とは偽らない心なのじゃ。
 本心を観察することによってのみ進歩していくのじゃ。

>>429 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

431としぼっくり:2017/03/01(水) 22:14:58 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。またお願いします。

432避難民のマジレスさん:2017/03/01(水) 22:43:01 ID:GXTFMGi.0
>>427です、ということは忘我の状態(=一瞥体験ですよね?)になって行為者の感覚が
消えて「自分がやった」という観念から生じたすべての罪悪感が消えても、
自我が戻ってきてしまった場合、また自分が行為を起こしている、という感覚も戻ってきて、
「自分がやった」という罪悪感も復活してしまうんでしょうか?

433避難民のマジレスさん:2017/03/01(水) 22:47:57 ID:GXTFMGi.0
追記です。

×「自分がやった」という観念から生じた

〇「自分がやった」というような、自分が行為の主体であるという観念から生じた

です、よろしくお願いします。

434蓮恵:2017/03/02(木) 00:10:51 ID:Bfk7ET5s0
>>424
時代が人間自体の変革を求めており、個人の実践が必要とのことですね

435避難民のマジレスさん:2017/03/02(木) 07:36:54 ID:czRftzgI0
>>425
地球の出来事には色々思うところがありますが、当面は目の前のことをやろうと思います

436避難民のマジレスさん:2017/03/02(木) 15:59:40 ID:KUdA8t9s0
和尚さま

もし山を歩いている時に
猟師の罠に捕まっている獣を見つけた場合、
和尚さまならどのようにしますか。

437避難民のマジレスさん:2017/03/02(木) 20:59:20 ID:7x.f5WBA0
鬼和尚殿、一言いただけませんか?
長らく腰痛に悩まされています。医学的(アプローチは行っていますし、これからも良い結果を得るため努力を続けます。しかし疲れました。
痛みに対しての気構えのようなもの何か一言いただければと。それを胸に戦いたいと。

それと漠然としていますが私から何か見えましたら助言を。生きるに窮しています。お願いします。

438鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/02(木) 22:10:39 ID:1d4drIFg0
>>431 どういたしまして、またおいでなさい。

>>432 そうじゃろう。
 忘我でそのような悪事をするとは思えんがのう。
 忘我になれば無意識の動作以外はできないのじゃ。
 恐れずに進むがよいのじゃ。

>>434 そうじゃ、実践するものだけが進んでいくのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>435 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

439鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/02(木) 22:20:26 ID:1d4drIFg0
>>436 助けてやるのじゃ。
 後にはおむすびでもおいておくのじゃ。

>>437 腰痛のようなものには指圧とか整体が効くのじゃ。
 自分でも周辺の凝っているところなどをもんだりさすったりしてみるのじゃ。
 やわらかくなれば治るのじゃ。
 人体は大方水でできており、流していけば大抵治るのじゃ。
 争わずに流れていくのじゃ。

 そのような時こそ変容は訪れるのじゃ。
 自分が神仏と一つになったイメージを行って、自己イメージを改善するのじゃ。
 悪い環境もよい自己イメージを作る助けになるものじゃ。
 自分が神仏と同じ智慧と力を持つと感じるまでに実践するのじゃ。
 そうすれば道は自ずと開けていくじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

440避難民のマジレスさん:2017/03/02(木) 22:45:34 ID:GXTFMGi.0
>>438
ありがとうございました。
ところで、鬼和尚の無認識に至る直前のあの観照の体験は「一瞥体験」ではなかったんですか?

観照が起こった直後に認識まで滅したから最終的な境地には至ったものの、一瞥体験でも
無我と同じ状態になるなら、「一瞥が起こる」→「その状態で認識を滅する」という流れで認識を滅することも可能かと思うのですが、
そうなると、鬼和尚のあの観照の体験は一瞥なのか観照なのか自分の中ではっきりしません。

鬼和尚があの観照の体験を一瞥ではなく観照である、とした基準を教えていただけると助かります。

441避難民のマジレスさん:2017/03/02(木) 23:26:19 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚

悟りとは、あえて言葉で言えば、「梵我一如」ということでしょうか?

442避難民のマジレスさん:2017/03/03(金) 00:04:18 ID:.Eh62Sas0
>>439
私のために知恵と時間を使って下さり感謝しています。
まずは瞑想からイメージの改善に取り組んでみます。助言を無駄にせぬよう頑張ります。本当にありがとうございました。

443436:2017/03/03(金) 09:36:45 ID:KUdA8t9s0
>>439
ありがとうございます。

では、もしその獣が農家の畑などを荒らしていたり、
人に危害を与えていたりする獣であったならどうしますか。

また、猟師がその獣を捕まえることによって生計を立てており、
逃がすと猟師の生活が苦しくなってしまう場合はどうでしょう。

444避難民のマジレスさん:2017/03/03(金) 18:34:35 ID:uGX7tNS.0
鬼和尚、ご質問です。

和尚のまとめなどを読み、認識を観察するを実践しています。

認識を観察するとは、物事を記憶に照らしてラベル付けをする瞬間を観察することと理解しました。
またその作用こそ阿頼耶識であると。

現時点では言葉の思考を削ぎ、物事を見ただけで起こる微かな思考(認識)を観察しようと努力しています。
まだはっきりと捉えられていませんが、ここは引き続き実践して参ります。


ところで、物事を見てラベル付けをする前の「何か」の状態の時点、
この時点ですでに認識であるとのことですが、
これは「何か」という「何か」をすでに認識していると言うことでしょうか?
わかりにくい表現ですみません。

もしこのラベル付け前の、
「何か」を認識する瞬間さえも観察した時、そこには何も無くなってしまうのではないかと思いますが、実際のところはどうなんでしょう?

445鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/03(金) 21:24:11 ID:1d4drIFg0
>>440 一瞥ではないのじゃ。
 無我に至ったのじゃ。
 まずは自我を滅しなければ無認識には至れないのじゃ。
 
 一瞥とは文字通り一瞬で終わるものじゃ。
 観照はもはや自我は滅してその状態が終わらないのじゃ。
 
>>441 そのようなものじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>442 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
 実践によって道が開けるじゃろう。
 またおいでなさい。

446鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/03(金) 21:27:32 ID:1d4drIFg0
>>443 どうにもしないじゃろう。
 説教してやるのじゃ。
 
>>444 認識の前には感覚の刺激があるのじゃ。
 何も無くてよいのじゃ。
 何かがなくてはならないということもないのじゃ。
 無いのならば無いということををありのままに観るのじゃ。
 それが観察なのじゃ。

447避難民のマジレスさん:2017/03/04(土) 00:14:23 ID:XlpSz8ag0
>>446
ありがとうございます。

もし刺激の前まで目撃することができましたら、それもただ観察していこうと思います。

熟睡中以外の私たちの中ではざっくりですが、

刺激→ラベル付け(認識)→私(観念)→私が対象を見ている(観念)…

という順番が起きており、経験という幻想になっていると理解しました。
この刺激も突き詰めると実体のないものと思います。
これがどの程度の悟りなのかはわかりませんが、当面は阿頼耶識をはっきり捉えるまで観察してみようと思います。

また疑問が湧きましたら質問させて下さい。
ありがとうございました。

448避難民のマジレスさん:2017/03/04(土) 00:22:32 ID:GXTFMGi.0
>>445
しかし、一瞥体験後、その感覚が一日の間ずっと続いてその間至福だったという話は良く聞きます。
それゆえ、先で述べたあの観照の体験との区別がつかないのです。

449436:2017/03/04(土) 10:04:00 ID:KUdA8t9s0
>>446
どうにもしないとは、それでも助けるということでしょうか。
けっこう真剣に悩んでおります。

というのも実際に山を散歩していて、
獣を捕まえる檻を目にするからです。
捕まっているのは見たことないのですが、
もし捕まっていたらどうするべきなのかいつも考えます。

獣は助けたい。しかしそれをすることで困る人が出てくるのも事実。
このような場合、どうすることが正しい行動と言えるのでしょうか。

450鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/04(土) 21:34:55 ID:1d4drIFg0
>>447 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>448 観照とは自我を観ることであり、それができたならばもはや自我は永遠になくなるのじゃ。
 時間がたてば戻ってくるものではないのじゃ。
 時間がたって戻ってくるならばそれは忘我であり、自我をひと時忘れていただけなのじゃ。
 それにょって一瞥もできるのじゃ。
 しかし時間がたてば自我は戻ってしまうのじゃ。
 それが観照との違いなのじゃ。

>>449 助けるのじゃ。
 今の人は特に獣を殺さなくとも生活できるじゃろう。
 より多くの金とか迷惑するとかで獣をとるならば逃がしてよいのじゃ。

451蓮恵:2017/03/04(土) 23:19:07 ID:Bfk7ET5s0
和尚さま
禅定を深めるという目的に囚われず、
計らいをなくして座ることの楽しみを見つけられそうです

452としぼっくり:2017/03/05(日) 09:05:01 ID:DAY232aw0
鬼和尚いつも沢山の質問お答え下さりありがとうございます。
質問ですが、観察の瞑想の時、目を開けていてもいいのでしょうか?

453避難民のマジレスさん:2017/03/05(日) 10:56:07 ID:LC3de7YgO
1)何も考えずに静かに座ってみようと決意する。
2)雑念の多さに気づく。
3)呼吸に集中する(数える)。
4)知らぬ間に集中する(数える)のを忘れて、雑念に巻き込まれ妄想している。
5)その事に「気づいて」、集中に戻る。
6)雑念が消えることを実感する。
観念、思いは幻想と気づく。
観念、思いの対象も幻想と気づく。

観念、思いではない対象そのものをとらえようとするのが、ありのままの観察か?
けど、対象を対象としてとらえたと自覚した瞬間にそれは幻想。
対象は観念されるものとしかとらえられない。
ありのままをとらえるために、「無分別」が求められる。
「何も思わない」で、対象を対象としてありのままにとらえるために、
サマディとか忘我に早く到達せねばと願う龍明であります。
.∧_∧
(-(ェ)-)
(つと)
と_)_)

454436:2017/03/05(日) 11:13:43 ID:KUdA8t9s0
>>450
>今の人は特に獣を殺さなくとも生活できるじゃろう。

なるほど確かに。とても腑に落ちました。
ありがとうございました。

455避難民のマジレスさん:2017/03/05(日) 14:46:43 ID:GXTFMGi.0
>>450

「観照とは自我を観ること」、その文章の意味って、観照とは自我を客観的に
把握できていてそれゆえに自我のない非同一化の状態である、
しかし、一瞥は自我を客観的に把握したりしてはおらずただ自我を忘れているだけ、という意味ですか?

456鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/05(日) 21:28:45 ID:1d4drIFg0
>>451 善いことじゃ。
 楽しんでやることが一番よいのじゃ。
 どんどん実践するとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>452 あけていてよいのじゃ。
 目に見えるものや、観るという事も観察できるのじゃ。
 実践してみるのじゃ。

>>453 あせらなくてよいのじゃ。
 実践していれば向こうからやってくるじゃろう。
 ただひたすらに集中するのみなのじゃ。

>>454 どういたしまして、またおいでなさい。

>>455 自我が観察できた瞬間を観照と呼ぶのじゃ。
 それが起こってからは無我になるのじゃ。
 観照によって自我が厭離されるからのう。
 それ以降は無我の状態になる故に特に重要な気付きであるから観照と呼ぶのじゃ。
 後はそのような理解でよいのじゃ。

457としぼっくり:2017/03/06(月) 05:59:26 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問ですが、観察の行がいまいちよくわかりません。本心を観察して、自分を追求するのはわかるのですが、心身を観察したり、自己観察するのは、本心を観察していたら自然にできるものなんですか?
それとも観察しようとしなければできないのでしょうか?
本心を観察して、自分を追求することはできるのですが、それとは別に心身を観察したり、自己観察した方がよろしいのでしょうか?
その時は本心を観察した方がよろしいのでしょうか?

458避難民のマジレスさん:2017/03/06(月) 13:12:47 ID:BVPIT6kM0
鬼和尚、
3年ほど観察を続けていて、主体という感覚と自分という感覚の違いがようやく分かってきたように思います。
例えば、何かが皮膚に触れた時、皮膚感覚に注意が向いて、その直後にその感覚が実感を持って感じられ、その後で触れられている自分というイメージが生じたとします。
その場合の「実感を持って感じられる」という部分が主体の感覚で、「触れられているイメージ」が自分という感覚に対応しているのではないかということです。
これは正しい観察でしょうか?

またそのような観察ができた時には、すぐにその感覚は自我を離れた遠いもののように感じられますが、自我自体は、他の心の機能や感覚に同時に投射されているためか、無くなりはしません。構わずにずっと観察で良いでしょうか?

459避難民のマジレスさん:2017/03/06(月) 15:46:00 ID:lXLbh8n20
鬼和尚さま

今日はこれまでとは違う状態になったのでお聞きしたいです。
朝から自分を常に注視していたのですが、集中力が勝手に大きくなったので、久しぶりに座って瞑想しました。

呼吸を観ていたのですが、いつもは鼻先などを観ているのを今日は呼吸にを注視しながら頭全体の感覚として観ていました。
集中力のような頭の感覚がグングンふくらんでそれ以上変化がなくなったのでやめました。

自分自身に対しての集中力が勝手に続いていたので、ネットをしながら自分を注視していると、
自分の体がカラダ自身で勝手に動いていて、自分はそれをそうなっているだけと冷静に認識しているような感じがしました。

自分の体が自分と無関係に勝手に生き動いてるので、ちょっとおかしくて笑ってしまいましたが、
これを続けて行けば身体性を厭離できるではないかと思い、なるべく身体の動きを自分だと思わないように集中を続けました。

それで集中を続けていくと頭の中にいままでなかった感覚があるのです。
どこに向かっているということでもないのでですが重力のような感覚、
それから音がなにもないときに頭で感じるシーンという音のもぅ少しすごいザーザーするような音がずっとしてします。

頭に気が上ったときのような不快感はなく、なんとなく意識を失う手前のような、頭は止まってるけど何か力溜まってるような感じです。
頭の中の壁が全て取り払われて無限を感じるようなことは今まであったのですが、そういうのではなく、混沌とした力のような感じです。

それを観察しようとして観察の方向を工夫すると、音がグワングワンしたり、集中の方向に意識を持って行かれるような感覚があります。
ただ全くイヤな感じはなく、未知の感覚で、何かすごいってのが一番近いです。

ちなみに余計な思考、感情は生じてません。
今までの自分はいないけど、今までとは別の自分というか何か実在感を感じます。
自分はいなかったとわかったときの無の感じとは違う広がりのような脈打つような実在感を感じます。

考察のためにしている思考を止めると頭が停止したような、一瞬気を失うような、今まで何してたか忘れてしまうような感じです。
記憶はされていってるのですが、記憶と自分が瞬間瞬間結びつかないような感じです。

こういった状態が何なのかということを、ここからどうしていくのがよいかなど、なにかありましたらおしえていただけますでしょうか。

460避難民のマジレスさん:2017/03/06(月) 16:02:19 ID:lXLbh8n20
状態を長々と書いてしまいましたが、気が上ったのとは違うようだと書きましたが、
これはこれでそういうもののひとつなのかな、とも少し思いました。

ただ、むかしこれとちょっと似た状態を経験したことがあって、それは鬼和尚さまに書いたことがあります。
そのときは自分の意志を無視して集中力が勝手に暴走するような状態で、
例えば目で何かを見たら、そこから目が離せなくなり、その対象に入り込んでしまうような感覚の状態でした。

自分で何とかがんばって、見るのをやめるという意識を作らないと、どこまでも対象を見入ってしまうような、
そういう状態でした。

そのときは集中力をもう自分でどうにもできなくて、しょうがなく横になったらよく聞く幽体離脱のような体験をしました。
幽体離脱だったのか何なのかはわかりませんが、そのときに少し似ているというのを付け加えておきます。
集中力というのか自分と無関係に何かが働いてどこかに連れて行かれるような感覚が似ています。

461避難民のマジレスさん:2017/03/06(月) 17:19:16 ID:GXTFMGi.0
>>456

ということは観照は自我を「観察」した結果、無我になっているのであり、
一方で一瞥は自我の「観察」をしておらず何らかの拍子で無我と同じ状態になっているだけ、
ということですね、

そして、鬼和尚の観照の体験は「一瞥」ではなく「観照」であり、なぜなら鬼和尚は
無我に至る直前に自我を観察し、厭離が起こったから、ということですか?

462避難民のマジレスさん:2017/03/06(月) 18:40:01 ID:czRftzgI0
細かい質問ですがお願いします。
ぼーっとしている時にある人の顔が浮かんだら、それが認識であるということなのか。それとも人の顔が浮かんだ時はまだ記憶で、それがある人の顔だと知覚したら認識である、のどちらですか?

463鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/06(月) 22:08:09 ID:1d4drIFg0
>>457 心身の全てを観察し尽くせば自然に自分が観察できるじゃろう。
 それらに自我は投射されているのであるからのう。
 心身を観察するのも自分を追求するのも自我を観察して厭離するためなのじゃ。
 それら全ては本心を観察することでできるものじゃ。
 偽りを観察していては永遠に自我は観察できないのじゃ。

>>458 そのような観察でよいのじゃ。
 いずれ更に何か気付くことがあるかもしれん。
 それにも囚われずに進むのじゃ。
 ただひたすらに観察あるのみなのじゃ。

>>459>>460 それらも集中力が増して起こった現象なのじゃ。
 自我を超えた集中で忘我に至ろうとしているのじゃ。
 怖がらずに進めばサマーディに入れるじゃろう。
 囚われずに進むのじゃ。

>>461 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。

>>462 人の顔とわかったら既に認識なのじゃ。
 更に分別が加わって誰の顔とかわかるのじゃ。
 何かわからないものがあるとするならば感覚の刺激のみなのじゃ。

464としぼっくり:2017/03/06(月) 22:42:33 ID:DAY232aw0
丁寧な説明ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心を観察して、自分を追求すれば、自我を観察できるという事ですか?

465としぼっくり:2017/03/06(月) 23:49:27 ID:DAY232aw0
↑自分を追求するか心身の全てを観察するか、です。

466避難民のマジレスさん:2017/03/07(火) 01:34:14 ID:lXLbh8n20
>>463
ここから至るのが忘我ですか。
ふり返って、集中力が身に付いたのか、あるいは本来の集中力を邪魔していた我の捉われがとれたのかなと思いました。
方向は間違ってないようなのでとりあえずどうなるものなのかやってみます。
ありがとうございました。

467避難民のマジレスさん:2017/03/07(火) 06:58:57 ID:czRftzgI0
>>462
ありがとうございます。続けて回答をお願いします。

誰の顔とかわかる分別は同時にその好悪の判断も含むということですか?

468避難民のマジレスさん:2017/03/07(火) 12:23:29 ID:Bf.VSe1w0
>>463
未だ思考による観念遊戯の習慣があることに気づきました。
更に何か気づくことが楽しみです。
囚われずに観察に励みます。
お答えくださり、ありがとうございました。

469避難民のマジレスさん:2017/03/07(火) 15:37:23 ID:GXTFMGi.0
461です、鬼和尚は悟るまで特に観察を行ってはいなかったと以前おっしゃっていましたが、
経典を読んでいる時に観照が起こったってことは観照が起こる直前には鬼和尚自ら、
自我とは何か観察するという鬼和尚からの能動的なアクションを行ったってことですか?

いきなり何の拍子もなく無我になったわけではないですよね、それだと一瞥でしょうから。

470としぼっくり:2017/03/07(火) 18:04:13 ID:DAY232aw0
>>464>>465スルーしてください。すいません。
ありがとうございます。自分の本心を観察する事と自分を追求する事を実践して行こうと思います。

471避難民のマジレスさん:2017/03/07(火) 18:58:30 ID:9XP4Lp720
鬼和尚さん、瞑想をしているときに無我になれる理由は、刺激や記憶の想起がなくなって、自我が起こりにくくなるからですか?
つまり、誰でも心を静めることができれば、いつでも無我になれるのですか?

472鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/07(火) 22:07:06 ID:1d4drIFg0
>>464>>465>>470 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>466 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>467 好悪の判断はさの顔を見分けてから起こるじゃろう。
 心の働きはそのように続いて起こるものじゃ。
 それがお釈迦様の言う縁起なのじゃ。
 観察によって見極めるのじゃ。

>>468 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

473鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/07(火) 22:12:46 ID:1d4drIFg0
>>469 そのような瞬間は意識せずに起こるものじゃ。
 何かをしようとしていたら自我が投射され、観ることはできないのじゃ。
 常に真実を求めていたとはいえがのう。

 一瞥とは自我を忘れたときに起こるものじゃ。
 観察された瞬間とは明白に違うのじゃ。
 
>>471 自我がみえやすくなるからなのじゃ。
 起こらないだけでは忘我なのじゃ。
 観察して自我が見えれば無我になれるのじゃ。
 瞑想によって集中力と観察力が高まれば自我もみえやすくなるのじゃ。

474避難民のマジレスさん:2017/03/07(火) 22:25:16 ID:gy.DD9Vw0
>>473
鬼和尚さん、ありがとうございます。
なるほど、忘我と無我のちがいがわかりました。

さらに質問なのですが、忘我の状態で自我を見ることはできるのですか?
以前教えていただいた、胸の真ん中や指先に集中する瞑想はそのための方法なのですか?

475蓮恵:2017/03/08(水) 09:29:08 ID:P0oV4erc0
瞑想していようが、普通に生活していようが違いはないのですか
無相も、有相も違いはないのですか

476蓮恵:2017/03/08(水) 10:24:36 ID:P0oV4erc0
和尚さま
ありがたいですね
周りにある草木とかガードレールとか地面、太陽、雲とか全部が自分の物に思えて、良く分からないのですが面白くてバスのなかで笑っているのですが魔境ですか
周りに自分の物が多すぎて数えるのがめんどいくらいです

477避難民のマジレスさん:2017/03/08(水) 18:23:54 ID:zNSrbEMo0
鬼和尚様、
自我が厭離されずに、先に認識が厭離されることはあり得ますか?
それとも、認識が厭離されると自我も必然的に厭離されるのでしょうか?

478避難民のマジレスさん:2017/03/08(水) 18:40:43 ID:czRftzgI0
しつこくてすいません。
すると、「制感の法を行うには、座ってから目を閉じて視覚の制限から始めるのじゃ。
以下、目を閉じただけでは・・・さらに言葉や分別する心の働きからも注意力を止め、言葉を使おうとする意志や「何ものかを分別する」働きも捨てたならば、速やかにサマーディは訪れるじゃろう。」

「何ものかを分別する」の分別は認識を分別と書き間違えたのではなく分別の意味で、ここでは物体であるというを認識は残してよいが、それが何物であるかということを知覚する分別は捨てよと仰っているのですか?

479鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/08(水) 22:13:38 ID:1d4drIFg0
>>474 見える可能性は高いのじゃ。
 特に忘我から自我が思い出される瞬間、最も自我を捉えられる可能性が高いのじゃ。

 全ての瞑想はそのためにあるものじゃ。
 集中によって自我を忘れ、自我を捉えるために瞑想をするのじゃ。
 それによって悟りを得ることも可能になるのじゃ。

>>475 違いはあるじゃろう。
 既にサマーディに入っていても、やはり瞑想を続ければ更に進歩していくのじゃ。
 夢相と有相に違いが無いことが空なのじゃ。

>>476 どんな境地でも囚われれば魔境になるのじゃ。
 囚われなければ魔境ではないのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>477 稀にはあるかもしれん。
 認識が厭離されれば必然的に自我も厭離されるのじゃ。
 自我も認識に依ってある観念に過ぎないからのう。

>>478 そうじゃ、認識は意志によって捨てられないのじゃ。
 捨てようとするには既に捨てるものを認識しなければならないからのう。
 分別までは自分の意志でも制御できるのじゃ。
 それによって無分別三昧が訪れるのじゃ。
 難しい道ではあるがのう。
 実践あるのみなのじゃ。

480避難民のマジレスさん:2017/03/08(水) 23:41:50 ID:FocWw5K20
>>479
鬼和尚さん、ありがとうございます。
自我を見るということの意味がよくわかっていなかったのですが、理解できた気がします。

また、さらに質問させてください。
瞑想中に指先に集中して、深い瞑想に入りながらも指先に意識があるとわかったら、自我を見たことになるのですか?
それともさらに自我を見るために、その後、その瞑想中にするべきことがありますか?

481避難民のマジレスさん:2017/03/09(木) 14:45:57 ID:h60yePPA0
鬼和尚、こんにちは。

思考を精妙に観察していた所、観ている者もまた思考だった気づきました。

例えば言葉の思考を観ている最中に、不意に「思考を観ている者」を観てみると、
思考が「言葉」から「観ている者」に変化したことがわかります。

普段これらを瞬間的にやっているため、「言葉」と「それを観る私」という分離が起きているのではないかと。

「思考を観察する」とは実は、
言葉→言葉を観ている私→言葉→観ている私…
のように思考が瞬間的に変化していたと気づきました。

観るものは観られるものとはこれのことで、この思考が自我ということなのでしょうか?

482蓮恵:2017/03/09(木) 15:30:06 ID:Bfk7ET5s0
和尚さま
仏教の「無常」は常なるものは無し(存在しない)ですが、
老子の「常無」すなわち、常なるものは無である、という考え方も正しいのでしょうか

483避難民のマジレスさん:2017/03/09(木) 18:46:55 ID:czRftzgI0
>>478
いや〜てっきりあの記述は間違いかと思っていましたが、間違ってたのは私でした。これで制感の法を正しくできるような気がします。無分別三昧を目指します。
丁寧なご指導ありがとうございました。

484避難民のマジレスさん:2017/03/09(木) 20:08:46 ID:lF/XL1lc0
>>479
鬼和尚様、ありがとうございます。

自我や認識を厭離することは、阿頼耶識を厭離することと同じでしょうか?

485鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/09(木) 21:50:49 ID:1d4drIFg0
>>480 ならないのじゃ。
 それは単に深い意識にたどり着いただけなのじゃ。
 それからさらに心身を観察するのじゃ。
 そうすれば自我も観察できるのじゃ。
 
>>481 違うのじゃ。
 それは思考が見えたのじゃ。
 思考をする主体が自我と認識されているのじゃ。
 そして無我になっても観るものがまだあるのじゃ。
 まずは自我を観察する事を目指すのじゃ。

>>482 観念は全て妄想なのじゃ。
 悟りに至る方法は役に立つものであるから正しいとされるのじゃ。
 それが悟りに導くものであれば正しいといえるじゃろう。
 
>>483 どういたしまして、またおいでなさい。

>>484 厭離されるべき認識とは、阿頼耶識のことなのじゃ。
 自我は阿頼耶識によって認識される観念に過ぎないのじゃ。
 阿頼耶識が厭離されれば大悟なのじゃ。
 知恵が生じ生死を超えて永遠の意識に至るのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじゃ。

486481:2017/03/09(木) 22:25:13 ID:wBY09Uzk0
鬼和尚、ありがとうございます。

>思考をする主体が自我と認識されているのじゃ。

これは一体どういうことでしょう?
思考が私やリンゴなどの分別をつけているのではないのですか?
自我の正体は思考による分別によるものだと思っていましたが…。
なにやらスタートラインに戻ってしまったような気分です笑

487避難民のマジレスさん:2017/03/09(木) 22:31:11 ID:Jw3dzeXk0
>>485
鬼和尚さん、ありがとうございます。
ようやくわかってきました。
さらに理解するために、指先に集中する瞑想について、もう少し質問させてください。

1. まず、深い瞑想に入って夢を見ているような状態の時は、忘我の状態なのですか?
2. その状態のまま、指先に意識があるとわかれば、忘我の状態で心身を観察できるようになるということですか?
3. そして、そうやって観察していれば、自我を思い出す瞬間を捉えられるということなのでしょうか?

488避難民のマジレスさん:2017/03/09(木) 22:49:35 ID:lF/XL1lc0
>>485
鬼和尚様、ありがとうございます。
お陰様で、何が自我で認識で、厭離される対象なのかおぼろげながらも見えてきました。
鬼和尚様のおかげです。最後まで精進いたします。

489481:2017/03/09(木) 22:49:51 ID:wBY09Uzk0
>>486
追記すみません。
もしかしたら私は、思考の前の認識そのものを思考と勘違いしてるかもしれません。
認識がまずあり、その後に思考が起こる。
この認識されるもののひとつが自我なのでしょうか?
と質問してしまいましたが、もっと自分で観察してみます。
いつもありがとうございます。

490避難民のマジレスさん:2017/03/09(木) 22:55:43 ID:SL2No1z20
>>486 横ですが、鬼和尚さまのブログに詳しい説明がありました。
心の模式図 http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-46.html
参考にしてください。

491481:2017/03/09(木) 23:11:05 ID:wBY09Uzk0
>>490
ありがとうございます。
今ピンときた後に模式図を見てみました。
やはり自我も思考も認識されるものではないか?
では認識とは?阿頼耶識とはどの瞬間なのか…などなど思考しています笑
もっと観察してみます。
シェアありがとうございました。

492としぼっくり:2017/03/10(金) 09:07:46 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、>>116で本心を観るようにしていれば自我も心身も観えるのじゃ。と仰ってましたが、自分の本心を観察するとなぜ心身も観えるのでしょうか?

493避難民のマジレスさん:2017/03/10(金) 13:12:38 ID:GXTFMGi.0
>>473

ありがとうございました、無意識的な自我の観察が観照、という鬼和尚の言葉通り、
ということなんですね、

それから、また質問なんですが、鬼和尚は悟った後に「仮の自我」を作った、とか
「無我のままでは生活できない」、という言葉を思い出しました。
言葉通りでなければ、すいません。

私は鬼和尚が語る「自我」という言葉の定義を「私は何々である、という同一化の観念」
と捉えて鬼和尚の語る「自我」という言葉の全てを解釈しているんですが、そうなると上記のような「仮の自我」
という言葉に?となります。

悟った後は仮にでも同一化の観念を自ら作り上げるようなことはしないでしょうし、
無我になったら普通に生活できない、という言葉についても同一化の観念がなくたって生活は
できるだろう、と思ってしまいます。私の知る多くの非二元の教師が普通に生活できているからです。

ゆえに鬼和尚が語られている「自我」という言葉の定義について私が間違っているのか
、さらに仮の自我、無我になったら生活できないというのはなんなのか、長いですが、
教えていただけると助かります。

494鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/10(金) 22:36:23 ID:1d4drIFg0
>>486>>489>>491 そうじゃ、思考とは認識されたものなのじゃ。
 自我は認識されている観念なのじゃ。
 思考すればそこに自我の観念が投射されるのじゃ。
 そして自分が思考していると誤って認識されるのじゃ。

>>487 1 その時自分というものが忘れられているならば忘我なのじゃ。
 まだあるならば忘我ではないのじゃ。

 2 その意識は集中の結果たどり着いたものなのじゃ。
 観察とは関係ないのじゃ。
 観察は集中とは別に行うものなのじゃ。

 3 観察ができていればそうなるじゃろう。

>>488 どういたしまして、またおいでなさぃ。

>>490 ご苦労さんなのじゃ。

>>492 自分の心を偽らなければありのままに心にあるものが全て見えるからなのじゃ。 
 その方が難しいがのう。
 不安や恐れがあれば誰でも逃避したりして心を偽るのじゃ。
 そのような者のために方法が必要なのじゃ。

>>493 例えば道に落ちている縄が蛇ではないとわかった後にも、他人と話すためにはあの道にいる蛇が・・・とか話すじゃろう。
 そうしなければ話が通じないからなのじゃ。
 悟った後にも肉体を持つ自己という同一化の観念がなければ人と話は出来ず、生活もできないのじゃ。 
 話をするにはわしとかおぬしとか主語が必要であり、生活にもわしの飯とかおぬしの飯とかの区別が必要なのじゃ。
 それがなければ話も生活も無いのじゃ。
 仮の自我とは自分も肉体などとの同一化があるようにふるまうことであり、慣れれば簡単にできるようなるものじゃ。
 お釈迦様でさえ悟った後にはそのまま死のうとしたのじゃ。
 何も無ければそのまま死ぬことも普通に選択するのが真の仏陀なのじゃ。

495481:2017/03/10(金) 22:50:12 ID:B2FlLhyk0
>>494
鬼和尚、お答えいただきありがとうございます。

やはり認識とは、いわゆる“気づき"のことのようですね。

自我とは、
気づき、認識された五感と思考が記憶により連携され、ひとつの個に思える幻想。

目を閉じて意識に成れば、様々な気づきが暗闇にあちらこちらと点滅のように現れます。

このひとつひとつの認識に意味付けしたものがこの世界であり、
この意味付けは、阿頼耶識からよるもの。
そのような理解です。

この阿頼耶識から起こる意味付けですが、例えば文字を目にするとほぼ一瞬のうち「あ」を「a」と意味付けしています。
こんな高速なものを捉えることができるのか自信がないですが、やってみようと思いました。
いつもありがとうございます。

496避難民のマジレスさん:2017/03/10(金) 23:59:04 ID:ZmtoUYNs0
>>494
鬼和尚さん、ありがとうございます。
何となくわかってきましたが、確認のために質問させてください。

1. 指先に集中する瞑想をして忘我に入ってから、観察する瞑想をすれば良いということですか?

2. その時に観察しようと思うことは、自我を思い出したのではないのですか?
つまり、そのように思考が働いても、自分を思い出さないでいることはできるのですか?

3. 忘我とサマーディーの違いは何ですか?

497蓮恵:2017/03/11(土) 07:04:26 ID:Bfk7ET5s0
以下は井上義衍老師が認識について語ったものですが、悟りを得たものの認識を説明したものでしょうか。

1.��
道元禅師が正法眼蔵 現成公案の巻に「諸法の仏法になる時節」と説いておられる。��
����一般の人が「諸法」というのは、実体としてのものを認めるのです。それが中心となってほとんどの人が諸法というておられるのですね。それでは救われんのです。��
����そういうように見(けん)を起こして、ものを認めておるような状態ですと、この身心の実相が分からんのです。自分自身の真相が。��
����「仏法なる時節」ということは、諸法といわれているものが、向うにものとして存在しておるように思われているものが、「そうじゃない、この身心の姿だよ」ということです。��
����この身心のすべての動きが、仏法でいう「諸法」なのです。次から次へ本当に自在に動く、それが仏法でいう「諸法」なのです。��
����向かえばある。見ようと思うて見えたのではない。向かえばいきなりある。それが私どもの真相です。��
����六根の働き、すべて自分の実物なんです。道そのものの実物なんです。��
����人の見解の上に持っている人間(自分)を捨てる、自己を忘ずる体験によって、「仏法なる時節」現成です。

2.��
我見をこれから離れるのではない。��
��我見の起こる前があって、その前が自分の事実です。それが本当の私どもの心の在り方です。��
����我見といわれるものは、認識作用で何も実体はないのです。��
����空(くう)にする前に空であった事実が、そのまま「ズバッ」と、みな。それだけでいいんです。それをやると、必然的に人我(にんが)の見(けん)というものが、みな離れる。それが「道(みち)」です。それが座禅の一番大切な様子です。


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