[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
ジュセリーノ預言について語るスレ
102
:
名無しのひつじさん
:2009/02/09(月) 16:11:35 ID:l6VTH9BU
>>88-89
よりつづく
>>94
>>96-97
よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜より抜粋
ということは、今艱難時代が迫っているからキリストの再臨が近い、という論法が成り立つことになります。
しかしもしその論法が正しいと言うならば、艱難時代が未だ迫っていなかった第一世紀のクリスチャンたちが
キリストの再臨を日々待望していたことは間違いであったということになります。
そしてそれは現在でもキリストの再臨を日々待つことの否定になります。
しかも、さらに重大なことは、そのような間違いを教えた使徒たちの書簡は信用ならないということになります。
それは聖書の神のみことばとしての権威の問題となり、私たちは信仰の土台を失うことになります。
使徒たちも、また使徒たちの教えを受けた第一世紀の信者たちも、
この世に神の怒りが注がれる艱難時代の到来を待っていたのではなく、
その前に御自分の民をこの世から救い出してくださる主イエス・キリストが来てくださるのを待っていたことは、
すでに参照した聖句で明らかです。
「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、
主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(1テサロニケ5:9)
「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、
この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、
すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの
栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」(テトス2:11〜13)
103
:
名無しのひつじさん
:2009/02/09(月) 16:30:04 ID:taPIsFPg
>>88-89
よりつづく
>>94
>>96-97
>>102
よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜より抜粋
★★★結論★★★
空中再臨(教会の携挙)は、予告、前兆なしに、いつ如何なる時にもありえることであり、
終末の全ての事件に先立って起こることです。
新約聖書はこのことをだれの目にも見間違うことがありえぬほど明瞭に、明白に教えています。
このことを否定することは神への冒涜であり、不敬虔であるのです。
「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、
あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
もし死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。・・・
そして、もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、
あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、
私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、
キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。
まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、
権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」(1コリント15:12〜24)
104
:
名無しのひつじさん
:2009/02/12(木) 13:20:47 ID:p7mjrdgY
>>88-89
よりつづく
>>94
>>96-97
>>102-103
よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜 P4〜より抜粋
キリストの復活と再臨は絶対に切り離せない真理です。
それはキリスト信者の信仰の土台であるからです。
もし復活がないならば再臨もなく、再臨がないならば復活も意味がなくなります。
キリストの復活の事実は、私たちキリストを信じる者の肉体が、
キリストと同じ栄光の姿によみがえらされることを保証しています。
聖書は、キリスト者のからだがキリストと同じ栄光の姿に変えられることをからだの贖いと呼んでいます。
主は私たちのたましいの贖いのためだけでなく、からだの贖いのためにも十字架の上で死んでくださったのです。
そしてキリストの再臨の日こそ、私たちのからだの贖いの日であり、勝利の日です。
すべてのキリスト者はこの勝利の日を熱心に待ちわびています。
「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。
『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」
(1コリント15:54〜57)
さらに、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられた」ように私たちのからだの贖いも神の栄光の表われです。
神を愛するキリスト信者がこの神の栄光の表われを待ち望むことは当然であり、また健全なことです。
どの花婿が愛する花嫁を迎える婚姻の日を待ちわびないでおれるでしょうか。
キリストは御自分の花嫁である教会を御自分の住まいに迎える日を切に待っておられるのです。
ですからキリストを愛するキリスト者もすべて、キリストの再臨を切に待望しているのです。
そしてキリストの再臨を待ち望むキリスト者の心は、ますますキリストへと捧げられ、清められるのです。
105
:
でちゅ☆ぺぬえる
:2009/02/12(木) 15:59:18 ID:p7mjrdgY
きょうもいい天気でちゅ〜〜
僕ちゃんも信仰に歩むクリスチャンの一人とちて、いちゅの日か、お空の上に挙げられ、
栄光のおからだにちゅくりかえられて、イエス・キリストちゃまといちゅまでもいちゅまでも、
兄弟姉妹の人たちみんなでごいっちょに、暮らすときが約束されていまちゅことを、
楽しみに待ち望んでいたいと思うものでありまちゅ。
死んでいたとちても、ちゃんと信仰に歩んでいたクリスチャンは、
復活させていただけるのでちゅから心配いりまちぇん。
この地上でクリスチャンはみな、神ちゃまを賛美しちゅちゅ、
永遠の時を幸せに生きることを約束していただいてるのでちゅから。
ほんとアーメンでちゅ!!!
そうそう、パレ○チナの人たちはまじゅ、イスラエルちゃまにロケット弾を打ち込むのを止めるべきでちゅね。
そうしなければ、神ちゃまもお怒りになられてることでちょう。
106
:
名無しのひつじさん
:2009/02/12(木) 16:10:03 ID:???
うるせえよ。邪魔すんな。
107
:
名無しのひつじさん
:2009/03/26(木) 11:23:12 ID:p7mjrdgY
>>88-89
よりつづく
>>94
>>96-97
>>102-104
よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜 P4〜より抜粋
「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」(第一ヨハネ3章3節)
このようにキリストの再臨への待望はキリスト信者の世からの分離、聖別の強力な動機であり、献身への根拠であるのです。
ですからキリストの再臨への待望が薄れた時、キリスト教界は俗化し、キリスト教界が世俗化した時、
キリストの再臨への待望が薄れたことはキリスト教界の歴史が証明しています。
第十八世紀のキリスト教会が、キリストの再臨がいつでもありえること、そしてそれが切迫していることを
聖書によって再発見した時、一大覚醒を経験しました。
そして多くのキリスト者が福音伝道のために故郷を離れて世界の果てを目指して出て行きました。
それによって世界伝道が大いに発展しました。
さて現在はどのような時代でしょうか。まさに今はラオデキヤの教会が象徴する生ぬるい時代であり、
世俗化の大波が教会の中にまで押し寄せ、多くの教会はすでに飲み込まれてしまっています。
そして再臨の教理が非常に曖昧にされ、再臨が前兆なしに
いつでもありえるという聖書の教えが忘れられています。
この時にこそ、キリストの再臨の教理をもう一度聖書によって
確認することが緊急に要求されていると信じます。
108
:
名無しのひつじさん
:2009/03/26(木) 11:46:07 ID:p7mjrdgY
>>88-89
よりつづく
>>94
>>96-97
>>102-104
よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜 P4〜より抜粋
★再臨の教理
近代主義者たちは字句どおりのキリストの再臨を信じません。
しかし真にキリストを信じる者たちの中にも
キリストの再臨について幾つかの異なった意見があることも事実です。
ある者たちはキリストの空中再臨と地上再臨を区別せず、それらを一つの事とし、
艱難時代が終わった時にあると信じています。そして彼らの中にも二種類の意見があり、
キリストの再臨の後に千年王国があると信じる者と、千年王国の存在を信じない者たちがいます。
また教会が艱難時代の幾分かを経験し、その途中で携挙されると主張する人たちもあります。
この書の目的は、聖書が、キリストの空中再臨が艱難期の前に起きると、
しかもそれはいつでも起こりえるのであり、それには前兆がないと教えていることを、
聖書によって証明することです。
この書が語ろうとしている終末についての見解は、一口で言えば艱難期前空中再臨、
艱難期後千年期前地上再臨説と言えます。
それを詳しく説明すると次のようになります。先ずキリストの空中再臨があり、
その時教会は天に携挙されます。これはいつあるか分かりません。
そのための前兆はありません。それはいつでもありえることです。
その後、艱難時代が始まるまでに艱難時代の準備のしばらくの期間があります。
その長さは、数ヶ月であるのか、数年であるのか分かりません。
しかしその準備の時があることは聖書から判断されます。その準備が終わった時、七年間の艱難時代が始まります。
その艱難期の直後、キリストの地上再臨があり、少しばかりの準備の時の後に千年王国が始まります。
千年王国が終わった時、旧創造の世界は一度、消し去られ、
神は新しい天と地を創造されます。それは永遠の新創造の世界です。
もしそれらを聖書が語っていないなら、これを信じることは全く虚しいことです。
ですからこれが聖書の教えていることであるかどうかを、
ベレヤの信者のように聖書によって十分にチェックする必要があります。
どこそこの聖書学校の教授がこう言った、だれそれの意見はこうだ、ということは全く無駄なことです。
この学びは時間的順序に従って進めて行きます。
109
:
名無しのひつじさん
:2009/03/26(木) 12:07:32 ID:p7mjrdgY
>>88-89
よりつづく
>>94
>>96-97
>>102-104
>>107-108
よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜 P4〜より抜粋
★キリストの空中再臨、教会の携挙
先ず第一に、キリストの再臨には二種類あることを知らなければなりません。空中再臨と地上再臨です。
空中再臨は教会を天に引き上げるためにキリストが空中まで下りて来られる、教会のための再臨です。
ですからこれを(教会の)携挙とも呼びます。地上再臨とは、神がアブラハムと結ばれた契約に基づき、
イスラエルの民のために神の国を実現させるためにキリストが地上に下って来られる、
イスラエルの民のための地上への再臨です。先ずこの二つを混同したために、
再臨についての多くの間違った解釈行われ、混乱を与えています。
空中再臨では、キリストは御自分の教会を地上から引き上げて、
御自分の住まいに迎え入れるために予告なしに、天から空中まで下りて来られます。
ですからこの再臨を、地上再臨と区別するために、空中再臨と呼ぶことにします。
空中再臨がいつあるかは全く分かりません。
第一世紀のクリスチャンもその後のクリスチャンもすべて、
キリストがいつでも再臨することがおできになると信じ、熱心に待っていました。
空中再臨のために予告も前兆も全くありません。
それでは、空中再臨には前兆がない、
いつでもありえるということについて聖書をしらべましょう。
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、
あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14章2〜3節)
★解説
四福音書の中で、主イエスが教会を御自分のおられる所にいつでもおらせるために
再び迎えに来られると約束されたみことばが記されているのはこの聖句だけです。
福音書の中の他の聖句はすべて地上再臨について語っています。
主イエスが教会を天に引き上げるために再び来られるための必要条件は、
御父の家に御自分の花嫁の場所が備えられることだけです。
110
:
名無しのひつじさん
:2009/03/26(木) 12:23:31 ID:p7mjrdgY
>>88-89
よりつづく
>>94
>>96-97
>>102-104
>>107-108
よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜 P4〜より抜粋
「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。
あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、
私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」(ローマ13章11節)
★解説
「今は救いが」の救いとは、ピリピ第三章二〇節が語っているように肉体の贖いのことであり、
私たちがこの地上から救い出されて天に引き上げられることです。
そしてその時が「今」なのです。使徒パウロは
キリストの再臨を今にもありえることとして信じ期待していたのです。
「その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、
また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。
主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、
最後まで堅く保ってくださいます。」(第一コリント1章7〜8節)
★解説
コリントの信者たちは、主の再臨を今直ぐにでもありえることとして熱心に待っていたのです。
聖書では「主の日」とは、主日(日曜日)を除いて、
常に「主が支配される日、主のさばきの日」を意味しており、艱難時代の全体、
あるいは艱難時代が終わった直後の主の地上再臨、あるいは主の地上再臨後の千年王国を意味しています。
また「主イエス・キリストの日」、「主イエスの日」
あるいは「キリストの日」は主の空中再臨の日を意味しています。
111
:
知井隆一
:2012/07/05(木) 10:05:38 ID:EyNUevbU0
2030年イエスの空中再臨です。
その時、クルスチャンだけ、携挙する。
2030年から2037年まで、7年間、患難時代です。
前半3年半、ラッパを吹く
後半3年半、鉢を流す。
2037年、イエスの地上再臨です。
場所は、オーリブ山に再臨です。
その後、1000年王国です。
1000年に過ごしたらサタンを解放して試みる。
サタンは負けて火の池に投げた。
その後、永遠の命になる。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板