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ジュセリーノ預言について語るスレ
1
:
ジュセリーナ
:2008/01/21(月) 13:16:20 ID:wVd7BCCc
現代のノストラダムス ブラジルの預言者ジュセリーノ・ダ・ルースの預言について語りましょう。
さてと彼の預言では 2008年9月13日 アジアのある国で ←日本だろ 100万人規模の被害者を出す地震と津波が発生するそうです。
102
:
名無しのひつじさん
:2009/02/09(月) 16:11:35 ID:l6VTH9BU
>>88-89
よりつづく
>>94
>>96-97
よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜より抜粋
ということは、今艱難時代が迫っているからキリストの再臨が近い、という論法が成り立つことになります。
しかしもしその論法が正しいと言うならば、艱難時代が未だ迫っていなかった第一世紀のクリスチャンたちが
キリストの再臨を日々待望していたことは間違いであったということになります。
そしてそれは現在でもキリストの再臨を日々待つことの否定になります。
しかも、さらに重大なことは、そのような間違いを教えた使徒たちの書簡は信用ならないということになります。
それは聖書の神のみことばとしての権威の問題となり、私たちは信仰の土台を失うことになります。
使徒たちも、また使徒たちの教えを受けた第一世紀の信者たちも、
この世に神の怒りが注がれる艱難時代の到来を待っていたのではなく、
その前に御自分の民をこの世から救い出してくださる主イエス・キリストが来てくださるのを待っていたことは、
すでに参照した聖句で明らかです。
「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、
主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(1テサロニケ5:9)
「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、
この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、
すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの
栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」(テトス2:11〜13)
103
:
名無しのひつじさん
:2009/02/09(月) 16:30:04 ID:taPIsFPg
>>88-89
よりつづく
>>94
>>96-97
>>102
よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜より抜粋
★★★結論★★★
空中再臨(教会の携挙)は、予告、前兆なしに、いつ如何なる時にもありえることであり、
終末の全ての事件に先立って起こることです。
新約聖書はこのことをだれの目にも見間違うことがありえぬほど明瞭に、明白に教えています。
このことを否定することは神への冒涜であり、不敬虔であるのです。
「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、
あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
もし死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。・・・
そして、もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、
あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、
私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、
キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。
まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、
権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」(1コリント15:12〜24)
104
:
名無しのひつじさん
:2009/02/12(木) 13:20:47 ID:p7mjrdgY
>>88-89
よりつづく
>>94
>>96-97
>>102-103
よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜 P4〜より抜粋
キリストの復活と再臨は絶対に切り離せない真理です。
それはキリスト信者の信仰の土台であるからです。
もし復活がないならば再臨もなく、再臨がないならば復活も意味がなくなります。
キリストの復活の事実は、私たちキリストを信じる者の肉体が、
キリストと同じ栄光の姿によみがえらされることを保証しています。
聖書は、キリスト者のからだがキリストと同じ栄光の姿に変えられることをからだの贖いと呼んでいます。
主は私たちのたましいの贖いのためだけでなく、からだの贖いのためにも十字架の上で死んでくださったのです。
そしてキリストの再臨の日こそ、私たちのからだの贖いの日であり、勝利の日です。
すべてのキリスト者はこの勝利の日を熱心に待ちわびています。
「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。
『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」
(1コリント15:54〜57)
さらに、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられた」ように私たちのからだの贖いも神の栄光の表われです。
神を愛するキリスト信者がこの神の栄光の表われを待ち望むことは当然であり、また健全なことです。
どの花婿が愛する花嫁を迎える婚姻の日を待ちわびないでおれるでしょうか。
キリストは御自分の花嫁である教会を御自分の住まいに迎える日を切に待っておられるのです。
ですからキリストを愛するキリスト者もすべて、キリストの再臨を切に待望しているのです。
そしてキリストの再臨を待ち望むキリスト者の心は、ますますキリストへと捧げられ、清められるのです。
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