[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
神の存在/不在と科学の範囲
405
:
Josef
:2007/01/31(水) 17:08:01 ID:uPoVYQoU
シカゴ・ブルースさん、こんにちは。
仰ることがよく分かりませんが、私はbaku22さんに賛同する形で政治的・社会的背景(前提)の違いが意見の相違となったのだろうという観察を述べたのですよ。「神」概念の前提が違えばそれをめぐる意見が相違するのは当然であって、どっちの方がレベルが高いという比較の問題ではないと。にもかかわらず「論理的思考のトレーニングが足らない」などと言う人がいるから、そうではなく論理的思考に関しては皆さん慣れていてレベルが高い、と言ったわけです。シカゴさんも「こいつらは論理的思考が苦手」とは思ってないでしょ?
>macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。
そうです。そしてその「範囲」をめぐって議論したわけですね。「範囲」とは内と外に線を引くことですから、外(この場合は主に「神」)の概念が異なれば線の引き方も異なるのは当然でしょう。baku22さんの「宗教をもっと場合分けした方がよかっただろう」もその辺のことを言っていると思います。
>私のようなレベルの低い者には macskaさんの主張はとても論理的で分かりやすいのですが、ハイレベルの議論をなさる方には非論理的に見えるのでしょうか。
私にもとても分かりやすいです。でもそれはたぶん、macskaさんの他の議論をある程度知っているからであって、いきなり読めば多くの人が誤解するだろうとも思います。
>その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、レベルの低い(失礼!)macskaさんが終始冷静でおられるのはとても不思議です。
冒涜されたと言う側が「ヒートアップ」するのは当然でしょう。レベルの高低の問題じゃありません。
406
:
Josef
:2007/01/31(水) 17:09:56 ID:uPoVYQoU
シカゴさんにもう一つ。
>>「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」
>
>たしかに誤解を招きかねない表現ですね。ただ、私は「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」はとりあえず科学的探求の対象となるだろうと思います。まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのことです。macskaさんの主張はそういうことなのではないかと私は読み取っていたのですが、何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。
Mさんも言ってますが誤読でしょう。シカゴさんのように読むなら、そもそも科学の範囲に限界を設ける必要が失せます。「すべての神」や「あらゆる価値」もひっくるめて森羅万象が科学の対象であるとしておけばよい。そして科学の俎上に載せてみたら「検証も反証もできない」ことが分かった、とすればいいわけです。現実に起こる事象なら、などと始めから限定する必要は全然ありません。
macskaさんが言ってるのはそういうことではなくて、シカゴさんの言葉を使えば「科学的に検証も反証もできないと判断される」ことはもともと科学の対象ではない、ということです。その上で、「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」ならば科学の対象となりうる、という主張。もちろん実際上はいろいろ限界があって検証不能なことも多々あるけれど、原理的には「科学的に検証も反証もでき」るはず、と。
そうすると「では現実に起こる事象とは?」という方向に行くのは当然で、「偶然」もその一つなのです。
407
:
Josef
:2007/01/31(水) 21:08:36 ID:uPoVYQoU
「偶然」についてですが、macskaさんはたぶん考えていなかったのでしょうね.だからMさんに突っ込まれると何も言えなくなってしまった。
しかしながら、「偶然」の話題は「神の介入」をめぐるものだったわけで、「偶然」がいかに難問だったとしても、「そこには神の介入がかくかくしかじかのように行われている」という言明がなされたなら、この言明内容は科学の対象となりうると考えられます。科学が説明できていないこと、科学に説明できるかどうかすら分からないことはたくさんあると思います。「偶然」をどう考えるかもそうでしょう。しかしその科学に分からないことを宗教が説明できると言い、実際に説明してみせるなら、その説明は科学的検証の対象になるでしょう。もちろんあくまでも「科学の範囲」での検証に止まるのであって、宗教的説明に代わる真理を提示できるわけでもなければ、宗教的意義その他については何も言えないでしょうが。
408
:
シカゴ・ブルース
:2007/02/01(木) 17:54:39 ID:KNmRxfBE
Josefさん、こんにちは。
とても分かりやすくまとめて下さってありがとうございます。問題となっている点が何なのかが、私にも理解できました。この際お礼だけを申し上げて立ち去るのが大人の態度ですが、それだけでは芸がないので、あらずもがなの「余計な」見解を以下に…(念のため。「燃料投下」の意志はありません)。
数学を自然科学に含めるかどうかについては、みなさんいろいろとおっしゃっています。現実の世界からもたらされた具体的な表象を抽象化して作り上げた数や図形の概念を操作しているという意味では小・中・高で学ぶ算数や数学のほとんどの部分は自然科学に属しているだろうと私は思います。これらは一定の限定された範囲において現実の世界に適用されるという検証を経ています。形式論理学に属する部分もまた、ある限定された範囲内においては現実に適用できますから、これを自然科学に含めてもいいのではないかと私は思います。
ただ、私たちが「論理的」といっている場合の論理は必ずしも形式論理の範疇にはとどまっておらず、そこにはさまざまなフィジカルなものあるいはメタフィジカルなものが入り交じっていると私は思っています。これらを同一のものとして扱えるのかなというのが私の感想です。というより、メタフィジカルな論理はいかに論理的に整合的であっても自然科学の論理としては使えないですね。そして、メタフィジカルな論理とフィジカルな論理とは議論という土俵の上では戦えないでしょう。決着のつけようがない。Josefさんの 407 のお話はそこら辺のことも含めておっしゃっているのだろうと私なりに解釈しています。
そこで、「冒涜された」という論理ですが、これはフィジカルなものではないですね。だから、これを理由として言いたてられても、フィジカルな論理ではいかんともしがたい。私なら議論から撤退します。
最後に。科学という認識形態は非常に限定的な認識であることは確かですが、その限定性・限界性を自覚している限りでは非常に有用であり、万人に開かれた公平な認識であると私は評価しています。もっとも、現在の(戦後のといってもいいですが)理科教育は、科学的認識の限界性といった点に関してはまったく触れていないという点で、科学信仰というイデオロギーを流布しているとは思っています(他のさまざまなイデオロギーに比較すれば、科学の有用性は科学信仰の実害を覆い隠してしまうほど大きいし、それが科学的認識の発展・拡大の原動力になっている側面もありますが)。しかし、第一線で科学を扱っている方々のほとんどはその限界性を十分認識しているでしょう。というより日々の科学的な実践でそのことを思い知らされていますから、単純な科学信仰を抱きつづけることは不可能でしょうね。
409
:
HAKASE
:2007/02/01(木) 20:22:11 ID:ZC/gbS1c
どうも.
えと…地下に眠るMさんがされている『偶然』の話なんですが,「偶然に関わるものは全て科学の範疇外で手も足も出ない」かのように誤解されないかと(そういう意図で書いているわけではないとは思いますけど)ちょっと心配になってしまいました.
もちろん,例えば「ある一定の誤差範囲内で他のどの事象からも独立した試行であることが(科学的な手法などを適用して)明らかになった場合」には「その範囲内で「本質的に偶然」だとみなす」ことができますし,そうである事が既に明らかになっている問題については,「結果を科学的手法によって予測することは不可能」だと私も思います.
ですが,『*ある事象が*本当に「本質的に偶然」なのかどうか』については,前にも述べましたけど,科学的な検証の範囲内だと思いますし(例えば現在の技術では狭い範囲でしか適用できないけど研究が進められているカオス時系列解析のような)科学的な手法で扱う検討対象のひとつだと思います.
『現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇』と言い切ってしまっていいかは,私は十分検討していないのでわかりませんが,少なくとも「偶然性」については一部ではあるけど既に科学で扱う対象となっているという点は把握しておいて欲しいと思います.
# 以下は余談だけど,6面体のサイコロを完全に理想的な状態(完全に理想的なサイコロを,角を正確に真下に向けて完全にバランスのとれた状態で,空気抵抗や床の特性など周囲の状況も完全に一律な状態)で落とした場合(現実にはあり得ないけど例えば物理法則にしたがってコンピュータシミュレーションなどをした場合)には「サイコロは倒れないのでどの目も出ない」という結果になるだろうなぁと思ったり(^^;
410
:
fukken
:2007/02/01(木) 20:41:09 ID:M5vfENrY
>>408
シカゴ・ブルースさんには大きな事実誤認があるように思いましたので、口を挟みます。
まず、
>その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、
>>396
とありますが、私以外のどなたがヒートアップしていましたでしょうか?
そもそもJosefさんの主張からは「知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。 」の中に私が含まれないであろうことは明瞭ですよね。
私は最初に自己紹介しています通り
>>76
、いわゆるアラシ紛いの不真面目者です。
私のようなモノと一緒にされては、常連の方々は不愉快だろうと思いますよ。
次に、その私がヒートアップしていた理由も、論理的にどうこうなどと言う次元の話でなく、オノレの過ちを認めず逃げ回るmacska氏の姿勢にあったわけです。
シカゴ・ブルースさんはきっと「macska氏はそんな人じゃない」と仰るのだろうけど、私はmacska氏とやり取りをしてそのように判断しました。(そして、私のように感情剥き出しでないにせよ、他の多くの常連の方たちがそう感じていたのもまた事実。)
つまり私の”ヒートアップ”については、macska氏の論旨に問題があるかどうかとは別の問題だと言うことをお間違いなきよう。
411
:
Josef
:2007/02/01(木) 22:50:47 ID:uPoVYQoU
>>409
>少なくとも「偶然性」については一部ではあるけど既に科学で扱う対象となっているという点は把握しておいて欲しいと思います.
その通りですね。
ただ偶然性という言葉は科学よりも哲学の土俵で論じられているはずです。本質的偶然というのは、本質的に何ら法則性が無いということですから、法則性を見出すことを旨とする科学の対象にはならないのですね。もちろん少なからぬ科学者が「本質的偶然など無い」と言うでしょうが、その場合「偶然」の意味が違っています。
たとえば「何の必然性もなく存在しているこの私」のような「実存」などは本質的偶然に数えられます。これを本質的偶然だと認めるならば、「あなた」もまた偶然であり、「あなた」と「私」の出会いも偶然です。
ヴィトゲンシュタインは「世界の在り様が神秘なのではない、神秘なのは世界があることだ」という有名な言葉を残しました。これに絡めて言うなら、科学に扱える「偶然」は「世界の在り様」に属するものであって、「世界があること」という本質的偶然性を扱うものではない、ということになるでしょうか。
ついでながら、ヴィトゲンシュタインは「因果」というものを認めていません。AとBという2つの事象の間の「因果」法則は常に事後的解釈であらざるをえず、そこに論理的必然を見出すことはできない。明日も同じ「因果」法則が観察できる保証はどこにもないのです。この点では、Mさんの「ニンゲンの意識は、その偶然性をいとも簡単に必然性に転化してしまうわけだにゃ」(
>>107
)とかなり近い。「前世からの因果」というふうな思想も科学的な因果関係も、この意味では一種の信仰であって、大して変わらないともいえます。
412
:
HAKASE
:2007/02/02(金) 18:33:58 ID:ZC/gbS1c
Josefさん.お返事どうもです.
科学の分野でも「偶然性」については扱われていて(専門用語かどうかは私は知らないですが,カオスの分野などでこのような表現をされる事があります),私はそちらの意味で解釈していました.
Webでざっと調べましたが,「偶然性」というのは哲学の専門用語(?)としてよく使われる言葉なのですね(科学哲学という分野があるのもここで始めて知りました).
哲学で言うところの「本質的偶然性」については,いまいち理解できなかったので(雰囲気はなんとなくわかるんだけど…),Josefさんの文脈にそった適切なレスができなくてすいません.
# 以下,気になった点のコメントだけさせてください.
私自身は,科学者の多くは,証明・実証がなされていない事については「わからない・明確になっていない」という立場を取ると思ってるので,「本質的偶然」が「何の法則性もなく結論が決まる事例」の意味であったとしても,おそらく科学者なら『「本質的偶然など無い(世の中に全く存在しない)」』と断言するよりも「あるかないかは明らかになっていない」という立場をとるんじゃないかなと思います(あると*仮定*して研究をするとしても).
それから「前世からの因果」と「科学的な因果」については,どちらも『*まずは*「公理にあたる因果関係(?)」を「てきとーな解釈でもって」定義してしまっても良い(それこそ極端な話サイコロ振って決めても良い)』という点では私も同じだと思います(科学を「真理を追究するもの」ととらえている方には異議があるかもしれませんが).
ただし,「科学的とされる(されている)因果」については,公理系を定義した後で『(論理学で言うところの)完全性が保証された推論形式や推論規則を用いて,観測結果とその公理とから予測や推論を行ってみて,その結果が観測結果と一致しない場合には,その公理系などに修正を加える』という作業を繰り返すことで,「ある一定の(例えば確率的にいって十分確からしいとみなせるなどの)範囲内」で「ある一定の誤差内での予測や推論」が可能であるとみなせるレベルまでの修正がなされている,という点が異なってると思います.
という事で,最後にJosefさんが書かれた「一種の信仰であって,大して変わらない」という見方ついては,『「上記のような検証手続きを経ているか否か(あるいは検証手続きを現在行なっている途上にあるか否か)の違い」を無視すれば,大して変わらない』という意味では私も同意見です.
# おそらくJosefさんは哲学の立場から話してると思うんですが,私は哲学についてはよく知らないので,これ以上はレスできないです.すいません.
413
:
NAN
:2007/02/03(土) 12:12:29 ID:NbousSag
いろんな議論や対話において「本質的」ってコトバが出てくるとき、かなり気をつけないと誤魔化しが横行することになりますね。いま対話されている「本質的偶然」というのも然り。これは「規則性が一切見出すことのできない偶然」を指すのだろう、と私は思いますが…つまり「極限までランダムな事象」として数学的に定義することはできるのでしょう。(いや、できないのかも知れないけれどできる気がする)
ということは、「カンペキにランダムな事象」が「ホントにカンペキにランダムなのか?」という点について懐疑主義をぶちあてることは可能ですから、カンペキに偶然に起きることであっても、それが「科学の対象とならない」という命題は偽となるんでしょうね。別にこの辺はカオス論とか持ち出すまでもなく。
しかし、ここで論点(あるいは争点)となっているコトガラとは、科学が、通常「オッカムの剃刀」などによって取り扱わない事象、つまり「あらゆる偶然性、必然性のウラには超越的存在の働きがある」というような考え方でしょう。こういう「前提そのものが懐疑されることを拒否している事象」の扱いというのは、間違うと危うい方向の神秘主義や信仰的or象徴的権威主義に向かうことがあり、権力や利権と結びつくこともあるので扱いについては慎重にならざるを得ないのだ、と私は考えています。
#個々が「懐疑されることを拒否するナニカを持つ権利」は守らなければならないし、それが時に害悪(暴力)や搾取の構造を生むことについても熟知しなければならない、ということ。
「意味」や「価値」について、科学は言及しないことを是としているわけですが、私たちが現在地球上に生息している「理由」というとき、この「理由」というコトバの持つ多義性や解釈の「幅」の中に、さまざまな誤解が生まれるのでしょうね。
414
:
NAN
:2007/02/03(土) 12:32:54 ID:NbousSag
ついでに少し補足をば。
プランク定数とか光の速度とか重力定数とか、そういうこの世界の成り立ちを決める基本的な数について、私たちの科学は高い精度でそれを求めることができます。いわゆる複雑系とかカオス論を使うと、一見すると偶然に見えることでも、隠れた規則性を見出すことができます。しかし、それらは「カミサマが決めたことなんだ」という言明について、科学がなにかを検証することはできるでしょうか?
たとえば「地球は5年前に生まれた」という言明は、科学によって否定されるでしょう。しかし、さまざまな科学的観測や推測、予測を受け入れたうえで、それらすべての法則の背後には超越存在の働きがある、と云われたとき、科学はそれを検証できるでしょうか。
この世で起きるすべての事象の背後に、普段はオッカムの剃刀によって切り落とされている領域にいる「ナニカ」について言明を求められたとき、科学はなんのコトバも持たない、というのが私の結論です。
415
:
ゆん(♂)
:2007/02/03(土) 22:54:05 ID:ZuqQuBeU
現在の自然科学は「自然の斉一性」を重要な暗黙の前提として方法論を構築しています。なので、その「自然の斉一性」を自由に操れる存在が実在すると仮定したら、その相手に対して自然科学の検証手段はまったく役に立たないでしょう。で、現在「神」という概念は、そうした「斉一性を自在に操れる存在」のことを指すのではないかなあ。
とかそんなことを思ったり思わなかったり。
416
:
地下に眠るM
:2007/02/06(火) 15:23:57 ID:cizMQ0FI
>>408
>「冒涜された」という論理ですが、これはフィジカルなものではないですね。だから、これを理由として言いたてられても、フィジカルな論理ではいかんともしがたい。私なら議論から撤退します。
じつのところ、別に冒涜したってかまわにゃーんだ。
要点は「知りもしない、知る気もないくせに、よくも否定できるね。ネット上とはいえ馬鹿を宣伝してタノシイ?」
ということだにゃ。
>>402
において、夢の取り扱いについて「macskaが見ているのなら尋ねてみたいところにゃんが」と書いたけど、もう本人は見てにゃーのだろうか。これだけ冒涜しただのしてないだのという話をした揚げ句、傍目から見ただけで断言しちゃうようなことをして突っ込みに対しても黙殺なんて、ごく単純に侮蔑に値すると思うんだけどにゃー。
>>412
>最後にJosefさんが書かれた「一種の信仰であって,大して変わらない」という見方ついては,『「上記のような検証手続きを経ているか否か(あるいは検証手続きを現在行なっている途上にあるか否か)の違い」を無視すれば,大して変わらない』という意味では私も同意見です.
その「検証手続き」というものもカガクの範囲にそもそも属するものであることがよく意識されているのであれば、その理解でいいのではにゃーだろうか。
カガクが最も開かれた知的体系であることに異議をさしはさむつもりはにゃー。
しかし、神秘主義的な知の体系が閉じられたものともいえにゃー。
どのような知的体系においても、それなりの才能がそれなりの努力をしてはじめて価値あるものをえることができることは変わらにゃーのだ。
417
:
diamonds8888x
:2007/02/07(水) 06:01:58 ID:HFzGgWdI
> どのような知的体系においても、それなりの才能がそれなりの努力をしてはじめて価値あるものをえることができることは変わらにゃーのだ。
それは確かでしょうね。では得られた価値を認識したり味わったりするにも才能は必要でしょうか? 微積分や力学の創造にはニュートン等の才能が必要でしたが、その理解には普通の高校生レベルの才能があれば十分です。科学を理解するための敷居は極めて低いのです。神秘主義的な知の体系の具体例は何も知らないのですが、そちらではどうなのでしょう?
単に現在ではやる人が少ないから敷居が高く見えるだけなのでしょうか?
418
:
すかんく
:2007/02/07(水) 14:49:29 ID:ASJ/wL/Y
すみません、基本的な質問をば。。
ここでいう科学の定義はなんですか?
419
:
地下に眠るM
:2007/02/13(火) 16:46:59 ID:cizMQ0FI
>>417
>微積分や力学の創造にはニュートン等の才能が必要でしたが、その理解には普通の高校生レベルの才能があれば十分です。科学を理解するための敷居は極めて低いのです。神秘主義的な知の体系の具体例は何も知らないのですが、そちらではどうなのでしょう?
>単に現在ではやる人が少ないから敷居が高く見えるだけなのでしょうか?
そもそも僕は「カガクが最も開かれた知的体系であることに異議をさしはさむつもりはにゃー。」と417でいっているにゃ。神秘主義についても体験的にわかっているわけでもにゃーしね。
しかし、神秘主義とまでいかなくとも、哲学的な知についてヤスパースが以下のようなことを言っているにゃ。(ヤスパースは有神論的な実存主義なんで、神秘主義に通じるものはおおいにあるといえますけどにゃ)
*****************************************
また哲学的思惟には、科学のように、進歩発達の過程というものがないのであります。確かに、私たちはギリシア時代の医者であったヒッポクラテースよりもはるかに進歩しています。しかし私たちはプラトーンよりも進歩しているとはいえないのです。私たちは、プラトーンに利用できた科学的認識の材料に関してだけなら、彼よりも進歩しているといえる。しかし「哲学すること」それ自身に関していえば、おそらく私たちはもう一度彼の水準に到達することはほとんどできないのではないでしょうか。
科学と異なって、哲学の形態をとるかぎり、どんなものにも万人の一致した承認というものが欠けているという事実は、哲学という事柄の本性のうちに存しなければならないことであります。哲学において獲得される確実性は、科学的な性質のもの、換言しますと、どの悟性にとっても同様な性質の確実性ではなくて、それが成功した場合に人間の全本質が参加してともに語り合うことができるといった確認(Vergewisserung)なのであります。科学的認識は何らかの個々の対象にかかわりをもち、そしてこれらの個々の対象について知ることはけっして万人にとって必要であるわけではないのでありますが、哲学においては、人間としての人間にかかわる存在全体や、一度解明されたならば、どの科学的認識よりもいっそう深く人の心をとらえるところの真理が重要な問題となるのであります。
なるほど完全な哲学は科学と結合しており、またそれぞれの時代において到達された最高の状態にある科学を前提とするものでありますが、しかし哲学の意味はそれと異なったある種の根源をもっております。哲学はあらゆる科学に先立って、人間が目覚める場合に現れるのであります。
ヤスパース「哲学入門」新潮文庫判P8〜9
*******************************************
神秘主義は前合理でも非合理でもなく、超合理にゃんからね。合理思考ができることは神秘主義者には必須だにゃ。ヤスパースは否定神学の流れをくむ神秘主義的哲学を構想しているけど、徹底的に科学と親和的であろうともしているのだにゃ。
そして、417の質問にこの立場からこたえると、「敷居が高いとも低いともいえない」となるにゃんね。科学とはまさに「クレーン」のように丹念に積み重ねていくものであり、実存哲学的な知(神秘主義的な知もこれに含まれるだろう)とは「人間が目覚める場合に現れる」ものだからにゃ。
420
:
地下に眠るM
:2007/02/13(火) 16:58:12 ID:cizMQ0FI
さて、前掲のヤスパースの議論を写していて思い出したんだけど、以下のようなやりとりがありましたにゃー。
>神話は、名前こそ残ってにゃーが、その当時の最高の賢者たちが何代もかかって産みだしてきた知の体系だにゃ。宗教の教義にしても、最高のエリートが作ってきたといっていい。それを、読み方もしらにゃー馬鹿が「誰がどう見ても間違っている」だってさ。
>>177
馬鹿猫
>過去のものすごい賢者や哲学者の思考を、いまのわたしたちは文庫本あたりで簡単に読むことができるわけですから、昔の最高の賢者たちが一生をかけて築き上げた知の体系を越える知を現代の一般人が持っていても別に不思議じゃありません。例えば、聖書がネットで検索できるようになったこと自体、過去の信仰者や研究者に対して現代の人の圧倒的な有利さがあります。
>>179
macska
macskaはあまりにもお気楽極楽な進歩主義者だにゃ。チミは19世紀のニンゲンか? と突っ込みをいれたくなるにゃ。
科学主義というよりは、暴力的なほどお気楽な啓蒙主義なんだと思いますにゃ。まあ、メリケンで馬鹿クリスチャンと言葉のチャンバラやっていれば啓蒙主義的になるのもわかるし、啓蒙主義は必ずしも否定できにゃーけど、こりゃいくらなんでもお気楽かつ暴力的すぎるだろ。アウシュビッツを招いたのは啓蒙主義的な理性だとアドルノもいってるにゃんが。
macskaの書くものはちょこちょこ拝見していたけど、分析に感心も納得もしていながら何か違和感があったんだよにゃ。そのあたりの理由については、今回僕は腑に落ちるものがあったにゃ。
421
:
シルバーバーチの霊媒F
:2007/05/01(火) 13:46:35 ID:???
霊医アトス様(日本の氏神様であり当初の心霊治療家を支えてた神霊)の霊界通信
心霊治療の誤りについて(霊界通信)
アホか????ひまし油で治るか?
だからケーシーみたいなお馬鹿な霊媒だと低級霊しか付かんのだよ。
霊医殿が、アホ ケーシーのせいで、どの位辛かったか!お前の手柄かよ!
アホめ! 何故お前達が、ケーシーを取ったか解るよ。アホだからだよ。
日本のシルバーバーチでもある霊医アトス様より 代打F
(Fは、あくまで、あくまで霊媒です、代打です。)
続き
何処にお知らせすべきか彷徨っております、霊界通信として参考までに読んでください
エドガー氏のことよりもイギリスのエドワーズ氏よりの考えに重きを置いてるのが
霊界のようです、日本にはウィックランド氏方式しかないであろうと言うこととおっしゃる
前 シルバーバーチ霊のお言葉を合わせてお知らせいたします。
私が今、最も霊能力がある霊医の霊媒だそうです。日本だけでなくて世界的だそうですが???
皆様が、今、最も霊界情報に詳しい御方ですよ。 皆々様へ
つづき
イギリスのエドワーズ氏は、シルバーバーチ霊の指導の下でスピリチュアルヒーラーとして
イギリスを代表するヒーラーでありヒーリングの第一人者でした。
シルバーバーチ霊のお考えでは、前世は、人間に解る領域では、無いという見解です。
実際憑依の成せる業であると結論付けられておられます。
エドガーケーシー氏の心霊治療は、大きく誤っていることに対して
今私は、日本の ヒーラー達へ警鐘を、鳴らす為書き込んでおります。
又、預言者としての彼も、大きく外すことの連続であろうと思わずには、いられません。【寒気がします】 ケーシー氏の投薬・シップなどは、アクまで気休めであり霊医のお力が、無くしては、
何の結果も得られないであろうと言うお話も窺いました。(霊医団のお方:薬に関しては、詐欺に問われるのではと心配する霊医殿もいるくらいです)
霊界のお方達は、エドガーケーシー氏の行った心霊治療が、霊能力の無いヒーラーが行うことにより
低級霊とも呼ばれる不安定な霊が憑依し反って病を重くすることも多々有りそうだとの考えから
前世療法やレイキを大人のコックリさんとして禁止してほしいとFに指示されました。
ある有名霊能者が種を蒔き、私Fが刈り取り・・後・・霊界の秩序のもとに真の宗教が生ませるでしょう
と、言うシルバーバーチ霊のお言葉を頂いております。 あしからず。
422
:
名無しさん
:2007/06/03(日) 17:51:15 ID:oitaE/O.
バナナ考えたヤツ天才じゃね?
よく言われることだけどバナナ考えたヤツは天才すぎるというか、
でもだってまず皮がヤバイ。外皮ヤバイ。剥きやすい。
スイカやメロンはバナナ見習えっつー。
そりゃみかんも剥きやすいよ?
でも薄皮ジャマ。薄皮食うんか出すんかで人間を悩ますとこがダメダメ。
その点、バナナは外皮オンリー。しかも種もない。種なし。
種を出すアクションが不要。ワンアクションで食べられる。
ワンアクションフード。
食べるペースも調節できる。大きい口なら一口で、小さい子ならそれなりに。
ラップもいらず、外皮はソフトクリームのコーンみたいに持ち手にもなっちゃう。
エライなんという食べやすさ。なんという無駄のないインターフェイス。
ルーカスもスピルバーグも、ちょうすごいアイディアにビックリ。
外皮のないイチゴなら、皮剥く必要ないじゃんとか言う。ほら、きた。
じゃあイチゴさん聞くけど、おまえ農薬からガードできんのかよ。
バナナの外皮は防毒、保湿、長期保存ばかりか、携帯性にもすぐれちゃってる。
直接、持って散歩に行ける。
あと房。バナナってばちょう房。一本だけじゃなく、複数本を一括で扱える。
ワンハンドでキャリーできる。すごい。バナナすごい。
丸くない。坂道でコロコロ転がらない。
転がりリンゴによる交通事故が多発する現代社会において、
バナナなら坂道の事故ゼロ。落としても安心。
バナナは安全も考えたパッケージング。
ほんとにね。ほんとバナナ考えたヤツ天才。つーか神。
もー伝説のサムシンググレート?
……サムシンググレート?
そうかもしんない。
文字通りバナナ作ったのは創造主、伝説のサムシンググレート。
そしてこんだけバナナが人間向けに作られてること考えると、
サムシンググレートって、意外と人間のこと気にかけてくれている。
人間のためにちょー気を使ってる。バナナ作って気を使ってる。
サムシンググレート。マジですごすぎると思う。
423
:
地下に眠るM
:2007/06/03(日) 20:21:47 ID:KqE7Wn1s
>そしてこんだけバナナが人間向けに作られてること考えると、
>サムシンググレートって、意外と人間のこと気にかけてくれている。
バナナはニンゲンだけでなく、果実を食するサルの類い全てにとっての福音だにゃ。
この さむしんぐぐれーと はきっとサルの神にちがいにゃー。
しかしさー「人間原理」ちゅうのも考えてみれば脆弱な理屈にゃんね。
この地球上でもっとも繁栄している生物って、別にニンゲンだということにはならにゃー。
昆虫神かもしれにゃーし、細菌神かもしれにゃーよな
424
:
ミケ
:2007/06/04(月) 13:54:26 ID:???
んじゃあイチゴやみかんをつくったのは
サムシングぺティってところ?
425
:
名無しさん
:2007/06/10(日) 16:58:23 ID:DHj5XiXA
ドーキンスの「神は妄想である」の話題ってここで良いですかね。
あの本は一神教の創造神、人格神を「神」とし、汎神論は比喩として神という言葉を使っている
という立場で神の存在を否定していますが。
426
:
NATROM
:2007/06/11(月) 11:26:02 ID:fNsuFDiI
「神は妄想である」。読んでる最中です。やっぱり私にはドーキンスよりも、グールドが主張するNOMA(重複することのない教導権)が正しいように思えます。
427
:
名無しさん
:2007/06/12(火) 14:36:32 ID:DHj5XiXA
ドーキンスの批判と違って、
NOMAは宗教が独占的に道徳的価値観を扱える、と言っているわけではないですよね。
そもそも科学と宗教の違いについて述べたものだから、宗教は道徳的価値観を扱う、と言っているだけで。
428
:
カクレクマノミ
:2007/06/13(水) 12:13:47 ID:lhM1Ka.M
>NOMAは宗教が独占的に道徳的価値観を扱える、と言っているわけではないですよね。
ドーキンスならたぶん、「宗教以外にも道徳を扱えるものがあるなら、いろんな害のある宗教をあえて使う必要はない」、また「宗教以外の道徳を扱うものに比べ、現在の社会では宗教が特権的で批判できないものとして扱われているのはおかしい」などと反論するでしょうね。
>そもそも科学と宗教の違いについて述べたものだから、宗教は道徳的価値観を扱う、と言っているだけで。
これもドーキンスなら、「でも宗教は道徳的価値観だけじゃなく、事実も扱おうとしているじゃないか」と言うでしょう。たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。
429
:
地下に眠るM
:2007/06/13(水) 19:38:02 ID:cizMQ0FI
>たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。
セックスが穢れたものであるのなら、処女から生まれたことには道徳的価値があることになるにゃ。
事実と価値の分離ちゅう理屈そのものが、カガクの側で勝手にいっていること、ちゅうことに宗教の側としてはなるだろにゃ。
そもそも価値と事実の源泉はともに神にあり、神を離れては事実も価値もにゃーわけだ。
430
:
名無しさん
:2007/06/13(水) 22:27:55 ID:DHj5XiXA
>「宗教以外にも道徳を扱えるものがあるなら、いろんな害のある宗教をあえて使う必要はない」
>「宗教以外の道徳を扱うものに比べ、現在の社会では宗教が特権的で批判できないものとして扱われているのはおかしい」
現実の宗教の功罪とNOMAとは直接関係なくないですか?
431
:
名無しさん
:2007/06/13(水) 22:33:18 ID:DHj5XiXA
>たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。
宗教はイエスが処女から産まれたかどうかについて、どのような?という形での問いは発しないのではないですか。
432
:
カクレクマノミ
:2007/06/14(木) 00:24:49 ID:lhM1Ka.M
>セックスが穢れたものであるのなら、処女から生まれたことには道徳的価値があることになるにゃ。
道徳的な意味づけができるとしても、事実に関する問題なのは間違いありません。
ある1人の人間の母親に性行為の経験があったかどうか―NOMA論者なら、これは事実に関する問いであり、科学の領分だと主張するでしょう。
>事実と価値の分離ちゅう理屈そのものが、カガクの側で勝手にいっていること、ちゅうことに宗教の側としてはなるだろにゃ。
それだと結局、NOMAは成り立たない(宗教の教導権が事実に関する事柄にも及ぶなら、それは科学の領域と「重なり合う」ことになる)のでは?
>現実の宗教の功罪とNOMAとは直接関係なくないですか?
NOMA論者の頭の中にどんな宗教があろうと、今この世界において「宗教」と呼ばれているものは、NOMAの言うような性質を持ってはいないでしょう。
>宗教はイエスが処女から産まれたかどうかについて、どのような?という形での問いは発しないのではないですか。
問いを発しようとしまいと、宗教が事実に関する主張をしているのは間違いありません。
「神は妄想である」の内容は一見すると過激ですが、ドーキンスの議論を1つ1つ見ていくと、同意しやすい部分もかなりあるように思います。
たとえば、戦争の悪についてのすばらしい論文を書いた倫理学者よりも、教義をよく知りもしない反戦的宗教の信者の方が簡単に兵役拒否できるというのは、常識的な感覚に照らしておかしいものではないでしょうか?もちろん僕の常識的感覚なので、みなさんのものとは違うかもしれませんが、どうですか?
433
:
NATROM
:2007/06/15(金) 09:23:25 ID:fNsuFDiI
もちろん、ボーっとしているとどんどん宗教は侵略してくるというのは正しいでしょう。しかし、それは科学が宗教の領分を侵略していい理由にはなりません。マリアが処女だったかどうかという問題は、本当に科学の領分ですか?誰かが「処女懐胎は科学的にも説明できる」などと言いはじめたら批判の対象になるでしょう。しかし宗教側がことさら科学を持ち出さない限り、「それは科学の領分である」などとわざわざ言う必要はなかろうと思います。もしかしたら、科学的な方法では検出不可能なやり方で神は介入したのかもしれませんよ。
うわべだけの反戦的宗教の信者の方が簡単に兵役拒否できるのはおかしい、という主張には賛成します。無神論者の立場が不当に弱いとか、倫理的な問題に関して科学知識のない宗教家が口を出す資格があるのかという話に関しても、概ね同意できます。でもこれは、NOMAとは独立した話。優れた倫理学者が容易に兵役免除され、少なくとも人口に応じた分ぐらいの発言力を無神論者が持ち、倫理的な問題を論じるにあたって基本的な科学知識が要求されて当然とみなされる社会においても、宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。
434
:
名無しさん
:2007/06/16(土) 05:06:40 ID:DHj5XiXA
>NOMA論者の頭の中にどんな宗教があろうと、今この世界において「宗教」と呼ばれているものは、NOMAの言うような性質を持ってはいないでしょう。
NOMAは宗教と科学がある条件を満たすなら済み分けが可能だという、いわば理想ですよね。
>問いを発しようとしまいと、宗教が事実に関する主張をしているのは間違いありません。
検証すべき「事実」としてではなく処女懐妊を扱うことは可能だと思います。
処女懐妊って
435
:
カクレクマノミ
:2007/06/17(日) 17:23:09 ID:lhM1Ka.M
>もしかしたら、科学的な方法では検出不可能なやり方で神は介入したのかもしれませんよ。
科学的な方法では検出できず、蓋然性すら議論できないような現象があったとして、それについていったい誰がどうやって論じることができるのでしょうか?そのようなものについて考えるための方法論を、宗教は何か持っているのでしょうか?
結局、ドーキンスが繰り返している「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」問題に行きつくように思います。
>宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。
科学で直接的には論じられないような問題について(だけ)論じ、しかし科学的知識や論理には立脚している(少なくとも矛盾しない)ことを求められ、取り立てて特権的な扱いをされることのない存在。それを僕たちは、形而上学・哲学・倫理学・思想などと呼んでいます。
少なくとも、今僕たちが宗教と呼んでいるもの、宗教という言葉で僕たちが思い浮かべるものとは、全く別のものができあがるのではないでしょうか?
NOMA的理想社会における「宗教」と、今この世界で宗教と呼ばれているもの。この2つを同じ名前で呼ぶことを正当化するに値するような共有形質って、いったい何でしょうか?
436
:
Kitkat
:2007/06/17(日) 19:43:55 ID:92e0ryjY
>宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。
思考の源は信仰かと問われた時、人が脳のシルヴィス溝への刺激で神を感じる以上、人の脳はそういう思考の形式をとるように造られている、としか答えようがないと思います。
神という概念が形づくられる以前から、山や木、岩、特定の場所を信仰の対象とする、土着のアニミズムは、人の歴史と共にあったのでしょう。ということで「信仰」こそ、人の思考の主流であろう・・・と考えるわけです。
それに比べれば科学の歴史は、浅いと言わざるを得ません。
ただ私は科学の歴史の浅さにこそ、大きな意味があると思っているのです。科学の歴史は、宗教的な思考・・・人の脳に元々備わっている思考の枠組みから、人を解き放つためのプロセス、という側面もあると考えるからです。
人は自ら作り出した科学という思考の道具を使って考え始めることで、生物学的に脳に与えられている機能から、ほんの一部でも自由になったと言えるのではないでしょうか。
科学は信仰という大陸で、自治権を獲得した自由都市のようなものだと思います。既存の勢力から見れば、おもしろくないかもしれませんが、共存出来れば選択肢が広がります。
科学は、自分たちの分野で自由に真理を探究できれば満足で、大陸全体を支配しようなんて考えていないでしょう・・・たぶん。
科学は多くの人々を救い、より多くの人々を死に追いやってきました。
宗教もまた、科学以上に多くの人々を救い、さらに多くの人々を死へと導いてきました。
科学と宗教が共存し、互いに補完することで、将来の多くの悲劇が回避できるのではないかと・・・甘いかな。
437
:
NATROM
:2007/06/18(月) 01:23:27 ID:Z2veARY2
科学的な方法では検出できない現象を論じる方法論を宗教は持っているかもしれませんし、持っていないかもしれません。私は持っていないと思いますけど、残念ながらそれを証明できないので、誰かが「我こそは奇跡を論じる方法論を持っている」などと言い始めても、「ああそうですか。私は信じませんけれども、あなたがたが信じたければご自由に」としか言えません。科学の領域に踏み込んできたら批判する準備ぐらいはするでしょうが、積極的に否定するつもりはないし、その必要も感じません。
>「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」
別にコックや庭師が奇跡を論じたっていいと思いますが。
>少なくとも、今僕たちが宗教と呼んでいるもの、宗教という言葉で僕たちが思い浮かべるものとは、全く別のものができあがるのではないでしょうか?
ドーキンスは仏教を宗教から外していますけど、一般的には「僕たちが宗教と呼んでいるもの」に含みますよね。キリスト教の中でも、大谷順彦著、「進化をめぐる科学と信仰」で述べられているようなキリスト教は、原理主義的な宗教とはまったく別のものですが、やっぱりそれは宗教に違いはありません。今この世界で宗教と呼ばれているものなかにも、かなりNOMA的理想社会における「宗教」に近いものも存在します。
438
:
名無しさん
:2007/06/18(月) 20:30:20 ID:DHj5XiXA
>「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」
宗教者が清貧で煩悩を退けた生活を送っている(とされている)から、というのがあります。
439
:
カクレクマノミ
:2007/06/20(水) 20:35:54 ID:lhM1Ka.M
>「ああそうですか。私は信じませんけれども、あなたがたが信じたければご自由に」
現代社会では、「ご自由に」ではなく、「尊重します」と言わなければならないことになっています。
ついでに税金や兵役免除、公共電波の利用(アメリカでは)、通常の教育(を子に受けさせること)の拒否などなどの特典つきで。
ついうっかり「それは変じゃね?」とか口走ったが最後、宗教を弾圧する悪魔と見なされて脅迫されたりも(アメリカなどでは)します。
>別にコックや庭師が奇跡を論じたっていいと思いますが。
コックが論じた場合と比べ、牧師が論じた場合には無条件の「尊重」、すべての批判に対する回答の免除、おまけに税金の優遇もついてきます。
NOMAは、科学の教導権を制限するだけではなく、宗教の領域(とNOMAが主張するもの)については、宗教が教導権を持ち、それは尊重に値すると主張します。
科学が科学の領域内において教導権を持つのは、それなりの根拠あってのことです。根拠無く領域を広げようとすれば、批判にさらされます(もちろん、これは正当なことです)。
しかし、宗教の教導権については、僕たちは何も根拠を見せてもらっていません。なのになぜか、「尊重」しなければならないことになっています。
これはなんだか不思議な状況ではないでしょうか?
440
:
地下に眠るM
:2007/06/21(木) 00:20:23 ID:KqE7Wn1s
>カクレクマノミ
「内心の自由」は基本的人権のコア中のコアだにゃ。
で
宗教は内心の直接的な表現形態ということになっているわけにゃんね。
メリケンでは、この理屈(僕は形式的に支持する。マイノリティの信仰の自由は非常に重要だから)と
多数派馬鹿宗教理屈のまん延とが奇形的にくっついているちゅうことではにゃーだろうか。
441
:
NATROM
:2007/06/21(木) 11:02:58 ID:fNsuFDiI
無神論者が宗教を弾圧する悪魔と見なされて脅迫されたりすることは問題ですね。しかしながら、そういう無神論者に対する迫害に対する批判と、NOMAは両立すると思います。世俗的な宗教が、少なくとも外見上は他の宗教に対して寛容であるのと同様に、無神論に対しても寛容であることは可能でしょう。
牧師が奇跡を論じた際に、無条件の尊重や批判に対する回答の免除がなされていることも、NOMAとは直接は関係しません。税金は取ってもよいと私は思いますけど。そもそも、本当に無条件に尊重されているんですか?もし仮に、日本でキリスト教の牧師が「神戸の震災の原因は日本人のキリスト教信仰の薄さである」などと言いはじめたら、おそらくは他の常識的なキリスト教徒からも含め、相当な批判がなされると思いますが。なるほど、原理的な宗教が幅を利かせている国は確かにあり、それは問題ですが、だからといって科学が宗教の領分を侵犯してよい理由にはならないでしょう。
宗教の教導権の根拠については、おのおの持っていればいいのではないでしょうか。聖書でもコーランでも文化的な背景でも。私やカクレクマノミさんも何らかの道徳心を持っていますし、根拠もあると思っていますが、少なくとも「科学的根拠」はないでしょう。客観的に各自の根拠の優劣を測る手段がない以上、社会的常識の範囲内においてそれぞれの根拠を尊重するしかないだろうと思います。「神は科学的に考えてほとんど存在しそうにないからしてお前の道徳心の根拠は誤りだ」ってのは、「お前の道徳心は聖書に基づいていないから誤りだ」と同じくらい傲慢です。
442
:
名無しさん
:2008/02/02(土) 20:23:57 ID:zV8V936c
stinky
443
:
光明禅修センター
:2008/03/09(日) 09:53:05 ID:S1DcIzr.
日本の佛縁ある人々に、神秘的なチベット仏教の教えを紹介するため、チベットに住む活仏やリンポチェ、ならびに佛法を学ぶ法友の強力なご支持を頂いて、2007年6月「光明禅修センター」は創立された。
光明禅修センターはセルダ・ラルン・ガル・ゴンパ(色達喇栄五明佛学院)のゾクチェン大成就者、ポワ・ラマこと、金剛ラマ・ガロン・ダンジュ・リンポチェによって設立されました。ゴンパ副院長のダンザン・リンポチェ、ロンド・リンポチェ及びケンポの方々が指導に当たります。実際に修行することに重点を置いた道場で、主な修行内容はチベット仏教ニンマ派のゾクチェンと、セルダ・ラルン・ガル・ゴンパで伝えられてきた伝統的カリキュラムです。
そ の目的は、日本において仏教を信じる人々がチベット仏教を学び、お互いに交流するための『実修道場』を提供すること、そして未だ日本に伝わっていないチ ベット仏教の教えが日本に伝承され、その教えを展開することである。東チベット・セルタ県ラロンにある世界最大のニンマ派の仏教学院である「色達喇栄五明佛学院」の大勢の上師の方々から以下のように祝福を頂いた。
www.wssdl.org
444
:
光明禅修センター
:2008/03/09(日) 14:17:23 ID:S1DcIzr.
日本の佛縁ある人々に、神秘的なチベット仏教の教えを紹介するため、チベットに住む活仏やリンポチェ、ならびに佛法を学ぶ法友の強力なご支持を頂いて、2007年6月「光明禅修センター」は創立された。
光明禅修センターはセルダ・ラルン・ガル・ゴンパ(色達喇栄五明佛学院)のゾクチェン大成就者、ポワ・ラマこと、金剛ラマ・ガロン・ダンジュ・リンポチェによって設立されました。ゴンパ副院長のダンザン・リンポチェ、ロンド・リンポチェ及びケンポの方々が指導に当たります。実際に修行することに重点を置いた道場で、主な修行内容はチベット仏教ニンマ派のゾクチェンと、セルダ・ラルン・ガル・ゴンパで伝えられてきた伝統的カリキュラムです。
そ の目的は、日本において仏教を信じる人々がチベット仏教を学び、お互いに交流するための『実修道場』を提供すること、そして未だ日本に伝わっていないチ ベット仏教の教えが日本に伝承され、その教えを展開することである。東チベット・セルタ県ラロンにある世界最大のニンマ派の仏教学院である「色達喇栄五明佛学院」の大勢の上師の方々から以下のように祝福を頂いた。
www.wssdl.org
445
:
聖なる心(主イエス様)
:2008/03/12(水) 17:51:11 ID:viM7iaT2
宗教家が言うには 神とは あなたの心の中の 良心 である
と述べている つまり われわれは ある意味 神 であるのである
良心 愛という本能こそ 人間が神である証である
正確には 人間は 動物と神との間の生物である
446
:
名無しさん
:2008/03/14(金) 13:30:43 ID:MSUzBPno
まったくそのとおり。
それは宗教ではなく、特定の人のものだけでなく、
全ての人に共通の真理です。
447
:
NORTON3rd
:2008/04/26(土) 12:52:43 ID:tQvpJqX6
macskaさん、根本的な考え方は替わっていないみたいだが、アメリカの一部の無神論者の『アレ』っぷりをみて『こら、マズイんじゃねーの』と思い出したようです
ttp://macska.org/article/224
448
:
地下に眠るM
:2008/04/27(日) 14:59:20 ID:0kFRBCQQ
macskaのこのエントリに対する反応の大きさとその内容がオモシレーのだにゃ。
これはやはりドーキンス絡みのようですにゃ。
449
:
macska
:2008/04/29(火) 13:17:58 ID:TbdmZchA
どもです。
別に最近になって「こら、マズイんじゃねーの」と思い出したわけじゃなくて、このスレの111で書いているように当時からマズイと思っていました。
>111
> # 個人的に、かれのイスラム教に対する発言にはかなり危ういものを覚えます。
> # かれは政治にはあまり関心がないのかもしれないけれど、欧州の一部で最近目立って
> # きた「リベラルを標榜する排他主義的極右勢力」に利用されかねないのでは。
ほらね。いまと言ってること同じですよ。
450
:
NORTON3rd
:2008/04/30(水) 13:27:39 ID:tQvpJqX6
れれ?
111にはおっしゃるようなことは書かれていませんが?
とまれ、お久しぶりのご光臨ありがとうございます
macskaさんのお考えが俺なんかよりドーキンスの『神は妄想である』に遥かに近い考えであることは了承していますし、基本線は変わっていないこともコメント欄を見れば分かります。
それにしても、ちょびっと批判をしただけで、えらい勢いで突っかけてくるコメント欄のドーキンス厨はありゃ何なんですかね
451
:
macska
:2008/04/30(水) 14:21:10 ID:TbdmZchA
ごめんなさい、199番でした。何で間違えたんだろう…
突っかかってくる人の一部(あくまで一部ですよ)については、最近は「疑似科学批判」を掲げるイナゴも発生してますしねぇ。
452
:
NORTON3rd
:2008/05/08(木) 09:30:31 ID:tQvpJqX6
えーっと、GWはタイにあるNANというふざけた名前の実在の街に行っていてNETとご無沙汰でした
>ごめんなさい、199番でした。何で間違えたんだろう…
ああ、わかりました。それにしてもこのときはHOTな議論をしてるな・・・。
ちょっと、アツクなりすぎの感はあるけど
このときの論争相手の一人である地下猫さんがご自分のブログでmacskaさんの今回のエントリについて論じていらっしゃいますが(だけじゃないけど)、正直言って結構難しく読むの大変
ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080502
ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080503
ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080507
453
:
NAN
:2008/05/08(木) 11:02:19 ID:ruLFH.ZE
>>452
NANだと〜!
(ネタにしてるからな!)
454
:
NAN
:2008/05/08(木) 11:03:03 ID:ruLFH.ZE
>>453
訂正:「ネタにしてヤる!」
455
:
名無しさん
:2008/05/11(日) 16:39:36 ID:fn845pfM
>>451
それなら昔からいるだろ
456
:
ゴンチュジャンツオ
:2008/07/20(日) 22:16:18 ID:e6oh0tkk
2008年7月27日(吉日)合同修行のお知らせ
2008年7月27日はュムカ供養の日とグル・リンポチェの吉日です。
この日ではどんな善悪をしても何れも10万倍になります。つまり、善事を一件するとすれば、その功徳は平日に する同じ善事で得る功徳より10万倍も増加するというわけです。ですから、もし皆さんはこの日では精進して(努力して)善事を行えば、功徳は無駄にはならないばかりでなく、さらにこの機会を借りて、素早く力強くて宿業を を取り除くこともできるし、福と知恵の資糧(資金と食糧)を育てることもできます。
●修行会場:東京・赤羽
●修行時間:2008年7月27 日(日)12:00 〜18 :00
●修行内容:
・12:00 〜 13:00 ポワ(伝承を受けた方のみ参加できます。)
・13:00 〜 18:00
※参加希望の方は前もってメールでお申し込みください。
メール: tokyowssdl@gmail.com
ゴンチュジャンツオ
458
:
のっち
:2008/12/29(月) 05:46:57 ID:d895uufw
>>441
>「神は科学的に考えてほとんど存在しそうにないからしてお前の道徳心の根拠は誤りだ」ってのは、「お前の道徳心は聖書に基づいていないから誤りだ」と同じくらい傲慢です。
科学は自分の間違いの可能性をみとめているのに対して、信仰者は自分の間違いの可能性をみとめていないので、
信仰者のほうが傲慢でしょう。
459
:
ナナシー
:2008/12/30(火) 07:46:34 ID:oTVUpoag
>科学は自分の間違いの可能性をみとめているのに対して、信仰者は自分の間違いの可能性をみとめていないので、
>信仰者のほうが傲慢でしょう。
神の存在がほとんどありえないのが事実だとしても、否定は出来ないのだから、「道徳心の根拠は誤りだ」とは言えません。だって存在を否定できないのだから、道徳心の根拠を否定できないからです。
したがって「神は科学的に考えてほとんど存在しそうにないからしてお前の道徳心の根拠は誤りだ」は科学的な言明ではなく、科学が自分の間違いの可能性を認めているのかどうかとは無関係です。
それと信仰者だって改宗する人がいる以上、「信仰者は自分の間違いの可能性をみとめていない」というのは偏見ではありませんか?
460
:
ラプラスの天使
◆daemontaDA
:2009/01/02(金) 17:58:48 ID:gGx0GgTg
「唯名論」者はこう主張した。世の中には(神とか人間といった)「普遍概念」は存在しない。存在するのは個々の物、個物のみ。つまり「人間」なるものは存在せず、ただ大坂太郎とか藤京花子という個人しか存在していない。「犬」というものは存在せず、ただポチとかシロという個々の犬しか存在していない、と言うのである。現代人にとってはきわめて当たり前の主張である。どうしてこんな当たり前のことを必死になって主張したのであろうか。彼らは「普遍概念」などというものは、単なる名称にすぎない、「普遍概念」とは「声の息」すなわちそれを発音したときの息のようにはかないものであり、息のように消えてしまう実在性のないものであるとまで言って、「実念論」を皮肉った。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/jung3-2.html
461
:
名無しさん
:2009/01/19(月) 21:17:07 ID:6AvwjB.Q
私は中1です。3月10日、卒業式でした。
そして、卒業式が終わっていえに帰って、友達と遊びに行っていました。
そしたら!!友達(男)に見つかって(?)友達の家に急遽行く事になりました。
そして行き成り友達は私の胸を触り始めて、ベッドにたおれました。
そしたら制服のスカートをめくり上げて、パンツの中に手を入れて、
チンコの中に指を入れて・・・「クチュクチュクチュ」って。わざといやらしい音を立てて・・・。
そして友達はこういいました。「服脱いで」と。
私はビックリしたので「え?」と聞き返しました。私はもちろんエッチはやったことはあります。その友達と。ほかの人ともやった事はありますが・・・(藁
そして、友達は「オレ、脱いでる所とか写メとるの好きだから」っていいました。
私は納得して、自分でぬぎはじめました。
そして友達は私の体で遊び始めました。チンコに指を入れてクチュクチュいやらしい音を出したり、胸をもみもみしたり、なめたり。
そして友達は写メもとりまくってました。私のチンコの穴。胸。全体など。
そして友達は我慢できなくなったらしく、こういいました。
「オレのズボン脱がせて」と。私は喜んで脱がしました。
ズボンのチャックを開けて、ズボンを下ろして、ガラパンを下ろして。
そしたら友達のもうすでに大きくなっているあそこが出てきました。
そして私は友達をベッドに寝かし、私はうえにのぼって友達のあそこと私のチンコを押さえつけるようにしながら写メをとりました。
とても気持ちよかったです。
この写メを見たい人はこのスレを8箇所に張ってください。
そしたら[ ]←ここにアドレスが出てきます。
それをクリックすると、友達がとった写メすべてのってます。
私がとった写メも、動画も載せてます。
動画はわかりにくいようにしています。
「☆」をクリックすると動画がみれます。
このスレを1箇所にも張らなかった人は、不幸がおこります。
大好きな人が一年以上学校に来なかったり。
嫌いな人があなたの席の隣になったり。
親戚が亡くなったり。
けど本当に写メ、動画ありますので8ヶ所にはってみてください
462
:
RYU_TI_SYU
:2009/01/25(日) 18:39:18 ID:4/NyHbA6
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・) はいはいえろえろ
`ヽ_っ⌒/⌒c
⌒ ⌒
463
:
NATROM
:2009/01/26(月) 12:58:25 ID:???
不心得者のホスト名はsoftbank219047186098.bbtec.netでした。しねばいいのに。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板