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日蓮聖人の本尊観

1管理者:2002/07/30(火) 19:07

「オフ会 開催案内」スレッドにおいて、議論が沸騰しています。内容的に、仮に、「日蓮聖人の本尊観」と名前を付けて、別スレッドとして立ち上げます。提案趣旨は以下の通りです。


82 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/29(月) 11:08

すばらしいやりとりが続いているので、学ばせてもらっています。
ただ、こちらのスレッドが「オフ会の開催」についてのものなので、あとから過去ログを読むときに、勿体ないなあと思いました。

63のドプチェクさんの発言あたりから、こういう流れになっているようですが、
63以降、別スレッドにしたほうが、やりとりがしやすいかなあと思います。

たとえば、『法華経』にみられる久遠仏と菩薩道みたいなテーマとか。


95 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/30(火) 16:10

それと、82でいちりんさんがおっしゃっていますように、いつのまにかこちらのスレッドの主旨から外れてしまいましたので、別のスレッドに移るとか、新たに立てるとかした方がよいのではないのでしょうか。
何だか私の発言から、徐々にこうなってしまったみたいですね(〜.〜;)。
大変勝手な事を申しまして、すいません。

203犀角独歩:2008/08/07(木) 13:00:04

―202からつづく―

次に、ざっと瞥見した限りでは、日蓮の「為」の用法は、ほぼ「〜とな(為)す」であることがわかる。
そうなると、該当文は、大石寺が読む在り方が正しいことになるのか。> を付した文は“な(た)りいえども”だが、これは用法の相違である。

結論から言えば、わたしは門下一般の読みは、たに美(うま)い読みはあろうと思うが、ともかく、大石寺の読みよりは至当であると思う。その理由は脇士を四菩薩としているからだ。左京阿日教のごとく、互為主判と釈義をもって、この文を読むのであればいざ知らず、素直に読めば、四菩薩が本門釈尊の脇士になるはずはない。なにより、そうした事例はまったくないのであって、日蓮の本尊観と異なっている。しかし、そうは言いながら、門下一般の読みはたしかに美を尽くしていないのだが、これは、そもそも文の成り立ちにその原因があるのではないか。「為」を“〜となす”とするのは、主に単の用法だが、該当文は複文である。分解してみよう。
(以下、PCで閲覧ください。図が乱れるときは、以下サイトを参照
 http://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html

「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」
この文章は、以下のような意味ではないか。

・文の構造は
 此時
 地涌千界出現
 本門釈尊
 地涌千界為脇士
 一閻浮提第一本尊可立此国

・複文として、それぞれの主述の関係は
 地涌千界┬出現
     └為脇士

つまり、「地涌千界が出現する」「地涌千界を脇士となす本尊」という意味合いで、では、地涌千界は誰の脇士かと明確化するために「本門釈尊」の四文字の挿入がある。故に門下一般の読みは間違いとは言えない。少し捻ってわかりやす諄く書けば「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の、(地涌千界を)脇士となす、一閻浮提第一の本尊、この国に立つべし」という意味合いである。

なお、上記、『本尊抄』抜き書き中、為の熟語としての用法は「最為」である。これは訓じて「もっとも、〜となす(り)」でもよい。
もう一つ問題なのは ・ を付した「其本尊為体」である。これは門下大石寺共に「その本尊の体たらく」として、つまり、「為体(ていたらく)」という熟語としてとらえている。わたしはこの点にこそ、異議がある。この「為」の用法こそ“〜となす”なのではないか。すなわち「その本尊を体となし」である。では、「体」とは何か。本体の謂いである。本体とは何か。すなわち、その前段にある「今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土 仏既過去不滅未来不生 所化以同体 此即己心三千具足三種世間也」でいう“体”である。所化は能化に対する語である。能化・本門釈尊と、所化・地涌千界菩薩を頭とする九界衆が同体となるところの本尊、これを図示すれば十界勧請大漫荼羅となる。故にここを「体たらく」などいうことは、まことに地に落ちた体たらくである。この「体」は能化所化もって同体の体と読まなければ、この書一巻の画竜点睛を欠くのではないか。

204犀角独歩:2008/08/09(土) 18:20:31

以下、重ねて mixi のわたしの日記から転載。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=896638606&owner_id=14027330

諸賢の批正を仰ぎます。


先の投稿において、『本尊抄』の「其本尊為体」の為体は“ていたらく”ではなく“体(たい)と為(な)す”と読むのではないかという私案を呈した。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1028023669/202
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1028023669/203

以下、遺文中における「為体」の用。文書冒頭に○を付すは真蹟を存す。
概ね「体となす」が占める。ただし、23例中、「四晧為体」「我朝為体」「此疏の為体」「日本国之為体」「此山の為体」の5分の1が“ていたらく”の用法となっている。“ていたらく”の用法はしかし、国の惨状を嘆ずるといった用法であって、本尊のごとき、崇敬対象に用いるものとは考えがたい。

「此経云凡聖戒尽心為体」戒体即身成仏義
「然は譬喩品十四誹謗以不信為体」念仏無間地獄鈔
「玄二云主質名為体」一念三千理事
「此国為体在所之有様可有御問候」富木入道殿御返事
「随当世為躰大日本国与大蒙古国合戦」○曽谷入道殿許御書草案
「其本尊為体」○如来滅後五五百歳始観心本尊抄
「伝教大師釈云問法華経何以為体耶 答諸法実相以為体文此釈分明也」当体義鈔
「四晧為体」○曽谷入道殿許御書
「当時我朝為体盛於二難」○強仁状御返事
「此疏の為体」○下山御消息
「我等が身は以諸苦為体」太田左衛門尉御返事
「当時日本国之為体」滝泉寺申状
「十法界為体十法界為心」三世諸仏総勘文教相廃立
「此山の為体」秋元御書
「是は七位の中の十回向の菩薩歓喜地を証得せる為体也」妙一女御返事
「玄義九云諸行以傍実相為体…依諸経方法常行等行以傍為体」一代五時継図
「法界悉常住不滅為体」御講聞書
「煩悩濁指五鈍使為体見濁指五利使為体命濁指連持色心為体矣」御義口伝巻上
「釈云今経以何為体以諸法実相為体矣」御義口伝巻下

205パンナコッタ:2008/08/09(土) 20:43:13
為体 (タラクは助動詞タリノ語法) ①すがた。なりゆき。ありさま。
 平家物語七 「覚明が為体、褐の直垂に黒革織の鎧きて」
  ②(後世には非難の意をこめて用いる)ざま。 広辞苑 より引用

為体 (名)ありさま。姿。体裁。なりゆき。
 太平記十 「唐の玄宗傾廃せし為体も、かくこそはありつらめ」
【参考】 現在のような悪い意味はない。   旺文社古語辞典 より引用

現在の"ていたらく"の読みと意では違和感ありありですが、
日蓮時代の用法としては、(体と為すの意ですが)問題ないようですね。

206犀角独歩:2008/08/09(土) 20:59:26

パンナコッタさん、有り難うございます。

天台の教学との関係からすれば、「体」は三如是の中心の、如是体の“体”、倶体倶用の“体”ということで、平家物語などの用法とは、ちょっと違うと思いますが、この点は如何でしょうか。

207パンナコッタ:2008/08/10(日) 12:26:15
如是体ですか。これは考慮していませんでした。
倶体倶用であれば法身・応身の意も含んできますので、≠ という感じですね。

平家物語は、覚一本や流布本などの語り本系と、長門本・延慶本の読み本系に大別されますが
三門十八類三十四種すべてをチェックして≠と記したわけではない主観なので、そこはご了承願います。

ただ主題から大きく外れてしまいますが徒然草に、
「この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。
 さて、山門の事を殊に由々しく書けり」
などという記述があり、直接にはあたれないが日蓮とほぼリンクする時代の
参考資料・手がかりとして平家物語は有意義なのではないか と思っています。

208犀角独歩:2008/08/10(日) 14:15:56

パンナコッタさん

「為体」の日蓮当時の用法のご説明有り難うございます。もっともなご意見であると拝読しました。

ちょっと、わたしが「体」に拘ったにはそれなりの愚案がありました。ちょうど、日記に書いたところでした。文章をこちら用に書き換えるのが面倒なので、そのまま、以下貼ります。再度、ご批正いただければ有り難く存じます。

*** 以下転載 ***

先の「為体」から続けて、考える。

日蓮の、というより、羅什が「如是体」と訳した思想背景に遡れる。

…… やや、脱線すれば、法華梵本では十如是に該当するところは、所謂「五何法」となっていて、十如是としての訳出は羅什の達意であるというのが言われてきたことだ。ところが、実は梵本には異本があって、羅什が使ったものは五何法となっていないといった反論もある。実際にそうしたものがあれば、資料として提出してもらえばよいことなる。 ……

羅什自体が、訳語としての‘体’を説明した文献は知らないが、訳経の現場にいて羅什から直接聴いた講義に基づくという道生の『妙法蓮華經疏』に「相は外に拠り、性は内を主(つかさ)どり、体は相と性との通称なり」(『法華経の成立と展開』第1章「法華経の教理」坂本幸雄(P277)とある。この説明は極めて簡潔である。外:内=相:性、相+性=体 ということだ。他の如是もまた、この体を述べるところなのだ。

つまり、十如是と称される訳出部分は‘体’を説明したことと言うことになる。となると、五何法という‘法’との脈絡はどうなるのか。こうした点で、解釈を積み重ねる中国仏教はよくできている。

どんと天台に飛んでしまおう。妙法華でいう「如是体」の‘体’。天台三大部においても主要な位置を占めている。そのもっとも端的な説明は玄義の五重玄の名体宗用教の‘体’だろう。玄義には「法即是体」とある。では、法とは十法界であり、止観に、つまり「三千法」といい、「三千在一念心」という。
体=法、法=三千、三千=法、つまり、体=法=心であるという構造がそこにある。

ここから、『本尊抄』の「其本尊為体」を読めば、日蓮の意図はわかる。
本尊が体であるというとき、それは三千法であり、心である。その三千の観ることを観心であり、それを本尊とすれば、観心本尊なのだ。こうした日蓮教学の骨格は、まさに體(体)に基づいているのだ。

大正時代以降、生命という言葉が流行し、戸田城聖さんは「仏とは生命のことなんだ!」と言ったとか。それがドキュメントかどうかはどうでもよいのだが、先頃亡くなった原島嵩元さんは祥伝社から『生命のドラマ法華経』という罪づくりな本を出版した。『ノストラダムスの大予言』を書いた五島勉さんも、「生命」という流行語で解釈する影響を受けていた。

こうしたことで、仏教の骨格「体」は蚊帳の外に追いやられてきた。しかし、(異本だというお考えは、ちょっと横に置いておき)羅什が五何‘法’を如是‘体’云々と訳出して以来1500年間、法華・漢訳仏教の骨格は、まさに‘体’にあったのだろう。ある意味、日蓮が「所化以って同体なり…其の本尊を体と為(な)す」と喝破したのは過去千年の法華漢訳仏教界集大成として、見事と言うほかない。やはり、日蓮は面白い。

209顕正居士:2008/08/11(月) 01:05:54
>>202 >>203

犀角独歩さん。

本化四菩薩を脇士とすることで本門の教主をあらわすのが日蓮の意匠なのは直弟以来誰も異論が
ないし、むろん曼荼羅はそうなっているから日寛師の奇説を検討する必要はないのですが。

文の主語は「地涌千界」でこれが本門の釈尊を脇士とするのならば「以本門釈尊為脇士」と書かねば
なりません。「以」は「ヲ」に当たります。ところで「為本門釈尊脇士」と書くと、「本門釈尊ヲ脇士ト為ス」
のか「本門釈尊ニ脇士ト為ル」のかわからない。それで先のように読まれないため「本門釈尊為脇士」
(本門釈尊ニ脇士ト為ル)と書いたのですね、多分。「以」がなければ「本門釈尊ニ(ノ)脇士ト為ル」と
読むのですが、念のためでしょう。そういうわけで日寛師の奇説は漢文法上も検討に値いしません。
漢文のデタラメな訓読(「自も我も得たる仏来れり」の類)にことよせ教相を超越した己証を述べるのは
本覚法門で普通のことですが、日寛師の場合はテキストに即した解釈を真面目にやっている中で
突然それが飛び出して来ることがあるのが特徴です。そういうのは切紙とかでやるのですが、細草の
談林は大石寺と八品派のマイナーな趣味の学問の場所だから、現場では区別が付いていたのかも。

210犀角独歩:2008/08/11(月) 15:43:16

顕正居士さん

有り難うございます。

> 細草の談林は大石寺と八品派のマイナーな趣味の学問の場所だから、現場では区別が付いていたのかも

「なるほどなあ」と感心しながら、拝読しました。

211犀角独歩:2008/08/11(月) 17:45:59

『創価学会のまちがいをただす』P78に、森山諭氏は、以下のような説を書いています。


「此時地湧干界出現本門釈尊為脇士」
とある。日蓮の文章には、処どころに誤字やあて字があるから、彼はこの時も「……本門釈尊成脇士」と書くべきところを、成と為とを書き違えたのではなかったか。すなわち、「本門の釈尊を脇士と為す」ではなく、実は、「本門の釈尊の脇士と成る」と読ませるつもりであったろう。その証拠には、
「日蓮は釈迦仏の御使ぞかし、乃至教主釈尊の御使なれば云々」(種々御振舞御書縮遺1404頁、学会版919頁)
「日蓮は愚かなれども釈迦仏の御使法華経の行者なり」(一谷入道御書縮遺1182頁、学会版1330頁)
等々、その他にも日蓮は釈迦の使であると自負しているのであるから、大石寺門下が日蓮を本仏として、釈迦を迹仏とするようなことは、まったく本末転倒の解釈であって、日蓮がもし現代に再誕したとすると、彼は烈火の如く憤って、正宗信者を叱責するであろう。


一つの説として転載しました。

212犀角独歩:2008/08/12(火) 18:07:27

現代は大正以来、「生命」が説明語として、強い影響力を有していますが、これはまったく近代のことで、日蓮において、その用例を見ると、「霊」が、そうした概念に当たると、わたしは考えてきました。ところが、今回、「為体」ということを通じて、少しばかり調べてみると、現代、「生命」語をもってするような概念説明は、寧ろ「体」であるのではないのかと思えました。

日蓮の真蹟遺文中では、体は128、霊は99
智邈の法華三大部では、体は874、霊は33

「体」は、たとえば「大体」といった熟語に活用されることもあり、上記数にも含まれています。だいたい15前後、その用例があります。また、「霊鷲山」での用例は9あります。それを差し引くと、日蓮では「体」と「霊」の使用頻度は、概ね同じ程度と思えます。

これに対して智邈の法華三大部では上述のとおり「体」は900近い用例があり、「霊」は霊鷲が11でこれを引くと20ほど。圧倒的に「体」の用例が勝ります。

わたしが「倶体倶用」を挙げると、パンナコッタさんは「≠ という感じ」と仰ったのはさすがだと思いました。つまり、智邈の用例にこの4字熟語はなく、湛然の釋籤の段階で「三身並常倶體倶用」で登場するからです。日蓮は湛然の強い影響を受けていますが、真蹟遺文にこの用例は見られません。

湛然の法華三大部では、1502、霊は54
最澄の伝大師全集では、1477、霊は449

霊については、全体の資料に言えることですが、霊鷲山、霊山、霊峰といった用例もあり、これをすべて除外して考えるべきところですが、いまは大まかに瞥見する程度なので、そのままの比較としています。また、智邈、湛然の資料は3編ずつ、それにたいして伝全では30倍の90の資料を対象にしています。文字数、資料数も考慮して、比較すべきですが、それもいまはやめます。故にあくまで概観ですが、湛然の「体」の用例は圧倒的に多く、また、「霊」の用例は少ないことはわかります。もっとも、湛然は智邈の言を再掲しているケースもあるわけですから、この点も除外しなければなりませんが、いまはしていません。

いずれにしても、智邈、湛然、最澄、日蓮、通じて、「体」の用例は特別な意味を有していることはわかります。

いったい、いつごろから「体」概念は生じてきたのか、興味が惹かれます。
いい加減なことを記すと、また罵倒の対象になりかねませんが、無我、有部、空、化、中、諦、識など、漢訳される仏教のこうした概念語。これに隠れて、案外、「体」が軽視されてきたのは、何故なのか。これまた、実に興味を惹くテーマですが、少なくとも、近代では、大正生命主義の爆発的な流行から、この主要概念はスポイルされてしまったのではないかと思えます。

さらに日蓮における「体」の用法と、その後の中古天台本覚的な「体」は、かなり意味に開きもあることは想像に難くありません。

わたしは不勉強ですから、こうした点を精査した研究論攷がありましたら、是非ともご紹介ください。

213犀角独歩:2008/08/14(木) 19:21:08

212に挙げた検索結果を加え、経年順に並べてみました。

妙法蓮華經  体は 3、霊は 0(身体、霊鷲山を除外)
智邈三大部  体は 874、霊は 33
湛然三大部  体は1502、霊は 54
伝大師全集  体は1477、霊は449
真蹟遺文中  体は 128、霊は 99
富士宗学要集 体は3163、霊は699

こうしてみると、体と霊の用例をみると、法華経では霊の用例はなく智邈・湛然では少なく、最澄で体が3倍程度、日蓮においては大きな開きはありませんが、4倍程度といった感じです。ただし、如是体の体といった用例以外をすべて除外したわけではなく、霊にしても霊鷲山等を除外し切れていません。かなり、大雑把なものです。それでも、「体」が実に重要な意味を有してきたように見えます。

■他経典に見られる「如是体」の用例

以下、電子仏典から拾った「如是体」の用例。
訳出年代順に並べたわけではありませんので、『妙法蓮華經』との前後関係は考証していません。しかし、如是体・如是相・如是性という三如是との類型が散見できます。羅什の訳出が先か、あるいは、参考にしたのか、さて、どうなのか興味が惹かれます。

『大方廣佛華嚴經卷第十六』
T10n0279_p0086a23(00)|過去世中曾所有,  如是體性如是相,
T10n0279_p0086a24(00)|欲悉了知其宿住,  菩薩以此初發心。

『大方廣佛華嚴經卷第四十三』
T10n0279_p0225c19(07)|何以故?菩薩三昧,如是體性,如是無邊,如是殊勝故。

『大般若波羅蜜多經卷第一百七十』の
T05n0220_p0915b19(15)|正等覺以無上佛智了達遍知諸功紱善根有如是類、有如是體、有如是相、
T05n0220_p0915b20(03)|有如是法而可隨喜,我今亦應如是隨喜。

『金剛般若波羅蜜經』
T08n0236bp0758b25(12)|汝意云何?如是體相為勝大不?」須菩提言:「甚大,世尊!
T08n0236bp0758b26(07)|何以故?如來?非有名為有身。此非是有,故?有身。」

『深密解脱經卷第一』の
T16n0675_p0666a24(03)|是?妄法。?妄法者。常無如是體種種分別。

『大莊嚴法門經卷下』
T17n0818_p0833b01(00)| 如是貪瞋癡  及一切煩惱
T17n0818_p0833b02(00)| 如是體性法  善哉甚微妙

『入楞伽經卷第五』
T16n0671_p0545b09(06)|而彼彼法無彼如是如是體相。惟自心分別。世尊。


以上のような考証を、何故、当スレッドに投稿しているのか、ご不審の筋もあろうかと存じますが、「日蓮の本尊」を考えるうえで『妙法蓮華經』の「如是体」の体が、『本尊抄』の「其本尊為体」と脈絡を存し、その関係を結ぶのが法、心であると、わたしは考えるからです。

諸賢のご批正をいただきたく存じます。

214犀角独歩:2008/08/15(金) 06:36:01

【213の訂正】

誤)日蓮においては大きな開きはありませんが、4倍程度といった感じです。
正)日蓮においては大きな開きはありませんが、富士宗学要集掲載資料では4倍程度といった感じです。

215Horologium:2008/09/18(木) 23:02:58
 「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」については、こんな説(http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-19.html)もあるみたいですけど、これもやっぱり検討に値しない奇説なのかしら。

216パンナコッタ:2008/09/19(金) 21:08:24
Horologiumさん、はじめまして。
ご紹介のブログの説は、特に変じゃないと思いますけど。

奇説と感じたのは、"興風ですら誤読しているというブログの主張"あたりでしょうか。
ならば興風のスタンスは各人の温度差はあるようですが、日蓮本仏論・戒壇板本尊からは
脱却していませんので(信者でなければ)仕方ない所でしょうか。
また門流勝劣意識(御書システム・1月コラム 産湯相承の大日蓮華山 参照)が根底にあるような
人もいますので、発表したことは学術的にすべて確証ありき、とは言い切れないでしょうね。
主観ですが該当部分の読みを興風は、本仏論ありきで意図的に"本門の釈尊を"とシステム上で提示して
そのままでいるみたいだなぁ。

ちなみに此処の読みを遡ると、
「かかる送仮名を確定したのは日寛の『本尊抄文段』であるが、しかしこのような読方は、保田の日要あたりによって
なされたのではなかろうかと思える。〜 ところでこの日要の資、日我の『観心本尊抄抜書』に 
 一、本門釈尊為 2脇士1    此文点異議有り 文点は一様に読んでも苦しからず。  とあることによって、
日我以前にかかる威儀があったことが知られる』と、執行師の指摘(創価学会批判 教理編)もあったところです。
室町末ぐらいにこの様な読みが一部でされて、漫茶羅本意の骨子に肉付けされていったのだと思われます。
日我は元亀の頃、蓮祖の花押に キリーク阿弥陀・ヘイ薬師・ハク釈迦、イー三面宝珠の意味付けをした筆法伝授や、産湯切紙を
相承した人ですから、注意しなければならないですね。

217顕正居士:2008/09/22(月) 00:58:27
地涌千界は主語です。地湧干界(主)-出現(動詞)・為(動詞)-脇士(補語)という構文。

1 民為邦本 民ハコレ邦ノ本ナリ
2 民以食為天 民ハ食ヲ以テ天ト為ス

1も2も民が主語。この場合の為はコレと訓む。

民ヲ以テ邦ノ本ト為ス は 以民為邦本 と書かなければならない。

218顕正居士:2008/09/22(月) 01:21:08
補足

もし地湧干界で一回切って次に本門釈尊を主語にする場合は

地涌千界出現 本門釈尊以之為脇士 と書かなければなりません。

為を他動詞として使う場合は「以-目的語」の構文が必要です。

転禍為福 禍ヲ転ジテ福ト為ス は すでに先に他動詞があるので以之を省略してもよい。
しかし禍転為福 は 禍転ジテ福ト為ル であって福ト為スと訓むことはない。
「以-」がない為は である、なる という意味です。

219あんたがたどこさ:2008/09/26(金) 01:14:33
顕正居士さん、此処の方々も大分主張が良い方向へ転換されましたね。昔は、随分と正宗系の漢文の読み方が正しいと拘っていたようですが・・。

「日蓮本仏という歪曲」も参考になります。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/shudatu%20detarame.htm

220れん:2008/09/26(金) 18:55:48
一応の参考までに、大崎学報第二十八号に掲載された、富谷日震師“本尊鈔興本對照記”によると、京都要法寺に所蔵すると伝わる日興の観心本尊抄写本には「為脇士ト1」とあり“為”字の左に“ナリテ”のルビがありますので、ここの部分は、京都要法寺蔵の日興写本(もっとも、日興の署名は無い様ですが、同記によると日興筆にて完尾に「弘安四年太歳辛已三月五日申時拝書写了、南無妙法蓮華経」の奥書があるとします。)でも「脇士となりて」と読んでいます。ですから、江戸以降現代に至る石山流の「脇士となし」の読みは、所詮、後世の後付けであって、自らが開山と仰ぐ日興がふったルビに基づかない点は、石山ならびに石山系の信徒会員が主張する相承とやらの底が既に割れていることを表するものですね。

221犀角独歩:2008/09/27(土) 11:10:02

顕正居士さんのご講義もさることながら、れんさんのご指摘も、参考になりました。

石山教学批判は、石山教学内の上古資料との矛盾を突くという在り方が、いちばん効果的ですね。執行海秀師の説得力も、ここにありました。

他宗派教学から、石山教学を批判は、我田引水、自讃毀他、他人のことを言う前に自宗の矛盾と間違いを反省しなさいと言うことになります。

222あんたがたどこさ:2008/09/27(土) 13:47:04
石山教学批判は、日蓮聖人の重要な真蹟遺文から批判するのが一番効果的だと思いますね。
他宗派教学も、日蓮聖人の重要な真蹟遺文の違うものであれば、批判の対象になるでしょうね。

223犀角独歩:2008/09/27(土) 19:28:45

ここでの掲示板も、挙証義務を課してやってきたので、真蹟重視は当然のことなんですね。

ただ、「効果」という点で言うと、石山は相伝仏法という建前で「師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」ということで、「御法主上人猊下」の言葉は、そのまま日蓮の言葉とするわけです。おまけに石山が偽書とするのは『垂迹法門』ほか何典かで、写本に関しては、自分たちの教学と合えば大いに活用という立場です。

まあ、わたしも『平成新修日蓮聖人遺文集』などを挙げて真蹟主義で貫いてきたわけですが、信者の蒙を啓くには、いま一つぱっとしません。「一番効果がある」という手応えを感じないわけです。

また、端的な例としては『百六箇抄』なんか後加された文書も、すべて日蓮の言ととらえるというのが石山流の訳です。そもそも『百六箇抄』は、後世の、それも尊門文章であるにもかかわらず、この扱いです。

しかし、実際に書き込む段階で、上古、それもに日興の文書とされるものを必ずしも考慮して後加していない。そのために多くの矛盾をはらんでくるというのが、つまり、れんさんがご提示くださった話です。そのために矛盾を突く一番効果があるのは、こうした資料だというのが、れんさんからわたしが受けて、書いたことです。

判読いただければと存じます。

224Horologium:2008/09/28(日) 07:14:44
 顕正居士さん、ご解説ありがとうございました。顕正居士さんのご解説によりますと、Libraさんって人の意見は漢文法的には間違いってことになるんですね。

 ついでにもう1つ教えてくださると助かります。本尊抄にある「正像二千年之間小乗釈尊迦葉阿難為脇士権大乗並涅槃法華経迹門等釈尊以文殊普賢等為脇士」という文章の「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」の部分には「以-」がないので、顕正居士さんのご解説にしたがって、ここの「為」も他動詞として読まないことにしますと、どう読むのが正しいということになるのでしょうか。

225顕正居士:2008/09/28(日) 09:11:37
Horologiumさん。

普通は「迦葉・阿難を脇士と為し」と訓んでいるみたいですが、
この文節には「以」が無く、次の文節にはあるのですから

「正像二千年の間は小乗の釈尊には迦葉阿難脇士と為れども、
権大乗並に涅槃法華経迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す」

と訓むのがよいのではないでしょうか。何となく「以」を落したのでなければ
「しかし」というニュアンスを入れるためかとおもいます。

226Horologium:2008/09/28(日) 17:18:44
 顕正居士さん、さっそくのご解説、ありがとうございました。

 顕正居士さんがおっしゃるように、あの部分は、普通、「迦葉・阿難を脇士と為し」と読まれています(これ以外の読みをわたしはこれまで見たことがありません)。言語現象として、そのように読むのが現に普通であるという事実があるとおもいます。Libraさんという方のご意見も、この事実にもとづいているわけで、たしかに、この普通の読みに従うなら、あのような議論も成立するのでしょう(漢文法の一般論としてではなく、日蓮さんが書いた漢文の解釈問題というローカルな範囲の議論としては成立するようにわたしにはみえます)。

 もちろん、顕正居士さんのように読むのが正しいのなら、従来の読みは訂正されなければならないわけですが、その場合、なぜ正しい読みのほうが普通とならずに、顕正居士さんの理論によれば漢文法的に異常であるはずの読みのほうが宗派的立場を超えて現に普通になってしまっているのかが不思議だという印象を個人的にはもちます。

 しかし、少なくとも、「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」の部分を「〜本門釈尊に脇士と為る〜」と読んでいる人は、「正像二千年之間小乗釈尊迦葉阿難為脇士権大乗並涅槃法華経迹門等釈尊以文殊普賢等為脇士」の部分も「〜小乗の釈尊には迦葉阿難脇士と為る〜」と読むように訂正されたほうがよろしいのではないかしら。じゃないと整合性がないとおもいます。

227どしろうと:2008/09/29(月) 06:12:29
突然失礼します。
はじめてお曼茶羅を目にしたとき、へぇ、南無妙法蓮華経の脇にお釈迦さんがいるんだ、
これが日蓮聖人の世界観なのだと思ったものでした。

なんか色々こねくり回しておられるようだけど、お曼茶羅がすべてを語っているんではないのかな?

突然失礼しました。

228あんたがたどこさ:2008/10/01(水) 01:36:16
さらに、観心本尊抄には「この(神力品の)十神力は、妙法蓮華経の五字を以て、上行、安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与したもう。」「嘱累品に云く、爾の時に、釈迦牟尼仏法座により起つて大神力を現じたもう。右の手を以て無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、乃至、今以て汝等に付嘱す等云云。地涌の菩薩を以て頭となし、迹化・他方、乃至、梵・釈・四天等にこの経を嘱累したもう。」と述べているように、日蓮聖人の描かれた曼陀羅本尊は、本門の教主釈尊、即ち久遠実成の釈迦牟尼仏が、霊鷲山の虚空会に於いて、妙法蓮華経の五字を以て、経典とその経典の意義を弘めることを地涌の菩薩を筆頭として付属(委任)する儀式が顕されたものです。したがって、曼陀羅本尊の中央に「南無妙法蓮華経」と、日蓮聖人は大書してあるのであって、けっして中央に書かれている「南無妙法蓮華経」の文字が本仏であると言うわけではありません。そのことは、観心本尊抄の最後に「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起して、五字の内にこの珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたもう。」と述べられている通りです。

上記は http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/shudatu%20detarame.htm に書かれちました。
真蹟に依れば、それが日蓮聖人の描かれた御曼陀羅の語るところだと思いますが・・・。
お釈迦さんが南無妙法蓮華経の脇士だとは、日蓮聖人の御遺文には何処にも書かれていないと思います。

229顕正居士:2008/10/01(水) 12:19:11
首題は宝塔をあらわしています。この首題=宝塔の中に釈迦多宝の二仏が
並坐しているのが妙法曼荼羅です。
二仏は宝塔の外にいるわけではありませんよ。

http://www.chohoji.or.jp/blog/uploaded_images/hokkemandara-701581.jpg

230どしろうと:2008/10/01(水) 22:04:14
ありがとうございます。
お曼茶羅を拝すれば
塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏まします。
中央に南無妙法蓮華経 日蓮と大書されています。
上行菩薩もまします。 そのまんま素直に拝しております。

231天蓋真鏡:2009/12/13(日) 04:34:52
犀角独歩さんのブログの「日蓮の発想」等拝見して気になった事。 法華経は菩薩道其物では無くて皆成仏道へ導くカタログ。 成仏得道のマニュアルは一人ひとりが随自意とか自灯明でつくりあげる人生説計。 題目に全て備わるとは 短絡では無くて結果論を見据えたキャッチフレーズ。いつ理想通りに出来るか判らないから。 なむみょうほうれんげきょうで呪術信仰から言霊信仰へ変えられるなら良いですけど、呪術も言霊も唱える行者の心の質で千変万化するでしょう。依法不依人は悟りの一つでは無いでしょうか。

232犀角独歩:2009/12/13(日) 04:45:46

わたしの名前が出ましたので、いちおう、記します。

法華経は「教菩薩法」「菩薩道」と、経典自体に書かれあり、しかし、皆成仏道の指標はありません。あるのは、記別です。

題目にすべてが具わるとする日蓮の発想は、本人が『本尊抄』に「私加会通如黷本文 雖爾文心者釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足」という、この会通が文章の脈絡からして短絡であるというのが、わたしの指摘です。

こちらの掲示板は挙証義務を課し、主張をするのであれば、かならず、文献証拠を提示して行うことによって、秀でた議論が重ねられてきました。

単なる個人の思いつき、感情の吐露といった発言が最近、富みに目立ちますが、投稿規約や、遵守する方々の姿勢を参考にされ、矜持のある投稿をされ、せっかくの佳例を傷つけないことを望みます。

233天蓋真鏡:2009/12/13(日) 14:33:59
レスありがとうございます。 ●菩薩である為に寄せ集め的法華経に書いてある類例?全てとなると難儀では無いでしょうか。 ●犀角独歩さんともあろう者が挙げ足取りだと考えます。鎌倉時代の僧・日蓮も経典に書いてある事は理想像のゴールで、心が大事・信が大事・修行が大事と書いてなかったでしょうか。 ●掲示板の主旨に沿わないレスは全て消去して、議論レスと挙証が無くても質疑応答出来るレスと連絡交換用レスにまとめたら良いのでは無いでしょうか?

234犀角独歩:2009/12/13(日) 14:41:55
> 菩薩である為に寄せ集め的法華経に書いてある類例?全てとなると難儀では無いでしょうか。

判読致しかねます。

> 挙げ足取りだと考えます

なにを揚げ足取りと言っているのかわかりません。

> 鎌倉時代の僧・日蓮も経典に書いてある事は理想像のゴールで、心が大事・信が大事・修行が大事と書いてなかったでしょうか

具体的に、どこに、どのような書いてあるのでしょうか。

> 掲示板の主旨に沿わないレスは全て消去して、議論レスと挙証が無くても質疑応答出来るレスと連絡交換用レスにまとめたら良いのでは無いでしょうか?

これは管理運営に関わることなので、管理人さんに属することです。

こちらは応酬自体、禁止ですので、これまでといたします。

235質問者:2011/11/30(水) 01:45:28
昭和55年6月21日日顕上人書写の御形木御本尊ですが
何故、竜樹菩薩と妙楽大師が抜けてるんでしょうか
(普通は天台大師と伝教大師の横にそれぞれ書かれているのに)

誰に聞いても教えてくれません
詳しい方レスお願いします

ちなみにこの御本尊は当時の学会員に下付されたものです

あと、この御形木本尊持ってる方いますか?


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