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フランス語フランス文化質問箱

1Sekko:2006/04/19(水) 18:13:31
話し方
 学校関係のだいたいすべての試験にはORALがあります。数学や物理でも、問題をもらって、黒板の前で解説するという形の。国語(フランス語)も、口頭試問の日に籤で問題を選んで、別室で30分準備してから試験官たちの前で発表し、その後質疑応答ですね。バカロレアなどではテキトは20冊くらいの古典系のリストが分かっていて、それをリセですでに準備してるわけです。だから古典や名作文学はリセアンに最も多く読まれます。その発表の仕方は、まず、結論を言い、次にそれを説明し、最後にもう一度結論に導くというのが基本です。センテンスは一般に、短ければ短いほどエレガントだとされます。私は大学時代フランス語の先生の授業で、サルトルの戯曲のについてフランス語のレポートを書かされましたが、日本語でなかなかいいことを考えてからフランス語に訳して出しましたら、あらゆるところに疑問符がついて返ってきました。それからは関係詞などを一掃して、短いセンテンスだけで書くようにしたら分かってもらえました。でも今から思うと、思考の流れそのものが違ってたのだなあと思います。今日本の学生の仏語レポートを見てあげたりすると、その学生の日本語の頭の中が手に取るように分かるんですが、フランス語としては通じないということもはっきり分かるんです。でも、それは「何となく」分かるんではなく、はっきり言語化できるので、テクニックを伝授できます。これってフランスバロック音楽みたいです。内的ロジックがしっかりしてるので、偶然はないんですよ。これを知らない、ロマン派に毒されたような先生に当たると、「そこは、もっとクレシェンド、なぜって?そう感じるからさ」「作曲者の気持ちになって・・・所詮日本人には無理かも」ということになったりします。本当はフランス語やフランス音楽は、内的ロジックを言語化できるという点で、とてもユニヴァーサルで(だからと言って万人に分かりやすくハードルが低いという意味ではないですが)、教えやすいですよ。日本語の方が当然難しいですね。言語化されてない共有の認識、それが実は風化してるとか、日本人同士でも通じなくなってると感じさせられることはこのごろとみに多いですから。
 後は学校で、幼稚園から、韻文系やラ・フォンテーヌの寓話とかの暗誦がとにかく多いです。音とイントネーションでまるごと覚えさせます。それをクラスで暗誦させられます。グランゼコールのカリキュラムにヴィデオを使った面接の自己アピールの練習もありますね。
 もちろん政治学院なんかはもっとすごいですけど。サルコジにヴィルパン、あれだけ正反対なのに、二人ともフランス語うますぎで、聞きほれたりします。

2古川利明:2006/04/19(水) 20:42:43
apprivoiserの訳
 最近、サンテクジュペリの「星の王子さま」の翻訳独占権(?)が切れたということで、雨後の筍のごとく、いろんな翻訳が出てます。んで、4月開講のNHKのラジオフランス語講座の応用編でも、これをテキストにしているのですが、そこで大いなるギモンがあります。というのは、王子さまがキツネと出会う場面で、キツネと親しくなりたい王子さまにキツネは「Je ne suis pas apprivoise」と答えます。で、この「apprivoiser」の訳が、例の岩波版の内藤訳以下、そのラジオ講座のテキストに至るまで、「仲良くなる」という、実に生ぬるい訳語をあてているのです。この「apprivoiser」の元々の意味は「飼い馴らす」ということですよね。野生の動物を「家畜化する」ということだと思うのですが、そこから、キツネは「野生の獣を飼いならそうとする人間と僕とは、そう簡単に友達になれないんだよ」ということを言っていると思うのですが、そんな「仲良くなる」といった、生ぬるいというより、敢えて「誤訳」といっていいと思うのですが、そういう訳語が次々と踏襲されているというのは、いったい「なぜ?」と、私などは思います。こうやって、「規制緩和」されたのですから、そこらのところはそれぞれの訳者が「正確に」訳すべきだと思うのですが。

3Fusako:2006/04/19(水) 22:40:39
言葉
approvoiser、って見たらすぐに浮かんできたのが L'amour est un oiseau rebelle que nul ne peut apprivoiser でした。これをマリア・カラスが歌っているニュアンス、そうですね、「飼い馴らせない」ですね。

「言葉の教育」、やはりね。今、日本では、英語については、話せなければならない、小学校から導入してでも、という流れですが、日本語で「話す」訓練、「読む」訓練はないですね。国語の受験勉強、って判じ物と暗記物、で、古典のタイトルを暗記すると、本文は読んでもいないのにあたかも自分がそれを知っているかのような錯覚を持ちますね。

全然別の話なのですが、わたしは、海外に長く住む友人が何人かいます。その人たちとやりとりしていてほっとするのは、落ち着いた日本語、今の若い人たちの使う流行語の入らない文章でやりとりできること、なんですね。竹下さんの文章にもそういう感じを受けています。

4Sekko:2006/04/20(木) 03:53:25
星の王子さま
まず、フランス語が分かる人に、サイト3つ紹介。2つは、星の王子さまへの質疑です。
3つ目は狐の部分の読解問題です。試してください。

http://www.dialogus2.org/PRI/apprivoiser.html

http://www.dialogus2.org/PRI/sagesseetnaivete.html

http://www.richmond.edu/~jpaulsen/petitprince/chapitre21.html


 さて、ここから、古川さんへの答えです。
apprivoiser というのは、もともと動物の家畜化に使われてきました。
星の王子さまでのキツネの定義「絆を創ること(creer des liens)」があまりにも有名になったので、この作品によって、この言葉の tonalite が変わったとフランスでは言われています。でも星の王子さまでも、「自分のものにしたら特別になる」ようなことが書いてありますね。
 これは家畜化、所有化というより、rapport de seduction だと私は思います。というより、キツネの言葉をきいていると、仲良しというより、精神的依存を互いに作ることで互いに所有しあいたいというので、恋愛と同じですよね、でもこの seduction という言葉にもいい訳が思い浮かびません。どちらにしても異なる二つの存在が関わりあう時、惹かれあい、というより、相手を依存させたいという誘惑があり、はっきり言って、権力の誘惑にも似てますね。恋愛も親子もそういう共依存のリスクがあります。
 それはいいとして、ここからが大事なとこです。 apprivoiser は プリヴェ、プライヴェートと関係していて、要するに、外部のものをある家に取り込むってことです。つまり、ある家=家庭=共同体の基準に従わせるということです。それに対して、キツネは、絆を創る(クリエートですからゼロから新しく創るわけです)と言っています。これは連合です。つまり、共同体中心主義で外部のものを馴らすのでなく、個人を対等と認めて、依存やヒエラルキーやスタンダードの押しつけのない関係をつくらねばならないと言っているのです。キツネは確か、それには rite が必要だとも言っています。伝統じゃなく条約ですね。まさにコミュノタリスムからユニヴァーサリズムへ、です。
 別に私の「読みすぎ」ではないと思います。この本が共和国ガイドに引用されていることを私の新書でも書いたように、この本の中で求められている関係性は、優れてユニヴァーサリズムなのです。ユニヴァーサリズムはただの理想だとか御伽噺だとか批判されもしますが、それがポエティックな童話になったら世界中で愛されてるのを見ると、私は、ユニヴァーサリズムのまさにユニヴァーサルな訴求力を信じられますね。
 あまり質問の答えになっていないかもしれませんが、他の方もご意見があればどうぞ。

5古川利明:2006/04/21(金) 00:36:01
なるほど
 竹下さんらしい、含蓄のある回答をどうもありがとうございます。なんとなく自分の中で思い描いていたことが、説明されたような気がします。すごくすうーっと入ってきます。やはり、フランスに住んで、フランス語を駆使していないと、なかなか微妙なニュアンスは理解できないですね。ただ、ふと、思ったのですが、日本の場合、「本当は怖いグリム童話」ではないですけど(笑)、何か、子供向けの童話は、マイルドにするというか、苦かったり、痛みを伴う「真実」に敢えて触れさせないようにしようとする傾向があるような気がします。それと、私自身が超へそ曲がりなので(苦笑)、やはり、自分が訳すとなると、「前例踏襲」は嫌なので、「僕は飼いならされていないんだよ」と訳してしまうような気がします。私も権力を振りかざしてくる人間には、この上ない「大悪人」になりますけど、キツネのようにユニヴァーサリズムを求めてくる人間には、非常にピュアな愛情を注ぎますね。といっても、本気にしてもらえないでしょうけど(苦笑)

6古川利明:2006/04/21(金) 21:22:17
lienの訳語
 書いたついでですので、もう一つ、その星の王子さまに出てくる「creer des liens」ですが、これはこれまでの岩波版の内藤訳でも、「絆を創る」だったと記憶していますが、この「lien(s)」は、辞書を引くと、「鎖」という意味もありますよね。実はこれまで私はそのキツネと王子さまとの会話の中で出てくるこの「creer des liens」を「鎖で結びつける」というふうに、かなりネガティブな意味に解釈していたのです(もちろん、アイロニカルな意味もこめてですけど)。というのは、たまたま大学時代の原典購読の授業で、星の王子さまのうち、このキツネとの出会いの部分だけ、原文で読まされる機会があったからです。それもあって、「apprivoiser」という、日常生活ではたぶんあんまり使わない動詞を覚え、また、この「creer des liens」というステキな表現も、ずっと、頭にこびりついていたのです。そうこう考えていくと、翻訳という作業もなかなか難しいですが、そこに「解釈」という知的作業の醍醐味もあるような気がします。

7Sekko:2006/04/21(金) 21:49:07
絆を創る
ええと、内藤訳では、確か、「ぼくは飼いならされてないから」とか言うキツネに、その意味が分からないPetit prince が、「飼いならすってなあに」ときいたら、「仲良くなるってことさ」とキツネが答えたんですよ。それで「apprivoiser」の新しい意味が「creer des liens 」、つまり、異なる2者の関係を、優勢な方が劣勢な方を抱合して自分に従わせるという形から、新しい関係を creerする関係に

8Sekko:2006/04/21(金) 22:14:41
続き
さっきの続きです。途中で勝手に手を離れました。
それで、キツネは、従属関係を否定して、異なった2者が、ユニヴァーサルな価値観に基づいてあたらしい関係を創るべきだ、と主張したわけです。だから内藤訳の問題は、「絆を創る」を「仲良くなる」と訳したところなんですね。新訳では、「絆を創る」が優勢ではないでしょうか。まあ対等でないと仲良くなるのは無理なんで、内藤訳も意味は通るんですが、ここで大事なのは、creer の方なんですね。異なる歴史や文化を持つ二つの国や二人の人間が出会う時、どちらかのスタンダードを押し付けないで、平和を維持できるメタ空間を新たに創るというのが重要で、それがフランスでいうと非宗教的ライシテの空間だったりするわけです。そして、それまで、個々の人間の条件というのは Dieu の creation だったわけですね。だから、異なる2者の一方の押し付けは自分たちの創造者の押し付けでもあるわけです。そこを超越したメタ空間を、人間が「創る」というのは、神への挑戦、というか、自分の歴史や文化を相対化できる知恵をつけたということです。異なる神を奉じる人々が共存できる世界を、「神の創った自分たちの世界」とは別のレベルに公空間として人間がクリエイトするわけですね。それならただの無理やり条約に縛られた雑居世界かもしれませんが、キツネはそこから1歩踏み出して、そこに「惹き合う力」を持ち込んだわけです。それを「共依存」と見るか、共感世界と見るか、愛と呼ぶか、それはいろいろでしょうが、単にユニヴァーサリズムといっても、最小公倍数を共有することでの妥協でなく、求心的でダイナミックな統合する力を信じて想定しないとただの烏合だという意味なのかもしれません。

9古川利明:2006/04/22(土) 13:02:01
新しい意味の創造
 いやあ、竹下さんの回答を読んでいて、実にこの物語の深さに思いが至ります。「apprivoiser」という従属の関係を脱する行為を通じて、「lien」の意味が、「鎖」から「絆」へと昇華するのですね。サンテクジュペリがサハラの砂漠に不時着して、そうした孤独の中で「人間の絆」を求めていった彼の人生に思いが至ります。彼は最後、コルシカから飛び立って、そのまま消息を絶ってしまっているのですよね。彼はたぶん、そこで星の王子さまになってしまったのでしょうね。この物語を読むたび、帽子とそっくりなボア(=大蛇)の挿絵を描いて、いくつになっても「少年の心」を失わなかった「珠玉の精神」に改めて感動します。

10古川利明:2006/04/22(土) 14:53:20
補足
 その岩波版の内藤訳の「apprivoiser」は、私の勘違いでスミマセン、「飼いならす」でしたが、今、店頭に並んでいるNHKの語学講座のテキスト5月号は、「馴染みになる」という訳語を充てています。あと、立ち読みだったので忘れましたが、その最近出た訳本の一つは(確か文庫でした)、「仲良くなる」だったと記憶しています。もちろん、訳者の「自由解釈」があってしかるべきですし、それは言論表現の自由からも、最大限保障されなければならないのはいうまでもありませんが、でも、私は少し違和感を感じています(苦笑)

11Fusako:2006/04/23(日) 09:40:22
liens
というのは日常的に普通に使われる言葉ですよね。「リンク」もこれでしたね。creer des liensも、ごく日常的な表現ですか?
日本語と外国語でしばしば動詞の向きが違うことがありますね。特に、日本語として自然な表現を使うとそうなる、という。「仲良くなる」とか「縁ができる」というのは、働きかけでそうなった、というニュアンスで、creerの意味が出ませんね。

12Fusako:2006/04/23(日) 09:48:59
liens(続)
でも、言葉はこれまた面白いもので、「ご縁ができまして」「ご縁があったのですね」という表現は美しくて、わたしは好きです。ただ、こういうやわらかくて古風な表現は、もう今の日本ではあまり使われなくなっていると思いますけれど。
書きながらの自動連想。「縁」は広くやわらかく使うけれど、「縁を切る」は、日本語でも明白に主体的ですが、これは、日本の人間関係では親子・夫婦などに限定された厳しい表現になるように思います。友人だとせいぜい「仲違い」かな、と脱線しそうなので、これまでに。

13nao:2006/04/23(日) 10:56:01
apprivoiser
三野博司訳では「手なずける」とやくされています。その理由が(「星の王子さま」の
謎)論創社にでています。131-133Pです。書店でひろいよみしてください。竹下先生のお考えとぴつたりする、とおもいました。

14古川利明:2006/04/25(火) 00:47:30
難しいですね
 本棚を引っくり返していたら、ガリマール版の原本が出てきたので、読み直してみると、「apprivoiserってどういう意味なの?」と星の王子さまがキツネに尋ねた結果、キツネが「それはcreer des liensだ」と答えているんですね。これは私の解釈ですが、人間同士の関係が、権力的な共依存から対等な個人の自立した者同士のそれへと「昇華」していくことで、「apprivoiser」は、「飼いならす」から「仲良くなる」へ、「liens」も「鎖」から「絆」や「ご縁」へと変容していくのではないかという気がしています。んで、その「apprivoiser」という単語はこの第21章では何度も出てきて、確かに最初の方は「飼いならす」と訳した方がピタリと来るのですが、je crois q’elle (=une

15古川利明:2006/04/25(火) 00:54:46
続き
 途中で、間違って、送信を押してしまいましたので、前の続きですが、その、「je crois q’elle(=une fleur) m’a apprivose」のあたりから後の方は「飼いならす」ではなく、「仲良くなる」とか「馴染みになる」というような訳を与えた方がピタリと来るような気がします。しかし、このニュアンスを日本語の翻訳で伝えるというのは、なんかすごく難しいですね。確かに星の王子さまは文章自体はとても平易ですけど、そこに盛り込まれている内容は、奥深いですし、それを日本語で表現するとなると、なかなか難しいですね。

16Sekko:2006/04/25(火) 05:35:40
Apprivoiser最終解読!?
Naoさん、書店で拾い読みなんて言わないでください。この問題に興味ある人は、みなさんちゃんと、かって読みましょう。それで、私は、日本にいないので、拾い読みも出来ないんですが、その三野先生が、ネット上で星の王子さまの翻訳の好評をなさっているサイトがあって、今その21章をちらっと読んでみました。http://www.tbs.co.jp/lepetitprince/tr21_comment.html
です。古川さん、読んでみてください。
 私は、ちょっと違和感がありました。訳語とか文学性の問題は別として、apprivoiserの根本のイメージは、一番最初に古川さんが言っていた、「家畜化する」という屈辱的な意味が一番正しいです。
 つまり、文学研究とかじゃなくて、普通のフランス人の大人の目でここを読むと、まず、キツネは、古川さんの言ったように、「家畜化なんかされていないから」と、人間の仲間である王子様に敵対して忌避したのです。その非難を感じたからこそ王子様は、まず、誤ったのです。でも、何を非難されたのか分からず、家畜化とはさぞやおそろしいことだと思って、恐る恐るたずねてみた。何度もたずねられた後、キツネは、はじめて、王子さまには本当にその意味もわからず、またそれに相当する概念も持っていないのだ、と気づいたのです。そこで、キツネは、王子様に、本当のこと、つまり人間は動物と対等な関係を持つことはありえない、家畜化か狩の獲物かなのだということを、知らせたくなくなったのです。
 そこで、「忘れられてることだが・・・」とごまかしながら(これはひょっとして、いつか王子様が家畜化の本当の意味を誰かに知らされたときに、キツネにだまされたと思わないように、キツネの教えてくれたのは、忘れられた別の意味なのでと思ってもらえるための伏線であるわけです)、家畜化とは、特別な〈しかし対等な〉関係性を築くことなんだと言ったわけです。それを通して、本当はキツネも、獲物を追ったり人間に追われたりするだけの生活ではなく、誰かと対等に必要とし合う関係を求めていたので、「僕を家畜化してくれる?」って、可愛いことを言ったのですね(なかよくしてくれる?とかいうのが照れくさかったのですね。それに、最初に僕は家畜化されてないから遊べないと忌避した手前、そういうしかなかったのです)。
 それで、その説明を真に受けた王子様がまた、「花がぼくを家畜化して・・・」と可愛いことを言うわけです〈この言葉をはじめて使ってみたので、これでいいかなあ、とおそるおそる)。きゃー、ふたりとも可愛い。
 それを受けて、フランスでは、この本によって、apprivoiser は新しい意味を獲得した、というわけですが、それもフランス式のエスプリなわけです。
 つまり、apprivoiser  と creer des liens はニュアンスが違えば違うほど、この場のかわいらしさが生きてくるわけですよ。 だから、creer des liens を 鎖で結びつけるみたいな家畜化のヴァリエーションで訳するのは間違いで、もう一方、apprivoiser を 「なつかせる」みたいに、ちょっと甘い情緒的な言葉で訳すのもNGです。
 と、細かい読解になりましたけれど、なお、私が最初にお答えした内容は変わりません。同種でないものを家畜化するか、殺すか、という人間同士の搾取や戦争、ランク付けや排外主義を批判し、対等な絆を創らなくてはならない、しかもそれが形式的なものでなく、互恵互助的で人間的に惹き合うものでなくてはならないといっているわけです。

17古川利明:2006/04/25(火) 21:31:49
すごく面白いですね
 そのリンクされた星の王子さまの翻訳特集、ものすごく面白いですね。それぞれが自分のコトバで格闘しているというか、楽しんでいるのがわかって面白いです。やっぱり、ポイントはその「一輪の花」がどうして、「私」を「apprivoiserしたか」のあたりなのかなあ、という気がします。直訳すると、「花が僕を飼いならした」ということですけど、ここでキレイな一輪の花が登場することで、屈辱的なニュアンスから、ポジティブな意味へと変容していっているような気がするのですよ。「花」にはそういう力があります。しかし、このニュアンスを日本語に翻訳するというのは至難の技ですよね。こういうのを見ていくと、テキストを原文で読み込むことの大事さを感じます。

18Sekko:2006/04/25(火) 23:55:10
訂正
今読み返しましたら、下の文で、「その非難を感じたからこそ王子様は、まず、誤ったのです」というところ、「誤った」は誤変換で「謝った」が正しいです。すみません。このせいで、この文を読み「誤った」方がいらっしゃったら「謝り」ますね。
 王子様がキツネの言葉を真に受けて、「お花が僕を家畜化したと思うんだ。」とかわいらしく応用したのを聞いて、キツネも「きみが僕を家畜化してくれたら・・」とか言わざるを得なくなり、終わりの方で、飛行士もキツネのことを思い出して、「家畜化されたら、泣きたくなる」みたいに「キツネ語」を使っちゃいます。「家畜化」の概念自体がなくなった世界を王子様もキツネも飛行士も共有したわけですね。私の言っている意味がうまく伝わったか知りたいので、皆さんの感想お知らせください。

19古川利明:2006/04/26(水) 00:27:06
エスプリの力
 それともう一つは,竹下さんが指摘していた「エスプリ」ですよ。これは英語のユーモアとも違いますね。非常にフランス的だと思います。文章を読み進めていくうちに(王子さまとキツネの会話が進んでいくうちに)、だんだんと「apprivoiser」も、「lien」も意味の内容が移り変わっていくんですよね。ただ、そこにエスプリが込められると、「家畜化する」でも「鎖」でも、字面とは別に、そこに逆にアイロニカルな意味を付け加えるというのか、敢えて逆手に取るというのか、コトバのいいなりとは逆の意味をそこに込めて使うことができるんですよね。その意味では「コトバの遊び」というところで捕らえることもできて、なかなか面白いというか、奥が深いですね。

20Sekko:2006/04/27(木) 04:01:09
また
?? 「いまではすつかり忘れられていることだけどね」と前置きをして説明するように、キツネは新しいモラルの伝道者ではない。今日ではわすれられてしまつた古いモラルの守護者なのだ。しかし、彼がこの知恵をどこから、どのようにして継承してきたのかはわからない。また、彼がこれまでだれかと「手なずける」関係をむすんだことがあるのかどうかもわからない。ただ、彼は「手なずける」の意味をよくしつていて、具体的な行動の指導によつて、それを王子さまに教える。ともかく、彼は秘儀伝授者として、姿をあらわすのである。

21Sekko:2006/04/27(木) 04:39:27
しつこくapprivoiser
三野先生の『星の王子さまの謎』の一部を教えていただきました。

?? 「いまではすつかり忘れられていることだけどね」と前置きをして説明するように、キツネは新しいモラルの伝道者ではない。今日ではわすれられてしまつた古いモラルの守護者なのだ。しかし、彼がこの知恵をどこから、どのようにして継承してきたのかはわからない。また、彼がこれまでだれかと「手なずける」関係をむすんだことがあるのかどうかもわからない。ただ、彼は「手なずける」の意味をよくしつていて、具体的な行動の指導によつて、それを王子さまに教える。ともかく、彼は秘儀伝授者として、姿をあらわすのである。

 そうか、こういうイニシアティックな読み方もされているのですね。何かパウロ・コエーリョのニューエイジ小説みたいです。そういえば、フリーメイスンの知人がフランスのグラントリアンのロッジでは、サンテグジュべリはメイスンのイニシエではなかったけれど、著作からメイスンだと認められて名誉メイスンに認定されているのだと昔言ってたことを思い出しました。
 それで、昔子供だったフランス人たちにこのapprivoiserの話をふってみましたが、普通の人はそう穿った感じでは読んでないようです。キツネが最初に言ったのはapprivoiserのネガティヴな意味が入っていて、それから creer des liens へとシフトして行った、それで、それ以降に言及されるapprivoiserの含意が変わったというのはみんな合意なんですけど、フランス語の字面は変わらないわけで、翻訳で最初のネガティヴな感じで、訳しちゃうと、後に無理がくるわけですね。私はキツネをそんなに秘儀伝授の師のように見られなくて、可愛くて孤独でちょっとかわいそうなイメージから離れられないので(それは私だけじゃないようです)、Aapprivoiser と creer des liens を対照的に訳した方がほろりとくると思うんですが・・・Creer が重要だという意見は変わりません。フランス人たちはむしろ respect の含意が重要というんですが、私は affection の方が胸につまるんです。そして、この本では、花が王子様を、王子様が飛行士をと、相対的に弱い方が強い方をapprivoiserするところが可愛いですよね。ついでにうちの夫に私たちの関係を聞いたら、完全に私が彼をdresserしているということでした。
 しかし、ある言葉を翻訳するということは、含意の幅を温存せずに、意味を限ってしまうのですから、改めて難しいですね。soeur と出てきたら、フランス語的には何の問題もないのに、日本語だとどうしても姉か妹かを決めなくてはならない、それがフランス語だと、初めは漠然とで、やがて文脈で関係がわかってくるという仕掛けになっていたら、その言葉が最初に出たときにもう答えを出したらおかしいですよね。 ニュアンスが変わっていくapprivoiserは、同じ字面だからこそ面白いので、そのへんほんとにむつかしいです。そういえば私がイエスは洗礼者ヨハネの「いとこ〈従弟)」だと書くたびに「はとこ(再従弟)」と校閲さんに訂正されます。中には、マリアとエリザベツが従姉妹だからと系図をつけてくれる人も。フランス語では cousin germain がいとこで、後はみんなcousinでまとめちゃうので、その癖が抜けないのです。

22Sekko:2006/04/27(木) 18:07:40
sauvageについて
apprivoiser といえば、思いつくのは sauvage という言葉です。フランスに住み始めた頃、分からない言葉はたくさんあったんですが、よく知ってる言葉で、全然違う意味で使われるものもたくさんあり、その代表が impossible と sauvage でした。 sauvage は私の中では「野性的」とインプットされてたので、「あの子はsauvageだから」とか「私ってsauvageでしょう」と言われてもピンときませんでした。そのうちsociableの反対語だと気づきました。
 日常語のひとつです。私がこの言葉を一番よく使うシーンは、うちに誰か来たとき、サリーちゃんが隠れてしまうので、「Elle est tres sauvage」 と言い訳するときです。これは警戒心が強いとか、怖がりとか、知らない人が苦手という意味ですね。私たちには慣れてるんで、野生とは関係ないわけです。
 次によく使うのは、お客を招いたり、招かれたりする時、うちが義務を果たしてないのを言い訳するときです。私たちのようなシチュエーション(年齢とか暇さの具合)の仲間では、たとえば、月1回、Aさん夫婦とBさん夫婦を同時にお招きして、Cさん宅と Dさん宅に1度ずつおよばれ(そこでそれぞれ別のカップルとも知り合う)、次の月はCさん夫妻とDさん夫妻を同時にお招きし、Aさん宅とBさん宅に別々に1度ずつおよばれする、みたいな招待したりされたりのルーティーンがあるんですよ。それで、フランス人というのは昔から、そういうシーンで、他のカップルを品定めして浮気に走るというケースが多いんです。私はそんなことに興味はない上、誰が来た時何を出したか、誰が何を持ってきたか、お花かデザートかとか、次に呼ばれる時に何を持っていくか、とか考えるのが面倒なのです。そいでうちの連れ合いもsauvageなんで(彼を知っている人はまさかと思うでしょうが、ほんとのsauvageな人は、努力するから見た目が社交的なんですよ)、私たちはあまり人を呼ばず、「今度はあなたたちの番よ」と催促される始末。それで、「On vit??sauvagement」と弁解するわけです。うちには、たとえば現時点では毎週16人の生徒がレッスンに来て、そのうち半分は親が送迎に来るので、親と話すこともあり、人の出入りが一見多いのですが、基本的には引きこもりなんです。画家や音楽家の友人も毎週私と話しに来ますが、皆うちのことを「独身クラブ」と呼んでるんです。家庭や連れ合いから離れてうちに来ると羽を伸ばせて自由な気分になれてうれしい、という感じです。私も個人でつながった仲のほうが、無理やり連れ合いを紹介されるより長く続きます。うちの連れ合いは sauvage だけど、obeissant で、見た目完璧で信頼感をそそる人なんで、必要な時だけ駆り出します。うちは2件長屋なんで、独身クラブもお稽古場も生活圏と別なので。生活圏の方は猫まみれでぼろぼろで、みんなsauvageに暮らしてます。
 しかし、こういう風に弁解や言い訳に使えるということは、sauvage がすごくネガティヴじゃなく「そういうたち(ひとみしりする、社交が苦手、一人が好き)だからしょうがない」という認知があるということですよね。 もちろんsauvageには野生や未開という意味もありますけど、日本語で野生というと、野蛮も連想されますが、そっちは barbare に行くんで、日常言葉のsauvageにはそれがまったくありません。そしてその意味の反対語がapprivoiserでもあります。
 そして、そういっちゃったら、キツネが、毎日、少しずつ、あまりくっつかないで、云々というのは、確かに初めての人が苦手でsauvageなサリーちゃんに少しずつ慣れていただく、みたいなイメージはあります。だけど、最初にキツネが「おいらはApprivoiserされてないからね」といったのは、「僕はsauvageだからね」 だと言うのではない矜持や拒否があって、王子さまについごめんなさいと言わせたのですね。やはり動物に対する人間優先の言葉の不当さを感じ取ったのでしょう。
 それで、もし誰かが私に「あなたって、本当に付き合い悪いわね」と言ったとして、私は「ごめんなさい、sauvage なもんで」と答えて納得してもらえても、「Je ne suis pas encore apprivoisee」なんて言ったとしたら、何、この人、失礼ね、と思われるわけです。

23古川利明:2006/04/27(木) 20:20:26
フランス語の多義性
 竹下さんの「appivoiser」と「sauvage」に関する論考を読んで思うのは、「フランス語の多義性」ということです。英語と比べると、フランス語というのは、語彙がかなり少ないですよね(詳しい数字は忘れましたけど、慶応仏文の鷲見さんが出している「翻訳仏文法」に、そのフランス語の多義性ということについて、触れています)。確か、近代フランス語が確立していく過程で、かなり語彙を絞り込んでいったというふうなことが書いてありました。すると、語彙が少なくなっていったぶん、いきおい一つの語に多くの意味を持たせてしまうことになるんですよね。例えば、「sens」とかでも、辞書を引くと、「方向」だとか、「味覚」だとか、ものすごくいろんな日本語の訳語が出てて、まあ、文脈でわかるにしても、「何でこんなにたくさん訳語があるんだろう」と思ってしまうんですよね。日本語も確かに、一つの語をアイロニカルに使うことはありますけど、でも、「飼いならす」とか「野蛮」という単語は、なかなかそこから超えた意味へとトランスファーしていかないですよね。ところがフランス語は不思議で、そういった一つの語が持ってしまいがちな「意味の牢獄」からスルリと抜けてしまう自由さがあって、面白いですよね。星の王子さまのキツネは、そういう「言葉の魔術師」みたいなところがありますよね。それを日本語に翻訳するというのは、至難というより、たぶん無理じゃないかと思うのですよ。

24Fusako:2006/04/27(木) 21:42:42
言葉
「言霊」という表現がありますが、言葉には霊がこもっている、ということでしょうか。言葉こそ、その国や民族の魂である、という感じがします。
どの国も民族も、それなりの歴史を持っている、と思いますので、わたしは、アングロサクソンの方々にも、非常に興味もありますし、面白いし、共感するところもあるんですよ。英語が多義的でないとは全然思いませんけれども。単純化というか(動詞に顕著ですね)、どんどんsimplifyされた結果、英語がむしろ一番多義的な言語なのでは、とさえわたしは思いますが。

このところの「星の王子様」の話には、わたしはやや入れずにいました。と言いますのは、わたしは、食わず嫌いで、読んだことがないんです。原題はLe petit princeでしたっけ、それが「星の王子様」ですけれど、若い頃はこのタイトルだけで拒否反応でした。子ども向けの本では、ヴェルヌやアーサー・ランサム、サトクリフなどの冒険小説風のものが大好きで、王子様、には全く興味がありませんでしたので。今でも、その本よりは、テクジュペリの伝記なら読むかなあ、という程度です。

少し前に書きました、日本の法律用語、法律用語だからわかりにくい、というのではなく、もともと、日本語の中に、ぴったりあてはまり、誰にもすっと入る言葉がない、言葉がない、のは、そういう言葉にあらわされる霊、観念が日本に根付いていない、のだと思います。

でも、だからと言って、わたしは日本が精神的な後進国(?差別用語でしょうかね)とも思わないのですが。勝手な憧れかもしれませんけれど、たとえば、エスプリ、と比肩する言葉として、「粋」「気質」などが本来の日本の文化にはあったのでは、というように。
ここで、竹下さんのコメントを見ながら、わたしが考えるのは、フランスのあり方を参考にしながら、日本の中にある何を使えるか、ということですね。

25Fusako:2006/04/28(金) 13:33:24
sauvageについて
次の記述を思い出しました。大橋保夫さんの翻訳ですが、「私にとって『野生の思考』とは野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは古風人類の思考でもない。効率を昂めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。」
レヴィ・ストロースは、apprivoiserではなく、domestiquerを使っていますね。

26:2006/04/29(土) 08:23:38
apprivoiser について(訳者の解釈)
 三野博司です.
 初めて投稿します.このページを毎日のぞいているわけではないので,話題がどんどん発展して行っているようですが,もう一度『星の王子さま』に戻させてください.
 キツネが思わず「家畜化」と言ってしまったという竹下先生の解釈はとても新鮮です.キツネと王子さまとのやりとりが生き生きとしたものとして感じ取れます.
 私の解釈はこの第21章をイニシエーションの場ととらえるものです.それは,『星の王子さま』全体をどう解釈するのか,という問題とも密接にかかわっています.もっとも私の独創ではなく,似たようなことを言っている人はいます.Maryse Brumond ? Le Petit Prince ? (Bertrand-Lacoste) ですが,今年の夏には拙訳が世界思想社から刊行される予定です.
 拙著『星の王子さまの謎』(論創社)では,18頁を割いてこの第21章を解説しています.その内容をここで要約することは避けますが,章の終わりの部分だけを引用します.
「なぜ王子さまは、いったん友情を結んだキツネと別れるのだろうか。彼はキツネに対しても責任を負っているはずではないだろうか。また、王子さまとバラの花、王子さまとキツネ、この二つの<手なずけられた>関係のうち、どちらが優先されるべきなのだろう。それは、恋愛と友情のどちらが優先されるか、という問題でもあるように見える。しかし、キツネとの関係は、友情関係であるだけではなく、秘儀伝授の師弟関係でもある。師から秘儀を伝授された弟子は、もはや師を必要とせず、また師に依存してはならず、師のもとを去って行かねばならない。そして、今度は彼がこの秘儀を誰かに伝える任務を負うだろう。こうして、王子さまの旅は先へと続けられなければならないのである」
 ところで, 問題となっているapprivoiser の訳語についてですが,第21章だけでこの語は15回も使われています.邦訳するときに,これをニュアンスに応じて別の語をあててしまうと,原文では同一の語であることが分からなくなるために,多少の無理はあっても,日本語でも同一の訳語をあてる,というのがまず私の基本方針でした.
 たしかに,apprivoiser を訳すときに困惑を覚えるのは,この「家畜化」というニュアンスをどうするのか,ということです.そのまま「飼いならす」と訳してしまえば良いのですが,私はそこにちょっとこだわって「手なずける」としました.さらに,この「家畜化」のニュアンスを完全に消し去ってしまうと「なじみになる」というような訳語が考えられます.
 拙訳以外の10種近くある新訳はほとんど見ていないので,断定できませんが,approvoiser の訳語としては2つのグループに大別できるのではないかと思います.第1は,フランス語の字義通りに,「飼いならす」「手なずける」と訳すもの.第2は,原語のもつニュアンスからは離れて日本語として通りの良い「なじみになる」「仲良くなる」「ねんごろになる」「親密になる」などと訳すものです.
 私は,第2グループは採用しません.apprivoiser は他動詞であって,一方から他方への働きかけがあり,「なじみになる」と訳したのではこの働きかけが消えてしまうからです.apprivoiser には主体の側の意志的行為が前提とされているのに対して,「なじみになる」では,たとえば近所の商店へ毎日買い物に行っているあいだに知らず知らずのうちに「なじみになる」ように,そこには意志が介入しないからです.
 人と人が出会って親密になる過程では,出会ったときから双方が同時に歩み寄ることもないわけではないのですが,しかし多くの場合は,一方から他方への働きかけがきっかけとなります.この「働きかけること」が大事だと思うのです.キツネが教えるのはまさにこのことに他なりません.
 しかし,キツネはなぜ,王子さまに apprivoiser しておくれ,などと頼むのでしょうか.「なじみになる」「仲良くなる」ことが目的ならば,キツネのほうから王子さまを先に apprivoiser してしまえば,ずっと話が簡単です.あるいは,キツネが人間を apprivoiser するというのが不自然なら,「仲良くしようよ」と言ってしまえばいいわけです.しかし,キツネはそうした手っ取り早い方法を使わずに,王子さまのほうから apprivoiser するように誘いかけます.こうしたまわりくどいやり方には,initiateur としてのキツネの役割があるように思えます.
 キツネは apprivoiser には,「忍耐」が必要だと言います.またそれは「儀式」に則って行われなければならないと言います.これは友だちを作るための指南なのです.いきなり近づいてはいけません.それは不作法というものです.まずはじめは「少し離れて」座ることが求められます.それから時間をかけて,「日が経つごとに,少しずつ」近づくこと,これが作法に則ったやりかたです.ことばをかけることも禁物です.「ことばは誤解のもと」なのです.ことばは相手とのあいだに絆をつくる手っ取り早い手段のように思えますが,それは同時に危険を伴うやり方でもあります.キツネが勧めるのは,もっと時間はかかるけれども確実なやり方なのです.王子さまは「あまり時間がないんだ」と言いますが,ここでは時間を惜しむことは,実は一番避けるべきことなのです.
 毎日同じ時刻にやって来て,少しずつ近づくこと,これはすなわち学習です.キツネは王子さまに学習プログラムを提示するのです.このプログラムにしたがって,おれを相手に apprivoiser の実地練習をやってごらん,と言うのです.実際にやってみなければわからないし,身につかない.師匠がみずからを実験台にして,これを弟子に教え込もうとします.拙著『星の王子さまの謎』ではこう書いています.
 「こうして王子さまはキツネを手なずけることになる.手なずける行為の主体は王子さまでありキツネはその対象であるが,しかしこの行為を指導するのはキツネのほうなのである.実はこの手なずけることがそのまま王子さまにとっての実践的学習となることキツネは知っている」
 以上が,apprivoiser を訳すときに,私が先ほどの第2グループを採用しない理由です.
 訳語をどう選ぶか,というのは解釈と切り離せません.もちろん解釈はいくつもありますから,訳語もいくつもありえるでしょう.それぞれの訳者が自分の解釈にもとづいて訳しているはずです.そして,私は,解釈はたくさんの種類があるほどおもしろいと思っています.
 教室でいつも言っているのは,文学テクストの解釈はつねに複数あるということです.答えは一つではなくいくつもある.正しい解釈とか間違った解釈というものはない.優れた解釈と劣った解釈だけがある.優れた解釈がたくさん生まれれば,それだけテクストの読みが深まっていく.
 私の解釈も,もちろんたくさんある解釈の一つにすぎません.

27Fusako:2006/05/12(金) 22:36:43
NHKラジオのフランス語講座
4月から、毎週末は、「星の王子さま」です。今月は、いよいよキツネの出番でして、「なじみになる」が使われているようですね。
今日の放送では、2004年にテクジュペリの搭乗機の残骸が見つかった話が紹介されていましたが、フランスでのテクジュペリ、ってどういう受け止められ方なんでしょう。

28Sekko:2006/05/13(土) 22:56:36
サンテグジュペリ
 サンテグジュペリのイメージは、今の子はともかく、私の年代くらいのフランス人にとっては、何よりも飛行機の「英雄時代」の英雄として語り継がれていました。今の宇宙飛行士よりももっと危険とロマンに満ちた物語のヒーローという感じです。行方不明の冒険家、かな。植村克己とか・・・そこに戦争も入ってくるので、もっとヒーロー性が高いし。
 日本人が共有する飛行の歴史の初期の神話というのはあるのでしょうか。私は子供の時に「翼よあれがパリの灯だ」のリンドバーグの話を読み、日本の飛行機というと、その後は少年漫画の「零戦ハヤト」みたいなもので、航空機というと事故やハイジャックのことが頭にあるし、飛行機乗るのも嫌いなんですが、人々が最初の飛行士たちに向けた憧れの視線については理解できます。サンテグジュペリのような人にとって、空を飛ぶことの究極のセラピー効果も想像できます。彼が国民的冒険家であって、しかも、『星の王子さま』のような名作を残したのは、飛行の夢ということが何に繋がっていたのかを示唆している気もします。
 彼はTheiste だったと私は思います。無神論の系譜の中でも取りあげるつもりです。無神論とは、本当に、神を語ることで、近代以降のいろいろな思想家や文学者の心を鏡のように映してくれるツールです。

29Fusako:2006/05/16(火) 23:12:16
飛行、英雄、など
そういう人が書いた「童話」、それも、子どもには冷たい国(たしか鹿島茂氏がそのような形容をしていました)での、なんですね。

30Sekko:2006/05/17(水) 22:43:33
子供には冷たい国
フランスは子供に冷たいという評判はどこから来るんでしょうね。私も昔から耳にしてました。いわく、日本のように子供は7歳までは神様という国ではなく、創生神話がアダムとイヴという神の似姿の大人だったので子供は不完全な存在だ、とか、生殖や出産は原罪に対する罰だから、赤ん坊や子供の地位が低いとか、「大人の国」なので子供は2級人間とみなされるのだとか・・・だから68年の五月革命は若者が若者の権利のために戦ったのだとか・・・でも、少なくとも今のフランスで自分の周りの普通の人を見てると、みんな子供や孫に振り回されています。子供は王様、親は殉教者という言葉があるくらいで。むしろフランスでは時々日本のスパルタ式学習塾のドキュメント放送が流れて、日本の子はすごく勉強してかわいそうと思われてるような気がします。

31Fusako:2006/05/17(水) 22:58:23
訂正
ちょっといい加減な書き方をしたので、鹿島茂さんの表現をたしかめてきました。2005年に宝島社から出た「星の王子さまの本」という本で、フランスは「子供に非寛容な国」「子供っぽさが否定される社会」という表現をしておられます。「理性のそなわっていない子供はまだ人間ではない」という考え方が、フランスにはあるから、とのことのよう。で、そのようなフランスで、公刊された本の意義、フランスと日本どの受容は正反対、というような記述がありました。
フランスでの「子どもの発見」て、ルソーとか、アナール学派とか、との関連で聞いたような、とうろ覚えです。
日本とフランスとで、サンテグジュペリ、そして、「プチ・プランス」の受容、ってけっこう違うんじゃないかな、というのがわたしの印象です。
なお、「星の王子さまの本」の鹿島さんの対談にも、「apprivoiser」の訳語の話はやはり出ていて、これはラテン語のprivatus(私物の)から来た言葉、ということで、「飼いならす」としておられましたね。

いきなり全く変わって、日本では、冒険家、ってそれほど憧れの対象にならないのでは。植村直己とはなつかしい名前です。わたしも大好きでしたけれど、今の日本の若い人で彼を知っている人はどれほどいるでしょうか。植村直己とサンテグジュペリとを知っていて好きな人、っているかな、なんて考えました。

32Sekko:2006/05/20(土) 23:04:26
apprivoiser
フランス語講座での話を教えてくださる方がいました。それによると、「apprivoiserはもともとは動物について使うことば。主従関係よりお互いの親しみを想定している。そういうわけで夫婦、カツプルでこの言葉をつかう。たとえば男性が女性を完全にapprivoiserしてしまうということもできる。ということは時間の要素が随分はいつていて、時間をかけてしたしくなつてゆくことも含む」ということでした。
 私にはapprivoiser を そんなに「親しみっぽく」骨抜きにするのは、ちょっとまだ違和感があります。夫が妻をapprivoiser と言ったら、やはりシェイクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』 = La Megere apprivoisee を思い出します。つまり相手は「じゃじゃ馬という動物」なわけです。対等な見知らぬ個人同士が時間をかけて「絆を創り」親しんでいくんじゃなくて、apprivoiserする方はapprivoiserしてやろうとする相手に対して、「優越感と恐怖を同時に感じている」のです。言い換えると「軽侮の念を持っているがその存在は怖い」という感じです。だからこそ、人間同士でなく人間と動物、男同士でなく、男と女になり、鶏を盗むキツネや、じゃじゃ馬や、野生の猛獣など、管理しないと脅威になるという相手をapprivoiserと言うのが基本だと思うのです。
 だから星の王子さまが「僕の花が僕をapprivoiserしちゃって」と言うのはキツネの定義を真に受けたかわいい間違いなんですよ。
 それで、このapprivoiserがフランスの雑誌などでよく使われるのは、なんと言っても「 apprivoiser la mort 」 という場合なんですが、これこそぴったりです。 人は死を無視して差別し遠ざけようと思ってるんですが、ほんとは怖くて、 その野生の荒々しさを何とか手なづけなくてはと思っているんですね。
 それでいくと、家畜化 domestiquer というのは、怖くない動物、牛とか馬とか鶏とかを働かせたり、つないだり囲ったりしますが、力では征服できないようなのは時間をかけてapprivoiser というのが基本かもしれません。そしたら、やはりキツネは、はじめは、「遊ぼうなんていってきても、所詮は人間の子、僕を対等に見てるわけないや、僕はだまされないもんね」と警戒してて、王子様が「お花にapprivoiserされちゃって」というのを聞いた時、王子様には人間と動物と植物の間の優劣や差別がないのだと知って、本当に友達になりたくなったんだと思います。
 で、私は 「 apprivoiser la mort 」 を含めて、apprivoiser がすきになれません。今調べている奴隷制の歴史で見るとでいくと、黒人を 奴隷化=domestiquer 出来なくなったところから、植民地化=apprivoiser が始まったと思うからです。じゃあ、異質の他者にどうすればいいかというと、やはり、真の意味で creer des liens です。
 「死」も、ごまかして恐怖を緩和したりするのでなく、生と死の間の絆を絶えず創っていき、生者と死者には共通の場があると想定したいです。多くの宗教はこういう点をカバーしているのですね。 Liens を創るのに rites が必要だというのもそこですね。
 真のユニヴァーサリズムは人を生と死のコミュニティに分けてどちらかがどちらかを管理するというものではなく、
存在のレベルの差を超えたコミュニオンを目指すものだと思います。

33Sekko:2006/05/25(木) 23:12:58
Marie−Antoinette
昨日から公開中のソフィ・コッポラの『マリーアントワネット』の映画は18世紀のレディDというか、15歳でフランス王に嫁いできた少女の物語なんですが、その解説にオーストリア人の彼女にhostileだった宮廷人を彼女が徐々にapprivoiserしていく、とありました。 敵意のあるものを魅力によって陥落させるというニュアンスですね。これは「apprivoiser la mort」とはまた方向性が違うと思いました。「死」は恐ろしくて逃避したいのとなじんでいくという感じですが、マリーアントワネットは、敵意ある環境から孤立させられないために、自分を適応させながら敵意を消失させるわけです。その成功が、怒れる民衆に対しても応用できると思ったところがちょっと悲劇的です。死とマリーアントワネットの二つの事例を考えた後で、キツネの話をもう一度読むと味わいが変わります。

34Sekko:2006/06/08(木) 21:42:16
ジェリコーとコメディ
 今リヨンでジェリコー展をやってます。ジェリコーといえば、ルーヴルにあって、日本の小中学校の美術の教科書にも載っていたと記憶する『メデューズ号の筏』で、ドラマティックだけどアカデミックなイメージです。でもこの人、フランス革命のさなかに生れ、1824年に33歳で死んだんですけど、ナポレオンの成功と没落、ルイ18世の王政復古と死、という、フランスの誇る共和国理念が、現実の嵐の中でぼろぼろがたがたになってどうしていいか分かんない、という政治的激動と危機の時代を生きて、すごく政治的な画家だったわけです。晩年に描いた『死馬』の画などは、メデューズ号と違ってミニマムにシンプルな一頭の馬だけなんですが、ひとつの時代が、完成せず、失望とともに終わったという悲劇が、諦念と鎮魂を凝縮して表現されてます。そして、メデューズ号の筏はその別の表現で、ミシュレーが、これはフランスだ、と言ったそうです。共和国の旗を掲げながら共食いし、屍累々、嘆いている者、救いを待っている者、波は荒く、空は暗雲立ち込め・・・
 それで、今回のジェリコー展の評といえば、そういう時代と今のフランスを必ず重ねるわけですね。一見自虐的とか絶望が深いとかも言えますが、こういう表現の中に文化的カタルシスがあるわけで、スペインにとってのゴヤのように、一番つらいところを引き受けて力の源泉にしてくれるような、こういう国民芸術財産があるのはいいなあと思います。

35Sekko:2006/06/08(木) 22:13:39
コメディ
 コメディのこと書くのを忘れました。ジェリコーとコメディは関係ないです。ジェリコーはむしろトラジェディー。
 最近、フランス映画のコメディを3本立て続けに見ました。私は普段あまりコメディ好きじゃないのですが、この頃、ちょっと、毎日馬鹿笑いしようと決めて、ジョークを収集したり、コメディを見ることにしたんです。それで、英語だと細かい笑いのつぼが分からないので、字幕を読むのも面倒だし、フランス映画にしました。『Essaye-moi』と『Quatre Etoiles』と『Maison du bonheur』です。結局一番面白かったのは『Essaye-moi』でポエティックとヴォードヴィルがよい具合にまざっていて、背景はむしろアメリカの郊外の町みたいでフランスっぽさがないのに、微妙にフランスっぽく、上質でした。これで充分笑えたので、力を得て、次の映画に行ったら、がっかり。ルービッシュとホークスとヒチコックを合わせたようなユーモアと様式と感動をということで期待したのですが、完璧に外れてました。まず、ヒーローの詐欺師がジョゼ・ガルシアなんですがいくらうまくておかしくても、全然共感できないのです。ハリウッドの猿真似でしかない。何が決定的に違うかといえば、ケーリー・グラントじゃないということに尽きます。ルービッシュとホークスとヒチコックを成功させるには、ケーリー・グラントのような「お約束」のキャラクターが必要だということがよく分かりました。ケーリー・グラントがでてきたら、どんな不真面目そうな詐欺師でも、ほんとは純粋で傷つきやすい心を持ってるんだろうとか、ヒロインはきっと恋するに違いないとか納得できるんですが、ジョゼ・ガルシアなら、ヒーローになりきれないのですね。これなら『Essaye-moi』で最初から変人の純粋君として出て来るフランソワ・マルタン・ラヴァルの方がまし。教訓=フランス人はケーリー・グラントのキャラはあわない。
 最後は芝居を映画化したダニー・ブーンのコメディで、購入した別荘の工事がめちゃくちゃになるという話ですが、これはまたフランス的過ぎて、笑えない。フランスに住む人なら誰でも身に覚えのあるような工事の不手際とか、不動産購入のリスクとか、身近な人の小さな裏切りとか、身につまされるところがあって、観客も、個人史の違いによって、それぞれ違うシーンでげらげら笑っていました。見終わった後も、あれよりはうちの方がましだよなあとけちな満足感が残るなんて、拍子抜け。ゲラゲラ笑えて、幸せ感が残り、ちょっとほろりなんてコメディは、天才が自作自演しないとだめかも。その意味でフランソワ・マルタン・ラヴァルは注目。ちょっと古いんですが日本で観れたらお勧めです。

36Fusako:2006/06/08(木) 22:38:26
映画
最近は日本に来るフランス映画って少ないので、おっしゃたのは来るのかなあ。
ルービッシュ、って日本での通常の表記だとエルンスト・ルビッチですよね。粋な映画を作る人でしたね。「ニノチカ」「天国は待ってくれる」「極楽特急」「生きるべきか死ぬべきか」、わあ、なつかしい!

37Sekko:2006/06/09(金) 04:13:15
ルビッチ
 ルビッチなんですね。私は彼の作品をほとんどカルチエラタンの名画座で見たので、日本語の表記も題名も知らなかったんです。今、ルビッチで検索したら、私の好きな「The Shop Around the Corner」は桃色の店(街角)とありました。James Stawart がなつかしい。ドイツ人でもこんなロマンチック・コメディーが創れて、原作がハンガリーの戯曲かなんかでしたよね。この中で、初老の店の主人が、浮気する奥さんに、君は僕と一緒に年をとってくれるのが嫌だったんだね、みたいなことを言うのがすごく身につまされました。まだ若かったんですが。そうか、一緒に年をとれるかというのがカップルなんだなあと思って。それに比べるとヒーローとヒロインの恋の顛末は印象が薄いでした。メグ・ライアンとトム・ハンクスでリメイクしたとか。あのEーメールの恋の映画がそれだったとは知りませんでした。

38hiromin:2006/06/11(日) 08:20:09
移民問題
先日の新聞で、移民の子どもの里親になるという運動が広がっているという記事を読みました。
サルコジ氏主導の移民の人たちを国外退去させるという政策に反対した親たちが、
「自分の子どもの友達を助けよう」ということで、移民の子どもの里親になり(里親になっても必ずしも国外退去させられないとはいうものの)、フランスに残れるようなんとかしようとしている人たちがいる、とのことでした。
日本的にいうと『親の会』って感じでしょうか。
こういった運動が広がるということに驚きましたし、感動しました。
これが日本だったらどうだったか?そう考えたときやっぱり悲観的になりました。
フランスではこういった動きは予想されるようなことなのですか?

39Sekko:2006/06/12(月) 01:18:22
移民の話とサルコジの言い分
ええと、充分想定内ですね。
サルコジが今度の移民法改正について言ってるのは要するにこういうことです。「みなさん、知ってますか? 移民に好かれる先進国のうちで、選択の基準のないのは世界中でフランスだけなんですよ。アメリカもイギリスもカナダもオーストラリアもみんな基準や条件がある。フランスだけが何でもありで、生活保護まで与え、家族を呼び寄せ、そういう移民家族が犯罪の温床になったり国のレベルを下げている。しかも、フランスは、不法移民でも10年住んでいたと証明出来れば労働許可つきの滞在許可を進呈している。これでは不法潜入を罰するどころか報償しているようなもの、こういうのはやめましょう。家族呼び寄せも、政府からの住宅手当や生活手当てなしで自立できている移民労働者だけに限りましょう。国民の税金で養ってもらっている労働者が国からどっと家族を呼ぶなんて変じゃありませんか。フランスに文句があるなら帰ってもらいましょう。あっ、でも労働許可のない不法移民でも、これからはケースバイケースで審査して、きちんと顧客と収入がある技術工とか、学校で優秀な成績を治めている子供とかには正式の書類を出せるように特例を作っていくつもりです。ね、厳しいけれど、人間的、これがサルコジ流ですからね」
近頃、サルコジが極右ル・ペンの外国人狩りのフィールドに侵入し、社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルが「家族とか安全」などの保守党フィールドに侵出していると言われてますが、こういう論法はサルコジの典型です。
実際は、10年いればだれでも市民権(労働権)がもらえるというためには、すんでいたことを証明しなくてはなりません。そのためには自分の名で電気代や家賃や住民税を払っていることが必要で、まったくの不法移民の人は、それ自体が難しいのは当然です。学生ヴィザやアーチスト・ヴィザ、ヴィジター・ヴィザなどを更新しつつ、誰かに養われたり自国からの送金などで生活していて10年経過した、という人なら確かに居住者ヴィザをもらえていました。それだけモチヴェーションが高く生活力がある人だといえるので、決して不法に潜入していた根性に報償してもらってるわけではないのですが。サルコジの話だけ聞いてる一般フランス人は、そうか、そいつはひどい、隠れテロリストにどうぞいてくださいというようなものじゃないか、と思うわけです。それに、アメリカだって、不法移民は1100万人と言われていて、そういう人たちが道路にたむろして日雇い仕事場に連れて行くトラックを待っているのは公然の事実で、明らかに不法でも、数が多すぎて、警察も見て見ぬふりです。最近メキシコ国境に軍隊を配して話題になりましたよね。
フランスの問題は、たとえば難民のような人が、難民の認定をしてもらえるまでどうするかというときです。最近話題になったのは、旧ソ連のイスラム圏からの母子で、不倫の子といっしょで、強制送還されたら、シャリア法で母子とも殺されると言うのです。それで、その娘の通っている幼稚園の父兄がその娘を交代でかくまって、官憲からかばいました。あなたたちのやっているのは移民法違反の犯罪ですよ、と言われても、連れて行かれたら殺されると分かっている子供をかばわないのは「危険にある人を助けない罪」を犯していることに充当すると言って、皆一歩も引き下がりませんでした。
カトリック教会などは多くの不法移民の駆け込み寺になっていて、キリスト教の伝統としては、書類がどうとか国籍などは関係なく今ここで困っている人、宿のない人、病気の人、飢えている人、を養うのがイエスに仕えるのと同じだというので、官憲もなかなか手を出しません。そして、義務教育の学校はとにかく、誰でも無条件で無料なので、不法移民の子でも何でもOKなのですね。そして学年の間は就学児の追放はできないので、今、6月の学年末が近づくので、どっと、親とともに強制送還の手続きがなされるわけです。それで、そんな子達の学校の父兄が連帯して、学校に残れるように、なんとか養子手続きなどをしようとかするわけですね。そういう子は要するに学校に通ってみんなに溶け込んでいる子なので、正式移民の子でも不登校で群れをなして麻薬のディーラーになっている子よりも、将来の「共和国市民」として期待され受け入れられているわけです。前にも書きましたが、中国には、12歳くらいの優秀な子を単身フランスに送り込むエージェントがあり、毎日のように子供がパリにつくのが問題になっています。親の分からない未成年であれば、とにかく保護、フランス語を教えて学校に行かせるというのが今のフランスのシステムだからです。「未成年は社会が育てる」という基本があるからです。
 考えてみたら、たとえばインドネシアの地震のニュースで、多くの人が義捐金を寄付しているわけですが、あれも、別に国籍と関係ないですよね。書類があろうとなかろうと、今どこかで困っている人の存在を知ったら手を差し伸べるのが当然というコンセンサスがあるわけです。インドネシアの地震の犠牲者を助けるのが当然なら、いわゆる犯罪者でない限り、不法滞在だとか書類がないとかの理由だけで、困っている人を差別するのはおかしい、特に未成年は。というスタンスがあるのだと思います。
カルトなどの問題でも、未成年者の保護というのが絶対の課題であり、問題カルト関係者の子供たちはできるだけ早くカルトから引き離して「共和国市民」に取り込もうというのがフランス風教育社会主義ですね。日本の学校がカルトの子を受入れたがらないのとは逆の発想です。
とにかく自分以外の人が、衣食住や安全などの生存条件を満たされていないということを知った日からは、だれでも人生に影がさすというか、知らない前のようには生きられないように思うんですが。もしも地球が100人の村だったら、とかいう有名な絵本みたいなのがありますよね。あれを読んで、よかった、私は恵まれている、もう贅沢言わずに感謝して生きていこう、と思う人は多いと思いますが、私はなんかもう人生に陰がさしちゃいます。まあ、どちらの場合も「謙虚」ということを覚えるのは貴重ですけど。だって、自分が日本のような国に生れたりフランのような国で暮らしたりしている幸運は、全然自分のメリットと関係ない偶然でしかないですから。
この偶然の前には、「自助努力」「成果主義」なんて何ぼのもの、と思いますね。

40hiromin:2006/06/15(木) 00:20:41
移民の話
サルコジの言っていることに一瞬正当性を感じましたけど(小泉首相のはぐらかしにあっさり引き下がってしまうマスコミみたい)、なんだかたまたま恵まれた環境にいる人の言い分って感じですね。そこに痛みをもった他者に対する情のようなものもないし、フランスがその理念のもとにこれまでやってきた政策を問題が発生してきたからと言って簡単にないがしろにしようとしてる感じがします。
やっぱりフランスには基本理念は貫いていってほしいと思います。とても難しい問題ではありますけど。
こういう時のヨーロッパ人の発想にはやっぱりキリスト教が大きく影響してるんですね。先日フランス人の女性と話しをしていて「最近のフランス人はあまり教会には行かないのよ」と言ってましたが、それでもやはり影響は大きいんですね。
それにしても、だからといって「養子縁組」をするという発想はすごいと思いました。日本では誰もやらないでしょうね。自分も含めてよほど知っている人でない限り、反対運動はやったとしても「養子縁組」までできるかどうか。。。(これって戸籍の影響もあるんでしょうか)
日本にもかつては『子どもは地域の宝』という発想があったように思います。今は子どもが被害者になってしまう事件が多いので犯罪から守ろうという動きはありますが、もっとグローバルな考え方にたつべきではないかと思うときがあります。カルトの子を受け入れないことも、虐待されてる子どもをほっとくことも、国の宝である未成年を保護するという観点からしたらひどく間違った対応ですよね。

41古川利明:2006/06/16(金) 21:34:12
移民のサルコジ法案
 その移民問題を扱った、例のサルコジ法案ですが(下院は通過して、現在は上院審議ですか、それとも既に「法」として成立してしまったんですか?)、むしろ、私がいちばんアングロサクソン的なコミュニタリスティックなものを感じたのは、例えば、研究者とか、オリンピック、サッカー選手といった「有能な人間」は「どんどん、フランス入国OK」だけれども、「それ以外の人間のクズは、ガンガンと締め出すぜ」という、路線を打ち出していることです(という内容の記事が、外電面には出てました)。「それって、もろアメリカでしょ」の世界です。フランスの素晴らしいところは、もちろん、現実はなかなかそうではなく、非常にタテマエに過ぎるのかもしれませんが、祖国を迫害され、石追わるるごとく逃れてきた、亡命者、難民に対して、それこそ、ユニヴァーサリティックに受け入れ、とりあえず、自立の方策が見えてくるまでは、最低限度の生活保障くらいは面倒みましょう、という部分ではなかったですか。そういうユニヴァーサリズムの根幹を否定しようとしているサルコジに対して、私は、この上ない憤りを感じているのと、結構、そういうサルコジの言動に対して、「沈黙」という名の「支持」を与えているのではないか。そんな気がしてならないのです。60年以上前のレジスタンスも、当初はナチス全体主義に対して「ノン」と体を張って抵抗したのは、ほんのごくわずかの少数(とりわけドゴールくらい)で、フランス人の大半は沈黙していたんですよね。最近のセゴレーヌの「極右化発言」といい、「サルコジ的なるもの」に対して、妙におべっかな空気さえ感じるのは、私の思い込みが過ぎるのでしょうか。「不条理な存在」に対するフランス人のレジスタンスが何か、希薄な感じがしますが。

42Sekko:2006/06/17(土) 17:06:40
移民法
 ええと、上院は通過して、でも、法案の一部を修正(観光で入った外国人がフランス人と結婚して、その後6カ月以上不法滞在していたとき、ヴィザ申請に自国へ戻らなければならない、とするのを免除etc)で、例の資格や能力を明記する許可証については通過しました。優先連帯地域(ほとんどアフリカ)の国との共同開発においては、ということです。それで、こうしたら、ただでさえ自国の医者や技術者が少ないアフリカの国からますます優秀な人が流出するというので、野党は反対していました。今は、上下院共同の委員会にまわされています。(下院の方に差し戻しされれば決定権があります。)
 不法移民の就学児童の強制送還については、サルコジもついに世論に屈して、送還なしと言っています。
 優秀な人を優遇するというのは、フランス人のイメージとしては、優秀な人に来てもらって、「フランス人になってもらいたい」というのがユニヴァーサリズムに絡めた本音だと思います。サッカーチームを見ても分かるように、強ければ、黒人でもアラブ人でも、「みんなフランス人」で合意なのです。その意味で、ネーションより「エタ・レピュブリック」でしょうね。ドイツチームの半分がトルコ人だったりしたら、ドイツ人の応援アイデンティティは成り立たないでしょう、イングランドの半分がインド人とかも。
 フランスの歴史の中で、宗教改革と革命で優秀な国民にどっと出て行かれた、しかし、第一次大戦で優秀な移民が来てフランス人になった(あるいは第ニ世代は教育を受けて優秀になった)、その後は、アフリカの貧しい出稼ぎ移民で彼らは第二世代が適合しないのでまたレベルが下がった、アフリカからの移民を止められないなら、ここら辺で、アフリカ人は、最初から優秀な人に来てもらわなくては、という雰囲気ですね。


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