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Re [10922] イワシは、何語
> 引用 start
鳩摩羅童子さん、イワシ(鰯・鰛・鰮)中国語イワシ(鯷・鮷)ですが、インド弁saaradain
鮷:カタクチイワシ 鰯:沙丁魚、Sardine 鯷:ウルメイワシ?
イワシは何語ですか
> 引用 end
インド弁saaradain 、と 書いてありますが、ケルン大のインド弁辞書には「saaradain」は、載っていません。
どこからの参照でしょうか?。
---
しかし、「いわし」は、多分、インド弁です。
【タミル語】cUTaippoTi(= ★sardine) かたいわし (c-k)
【タミル語】cUTai(= 02 1. ★sardine, bluish-green, clupea fimbriata ; 2. sardine, golden spot with purple, attaining 4 in. in length, clupea lile ; 3. sea-fish, silvery, attaining 20 in. in length, pellona lechenaultii) かた (c-k)
【タミル語】naRcALai(= a superior kind of ★oil-sardine or ca1l2ai) めざらい → 目刺し、イワシ (n 無音)
c. 「鰯の頭も信心から (「鰯」は「いわし」が正しい)」 in 上方いろはかるた
→ 「かぶり」の同音異義語の言葉遊び。
【タミル語】kavalai(= 02 1. a rooted creeper; 2. malabar ★sardine of beautiful green colour, attaining 7 in. in length dussumieria acuta) かぶり
【サンスクリット語】kavarIbhara (= m. a fine ★head of hair Gi1t.) かぶりばら
【タミル語】kOpAlam (= a ★religious vow to beg on Saturdays in the month) かぶり
c. 沖縄弁では、「ミジュン」と言うが、これも、インド弁にある。
■ミジュン(みじゅん)/ ミジュン/ / 意味/ 鰯
【タミル語】naRcALai (= a superior kind of oil-★sardine オイルサーディン or ca1l2ai) ミジュン (L-n)
c. oil sardine とは、魚の名前である。日本では、油漬(オイルサーディン)と、料理の名前であるが、 wikipedia で 「oil sardine」を引くと、「Indian oil sardine - Wikipedia」が一番に表示され、魚の名前である。「サージン」鰯(イワシ)のことである。インド弁辞書には sardine では、下記 7 個の名前が登録されている。「いわし」の発音似は、無い。
ayigkavalai/ cALai/ cITai/ cUTai/ cUTaippoTi/ kavalai/ naRcALai
→ しかし、cUTaippoTi は、「かたイワシ」、-- 「かたくち イワシ」に見える。
c. ロシア語のイヴァシー (иваси) も日本語からの借用である。 from wikipedia 「イワシ」
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
RE[10923]
> インド弁saaradain
と、あるのは、Google 翻訳の 【英】sardine に対する 「ヒンディー語」の結果
???????
saaradain
みたいですね。 「インド弁」という言葉は、対象が広いので、
私が「インド弁」という言葉を使っているのは、良くないかも知れない。
「古代インド弁」と言う名前に変えた方がイイかも、と、考える、今日この頃、でオマス。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
イワシ と ニシン
https://medakasuisan.com/sardine/post-1854/
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
かど
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010926M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010926_2M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 門松
http://
門松の由来 平安時代
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010927_2M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 日本書紀
過去の言語・歴史の復元
またみなさん、わかちあいありがとうございます。
言語・語彙関連で盛り上がっておられるようですね。
コロナウイルスも短期間で遺伝子配列が変化しているそうで、過去のウイルスの原型を探し出す、つまり歴史を調べることも必要となってきそうです。
歴史研究とは、ある意味、すでに断片的にしか存在しないものを、法則性とともに復元していくことだともいえそうですね。
その法則性を明らかにすること、これが重要だと言えるでしょう。
日本語の変遷でもそうですね。過去に発音されていたものが、現在は半ば失われているようなケースもご指摘にあったとおりです。
ある大きな変異が、その大きな流れの中で起こるわけですね。その大きな変異が、また時間とともに、形を少しづつ変えていく。
渡来人の渡来、その技術革新などは、その大きな変異に属するものでしょう。
その技術が徐々に日本風土に合わせたものへと変遷していく、大陸では石材でできていたものが、日本では木材へと変化していく、そういう事例が多くあります。
日本的という媒介項がそこに影響を与えていくわけですが、イワシという語彙にも、どこか日本語特有の要素が加わっているのかもしれません。母音が云々とか。
その法則性を明らかにできれば、すべての歴史上の語彙や言語を調べなくても、ある程度の予測がつくようになるでしょう。
人工的に、過去のある時代の特定地域の言語をシュミレートするわけですね。
その変異をもたらすべき要因が、どういうものなのか?、ここも重要な視点で、環境的要因、人種的、技術的要因…と様々ですが、それらがランダムに突発的にもたられるように見えることもあれば、あるいは気候変動周期のように周期的に繰り返されるものもあり、拡散、消滅、結合の過程というのもまた考えていく必要があるのですが、その辺を、これから日本古代史の中で明らかにしていく必要があります。
すでに、日本語の変遷に関する研究において、そのような試みがなされてきてますが、古墳や土器の形状、形質、そういうものも、やはり同様に特定の条件を加えたときに、どういう風にそれらが変遷するかをシュミレートすべき指標を構築すべきでしょう。
同様に、渡来人にもたらした金属精錬技術などについても、その渡来人の人口なり、年代、世代数・・といった要因をもとにしながら、結果として、こうなった!、こうなるためには、こういう変遷過程がそこに加わるべきだ、そのためにはこのくらいの年代が必要だという部分の法則性を追求していく必要があるでしょうし、同様に、その宗教観や習俗、伝承の変遷・拡散過程についても、記録に残っているものだけを分析するのではなくて、その記録の元となった文章なりを、人工的に復元していくシステム化を立ち上げていく必要があるでしょう。
元テキスト論とも言いますが、その元テキスト、元文面といったものが、どういうものであったのか?その復元のためには、何が必要なのか?、方程式のxを説く試みですね、ここの部分を明らかにすべき時期が来ているように感じます。ある程度しっかりした資料群が手に入る時代になってきましたから、あとはそこから法則性を見出す知恵、その辺を、ぜひみなさんにとりくんでいただきたいところです!
>ニシン(かど)一見なんの関係があるの?ですが、関係があるんですな・・・
ガド族の一支族がマナの壷を継承し、それが、日本にもたらされ伊勢神宮の外宮にあるという説…
鰊 レン・にしん…かど(鰊)…束柱???2020年 5月15日(金)08時47分30秒 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F
東トウ(ひがし)とは別字。柬(えらぶ)⇒東に変化する。
レンという魚。レンのイメージは不明。日本では、にしんに当てる。古くは鯡 ヒと書くことが多かった… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fd%2F20141005
鯡 ヒ…「まだ成魚になりきっていない魚」…
二身(にしん)…
「ニシン」の語源には、「二親」説と「二身」説がある。「二親」とは父母のことであり、盆や正月に両親の長寿を祈って食べる魚であったことに由来する説である。「二身」は身を二つに割いて食べることに由来する説である。他にも、二つに身を割ることから「妊娠」を語源とする説もある。
漢字の「鰊」のつくり「柬」は「若い」という意味。小魚を指すことからニシンに字が当てられた。また、「鯡」のつくり「非」は否定を表し、「まだ成魚になりきっていない魚」という意味を表す。「鰊」と「鯡」どちらが先にできたかは不明だが、室町時代の『節用集せつようしゅう』に両方の字が出ている。
祖先…
日ユ同祖論と伊勢神宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010930M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010930_2M.jpg
https://nihonshinwa.com/archives/75
アメリカ大陸北極域とシベリアにおける人類集団の変遷(追記有)
雑記帳さんのブログ記事です。
ご存じの方も多いと思いますが、シベリア北東部に、31600年前頃に人が住んでいた証拠があるようですね。
現時点で最古のシベリア北東部の遺跡です。ヤナRHSと呼んでいます。
Sikoraら(2019)は、シベリア北東部における後期更新世〜完新世にかけての人類集団の3回の主要な拡大と、それに続く大規模な置換を明らかにしました。
1度目は、ヤナRHSに関連する民族である。2度目はアメリカ大陸先住民に関連する民族で、20000〜18000年前頃。そして3度目は、新シベリア集団。13000頃。
新シベリア集団は、13000年前頃の2度目の民族との交雑と、5000年前頃以後の、アジア中央部草原地帯からの青銅器時代集団との交雑を通じて、1度目の民族との遺伝的影響を間接的に受けている。
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_17.html
>中国語イワシ(鯷・鮷)…おおなまず…
>中国語イワシ(鯷・鮷)
鯷(テイ)
訓読み
しこ
ひしこ
意味
大きななまず。おおなまず。魚の名。ナマズ科の淡水魚。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkanji.jitenon.jp%2Fkanjio%2F7006.html
日本しこ。ひしこ。カタクチイワシ科の海水魚
ナマズ科…
祖先?…体は鱗のない、ツルツルの魚のような姿…
>かんむり座は、紀元前3200年頃にはできていた星座ですが、ギリシャ神話では、コップ座とも関係する酒神・ディオニュソス(バッカス)に結び付けられています。
神話の物語によると、この冠はディオニュソスがミノス王の娘・アリアドネに贈った冠だと伝えられています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fseiza.imagestyle.biz%2Fsinwa%2Fkanmuri.shtml
コップ座…
コップ座は春に見られる星座で、からす座と一緒に、うみへび座の背中に乗っているように描かれています。
四等星と五等星からできているので暗い星座ですが、うみへび座の尻尾辺りを頼りにして探してみれば、案外簡単に見つけることのできる星座です。
コップ座はギリシャ時代につくられた古い星座で、このコップは、ギリシャ神話に伝えられている酒神・ディオニュソスがもっていた杯だと言われています。
ディオニュソスは、大神・ゼウスとテーバイ王の娘・セメレとの間に生まれた若者で、半分はゼウスの血を引いているので、神のような力を持っていると伝えられています。
このディオニュソスがいつも愛用していた杯がコップ座になっているのですが、「コップ」と名前についていますが、このコップは現在使われているような形ではなく、耳飾りの付いた杯の形で描かれています。
…ディオニュソスの周りには鳥や獣達が現れ、周りを固めて海賊たちを寄せ付けません。
驚いた海賊たちは海に飛び込んで逃げようとしますが、手足はひれに変わり、体は鱗のない、ツルツルの魚のような姿になってしまいます。
このような物語がギリシャ神話に伝わっていますが、イルカはこの時に生まれたものだとも伝えられています。
体は鱗のない、ツルツルの魚のような姿…イルカはこの時に生まれたもの…紀元前3200年頃?…
紀元前3500年頃 - 岡山県総社市の南溝手遺跡で、熱帯ジャポニカのプラント・オパールが見つかっている。
西暦による紀元前4000年から紀元前3001年 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
「クルガン文化」? - スレドニ・ストグ文化(アゾフ海流域)とマイコープ文化(コーカサス地方)を包含する仮説の文化、インド・ヨーロッパ語族の候補。
紀元前4000年頃、黒海北部から南ロシアに懸けての草原地帯で、はじめて野生種の馬が家畜化された。アンデスの高地でリャマの飼育が始まった。リャマは、毛と皮を利用するほか食用や運搬用に用いられている。稲の栽培がインド北東部のアッサム地方から中国雲南の雲貴高原にかけての山岳地帯でも始まった。
紀元前40世紀 - メソポタミアの都市国家ウルの創建
紀元前4000年-3000年頃 - ナイル川流域にナカダ文化(en:Naqada culture)
紀元前3761年 - 近代ユダヤ暦の起算年;10月7日を起算日とする
紀元前3760年 - ユダヤ歴による天地創造の始まり:9月25日または3月29日
紀元前36世紀 - シュメール文明、都市国家分立
紀元前3500年頃 - 岡山県総社市の南溝手遺跡で、熱帯ジャポニカのプラント・オパールが見つかっている。この頃すでに日本で陸稲稲作が始まっていたと思われる。
メソポタミア、キシュ第1王朝から第4王朝
イヌイットの祖先、ベーリング海峡を超え、アジアからアラスカへ至る
中国で龍山文化が誕生。黄河文明がおこる。
紀元前3123年 - この年の6月29日にオーストリア上空付近で小天体が爆発し、地球の環境に多大な影響を与えたと推測されている
紀元前3114年 - この年の8月13日または8月11日にマヤ文明の長期暦(GMT対照法)が始まる(=マヤ文明による天地創造の日)
紀元前3102年2月18日 - ヒンドゥー教神話によるカリ・ユガ時代の始まり、伝承によるクリシュナの没日
紀元前3000年 - エジプトで、メネス王が上エジプトと下エジプトの二王国を統一。ファラオとなる。
クルガン文化…
インド・ヨーロッパ語族の拡散を、騎馬民族に起源するクルガン文化の … /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Frepository.kulib.kyoto-u.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F2433%2F240160%2F1%2Fshirin_094_1_5.pdf
インド・ヨーロッパ語族…
19世紀後半、インド・ヨーロッパ祖語の話し手を「アーリヤ人」とする説をドイツ生まれのオックスフォード大学教授マックス・ミュラーが唱える。
「アーリヤ」とはサンスクリット語で「高貴な人」を表し初期のインド・ヨーロッパ語族の研究ではサンスクリット語がインド・ヨーロッパ諸語の祖先言語であるという考え方があり、話し手を「アーリヤ人」という人種として捉えるようになった。
20世紀に入るとナチスによって、インド・ヨーロッパ語族を「高貴なアーリヤ人」=優秀な人種とみなし、ユダヤ人の言語ヘブライ語はセム・ハム語族に属するとし排斥した。ナチスの影響の強い時代は、祖地をゲルマン民族の地に求めた。
戦後、(言語学では)インド・ヨーロッパ祖語の祖地をめぐる研究はタブー視されてしまった。
ギンブタスとクルガン文化説
1950〜60年にかけて、カリフォルニア大学の考古学者マリヤ・ギンブタスが、クルガン文化説を提唱。クルガン文化とはヴォルガ川下流域からアラル海にかけて広がる考古学上の文化の総称。紀元前4500年前からはじまるクルガン文化とインド・ヨーロッパ語族の話し手を同一とみなしている。
黒海沿岸ステップ起源説(南東ヨーロッパ説)
支持学者:キンブタスなど
※言語学者はこちらを支持している人が多い。
理由は、「紀元前2000年以後におけるインド・ヨーロッパ語族のメソポタミヤ、アナトリアへの侵入、さらに遡ってはウラル語派、フィン・ウゴール語族との接触、河川名などの固有名詞のつながりなど、古い資料を持つ語派の動きは、この地域を始点にすることによって比較的無理なく説明できる。」からである。
クルガン文化…海豚(イルカ)と河豚(ふぐ…)
>紀元前3200年頃…イルカはこの時に生まれたものだとも…
クルガン(кургáн, kurgan)は、ユーラシア大陸中緯度のステップ帯に分布する、青銅器時代の土による墳丘を伴う墓もしくは積石塚のマウンドを伴う墳墓である。墳丘墓の一種で、日本の古墳に近い。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
「クルガン」はトルコ語起源のスラヴ人の単語である。 クルガン型の墳墓は、青銅器時代のステップで活動した遊牧民の特徴を表す墳墓であって、アルタイ 地方から コーカサス、ルーマニアにまでまたがる範囲に分布している。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rui.jp%2Fruinet.html%3Fi%3D200%26c%3D400%26m%3D244319
スラヴ人
ユダヤ教に改宗した スラヴ人 がアシュケナジムの主体となったと説明しており [27] 、 ハザール起源説と言うよりスラヴ起源説の色がある /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkabukachan.exblog.jp%2F25167733%2F
ギンブタスは、地中海世界の地母神信仰が、ゼウスの語源に見られるような言語的に軍事的性格を持つ雷神信仰に代るこの文化的転換がより暴力的に行なわれたことをますます強調するようになった。これは、フェミニスト考古学の形成にかかる特有の議論である。インド・ヨーロッパ語族の移民説を受け入れる多くの研究者は、インド・ヨーロッパ化への移行は、ギンブタスが考えるよりももっと平和的で漸進的なものであったと考えている。 原インド・ヨーロッパ語族の移民は、確かに突然で、協同的な軍事行動ではなかったが、まとまりのない雑多な民族や文化、何世代にもわたる勢力の拡大であった。 しかし、インド・ヨーロッパ化への定着が、古ヨーロッパ文化とどの程度平和的に融合していったのか、又は、暴力的とさえいいうるほど強制的に置き換わっていったのかは、クルガン仮説の支持者たちに間での論争の課題となった。
ジェームス・マロリー (James Mallory) は、クルガン仮説をインド・ヨーロッパ語族の起源についての事実上の定説として支持した。しかし、ギンブタスの軍事的侵略による変化というラディカルなシナリオに対して妥当といえる批判を加えている。「軍事的侵略とか文化の転換というような議論は大体において、クルガンの分布の拡大に言及することを除いた場合には、非常にうまい説明になっている。」 ドイツの考古学者であるアレクサンデル・ホイスラー (Alexander Häusler) は、ギンブタスの考えている黄土墓文化や竪穴墓文化などいくつかの独自の文化が融合したものとしての「クルガン文化」 という概念について鋭い批判を展開してきた。(ただし竪穴墓文化では埋葬に黄土を他に比べてはるかに大量に用いており、現在では黄土墓文化と竪穴墓文化は用語としては同じ文化区分を指す。)
クルガン仮説のシナリオは、インド・ヨーロッパ語族の起源についての尤もな答えとして広く受け入れられてきたが、あくまでも推論の域を出ていない。ギンブタスのクルガン仮説に対する主要な代替論としては、コーリン・レンフリュー (Colin Renfrew) によるアナトリアを「原郷」として、インド・ヨーロッパ語族の言語のひろがりは、農業の普及の結果であると考える説である。 この見解は、クルガン仮説のような約6000年前という見解とは全く異なって約10000年前頃が、インド・ヨーロッパ語族にとって画期となる重要な時代であったと考える説でもあるのだが、言語学者の間では、言語年代学上の根拠のみならずインド・ヨーロッパ語族が分岐して地理的にひろがっていく過程から考えても農業の発展と関連づけるのは難しいことから、クルガン仮説よりも支持を得られていない。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
クルガン文化の担い手の遺伝的特徴
Y染色体ハプロタイプSNPマーカーR1a という特殊な遺伝的形質をもつ人々は、いくつかの点でクルガン文化と関連性がある。この遺伝的形質は、中央アジアから西アジア、インド、イラン、ヨーロッパ中部や東部のスラヴ人、ヨーロッパ北部のスカンジナヴィア人にもっとも頻繁に見られ、その周辺に向かってだんだんと稀になっていく特徴である。ヨーロッパで全般的にR1aが最も顕著に出る民族集団はスラヴ人、次いでスカンジナヴィア人(デンマークを除く)である。特に、先史時代に球状アンフォラ文化の中心地であったポーランドで顕著。スカンジナヴィアではノルウェーで顕著である。一方、このR1aはヨーロッパの最西端にあたるバスク地方、イベリア半島西部、ブリテン島西部といった、西からの男系の家系が社会的支配層(すなわち上流階級)を除くとほとんど入り込まなかった地域には広がらなかったようである([1][2]参照) 。
Ornella Semino などの研究者によると([3]を参照) 、バスク人など Eu18 に属するハプロタイプの人々やハンガリー人やウクライナ人に見られる Eu19 に属するハプロタイプの人々は、2万年前から1万3千年前の最終氷期(ヴュルム氷期)に(アフリカから)イベリア半島を経由して移り住んできたことが確かめられたとする。そして、パキスタン、インド、中央アジアに見られる Eu19 に属するハプロタイプの人々が移り住んだ範囲が拡大していくこととクルガン文化の広がっていく過程と関連づける。
対立仮説
アナトリア仮説 - 約9000年前の古代アナトリアがインド・ヨーロッパ語族の源流であるとする仮説。ラッセル・グレー(英: Russell D. Gray)とクェンティン・アトキンスン(英: Quentin D. Atkinson)両博士が2003年に発表した言語年代学による研究の中で強く主張し、「クルガン文化」のほうが第二次原郷である可能性も示唆していた[2]。しかしこれはあくまで言語学研究であり、アナトリアが原郷であったという地理的証拠とはなっていない。グレー博士の研究結果は単に古い時代にヒッタイト語派に発展する集団が、ほかのインド・ヨーロッパ祖語の集団からの言語学的な分化が紀元前7千年紀に開始されたことを示すのみである。この研究では非ヒッタイトのインド・ヨーロッパ祖語の集団がアナトリアから北へ移動したのか、それともヒッタイトのほうが非ヒッタイトのインド・ヨーロッパ祖語の集団から分かれて南下していったのか、いずれにしてもはっきりした証拠を示していない。ちなみに従来の考古学研究では、ヒッタイトに発展した集団のほうがほかのインド・ヨーロッパ祖語の集団から分かれて南下していったとする後者の説が支持されており、この説でもグレー博士による言語年代学の研究結果そのものと矛盾していない。ところがグレー博士は2003年の論文のなかでアナトリア学説、すなわち地理的結論を行ってしまった。
アーリアン学説 - 現在は完全に否定されている。
ケルト人に関連する遺伝子としてハプログループR-S116が挙げられる。ハプログループR-S116はイタリック語派とも関連しており、イタロ・ケルト語派仮説を支持するものである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
アーリア人はハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。インド北部では48.9%[9]、パシュトゥーン人に51%[10]、タジク人に44.7%[11]みられる。
アーリア人と関連した出来事 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
インド
紀元前2千年紀に、北西インド、パンジャーブでの牧畜が確認される[12]。インド・アーリア人となる。
中央アジア
イラン・アーリア人となる。
一部が古代アフガニスタンのアーリヤーナ(Aryana、アーリア人の土地の意味)に興る。
中央アジアにはその後もアーリア人種が残り、後にスキタイ人が黒海からアゼルバイジャンまでの範囲に栄える。
紀元前2500年頃には、アーリア人種のものと思われるアンドロノヴォ文化や類似する様式がアラル海やキプチャク草原、南西のトルキスタンで見られる。東トルキスタンでは紀元前4000年頃より遊牧が始められていた。
紀元前10世紀頃より、インド北西部から東のガンジス川に向かって移動するにつれ、宗教的な融合も始まる。後にアーリア人は、言語と宗教により認識されるようになる。
紀元前5世紀頃になり、ヴェーダが完成し、バラモン教の宗教的な形式が整えられる。
紀元前5世紀に成立した仏教がブラフミンの特殊性を否定したため、ブラフミンの支配を良く思わなかった王族クシャトリヤ階級に支持され、ブラフミンの地位は落ちて行く。
4世紀、新しい王の支持を受け、バラモン教を発展・継承するヒンドゥー教が作られる。
>それまで存在しなかったイルカ…
河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
イルカはなぜ「海豚」と書くのですか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkanjibunka.com%2Fkanji-faq%2Fmean%2Fq0323%2F
イルカ(海豚)…
いるか座(いるかざ、海豚座、Delphinus)は、天の川の近くにある星座で、トレミーの48星座の1つ。最も明るい星でも4等星と暗い星座ではあるが、星々が密集しているため見つけやすい。
神話 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
偽エラトステネスは、ポセイドンの妻になることを拒んで逃げたアムピトリーテーを探し出して連れ戻ったイルカを記念したもの、としている[1]。
ヒュギーヌスやオウィディウスは、紀元前7世紀の詩人アリオン (詩人)(英語版)にまつわる話を伝えている。アリオンがシチリア島や南イタリアの音楽会から故郷に帰る際、彼の持つ報酬に目がくらんだ船員がアリオンを殺害しようとした。アリオンは死ぬ前に琴を弾かせて欲しいと願い、船員たちはこれを許した。アリオンが弾き始めると、どこからともなくイルカの群れがやってきて、曲を鑑賞した。アリオンが身を投げると、イルカがその背にアリオンを乗せて故郷に連れ帰った。イルカはその功績が称えられ星座になったとされる[1]
イルカをポセイドンが創造…
一説にはそれまで存在しなかったイルカをポセイドンが創造し、贈り物にすることでアムピトリテとの仲が深まったという説もあります。こうしてイルカの働きによってポセイドンはアムピトリテと結婚することができたのでした。ポセイドンはイルカの功績を讃え、感謝のしるしにイルカを空に輝く「いるか座」に変えました。ポセイドンとアムピトリテのあいだには、魚の下半身を持つ「海神トリトン」、太陽神ヘリオスの妻となる「ロデー」、トラキア王エウモルポスを育てる「ベンテシキューメー」が産まれています。地震引き起こす大地の神だったポセイドンはアムピトリテとの結婚により、海洋を支配する海の力を手に入れたといわれています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.gibe-on.info%2Fentry%2Fposeidon%2F
ゼウス(弟)とハーデス(兄)は兄弟であることをご存知の方は多いと思います。もうひとり有名な兄弟で「ポセイドン」がいますね。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fpachiseven.jp%2Farticles%2Fdetail%2F255
日本の歴史書に見るイルカの姿
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010934M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ イルカ
卑弥呼の都と宮殿
ちょっとまた邪馬台国について考えはじめているのですが、卑弥呼の宮殿記載で、侍女が1000人いたとされますね。そのうち100人は卑弥呼とともに殉死してます。
1000人の侍女が住むとなると、住居も必要でしょうし、1日3000食は容易しないといけないわけですから、相当な経済基盤が必要でしょう。
邪馬台国7万戸とされますから、1戸5人で計算すると35万人いたとして、そこから侍女を1000人かき集めたわけですね。
しかし、1000人もいて、彼女たちが日々何をしていたのかも気になります。
巫女集団として祈祷ばかりしていたわけでもないでしょうし・・・・。
文官として文書行政をしていたのでしょうか。畑を耕していたとは思えない。
裁縫とか衣服を造っていたのか??
卑弥呼の身の回りの世話だけなら10人いれば足りるでしょう。
強いて言うと、日本でも後代存在していた後宮がありますが、日本型ではなく、中国の後宮を参考にすべきなのかもしれません。
こちらはそのwiki説明。
中国で後宮とは、宮廷内で天子が家庭生活を営む場所であり、また皇后以下、妃嬪が暮らす場所でもあった。そのため后妃のこと自体を後宮ということがある。その他、後宮には多くの女官や宦官たちが暮らし、後宮内での職務に従事した。
前漢の制度では、昭儀、婕妤、?娥、容華、美人、八子、充衣、七子、良人、長使、少使、五官、順常、無涓、共和、娯霊、保林、良使、夜者を指す。後漢の光武帝は節約を理由に後宮の簡素化を施行し、妃嬪の位号も4級(貴人、美人、宮人、采女)にした。
晋代の制度では、三妃(貴嬪、夫人、貴人)、九嬪(淑妃、淑媛、淑儀、修華、修容、修儀、婕妤、容華、充華)、美人、才人、中才人。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25BE%258C%25E5%25AE%25AE
特に、上記にみえる?娥の「娥」は美人の意味で、以前分析した『翰苑』では卑弥娥として、つまり卑弥という美人として表現していることと関係してきます。
その文面は下記のとおり。
倭國
憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻
倭國
山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。 軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。 卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。 臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。 阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。 禮義に因りて袟を標す。 即ち智信を以って官を命ず。 邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。 中元の際、紫綬の榮あり。 景初の辰、文錦の獻を恭ず。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww001.upp.so-net.ne.jp%2Fdassai%2Fkannenn%2Fkannenn_mame.html
この書物の記載は、魏志倭人伝ではない伝承に由来すること、特に物部氏のそれと関係することを以前考えたことがありましたが、再考してみると、
「山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。」の部分は、前述のように、高良山や女山神籠石のように、当時の海岸沿いのそばにある山地で、台地となった部分に、都を建てたと解釈できるかもしれません。
高良山神籠石ならば、筑後川ですね、これが当時、海に近い状態として存在していたでしょうし、女山神籠石でも同様に瀬高西部の山門のあたりが海に近かったはずです。
そして、そこの都では「軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。」とあるように、女官たちが、前述の中国の後宮のような形で部として分類されていたこともわかります。
「卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。 臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。」とあるのは、これは卑弥呼が呪術や美貌で惑わせていたのに対して、台与は幼少である故にちょうど当時の王族たちにとって擁立するのによい存在であったことを対比的な形で記しているわけですね。
この両人が孝元・開化妃の物部系の鬱色許(うつしこ)と、その姪の伊香色許(いかがしこ)のことであることも、以前お話した次第です。
その鬱は惑わせる美人の意味ですね。名の伊香(いこう)は、つまり台与を記し違えて壱興(いこう)と解釈したために生じているわけです。この両人の女王の伝承は、後代の物部系譜に継承されているわけです。
「 文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。 阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。 禮義に因りて袟を標す。 即ち智信を以って官を命ず。」は、後代の隋唐大の日本についての文献から引用したものでしょう。
また「邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。 中元の際、紫綬の榮あり。 景初の辰、文錦の獻を恭ず。」も、同様に中国の史書からとったもの、つまり魏志倭人伝のそれですが、邪馬台国とはいわずに邪として馬台とは分けている点が重要です。
邪を国名、馬台を地形・地名として理解しているわけですね。邪国=倭国でしょうか。
傍ら斯馬は、倭人伝で略載された20国の最初に出てくる「斯馬国」のことですが、つまり、この20国は邪(馬台)国ではないと理解しているわけです。
伊都國から奴・不彌国までが邪(馬台)国の支配領域と考えたのでしょう。
この筆者は、(馬台)を地形・地名を示す語であることを、何らかの中国的な知識で理解していたように見えます。だからそれをはずした邪だけを正式な国名だと考えたのでしょう。
そういう意味では、邪国の中にある「馬台」な地形の地域に、女王の都があったとの理解をしているわけで、その都は海岸そばの山地であったことも、別の文献などから知識として仕入れていたことがわかります。
だから、卑弥呼以前、あるいは以後の王の都は平地にあったのかもしれませんが、卑弥呼の時代の都は海岸沿いの山地にあったと理解すべきかもしれません。
そして、その地形の「馬台」ですが、馬の背中のような台地と理解すると、山の尾根を馬の背中として、その上を平らにしたような場所となりそうですね。
確かに高良山も女山も尾根沿いですし、頂部が平らになっているので、それに見合う土地とも感じます。
そして、1000人を住まわすだけの空間が卑弥呼の宮殿には存在していたはずで、少なくとも100戸くらいの大型住居が建てられていたのでしょう。
あるいは学校みたいなサイズの巨大建造物の中に部屋を区切って住んでいたのか・・・。
巫女集団がこもる山岳地帯の城郭みたいな場所だったとすると、やはり高良山や女山のような神籠石で囲まれた領域内に男子禁制で女性のみ1000人が住んでいて、その周囲の平地にさらに男性の兵士なり、官人、農夫が住んでいたのではないでしょうか。
しかし1日3000食を必要とするわけですから、相当大型の食料備蓄用の倉庫なり、台所や大型の竈なども必要だったでしょうし、機能的に宮殿内が配置されている必要があるわけです。
そして、水源となる湧き水や井戸が必要ですね。神籠石内だったとすると、そのどこかに水源があったでしょう。
それらの様子を記録しているのは、魏志倭人伝だけですが、後代の記紀伝承や高良山縁起などにも断片的に残っている可能性はありそうですね。
卑弥呼の後の男王は、卑弥呼の侍女900人をどうしたのか?も気になるところですが、その後の台与がそれを継承した可能性が高いように感じます。
台与は幼少なので、10年以上摂政をした人物がいたでしょう。武内宿祢の伝承にそれに近いものがありますね。
高良山奥社に武内宿祢の墓所があるのも気になるところですが、高良山の構造を再確認する必要がありそうです。
祇園山古墳からは60名以上の殉死者とみられる痕跡もあるようですから、その宮殿に関係していた可能性はあるでしょう。
卑弥呼の前の男王たちの時代の宮殿と、その卑弥呼の宮殿とは構造的にも大きく異なっていた可能性を感じますね。
その男王時代は、吉野ヶ里や岡本遺跡のような平地に居を構えるタイプの宮殿構造であったのに対して、卑弥呼は巫女として山奥に籠る、つまり神籠石タイプの宮殿域を構築した可能性があります。
ただ、卑弥呼と10人くらいのみがこもるのではなくて、1000人も籠るわけですから、その領域も町ひとつくらいの大きさが必要となるのですが、奇しくも高良山も女山もそのサイズに見合うような領域をその神籠石で囲んでいるわけです。
神籠石の高さが、後代の山城の城壁に比して低いのは防御面での必要性を有していたかったと考えるべきでしょうか。
ただ、女性のみの禁域としての囲みが必要だったのかもしれません。
そもそも、女性1000人がこもったところで戦いにはならないでしょうから、防御という観念はその当時薄かったのかもしれませんね。
その代わり、その周辺に別に男性兵士用の集落が散在していた可能性があります。
ともあれ、こう考えていくと、卑弥呼の時代の都・宮殿は、九州各地にある神籠石内にあった可能性が高いのではないでしょうか。
もう少し神籠石の発掘や地形調査を行う必要がありますね。そして、現在の九州の邪馬台国研究家自体の神籠石への研究意識が低いことを、今年は改善する必要があるように感じますね。
>太伯の苗と稱す。…呉の祖 苗族?
苗族の、頭飾りのデザインと、蚩尤の漢字が良く似ているようにも、私は思います。太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物です。
苗族(倭人と刺青)
魏志倭人伝によると、倭人は「皆面黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っており、古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを太伯(呉の祖;周の系譜)の子孫と称していると記されています。
黥面とは顔に刺青を施すことであり、文身とは身体に刺青を施すことであり、南方の海洋民族によくみられる特徴のようであります。
漁師なら分かりますが、何故に魏への使者が刺青者?と思われると思いますが、倭人の祖が苗族と考えれば話があいます。
中国の伝説によれば、BC26世紀頃に漢民族の原型である華夏民族の君主・黄帝が蚩尤(しゅう)を破り、敗れた蚩尤民族は苗(みゃお)族と黎(リー)族に分裂。 周王朝時代に華夏民族と同化し、一部は春秋の強国である楚や呉を建国します。
蚩尤(しゅう)…
蚩尤は牛のような顔をしており、背中には二本の羽があったといいます。
今から4500年くらい前に、九黎と炎帝及び黄帝の部族が涿鹿(たくろく)の戦いを起こしました。この戦いで蚩尤は敗北し戦死したとも言われており、蚩尤の率いた部族連盟は黄帝と炎帝に吸収融合されました。prometheusblog.net/2017/01/27/post-2571/
蚩尤と九黎、三苗族
蚩尤は九黎の首領であるという記載は多く、論争もあります。蚩尤は九黎と三苗の関係を代表しています。《尚書》と《国語》などの多くの古籍に記載が見られ、三苗は九黎から別れて形成されました。九黎が戦争に敗れた後、一族は流散し、三苗に変わりました。この三苗は今の苗族とは無関係です。
マオリ人…
イギリス人流入前 マオリの伝承では1,000年前にポリネシアのハワイキという島からカヌーで来たことになっています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.compathy.net%2Fmagazine%2F2016%2F05%2F05%2Flets-learn-about-the-culture-of-maori-newzealand%2F
ポリネシア…
ポリネシア・ミクロネシア・メラネシアの違い /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fworld-note.com%2Fpolynesia-micronesia-melanesia%2F
南太平洋のアジア人 今から3600年ほど前、ポリネシアに一番乗りしたのは、後世にラピタと名づけられた人々だったと考えられています
広大な海を開拓したポリネシアの人々(前編)
ラピタ文化が花開いたのは、紀元前1500年から紀元500年頃と考えられていますが、ラピタ人のルーツについては、アジア起源説が最も有力です。ラピタ土器には文化面で先行していた台湾の土器と似通った部分があります。また、人類学の観点からも、注目すべき点があります。東アジアの日本人や中国人から発見され、「アジア人特有遺伝子」と呼ばれているミトコンドリアDNAの9塩基対欠損という特殊な遺伝子が、ラピタ人がかつて分布した地域やラピタ人がルーツであると考えられるポリネシア人に、さらに高頻度で見つかっています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.wastours.jp%2Fweb_tabihiro%2Fhyakka_ryoran%2F2015%2F0807.html
ラピタ人の航海 (約3,000年前) Voyage of Lapita Peaple Expedition ラピタ文化は、今から約3,000年前に太平洋のメラネシア(Melanesia)で発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器(Lapita pottery)を残しました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.stampmates.sakura.ne.jp%2Fgv-Lapta.html
呉族(ごぞく)は、中国福建省辺りの発祥と考えられる海洋民族であるが、大元は「ポリネシア群島辺りから中国大陸に沿岸部に移り住んだ人々ではないか?」と考えられる。
呉族(ごぞく/海洋民族) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fjiyodan.exblog.jp%2F13523256%2F
…任那(みまな)の国そのものの国内も農耕山岳民族(加羅族系)と海洋民族(呉族系/加那・カナ)は混在し、日本列島同様に覇権を争い新羅(シルラ/しらぎ)に後押しされた農耕山岳民族(加羅族)と百済(ペクチュ/くだら)に後押しされた海洋民族(呉族)との勢力争いは存在した。
一方で隼人系の「呉族」の様に一旦中国大陸で大国(呉帝国)を作り、文明を携えて一気に東シナ海を渡り日本列島に渡来して来た者達も居ただろう。
今に伝わる浦島竜宮伝説などは、その名残とされている。
この農耕山岳民族(天一族・加羅系)と海洋民族(隼人族・呉族系)と言う二つのまったく違う民族が、幾つかのルートを経て九州の地で遭遇し、生きる為の土地をかけて覇権を争う。
この争いの期間が、神代の時代だったのだ。
…日本列島の氏族が呉族(ポリネシア)系部族と加羅族(中国雲南省発祥の山の民)系部族の二系統が存在する証拠は、漢字と呼ばれる文字の読み方にも名残を残している。
例えば原(はら)の文字は、呉族(ポリネシア)系の「海の民」が原(バル)が「はら」と読み、加羅族(中国雲南省発祥)系の「農耕民族(山の民)」の原(ユェン)が「げん」と読むのではないだろうか?
倭人は「皆面黥面文身」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010937M.jpg
『魏志倭人伝』(黥面文身)間違ってますよ・・・
>魏志倭人伝によると、倭人は「皆面黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っており、古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを太伯(呉の祖;周の系譜)の子孫と称していると記されています。
よくやるよ、引用は誤訳です。現在と文法は少し異なるのです。例は英語と日本語は文法、同じですか?
一部意訳しましょう。
男子無大小(むすこ、むだいしょう)、皆黥面(みな、いれずみつら)文身(もんしん)。自古(みずからいにしえ)以來(もってくる)、其使(そのつかい)詣中國(もうでる葦原中国)、皆自(みなみずから)稱大夫(たたえるタイフ)。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、(先祖は夏后の少康これこ)・・・
原文
男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國(葦原中国)、皆自稱大夫。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。
黥面文身…「黥首ゲイシュ」…
「黥面ゲイメン」(入れ墨をした顔)「黥徒ゲイト」(入れ墨の刑罰を受けた罪人)
黥 ゲイ・ケイ・いれずみ 黒部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Faa3426a2edf8a959fc448e3f22c8127d
解字 「黒の旧字(くろ)+京(ケイ)」の形声。ケイは刑ケイ(刑罰)に通じ、顔に黒い入れ墨をする刑罰をいう。多くは目の周辺、鼻の上、額(ひたい)・頬(ほお)などに施したという。ゲイの発音はケイが変化した慣用音。
意味 いれずみ(黥)。罪人の顔に墨をいれる刑罰。「黥首ゲイシュ」(刑罰で顔に入れ墨をすること)「黥面ゲイメン」(入れ墨をした顔)「黥徒ゲイト」(入れ墨の刑罰を受けた罪人)
ブリトン人 ( Briton 、ブリタニアの住民である ケルト 人 ) は皆、自分の体を 細葉大青 ( ホソバタイセイ ) [ アブラナ科の 菘藍 ( ショウラン ) ] で染めている。この薬草からは青色染料が取れ、戦闘中の野性的な外観を与える
と記していましたが、体に文様を書き色を塗る ボディ ・ ペインティング ( Body Painting ) だけではなく、 入れ墨もしていました。西暦前 54年の ブリタニア遠征から帰還した ローマ軍団の兵士により、 ブリトン人の入れ墨の風習 が ローマ帝国全土に広がりましたが、古代 ローマ皇帝 コンスタンチヌス一世 ( 在位306〜337年 ) の頃には、 キリスト教徒の間では顔と腕に十字の印を入れ墨する者が増えました。
[ 4:入れ墨文化の日本への伝搬 ] /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rose.ne.jp%2F%7Eooha%2Firezumi.htm
入れ墨の伝搬経路をたどることは、とりもなおさず日本人の ルーツに直接関係してきます。南方系、北方系、大陸系 ( 半島系を含む ) の混血である日本人の中で、次項で述べる魏志倭人伝に書かれた 三世紀頃に [ 入れ墨文化 ] が存在したことが知られていますが、ではそれがいつの時代に、どこからもたらされたのか正確には分かりません。
黒潮に乗って島伝いにやって来た南方系の人々 ( 原日本人の一部 ) がもたらした [ 入れ墨文化 ] は、大和朝廷成立後から奈良時代初めまでの間に消滅しましたが、一説によれば [ 入れ墨文化を持たない ] 別の部族によって [ 入れ墨文化 ] を持った人々が征服されたためであり、新しい支配者が入れ墨を野蛮な風習とみなしたためとされました。
しかし大和文化圏から遠く離れた沖縄や、北方系の人々の間では オホーツク文化、 擦文 ( さつもん )文化が [ アイヌ文化 ] へと発展し、東北、北海道の アイヌ人の間では、明治時代まで何千年もの間 入れ墨の風習が受け継がれてきました。
…台湾の先住民のうちで高砂 ( たかさご ) 族 といわれた [ タイヤル族 ] ですが、中国大陸系ではなく 南方系の種族といわれています 。
倭人の黥面 ( げいめん )も、このような [ 入れ墨 ] を顔にしていたのかも知れませんが、残念なことに日本の気候風土が湿潤温暖なために、特別な場合を除き日本では ミイラや死蝋化した遺体は発見されませんので、僅かに埴輪 ( はにわ ) や土偶 ( どぐう ) などに描かれた文様を基に、推測せざるを得なくなります。
黥面 ( げいめん、入れ墨をした顔 )をした猪甘 ( いかい、朝廷の豚を飼う仕事の猪飼部 )…
猪飼部:大化前代、大王へ献上する猪を飼養するのを職とした部民。
部…
部は〈ベ〉とも〈トモ〉ともよむ。日本では大化改新以前に,朝廷あるいは天皇・后妃・皇子・豪族などに隷属し,労役を提供し,また生産物を貢納した人々の集団をいう。部は,中国・朝鮮などにもひろく存在した社会制度で,日本の部の制度も,それらの影響下に成立したと思われる。中国では漢・魏から唐代にかけて,豪族のもとに部曲(ぶきよく)とよばれる集団が隷属し,その内容も軍伍→私兵→私賤というように変化したが,奴婢よりは上位の身分とされた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
一定の地域に住み同族意識をもつ集団
部 ブ・べ 阝部おおざと /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fb3a3971b92ef5f8b7336fc1550647ac7
解字 「阝(邑。人の住む地域)+咅(分かれる)」の会意形声。いくつかに分かれている人の住む地域。
意味 (1)集落。むれ。「部族ブゾク」(一定の地域に住み同族意識をもつ集団) (2)分ける。分けたものの一つ一つ。「部品ブヒン」「部分ブブン」「一部イチブ」 (3)組織上の区分。「部署ブショ」「部員ブイン」
分ける…
放浪をイスラエル人たちに課す…
モーセはシナイ山にて神との契約である『十戒』を受けることとなる。
このため、モーセは「立法者」と呼ばれることとなる。
この戒律は、神と人との関係と、人と人に関する法を意味している。
この後に、モーセは土地の王と戦いつつカナンの地へ至った。
しかし、カナンを前に民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人たちに課す。
モーセもまたメリバの泉で、神の命令に従わなかったため、カナンの地へ入ることを許されなかった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fw.atwiki.jp%2Fminnasaba%2Fpages%2F271.html
メリバの泉…
彼らは徒党を組んでモーセとアロンに逆らった /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.tomisatochristchurch-baptist.net%2Findex.php%3F%25E3%2583%25A1%25E3%2583%25AA%25E3%2583%2590%25E3%2581%25AE%25E6%25B0%25B4%25E3%2580%2580%25EF%25BC%2588%25E6%25B0%2591%25E6%2595%25B0%25E8%25A8%2598%25EF%25BC%2592%25EF%25BC%2590%25EF%25BC%259A%25EF%25BC%2592%25EF%25BD%259E%25EF%25BC%2591%25EF%25BC%2593%25EF%25BC%2589
「あなたたちは、ツインの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中で私に背き、イスラエルの人々の間で私の聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこにはいることはできない。」(申命記32:51〜52)
メリバの水は、わたしたちすべての罪を洗い清めて下さる恵みの水なのです。この命の水を出して下さる岩こそ、十字架のイエス・キリストご自身だったのです。…
水人…
こうした水人たちの棲息する広域の沿岸地域が「倭」とよばれていたのである。 中国書物に「倭」という文字が登場する最古のものは『山海経』である。(『隋書』倭国伝が使っている倭の異字体と同じものが『史記』にも登場する /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fdogs_ear%2Fe%2Fb2a87dcc6a49e0117405dc7b36b94037
…水人に共通するのが「裸足・断髪・文身(刺青)」である。
雲南省西南部には、左衽(左前の襟合わせ)・裸足・断髪・文身の習俗をもつ少数民族がいるが、こうした南方民族のことと思われる記録が後漢代に成立した『論衡』にみえる。
周の時、越掌、白雉を献じ、倭人、□草を貢す。
成王の時、越掌、雉を献じ、倭人、暢草を貢す。
周の成王は紀元前1100年ごろの人物である。この時期の列島は縄文時代にあたるから、時代的にもここでいう倭人は、やはり原義に近い人種(南方沿海の倭人)ではなかったと思われる。越掌はベトナムあたりを指し、白雉は白いキジ、□草は祭祀薬草(一説によるとマンネンタケ)のことをいう。暢草も芳香性の祭祀薬草である。
紀元前1100年…
紀元前1100年前後 モーセの後継者であるヨシュアがリーダーとなって、パレスチナ侵略を開始。獲得した土地を各支族ごとに分割統治する。 士師のもとで、イスラエル民族史は200年の暗黒時代に入る。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Finri.client.jp%2Fhexagon%2FfloorA1F%2Fa1f1101.html
「倭」…
倭 ワ・イ・やまと イ部
解字 「イ(ひと)+委(曲がって低い)」の会意形声。背が曲がって低い人。
委 イ <女が身体をなよなよさせる> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fd54b192c223e1a1bb600e10a9e17d690
「禾(穂先がなよやかに垂れたイネ)+女」の会意…
穂+女… 女神の穂(スピカ)…
??豊穣を司る女神 オセロニア ペルソナ2 罪と罰 麦の穂 乙女座 愛娘ペルセポネ(コレー)の身に起こった悲劇 母心が大飢饉を起こす 冥界の女王と四季の誕生 デメテル(メーテル)〜冥界の女王と四季を誕生させた豊穣の女神〜 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmonspedia.com%2Fdemeter%2F
古代ヘレニズム世界で、智慧を象徴する女神とも考えられた。 グノーシス主義やユダヤ教などではアイオーンの名で、この世の起源に関して重要な役割を持つ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
アイオーンは「時代」や「ある期間」を意味し、占星術における魚座の時代、水瓶座の時代などの時代と通じるところがある。魔術やオカルトにおいては、「テレマ」の概念と関係する
ホーラは単数形で、複数形ではホーライ(?ραι, Hōrai)という。いずれも時間の意味。また、季節女神とも意訳される /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwpedia.goo.ne.jp%2Fwiki%2F
ヘーラーあるいはアプロディーテーの侍女であり、ディオニューソス、ペルセポネー、デーメーテール、アポローンなどにも従ったりしている。それゆえ彼女達は、花あるいは植物を手にした優雅な三人の美しい乙女の姿で表される[2]。
ホーライ… 蓬莱…
史記の三神山(蓬莱山、方丈山、瀛洲山)は日本にあるのか。富士山の名の由来は方丈山だった?
蓬莱岩、蓬莱峡、蓬莱町と、全国に蓬莱の地名が散らばってるのは、おそらく徐福渡来伝説に関係してるのかもです。日本が蓬莱山の土地であるとの伝承を踏まえて、日本各地に蓬莱の名が名付けられていったとすれば、日本は古来より秦の影響を強く受けていたのは間違いないです。
蓬莱が「よもぎ」だとすると、よもぎと黄泉(よみ、よも)は関係するかもですが。発音からしても似ていますし。何故かと言うと『出雲国風土記』で、蓬莱山のことを「常世国」と言っているからなのですね。常世国と黄泉は、いずれも出雲に関係があるとされます。
瀛洲(エイシュウ/ヨウシュウ)について /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftacchan.hatenablog.com%2Fentry%2F2015%2F05%2F25%2F041719
『学研漢和大字典』によると「瀛洲」とは「中国の伝説にある三神山の一つ。東海(渤海)中にあって仙人が住んでいると伝えられる。「海中有三神山、名曰蓬莱、方丈、瀛洲、僊人居之海中に三神山有り、名付けて、蓬莱、方丈、瀛洲と曰ふ、僊人ここに居す」『史記』新始皇」とあります。
そういえば、瀛洲山に似た名前を、日本人は知ってるではないですか。
阿蘇山。『隋書』に倭国を代表する山として登場しています。富士山ではなく九州の阿蘇山なのが重要ポイント。瀛洲(えーしゅ)阿蘇(あそ)はなんとなく似てるので、もしかするともしかします。
瀛洲が日本を表す言葉なのは、本来阿蘇山=瀛洲山のある九州こそが倭国だったことを表していると思えるのですが。
九州こそが倭国だった…
蓬莱山の用語解説 - 中国,古代における想像上の神山。三神山 (蓬莱,方丈,瀛〈えい〉洲) の一つ。山東地方の東海中にあり,仙人が住み,不死の薬をつくっており,宮殿は金玉,白色の鳥獣がおり,玉の木が生えているとされた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
瀛〈えい〉…
(秦と江は同じ嬴姓の国で、同盟もしていたようです)
古代の笠氏…?嬴姓高丘系図 https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/4137
その子孫らは殷に仕え諸侯となり、周の 穆王の頃、造父が馬をよく御するので寵幸された。造父は四疋の珍しい色の馬を献し たり御者として乱が起こった地に馬を馳せ、乱を鎮めた。そこで穆王は趙城に造父を封じ た。
リリス(Lilith)は、ユダヤの伝承において男児を害すると信じられていた女性の悪霊である /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
タルムードにおいてリリスは翼と長い髪を持つとされているが、これは現存する最古の言及(ギルガメシュ叙事詩)にまで遡る。
女性の悪霊…現代ではリリスは女性解放運動の象徴の一つとなっている。
倭水人が女王国を含んでいる…
大陸の書物には、倭人の祖は自称"夏"系列の越とか、自称"周"系列の呉という記載がある。しかし、魏志倭人伝のココでは、倭水人が女王国を含んでいるからといって、同一概念とは限らない。
これより古い時代の倭人とは、山東半島対岸の朝鮮半島東南部を中心とした勢力。広義ではおそらく、多島海〜済州島〜対馬/壱岐〜北部九州。奈良盆地を含む日本列島を「倭」とみなしていたとは思えないからだ。www.randdmanagement.com/c_gs/gs_004.html
黥面文身 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.randdmanagement.com%2Fc_gs%2Fgs_004.html
日本列島では、黥面や文身型土偶は珍しくないから、入墨風習は古くからあったのは間違いないところ。その点では、呉越との共通海人文化を共有しているのは間違いない。
「古事記」でも、伊須氣余理比賣のもとに、天皇の婚姻申し出を伝えるべく出向いた大久米命の黥利目は驚きを持って受け止められている。
入れ墨…
神秘的な入れ墨は、湾岸で不運を保つと信じられており、何世紀もの間、カンボジア人に保護を提供してきました。 伝統、マジックタトゥー、または サック・ヤント クメール語では、悪霊を追い払い、危険を避け、所有者を不幸から守ると言われています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.yourtripagent.com%2Fhow-magical-tattoo-artists-in-cambodia-ward-off-bad-luck-8683
弥生人の化粧や入墨の風習
顔や手、足などに白粉や紅を塗り、美しく飾る慣習は大昔からあるものです。古代エジプトでは前1200年にはすでに化粧の慣習が存在しました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fcamera-gakkou.com%2F6-yayoijin%2Fentry45.html
日本では3世紀後半の古墳時代の遺跡から、顔や身体に化粧がなされた埴輪が出土しており、今のところ、これが日本人が化粧をしていたことを示す最古の史料となっています。
…魏志倭人伝の記述を裏付けるように、弥生後期からは入墨を表した土偶が出現しています。このような入墨は、上記の記述にあるように漁の際、大魚を威嚇する目的に彫られたほか、成人や戦士の印に通過儀礼として与えられたものだとも考えられています。
魏志倭人伝には、弥生時代終わり頃の倭人の髪型についての記述があります。
【※引用 男子はかぶり物を付けず、木綿の布で頭をしばる(以木緜招頭) 衣服は幅広い布を(其衣横幅)ただ結んでつないでいるだけで(但結束相連)、縫ってはいない(略無縫)。夫人はかぶり物をし、後ろで髪を結っていた(婦人被髪屈?)※】
弥生人の髪型が美豆良に再現される理由とは…
>美豆良(みずら)の正体はユーラシア大陸の奥地に見つかる ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftacchan.hatenablog.com%2Fentry%2F2014%2F10%2F23%2F173718
みずら状髪型の年代を追っていくと、最も古いのは中央アジアのアーリア人であると見られました。紀元前1500年頃のみずら状髪型の人形が見つかってます。
『魏志倭人伝』(黥面文身)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010939M.jpg
原文
男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國(葦原中国)、皆自稱大夫。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。
男子無大小(むすこ、むだいしょう)、皆黥面(みな、いれずみつら)文身(もんしん)。自古(みずからいにしえ)以來(もってくる)、其使(そのつかい)詣中國(もうでる葦原中国)、皆自(みなみずから)稱大夫(たたえるタイフ)。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、(先祖は夏后の少康これこ)・・・
封於(ほうずるおいて)會稽(かいけい)、斷髪(さだめるかみ)文身(もんしん)。以避(もってさける)蛟龍(みずちりゅう)之害(これわざわい)。今倭(いまみなと)水人(うみひと)好沈(このむうき)没捕(しずむとらえる)魚蛤(さかなはまぐり)、文身(もんしん)亦以(またもって)厭大魚(きらうもとさかな)水禽(うみとりこ)、後稍(おくれるようやく)以爲飾(もってなすかざる)。諸國(もろもろくに)文身(もんしん)各異(おのおのあやしい)、或左(あるたがう)或右(あるたすける)、或大(あるもと)或小(あるさ)、尊卑(うやまうひくめる)有差(あるたがう)。計(かぞえる)、其道里(それたとえるみちのり)、當在(まさにいます)、會稽東治(かいけいとうじ)之東(これひがし)。
「倭」…
倭 ワ・イ・やまと イ部
これは、やまと、とは読まないのだ、みなと、読む。万葉集にある。
http://
[10935] 卑弥呼の都と宮殿
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010940M.jpg
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kannenn/kannenn_mame.html
>倭國(みなと、くに)
「倭」…参宿…みなと・あつまる…オリオン座ζ星(三つ星の東端)…
日本へと 波状的に海を渡って行った。聖書のどこに「東の島々の国」と書いてありますか?
多くのイスラエルの民は、遠く離れた大陸の端に浮かぶ東の島々を夢見ながら旅をすることになります。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.historyjp.com%2Farticle.asp%3Fkiji%3D52
漢字の起源 参 私 ム /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4742
三つ星が古代から航海の神として重要な位置にありましたが、東の方位にあり天上界の 登り口として宮古島では捉えられていますから、ここから神様や死者 .... 耒 鋤 耜 犂 鍬 臿【唐鋤星】からすきぼし 〔補説〕 唐鋤に見立てていう 二十八宿の参(しん)宿の和名。 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F716
「三女神」というのは、航海の守り神であったオリオンの三ツ星から来て いる可能性もあります。 この宗像大社の祭神である市耒姫(いちきひめ)を移したのが 、広島にある厳島神社です。
「三輪神社」の命名にも、三ツ星が関係しているかもしれません…。
航海の守り神…
倭 >みなと読む。…みなと(湊)…奏(あつまる)
湊 ソウ・みなと・あつまる 氵部
解字 「氵(みず)+奏(あつまる)」の会意形声。水上で人や物資を載せた船があつまる場所をいい、みなと・あつまる意となる。
意味 (1)みなと(湊)。ふなつきば。「湊泊ソウハク」(船が湊に停泊すること) (2)あつまる(湊まる)。あつめる。「輻湊フクソウ」(輻は車のスポークで集まる意、湊も集まる意、方々から一か所にあつまること)
輳 ソウ・あつまる 車部
解字 「車(車輪)+奏(あつまる)」の形声。車輪の輻(スポーク)が軸にあつまること。
意味 あつまる(輳まる)。一か所にあつまる。「輻輳フクソウ」(スポークが軸にあつまるように、四方からあつまる。=輻湊)
若木の枝+…
下部が天に変化した(若木が「屮+大+十」の形)奏になった。秦(シン)…二つの禾(こくもつ)をうつ形。(変光している・スピカ)…
禾(穂が実ってたれたイネ等)…女が身体をなよなよとさせる形…(変光している)… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fturupura.com%2Fguide%2Fstar%2Fsupika.html
「委イ」 と 「季キ」 <禾の下に女と子がついた字> と「魏ギ」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fd54b192c223e1a1bb600e10a9e17d690
解字 「禾(穂先がなよやかに垂れたイネ)+女」の会意。女が身体をなよなよとさせる形で、力なく他人に身をまかせる女の意。ゆだねる、まかせる意味を表わす[学研漢和]。
意味 (1)ゆだねる(委ねる)。「委任イニン」「委託イタク」 (2)まかせる(委せる)。「委員会イインカイ」「委譲イジョウ」 (3)くわしい(委しい)。こまかい。「委細イサイ」
イメージ
女が身体をなよなよさせる形から「身をゆだねる」(委)
「曲がって低い」(萎・倭・矮)
「その他」(魏・巍)
音の変化 イ:委・萎 ギ:魏・巍 ワ:倭 ワイ:矮
委 イ・ゆだねる …禾(穂)+女(女神)…
麦の穂 女神 生死 翼 低い…検索 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F5075
翼:麦の穂を持っち翼のあるこの女神は、大地を守る農業の神です
女神:乙女座は黄道12星座のひとつで、現在の秋分点でもあります。左手に麦の穂を持っちのあるこの女神は、大地を守る農業の神です。
麦の穂:スピカは女神の持つ麦の穂先に輝く星です。青みがかった光を放つ星ですが、低い空では、真珠のように白く輝いて見えます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.ksky.ne.jp%2F%7Etatsuo%2Fbirthday%2F10-2.htm
低い(南): /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.tottori.lg.jp%2Fwww%2Fcontents%2F1425107882625%2Fhtml%2Fcommon%2F54f66b0d107.htm
生死: 生と死 の世界をつなぐ存在…豊穣の女神デメテル…
おとめ座は,正義の女神アストライア,穀物神デメテルの娘ペルセフォネ,あるいはデメテル自身の姿に見立てられ,スピカは女神の手にした麦の穂の位置に輝いている。
おとめ座のα星。この名はラテン語で麦などの穂を意味する。おとめ座は,正義の女神アストライア,穀物神デメテルの娘ペルセフォネ,あるいはデメテル自身の姿に見立てられ,スピカは女神の手にした麦の穂の位置に輝いている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
おとめ座:天関(天にあるとする関所の番人)。七曜の行く所。この星が明らかであると王道は太平。
二十八宿とは 古代中国28星座 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkomonjyo.net%2F28syuku.html
おとめ座:内朝(宮中で天子の居る室)。疫病を司る
…世界中で使われている七曜と十二星座を組織的に広めたのは、ミトラ教である。
インドの占星術は、『宿曜経』という経典にもとづくもので、「宿」は月を中心とするインド伝統のもので「曜」は惑星や太陽を中心とする西方起源のもの。この占星術は中央アジアを経て中国で整備されたものが日本に伝わった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Ftaishi6764%2Fentry-12001563058.html
「ミトラ教と妙見信仰と秦氏のなぞ 1」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fyopico_0105%2F17213431.html
秦氏は大陸にルーツを持つ渡来人です。マダラのルーツがミトラであるなら、秦氏のルーツもインドかペルシヤかローマ帝国に求めることができます。
『古代ユダヤの暗号』(月海黄樹・石沢貞夫著、日本文芸社)の中の「魔陀羅の色は、ペルシャにおける最高神を表わす色であり、広隆寺の本尊が弥勒菩薩であることから考えると、この牛にまたがっている魔陀羅が、ミトラであることは間違いない」という記述です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Frandynewman%2Fe%2Fc207024621bea1ab0516917e4c302917
弥勒=ミトラ=シリウスの信仰が日本に公的に伝わったと考えるのがわかりやすい シリウス信仰の聖方位という ...
この期間、太陽が獅子座に入り、シリウスが地球とオリオン座の三つ星を ライオンズゲートは毎年開くそうです。
ライオンズゲートは、毎年8月8日から12日に開きます。この期間、太陽が獅子座に入り、シリウスが地球とオリオン座の三つ星をつなぐ位置に入るのです。
太陽が獅子座!
シリウスが地球とオリオン座の三つ星をつなぐ位置に入る!
三つ星をつなぐ…
住吉三神はオリオンの三ツ星 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Flunabura.exblog.jp%2F15412072%2F
底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
「筒」とは「星」の事です。
宗像三女神は、三柱が並んでいることから星の中でも重要視されるオリオン座の真ん中の3つの星(オリオンのベルト)を神格化したと言われます。宗像三女神はオリオンのベルトを意味するという説
宗像三女神を辺津宮・中津宮・沖津宮に配置…
津…みなと。渡し場。…みなと(湊)
先が三本にわかれた筆を手にもつ形。
津 シン・つ 氵部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fb94201e8602dd9f5260317dfbba6e9c3
解字 「氵(かわ)+聿(シン)」の形声。シンは進シン(すすむ)に通じ、川を舟で進んでついた向こう岸、船の渡し場をいう。また、滲シン(しみ出る)に通じ、身体からしみ出てくる汗・なみだなどをいう。
意味 (1)つ(津)。みなと。渡し場。「津駅シンエキ」(船着き場の宿場)「津波つなみ」(津を襲う大波)「大津おおつ」(地名)(2)しる(汁)。あせ・なみだ・つばき、など。「津液シンエキ」(つばき)「津津シンシン」(つばがわくように次々とわき出る)「興味津々キョウミシンシン」
向こう岸、船の渡し場をいう。また、滲シン…
おとめ座のα (アルファ) 星の固有名。 スピカとはラテン語で「小麦の穂」の意で、正義の女神アストライアが左手に持つ小麦の穂の位置にあたる部分にある。アラビア名はアジメクAzimechで「守られていない」の意。実視等級は0.97等(変光している) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
線スペクトルの形も種々のモードの非動径振動(星が球形からずれて揺さぶられる振動)のため複雑に時間変化している。
滲シン…参宿(しんしゅく)、和名は唐鋤星(からすきぼし)、二十八宿の一つで西方白虎七宿の第7宿。距星はオリオン座ζ星(三つ星の東端の星)。
参[參] サン・シン まいる ム部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F489450704ba013e5ab07530b3b83e43e
解字 金文第一字は、三本のかんざしを頭に挿した人が、ひざまずいている形。第二字は、かんざしの玉が光ることを示す彡サンを加えた形。かんざしを付けて盛装した人が宮中などに参内しひざまずく形で、「まいる・もうでる」意となる。多くの人が行くので、加わる・集まる意ともなる。旧字は「厽 ルイ(三本のかんざし)+人+彡サン」の形になり、新字体は旧字の厽 ⇒ムに簡略化され、「ム+大+彡」の参となった。
意味 (1)まいる(参る)。目上の人の所へゆく。宮中などへ行く。「参内サンダイ」「見参ケンザン」 (2)寺社などに詣でる。「参詣サンケイ」 (3)加わる。集まる。まじわる。いりまじる。「参加サンカ」「参集サンシュウ」「参差シンサ」(いりまじる。ふぞろい。ちぐはぐ) (4)くらべる。しらべる。「参考サンコウ」「参照サンショウ」 (5)人蔘ニンジンの代用字。「人参」 (6)「三」の代用字。
イメージ 「まいる・くわわる」 (参・驂)
「同音代替」 (惨・滲・蔘)
「その他」 (鰺)
ひざまずいている形…ムムム
春の大三角 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftentaitenmon.com%2F664.html
冬の大三角 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkids.yahoo.co.jp%2Fzukan%2Fastro%2Fwinter%2F0015.html
夏の大三角 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkids.yahoo.co.jp%2Fzukan%2Fastro%2Fsummer%2F0016.html
スピカ
スピカは二十八宿の起点角宿の「すぼし」だった
中国星座の黄道12星座に相当するのが「二十八宿」と呼ばれる28の星座です。
月が27.5日かけて天球を1周するとき,一晩ごとに1つの「星座=星宿(せいしゅく)」を移動するように割り振られたもの。
黄道12星座の出発点は春分点(現在のうお座)ですが二十八宿の起点は秋分点に近い「角宿(かくしゅく)おとめ座中央部」にあります。
星宿名 角宿
和訳名 スボシ
現代星座での概略位置 おとめ座中央部
距星 おとめ座α(スピカ)…春の三角形…冬の星座オリオン座のベテルギウス、
四季の大三角形と大四辺形ペガススの大四辺形を「秋の大四辺形」と呼んでいる
冬のダイヤモンド(大六角形) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fstella-record.net%2Fsiki_daisankaku
おおいぬ座の「シリウス」と、オリオン座の「リゲル」、おうし座の「アルデバラン」、ぎょしゃ座の「カペラ」、ふたご座の「ポルックス」、こいぬ座の「プロキオン」の6つの星を結んだもの
冬の星座を紹介する上で欠かせないのが、「冬の大三角形」と「冬のダイヤモンド(六角形)」です。
六角形 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.nobikoto.com%2Fentry%2Forionza_huyunoseiza_daisankakkei
冬の大三角形は、おおいぬ座のシリウス(写真下)、こいぬ座のプロキオン(写真左)、オリオン座のベテルギウス(写真右)によって構成されます。
夏の大三角形と春の大三角系が気になりました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fyukistage3%2Fentry-12387729487.html
三角 四角…台形…平行な2本の対辺を台形の底辺といい、そのうち一方を上底(じょうてい)、他方を下底(かてい)とよぶ。
上底…昊天上帝(こうてんじょうてい)…
昊天は中国神話中の至高神である天帝の尊号です。夏文明における上帝で、古くより朝廷の公式な祭祀で祀られました。古い文献には、虞舜、夏禹の時代にすでに上帝があったと記載されています。
天帝:中国の天帝って誰の事?天帝について徹底解説 prometheusblog.net/2018/01/21/post-7375/
東皇太一は楚人の屈原の《九歌》の中に見られます。この九歌中には天神として描写され、中国の戦国時代の楚国の最高神で、天空星辰を主宰していました。
太一は天一とも言われ《晋書・天文志上》には、”天一星は紫宮門の右にある。”とあり、《星経》には、”太一星は紫宮門外の天一星の南にある。紫宮は北極星がある天区であり、天一、太一ともに大変暗い。”とあります。
太一は神の名であり泰一とも書きます。《史記・封禅書》には、”天神貴太一”とあり北極神の別名と書かれています。《天官書》には、”中宮天極星、その一明者、太一は常に居るなり。”とあり、”泰一は天帝の別名なり、泰一は天神の最も尊貴者なり。”とあり北極神であり天帝とされています。
泰…大と両手を合わせて 「三+人」の形 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F7d0b4e9827abfaa51a0f89d4e7dc84b7
太一神が九宮を巡行…
長安城の南東郊に薄忌(はくき)太一とよばれる祠壇が設けられたのを最初としそこでは天一,地一,太一の3神が祭られた。… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
太一(たいいつ、拼音: tàiyī)とは古代中国における宇宙の根元を表す哲学的概念、または天の中心に位置する星官(星座)、またはその神格。大一・泰一・太乙とも書く。
「中宮天極星、其の一に明るきは太一の常居」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
太は至高を、一は唯一・根元を表す語であり、『荘子』天下篇に戦国時代の諸子百家のうち道家が軽んじたものとして登場する。また『呂氏春秋』大楽篇では道のこととし、道は形がなく、名づけることもできないが、強いて名づけるなら「太一」であるとし、太一から始まって太一、両儀、陰陽、万物という宇宙生成論を唱えた。また1993年、郭店楚墓から出土した竹簡『太一生水』に太一から始まる太一、水、天、地、神明、陰陽、四時、倉熱、湿燥、歳という生成論が見られる。
漢代の『淮南子』天文訓において「紫宮は太一の居」としたり、『史記』天官書において「中宮天極星、其の一に明るきは太一の常居」とされるように、天上世界における宮殿である紫微宮のなかに位置する星として認識されるようにもなっていた。また『史記』封禅書では謬忌なるものが漢の武帝に太一を祀ることを進言しており、そこでは太一を天神の尊きものとし、太一の補佐を五帝としている。武帝はこの進言を入れ、太一壇を設けて天一・地一・太一の3神を祀っている。
中国古書『荊州占』では、「黄竜は太一の妻」とある。 以後、太一は天の中心に位置する北極神と解され、天皇大帝や昊天上帝といった至高神と同定されることもあった。後漢の鄭玄は『易』の注釈において太一を北辰(北極)の神とするとともに八卦に配当された9つの宮殿(九宮)を順次めぐってゆく「太一九宮の法」を記した。唐・宋代には太一・摂提・軒轅・招揺・天符・青竜・咸池・太陰・天一の9神が支配する9つの宮殿とし(九宮貴神)、太一神が九宮を巡行としてそれにもとづき禍福を占ったり、九宮貴神壇を設けて祭祀を行ったりした。
東から西へ大きな弧を描きながら、時計の針と同じ方向に、1時間で15°ずつ動く。
四季の星座www.hello-school.net/primrika006001.html
(2)1年の動き
同じ時刻に見える星の位置は1日に約1°、1ヶ月で30°東から西にずれる。
星が同じ位置に見える時刻は1日に約4分、1ヶ月で約2時間ずつ早くなる。
古事記を翻訳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010942M.jpg
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_02.html
http://
三女神…
アマテラスとスサノオのウケイから誕生した三女神とはいかなる神か。これら三女神の出現を記す神代紀(じんだいき)の六段本文では単に筑紫の宗像君(むなかたのきみ)らの祭神とするのみで降臨の場所さえ記していない
記紀以前に知れ渡っていた三女神=玉依姫 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkenkokusi.web.fc2.com%2Fhimiko%2F2.1.html
…712年以前には玉依姫七社、三女神一社、比売大神一社であった。それ以降から宝亀元年(770)までを見ると、三女神九社、玉依姫三社、比売(ひめ)大神一社、木花開耶姫(このはなさく や ひめ)一社とトップが入れかわっている。すなわち、比売大神とは本来玉依姫であって、その後、三女神(田心姫(たこりひめ)[多紀理姫(たきりびめ)]、瑞津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ))へと変化していったことがわかった。
『書紀』は『古事記』の八年後に完成しているので、その頃、三女神=玉依姫は公然の事実であったといってよかろう。 ここにこの公然の事実を通じて、『書紀』の第二のメッセージ(アマテラス=三女神)と、第三のメッセージ(アマテラス=日向の姫[玉依姫])の左辺どうしが結びつき、よって、アマテラス=三女神=玉依姫が単なる妄想でなかったことが確認できるのである。
三女神は玉依姫と結びついているだけではない。日向の姫のもう一神、木花開耶姫とも強く結びついている。
三女神と木花開耶姫の不思議な接点 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkenkokusi.web.fc2.com%2Fhimiko%2F2.2.html
アマテラスの化身である三女神が玉依姫であり、かつ木花開耶姫でもあるという一見不可思議な関係が導かれるのである。
神代紀(じんだい き )上下巻に横たわる系譜の謎kenkokusi.web.fc2.com/himiko/3.1.html
木花開耶姫と玉依姫とが異名同体の可能性が暗示されている。
神武が、200〜210年に三十五歳で即位したとすれば、神武の誕生年は165〜175年頃ということになるので、玉依姫が神武の母とすれば、玉依姫は150年前後の誕生年ということになる。一方、ヒミコは247、8年頃没したと『魏志』にあるので、もし玉依姫=ヒミコが成り立つならば、ヒミコはおよそ百歳の長寿を全(まっと)うしたことになるのであるが、古代人の寿命はせいぜい五十歳程度とする学説に惑わされて、ヒミコ百歳はありえないと確信しているような論調に出会うことが多いので、次にこの点を考証してみたい。
ヒミコの生涯は生誕150年前後〜没247、8年 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkenkokusi.web.fc2.com%2Fhimiko%2F3.3.html
玉依日女の三柱の神は、蓼倉の里にある三井の社に坐す…
北緯34度30分線上の都(その10)−伊豆の式内社「伊古奈比咩神社」のある「賀茂郡」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmagnoliachizu.blogspot.com%2F2016%2F05%2F34302.html
「下賀茂 鵜の羽葺不合の尊、叔母、玉依姫を后となして、神武帝を産めり。是を人王の始となす。下賀茂の社、御祖の神と称し、玉依姫を勧請し奉るものなりと。」とあります。
…逸文の最後に可茂建角身命、丹波伊可古夜日女、玉依日女の三柱の神は、蓼倉の里にある三井の社に坐すとあります。「蓼倉」は和名抄にある 山城国愛宕郡蓼倉郷で、現在の京都市左京区下鴨蓼倉町にあたり、下賀茂神社と隣接したところとなっています。三井の社は、式内社三井神社で、「三井」は『三身』で、先の三柱をさします。現在は、下賀茂社の境内摂社として鎮まっています。可茂建角身命・丹波伊可古夜日女は、玉依日女の両親です。
…「山城国風土記」(逸文)に「葛野河と賀茂河との會ふ所に至りまし、賀茂川を見迥かして、言りたまひしく、『狹小くあれども、石川の?川なり』とのりたまひき。仍りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川より上りまして、久我の國の北の山基に定まりましき。」
…大和から移ってきた「カモ」一族は、この川の合流点に居を構え、後にすぐそばの上流側に下賀茂神社を立てたのでしょう。その位置が、松尾大社-比叡山を結ぶ直線上に位置しているということは、偶然かもしれませんがおもしろいものです。
松尾大社は、その位置からして、松尾山にある磐座を対象とした信仰の場の山口の神社と考えられます。松尾大社からの夏至の日の日の出のシミュレーション図を上にあげました。その日の出は、比叡山山頂から少し南にずれます。このずれを、気にするかしないかは、難しい所です。
ということで、もっともらしい理屈をつけるため、松尾山に近い桂川沿いの、夏至の日の出が比叡山から見られる、松尾山のふもとの地として、妙珠寺(京都府京都市西京区嵐山元録山町 緯度35.003599 経度135.682446)を選びました。目印として選んだだけで、此の地の由緒に何か意味があるわけではありません。ここからなら、比叡山からの夏至の日の出が観察されそうです。ここは、松尾大社から、北北西 500m弱、磐座のある松尾山から西 600m弱の位置になります。現在の松尾大社は、比叡山からの夏至の日の出を意識した地にあるとみてもいいかと考えています。これらを結ぶ線上に下賀茂神社を建てたことは大いに考えられるところです。上賀茂神社はさらに後で建てられたと考えています。下賀茂神社が、川合の地に建てられたのなら、それは陰で、当然陽を考えなければなりません。そのため近くにある神南備型をした山「神山」を対象とした陽の神社として上賀茂神社がたてられたのでしょう。その神体山である「神山」の山容は、日吉大社の神体山八王子山に酷似しています。
なお、比叡山からの夏至日の出に関係する神社として、木嶋坐天照御魂神社があります。この神社は、三柱鳥居で有名で「天照」を名前に持つことから「天照大御神」を考えるとき重要な神社です。境内の北西隅には「元糺の池」と称する神泉があるそうです。
[10944] 玉依日女の三柱の神は、
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https://magnoliachizu.blogspot.com/2016/05/34302.html
>・・・こんな文章はない 誓約(ウケイ)…
古事記からの引用
宗像三女神の誕生 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnihonsinwa.com%2Fpage%2F2014.html
すると速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)が 「誓約(ウケイ)をして子供を生みましょう」 と言いました。
宗像三女神の誕生 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhimeluna.exblog.jp%2F14644654%2F
そこで、天の安の河(天の川)を中に置いて、ウケイをする時に、アマテラス大御神が先に、スサノオの命の佩(は)いた十拳剣(とつかのつるぎ)を貰い受けて、三段に折ってユラユラと揺らして、天の真名井の水で振りすすいで、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、息吹きの霧に生まれた神の名は、タキリビメの命。
またの名は奥津島(おきつしま)ヒメの命と言います。
次に、イチキシマヒメの命。またの名はサヨリビメの命と言います。
次にタギツヒメの命。三柱です。
…、最初に生まれた神、タキリビメの命は宗像の奥津宮にまします。
次にイチキシマヒメの命は宗像の中津宮にまします。
次にタキツヒメの命は宗像の辺津宮にまします。
この三柱の神は宗像の君らが斎きまつる三柱の大神です。
こうして、スサノオの命がアマテラス大御神に言いました。
「私の心は清く、正しかった。だから、私の生んだ子は手弱女(たおやめ)でした。ウケイの結果から言うと、私の勝ちですね。」
宇氣布:誓約(ウケイ)…
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 本居宣長
http://
>[10947] 宇氣布:誓約(ウケイ)…
爾天照大御?詔「然者、汝心之?明、何以知。」於是、速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」(自宇以下三字以音、下效此。)
故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御?、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇(此八字以音)、下效此振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音、下效此)、… 古事記
*天照大?復問曰「若然者、將何以明爾之赤心也。」對曰「請與姉共誓。夫誓約之中(誓約之中、此云宇氣譬能美儺箇)必當生子。如吾所生是女者則可以爲有濁心、若是男者則可以爲有?心。」… 書紀
*一書曰、…時天照大?、復問曰「汝言虚實、將何以爲驗。」對曰「請吾與姉共立誓約。誓約之間、生女爲?心、生男爲赤心。」… 書紀
*一書曰、日?與素戔嗚尊、隔天安河、而相對乃立誓約曰「汝若不有奸賊之心者、汝所生子必男矣。如生男者、予以爲子而令治天原也。」… 書紀
宇氣比 ウケヒ 宇氣布 ウケフ ウケヒは四段活用連用形、ウケフは連体形。
書紀では、誓約または誓とある。
書紀の作者は、ウケヒ=誓約と解釈してたようです。卜占ですね。
[10948] >[10947] 宇氣布:
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https://www.youtube.com/watch?v=-lX9gssexrk
(無題)
古事記・日本書紀・万葉集を読む
無文字文化としてのヤマトコトバ研究 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fkatodesuryoheidesu%2Fe%2Fc25f2294a819159811a27a466c9939e2
「古事記」も「日本書紀」も、日本の国がどのようにして出来たのか、皇室は先祖からどんなに立派なものであったかということを、人々にわからせようしたのです。
古事記・日本書紀・風土記・万葉集・懐風藻!書物が作られた奈良時代! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwakariyasuku-rekishi.com%2Farchives%2F714
古事記の万葉仮名づかいは、中国600年頃の切韻によるもので、太安麻呂が、日本語を分析し、50音図にあたるものを作った上で万葉仮名を使用したらしい。
古事記の表記法 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fpopomi2575%2Fdiary%2F200903010000%2F
実は『古事記』と『日本書紀』は、似て非なるもの。ぜんぜん違う性質をもつ書物だったのです。
『古事記』と『日本書紀』のちがい〜なぜ日本神話は2つ必要だったのか〜inishie.atelier-aditi.jp/2018/11/10/kojikitonihonsyoki/
つまり『古事記』も『日本書紀』も、日本が一つの国としてまとまるために絶対必要なアイテムだったのです。
日本が一つの国としてまとまるために絶対必要なアイテムだったのです。
古事記(712年)と日本書紀(720年)は大和朝廷側の歴史書・伝承であり、朝廷側に不利な事や都合の悪い事はなるべく避けて記されています。あるいは粉飾して都合の良いように書かれています
古事記・日本書紀・万葉集 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fenkieden.exblog.jp%2F18924843%2F
「古事記」には、「イザナギ」と「イザナミ」の結婚式の話が出て来ます。その時、二人は柱のまわりを回ったとありますが、元駐日イスラエル大使エリ・コーヘン氏は、この場面はユダヤ教の結婚式を思わせると言います。
古事記の天地創造と、旧約聖書の天地創造は確かに似ています。
ヨセフアイデルバーグ氏は、古事記や日本書紀が形を変えた旧約聖書であるといっておれれるようです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsoudan1.biglobe.ne.jp%2Fqa3776554.html
古事記や日本書紀が形を変えた旧約聖書である理由について
イザナギ神話に潜むイスラエルの影 ! ! |www.historyjp.com/article.asp?kiji=50
『聖書』と『古事記』の創世神話 …
??2020年 5月20日(水)11時42分0秒 https://8906.teacup.com/toraijin/bbs
『聖書』はユダヤ教徒だけでなく、キリスト 教徒やイスラム教徒にとっても聖典とされ、世界宗 教の基盤となっているといえる。世界で最も読まれ てきた書物であり、ゆえに聖書の世界観は、文字通 りグローバルな世界観ということもできると思われ る。
…『古事記』の神々は、 「獨神」で「身を隠しき」とされ、存在自体も「観 念的」とされることで実在を否定されてさえいるよ うな感がある。神の名前さえも、象徴やシンボルな のではないだろうかと考えさせられるからである。 古代から神道には明確な教義や経典がないことも、
…このように目に見えないものを目に見えないままで 受容し、その存在を確かに信じるという心意構造に よるのかもしれない。これは、キリストの次の言葉 を思い起こさせる。
…『聖書』と『古事記』の創世の世界観からそ れぞれの神の観念を比較してみると、意外にも思え るが、その神観念には共通の要素が見られるように 思われる。創世の前に何かがあったか、なかったか の根本的な違いは否めないが、それも「無」の観念 の相違によるとする解釈も可能であるといえる。も し、そのように考えてもよいならば、両者の神観念 には、非常に興味深い相似が見えてくるように思わ れる。
聖書の天地創造と「記紀」のそれが似ているのではと思う人もいるようです。 ちなみに厩戸皇子は、厩戸の前で出生したことによるとの伝説があるがこれなどもそ
一説によると、古事記の書かれた時期にユダヤ系の移民が存在しており
朝廷内ですでに地位を確立していたためと思われます
秦氏と呼ばれる一族がそうではないかと /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1138886201
当時日本国ができた時、唐の書物がたくさん輸入されたというか、持ち込まれました。
その中に、当時唐で大流行した大秦景教という宗教がありました。
大秦(ローマ)景教(Nestorian Christianity 380年~451年が起こしたキリスト教)以下ウィきより
【中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」(アラボン、オロボン、アロペン等)らによって伝えられ、
景教と呼ばれた。当初、唐の朝廷は、初期には皇族を含めて支配層が濃厚な北族(鮮卑・匈奴など)的要素を有したこともあり、景教や仏教など、非中華由来の宗教に寛容で、
信仰を容認、保護したため、盛んであった。】
ということで、日本の信仰を創作するときに参考にしたと推測してもしすぎではないでしょう。
なにしろアマテラスとお話しできる不比等の先祖の祭司は=アメノコヤネとかいいまして、
あの鎌足の先祖という設定(もちろん信仰)ですね。
アメは、当時の倭王の系統で、問題は「コヤネ」は英語風に言うとコーエン
イスラエル人のヨセフアイデルバーグは、日本の神社に修行に入り、失われた十支族との共通点を探ったようですが、その過程で司祭を意味するヘブライ語のコヘンと非常ににていることを発見しました。
つまり、景教の聖書のなかから参考にしたのでは?と思える事例です。
・・・・
古事記
奈良時代の歴史書。3巻。天武天皇の勅命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)した帝紀や先代旧辞を、元明天皇の命で太安万侶(おおのやすまろ)が文章に記録し、和銅5年(712)に献進。(デジタル大辞泉)
…稗田阿礼が文字で書かれたものを誦習すべく一度声音に翻訳。その誦習を太安万侶が耳で解釈して文字で記録した歴史書(翻訳)。稗田阿礼⇔太安万侶の間でどのような伝授があったか具体的なものはわからない。安万侶が無垢のまま阿礼の誦習を聞いたのならそれはほとんど音楽であったでしょう。音を意味のある文字に写す際、安万侶の知的操作だけでなく阿礼のサジェスチョンがあったやもしれぬ。…どうしてもうまい写しができないときは音に一文字づつあててクラスターの旋律をそのまま表記したでしょう。その時の文字の選びはやはり才能が要るでしょうね^^
>爾天照大御?詔「然者、汝心之?明、何以知。」於是、速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」(自宇以下三字以音、下效此。)
故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御?、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇(此八字以音)、下效此振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音、下效此)、… 古事記
[10952] 古事記
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古事記 の世界も知ることです。
>爾天照大御?詔「然者、汝心之?明、何以知。」於是、速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」(自宇以下三字以音、下效此。)
故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御?、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇(此八字以音)、下效此振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音、下效此)、… 古事記
翻訳
近し天照大御?を諭し、「然りと云えり、汝、裏此れ、爽やか明ける、何れ、以って知らせる。」於いて此れ、速須佐之男命 答え、九十九「おのおの、宇、氣、並ぶ、然るに、成す子。」
もと、近し、おのおの、当て置き、天の安んじる河、然るに、宇、氣、広げる其のとき、天照大御?、先ず乞う、渡り帰る速須佐之男命のする所の帯び玉、十拳劒、打つ挫け三つきざはし(十拳劒の三つにだんだんの打ち傷)、然るに、奴はなに登る母、母由り眞近い、下る倣う此れ掬う洗う、天これ眞名、井、然るに、佐は悦び、美し近いであろう、美し然るに、
九十九と美し、は地図添付
本居宣長は、この程度の詐欺師です、庶民を馬鹿にしている、秦野も騙された、日本中ですがね
宇氣布、これが、誓約(ウケイ)馬鹿にしている・・・、この意味が理解できる。
古事記は、どの様に書かれたか
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…稗田阿礼が文字で書かれたものを誦習すべく一度声音に翻訳。その誦習を太安万侶が耳で解釈して文字で記録した歴史書(翻訳)。稗田阿礼⇔太安万侶の間でどのような伝授があったか具体的なものはわからない。
古事記は、どの様に書かれたかは、文章中にある。
太安万侶の監督、稗田阿礼は万葉集を記憶(内容が多少異なる)し、膨大な資料800年間をまとめる、筆記者の3名で書かれた。歴史書は紀元前2世紀からになる、未だ古い万葉集6世紀があるが確認できていない。
6世紀は史記に頼ることになる。太安万侶は万葉集6世紀、史記、古事記、日本書記、魏志倭人伝を通読している。
稗田阿礼⇔太安万侶…
古事記がギリシャ神話や東南アジアの神話に似ているところがある事からこの時代も渡来人が多かったのでもしかしたらと思いました。
稗田阿礼は渡来人という事はないですか?
売太神社(めたじんじゃ)は奈良県大和郡山市の稗田環濠集落の端にある神社である。式内社で、旧社格は県社。
古事記編纂に携わった稗田阿礼を主斎神(主祭神)、天鈿女命、猿田彦命を副斎神(配祀神)として祭る。
稗田阿礼命は学問の神、物語の神。天鈿女命は芸能の始祖神。猿田彦命は土地・方位の神であり、天鈿女命の夫神である。稗田阿礼は猿女君稗田氏の出で、天鈿女命は猿女君の祖神・氏神である。
但し、中世には「祭神不詳」とされていた。毎年8月16日に行われる阿礼祭(あれいさい)は、稗田阿礼の遺徳を偲ぶ祭である。その他として亀岡市街地の西、湯ノ花温泉の入口近くに鎮座する稗田野(ひえだの)神社がある。但し此処は、古事記の編纂者「稗田阿礼(ひえだのあれ)」とは無関係見たい。
稗田阿礼と太安万侶の背後にいたのは、渡来人系書記官人組織・史(ふひと)。
彼らが唐の漢字を使って日本の歴史書を編纂したのです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnewjomon.exblog.jp%2F29751070%2F
…女帝を擁立すれば、渡来人の藤原氏が側近となり意のままにこの国を動かすことができる。
超古代からの日本の歴史に封印を施し、
秩序ではなく序列の世界を構築してこの国は自然の法則に逆らった世界を体験することになったのです。
…藤原不比等(史)は記紀編纂のフィクサー。
記紀は稗田阿礼による口伝のとおりに記述されたものか確かめようもないけれど、この国は国造りの神々を封じて、逆さまの世界を体験する必要があったのです。
大和郡山…
【邪馬台国大和郡山説】yamataikokudaiou.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-0bee.html
北九州から東征し、当時の河内湖現在の東大阪から侵攻し大和の豪族長脛彦を制圧帰順させ、大和郡山矢田に都を築き、北は富雄、南は桜井の忍坂まで勢力を拡大していたと考えられます。
『太安万侶の暗号シリーズ』の第四巻である。いつも通り編集も表紙カバー作成も福士亜矢子の手になる。感謝の意と共に紹介しておきたい。さて、日の本国の大規模な攻撃により、百済系の崇神天皇以来続いた王朝は新羅系の助力を得るため息長帯媛を仲哀天皇の皇后とする。… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F
太安万侶をネットで探すと、多(太)氏は新羅系とか、百済系とか、出てきます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1096695130
「日本書紀天智紀元年条」の前の所に「織冠を百済の王子豊璋に授け、また、多臣蒋敷(おおのおみこもしき)の妹を妻(めあは)せたまひき」とあります。
百済復国の為の一大事に、本国に帰還する百済王の妻に「多氏」の娘を選定しています。
「多氏」が百済系の官僚であるのは間違いないことです。
また「天智」が、「白村江」で唐ー新羅の連合軍により大打撃を受けて、その戦後処理に大混乱の最中に、近江に百済からの亡命王族や遺民を結集して政権を樹立します(天智の乱)」。
でもこの政権は、「九州倭国」の承認などありません、「壬申の乱」により「九州倭国」に潰されてしまいます。
その後、「九州倭国」は、対唐対策や、対新羅対策もあり、近畿地方に遷都してきます、その時に大活躍するのが「多治比嶋(丹比真人嶋)」と言う人物です。
「日本書紀」は「天智ー藤原系」に先行先在した「九州倭国」の存在を隠蔽していますが、「九州倭国」が関与する大事な記事には、必ず「多氏」が登場します。
「多氏」と言うのは、半島百済にも、九州倭国内にも、勢力基盤を持っていた百済からの渡来氏族ではないでしょうか。
彼、太安万侶は、そのような流れを受け継いでいる人物だと思われますが如何でしょうか。
藤原鎌足として知られることになる中臣鎌足。中大兄皇子と協力して大化の改新を成功させ、時の権力者となった中臣鎌足は、 百済からの渡来人なのではないか という説があることをご存知でしたか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fizinden.net%2Fkamatari%2F
藤原鎌足とは何者だったのでしょうか。この阿武山古墳を造営したのは、息子の 不比等 になりますね。そして、 定恵 がここから鎌足の遺体をほりだして多武峯に移したことになっています。
鎌足の墓は何処か? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftizudesiru.exblog.jp%2F23775565%2F
藤原鎌足は明日香村の大原で生まれたといいます。飛鳥寺や飛鳥坐神社のある辺の東で大原神社があり、今は小原という地名になっているそうです。
大和郡山・鎌足神社
鎌足神社は、奈良県大和郡山市にある藤原鎌足を祭る神社。 鎌足墓所の多武峰にある談山神社は、かつて豊臣秀長の命で大和郡山城下に遷座させられた。 数年で多武峰に戻ったが、この神社はその旧跡を偲ぶものである。ただし、鎮座地は、談山神社があった跡地とは異なる位置と思われる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshinden.boo.jp%2Fwiki%2F
大和郡山にはこの様な伝説が伝わっています。 推古21年(613)、太子が稗田の里に寄られた時、村人から稗飯を出されました。
推古21年(613)、太子が稗田の里に寄られた時、村人から稗飯を出されました。なぜ稗飯なのかと問いただすと、村に水が無く稲が実らないと村人が嘆いたので太子は不憫に思い、菩提山川の水を引きいれる溜池を造らせ西へ2km離れた稗田郷(稗田町・上三橋町・下三橋町)へ灌漑用の水を送られました。
また太子はこの池の近くに広大寺を建立したと伝えられています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkikimanyo.info%2Ftaishi%2Fstorymap%2F
百済からの渡来人であろうと推測できる天智や 藤原鎌足と王家との争いを考えてみます。 ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)
中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fnagusa777%2Fe%2F2d6e6ac9257efa30225f76b96a79223e
百済から亡命してきた人々が多数いました。
この渡来百済人と、以前から渡来していた渡来人が百済復興の兵をあげたのです。
本来は、倭国、唐、新羅の三国同盟だったのです。
この時代の唐との国力の差を考えれば、唐と敵対する選択をするはずがありません。
倭国は、唐、新羅と結び百済を討とうとしていたのです。
その百済討伐のための朝鮮出兵が、渡来人によるクーデターにより百済救援の出兵に代わってしまったのです。
その中心人物が、百済復興を画策していた渡来人である天智と後の藤原鎌足である。
661年から、天智が白村江に兵を派遣する663年まで渡来人と王家の争いが起きている。
…正史である日本書紀に記述があるから真実であるといつまでもこういう姿勢では真の歴史はみえない。
彼らを謀反の疑いで静粛し、百済復興のために朝鮮に出兵した天智や藤原鎌足は渡来人である。
渡来人である天智は王であるはずがない。天智は天皇に即位していたと改竄したのは桓武天皇である。
その天智から繋がる桓武は渡来人の王である。
百済救援を画策していた、百済からの渡来人であろうと推測できる藤原鎌足と王家との争いを
考えてみます。古代の王家は藤原に乗っ取られている。
…藤原氏は、近江にも関係します。その近江には多数の百済から亡命してきた王族などの人物の居住地だということが日本書紀などにも記述されています。
桓武天皇のお母さんである高野 新笠は、百済からの渡来人である和乙継の娘であり、この和氏は百済武寧王の子孫を称しています。
本当に武寧王の子孫かどうかはともかく、本来は言いたくはないところでもあるので、渡来人であるのは事実だと思われます。
そして、この百済からの渡来人が中臣氏と繋がりを持つのは、この中臣氏の本拠地は山科だからなのではないのか?
秦氏の山背国と近江に挟まれた位置にあるのが山科です。
…「白鳳−朱鳥−朱雀−大宝・・・九州年号の謎」のところで書きましたが、・・・
天智天皇は大化の改新と呼ばれる改革を断行したとされます。しかし、そうではないとの木簡が出土しました。
「評」から「郡」に変更されているはずなのに使用されている。
そして、日本書紀に記述されている大化の改新は、およそ60年後に完成した大宝律令と一致する文が存在するのです。
どうしてこんなことをしたかというと、この時大王だったのが長屋王だからです。
つまり、大宝律令は長屋大王が作った律令だということになります。大化の改新ではなく、本来は、長屋大王や忍壁大王が行った「大宝の改革」ということになります。
その功績を天智天皇の功績として取り込んでいる。それは、桓武天皇は天智系天皇だからです。
日本書紀は編纂後に改竄された偽書である。
古事記や日本書紀は古史古伝を参考にして編集された…
天照大神は異民族文化を取り入れたとか。特に文化神パール(バアル神)の貢献を大いに喜んだようです。
神武天皇は鳥見山(奈良県宇陀市と桜井市の境に位置する山)に天神エホバ(ヤハウェ)をお祭りしたとか。
ヒッタイト帝国はセム族によって押し出され、日本の島にやってきたのだとか。ところがセム族は彼らを北海道まで追い上げるのでした。
今も歌い継がれる民謡にはヘブル語がいっぱいだ。「ヨーイヤサ」「ドッコイショ」「チョエナ チョエナ」「スチャラカホイ」「エンヤラサ」「ヨチャエ ヨチャエ」「アーリャ アーリャ」「ションガイナー」沢山あるものですネ。
…
海石榴市の八十の街… https://8628.teacup.com/toraijin/bbs
日本古代の市の一つ。《万葉集》に〈海石榴市の八十衢(やそのちまた)〉とあり,《日本書紀》武烈即位前紀に〈海柘榴市巷(ちまた)〉,同推古16年(608)条に難波より大和川を遡上してきた隋使裴世清(はいせいせい)一行を〈海石榴市街(ちまた)〉に迎えたとあるごとく,水陸交通の要衝に立地した。比定地としては,横大路と山辺の道の交点付近の桜井市金屋の集落付近,横大路と上ッ道の交点近くの同市三輪字上市〜金屋字上市口付近が考えられるが,前者から後者への変遷も想定しうる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
桜井市金屋…
金屋集落 そこは古代王城の地「しきしま」 港「海拓榴市」 の一帯は「やまと」の「まくらことば」である「しきしま」(磯城嶋)の地。 金屋集落へ入る橋のたもとに仏教伝来の地の碑が建っている
古代 初期大和政権(三輪王権)が王城の地に求めた産鉄の地 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.infokkkna.com%2Fironroad%2F2011htm%2Firon7%2F4iron08.pdf
大和盆地を大阪に流れ下る大和川(初瀬川)が青垣・吉野の峰々が連なる東の壁から大和盆地に流れ出る所に 秀麗なピラミッド型の三輪山がそびえている。この奈良県桜井市「三輪山」の麓は古代日本誕生の黎明の時 代「やまと」の枕詞「しきしま」と呼ばれた王城の地。4世紀三輪王権と呼ばれる初期大和政権成立の舞台。 ここで大和朝廷の基礎が養われたという。 また、北に伸びる三輪山山麓には3世紀に遡れる巻向 地区には纏向古墳群があり、邪馬台国畿内説を唱える 人はこのこの三輪山北山麓の地が卑弥呼 邪馬台国の 地という。 この山裾を縫って明日香から北へ古代の道 山辺の道 が王城の地を貫き、麓にはこの三輪山をご神体とし、 出雲の神「大物主命」を祭神とする日本最古の神社大 神神社がある。 鉄との深い関連が考えられる神社で、産鉄地・産鉄の 民と関係の深い地と見られ、今もその山麓には金屋・ 穴師・金刺などの産鉄地名が残り、南麓の金屋からは 鉄滓が出るとの文献もある。 そう考えるとこの三輪山山麓は古代の重要な産 鉄地で三輪山は鉄の山ではなかったか・・・。 この地を得た人たちが、この三輪山の鉄および 鉄の技術を背景にこの地を本拠として、日本誕 生がなしとげられたのではないか・・・・・・ おぼろげに三輪山は古代の産鉄地と思っていま したが、もっと強く 三輪山の鉄が直接に日本 誕生に重要な役割
額田王 万葉集、第一巻:0020
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010957M.jpg
第一巻:0020 茜草指武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
翻訳
茜は伽耶を指す、武士よく先、田舎やに行く、標す田舎や道、田舎や守と言えるない、あらわれるかな。君(天智天皇)そで広げながす。(仲裁する)
意味
新羅を茜と言う、新羅は高句麗とよく揉めていた、其の都度、天智天皇は、仲裁に田舎や守に行く、そで広げながす。
天智天皇は(六五四年) 永徽五年十二月に唐の高宗に朝貢している。内容は新羅は高句麗とよく揉めていた、其の都度、仲裁に・・・である。
文章は以下、原文『唐会要』倭国・日本国伝
永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之。仍云。王國與新羅接近。新羅素為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。頗有絲綿。出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者。云海中湧出。
現在の万葉集の意味
(茜色の光に満ちている)紫(むらさき)の野、天智天皇の御領地の野で、あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、野守が見るかもしれませんよ。歴史記録には此れはないでしょう。
海人は宗像の女神を祭っている。…
宗像系の神社は日本で5番目に多いとされ、そのほとんどが大和及び伊勢、志摩から熊野灘、瀬戸内海を通って大陸へ行く経路に沿った所にある
宗像三女神 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。
この三女神は、日本から大陸及び古代朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神、要として海北道中の島々(沖津宮・沖ノ島、中津宮・筑前大島、辺津宮・宗像田島)に祀られ、大和朝廷によって古くから重視された神々。遣隋使や遣唐使もこの島を目印として渡海した。ムナカタの表記は、『記・紀』では胸形・胸肩・宗形の文字で表している。
天照大神が国つくりの前(天孫降臨より以前)、「うけい」により生まれたこの三女神に対し「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」と神勅を示した。このことから、三女神は現在のそれぞれの地に降臨し、祀されるようになった。これが宗像大社が祀る、沖津宮の「田心姫神(タゴリヒメ)」、中津宮の「湍津姫神(タギツヒメ)」、辺津宮の「市杵島姫神(イチキシマヒメ)」である。
この三女神は天照と素戔男の誓(うけい)の結果から生まれたという。素戔男の邪心を疑った天照は彼の本心を確かめるために誓約する。素戔男がたばさんでいる剣を天の真名井ですすぎ、口で噛みくだいてキリとして吐き出した。そうして生まれたという。娘たちに「あなたたち三神は、道中(みちなか)に降臨して天孫を助け奉り、天孫に祭(いつ)かれよ」と命じた。道中とは玄界灘である[1]。
『古事記』神代上巻に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐神話など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。
アマテラス…海女照らす…星?
海女は全国でおよそ2000人、そのうち志摩760人、鳥羽250人と半数を占める。それだけの数のプロが存在するということは生業(なりわい)として成立しているからだ。ちなみに能登半島・輪島の海女は200人だ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ff-uno%2Fe%2F248715b5091fceadd19ec0ec8a657818
海女さんの発祥の地…
古代、宗像海人族と呼ばれた海の民の末裔たちは、今もなお、漁業に従事しています。しかし、日々かれらの生業の場である海の環境が変化し、彼らの生活を脅かしています。 例えば、海女さんの発祥の地であるここ宗像鐘崎には、後継者はおらず、残すところ1名のみになりました。
福岡県 宗像鐘崎 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Freadyfor.jp%2Fprojects%2Fumi-sodate
鐘崎は海女発祥の地です。 2017年に世界文化遺産に登録された、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群。宗像の漁師たちは古代からずっと宗像大社の三女神への信仰篤く、今も禁忌を守り続けます。 そ
「みあれ祭」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fchiakimatsuyama.com%2Famaaruki-kanesaki%2F
みあれ…水脈(みを)我(あれ)…
我(あれ)を頼めて あさましものを 」 巻14−3429 作者未詳 ( 遠江の引佐細江(いなさほそえ:浜松市、浜名湖の入江)の みをつくし。 その澪標のように私をあてにさせておいて、やがて疎ましくするのでしょう。
澪標とは「水脈(みを)つ串」の意で、船が安全に通過できる水深を示すための標識として立てられた杭のことです。
この歌の「みをつくし」の原文表記は「水咫衛石」となっています。
「咫:あた」は中国の尺度を表し、1咫は約8寸 (約24cm) 。
八咫烏(ヤタガラス)は大きいカラスだったのですねぇ。
「難波の澪標」は杭の上に三角形のしるしをつけたもので、後の人々に多く詠われ、現在大阪市の市章にもなっています。
三角形のしるし…三つの星を中国では心宿三星としまし田…商星(さそり座の三つ星)…
神武天皇を迎えた宇佐都比古、宇佐都比売は兄妹で三女神の神裔だといいます。(三女神社縁起)。水沼族は三女神を祀る氏族ですが、ここ安心院でも祀っていたことが分かりました。
賀茂神社(3)足一騰宮2・賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Flunabura.exblog.jp%2F24574876%2F
神武天皇は母の玉依姫を祀るための仕組みを作りました。それは安心院が安曇族の統治する地だという宣言でもあります。
安曇族…
御生れ/御阿礼(みあれ)とは。意味や解説、類語。《「あれ」は生まれることの意》神または貴人の誕生・来臨をいう語。ご生誕。ご来臨。⇒賀茂 (かも) の御生 (みあれ) 賀茂神社の異称。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdictionary.goo.ne.jp%2Fword%2F
「あれ」は生まれること…神または貴人…
アレース…ギリシア神話に登場する神…
アレースもしくはアーレース(ΑΡΗΣ、Arēs、?ρης, Ārēs)は、ギリシア神話に登場する神で、戦を司る[1] /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ローマ神話のマールスに相当し[1]、また火星と同一視される。このため黄道上に位置し火星とよく似た赤い輝きを放つ天体であるさそり座のα星はアンタレス[注 1]と呼ばれる[14][15]。火星の衛星フォボスとダイモスはアレースの子の名から採られている。
アンタレス…航海の道標…
アンタレスは、さそり座の心臓部分にある一等星です。古来より、船乗りの間では『目当て星』『方角星』と呼ばれ、航海の道標とされてきました。また、『かごかつぎ』『豊年星』『商人星』とも呼ばれ、アンタレスが赤く輝くほど豊作だと言われています。
蠍座-中国の神話。
中国では、この星座を進賢冠という冠をかぶって空に立つ巨人と見ていました。
蠍の頭部(房宿)が巨人の口と鼻となり、その上にある星が冠をつくり、アルファと左右の星(心宿三星)が背と肩で、尾宿の九つの星が、衣が風にひるがえる形としています。
蠍座のアルファは、変光星で高度1〜1.8等星、距離600光年で、ギリシャ語でアンチ・アーレスがつまったものとされています。
「火星に敵対するもの」という意味で、それはこの星が火星と同じように赤い星だからだそうで、古くから火、大火、火星と呼んだそうです。
アンタレスを挟んで前後に二つの星があり、この三つの星を中国では心宿三星としました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fpleasuremind.jp%2FASTRO%2FASTROsummer012B.html
「心宿の火星(アンタレス)は天王で、前後の星は太子である」と説明されています。
ビクトリア州北西部のブーロン族は、この恒星とさそり座τ星をアンタレス(Djuit)の妻とみなしていた[17]。
心宿 三星…さそり座σ星(さそりざシグマせい、σ Sco, σ Scorpii)は、さそり座にある恒星で3等星。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
三星…
商星(さそり座の三つ星) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
? (正しくは「しんしょう」。参星(しんせい)と商星の意で、参星は西、商星は東にあって遠く隔たっているところから) 互いに離れていて会うことのできないたとえにいう。
天津甕星??宗像三女神の龍脈
宗像三女神の伝説は、本島と石垣島で伝えられてきた。
「大和の国から琉球に渡来した三女神
その長女は首里の弁ヶ岳に、
次女はこの於茂登岳に、
三女は久米島に降臨した」のだと。
五芒星は道教の太一。水金火木土の5つの門を図案化したもの。
別名セーマンは安倍清明の「せいめい」が訛った。
ちなみにダビデの星はドーマンで、ライバル芦屋道満から。
いずれも蛇を示す三角紋の組み合わせと考える。
星、蛇、土は道教最高のもの。
三つ星は蛇であり、オリオン座。
一つ星は北極星、7つは北斗、5つは蠍座あるいは南十字?1,3,5,7の聖数を足すと16になる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.oct-net.ne.jp%2Fhatahata%2Fkouryuuji.html
天皇家の御紋16菊花紋。空想ですよ。
セーマンドーマンまたはドーマンセーマンとは、三重県志摩地方(現・鳥羽市と志摩市)の海女が身につける魔除けである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
能登半島では、海女(あま)とはかつて北東アジア海域で漂流生活をしていた人々だと言い伝えられている /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fourworld.unu.edu%2Fjp%2Fjapans-ama-free-divers-keep-their-traditions
安曇の海人神社と対比される、宗像三女神をまつる宗像神社…
安曇の海人神社を奉ずる海人族… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.honnet.jp%2Fmetro%2Fkodaishi%2Fk228%2Fkodaishi10.html
インドシナ系苗族の航海漁労民と江南から発した隼人系の潜水漁労民という二つの系統が南方から九州に入っている。 安曇の海人神社を奉ずる海人族は漁業を専従とする海人ではなくて、舟をこぐほうの海人であった
-ふたたび海人族・倭について-www.honnet.jp/metro/kodaishi/k228/kodaishi10.html
三世紀の「魏志倭人伝」よりも遙かに古い「山海経」に倭という文字がでてくることを、前回の「わだつみに生きる海人・倭(人)」で紹介した。
ここに登場する倭は、紀元前の昔から、日本列島周辺をはじめ、遙かに中国の南部沿岸から山東半島、遼東半島、南朝鮮の多島海の島々、済州島などの広い世界で活躍する海人であったと想像できる。
子安貝
何故、中国人が倭(人)に関心を示し、古い歴史書に「倭」が登場するのだろうかという謎の答に、「貴重な子安貝(タカラガイ)を中国にもたらすのが倭人だったからだ」という説明をしたのは、ロマンあふれる壮大な仮説「騎馬民族征服王朝説」を提唱した故江上波夫氏である。
若い頃、江上氏は「極東における子安貝の流伝に就きて」という論文を「人類学雑誌」に発表している。
1932年のことであるが、当時はまだ沖縄諸島での子安貝の産出は確認されておらず、中国での子安貝の使われ方に重きをおいた研究であった。中国大陸では、日本の縄文後期、晩期、弥生時代、古墳時代、その後の時代にかけて、子安貝は貨幣に相当する価値をもつものとして珍重されていた。「財」や「貯」など、今日、経済活動に関する漢字には貝偏が多く、旧字体の「賣」「買」などにも貝がついている。
…日本人の起源を考える上で重要な「古事記」と「日本書紀」の神代の説話に、中国の江南、呉あたりの南方海人族と共通の「海幸・山幸」の伝説、また北方民族に共通の「国の成り立ちは天から降臨した神によるものである」という神話がふくまれていること、即ち南北の伝説が合体していることに注目すべきであるという。
このことは南から北から海を渡っていろいろな人種が列島にやってきて定着し混血したことをしめしている。
海人族すなわち漁労民と言っても、そのなかには潜水漁労民、釣り漁民、網漁民といった職業の技術的な違いが明らかに存在する。
海にもぐる刺青をした海人は隼人系であり、薩摩・大隅の南九州だけでなく、九州の沿岸に広く分布していた。土蜘蛛・女酋といわれていたのは、隼人系の特に女を中心にした潜水海女の集団であったと考えられる。
もう一つは安曇系で漂海民的、航海民的な種族としての特長が強く、苗族が漢民族に追われて海上に去り、漂海民として生活するようになったのが、ずっと北上して九州の北岸まで来て安曇になったのではないか?
このインドシナ系苗族の航海漁労民と江南から発した隼人系の潜水漁労民という二つの系統が南方から九州に入っている。
安曇の海人神社を奉ずる海人族は漁業を専従とする海人ではなくて、舟をこぐほうの海人であった。家船系統の漂海民的海人であって、やがて九州から瀬戸内海に入り、朝鮮半島と九州、瀬戸内を通して大和との通商航海に活躍する。
安曇の海人神社と対比されるのが、宗像三女神をまつる宗像神社であるが、これを信仰する海人は九州から日本海を北に越の国まで、すなわち潜水漁労民の潜れる海の範囲まで出て行く。現在でも能登半島・舳倉の海人は宗像の女神を祭っている。
アミス族…中国,台湾省の原住民諸種族のこと。そのうち漢族化したものを熟蕃(じゆくばん),そうでないものを生蕃(せいばん)と呼んだが,これは日本の台湾領有(1895‐1945)に先立つ清朝時代からの称呼であり,たとえば大陸の少数民族であるミヤオ(苗)族を,その漢族化の程度によって,熟苗と生苗とに分ける流儀である。しかし〈蕃〉には軽侮の語感を伴うので,日本時代の中ごろから生蕃という称呼を高砂族と改め,公文書などにもそれが用いられるようになった。…
台湾…高砂族…
約5200年前に一部が台湾を後にして南方に向かった。台湾に残ったグループは台湾諸語となった
オーストロネシア語族の祖形を残す台湾原住民(中国語では高山族、日本語では高砂族)諸部族の言語はアタヤル語(タイヤル語)群、ツオウ語群、パイワン語群に大別され、このうちパイワン語群に属するアミ語の話者が10万人前後と最も多く、その他の言語の話者は数千人以下である。
オーストロネシア語族(オーストロネシアごぞく)は台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族である。アウストロネシア語族とも。日本語では南島語族とも訳される。
かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていたが、台湾原住民諸語との類縁性が証明された。この台湾原住民の諸語が言語学的にもっとも古い形を保っており、考古学的な証拠と併せて、オーストロネシア語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、西暦 5 世紀にインド洋を越えてマダガスカル島に達し、さらに東の太平洋の島々に拡散したとされる。ただしパプア・ニューギニアの大部分(パプア諸語)とオーストラリアの原住民の言語(オーストラリア・アボリジニ諸語)は含まない。
1世紀頃にオーストロネシア系が扶南をたてた…
3世紀頃の南京にあった呉の官僚の報告書に同時代の東南アジアの国家が出ている。しかし、扶南という名称は出ておらず、当時の現地人がどのような名前で国を呼んでいたかは明らかではない。後述する民族についての考察からも、1世紀頃にオーストロネシア系が扶南をたてたとする説が有力である。
扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)からチャオプラヤーデルタにかけて栄えたヒンドゥー教・仏教(5世紀以降)の古代国家。
1世紀…ローマ帝国の金貨が出土…
オケオとは ポイントはローマ帝国の金貨が出土していることです。
オケオ遺跡は、カンボジアから南部ベトナムにかけて繁栄した扶南国の中心都市であるオケオの遺跡です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fglossary.sekainet.com%2Foc-eo-remains
このことから、ローマ帝国と東南アジアを結ぶ、海上交易が行われていたことがわかります。
他にも、インドの仏像やヒンドゥー教の神像、後漢時代の鏡なども出土しています。
たくさんの地域の物品が出土していることで、オケオがいかに海上交易の中心地として発展していたかがわかりますね。
オケオ(ベトナム語: Óc Eo/ 喔?、クメール語: ??????, ラテン文字転写: O'keo)は、ベトナム南部のメコンデルタ地方、アンザン省南部のトアイソン県にある考古学的な遺跡群。また今日において、オケオ市鎮(ベトナム語版)はトアイソン県を構成する行政区画である。「オ・ケオ」はクメール語で「水晶の運河」を意味する。
1世紀から7世紀にかけて、扶南国の最も賑わった港があったとされる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
オケオは、メコンデルタの低地平原を縦横に結ぶ古代の運河ネットワークの中に位置しており、オケオと海の港を繋ぐ運河の一つは、北北西に約67km離れたアンコール・ボレイまで繋がっていた。オケオは運河によって南北に分断され、更に4つの運河が東西に走り、その運河はメコンデルタ地域に現在でも見られる高床式の水上住宅に囲まれていたと思われる[1]。
オケオは、メコンデルタで紀元1世紀から6世紀に存在した歴史上の王国である扶南に属していたと考えられる。扶南については、旅行者や外交官の証言、朝貢使節の記録に基づき正史を編纂した、古代中国の多くの史家たちの記録によって知られている。
扶南は中国史にその名を残しているが、ベトナムやカンボジアの古文書には「扶南」の名は見られない。しかし漢文史料によって、中国人によって扶南と呼ばれた国が、メコンデルタにおける支配的な政体であったと判断できる。その結果、この地域で発見されるこの時代の遺物は歴史上の扶南のものと認識され、オケオとその関連遺跡での発掘品は扶南の存在を示す重要な情報源となっている。
古代クメール領域の地理の記憶を伝える名前を採用し、「扶南」の名は使わないようにすべきだというクロード・ジャック(Claude Jacques)の観点[7] も支持している。
新石器時代後期から金属器時代初期に、オケオは徐々にメコンデルタの経済と文化の中心になってゆき、また東南アジアの航路上の重要な位置を占めることによって職人や交易人の集まる場所となり、インドのような外部文化の影響が十分な都市化を促したとも、ハー・ヴァン・タンは論じている[8]。
また扶南は、インド人たちが「スヴァルナブーミ(英語版)」(黄金の野原)と呼んだ東南アジアの地域の最初の現れであった可能性がある[9]。
[10958] 海人は宗像の女神を祭っている。…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010959M.jpg
>宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。
外野席さん、古事記伝の、宇氣布 ウケフ ウケヒ、誓約の出所が日本書紀だと教えてくれた。
*一書曰、日?與素戔嗚尊、隔天安河、而相對乃立誓約曰「汝若不有奸賊之心者、汝所生子必男矣。如生男者、予以爲子而令治天原也。」… 書紀
翻訳
*一書曰、日?、与える、素戔嗚尊、距てる天安河、然るに、相対して、すなわち立てる、誓約、曰く、「汝もしなく、有り奸賊のこころ者、汝ところ、生む子必ず男だろう、如し生む男者、予め以って爲る子、然るに、令(のり)治める天原也。」… 何を考えているのか、誓約(うけい)を説明している。
本居宣長さん、日本書紀をカンニングしたんですな、単語が読めないですな。当時は資料はない・・・
荊の紀氏 さん、誓約(うけい)は、ないんです、宗像三女神は、ないんです。
赤き心…赤い星…「…アンタレスは天王で、前後の星は太子である」…
「 汝若(も)し賊(あたな)う心有らざれば汝が生める子は必ず男ならん。如(も)し男を生まば、予(われ)以ちて子と爲して天原(あまのはら)を治(しら)しめん」
www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/06_03/fr.htm
赤き心…【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三 原文】
其の素戔嗚尊の生める兒は皆已に男なり。 故、日の?、方(まさ)に素戔嗚尊の元より赤き心有るを知りて、便(すなわ)ち其の六はしらの男を取りて、以ちて日の?の子と爲し、天原(あまのはら)を治(しら)しむ。 即ち日の?の生める三はしらの女?を以ちては葦原中國(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。 今には海の北道の中に在り、號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰う。 此は筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る?、是也。
>蠍座-中国の神話。
中国では、この星座を進賢冠という冠をかぶって空に立つ巨人と見ていました。
蠍の頭部(房宿)が巨人の口と鼻となり、その上にある星が冠をつくり、アルファと左右の星(心宿三星)が背と肩で、尾宿の九つの星が、衣が風にひるがえる形としています。
蠍座のアルファは、変光星で高度1〜1.8等星、距離600光年で、ギリシャ語でアンチ・アーレスがつまったものとされています。
「火星に敵対するもの」という意味で、それはこの星が火星と同じように赤い星だからだそうで、古くから火、大火、火星と呼んだそうです。
アンタレスを挟んで前後に二つの星があり、この三つの星を中国では心宿三星としました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fpleasuremind.jp%2FASTRO%2FASTROsummer012B.html
「心宿の火星(アンタレス)は天王で、前後の星は太子である」と説明されています。
[10963] 赤き心…赤い星
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010966M.jpg
賊(あたな)う、如(も)し、治(しら)しめん 凄いな、こんな読みないぞ・・・
どこから、引用したのですか??? ヤケクソだな。
>「 汝若(も)し賊(あたな)う心有らざれば汝が生める子は必ず男ならん。如(も)し男を生まば、予(われ)以ちて子と爲して天原(あまのはら)を治(しら)しめん」
www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/06_03/fr.htm
赤き心…【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三 原文】
其の素戔嗚尊の生める兒は皆已に男なり。 故、日の?、方(まさ)に素戔嗚尊の元より赤き心有るを知りて、便(すなわ)ち其の六はしらの男を取りて、以ちて日の?の子と爲し、天原(あまのはら)を治(しら)しむ。 即ち日の?の生める三はしらの女?を以ちては葦原中國(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。 今には海の北道の中に在り、號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰う。 此は筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る?、是也。
賊(あたな)う、如(も)し、治(しら)しめん…
賊…
戎 ジュウ・えびす…ユダヤ?
意味 (1)つわもの。兵士。軍隊。 (2)いくさ。戦争。「戎器ジュウキ」(戦争に使用する刀剣・銃砲など) (3)えびす(戎)。古代中国の西方異民族。「戎夷ジュウイ」(野蛮な国の人。戎は中国西方の、夷は東方の異民族)
あたな?…世の中の秩序を武力でそこなう悪者の意。そこなう・秩序に刃向かう悪者・どろぼう、の意となる。
賊 ゾク 貝部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F51ad4b26b2b98069f14a0eec204e92aa
解字 金文は左から、「逆向きの刀+鼎(かなえ)+戈(ほこ)」の形。「刀+鼎(かなえ)」は鼎に刀で刻した銘文のことで則ソク(のり・規範)を表す。篆文は鼎⇒貝になった、「則(貝+刀)+戈(ほこ)」の会意形声。世の中の規範(則)を戈(ほこ)で打ち破ること。世の中の秩序を武力でそこなう悪者の意。そこなう・秩序に刃向かう悪者・どろぼう、の意となる。現代字は、篆文の刀⇒十に変化した賊になった。篆文から形が大きく変わったので戎と結びつけて覚えると便利。ただし、発音は則ソクが濁音になったゾクである。
覚え方 「貝(財貨)+戎(武装した兵士)」で、武装した兵士が財貨を奪って盗賊になる。
意味 (1)そこなう。傷つける。「賊害ゾクガイ」(そこなう)(2)ぞく(賊)。国家や君主にそむく。「国賊コクゾク」「賊臣ゾクシン」(3)ぬすむ。どろぼう。「山賊サンゾク」「盗賊トウゾク」
如(も)し…神意を「はかる」?
如(も)
如は、女(みこ)が神へ願いをかけ、また、その結果として神のお告げを受ける状態をいう。そこから神意を「はかる」、神意に「したがう」意となる。また、甲骨文は女の手の向きが通常と逆で、女が身をよじって口(器)に向く形で、祈祷や神託をうける時に、神がかりとなる動作を伴ったものと思われる。そんな巫女の状態をあらわす「ごとし」の意となる[字統を参考]。
如 ジョ <神のお告げをうける>
如 ジョ・ニョ・ごとし 女部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fe216a624463d8319de4417bd6a1de18d
ごとし…不確実な断定を表す。…のようだ。…らしい。→ごとき
如し(ごとし)とは。意味や解説、類語。[助動][ |ごとく|ごとし|ごとき| | ]活用語の連体形、体言、助詞「の」「が」に付く。1 比喩 (ひゆ) 的に、同等・類似の意を表す。…と同じだ。…のとおりだ。…のようだ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdictionary.goo.ne.jp%2Fword%2F
治(しら)しめなさい /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fphoton1122%2Fe%2F5fbb52723ea6be3716b227cdc2806aeb
治(しら)せ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.solyruna.com%2F
下治(しら)しめしし /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww004.upp.so-net.ne.jp%2Fdassai1%2Fgangoji%2Fgangoji_yomi1.htm
しらしめ…その音から「司(シ)」に通じ、おさめるの意 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq13132906988
祈りの言葉を「神へつげる」(詞) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F289ab71a0eec58e2b520d495662b39cf
「治」は、〔さんずい+台〕ですから、まず、水に関係のある字であることがわかります。そして、音符である台(イ)は、その音から「司(シ)」に通じ、おさめるの意味を表しているのだそうです。
治 チ・ジ・おさめる・おさまる・なおる・なおす 氵部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F40334e1d50763cb0661e877626a8b32b
解字 「氵(水)+台(ジ・シ)」 の形声。台の古音シは司シ(つかさどる)に通じ、水をおさめる意。台に始シの音がある。さらに転じて、世の中をおさめる、病気をおさめる意ともなる。
意味 (1)おさめる(治める)。おさまる(治まる)。整える。取り締まる。「治水チスイ」「治安チアン」「政治セイジ」 (2)なおす(治す)。なおる(治る)。「治療チリョウ」「治癒チユ」「全治ゼンチ」
[10967] 賊(あたな)う、如(も)し、治(しら)しめん…
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https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/51ad4b26b2b98069f14a0eec204e92aa
場違いな投稿「美し国」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010972M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=8GriExbxJZM
http://
神武東征 令和
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010973M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=VQpUKLsBsu4
落梅
>請紀落梅之篇。
「落」を村と訳す根拠は、何?
[10974] 落梅
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https://www.kanjipedia.jp/kanji/0007035000
落、さと
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010976M.jpg
落 村でもいいと思います。
貴殿の翻訳方法を以前から思考してます。
絵画の印象派の分割描法に近いかな、と。
因みに、誤訳というのは有りません。
[10975] [10974] 落梅
■村(むら) village の インド弁 空耳アワー
【タミル語】muRi(= 03 1. piece; 2. half; 3. broken half of a cocoaunt; 4. deed, written bond; 5. receipt written on a piece of ola; 6. piece of cloth; 7. rough cloth; 8. sprout, shoot; 9. tender leaf; 10. leaf; 11. part of a ★village or town; 12. room; 13. corner; 14. alloy of a superior quality, especially bell-metal) むら(村)
【タミル語】vATi(= 02 1. garden; 2. wall; 3. courtyard; 4. house; 5. fish-curing yard; 6. ★village, hamlet; 8. hut of bamboo and grass, of ka1n2i-k-ka1rar ; 9. enlosure, fenced place; 10. yard, shed where firewood is stored for sale) おち(落)、まち(町) (v-m)
【タミル語】ciRukuTi(= 1. ★village in a hilly tract; 2. small ★village; 3. poor family 1.丘陵地帯の村; 2.小さな村。 3.貧しい家族) しゅうらくダ(集落ダ)、集落地(しゅうらくち)
【サンスクリット語】sadvasatha(= m. a ★village L. (w.r. for %{saMv-}).) さと(里)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
君が代
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ パンドーラー
きみがよ
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やはり似ている。
みな印象以上には読まないと思うよ。
豊姫神社ライン
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010980_3M.png
http://snk.or.jp/cda/ohokisi/furoku/4toyohime.html
[10979] きみがよ
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https://manapedia.jp/text/3815
http://
[10980] 豊姫神社ライン
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http://snk.or.jp/cda/ohokisi/furoku/4toyohime.html
豊姫神社・与止日女神社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010983M.png
https://lunabura.exblog.jp/23326458/
[10983] 豊姫神社・与止日女神社ライン
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https://lunabura.exblog.jp/23326458/
縄文語 = インド弁(サンスクリット語+タミル語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 沖縄県の歴史
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
沖縄弁は、古代日本語
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010986M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=9cz3HLwy11s
御井郡と鏡
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010987_2M.png
http://www.snk.or.jp/cda/miimachisi/nenpyo.html
>朝妻の井
今朝行きて明日は来なむと言ひし子が 朝妻山に霞たなびく 巻十1817
子らが名に懸けの宜(よろ)しき朝妻の 片(かた)山岸(やまぎし)に霞たなびく 巻十1818
朝妻という名は古来よく見かける。古いのでは万葉集にある人麻呂の歌に見る。この朝妻山は奈良県御所市朝妻にあるようだ。ほかによく見られるのは湖北米原市に見る朝妻の地名。こちらも昔より交通の要所で由緒が古い。江戸期、英一蝶が描いた「朝妻舟図」は密かにスキャンダルになり、綱吉により三宅島へ流罪となる。
久留米の朝妻の井。
この朝妻の命名の由来は何でしょう?
何か大きな遺跡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010989M.jpg
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_07.html
http://
卑弥呼・台与の系譜伝承
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ ミカシキヤヒメ
巻十1817 は、集団お見合い
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 御井郡
巻十1818は、泣き言
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https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0f583bfc0c2764e3329c8f59be80a7ed
巻十1813は、巻向は紅葉
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https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0f583bfc0c2764e3329c8f59be80a7ed
卑弥呼・台与の系譜伝承
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010994M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ ウマシマジ#:~:text=宇摩志麻遅命(うま,『古事記』での表記。
http://
巻十1812は、芳しい山都(やまと)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010995M.jpg
https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0f583bfc0c2764e3329c8f59be80a7ed
卑弥呼・台与と岩戸神話
秦野さん、さっそくお返事ありがとうございます。
ご指摘の朝妻と朝倉の件ですが、朝というと普通は東を指しそうなものですが、朝妻の井の場合は西を示すんですよね。益影の井は逆に東にあって、影が益のは日暮れ=西を示すようにもみえますから、方位的には逆です。
ただ、測量的な意味からいくと、ノーモン棒を立てて、朝と夕は影が長い時間帯ですから、それにちなんだ名を持つ井戸と言えるでしょう。
それらはまた太陽測量は太陽信仰とも関わってきますが、先日お話したように、スサノオを仮に帯方郡からきた張政等だとして、彼らが卑弥呼を死に追いやったとすると、スサノオがアマテラスを岩穴に押し込めた話に対応してくるでしょう。
その後、闇夜が訪れたので周囲は慌てて、鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八尺鏡(やたのかがみ)を作らせた。玉祖命に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせたわけですね。
ここで、この伊斯許理度売命ですが、この鏡作りの女性は、ニニギに従ってやってきたことになってますね。
ニニギ=ニギハヤヒ=魏(帯方・楽浪)の張政等の可能性を先日から考えはじめているのですが、魏からやってきた鏡作りの女性に象徴される技術者集団となるでしょうか。つまり物部氏の祖先ですね。
ただ、ここで造っているのは鉄の鏡である点が重要で、魏の曹操の墓から出土したのと同類の鉄鏡が日田から出土していることと関係するでしょうか。
また、八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠については、台与が魏に張政等に渡し献上した白珠五千孔、?大勾珠二枚に対応するでしょう。
すなわち2枚の大きい勾玉=八尺の勾玉、五百の御統・美須麻流(みすまる)珠=五千の白珠孔の対応です。
そして後者はどうも首飾り用の穴の開いた珠のようですね。だから魏志にも「孔」と記しているわけです。
そうすると、偶然とは思えないような天岩戸神話と魏志倭人伝の記載とに接点がでてくることに気づきます。
つまり、台与が宝として重宝していたものをあえて魏に贈ったことがわかるのですが、これが岩戸神話におけるアマテラス女神の似姿=女王装飾だったことも理解できるでしょう。
なお、岩戸神話では、岩戸に籠ったアマテラスが、その鏡に映った自分のことを、周囲のものがいう「自分より尊い神」だと勘違いして、岩戸を開いたことによって、引っ張り出されることになったのですが、これが日食のことだとする説もあることはよく知られているところです。
ここでも卑弥呼をアマテラスとすると、その似姿で自分より尊い女神は台与との見方もできるでしょうか。あるいは復活した太陽女神を台与とみなすか。
いずれにせよ、この手の洞窟と太陽神・犠牲神の死と復活の神話は、オリエント経由で朝鮮へと伝わったものでしょうし、それをある時期に、おそらくは邪馬台国時代の末期に日本にもたらしたのが、天岩戸神話として物部氏や皇族等によって継承されていたような気がしますね。
その後、八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放したわけですが、これが台与が張政を魏への朝貢品を渡して追い返したとの記載に対応しそうです。
張政等が行ったであろう暴虐は、岩戸神話からいくと、天斑駒の皮を逆さに剥ぎ御殿の中に投げ入れりしたとなりますが、馬のない日本列島に、馬を持ち込んだ集団ともいえそうですね。機織りの巫女がいる宮殿に糞をまき散らす話も馬糞の話のようにも見えます。
この機織りの巫女が重要で、関連して台与の朝貢品に異文雑錦二十匹というのがありますが、その品々の詳細についてはこちらのサイトに説明があるのでご参照ください。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq13126913783
卑弥呼時代の朝貢した班布がここで言うように1匹で4.7mとして、それが20匹ですから、相当な量の反物を朝貢したことになりますね。しかもそれらには珍しい紋様がおりこめられていたわけですから、これらは卑弥呼の数十〜百人いた巫女集団によって織りなされたいたと考えるべきでしょう。そして卑弥呼の巫女集団を台与も継承していたはずです。
それが岩戸神話では機織りをする女性として描かれている点が重要です。
そして、そこに張政等が馬で乗りこんできたので、驚いてアマテラスは籠ってしまったわけですね。
そのまま籠ったまま彼女は死んでしまったのかもしれません。倭人伝の「以て死す」です。
その様子は、記紀の一書に下記のように描かれてます。
その時、磐戸の側に隠れていた天手力雄神が引き開けると、日神の光が国中に満ち溢(あふ)れた、とある。
そこで、神々は大いに喜び、素戔嗚尊に贖罪の品々を科し、手の爪を吉の物として切り棄て、足の爪を凶の物として切り棄てた。そして天兒屋命をして其の解除(はらえ)の太諄辭(ふとのりと)を掌(つかさど)りて宣(の)らしめき、とある。
後、素戔嗚尊は「神々は私を追い払い、私はまさに永久に去ることになったが、どうして我が姉上に会わずに、勝手に一人で去れるだろうか」と言い天に戻る。すると天鈿女命がこれを日神に報告する。
日神は、「我が弟が上って来るのは、また好意(よきこころ)からではないはず。きっと我が国を奪おうとしているのだ。我は女だが逃げるほどでは無い」と言って武装した、とある。そして二神で誓約が行われる運びになる。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A4%25A9%25E5%25B2%25A9%25E6%2588%25B8%23cite_note-8
この場合、スサノオは追放されてから、再度アマテラスのもとに戻ってきたことになるわけです。
つまり、張政等が武装してやってきて宮殿に乗り込んだので、卑弥呼が驚いて籠ってしまって死んだ後、騒ぎになって彼らは一度追放されたものの、その後、再度弁明しようと台与に会いに来たようにも見えるでしょう。
そこで、武装した台与と張政との間での対峙があったのかもしれませんね。
結果としてスサノオが優位に立ったわけですが、いずれにせよスサノオは居残らず、故地に戻ったわけです。
新羅の前身のワイ族のいたあたりでしょうか。秦韓や同族の楽浪遺民のいたあたりで、帯方の役人張政もその血縁ではなかったかと感じます。
スサノオはアマテラスを姉と呼ぶわけですが、張政等が卑弥呼を同族として認識していたとすると面白いですね。
関連して卑弥呼の墓と言われる祇園山古墳は楽浪の阿残(つまり秦韓の阿を称する集団の同族)墓と共通する要素があり、また伊都國の甕棺墓の影響もあるので、楽浪→秦韓→伊都方面の血筋の出身だったことも考慮すべきかもしれません。
それで、卑弥呼もしくは台与は張政等がやってくると聞いて、国をとられると危惧して武装したようにも見えるわけです。
ただ、この辺の話は、朝倉での斉明女帝亡き後の唐軍と天智との張り合いにも似ていて、モチーフ的にはその辺からもたらされている可能性も考慮すべきでしょう。
しかし、魏志倭人伝の断片的な記録のみを元にして、先のようなアマテラス神話を造り出すだけの創作力が白鳳〜奈良の官人にあったのかな?との疑問もありますけどね。
確かに神功皇后の話を新たに創作して卑弥呼・台与に重ね合わそうとした意図は理解できるのですが、そこに物部氏系の古い伝承要素が入り込んでいるような気がするんですね。楽浪・秦韓(新羅)経由である時期に神道祭祀とともに上記のアマテラス伝承が持ち込まれて、それがベースになって存在しているように考えます。
邪馬台国時代の古い元テキストと、新たに追加された創作要素ですね、これをもう少し分離させれれば、卑弥呼と台与の実像が浮かび上がってくるような気がするんですが、またご意見あればどうぞよろしくわかちあいください。
古田武彦、安本美典ともに、アホです。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 古田武彦
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箸墓古墳
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 箸墓古墳
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台与の伝承
秦野さん、お返事ありがとうございます。畿内説で卑弥呼もしくは台与の墓ではないかとみなされている箸墓古墳の件は気になるところですね。
昨晩お話したように、台与をニギハヤヒの妻・トミヤヒメとした場合、ニギハヤヒは畿内へと東征していますから、台与も畿内へと移住した可能性を考えるべきかもしれません。
それで、ニギハヤヒとトミヤヒメの別名として櫛玉の称号がみられることがありましたね。
これを、昨晩は櫛玉=豊玉姫=台与との関連を予想したのですが、また同じく天岩戸神話において、アマテラスの似姿を演出した玉祖命が豊玉と記されていることに注目すべきでしょう。
ニギハヤヒを示す櫛玉命は、また『伊勢国風土記』逸文では出雲建子命(いずもたけこのみこと)、またの名を伊勢津彦神、櫛玉命(くしたまのみこと)、『播磨国風土記』では伊勢都比古命、『住吉大社神代記』では伊瀬川比古乃命と表記されています。
櫛玉は出雲の武神であり、かつ伊勢へと東征したような側面をもっているように見えるんですね。これがニギハヤヒの東遷と関係するでしょうか。
昨晩予想したスサノオ=ニギハヤヒ=ニニギと考えるならば、スサノオは出雲の武神ですから、ヤマタノオロチ退治とともに共通性をもっています。
ここで思い出すのがスサノオが保護した櫛名田比売(くしなだひめ)の存在です。
在地系の豪族から娶った妻である点で、昨晩も指摘したニギハヤヒの妻で在地系のナガスネヒコの女・トミヤヒメの存在、またニニギの妻となった在地系のコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの存在と同様です。
それでその櫛名田比売(くしなだひめ)の別名を見ていくと、『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫(くしいなだひめ)、稲田媛(いなだひめ)、眞髪觸奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)、『出雲国風土記』では久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)と表記されることがあり、最後の久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)の中に、「等与(トヨ)」が見えてくる点に注目すべきでしょう。
そもそも稲田姫は、童女として描かれており、これも台与の童女としての側面と共通しますが、また稲田姫の子孫から大国主との日本の支配者が出てくる点も、先日の台与=イカガシコ(孝元・開化天皇妃)が後の皇族を生んだ母祖、もしくはトミヤヒメ=物部氏の祖を生んだ女性とで、始祖を生んだ女性との点でも共通性をもってきます。
その女性の旦那はどれも武人として描かれているわけですね。彼らはみな遠征します。
それで、先の豊玉=玉祖命を祀る神社として、玉祖神社(山口県防府市)、石作玉作神社(滋賀県伊香郡)などがあり、後者には伊香(いか)がつき、これが先の台与とみなした伊香(イカガ)シコと関係しそうです。
その伊香郡については、近世までは「いかごぐん」とも呼ばれ、郡名の由来として、『近江国風土記』逸文に「伊香小江(イカゴエ)」の記述があり、余呉(ヨゴ)湖を指すと見られる。この項は羽衣伝説の内容で、羽衣を盗んだ人物の名もまた「伊香刀美(イカトミ)」となっています。
つまり、その「イカゴ」が先の「イカガ」を継承した地名であることも考えうるでしょう。またその「伊香刀美」の「トミ」が台与との関わりを予想したニギハヤヒの妻トミヤヒメのトミと関わるのではないでしょうか。
そして、羽衣女神の話はそれに付随してくるのですが、ここで天に帰れなくなった天女もしくは童女の話がでてくるのでして、その童女は台与を想起させます。
具体的には下記のようになります。
日本の羽衣伝説では、ここから近江型と丹後型でわかれる。
近江型(昇天型)
天に帰れなくなった天女は男と結婚し子供を残す(幸をもたらす)。
天女は羽衣を見つけて天上へ戻る
後日談
丹後型(難題型)
天に帰れなくなった天女は、老夫婦の子として引き取られる
天女は酒造りにたけ、老夫婦は裕福となる
老夫婦は自分の子ではないと言って追い出す
天女はさまよった末ある地に留まる(トヨウケビメ)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%25BE%25BD%25E8%25A1%25A3%25E4%25BC%259D%25E8%25AA%25AC
ここで天に帰れなくなった女性として豊受姫が出てくる点が重要で、この豊が台与と関係するとの見方があることは先日紹介したとおりですが、また童女でもあり、伊勢と関係する点で、先の出雲・伊勢に関係する櫛玉命=伊勢都比古命ともかかわってくるでしょう。
この豊受は先日お話したように、オオゲツヒメともいわれて、やはりスサノオ神話に関係するわけですね。
そのスサノオについては、櫛にした稲田姫を自分の髪に差し込んでヤマタノオロチと戦うわけですが、スサノオを昨晩考えたように魏・帯方の張政等とすると、その妻として娶った童女が台与で、台与を滅ぼそうと毎年挑んでくるのが、狗奴国王の卑弥弓呼だったと考えるとどうなるでしょうか。
このようにみていくと、ニニギ・ニギハヤヒに象徴される中国・朝鮮系の系譜を引く集団がある時期に九州にあった邪馬台国へと渡来し、その後、台与の時代になり、彼らは台与と婚姻を結ぶ条件の代わりに、周辺諸国の武力征伐を行って南・東へと勢力を拡大していったようにも見受けられます。
その子孫が、物部氏や皇孫として畿内に現れていったのではないでしょうか。
だから箸墓の年代としては台与の時代以降になるはずで、250年以降と考えるとつじつまが合いそうです。
その出雲から近江経由で畿内へと進出していくわけですね。
そして台与に関しては昨晩もお話したように、玉作りが特に重要視していたようで、その玉作りの拠点が近江に弥生時代半ばあたりから見えることも、そこに関わってくるかもしれません。
特に先の伊香郡のあった琵琶湖東北部の長浜市の一部(高月町各町・木之本町各町・余呉町各町)のあたりには、古墳時代まで続く高月南・鴨田遺跡あたりがあるので、その辺の遺跡と台与関連のそれとが関係するようなものが発掘されてくれば面白いですね。
遺跡詳細はこちらをご参照ください。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshiga-bunkazai.jp%2Fdownload%2Fkiyou%2F09_nakamurat.pdf
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.nagahama.lg.jp%2Fsection%2Frekihaku%2Fnews%2Finfo277%2Findex%2520s.html
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshiga-bunkazai.jp%2Fdownload%2Fkiyou%2F09_hosokawa2.pdf
[10999] 台与の伝承
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https://gejirin.com/src/Ku/kusitamanomikotojinja.html
> 卑弥呼・台与
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外野からは遠く見るだけ。
レオナルドの「聖アンナ三体」はヨセフを飛ばした「聖家族」をモチーフとした。
多様な解釈がなされている。
卑弥呼・台与についてもその構造とコンセプトは明晰な分析は可能でしょう。
外野は無能ですけども^^
[11001] > 卑弥呼・台与
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ ヨハネの黙示録
>ヨハネ
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:Leonardo da Vinci - Virgin and Child with Ss Anne and John the Baptist
1499年頃と1500年頃の間
ヨハネはヨハネでもバプテスマのヨハネ。後、ヘロディアスの娘に望まれて首を切られます。
娘が望んだのではなく王妃ヘロディアスが望んだのです。
集歌八一
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https://dictionary.goo.ne.jp/word/ 性_(さが)/
集歌1826 俺、養子になった!!
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https://www.543life.com/seasons24/post20200210.html
四面楚歌
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https://www.youtube.com/watch?v=5dRUXbe1jwM
卑弥呼の男弟
また皆さんわかちあいありがとうございます。
先日の続きですが、神功皇后伝承とアマテラス神話に関しては、以前も会報でも指摘したとおり、キリスト教の影響があるように感じてますから、その後代の装飾部分を抽出して除外した後に、邪馬台国時代の卑弥呼と台与に関する情報を明らかにしていく必要がありそうですね。
それで、卑弥呼の男弟の存在と、卑弥呼死後に立った短期間の即位で終わったであろう男王について考えはじめてます。
卑弥呼を仮に以前から指摘してきた孝元・開化天皇妃の老年まで影響力を及ぼした欝色謎(ウツシコメ)だったとすると、同母兄に欝色雄命(穂積氏祖)がおり、また彼女は大綜麻杵命(伊香色雄命・伊香色謎命の父)の同母姉(妹)とされます。
卑弥呼に仕えていたのは弟ですから、大綜麻杵命がその弟になるはずです。
この大綜麻杵命は、台与のことと考える伊香色謎(イカガシコ)の父となるので、卑弥呼と台与は、叔母と姪の関係となり、倭人伝では卑弥呼の宗女=親戚の娘と記されたいるわけですね。このイカガシコから、崇神天皇が産まれてくるので、皇室の祖先としてのイカガシコの存在がクローズアップされていった過程は先日論じたとおりです。
ここで、重要人物となるのが大綜麻杵命という老年の男性と言えるでしょう。物部氏の祖先にあたるわけですが、外戚として権力を握っていたことが予想されます。
なお、イカガシコは、孝元天皇と開化天皇の后となっており、これは王朝交替の際に、その后をそのまま継承した男性=開化天皇であったことを予想させます。ウツシコは開化の際には皇太后となっているようですが、后の可能性もありそうです。
系譜上では孝元と開化は親子なのではありますが、孝元妃のウツシコの子の開化が、同じく孝元妃であったイカガシコを妻にした形となっており、特異な継承をしているわけです。
似たような近親婚としては、崇神天皇の息子の八坂入彦命の娘の八坂入媛命を、崇神の息子の垂仁の息子の景行天皇が娶っているようなケースはありますが、親の后をそのまま息子が継承するのは、あまりないのではないでしょうか・・・。
レビィラト婚だとすると、兄の妻を、兄が亡くなったのちに弟が継承するケースがありますね。遊牧民に多い風習ですが、孝元と開化が親子ではなく、遊牧民系の集団の風習を持つ兄弟だったとすると、その可能性が出てくるでしょう。
そうでない場合は、王朝交替の可能性が出てくるわけです。
それで話は戻って、ウツシコ(卑弥呼か?)の弟で、イカガシコ(台与か?)の父の大綜麻杵命ですが、「おおへそき」と読ませており、その父は大矢口命で、また息子の伊香色雄(イカガシコオ)からは、後代の物部氏系の氏族が多数出てくることになります。こちら参照。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Frekichi.net%2Fs%2F06254010
その息子にみえる十市根命(とおちね)あたりは、魏に派遣された都市(といち)牛利(ギュウリ)の可能性もありますね。
つまり、卑弥呼は男弟の息子を魏に遣使したことになるわけです。
この都市(といち)牛利は次使であり、大夫(長)として派遣されたのが難升米でした。
それで卑弥呼の弟が、卑弥呼死後に即位したとすると、相当な高齢での即位となり、可能性は低いのではないでしょうか。むしろその男弟の息子の伊香色雄あたりが即位するのがちょうどよい年齢だったはずです。
このイカガシコオについては、崇神7年に大物主神をまつる「神班物者」(かみのものあかつひと)に任じられたとあり、ここにみえる「物」が物部氏の由来となったと考えられていますね。
さらに、崇神天皇の時、疫病が流行したことがあり、人民が多くなくなった際に、天皇の夢枕に大物主大神が現れ「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた。天皇はその人物を捜し出すのですが、下記のようにあります。
即(すなは)ち意富多々泥古命(おほたたねこのみこと)を以ちて神主(かむぬし)と為(し)て、御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前を拝(いつ)き祭りたまひき。又伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰(おほ)せて、天(あめ)の八十(やそ)びらか(=平らな土器。平たい皿様の器)を作り、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め奉(まつ)りたまひき。(後略)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E4%25BC%258A%25E9%25A6%2599%25E8%2589%25B2%25E9%259B%2584
イカガシコオの役割は、神具を造ることにあるのですが、おそらくは、中国の宮廷工房・尚方のように、王宮で用いる器具も造っていたのでしょう。だから鏡作りとか剣の管理の話も物部氏に継承されるわけです。
ここで、イカガシコオはその妹であるイカガシコメが産んだ崇神天皇の時代に、それなりに重職を担っていたように見えますし、その関連伝承を後代の物部氏が受け継いでいる点で重要です。
イカガシコオが卑弥呼の後に即位したならば、混乱が起こってなかったかもしれませんから、すると別人がやはり即位したことになりそうです。
そして、アマテラスの岩戸籠後の暗闇として、その男王時代の混乱を表現していたとするとどうなるか。
ともあれ、その卑弥呼の次の男王は後日また考えるとして、卑弥呼の弟を大綜麻杵命とすると、そのヘソの意味をどう捉えるかが課題ですね。
ヘソは、母と子をつなぐもの、外界との橋渡しの意味とするならば、卑弥呼の宮殿でただ一人出入りできた男性とか、あるいは卑弥呼の代わりに外交を司っていた仲介者の意味ともとれなくもないでしょう。
この大綜麻杵命については、その妻の高屋阿波良姫とともに、四国阿波との関係が下記サイトで次のように指摘されてますね。
徳島県吉野川市(旧麻植郡)鴨島町麻植塚字堂の本鎮座の五所神社の祭神は、物部の五世孫の欝色謎命と同世代の物部の大麻綜杵命(おおへつきのみこと)。大麻綜杵命を祀る神社は全国でここ一社。麻の字のない大綜杵命は尾張国葉栗郡の高田波蘇伎神社にも祀られている。名前から麻を除き、忌部との関連を消したとの説もある。その妃が高屋阿波良姫。「高屋」からは讃岐(香川県坂出市高屋町)が思い浮かぶ。高家神社が鎮座。観音寺市高屋町には式内高屋神社が鎮座、強く四国が意識される。「阿波良」姫の名からはまさに阿波が想像される。
大麻綜杵命と高屋阿波良姫の間の子が伊香色謎命・伊香色雄命で、伊香色謎命は崇神天皇の生みの親となる。不思議なことに高屋阿波良姫と伊香色謎命を祀る神社が丹波国船井郡の住頭神社(すみどじんじゃ)である。
『阿波風土記』の逸文は手持ちの書物に採録されていないが、『麻植郡郷土史』に下記のような引用があると言う。「大麻綜杵命の母は伊香色謎命なり按するに大麻綜杵命は阿波忌部族なるべし〜」。これは、「崇神天皇の母は伊香色謎命なり。伊香色謎命は大麻綜杵命と高屋阿波良姫の女であるから、両親に「麻」、「阿波」の文字がある所から、伊香色謎命は阿波忌部の血を受けている。」との理解でいい。阿波国麻殖郡に式内社の伊加加志神社が鎮座している。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkamnavi.jp%2Fjm%2Fketusi8dai.htm
なんだかいまいちよくまとまらないので、また後刻整理して考えてみましょう。
台与の東遷
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 神大市比売
集歌?
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https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/c/be376fe73e4d519ce5fc2a5e02bc14f4
背水陣
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https://www.youtube.com/watch?v=-ssLFbC3-RM
卑弥呼・台与の子孫
秦野さん、万葉集のほうを探っておられるのですね・・・。
また、こちらも先日の続きで、卑弥呼と台与の系譜について考えてます。
仮に先日考えたように、ニギハヤヒとニニギ、スサノオ、開化天皇が同一人物だとすると、その妻・トミヤヒメ、コノハナサクヤヒメ(豊阿多津媛)、クシナダ姫、イカガシコメも同一人物で、つまり台与のことだと思うわけです。
そうすると、そのニギハヤヒ夫婦の子である天香語山命、宇摩志麻遅命、熟穂屋姫命と、ニニギの子の火闌降命、彦火火出見尊、天火明命、そしてスサノオ夫婦の子の五男三女神、八島士奴美神、大年神、宇迦之御魂神、須勢理毘売命等、さらに開化天皇の子の御間城入彦五十瓊殖尊(崇神天皇)、御真津比売命、彦湯産隅命、彦坐王、建豊波豆羅和気王との間にも相関性が見えてきておかしくないでしょう。
そこで、まず注目したいのは、ニギハヤヒの息子のウマシマジで、これは以前考えたように、味間見命ともしるされているように、ミマミ=三間=水沼君(物部系)のことであり、また上記の開化天皇の子・崇神天皇(ミマキイリヒコ)であることを予想した次第です。どれもミマが付くんですね。
それで、そのニギハヤヒの子に天香語山命(ウマシマジの異母兄)がおり、尾張氏の祖先なのですが、「手栗彦命(たくりひこ)」、「高倉下命」ともなります。北陸への征伐伝承もありますが、これが開化天皇の子で崇神の異母兄の彦坐王になるかもしれません。
この彦坐王からは丹波道主王など丹波・北陸・奈良春日にかかわる氏族が子孫に見えてくることがあり、また書紀では和珥臣(和珥氏)遠祖で老女を意味する姥津媛を母としていますが、古事記では丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命(おけつひめのみこと)としている点が興味深いところです。
ここで、その母・姥津媛(老女)を、同じく老年のウツシコメとし、さらに老女・卑弥呼とみなしうるならば、そのウツシコメの息子に北陸征伐をしたオオヒコが見えてくる点で、上記の彦坐王や、天香語山命=高倉下の東征伝承と関係してくるかもしれません。
また、その母である姥津媛を意祁都比売命(おけつひめのみこと)、つまり、スサノオ神話におけるオオゲツヒメとしている点が重要で、オオゲツヒメ(大宜都比売)は先日もお話したように、スサノオに切り殺されてその代わりにそのバラバラになった体から食物が育った伝承、つまり豊受やウケモチ神のそれとにかかわってくることがあります。
これは先日、外来の侵入者がやってきて卑弥呼を殺して、台与を擁立し妻とするまでの過程を表した伝承と考えたことがありましたが、その老女を殺しその替わりに若い姪っ子が王となること、つまり、オオゲツヒメの体の一部(親族)から新たな子孫が生れ出ていくことを示しているのではないでしょうか。
だから書紀では姥津媛とし、古事記では意祁都比売命としているわけですね。双方、和珥氏の伝承を別々の資料から引用しているのでしょう。
その老女=卑弥呼の子としてのオオヒコ、彦坐王や天香語山命=高倉下が見えてくるわけですが、彼らは若女の台与の子孫の系統ではなく、同族の別系統としての位置づけになっており、これが和珥氏や丹波道主王、つまり丹波王朝の祖となる垂仁天皇やヒバス姫などの奈良北部の佐紀盾列古墳群の主たちと関係していくわけです。
ここで崇神天皇の系統と、その子とされる次代の垂仁天皇の系統とが上記のように同族でありながら別系統であることが理解できてくるのですが、この2系統の祖として、崇神と彦坐王、ウマシマジ(味間)と天香語山、さらに言えばニニギの子の天火明命、彦火火出見尊の兄弟として表現されていったのかもしれません。
つまり、天火明は物部氏の直系の祖とされているとおりで、ウマシマジ=崇神に掛かってくるわけですが、それに対立する系統として、彦火火出見尊=彦坐王=天香語山があり、ここで彦(日子)が共通要素としてみえてくるわけです。
その彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、山幸彦のことであり、海神の宮でトヨタマヒメ(豊玉=台与?)を娶って、またその妹のタマヨリヒメから後の神武につながる子孫を儲けるのですが、この神武系の王統というのが、以前から論じてきたように南方海人族と関わり、また大彦とその子・弟の武ヌテガワのことであり、それ以前に畿内にいた物部系の王朝を制圧・併合したと考えるわけです。
その時期は4世紀中葉?となるわけで、南方海人系の遺物を出す佐紀盾列古墳群が奈良北部に見えてくる時期で、それ以前の奈良南部の柳本・纏向といった古墳群の主たちとは同族でありながら別系統であろうと考えてきたところでしたね。つまり、物部系の集団がそれ以前に畿内にいて、これが上記のウマシマジ(三間君)=崇神王朝だったのでしょう。
先の天香語山命というのは熊野から入ってきますが、上記のように山幸彦のことだとすると、対立する物部・崇神系の王統に対して、潮満玉など海岸方面から有利に畿内へと侵攻していったのかもしれません。そのバックには海神に象徴される航海民族がいたのでしょう。
その彼らの親の時代には、ニギハヤヒ・トミヤヒメ夫婦、開化天皇・イカガシコメ夫婦=台与の時代がおり、おそらくは九州・瀬戸内方面から、大和へと東遷したのではないかと考えます。
そして、その親の代にあたる天忍穗耳尊(あめのおしほみみ)、孝元天皇(ヤマトクニクル)・ウツシコメ=卑弥呼の時代には、まだ九州に本拠があったので、天忍穗耳は九州メインで祀られているのでしょう。
その時代はスサノオ・アマテラスの時代でもあり、ある時期に天岩戸が起こって、追放劇・・・が生じていくわけですね。
もう少し、この辺の系図を整理したいと思いますが、また何かお気づきのことがあれば、お気軽にわかちあいください。
台与は卑弥呼の娘だった
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https://www.youtube.com/watch?v=Oy_vE2czFH4
古事記上卷 ?序
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https://dictionary.goo.ne.jp/word/ 魚心あれば水心/
卑弥呼以前の男王系譜
こんばんは。ちょっとバタバタしていて更新遅れてます・・・。
秦野さんご指摘の卑弥呼と台与の血縁関係、気になるところですね。
娘と記さずに宗女と記したことが重要かもしれません。親族の娘となりそうですから、卑弥呼の男弟の娘といった具合で姪っ子だと思うんですけどね・・・。
ウツシコメの姪がイカガシコで、この2人が孝元・開化天皇妃となっているここが重要です。ウツシコメの娘ではなく、姪になっている・・・、ここがただの創作の系譜ではなく、実在の二人の女性をモデルとした伝承であることが明らかになってくるわけです。
よく創作だといわれるその欠史天皇についても、なぜか複雑な親族系譜がそこにみられる点に留意すべきでしょう。何かモデルがあるんですね、実在した王たちの・・・。
そのウツシコメ=卑弥呼か?の旦那・孝元天皇から考えていくと、稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)、大彦命、少彦男心命が息子としてみえてきますが、先日お話したように、この開化天皇は息子ではなく別系統の親族と考えて、大彦がこの孝元天皇の嫡男というべき存在で、それとともにみえる少彦男心というのは、大きいと少ないの対比関係にあり、これが大国主(大穴牟遅)と少彦名とかんがえれば理解しやすいでしょう。
つまり、この二人が国造り(征討)を行ったわけです。この件は記紀にもしるされているとおりですね。
この大彦、少彦の話自体は、以前も会報でも論じたように、中国の後漢の外戚トウ氏の伝承に由来するところがあり、つまり迫害を逃れて王宮に仕えてきた少君(トウ皇后の弟)の話に現れてくるわけです。
一部は高句麗の子孫伝承にも関係してくるのですが、もともとは中国後漢時代に遊牧民・月氏の関係で宮廷に入ってきた伝承と関係しているはずで、その中国・高句麗系の系譜・伝承を保持した集団のそれが、どういうわけか、ウツシコメ・イカガシコメを輩出した外戚・物部氏に伝わっていたことがあるのですね。
開化・崇神王朝の時代まで、その魏の影響が続いていたはずで、それが奈良の柳本・纏向古墳群の造営や、その位置・方位区画にも色濃く反映していることも、以前指摘したとおりです。
つまり漢魏楽浪城を模した区画が、柳本・纏向といった奈良南部の特定領域に構築されていったのも、この集団の影響と考えると理解しやすいでしょう。ここに物部氏と台与が絡んでくるのですが、その後、時代が変わって、ウツシコの系統にあたるオオヒコ(神武)に象徴される存在が畿内の物部氏のいたところへ九州日向方面から東征してやってくることになります。
4世紀中葉あたりだと思いますが、奈良北部に佐紀盾列古墳群というのを造りはじめるわけですね。この集団は丹波・河内王朝へとつながっており、一部は石枕などを関東方面までもたらしていくことになります。
先の魏の影響を受けた物部氏に関わる集団とは、別系統と考えるべきですが、遠い血縁関係があったようにも見受けられるわけですね。天羽々矢の話として象徴的にあらわされています。
ともあれ、この集団以前の系統に連なるオオヒコの系統ですが、これが後漢・楽浪郡の影響を受けた集団であり、さらにさかのぼれば月氏やワイ族の東遷・南下と関係しそうですが、系譜的にいくと孝元天皇、あるいはそれ以前の孝霊・孝安天皇あたりに、その痕跡を見いだせないかと感じます。
孝霊天皇というのは、黒田庵戸宮に都をおいていますが、吉備の鬼退治・桃伝承ともかかわっていますが、ねむくなってきたので、その件については、また後日考えてみましょう。
卑弥呼は?沼河耳命の末裔
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http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html
http://
古事記上卷 并序1
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011016_2M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=w76xHECMbEo
翻訳
>懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬?蕃息與
この部分だけ訳していただけると幸甚でございます。
[11017] 翻訳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011018M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011018_2M.jpg
>懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬?蕃息與
懸鏡(かける、かがみ)吐珠(つく、たま)而(しかるに)百王相續(なり、おう、さが、つぐ)、喫劒切蛇(こうむる、つるぎ、きる、くちなわ)、以(もち、)萬?(よろず、あまつかみ)。
蕃息與(えびす、むすめ、あずかる、)この文章は別文章です。
古事記上卷并序2 でアップします、少しリークさせましょう。
文章は君が代、です。皇(神武天皇)が中国に行き、萬が残り、おさめる。
石(美し国)・・・。萬が残り、おさめる。この部分です。
君が代
皇祚連(きみ、しあわせ、つれ)、綿兮久長(つらなる、なる、ひこ、かしら)
萬世不(よろず、ゆき、ない)、變兮悠長(かえる、なる、とおい、かしら)
小石凝(わずか、いし、こごる)、結成巖兮(ゆう、なす、いわお、なる)
更巖生(かえる、いわお、なす)、?苔之祥(あお、こけら、これ、きざし)
古事記并序は、内情が書かれるので、秦野もおいおい、それは無いでしょうが、飛び出し
ビックリです、太安万侶のボヤキも、飛び出す・・・ぞ、
?
http://
欠史天皇と卑弥呼1
またまた多忙につき更新遅れてます。秦野さん、お返事ありがとうございます。
欠史天皇の件ですが、ともあれ、ひとつひとつ再考していく必要がありそうですね。
まずは孝霊天皇について考えてみましょう。
日本足彦国押人天皇(孝安天皇)の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見えます。
その母に忍がつくのは、先日の分析からいくと、ニギハヤヒ等の父の代の九州にいたであろう忍穂耳などのオシと関係しそうですね。
また兄弟にみえる吉備+進の意味も、九州から吉備へと侵攻していった集団を思わせるところです。
父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移しますが、ここが以前も指摘したように、漢魏楽浪城を模した奈良の四方区画の宮殿域になることからみて、この天皇の代に、そのそばの鏡作神社のそれとあわせて、後漢と関わる物部氏系の集団がこの地に移住したのかもしれません。
その孝霊の霊は後漢末の霊帝の時代を暗喩していることも以前指摘したところですが、淡海三船が別にこの天皇の年代を推算していたことによるものでしょう。
大日本根子彦太瓊天皇(紀)
大倭根子日子賦斗邇命(記)
との名については、この太瓊は大きい勾玉の意味でしょうから、これは卑弥呼、特に台与が魏に贈ったの大きい珠に対応するもので、当時の天皇の愛用物、後代の三種神器のそれに関わる名だと言えますね。
ちなみに次代の大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)は、魏の曹 奐(そう かん)・元帝(260〜65)になぞらえて元をつけた名であり、年代としては台与の時代になるでしょう。この孝元天皇は、
大日本根子彦国牽天皇(紀)
大倭根子日子国玖琉命(記)
で、クニヒク、クニクルで、外来の新参物を意味しているわけですが、クニビキ神話とも関わるであろうことも以前指摘したとおりです。
あと、孝霊の子女ですが、下記のとおりです。
大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)
千千速比売命
倭迹迹日百襲姫命
日子刺肩別命
彦五十狭芹彦命
倭迹迹稚屋姫命
彦狭島命
稚武彦命
これは3つくらいのグループに分けれるでしょう。
つまり、千千速比売命、倭迹迹日百襲姫命、倭迹迹稚屋姫命は、チチ、トトのつく姫の意味で、同じ人物ではないかと感じますね。
同じく、日子刺肩別命、彦五十狭芹彦命、彦狭島命も、ヒコ、サシのつく同一人物。
別も彦も当時の男性名ですね。倭人伝時代のヒコです。
そして、稚武彦命ですが、これは彦五十狭芹彦命と同様に吉備に関わります。
また孝霊の皇后:細媛命(くわしひめのみこと/ほそひめのみこと、細比売命)ですが、このクワシが先日分析したクシタマ・クシナダのつく女帝、つまり台与のことであり、またニギハヤヒの妻となった在地系のトミヤヒメ、トビでしょう。
『日本書紀』本文・『古事記』では、磯城県主(または十市県主)大目の娘。
ただし、書紀第1の一書では春日千乳早山香媛、第2の一書では十市県主祖の真舌媛となり、纏向から桜井方面のシキ、トイチあたりの首長の娘となりそうですが、このチチのつく姫は、トト、トトビとも共通し、トイチとも関係するでしょうか。
倭迹迹日百襲姫命については、トトビですが、次世代の崇神の時代にみえてきますが、元はトイチにあるのでしょう。
つまりトイチ、トチ、トイ、に語源があり、その中国人の解釈からいくと、トヨ、トイとなったのではないでしょうか。
倭人伝にみえる都市牛利の(ツイチ)も同じで、ともあれ、トイチ姫とでもいうべき巫女、おそらくは台与のことを、これらの女性名は示しているわけです。
崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたといいますが、大物主は、物部氏の祖のことで、このモモソヒメの守護者、おそらくは外戚と考えるべきでしょう。
同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったとの伝承も、上と同じ伝承ですね。
大水口というのは、物部氏の祖のミマミのことで、三間とか崇神・ミマキイリヒコのことと考えますが、和珥坂とか物部氏の領地で継承された伝承を元にこれを記載したわけです。
大田田根子命と市磯長尾市も、オオタタのタタは先のチチと関係しそうですし、イチイソナガオイチも、つまり、さきのイチ、磯城県主のシキですね、それらにかかわってくる纏向、桜井方面の首長を示すものでしょう。
倭迹速神浅茅原目妙姫のアサチハラは、伊勢麻績君のアサツミと同じことで、同一の巫女とみてよいでしょう。それに物部氏系の大水口を加えて3人になっているわけです。大和の巫女伝承と、物部の巫女伝承、伊勢の巫女伝承の3つでそれぞれ異なって記載されたので3人になっているわけです。みな同じ夢を見たとの話になります。
アサチ、アサシで、先の孝霊の息子にみえるサシの語音とも関わりそうですね。
同じく、崇神天皇10年9月27日条では、四道将軍の1人の大彦命が和珥坂(現・奈良県天理市和爾町)で不思議な歌を詠う少女に出会う。 少女は詠う 「ミマキイリビコはや おのが命を殺せんと ぬすまく知らぬに 姫遊びすも」。 大彦命は気になって尋ねる「なんじが言は何辭ぞ」。 少女は答える「物言はず、ただ歌うのみ」。 少女はもう一度同じ歌を詠うと姿を消したとありますね。
これも、物部系の崇神とは別系統にあたるオオヒコ、つまり神武ですね、これも、似たような構造を持っていることがわかります。巫女の託宣なのですが、少女の託宣に変化している。物部系の崇神王朝が、滅ぼされたことを意味していそうですが、この反乱の主の武埴安彦とその妻の吾田媛というのが、日向にちかい阿多にかかわる集団の東征と関係し、つまり神武東征伝承となるのでしょう。
ともあれ、崇神朝時代には、何等かの災害があり、疫病や飢饉などがあったのでしょう。
その時代に、物部氏の祖がそれらの手助けをした、それが巫女の占い伝承として継承されていったのかもしれません。
そして、その後に物部系の崇神王朝は、神武・オオヒコ系の王朝に取って代わられたわけですが、畿内へと東征してきた日向系集団として描かれていくわけですね。
その災害の詳細について考えるべきですが、下記のとおりです。
即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25B4%2587%25E7%25A5%259E%25E5%25A4%25A9%25E7%259A%2587
ここで、まず天照大神、卑弥呼でしょうか、これが宮の外へと出されるわけですね。
なぜ、そんなことをするのか?解釈できないように感じるでしょうけど、先日も指摘したように、卑弥呼が外来系の集団に何らかの理由で殺されたと考えれば、そのアマテラスを外に出したの意味も解けてくるように感じます。岩戸隠れなわけです。
そして、天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせるとの記載は、卑弥呼=アマテラスが、豊鋤=台与へと王位を継承させたことを示していることもわかるでしょう。
つまり、この人口の大半を失わせる災害が、卑弥呼から台与へと交替させるきっかけとなったことも予想しうるわけですが、それを疫病と崇神紀では記しているのですね。
祭祀場を大和の三輪方面へと移動させているのですが、これも首都の移住を示しているかもしれず、ニギハヤヒ・崇神の東征とも関係してくるでしょう。
この崇神5年の大災害ですね、これが以前紹介した2000年前の巨大プレート地震・大津波・それにともなう塩害・飢饉によるものなのか、あるいは天然痘などの流行だったのか、それを特定する必要がありそうですが、年代としては、こうみていくと、卑弥呼の晩年〜台与の年代の時期にあたるはずで、その年代の海外の災害資料再度調べていくべきかもしれません。
崇神の崩年干支を318年または258年とする見方がありますが、先のとおり、崇神10年のオオヒコのときに崇神朝が滅んだとすると、258年とすれば248年即位となりそうですね。
つまり卑弥呼が死んだ248年に崇神が即位し、その5年後の253年に疫病を伴うような大災害があり、農民も離反・流浪、その後2年後に首都や祭祀場の移転があり、大和東南部や伊勢方面へと東遷していったと考えるとどうでしょう。
255年ごろに、巫女の託宣というべきことがあり、台与が即位して国内が治まったことになるでしょうか。
その後10年して台与は晋成立に際してあいさつのための使いを送るわけですね。
だから、253年に諸外国で疫病なり、大地震・大津波なりの記録がみえてくればいいわけです。中国史料だと下記のようにありますね。
吴建?二年(253)十一月,在春申(今地不?,或即今上海西部)五次出?大?,吴遂改年?五?元年。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fitem%2F253%25E5%25B9%25B4
大きな鳥が5つ見えたとのことですが、もしかすると隕石や彗星の落下・接近と関係しないでしょうか。
隕石落下と疫病の関係は以前指摘したとおりで、その際の放射線の増大が、天然痘などの有害ウイルスの変異を起こし、疫病流行へと至るプロセスを考えたことがありましたね。
この崇神朝の疫病流行も同様に、その時期の隕石落下・彗星接近の影響と考えれば何か見えてくるものがあるかもしれません。
[11019] 欠史天皇と卑弥呼1
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日本書記、まるで頓知(とんち)
大倭根子日子(ヒコ)は彦(ヒコ)、賦斗(フト)は太(フトる)
大倭根子日子(ヒコ)は彦(ヒコ)、国玖(ヒさ)琉(ル)は国牽(ヒっぱル)
日本書記の首(おびと)なかなか、やるな・・・まともに読めないな・・・
大日本根子彦(ヒコ)太(フトる)瓊(ニ)天皇(紀)
大倭根子日(ヒ)子(コ)賦(フ)斗(ト)邇(ニ)命(記)
大日本根子彦(ヒコ)国牽(ヒっぱル)天皇(紀)
大倭根子日(ヒ)子(コ)国玖(ヒさ)琉(ル)命(記)
古事記712年、日本書記720年の差、八年は頓知(とんち)、 創作に費やした模様
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「キツネ目の男」こと「角南雅道(すなみまさみち)」
https://kituneme.web.fc2.com/
http://sunami.x.fc2.com/
集歌六四二
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011022M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011022_2M.jpg
https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0f7924bd03bb65bd8753ea317a6f675f
古事記上卷 并序2
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011023_2M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=4YbPc_Ef3Ms
崇神朝の年代と疫病記載
またバタバタしているうちに1週間経ってしまいました・・(汗)
秦野さん、お返事ありがとうございます。欠史天皇の名に隠された意味、気になるところですね。
そして、前回もお話した崇神天皇の没年干支と、その直前期に起きた疫病・災害の件がありましたね。
前回は疫病の起こった年を253年で考えてみましたが、313年、あるいは373年で考えるとどうなるでかとも感じるのですが、関連して250年からはじまったローマの疫病の話があるようです。下記のとおり。
キプリアンの疫病は250年に始まり、20年間続きました。ピーク時には一日5000人が亡くなり、ローマ帝国に打撃を与えました。疫病の正体は、天然痘、インフルエンザ、あるいはウィルス性出血熱(例:エボラ)のような伝染病だったと言われています。疫病は、トラヤヌス・デキウス(在位249-251)が皇帝に即位して1年後に発生しました。彼は全国民に、ローマの神々に犠牲を捧げ、崇拝せよという勅令を出しました。儀式は行政官の前で行うこと、また供犠証明書の発行などが義務づけられました。偶像崇拝を拒否した多くのキリスト教徒が処刑されました。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.excite.co.jp%2Fnews%2Farticle%2FEpochTimes_52041%2F%3Fp%3D2
こちらも参照ください。
この時代は「キプリアヌスの疫病」と呼ばれる感染症が大流行したことで知られる。北アフリカ沿岸の都市カルタゴで司教を務めたキプリアヌスの記述によれば、この疫病にかかると「絶え間ない嘔吐(おうと)に腸は震え、目には感染した血液の炎が燃え、場合によっては足あるいは手足の一部が腐って落ちる」とされ、多くは失明したり聴覚障害が残った。ローマだけで1日に推定5000人がこの疫病のために死亡し、当時のローマ皇帝ホスティリアヌスとクラウディウス2世も犠牲になったほか、エジプトのアレクサンドリアでは人口の3分の2が死滅したと見る研究者もいる。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.cnn.co.jp%2Ffringe%2F35049830.html
これはこちらの論文を参考にして、上記の記載を比較すると視覚障害が残る点等に共通性があり、やはりマーブルグ病、エボラ熱がその症状比較からみてもその可能性が高そうです。つまりインフルや天然痘とは異なるわけですね。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2Furl%3Fsa%3Dt%26rct%3Dj%26q%3D%26esrc%3Ds%26source%3Dweb%26cd%3D%26ved%3D2ahUKEwjv8vu19bjqAhWPPXAKHXVLAa4QFjADegQIAxAB%26url%3Dhttps%253A%252F%252Fsaitama-med.repo.nii.ac.jp%252F%253Faction%253Drepository_uri%2526item_id%253D125%2526file_id%253D18%2526file_no%253D1%26usg%3DAOvVaw1CBMnA-54SjjIea0mgXBZ-
かなりの感染力があり、3年後に日本までこの疫病が伝来した可能性もあるでしょう。
その場合、その疫病記載に、上記のような嘔吐や高熱、視覚障害・・・といった話がでてくれば、その可能性が高くなりそうです。
崇神5〜7年の2年間の疫病記載についても、崇神7年を先のとおり255年とすると、その2年前の253年には日本へもたらされていたことになるでしょう。
その期間の崇神紀の記載は下記のとおりです。
五年、國?多疾疫、民有死亡者、且大半矣。
六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以?治之。是以、晨興夕惕、請罪?祇。先是、天照大?・倭大國魂二?、並祭於天皇大殿之?。然畏其?勢、共住不安。故、以天照大?、託豐鍬入?命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城?籬。?籬、此云比莽呂岐。亦以日本大國魂?、託渟名城入?命令祭、然渟名城入?、髮落體痩而不能祭。
七年春二月丁丑朔辛卯、詔曰「昔我皇?、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意今當朕世數有災害、恐朝無善政、取咎於?祇耶、蓋命?龜以極致災之所由也。」於是、天皇乃幸于?淺茅原、而會八十萬?、以卜問之。是時、?明憑倭迹々日百襲?命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」天皇問曰「教如此者誰?也。」答曰「我是倭國域?所居?、名爲大物主?。」
時、得?語隨教祭祀、然猶於事無驗。天皇、乃沐浴齋戒、潔淨殿?而?之曰「朕、禮?尚未盡耶、何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢?恩。」是夜夢、有一貴人、對立殿戸、自稱大物主?曰「天皇、勿復爲愁。國之不治、是吾意也。若以吾兒大田々根子令祭吾者、則立平矣。亦有海外之國、自當歸伏。」
秋八月癸卯朔己酉、倭迹速?淺茅原目妙?・穗積臣遠?大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢而奏言「昨夜夢之、有一貴人誨曰『以大田々根子命爲祭大物主大?之主、亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂?主、必天下太平矣。』」天皇、得夢辭、?歡於心、布告天下、求大田々根子、?於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、?親臨于?淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰「汝其誰子。」對曰「父曰大物主大?、母曰活玉依媛。陶津耳之女。」亦云「奇日方天日方武茅渟祇之女也。」天皇曰「朕當榮樂。」乃卜使物部連?伊香色雄爲?班物者、吉之。又卜便祭他?、不吉。
十一月丁卯朔己卯、命伊香色雄而以物部八十平瓮作祭?之物。?以大田々根子爲祭大物主大?之主、又以長尾市爲祭倭大國魂?之主。然後、卜祭他?、吉焉。便別祭八十萬群?。仍定天?・國?及?地・?戸。於是、疫病始息、國?漸謐、五穀既成、百姓饒之。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.seisaku.bz%2Fnihonshoki%2Fshoki_05.html
まず、国民の半数が死ぬという高い致死率の疫病だったことがわかりますね。天然痘の致死率も30〜50%とされているので、その可能性もあるでしょう。なおエボラは50〜90%とされていますね・・・。
コチラ参照。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.eiken.co.jp%2Fuploads%2Fmodern_media%2Fliterature%2FMM0911_02.pdf
その症状については、下記の記載がヒントになるかもしれません。
渟名城入?、髮落體痩而不能祭
この記載は、髪が抜け落ちて痩せてしまった様子となりますが、女性で髪が抜け落ちるというのはちょっと奇異に感じますね。痩せるのは下痢の症状とも関係しているかもしれませんから、エボラや天然痘のそれに対応しそうです。
この崇神朝の疫病がエボラなのか天然痘なのか、もう少し調べていきましょう。
[11024] 崇神朝の年代と疫病記載
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011025M.jpg
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_09.html
http://
大宰府羅城と邪馬台国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011026M.png
https://www.youtube.com/watch?v=xvElxYBjXls
[11026] 大宰府羅城と邪馬台国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011027_2M.jpg
http://home.t02.itscom.net/izn/ea/kd3/47c.html
http://
九州山城ライン02
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011028M.png
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/140214
『孫権伝』二三〇年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011029M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=OyyVazsUIuo
次回のyoutube、并序4
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011030M.jpg
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_01.html
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