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テーマ前書き集
1
:
同人α総務
:2014/06/12(木) 13:27:48
第2号「想」
第2号「想」 2005/2
はじめに
さて、第2号の名称の「想」に決めた経緯を曲がりなりにも理屈をつけて説明しなければ
なりません。私は常日頃、宇宙の果てはあるのかないのか?無から有は生まれるか?はた
して無限の世界はこの世に存在するのかしないのか?などの眠れない問題に悩まされて来
ました。しかしもうそろそろ独断と偏見をものともせずに自分のなかでそれらの難題に決
着をつけなければならないと考えました。
いま現在我々が生きている世界は有限の世界と認識していて、石や花や実数などは手に取
って確かめることができます。しかし実態のない無限の世界を「想念の世界」とみなせば、
各の頭の中には神や虚数や妄想などあらゆるものが存在することが可能であるし、宇宙の
果てと思われている130億光年のかなたまで瞬時に出かけることも出来るのです。
そして、我々は「想念の世界」の神々や多くの先人の思想から実人生に大いに影響を受け
るとともに、この世の美しい花や自然やすばらしい人の生き方に感動して、ふたたび音楽
や絵、詩や小説などの「想念の世界」へフィードバックして行きます。そしてその世界へ
積極的に働きかけることで、かつて北君が巻頭言で書いたように「これから僕たちは人生
を深く生きることなる」のことば通り、残された時間を想念の世界を通して自己表現に努
めたいと思います。そういう訳で今回は題名を想念の一字をとって「想」とした次第であ
ります。
古賀和彦
2
:
編集部
:2014/06/12(木) 13:33:13
第7号「生きる」
第7号「生きる」 2006/5
「生きる」特集 前書きに変えて
先だって、次のような文面をそえて、会員同人諸君に厚かましくもアンケートをお願
いした。
「オモテ面の『生きる』と題したカードは、今回編集担当の北が、恥ずかしながら(文
学は己の恥を世間にさらす、とも世に言われています)、己のそれをまとめたものです。
北は若い時から『生は、生きてみなければわからない』との持論でした。このほど六
十歳を超え、生きてみたその自分の生を、それではとあれこれ検討し、まとめてみたわけ
です。こうやって事書きに単純化してみたり、若いときからの日記を読み返したら、カー
ドに表した『生きる』とはまた違った、生の新たな相も見えました。思わぬ副産物に、面
白いものだなと思った次第です。
北のこのカードを一覧して、同人諸君は何を思ったでしょうか。これを或る友人に見
せたところ、一瞥後『ジコチュー』と言い放ちました。『ではそういう自分は』と問いか
けると、『学者を夢見たがあきらめ』云々と、自分の『生きる』を簡潔に述べてくれまし
た。
担当者の特権で、わがままを言います。同人の皆さん、お願いです、北のこの『生き
る』を忌憚なく批判して下さい。カードになにくれとなく書き込んで下さい。そして御自
分の『生きる』をもしよければ教えて下さい、僕の私の『生きる』はこれだと。人の数だ
け『生きる』があること、それがまた楽しみになります。北の『生きる』を位置付けると
ともに、その楽しみも味わいたいと思って、右お願いする次第です。以下、お願いをまと
めます。
―記―
?北の『生きる』を検討・批判して下さい。遠慮のないご意見を下さい
?(できるなら)自分の『生きる』『自分はこう生きた』を簡単な箇条書きでもけっこ
うですから教えて下さい。」
アンケート
1.(肉体面)=(生物としての)生命を保つ。
・バランスよく食べる。
・危ない所には近寄らない。
・ちりも積もれば山となる。
2.(精神面)
………原理的には………
・充実して生きること。
前提=生にはしたい事がある。
「生命」とはしたい事が心に溢れること。(=好きな事)
「力」とは、したい事へ向かって駆動させる力のこと。
「自由」とはしたい事ができること。(天真爛漫、自然児)
「生命」「力」「自由」が十全に働く事を「充実して生きる」という。
とりもなおさず、いきいき生きること。
自由であるために、
憂い・悩み・心配・煩いごとなどを持たぬこと。
人に束縛されないこと。
・(心の状態)快適であること。
………具体的には………、
・したいことをする(原則)。
・好きなことをする(志)。
創る。
文学する。
生を知る、探る、味わう。
本を読む。
快楽を味わう。
五感で味わう。
なにをする。
3.(空 間)
・したい事がある自分を「捨てる」ことはできない。むしろ、
生が人間に与えてくれるものを全ていただく。
生を味わう。
五感をフルに活用する。
・人に束縛されない。
4.(時 間) 長寿を図る。
5.(範 囲) 生命を宇宙の中でとらえる。
幸いにも快く迎えられ返事は皆さんから返ってきたが、その中身はというとやはりと
いうか、三者三様。北の生き方を位置付けようと試みたが、そんなものを拙い言葉で提示
するより、皆さんの応えそのままを提示したほうが断然おもしろいことに気が付いた。以
下、御覧あって皆さんも同じ思いに駆られることと思う。
神野 佐嘉江
3
:
編集部
:2014/06/12(木) 13:55:40
第13号「楽」
第13号「楽」 2007/11
13は、佛教では智慧を授ける虚空蔵菩薩にご縁の、おめでたい数です。
「しか言う御主も十分おめでたい。」とは、本人も十分解っております。
と言うのも、今回の同人αと担当の長岡曉生は13に深い縁が有るのです。
今回の αの累積号数は、13号
現在の αのメンバーは、13名
私事ですが、長岡曉生の
佐賀高校の卒業年次は、 13期
1年生の時のクラスは、 13組
2年生の時のクラスは、 13組
3年生の時のクラスは、 13組
絵担当の三男の生日は、 13日(8月)です。
最後の符合は、三男が教えて呉れました。
さて、α13号の題名を決める必要があります。
今年、平成19年のαの題名の流れは、次の通りです。
10号:[美]→11号:[選択]→12号:[出会い]→13号:[未定]
13号は、この題名の流れを男女の出会いと見立てて「楽」と致します。
○楽の意味
楽には、一字で五つの意味があり、それぞれで読みが異なります。
楽(ガク) は、奏でる。 楽人は、楽器の演奏家
楽(ラク) は、楽しむ。 楽観は、楽しみ遊ぶこと
楽(らく) は、容易に。 容易を、らくにと言うのは日本だけの用法
楽(ゴウ) は、愛でる。 楽聖は、清酒を愛でること
楽(ギョウ)は、ねがう。 信楽は、人を信じ求めること
白川静博士によると、楽は鈴の象形文字で本来の意味は楽器を奏でる事です。
奉仕された楽奏を、神が聞いて楽しんだ事から、楽しむの意味が派生しました。
この楽しむから、日本語での[仕事をらくにする]という用法が生まれました。
因みに、仕事を楽しむという精神構造は、日本人特有のものらしいですね。
あなたは、どの楽を選びますか。
長岡曉生
………………………………………………………………………………………………
「楽」から絵を描き起こすに当たって、らくな状態で穏やかに、
というニュアンスを込めて描きました。
ラクダと猿については動物名の中で「楽」と関連するものを選びました。
「ラクダ」は音からの連想
「猿」は猿楽からの連想
というわけです。よろしく。
小柳景義(かげよし)
………………………………………………………………………………………………
4
:
編集部
:2014/06/12(木) 13:59:11
第22号「空を飛んでみたい」
第22号「空を飛んでみたい」 2010/2
前書き
小さな頃から、空を自由に飛ぶ鳥を見て憧れていた。
雀じゃだめ。カラスでもだめ、大きな翼を広げ、自由自在に方向を変え、滑降、上昇をく
りかえす大きな鳥。
何度も飛ぶ夢をみてきた。
面倒なこと、私誰々病、死ぬことがわからない病、生きることがわからない病、から自由
になり、な〜んにも考えず風に身を任せ、のびのびと空を飛びたい、そんな気持ちからだ
ったと思う。
昔昔ダビンチは飛ぶ機械を設計した。鳥の飛ぶ仕組みを精緻な目、科学の目で観察し取
り組んだのだろうが、きっと彼も空を飛びたかったのだと思う。その視線の先は宇宙だっ
たのかもしれない。
覚醒剤でも一瞬飛べた気分になるのだろうが、私はやっぱり気持ちいい地球の空気を吸
って、風と遊びたい。今でも飛びたいと思っている。
表紙の絵は今から遠い昔に描いたもの。ピエロシリーズは途切れることなくなぜか続い
ている。何かに紛れて失くしたもの、くしゃくしゃに丸めて捨てたもの、海外赴任中の置
き忘れもたくさんある。手元にある中で、このピエロが一番気に入っている。
判読不明かと思い、絵の横に書き付けた箇所を改めて載せることで前書きの終わりとす
る。
*******************
ダビンチの
鳥の模型を
そっくりそのまま
拝借して空を飛ぶ
− − − − 。
新宿の空を飛ぶ
ピエロはこの
翼を作るため
20年間の
出演料を
全部使い果たした。
*******************
5
:
編集部
:2014/06/12(木) 14:29:48
第16号「揺らぎ」
第16号「揺らぎ」 2008/8
まえがき
私は以前、別の同人誌に「狭間シリーズ」の文章を十編ほど書いたことがあった。趣味
と道楽の狭間で、本音と建前の狭間で、晴と褻の狭間で、光と影の狭間で、都市と田舎の
狭間で、男と女の狭間で、パラノイアとスキゾフレニーの狭間で、モダンとポストモダン
の狭間で、など人生の岐路に戸惑ってたちすくむ己の心情を綴ったものだ。
そして一方を決断したその時、捨て去ったものに微かな思いを残した。去りゆくもの、
滅び行くものに憐憫の情を覚えることは人間の証のような気がしてならない。だから拝金
主義者や権力主義者などの効率よく物事を決断し、疑いもなく自ら選んだ道を突き進む人
を私はあまり好きではないし、信用もしない。人が岐路に立って自分の行く道を決めかね
て、戸惑い揺らぎながら迷っている姿に、私は人間としての共感を抱くのである。
「揺らぎ」とは機械的な正確無比の時の刻みではなく、一定した流れの中に生じる微か
な乱れのことをいうのである。
この宇宙の森羅万象,すべてに「揺らぎ」があるという。それが心臓の脈拍の揺らぎであ
り、うち寄せる波,風,潮の満ち引きの揺らぎであり、モーツァルトなどの名曲の中の旋
律の揺らぎであり、人との会話においても時には予期しない返答だったりするような揺ら
ぎである。揺らぎが創り出す変化は、私達が過ごす日常の殆どが褻の時間のなかで、人生
とは面白いと感じさせる何かを創り出す力があるようだ。
この世の中に絶対的に基準となるものは有りはしない。時間や空間や思想や理論におい
ても同様で、いまこの一瞬の自覚した己の存在だけが真実であることを除いて、すべて虚
であり、想念の中の出来事である。だから、どこかの殺虫剤会社の「そんなものが効くの
か」という男の疑問に答えて、藤原紀香が「その疑い深い目が好き」と艶っぽく宣うコマ
ーシャルがある。この、権威や定説や既成の価値観に対して「揺らぎ」や「疑い」を抱く
精神が好きだ。
古賀 和彦
6
:
編集部
:2014/06/12(木) 15:08:54
第23号 「てふの夢」
第23号 「てふの夢」 2010/5
ももとせの花にやどりて過しきてこの世はてふの夢にぞ有りける(大江匡房・一一五二年
頃)
「てふの夢」の出所はもとより『荘子』。「昔(さき)に、荘周夢に胡蝶と爲(な)る。栩
栩(くく)然として胡蝶なり。自ら喩(たの)しみて志に適へるかなと。周なるを知らざるな
り。俄然として覺むれば則ち蘧(きよ)蘧(きよ)然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と
爲れるか、胡蝶の夢に周と爲れるかを」。ここから「てふの夢」は、ひいては、人生のは
かなさに譬えられる。僕は若い頃より「今ここ」の充実を心がけてきた。とくに僕を夢中
にしたものに、ドストエフスキー、ベケット、現代詩、短歌、俳句、漢詩、ジャズ、チェ
ロ、オペラ、民謡、書道、白川静、絵画、宇宙、地球、生命ほか数十を数える。しかし今
ではそれらの起こす感興は大抵は淡い。いずれも「夢」のようだ。淡々とした毎日で、生
きる意欲そのものが衰えてきていることを感ずる。いつ死んでもいい。若い頃には考えな
かったことだ。自戒を込めて言うが、富岡鉄斎に倣い享年九十まで尻上がり調子に潑剌と
した作品を。この青年の誓いはどこへ行ったか。ところで、僕の手許には寄せ書きされた
日の丸の旗がある。戦死した父のものだ。十年ほど前、戦地沖縄で取得したとして、アメ
リカのある篤志家から還ってきた。「祈武運長久 為北傳吉君」のもと、五十ほどの名が
連なる。旗には特段の汚れもある。汚水か。しかしはっと思った。違う! 血痕だ、父の!
この日章旗は七十年前の日本帝国の夢だった。そして三十五歳で絶寿した父の人生の夢
もそこに重なっている。旗を前にして悄然と「生きる」を思う。
神野 佐嘉江
7
:
編集部
:2014/06/12(木) 15:18:37
第24号「夢碍无」
第24号「夢碍无」 2010/8
むげんとは、夢幻か、無限か、無間か、はたまた無元なのか。投稿する同人は、いずれ
をも選べるけれど先ずは、「夢幻の如くなり」で良く知られた幸若舞の演目「敦盛」の
「夢幻の如くなり」をみて見よう。幸若舞は、源義家の十代の子孫桃井播磨守直常の更に
孫の桃井直詮、幼名幸若が始め室町時代に流行した語りを伴う曲舞(くせまい)の一種で
武士階級に特に好まれたという。
「敦盛」は、平家物語中、一ノ谷で平家の公達敦盛を討った源氏の武将、実は血筋とし
ては平家に属する熊谷次郎直実の無常観を主題としたものである。後に出家して法力房蓮
生と成る直実の台詞には「思へば、此世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る
月より猶あやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立て、無常の風に誘はるゝ。南楼の月をもて
あそぶ輩も、月に先立つて、有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻
のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらん
は、口惜しかりき次第ぞ」とあり、化天を下天と変えた信長の舞がよく知られている。
念のため、幸若舞の歴史を詳しく調べて驚いたことは、現在ただ一カ所だけ残るその伝
承地と言うのが、何と筑後川の向こう、嘗て佐賀線の最終駅があった筑後の瀬高なのであ
った。
??肥の国と筑の国との関係を探り続ける私が、偶然にも遭遇した地名、瀬高。
まことに良きかな縁(えにし)、深きかな縁(えにし)。
長岡 曉生
8
:
編集部
:2014/06/12(木) 15:22:42
第25号「颯」
第25号「颯」 2010/11
「颯」―表題によせて 古賀 和彦
まず始めに表紙のデザインに用いた「颯颯」という文字は、山鬼:楚辞・九歌にあるもの
を借りた。
雷填填兮雨冥冥 雷填填として雨冥冥たり
猿啾啾兮又夜鳴 猿啾啾として又夜鳴く
風颯颯兮木蕭蕭 風颯颯として木蕭蕭たり
思公子兮徒離憂 公子を思へば徒らに憂ひに離(かか)るのみ
雷が鳴り響き雨が暗く、サルは悲しげに夜も泣いています。風は颯颯と吹き渡り、木は蕭
蕭たる音を立てています、あなたを思うと私の心はいらずらに憂いに沈むのです
颯の文字の姿を眺めていると堀辰雄の「風立ちぬ」を思い出す。信州のサナトリウムの周
りの自然のなかで白い野バラの間を微かに吹き抜ける風ノイメージが湧いてくる。颯爽と
したという漢字がこの「颯」である。
大富豪で泥棒を趣味とするスティーブ・マックイーンと保険調査員のフェイ・ダナウエイ
の二人が、全く違う立場で丁々発止とやり合う「華麗なる賭け」という映画があった。悪
と正義のせめぎ合いなかで何とも言えない二人のもどかしい関係を表現したミシェル・ル
グランの「風のささやき」という名曲がある。
http://www.youtube.com/watch?v=Wl8fKAYQuPk&feature=fvsr
またマンディー・バーネットの ウィスパーリング風という歌もある。
http://www.youtube.com/watch?v=FcfPumlZFiY
風のささやき
風は独り窓辺に佇む私の心に
微かなささやきを残して走り去り
彼の姿を見せることはしない
仮眠の五感をそっと刺激して
覚醒しようとする私をからかうように
過去の思い出のなかに漂わせ
仮の夢に想いをふくらまさせ
荷担した報いとして孤独な憂をあたえる ニューロンの揺らぎ
あるときは花の香りを運んで
あるときは竹林をさざ波のように
あるときは松林をゴーゴーとふるわせ
あるときは首筋に冷たい空気を置いて行く
あるときは私にはな歌を唱わせる
風は私の想念への誘い
風は私の心へのささやき
風は私への宇宙の啓示
9
:
編集部
:2014/06/12(木) 15:25:42
第26号「仮面」
第26号「仮面」 2011/2
「仮面」 少しネタあかし
● ピエロが好きだ。厚化粧して仮面をかぶる。悲しみや、厭味や悪戯を思いっきりはた
らける。
相手か ら攻撃されないようにかぶる。自分の邪心を見せないようにかぶる。あるときは
自分を攻撃するもう一 人の自分から逃げるためかぶる。衣装と化粧を何度も変えている
うちに自分の本当の姿がわからなくな る。だが、ピエロの涙は本物の涙。魂の奥から湧
き出る自分の涙。
● 仮面舞踏会が好きだ。仮面をかぶり自分の本性を自由奔放に出すことができるからだ。
仮面をかぶっても声は変えられないから知人には誤魔化しがきかない。だがこの舞踏会は
仮面をかぶり別人として振る舞うルールと心的効果がある。 顔が醜いからかぶるのでは
ない。気分を一変する ための仮面、飛ぶための仮面、小道具だ。
● 仮面選びが好きだ。自分のある一部の真実を抽出した顔を選び振る舞うためだ。たく
さんの仮面の中か ら選び出す、心躍る作業だ。
● 厚い仮面をはずせなくなった人間も大勢いる。本体に仮面が根付き、増殖し、のっぴ
きならない状態だ。 そのような人は仮面に乗っ取られた人間と言える。 内側から自分
の声が聞こえるが仮面がしゃべらせ ない。自分を仮面に売ったのだ。 そんな乗っ取ら
れ人間が結構世にはびこっている。
● 薄い仮面は意味深だ。見えそうで見えない、審美的、魔性的な力を時として発揮する。
男女の関係では 綱引きの修羅場をもたらす、困りものの小道具となる。
● ピエロが好きだ。職業として昇華し、自分も昇華し、そしてそっと涙を流す。職業だ
から仮面の付け替 え具合も知っている。決して乗っ取られることはない。でも付け替え
作業でだいぶ疲れるのだ。 自分 は必ずいつもここにいて、それでも仮面をつけ変えて、
しかも「自分を出す」のだ。重労働だ。それで も私はピエロになりたい。
○ 上記のような調子を今回の作品に載せてみました。
○ ハチャトリアン作曲 仮面舞踏会より「ワルツ」(Masquerade)
http://www.youtube.com/watch?v=SHr7BjgjMJY
この画像と音楽を覧ながら、聴きながらの作業でした。どのような影響を作品に与えたか
はわかりませ ん。単なる雰囲気作りに過ぎなかったわけですから。
○ こんな展開も想像してみました。仮面と聞いたら・・・
祝 十郎(いわい じゅうろう)/ 正義の味方月光仮面!!
悪人によって危機に陥った人々の前に颯爽と現れる正義の味方。 衣装は白のターバンと
覆面その上 から黒いサングラス。悪事の現場への移動はオートバイ。
私立探偵 祝 十郎は明晰な頭脳と高い運動能力を持ち、依頼を受けて様々な事件を追う。
彼が消えた途 端に月光仮面が現れ、月光仮面が消えた途端に彼が現れることが多かった。
ここまできて新聞記者ケントを思い出しました。そうですスーパーマンです。
「空を見ろ!」「鳥だ!」「飛行機だ!」「いや、スーパーマンだ!」
この有名なキャッチフレーズの最後に
「いや、俺はケントだ!!」の叫びを入れたくなりました。
想像の世界はどこまでも広がります。
○ 月光仮面の画像と音楽を流していたら、違った作品になっていたかもしれません。
古賀 由子
10
:
編集部
:2014/06/12(木) 15:33:42
第27号「こんとん」
第27号「こんとん」 2011/5/28
「こんとん」随想
南海之帝為儵 南海の帝を儵(しゆく)と為し、
北海之帝為忽 北海の帝を忽(こつ)と為し、
中央之帝為渾沌 中央の帝を渾沌と為す。
儵與忽 儵と忽と、
時相興遇於渾沌地 時に相い与に混沌の地に遭う。
渾沌待之甚善 渾沌これを待つこと甚だ善し。
儵與忽 儵と忽と、
謀報渾沌徳、曰 渾沌の徳に報いんことを謀りて曰く、
人皆有七竅 ??人みな七竅(きよう)ありて、
以視聴食息 以って視聴食息す。
此獨无有 此れ独あることなし。
嘗試穿之 嘗試(こころみ)にこれを穿たんと。
日穿一竅、七日而 日に一穿を穿てるに、 七日にして
渾沌死 渾沌死せり。
以上荘子「内篇」応帝王篇 第七にある寓話である。「儵」「忽」「渾沌」という名前に
は寓意がある。「儵」と「忽」はいずれも「迅速」の意味ですばやく機敏なことから人間
的有為にたとえ「渾沌」は未分化の総合態で自然にたとえている。
(岩波文庫 金谷 治訳注による。)このほか中国では神話として「混沌」があるとの
ことこれは四凶のひとつである。これについては詳しいことがわからないので言及しよう
がない。一方混沌という言葉もある。これはいわゆる「カオス」である。こちらの方はギ
リシャ神話に発している。それは世界の始まりに存在した神である。事物が存在する場所
としてすなわちなにかを入れる空間として最初に存在した原始神である。荘子あるいはギ
リシャ神話における渾沌あるいはカオスはいずれも何か原初の状態を表しているようであ
るがギリシャの考え方は、論理の最初の土台としての存在であり、荘子のそれは人間の知
恵を超えたところにある自然状態であるようである。
今日現代数学はカオスを混沌の中から再発見しすくいあげた。従来決定論として扱われ
ていた現象もその中にある非線形の効果によりほんのわずかな初期条件が違うことにより
結果とてつもない違いあるいは予測不可となることがわかった。これはものの見方にたい
する新たなパラダイムを開いたものである。いわゆる「ラプラスの悪魔」の世界観の終焉
である。もっとも「ラプラスの悪魔」に対しては量子力学ですでに否定されていたのであ
るがいわゆる古典物理の世界においても終焉を迎えたのである。実際に起こる事象ほとん
ど非線形のである。いままでこれらほとんど線形近似にておおよそのものはそれで事足り
た。ところがそれですまないものがあることがわかってきた。これが新しいものの見方の
地平を開いたパラダイムである。
添付している図はローレンツのアトラクターといわれているもの。これは地球の大気の
動きをある条件の下にモデル化したもの。
こんなことを書いているうちに東北関東大地震が発生。そのエネルギーはマグニチュード
9というとてつも無い大きさ。これは阪神淡路大地震のやく三百五十倍以上のエネルギー
である。その津波を伴う破壊力の巨大さ、その前に砕け散る人の営みの矮小さ、悔しいけ
れどどうしようもないスケールの違いというものを感じる。地球活動にとって今回のよう
な地震、なにも特別な出来事ではない。起こるべくして起こったこと、プレートの衝突に
よりそれらの境界に歪がたまりその弾性限界になると瞬時に歪を戻す動きが地震、あるい
はそれに伴う津波である。人はまだ地殻の正確な性情を捉え切れていない。又現状を正確
に測定できないでいる。対極的に見るならこのような現象カオス的なものであろう。
人はいろいろ技を尽くし渾沌に七覈を穿たんと試みるも、渾沌はなかなかその正体を現
すことなく逃れているようでる。カオスを基台とした論理で渾沌を殺すことなく七覈を穿
つことが出来るのか。人は永遠の見果てぬ夢を追って生きていく。
このたびの震災で被災されたかたが一日も早くもとの生活に戻られるようねがうととも
に、この未曾有の災害から日本が全力を挙げて復活するよう頑張りましょう。
竹内 一郎
11
:
編集部
:2014/06/12(木) 15:40:09
第28号 「震災列島」
第28号 「震災列島」 2011/8
▼東日本大地震に思うこと
?若い時から僕は生きることを祝ってきた。「明日どんな楽しいことをしよう」そう思い
ながら寝に就いたものだ。いわば全生涯「遊ん」できた。そんな生がどうも「生きる」の
全てではない気がしたが答えが見えず、この十余年悩みといえば悩みであった。今回の大
地震はこんな自分のターニング・ポイントとなった。今回の震災は、「身を守る」こと、
「食べる」ことの大切さを僕に思い知らせた。それはある茫然自失した態の若い女性の映
像を見た時のことだった。彼女は何もかも、家や財産そして家族をなくしていた。「この
人はこれからどうやって生きていくのだろう」。自然の災害から身を守ることを常に心が
けるだろう。また命を繋ぐために食べていかなくてはと強く意識するだろう。良い行いを
するというよりも、遊ぶというよりも、「生き物としてのこの身を」やしなっていかなく
てはならないと強く思うだろう。僕に人間の生物的側面が生には大切だと思い知らせた映
像だった。
?僕は福島原発が恐ろしかった。爆発したら何十万人もの人々がその被害に苦しむ。事態
は悪化の一途をたどっていた。この時期僕は自分が「心弱く」なっていることを知った。
誰かの側に寄り添いたい。誰か側にいて欲しい。ぎゅっと引き寄せたい。そして談笑して
過ごしたい。こんな経験はこれまであったかなかったのか。また、被災者の中には地震、
津波が恐ろしくて、思い出しては震え泣きわめく人も出てくるという。この時人間は「心」
であるように見える。当方は、心に領されている人間というものを今回初めて思い描いた。
?当方長らく「人嫌い」であったが、「人好き」に船出したようなこの頃だ。食事をしな
がらテレビを見る。震災下の人々の営みは、多彩でドラマチックだ。地震津波が恐ろしい。
家屋敷、家財道具、そして身内全てを失った人。人のために地震に、津波に、放射能に散
った人は雄々しい。尋ね人の再開の喜び。乏しい物の譲り合い。援助に来てくれた人への
ねぎらい。自分よりも先にあの人を助けて。……当方いつの間にかテレビの「ヒューマン
ドキュメンタリー」を好んで見ていた。新聞は地震発生からあらかた捨てずにとってある。
原発が一息つきそうではあるし、仕事も一段落したので、恐る恐る新聞を広げ、人々の声
や姿を読み始めた。涙、涙、涙… タオルを側に置きながら。 「無限」「無」の世界ある
ことを教えられたのが十五六年前のことだ。それ以来の僕にとってはまさに激震だ。
?人の助け合いも素晴らしい。人を助けようとしてどんどん善意が集まる。外国の人も盛
んに応援してくれる。日本と見知らぬ世界の人との絆がとてつもなく太いのを目の当たり
にしている。「人の群れ」というのが視野に入った。「愛」ということさえ。
?それやこれやで「人間家業もいいものだ」と、この歳になって初めて思っている今日こ
の頃だ。いやいや、してみると、十五六年ぶりの激震どころか、若い頃より五十年、六十
年ぶりの激震と言えるかもしれない。
?『方丈記』をひもといた。大地震の記述を求めてであったが、「海はかたぶき、陸をひ
たし」など好ましい国語表記に触れて良い経験になった。彼我の社会の厚みに違いがある
ことは新鮮な発見であった。『方丈記』には大地震にあって、人が人を助けたという記述
はほとんどない。京に屍累々と万を数えるが放っておかれる。人々はとまどうばかりだ。
これに対して今回の震災にあっては、人が人を助け、人が人に譲り、村落共同体はまとま
って助け合い、自治体は村から町から市から県、国までこぞって行動を起こして助けよう
とし、企業も大小にかかわらず人助けに参加した。そうして『方丈記』の時代にはなかっ
た国際社会まで救援に乗り出した。彼我を見るとこちらは断然社会の厚みが増しているの
だ。そこに人間・人類の進歩が見られると思った。
?「震災文学」というのが日本で成立していい。ドストエフスキーは、死刑台に立って「止
めい」の一声で死を免れるという滅多にない恐ろしい経験をした。この体験が彼の文学の
原点になっていると思われる。今回の震災でこの経験を共有する人は日本にはごまんと生
まれたことだろう。ドストエフスキーは人が人を殺して神が関わる世界を描いたが、震災
の体験は人の世というよりも、自然が人間を殺す世界が人の生の根幹であることを教えた。
ドストエフスキーよりも深い世界観・人間観を持った文学が生まれるだろう。また、今回
あれだけ人間くさい多様なドラマが繰り広げられたのだもの。シェークスピアよりも広い
人間世界の物語が展開されることも期待される。「震災文学」は固有の日本文学となり、
世界でも輝き続けるだろう。日本は「震災列島」だから。
神野 佐嘉江
12
:
編集部
:2014/06/12(木) 15:59:47
第29号「兆」
第29号「兆」 2011/11
29号の題名は「兆(きざし)」、これに副題[無意識と意識の狭間で]を付けることにした。
この頃、つくづく思うことが有る。
身の回りに起こる大事な事は、気をつけていると必ず何らかの前兆がある。
その前兆は無意識が表面意識の世界へ変化・顕在化するのに先立って起こってくる。
例えば、昔から夢を正夢と言い、噂をすれば影がさすと言い、辻で聞いた噂話でこれから
を占えると言い童歌で社会の将来のことが解るという。
それらの前兆は、物事が現実化する前に、眼に見える色・形、耳に聞こえる音、文字にな
った言葉という象徴として現われる。
それは、何故か。
と言う仕組は、今回書く羽目になった二つの作品中で詳しく語ることにして、
ここでは一つだけ。
それは、他でもない。29号の題名と副題の決定である。
無意識と意識の関係については、α入会前からの関心事であり、αに入会後は、機会ある
毎に触れることが多かったが、いまだ纏めて書くまでには至らなかった。
今回、私に29号の題名「兆」と副題[無意識と意識の狭間で]を選ばせたのは号数が29と
言う素数であり、かつこれが私の姓名の総画に等しいこと29号の無限回廊の担当が私の
順番になっていたことである。
となれば、素数の重要性に初めて触れ、また無限回廊シリーズの提唱者である赤松さんの
「狭間」世界に私が引きずりこまれる「兆」であるのは自明であろう。
恐るべし、グレイホール。
もちろん、これは担当者に訪れた兆にすぎません。
皆さんは、題名「兆」に捕らわれず自由に書いて下さい。
でもきっと、それぞれの作品が、各人に次に訪れる何かを告げることになるんだろうなあ。
表紙絵について
今回の題名「兆(きざし)」に因んで、万理久利さんが殷代の甲骨占に用いられた亀甲の図
を描いて呉れました。
図では、活きた亀の全体図を上下から描いた形になっていますが、実際に用いられたのは
腹側の変色した矩形部分です。回りから差し込まれた数本の焼け火箸も、数回の占断分を
一度に描いたものです。
長岡 曉生
13
:
編集部
:2014/06/12(木) 16:02:05
第30号「沈黙」
第30号「沈黙」 2012/2
「沈黙」前書き 饒舌と緘黙の狭間で 古賀和彦
「沈黙」と書いてみるとすぐ思い浮かぶのが、遠藤周作の「沈黙」と埴谷雄高の「死霊」
を思い出す。この二文字を思いついたのは、あまりにも推敲されない文字の氾濫に辟易し
たからだ。事象について断定的であったり、まったく普遍性のない言葉での個人的体験談
や日常茶飯の些事が、生理的要求でもあるように放埒に垂れ流されている現状は憂うべき
現象に思えるのである。この生活空間に流されているTVや雑誌やニュースや評論などの
膨大な量の情報が、はたして人に幸せをもたらすと信じていいのだろうか。 人間の基本
的な生命維持に必要な情報はそんなに人を溺れさせるほど多くはないはず。その他のほと
んどは報道の繰り返しや、病気や生命等の危うさを強調する脅迫宣伝や、パチンコや競馬
競艇、宝くじなどの射幸心をくすぐるものや、空白の時間を埋めるためだけのくだらない
お笑い番組ではないか。そして自分に都合のよい情報だけを加工して評論し、それが怪し
くなると挙げ句の果ては自己弁護を繰り返す似非文化人や、空白な時間への恐怖で語り続
けることを止めない人や、まったく物事を深く考えることをしない人などが多くて、軽薄
な己の姿を世間に晒していることさえ考えがおよばないようである。
私は語りは現実の世界、沈黙は想念の世界と思っている。
書いたり語っているときは現実の世界で活動している。
物事の本質を見極めようとするとき想念の世界に入り込む。すなわちそれは沈黙の世界で
ある。
これは同人αの第2号で書いた有限と無限の私個人の理解の仕方と同じである。有限は現
実の世界、無限は想念の世界。この二つはまったく交わることがないようだが、そうでは
ない。マルクス・エンゲルスが唱えた学説が現実にロシアやその他の社会主義国家を作っ
たように、単なる想念の産物である思想が現実の人の生活に影響を及ぼして来た。その逆
もまたあり得る。現実の世界から得た経験や事実が想念の世界の思想を導くこともあり、
お互いに密に影響しあっているのである。
また私たち人間は「より正しい答え」を導くために「より正しい考え方」を模索してき
た。その思考法として演繹法と帰納法というものがある。
演繹法は一般的原理から論理的推論により結論として個々の事象を導く方法。
帰納法は個々の事象から、事象間の本質的な結合関係(因果関係)を推論し、結論として一
般的原理を導く方法である。
帰納法は現実のなかから本質を抽出し、演繹法は想念のなかで想定した結論を推論したも
のだといえる。これはまさに現実の世界と想念の世界の代物ではないか。
遠藤周作の小説は、迷う信者に対して神は救いの手をさしのべなかった、なにも示唆し
なかった。 ただ静かに寄り添っていただけだという。 「弱者の神」「同伴者イエス」と
して黙して語らなかったというような内容だったと記憶している。
また埴谷雄高の「死霊」に出てくる、主人公三輪與志の異母兄弟で、精神病院にいれられ
た黙狂の矢場徹吾は、「無限大」、「存在」、「宇宙」、「虚體」、「自同律の不快」な
どの謎に立ち向かっているのであろうか。黙狂が失語症の故なのかそれとも吃音に悩まさ
れた故なのか判らない。 この喧噪の世の中、吃音に悩まされたことがある私は、そんな
沈黙の世界に魅せられるのである。
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