371 :朝まで名無しさん :04/12/14 13:14:15 ID:4hWuERv4
○History of U. S. Military Interventions: http://www.butsudo.net/AZI/Comment/sasakawa.htm
1980年7月17日、バービーと彼のネオ・ファシスト構成員とボリビア陸軍の右派将校が、
中道左派政権を打倒した。バービーのチームは、政府職員や労働運動指導者を追跡し、殺害した。
一方で、アルゼンチンの特殊部隊が飛来し、最新の拷問技術を披露した。
....この作戦の側面援助的役割をしたのが、笹川良一と文鮮明であった。
○Bush consorts with Moonies, criminals in Ibero-America http://www.afrocentricnews.com/html/bush_consorts.html
中南米において、ブッシュのパワープレイを資金援助したのは、統一協会の文鮮明である。
文は銃と麻薬の密輸、マネーロンダリング、その他の凶悪な活動に関わったことが立証されている人物である。
従って、ブッシュが南米諸国歴訪の際、大英帝国の植民地政策とでも言うべき、自由貿易政策
(つまり、麻薬密輸のことか?)を擁護し、ペルーでやったと同じく、
クリントン政権の麻薬対策を非難したのは、全く驚きでもなんでもなかった。
○The Bush-Kim-Moon Triangle of Money by Robert Parry http://www.commondreams.org/views01/0310-03.htm
当時、文鮮明は、(アルゼンチンで)Tiempos del Mundoなる新聞を発行しようとしていたが、
南米の新聞界は、文の組織が、1970年代に右派「殺人組織」政府や、
1980年初期のボリビアのいわゆる”コカイン密売”政府と密接な関係を持っていたことを指摘していた。
そこに現れた、大ブッシュは、米国元大統領の名において、文の組織の麻薬取引関与を否定した。
文の組織の麻薬スキャンダルは、立消えた。
これに並行して、CIAがアレン・ダレス(Allen Dulles)の指揮の下で、これらの国々の諜報機関員を組織化させこの地域の反共主義政党間の接触をはかる一つの組織を確立させた。こうして蒋介石(Chiang Kai-shek)の元に建設されたのがAsian People’s Anti-Communist League, APACLである。
台湾の総統である蒋介石に加えて、APACLはそのメンバーとして、後に韓国大統領となる朴正熙(Paek Chun-hee)、戦犯の一人で富豪となり日本の自由民主党の資金を支えた笹川良一、さらに統一教会の文鮮明(Sun Myung Moon )師[4]を数えた。またAPACLのメンバーにはプラファム・クラピチティール(Prapham Kulapichtir)将軍(タイ)、フェルディナンド・マルコス(Ferdinand Marcos)大統領(フィリピン)、ソパサイノ(Sopasaino)殿下(ラオス)[5]、ド・ダン・コン(Do Dang Cong)大佐(ベトナムのグエン・バン・チューNguyen Van Thieu大統領の代理)などが含まれている。
APACLは、後のCIA台湾支部[6]の責任者レイ・S.クライン(Ray S. Cline)の総合指揮の下にあり、雑誌The Asian Bulletinを発行、その編集は、後にHeritage財団[7]のアジア支部の責任者となるマイケル・ラサター(Michael Lasater)の負担になるものであった。
(画像:「1967年にWACLが創設された」)http://www.redvoltaire.net/IMG/jpg/uno390-3.jpg
[WACLの創設]
1958年以来、ABNの総裁は台北でAPACLの年次総会に参加した。クラインとステツコは台湾のthe Political Warfare Cadres Academyを視察した。これは反共主義的鎮圧のために蒋介石政権の軍隊に訓練を行う教育機関である。
この学校は米国のthe Psychological Warfare Center of Fort Braggとパナマにあるthe School of Americas[8]のアジア版である。CIAは次第に、政治家グループと反乱鎮圧の指導者たちによる世界レベルの組織網を作っていった。1967年にABNとAPACLは合併し、世界勝共連合(World Anti-Communist League、WACL)が名乗りを上げた。そしてその活動を『自由世界』の連合へと広げていった。その新しいメンバーの中に、第2次大戦の間に作られたメキシコのファシスト組織で「王たるキリストの軍団(Legio'n de Cristo Rey)」とも呼ばれるロス・テコス(Los Tecos)がある。この連合は、73〜75年のリチャード・ニクソンとその治安参謀ヘンリー・キッシンジャーがホワイトハウスを牛耳るときに、最初の最盛期を迎える。
同時にまた、この期間に欧州に衝撃を与えた緊張の戦略(Strategy of Tension)の中で、WACLの役割は明確な科学とも見なされない【意味不明瞭。原文tampoco se conoce a ciencia cierta:前後の段落の内容から考えて「正確に知ることができない」というような意味か、フランス語からの翻訳の際に起こったミスではないか、と思われる:訳者】。”新秩序”の創始者でフランス人のフランソワーズ・ドゥプラッ(Franc,ois Duprat)、MSIの創始者でイタリア人のジョルジョ・アルミランテ(Giorgio Almirante)、CEDADEの創始者でスペイン人のヘスス・パラシオ(Jesu's Palacio)、”国々のサークル”の代表であるベルギー人のパウル・ヴァンケルホヴェン(Paul Vankerhoven)、そして同様の他の者たちがWACLの活動家となった。そして、イタリアでテロリストとして指名手配されたステファノ・デレ・チアイエ(Stefano delle Chiaie)[10]を非合法に連れ去り、ウゴ・バンセール政権のボリビアに送ったのはこの連合だった。そこで彼はすぐにクラウス・バルビー(Klaus Barbie)の補佐役に指名された。暗殺隊のトップとしてである。
またレバノンの戦争でWACLが果たした役割に触れる記録文書もほとんど無い。後に、1975年にこの紛争が勃発する1週間前に、元大統領のカミレ・シャモウン(Camille Chamoun)のキリスト教民兵の関連組織に傭兵を雇ったことが明らかになる。
(画像:「1973年の世界勝共連合メンバーの中の国家首脳」)http://www.redvoltaire.net/IMG/jpg/tres390.jpg
1977年にホワイトハウスに入ったときに、ジミー・カーターは前任者たちの汚い行動を終わらせようと願った。そして海軍大将スタンフィールド・ターナー(Stanfield Turner)をCIA長官に指名し、ラテンアメリカの横暴な政府を抑えることに努めた。これはWACLにとって困難な時代だった。そのメンバーから出資を受けることをあきらめなければならなかったからだ。これはやがて反カーターの動きを作る。より都合の良い時代を準備し、当然のごとく米国最大の反カーター組織、the National Coalition for Peace Through Strengthとの関係を確立した。
この反対派の急先鋒はアメリカ保安委員会(American Security Council)に由来するものである。それはアイゼンハワー大統領が『軍産複合体』という用語と共に考案したものであった[11]。その共同責任者は、ジョージ・H.ブッシュとともにチームB[13]と呼ばれるパイプス委員会の中でソビエトの脅威を再登場させたダニエル・オグラハム(Daniel O’Graham )将軍[12]、およびジョン・K.シングロウブ将軍であった[14]。
この連合の数多くの責任者たちがロナルド・レーガンの選挙戦用の組織に絡んでいた。彼らの大部分にとってこのカリフォルニアの共和党の指導者とは無関係ではなかった。実際に第2次大戦終結時に、レーガンは自由十字軍(Crusade for Freedom)のスポークスマンとして、共産主義から逃れてきた東欧出身の移民たちを米国に定着させるための資金集めに参加していたのだ。それは実際にはABNメンバーであるナチ、ファシスト、ウスターシたちを移住させることであった。副大統領のジョージ・H.ブッシュも良い友人であった。彼はCIAの守護神としてコンドル作戦の長であったのだ。
[WACL黄金時代]
ロナルド・レーガンとジョージ・H.ブッシュがホワイトハウスに登場して以来、WACLはかつての活力を取り戻し発展を続けた。以前からの人脈はその成果を現してきた。米国の軍産複合体は、世界自由委員会(Council for World Freedom, USCWF)の名称の下にWACL米国支部創設の財源提供に努めた。ジョン・K.シングロウブ将軍がこれを指導しダニエル・オグラハム将軍が副委員長となった。しかし実際の狙いはそうではなかった。軍産複合体はWACLの権力を我が物にし世界の反共弾圧政策の中心的な道具に作り変えた。シングロウブはこうしてWACLの総裁になった。
(画像:図表「1982年の反ソビエト戦争の資金」)http://www.redvoltaire.net/IMG/jpg/dos390.jpg
[連合があらゆる前線で活躍]
アフガニスタンでのソビエト勢力と戦うために、アメリカ保安委員会[15]はWACLのそれに関する部門に資金を提供した。ヘリティジ基金に本部を置く自由アフガニスタン委員会(Committee for a Free Afghanistan)である。この作戦は、マーガレット・サッチャー、およびMI6の長ニコラス・ベセル(Nicholas Bethell)卿の米国公式訪問を期に開始し、J.ミルノール・ロバーツ(J. Milnor Roberts)将軍がその指揮を取った。
この委員会は直接に『自由のための闘い』への軍事的援助に参加した。それはCIA長官ウイリアム・ケイジー(William Casey )[16]の決定によって実現し、オサマ・ビン・ラディン[17]によって運営された。公開されるビン・ラディン・グループのサウジ拠点での協力者であるアーメド・サラー・ジャムジョオン(Ahmed Salah Jamjoon)長老および一人の南イエメンの元首相が、WACLとこのサウジアラビア資本家の子弟とのつながりを作り上げたのだ。[18]
フィリピンでは、WACLを代表したのがフェルディナンド・マルコスである。しかし1986年に彼が失脚すると、ジョン・K.シングロウブとレイ・クラインは新しい相談者を作りに現地へ赴いた。彼らはそこで反ゲリラの議員組織を作り、フランク・カールッチ(Frank Carlucci )[20]、ジョージ・H.ブッシュ、およびビン・ラディン家の友人であるフィデル・ラモス(Fidel Ramos )将軍[19]に目星をつけた。
【注釈】
[1]”Stay behind :Las redes estadounidenses de desestabilizacio'n y de injerencia” (Thierry Meyssan,Voltaire, 20/06/2001:スペイン語)を参照 http://www.redvoltaire.net/article5.html
[2]フランス軍は1954年5月7日のデン・ビエン・フーの戦闘で敗れた。
[3]その一方で1955年1月29日に議会はアイゼンハワー大統領に対して、共産主義者による攻撃が起こる場合には台湾を防衛する戦争に突入する承認を与えた。
[4]”Re've'rend Moon : le retour”(Voltaire, 26/03/2001:フランス語)を参照。 http://www.reseauvoltaire.net/article7830.html
[5]ソパサイノ殿下はラオス議会副議長であったが、1971年4月23日にオルリ空港でフランス当局に逮捕された。荷物の中に60kgのヘロインを隠し持っていた。
[6] Ray S. Clineは朝鮮戦争の最も過激な見解を聞かせたアナリストであった。1958〜1962年にCIA台北支局の責任者。彼の表の姿はthe US Naval Auxiliary Communications Centerの責任者だった。後にコチノス(Cochinos)湾の失敗で引き起こされた人事異動のおかげでCIA副長官になった。著書にSecrets, Spies and Scholars(Edotirial Acropolis Books, 1976)がある。
[7] Michael LaseterはElizabeth ClaireのChurch Universal and Triumphant(CUT)の第一責任者であった。70年代の半ば、この教団はカリフォルニアの本部に軍隊用の武器が発見されるスキャンダルに見舞われた。責任者の一人は80年代にアフガニスタンのWACLの代表幹部に指名された。
[8] The School of Americasはその後米国のFort Benningに移転した。我々のネット資料ページには1947〜1996年のこの学校の学生の完全なガイドがある。(フランス語) http://www.reseauvoltaire.net/rubrique366.html
[9]この作戦はアルフォンソ・ロペス-トゥルヒーヨ(Alfonso Lopez-Trujillo)神父の協力で行われたように思える。彼は後にラテンアメリカ教会会議(CELAM)の理事長となった。【この神父はオプス・デイと深い関係を持つ:訳者】
[10]”1980: masacre en Bolonia, 85 muertos”(Voltaire, 14/03/2004:スペイン語)を参照。 http://www.redvoltaire.net/article694.html
[11] The National Coalition for Peace Through Strengthは議会のメンバー258名を集めるに至った。
[12]Daniel O’Graham中将は他の諜報局員との連携を担当するCIAの副長官(1973〜74)だった。後にDIA長官(74〜76)になる。アメリカ保安委員会の執行部長で、『スター・ウォーズ』計画の最大の擁護者の一人だった。High Frontierを設立し、1995年の彼の死までそれを主催した。
[13]1975年に極右団体がCIAを共産主義者の潜入者によって侵されており赤の脅威を減少させていると非難した。フォード大統領はそこでジョージ・H.ブッシュをCIA長官に指名しチェック体制を任せた。リチャード・パイプス(Richard Pipes)は、軍拡路線の再建を正当化する警告の通知を発行する『チームB』を作った。今日では、パイプス委員会が軍産複合体に市場を開くためにデータを故意に改ざんしたことが知られている。このテーマについては”Los manipuladores de Washington”(Thierry Meyssan、Voltaire, 11/01/2005:スペイン語)および”Daniel Pipes, expert de la haine”(Voltaire, 05/05/2004:フランス語)を参照。 http://www.redvoltaire.net/article3393.html http://www.reseauvoltaire.net/article13765.html
[14] John K. Singlaubは第2次大戦中はOSSの局員であった。日本に対して蒋介石の国民党ゲリラを作った。朝鮮戦争の間はCIA支局の責任者であり、後にベトナム戦争の間には、グリーン・ベレーを率いた。その後Fort Benningで対ゲリラ戦を指導。退職後はアメリカ保安委員会の訓練責任者となった。やがてWACLの総裁となる。
[15]1984年から民主主義国家基金がこの委員会に資金を送った。これは後に、アフガニスタンでの彼らの政治目的に都合の良い人道的組織が受け取る資金の一部へと引き継がれていく。特にベルナール・コウチネル(Bernard Kouchner)の国境無き医師団である。
[16]米国はアフガニスタンを意図的に不安定にした。しかしモスクワの軍事的な反応の大きさは予想しなかった。ワシントンはそこでこの戦争に加わらせるために同盟国を動かした。それはアフガニスタンの『自由』という目的ではなく、ソ連がアラビア海までの道を所有することを防ぐためである。
[17]1983年にWACLはオサマ・ビン・ラディンの顔をシャツに印刷し次のような説明を添えた。『アフガニスタンの自由の戦士を支援せよ。彼はあなたのために戦う。』