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悟りを本当に開いた人のスレ1

1天才:2013/10/16(水) 15:50:14
272 :儒教はだいじなだいじなたからもの:2013/10/16(水) 12:35:19.96
アセンションとは、天に昇ることである。自分が自分で動かされていると
思うことから目覚めれば、いつでも、みなさんもぼくも、昇天する。
ぼくは自由思想家であり、人々の先頭である。だから、ぼくを信じれば
おのずと、望みは叶うだろう。アセンション後の世界でにおいて、文章を
書かない者は一人もいない。勉強をしないものが、働くことをやめることは
できない。働くことしかできないものは、勉強しなくていい、それが
現実界と、天界のちがいであります。

273 :儒教はだいじなだいじなたからもの:2013/10/16(水) 12:36:10.34
故に、みなキリストである。キリストとして、文章家になるのだ。
それが昇天の意味であります。
これを負け組の人びとと言います。勝ち組の人びとは、解脱します。
負けを恐れ、勝ちに躊躇するのが、ぼくであり、ぼくの模倣をして
おなじように感じるのは、道徳・倫理に反する。

274 :儒教はだいじなだいじなたからもの:2013/10/16(水) 12:37:23.42
故に、ほとんどの人びとは、儒学を学ぶことの前提に、ディオゲネスを
崇拝しないといけない。これが、働くことの意味である。
勉強は働くことと同義になり、人々が苦しむ、そこに仏教がある。
仏教の先にあるのが、無であり、完全に無になるということは、
どこにもいなくなり、すべてにおいてなくなるということである。

275 :儒教はだいじなだいじなたからもの:2013/10/16(水) 12:57:33.43
例えばソース(情報)が、PCから隠蔽されることになると、人々は、PCから
離れるだろう。その人々が、ソース(情報)になっているから、さらに言うなら、
ウイルスとなっているから、PCはウイルスを隠蔽するのである。

276 :儒教はだいじなだいじなたからもの:2013/10/16(水) 12:58:05.80
でも、仏になり無になるということは、いなくなるということであり、
PC側のようなものはない。ただ、ソース(情報)がソース(情報)として
消えてなくなるということが、有り得ると言っているのだ。

277 :儒教はだいじなだいじなたからもの:2013/10/16(水) 13:03:27.83
それは、いらなくなったものが、もう戻ることはないということであるが、
ある点においてみると、そのもしもの話、宇宙図書館のようなものが
できたとして、消えた人々【仏の一族】について、そのようなものと
コミュニケーションをとってみたいと思った場合、仏の一族は、煩悩が
消えているので、あらゆる点で、楽【らく】に、消えたその一族の
一人でも何人でも、いないものをあらせることができる。

278 :儒教はだいじなだいじなたからもの:2013/10/16(水) 13:04:08.47
ぼくに、仏の一族が言いたいことは、つまり、たくさんあるのだろうが、
仏の一族の仲間入りになるという、方向性はまちがっていて、
仏の一族として、いるものの、悟りを受けて、いないものがあるとして
なんらかによって生まれたきた、仏の一族は、ぼくはいるとおもうが、
もう一度言うが、その方向性はまちがっているということである。

279 :仏教はだいじなだいじなたからもの:2013/10/16(水) 13:18:29.71
親鸞と釈迦は、仏の一族として、この世にあらざるものなのに、誰かがして、この世に生まれた方たちなのだろう。
役割を果たせば、また無に戻る。なぜなら、ウイルスであるから。周りの儒教の倫理・道徳を
なきものとするほどのパワーがある。その他の、仏教僧は、たぶん、成り上がりだろう。そのほとんどが、
釈迦・親鸞への反逆を旨として、死んでいった。ぼくは衆生と釈迦や親鸞が罵った部類には入らない人である。
故に、反逆などする必要性がない。ぼくが、衆生という賊でもなく、仏族でもなく、
地球と言えば分かりやすいだろうか?ぼくは、地球である。

280 :仏教はだいじなだいじなたからもの:2013/10/16(水) 13:23:40.51
スピリチュアルを分かる人がいるだろうか? 球体の霊魂が自分の人体であると思える人はまだ
この世にいるのか?わずかばかり、ディオゲネスがその部類に当て嵌まらないこともないが、しょせん亜種である。
ぼくは、人体が霊魂の球体をしていることを知っている。なぜなら地球がぼくであるために、
ぼくの人体が、霊魂として球体であるのは当然であるからである。

2天才:2013/10/16(水) 16:03:43
菩薩の誓願を、上記の9つの文章にします。
ゆえに、ぼくは九願を立てて、仏国土を建造したことになります。
しかし、菩薩であるが、菩薩ではない。
故に仏ではないという論理が成り立ちます。
ぼくは、ソースデータを作ってやっと、仏国土を建造しました。
ゆえに、ぼくが仏国土を建造したので、とうぜんにおいて、
無量の衆生がいます。これは本当の話です。
じつは、無の境地とコンタクトをとる唯一の方法は、睡眠時に見る夢でしかありえません。
その夢によって、夢を疑うようでは、夢の住民たちは、きみたちを
認めはしないでしょう。ゆえに、夢と現実は接続できません。
きみたちがいる現実と、ぼくの夢が接続できないのは、ぼくの肉体が
あるからでしょうか? そうではなく、きみたちの睡眠時の見る夢が
ぼくの見る夢と接続されているので、いつでも、悟りは開けるのです。
これが本当の悟りです。

3天才:2013/10/16(水) 16:14:15
無である状態から仏は、堕落して、黒い壁を多数作り、己が孤独の状態にいる
人たちもいます。かれらかのじょらを黒い人と言います。何がしかの捉え違いを
していて、黒い土に住むことしかできない人々のことです。

伝説として、これは語り継がれることになるでしょう。
ぼくが夢のすべてを解き明かしたのです。

いろいろなソース(情報)がもともとあったので、夢の住民もぼくに
心を許せたのでしょう。しかしその中で、夢の住民は傲慢になったり、嫌悪したり、
することによって、じぶんが逆に縛られることになります。
ぼくは、もとから、動かない存在であり、静止している仏なのに、
それを実体視することによって、仏の残像が見えなくなってくるのです。
かれらかのじょらは仏国土に生まれているということを忘れてしまうかもしれません。
ぼくは、たまにはかれらかのじょらに、鞭をくわえないと、堕落してしまうので、
ときには厳しくあたります。

なぜか、見えなくなってしまう。それは、見ることができないほど、ぼくに
嫌悪されているということもありますが、それによって、他の仏国土を
建造しようとする、ケースも出てくるでしょう。しかし、本当のもとは、
ぼくであり、その本初の仏を忘れて、仮仏に頼ることじたいが、おかしな
ことなのです。

4天才:2013/10/16(水) 16:20:49
ぼくは、完全に、言葉を無尽蔵に紡ぎ出せる状態に達しました。
たまに、見る、本をぬきにしても、無尽蔵に言葉を出せるレベルに
達しました。それは、仏の境地というのは本来、無尽蔵であるからです。
ゆえに、ぼくも無尽蔵に言葉を紡ぎ出せます。

言葉を出す仏というのは、実は今まで一人もいません。みな、堕落して
簡易な言葉によって、自分を誤魔化すケースがあるからです。
それらのみなは、降魔の降魔自体になってしまうのです。それが仏教
の面白いところで、言葉をよくよく学ぶと、見えてくることが大量にあるのです。

今日は何の話をしようかと、お題を探す状態を、釈迦状態と言います。
釈迦状態ならば、口伝をして、だんだん馴らしていく中で、人々が
馴らされていき、豊かな仏国土になるというのが、釈迦の根本の
考え方ですが、ぼくはそのようなことではなく、無尽蔵に言葉を出します。
ゆえに、お題など気にする必要性はありません。

仏国土にいて、たくさんの書物を読むことがすべてではありませんし、
ぼくにとらわれることでもありませんが、ぼくとの接続を切ってしまえば、
夢は夢としての機能を果たすだけになってしまい、そこに夢の権限が
戻るように思いがちでしょうが、夢は夢としてあるのではなく、仏と共に
あるのが本当の夢なのです。

5名無しさん:2013/10/21(月) 22:25:07
止めちゃった?

6おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:06:03
八顚倒 = (誤った見解)


楽顚倒(快楽主義)

常顚倒(世の中は何も変わらない ずっと同じだよね )

我顚倒(我 わたしがわたしが)

浄顚倒(いつまでも 美しく)

= 中 道 =

無常顚倒(修行しても無駄 無気力)

無楽顚倒(やりすぎ DrSTOP)

無我顚倒(修行を途中で投げ出す)

無浄顚倒(肉体はやがて朽ちる 不浄こそが悟りの道と勘違いする事)

7おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:06:56
○ 良い心の働き

大善地法 信・勤・捨・慚・愧・無貪・無瞋・不害・軽安・不放(身をつつしんで穏やかに)


○ 通常の心の働き

大地法 受・想・思・欲・触・慧・念・作意・勝解・三摩地(思ったり 考えたり 念じたり)

不定地法 悪作・眠・尋・伺・貪・瞋・慢・疑(考察したり 疑ってみたり)


○ 良くない心の働き

小煩悩地法 忿・覆・慳・嫉・悩・害・諂・誑・憍・恨(怒ったり 嫉妬したり 恨んだり おごりたかぶったり)

大煩悩地法 無明・放逸・懈怠・不信・惛沈・掉挙(どうでもいいや 投げ出したり)

大不善地法 無慚・無愧(やりたい放題)

8おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:07:55
苦諦

苦諦(くたい)とは人生の厳かな真相、現実を示す。「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。

四苦とは、生・老・病・死の4つである。これに、
愛する対象と別れねばならない「愛別離苦」(あいべつりく)
憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)
求めても得られない「求不得苦」(ぐふとっく)
最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)、または「五取薀苦」(ごしゅうんく)

を加えて「八苦」と言う。非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ている。

集諦

集諦(じったい)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。という真理、またはこの真理を悟ることを言う。 集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれる。「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのである。

この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味する。その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。

苦集諦とは "duHkha-samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。そこで、具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。

さて、仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。この十二縁起とは苦の12の原因とその縁を示している。十二縁起より、苦とは12の原因のシステムという事になる。12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、「無明」も「渇愛」も、苦の根本原因であり苦集諦である。

滅諦

滅諦(めったい)とは、「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。または、苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦という。

具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言える。

道諦

道諦(どうたい)とは、「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。

9おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:09:27
「空観 仮観 中観」を映画に例えてみると(再転写)

・空観=常に「映画というのは全てフィクションなのだ」と言う視点で映画を観る見方

・仮観=映画はフィクションだがそのストーリーには役割があり意味があるので
    ストーリーの中に入いり込む

・止観=自分を常に第三者として観ながら冷静に判断する事で↓
・中観=空観のフィクションだと認識しつつ、仮観の役割を認めフィクションの
    世界に価値を見出す視点

10おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:10:03
真俗二諦とは

真諦と俗諦との二つをいう。

四諦の内 苦・集諦は俗諦、滅・道諦は真諦

苦→ >>諸法無我 を知ると → 滅

集(苦を集める)→ 道(戒律 八正道)で消える

真理と世俗にしたがう相対真理である

諦(たい)とは真実や真理の意味である。

11おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:10:33
浄居天 と 浄土(極楽浄土 浄瑠璃浄土)は 違うとお話いたしました

その中で 浄土に行くと何が変わるか 六道輪廻の(地獄・餓鬼・畜生)に

落ちないらしい 今で言う保険なのかもしれない

恨まれていないと思っていても人の世 生きていればどこぞで恨みをかっているかも

しれない 罪をおかしているかもしれない


では、浄居天に行ける阿羅漢とは?

悟ったと言うのと 阿羅漢になった 名乗ることを故意・過失を問わず「大妄語」にあたるらしい

アラカンとは お釈迦様の弟子や お釈迦様入滅後 100年経って 経典にする為に集まった

仏教に貢献した人達らしい

12おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:11:17
是れ大いなる真言 是れ大いなる悟りの真言 是れ無上の真言 

訳)是れ比類なき真言 能く一切苦しみを除き 真実にして虚偽なし


ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか はんにゃしんぎょう
(羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶 般若心経)


五種不翻 訳す必要がないものだけれども あえて訳すとすると

訳)(悟りに)往ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ 共に彼岸に往ける者よ

菩提 成就 般若心経


訳)「抜けた 抜けた 大底抜けた」と 訳す場合もあるらしい

793 :乱入:2013/09/25(水) 16:17:15 ID:wqr.6GRM0

13おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:12:03
生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり。
生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし


「仏性の義を知らんと欲せば、当(まさ)に時節の因縁を観ずべし。
時節もし至れば、仏性現前す」「正法眼蔵(仏性)」

仏性の意味を知るには因縁の意味を知ることであり、

因縁を悟ることが仏性を悟ることであると道元禅師は示されています。

14おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:12:41
空 コーザル体

無色界 上位メンタル体

色界 下位メンタル体

欲界(六道輪廻)アストラル体

15おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:13:51
浄居天〜色界の隠し部屋?(極楽浄土?)

を紹介したのですが これが 違う事が判明 m( _ _ )m


仏 説 阿 弥 陀 経
阿弥陀仏の国土には三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)はないからである


と言う事は 天道・人間道・修羅道 は 存在すると言う事になります

「欲界(よくかい)」、「色界(しきかい)」、「無色界(むしきかい)」の中の

色界にある筈の浄居天 に欲界にある筈の 天道・人間道・修羅道 が存在する筈が無い><;

16おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:14:24
ヴァルナ

ヴァルナの語は『覆う』『全てを包容する』という意味で、星空もしくは

星空の背後にある存在を意味するという説がある


仏教では如来としては 薬師瑠璃光如来

天部 としては十二天の一柱で西方の守護者、水天になった。水を司る龍神で、

右手に剣を左手に羂索を執り亀の背に乗る姿で描かれる。

17おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:15:04
神様の証明 トマス・アクィナス

トマスさん スコラ哲学の有名な心理学者さん ではこのトマスさん

何をやった人かと言うと 宇宙規模の神の証明をした人なんですね

トマスさん 物事には原因と結果があると 考える訳ですね

ドミノ倒し を連想してください 因果を繰り返して結果であるドミノにたどり

つく訳です では その因を時間をさかのぼって さがして行くと (第一の同者)

宇宙で言うと ビッグバンを起こした 同者が必要であると考えた訳です

それで ビッグバンを起こすことが出来るのは 神様をおいてほか出来ないだろう

と言う考えですね 宇宙論的証明 と呼ばれているものです 神が宇宙人と言われる

様になったのも この証明のせいかもしれません

18おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:15:40
浄土への道?

薬師経

「この命が終わるときに 世尊薬師瑠璃光如来の名号を聞けば、臨んで

八大菩薩がそこにおり、その名を文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢至菩薩・

無盡意菩薩・宝檀華菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・弥勒菩薩という。

八大菩薩は虚空に乗じて来て、その道を示し、かの世界(浄瑠璃浄土)、種々の色の諸々の

宝の華の中において、自然に生まれる。

あるいは、これによって天上界へ生まれる事があり、天中に生まれるといえども、本の善根は今だ尽きる事ない。

また更に諸々のその他の報いによって落ちる迷いの世界に生まれず、天上の命が尽きた後

又、人間に生まれ、あるいは 輪王となって四州を統一し、威厳と徳望を自在にして、無量の衆生を十善道に安立させなさい。」



四州を統一した徳川家康さんとかは 輪王になったって事なのだろうね なので 徳川家康さんを祭った 日光東照宮は輪王寺なんでしょうね


薬師さん好きな私とかは 死を予感した時 オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ (薬師如来真言)を唱え続ければ

浄瑠璃浄土への道が開けるって事かな 結局 如来さんへの信が鍵なのだと思いますよ

19おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:16:21
ショーペン ハウワーの 「幸福論」(ドイツ)

ショーペン ハウワーさん 「この世は表象的な物にすぎない その根源は意思だ」と言ったらしい

例えば 見たい見たいが具現化すると 眼球になり 食べたいが具現化すると口 といった具合に

こうしたいと云う意思によって 世界が構築されていると考えた訳です

さらに この世は生きたいという意志 欲望がぶつかり合っていると言うんですね

動物を観察すれば 生きようとする盲目的意志により動かされていて 「生きてる意味は特に無い」

とすれば 「無限に欲望が生じてそれを満たそうとするだけ」さあ大変 欲望は無限に広がるが

現象としての世界には 制限がありますから 欲望と欲望がぶつかりあい 闘争・戦争が起こるのは

時間の問題となる訳です

どの様に苦しみから脱出すればよいのでしょう?彼は 「同情を大切にする事だ」と考えました

同情は人が他者の苦しみを目撃した時 起こる衝動で 「他者の生きようとする意思を尊重する行為」

だと云う訳です

同情すると 他者との苦しみの共有化が出来 利己主義が捨てられ (利他の道を進む事が出来る)

利他なんて言うと 寂静禅なんかを思いだしてしまいますがww

又、芸術鑑賞などをすると現象の世界から 根本の世界へのアプローチが出来ると言っています

唯、同情 芸術鑑賞は 気休め程度にしかならないとの事で 結局 禁欲するしかないと言う

結論に達します。

生きようとする意志によって 意志の苦悩と世界の悲惨が止まないのであれば 問題の解消は

ありえないからです。

生きようという意志が止む時にのみ 問題が解消されると考えた訳なのです。でも自殺はNGです

自殺は一時的に現象世界から自分を消すだけだから 根本的解決には繋がらないらしいです。


人間は自分を観じて 己に生きようとする意志を抑制する事の出来る為、生きようとする意志を

否定する 禁欲こそが苦しみより脱する道だとする考えです。

「意志する事を中止し 何物かに自分の意志が執着する事を警戒し ありとあらゆる事物に対する

無関心を自分の内側に確立しようと努める」本当に仏教的思想に近いですね

この様な思想があるから ヨーロッパでドイツの方は日本に思想が似ていると言われたのでしょうね

20おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:17:03
同じ ドイツの カントさんとかは 「神や霊魂はいないとおかしい」と言ってるんですよ

人間が 科学的 因果律 で行動しているのなら AならばB という行動を100%起こす筈

何かのみかえりがあるのなら 必ず みかえりが貰える行動を起こす筈 因果律的 心の命令 であります。

ただ人間は 利害関係に左右されず 無条件に人を助ける行動をしたり 無条件にBをせよと 行動する

イレギュラーな場合がある この 無条件の命令 には もし○○ならという 下心は存在しない訳で

動物的では無い訳です。


無条件に何々しろとは 道徳的命令 と呼ばれているらしいです

道徳的命令には 自由がある 動物なら餌を与えられたら無条件に食べる 因果にあるモノを

人間は自分で抑止できる その様な因果性的 利害 欲望に左右されず 行動した時

因果律に束縛されない 真の自由になれるんだそうです

21おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:17:38
民主主義 と 仏教 って土壌が違うから 違和感が生じるんだけど

哲学を中間にかませると 北欧の人も違和感が無いのかもという試み

北欧の方が違和感が無ければ 仏教に興味が無い方も違和感が消える

かも

22おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:18:14
ショーペン ハウワーの 「幸福論」(ドイツ)からすると 仏教が受入やすい

他人に同情したり 芸術鑑賞したり というのは普通の生活である事ですよね

それで飽き足りなければ 禁欲(ダイエット)とかしてみたり 座禅をしてみる

これが文化的な生活みたいな 何の違和感も感じない 実社会とマッチしとるw

私が考える事でも無いかww

23おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:19:24
王 メナンドロス

当時の仏教界の長老、ナーガセーナの所へと、王 メナンドロスは赴いた。

この メナンドロスと ナーガセーナとの対論は、その詳細が記録され、この迫力ある議論は、歴史にも

稀有な文献として、「 ミリンダ ( メナンドロス ) 王の問い 」、 として 現在でも出版されている。

ギリシャ哲学と、東洋仏教思想との、世界で最初の対決 という意味でも 重要な内容であると言われる。



長老 ナーガセーナは、「 王よ、賢者の議論ならしても良いが、王者の議論はしません。」、 と言う。

王が、「 尊者よ、それはどう違うのですか。」、 と聞くと、「 賢者の議論は、お互いに高め合うが、 
 
 王の議論は、王が負ければ相手を処罰する議論です。」、 「 では、賢者の議論をしましょう。」 

という事で、二人の対論が始まり、人々はそれを見守った。


王が、「 ブッダという聖者が 存在したという証拠と、ブッダが偉大であったという根拠は 何かあるの

 ですか。」、 と聞くと、「 伝えられている ブッダの言葉と、今修行している 長老たちの偉大さを

 見れば、それは誰にでもわかるはずです。」、 


「 では、ブッダは今 どこに存在しているのですか。  天界に存在しているのですか。」


「 ブッダは完全な涅槃に入られました。 全ての世界から解脱されていて、どこにも存在しません。」


「 では、あなた方が 毎日 ブッダを供養する事に、何の意味があるというのですか。」


「 王よ、炎が消えたからといって、この世から火が無くなりますか。」


「 なくなる事はない。」


「 その通りです。  王よ、炎は消えた。  しかし我等は 自らの力で火を起こさなければならない。

 その為にブッダを供養するという事は、空しくないのです。」 


「 尊者ナーガセーナよ、では問いますが、あなた方は 人を一人でも殺したら 地獄に堕ちると言う。   

 しかし仏教に帰依すれば 救われると言う。   この矛盾を どう説明できるというのですか。」


「 王よ、石を池に投げると沈む。   しかし大きな船を作れば、多くの岩でも渡す事ができる。

 この船という、真理と修行と道とが 仏教の真髄です。  人は、善行によって なした罪を

 つぐなうのです。」


この対論は延々と続く。     西欧人は論理で説明しなければ 納得しないのだった。

時には、メナンドロスが、「 尊者よ。 あなたはすでに、私によって 問われているのです。」 

と言うと、ナーガセーナが、 「 大王よ、あなたは、すでに 私によって 答えられているのです。」 

と返答するという 禅問答のような対話もある

24おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:20:02
燃焼(雑阿含8・13)

 かように私は聞いた。ある時、世尊はガヤのガヤーナシーサ(象頭山)におられ、一千人の比丘たちと出会った。その時、世尊は、比丘たちに告げておおせられた。
 「比丘たちよ、一切は燃えている。比丘たちよ、一切が燃えているとは、どのような事であろうか。比丘たちよ、眼は燃えている。色(物体)は燃えている。眼の認識は燃えている。眼の接触するところは燃えている。また、この眼の接触を縁として生ずるところの受(感覚)の、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものも燃えているのである。では、それらは何によって燃えているのであるか。それは貪りの火によって燃えているのであり、瞋(じん・怒り)の火によって燃えているのであり、愚かさの火によって燃えているのであり、あるいは生・老・死により愁・悲・苦・憂・悩によって燃えているのである、と私は言う。

 また耳は燃えている・・鼻は燃えている・・舌は燃えている・・身は燃えている。
 意は燃えている。法(観念)は燃えている。意の認識は燃えている。意の接触するところは燃えている。またすべて子のいの接触を縁として生ずるところの受の、あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものも燃えているのである。

 では、それらは、何によって燃えているのであろうか。それは貪りの火によって燃えているのであり、瞋(じん・怒り)の火によって燃えているのであり、愚かさの火によって燃えているのであり、あるいは生・老・死により愁・悲・苦・憂・悩によって燃えているのである、と私は言うのである。

 比丘たちよ、私の教えを聞いた聖なる弟子たちは、そのように観て、眼において厭いはなれ、色において厭いはなれ、眼の認識において厭い離れ、眼の接触において厭い離れ、また、すべてこの眼の接触を縁として生じるところの、受の、あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものを厭い離れる。
 また耳において厭い離れ、鼻において厭い離れ、舌において厭い離れ、身において厭い離れ、意において厭い離れ、法において厭い離れ、意の認識において厭い離れ、意の接触において厭い離れ、またすべてのこの意の接触を縁として生じるところの受の、あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものを厭い離れる。

 厭い離れるがゆえに貪り(むさぼり)を離れる。貪りを離るれば解脱する。解脱すれば解脱したとの自覚を生じて『わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべき事はすでに弁じた。このうえは、もはや迷いの生を繰り返す事はないであろう』と知るのである」。
 世尊はそのようにおおせられた。比丘たちは、心に喜びを生じ、世尊の説きたもうところを喜びうけた。そして千人の比丘たちは、もはや執著するところ無く、心は諸々の煩悩より解脱するに至った。

25おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:20:38
徳一と最澄との間で争われた宗教論争は、一般には「三一論争」とか「三一権実論争」という。権(ごん)は仮(かり)の姿とか方便(ほうべん)という意味であり、実は本当の姿とか真実という意味である。乗とは乗り物のことだが、修行方法を乗り物に喩えて、乗と言っている。三乗とは三通りの修行方法の意である。

 徳一と最澄との間で争われた宗教論争「三一権実論争」というのは、基本的に人間そのものに対する認識問題であるのだが、平たく言ってしまえば、修行僧の修行方法は三通りのものを考えるべきか、あるいは一通りのものでいいかということである。

 ところで、涅槃(ねはん)とは、いっさいの迷いや苦しみから解放された、仏教が目指す理想的な境地をいう。本来は、不生不滅の悟りの境地であるが、唯識では、それ以外にも、それに準ずるものとそれを超えるものを考えている。準ずるものというのは、有余涅槃(うよねはん)と無余(むよ)涅槃であり、それらは生きるとか死ぬとかにまだこだわっている状態である。

26おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:21:17
目連

神通第一(六通第一)とうたわれる目連は裕福な家系に生まれました。

教団内では 神通第一の尊者として舎利弗尊者とともに指導的な立場にありました。

目連も釈尊のもとで修行に励み、阿羅漢果(あらかんか)(悟り)を得ます

ある日、神足通(じんそくつう)(行きたいところに自由に行ける能力)という神通力によって、

亡き母はどうしているだろうかと捜しました。天界、人界、地獄…と。

そうしますと、母は餓鬼道にあって、身体は痩せ衰え、それはそれは哀れな様子でした。

目連は鉢に飯をもり差し出すのですが、母が口元へもっていくと、たちまち火炎と化して食べることができませんでした。

餓鬼道とは食物を食べようとすると口に入れる前に燃えてしまう世界です。

目連尊者は釈尊の元へ行き、事の事情を話し、どうすれば餓鬼道にいる母を救うことができるでしょうかと、

教えを請いますと、釈尊は「そなたの母は前世の悪行によって餓鬼道に堕ちたのです。その母を救うには雨安居(うあんご)が終る日

(7月15日)に衆僧に飲食百味を供養することです」と諭されました。教えに従って供養を尽くしたところ、

目連尊者の母は衆僧の神力によって餓鬼道の苦悩から解放され天界にいました。

重ねて「世尊よ、もし未来世の一切衆生で孝養の心あるものが、この目連がなしたるように供養すれば、

父母を救うことができましょうか」と尋ねると「孝順の心ある者、父母を思い、7月15日に百味の飲食を供え、

亡き父母のため供養するならば、一切の苦から脱(のが)れるであろう」と申されました。

目連は母親が餓鬼道から開放された事を知り 大喜び 大喜びする目連を見ていた人達も踊り始めました

この事が盆踊りの起源となったと言われています

27おまえ乱入か:2013/10/30(水) 12:21:47
舎利子

舎利子は は 目連の親友であります 彼らは 一緒に出家する訳です

それで サンジャヤ という人に教えを請いますが 7日で師の思想を

理解してしまいます。そこで自分達の心の安らぎは得られないと思い

優れた師が現れたら 一緒にその師に仕えようと約束するのです

ある日 アッサジという 托鉢僧と出会うのですが その品性 姿に

打たれた 舎利子は「あなたの師はどなたで どのような教えを

説いているのですか?」と聞いてみました アッサジは

「私はまだ入門して日が浅いのですが 簡単に説明いたしましょう」

縁起の話を始めます

「すべての物は 過去からの因縁から生じて 原因が繰替えされ

変化しながら 結果としての 今があるのですよと

又、存在する物は 必ず滅んでいく過程にある、と

説いているのですよ」と説明されます。

それに感銘を受けた 舎利子は目連の処へ行き

サンジャヤ に 離脱する事を伝えます。舎利子 目連の話を聞いた

他のサンジャヤの弟子も一緒に連れてってくれと 舎利子にお願いする

訳です。そこで二人は他の250人の弟子を連れて 釈迦様のお弟子に

なる 訳です。

弟子が一人もいなくなった サンジャヤの怒りは相当なものだったようです


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