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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板

1197役行者:2012/02/21(火) 03:57:37 ID:rZ75Wp0Q

 合掌

 復興Gさま

 孫子の兵法がこんなにも有意義な内容を示されているとは思ってもみませんでした。
 私だけでなくみなさん、参考になられたことと思います。ありがとうございます。



 >結論として、孫子はこう言う 「戦わないうちから廟算(びょうさん)して勝つ 者は、五事七計をもとに比較計量して得られた勝算 が相手よりも多いからだ」と 。
 廟とは、日本で言うなら、ご先祖様を祀るお 墓でしょう。「廟算」というのはつまり、「ご先祖 様に誓って、嘘偽りなく、自分に都合よくなど見な いで公正な目で勝算を測ります」というような意味 になる。
 その「廟算」を厳しく、公平に、かつ入念 に行えば、必ずや勝つ。
  逆に、これをいい加減にすると、負ける。 
  それが当たり前の法則なんだ、と言うんですね 。人間には自分に甘いところがあるので、何の根拠 もなく、すべてが自分に有利に運ぶと信じて、「大 丈夫、勝てる」などと思い込む傾向があります 。
 「廟算」をおろそかにするどころか、まったく勝算 ありなしを考えずに戦ってしまうことすらあるで しょう。そんなふうでは、「戦わずして負けた」も 同然です。「五事七計」をもって、厳しく公正な目 で勝利のシミュレーションをすることこそが、「戦 わずして勝つ」ことの基本なのだ、というのです。
  これが「勝算」の語源なのですね 勝算がないのに戦うのは無謀というべきなので しょう <


 またまた、戦国武将になった気持ちです。勉強になります。
 孫子の兵法はいまでも十分に通用するのですね。
 廟算ですか・・・はじめて耳にした言葉です。
 三国志を読んでもそうですね。常に沈着冷静で、ご先祖様との対話を欠かさない方々が勝利を得てますね。
 いま現在、まわりの状況を、ご先祖様の霊前にて冷静に見つめるものに勝算あり!ですね。
 五事七計、心に深く留めておきます。

          敬 具

1198ももんが:2012/02/21(火) 05:46:37 ID:XXCuaQns
皆様、おはようございます。本日も素晴らしい朝が、やって参りました。さあ、今日も嬉しく、楽しく、明るく、素晴らしいコトバで世の中を光の世界にして行きましょ!ありがとうございます。合掌、拝。


〜明るい未来を思え〜

物事の光明面を見て、明るく伸々と、たのしく生活し、さらに伝道などして『よいこと』をしていると、必ず『よいこと』が起こり、思いが叶い、どこからともなくポッカリと幸運が舞い込んで来るのである。それ故、多くの人々がこのように『神の子・人間』を信じ、ありがとう“日時計主義の生活”をやるようになることが、日本の運命をよくし、豊かにし、平和にする唯一最高の道であると言うことが出来る。

〜谷口清超先生著・『ありがとう』はすばらしい・より 〜


昨日も、たくさんの方に『おはよう』『ありがとう』とコトバを交わしました。“掲示板の世界”では、まだ、まだ、ですが、外の世界では、皆様、挨拶するだけで、嬉しくなるのが、伝わるようです。花の蕾も大分膨らんで、春は、すぐそばに、来てます。

それでは、皆様、春を楽しみに待ちながら、今日も、嬉しく、楽しく、明るく、お過ごしください。ありがとうございます。合掌、拝

1199復興G:2012/02/21(火) 06:46:35 ID:ojEbkDH2

役行者様。

>>1197 は、午前03:57:37の書き込みですね。
日本の行方・生長の家教団の行方が気にかかり目がさえて眠れない「耿耿(こうこう)の言」でしょうか。

 『孫子』について、もう少し。

 武田信玄の有名な「風林火山」という言葉の原典も、『孫子』の「軍爭篇」に出てくるんですね。
 「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し。」
 ──これは、神想観から出てくる自由自在の境地のように思えます。また、

 「自ら反して(かえりみて)縮(なお)ければ千萬人と雖も吾往かん」(自分にやましいところがなければ、たとえ千万人が束になってかかってきても、恐れずに立ち向かう)という言葉も、『孫子』(公孫丑上)に出てくる言葉だと知りました。そして

 「始めは処女の如く、終りは脱兎の如し」などといわれる慣用句も、『孫子』(九地篇)に
 「始めは處女の如し、敵人戸を開く。後(のち)は脱兎の如し、敵拒(ふせ)ぐに及ばず」とあるのが出所なのでした。初めのうちは弱々しく見せて戸を開かせ、いざ攻める段になったら、逃げる兎のような速さでダーッと攻め込む。敵はもはや防ぐ術もない、というのですね。

<最初からぐいぐい攻めていくと、敵は防ぎようもありますが、弱々しく見せかけておけば敵も慢心する。そこにつけこむのが、緒戦をモノにする鉄則でもある。ビジネスや人生でもそう。「能ある鷹は爪を隠す」「弱い犬ほど吠える」。本当に強い人・強い組織というのは、周囲にやたらと力を見せつけるようなことはしない。むしろ弱そうに見せておいて、ここぞのときに力を発揮するものです>

 と、『孫子の至言』の著者は解説しています。

 ところで、何よりも基本は
 “戦いは、「生きるか死ぬか」の瀬戸際なのだから、軽々しく戦うな”
 ということであるのを、肝に銘じたい。

 「百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり」。
 ──百回戦って百回勝つなんてことは、「善の善」じゃない。むしろ、非常に危ういんだ。
 「凡そ兵を用ふるの法、國を全うするを上と爲し、國を破るは之に次ぐ」。──一番上等な戦いは、勝ったとしても敵国に損害をおよぼすような戦い方は褒められたものじゃない、ということです。

 私たちは今まで、孫子の兵法に照らしても、まったく下手な無謀な争いをしてきたのではなかったか。今までのようなことをこれからも続けたら、世人から

 御教えの、(ヨッ)継承を、
 前面に出して運動し、(ヨッ)
 斬って斬って斬りまくり(ハッ)
 生命に(ヨッ)弔辞おば(ヨッ)
 宣べてるばかりの、運動よ(ヨッ)
 なんてーの?その団体?
 「生弔の家と申します」
 ヨー、オッペケペオッペケペオッペケペポーペッポッポー♪

と、あざ笑われることになりかねません。
そんな悲しいことにならないようにしなければなりません。

 孫子の兵法には、人生の指針として今も活用できるものがあるようです。

1200役行者:2012/02/21(火) 07:46:33 ID:rZ75Wp0Q
 合掌

 復興Gさま

>
 >>1197 は、午前03:57:37の書き込みですね 日本の行方・生長の家教団の行方が気にかかり目が さえて眠れない「耿耿(こうこう)の言」でしょう か<


 これねぇ、そんな格好いいものでなく、早く寝過ぎました(^^;)

 孫子の兵法、是非、人生の指針とさせていただきます。

1201役行者:2012/02/21(火) 08:00:54 ID:rZ75Wp0Q
 合掌

 ももんが様

 お褒めいただき、恐縮です。

 善し悪しは別にして、人は前世から引き続き請け負った業、ご先祖様の業、そして、今生で培ってきた自分の生き様が今の環境となってあらわれていると存じます。
 ひとそれぞれの宿命があり、その環境で切磋琢磨するなか、やがて水中を遊泳するが如く使命を邁進できる日がやってくるのでしょう。
 孫子の兵法の五事七計ではないですが、天の時、地の利、人の和の満ちたときが、その使命を成就する時と信じております。

 いまは内に大いなる夢を秘め、諸学を学びなから、サラリーをもらって生業している方々の心の機微やはからいも日々精進の糧として、自己研鑽中でございます。
 なぜかそれが結構、楽しいのです。

1202a hope:2012/02/21(火) 09:47:33 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

素直に無邪気に


同じことをお父さんに言っても、叱られる場合と、叱られぬ場合とがあります。
なぜそうなるかを考えてみたことがありますか。

それはお父さんの御機嫌の好い時は叱られないで、お父さんの御機嫌の悪い時は叱られるのだとお考えになりますか。
必ずしもそうばかりではありませんよ。素直に無邪気に物が言えた時には、
その人の眼の色にも、顔つきにも、言葉つきにも、明るい、生き生きとした、
伸び伸びといたところがでているから、その眼の色を見、顔を見、言葉を聞くと快い気持ちになって叱れなくなるのです。

同じ人でも、無邪気で素直であるときと、無邪気で素直でない時とは、こうも形にあらわれ方が異うのですよ。
言葉、形、さては一本の線を引くのだって、無邪気に素直に自分の本物を出すようにすれば、
皆から喜ばれるのです。入学試験を受けるコツもこれですよ。
無邪気にやれば覚えただけでは皆出てくるが、無邪気な素直な心を出せないで、
恐れていると、憶えているのまで忘れてしまって、出て来ないことがあります。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

みなさま おはようがざいます。

わたしの住むところでは、梅の花がだいぶ咲いてきましたよ。
わたしのウォーキングコースに、とても立派な緋寒桜の樹があって、
その桜のつぼみも、日に日に大きくなっています。
みなさま、春はもうすぐですね!

他の板に、「春らんまん」さまという名前のお方が書き込みして下さっていますね。
名前を見ただけで、心が明るくなりました。
春らんまんさま、たくさんの貴重な情報をありがとうございます。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

それでは、わたしはこれからお出かけです。
わたしの大切な「生長の家」みなさま、今日も素敵な一日をお過ごしください!

1203復興G:2012/02/21(火) 11:45:41 ID:ojEbkDH2

役行者さま。

 私は今、
 「中心帰一」
 「中心者にハイ」
 ということについて、真剣に考えています。

 役行者様が、
 <中心帰一とは、身の安全を守るため、媚びへつらい、右向け右!のことをいうのでしょうか。>
 と書かれたことをめぐり、「本流対策室」板<1619>で
<生長の家を支えるものは「中心帰一」であり、そして生長の家をおかしくするのもまた「中心帰一」であると、ずっと思ってきました。>という「靖国見真会」参加者さまのコメントを紹介され、
 「中心帰一とは何か! 諸共集い、話し合う時期が到来してきているようです。」
 と書かれていました。

 その「中心帰一とは何か」です!

 『實相研鑽』という本があります。
 かつて、谷口雅春先生の元で「實相研鑽会」というのが毎月1回行われ、東京都の地方講師たちが集まって真理実践の体験発表や質疑応答をし、谷口雅春先生の御結語を頂いていました。その記録が『生長の家』誌に掲載され、まとめて3冊の単行本として日本教文社から発行されたものです。その第一集の最初に、

 「妻が夫にハイと言う限界について」というタイトルで昭和35年4月24日の研鑽会記録が収録されています。
 その内容をかいつまんでご紹介します。

 U講師が、白鳩誌友会で質問を受けた。質問者は家が商売していて、夫は消極的で商売が下手である。妻がするとうまくいく。ところが生長の家では「夫にハイ」と従うべきだと教えられた。それで自分は間違っていたと責めていたら病気になってしまった。
 「これからは何でも夫の言うとおりにしなければならないと思ってやっていると、夫から商売のことを相談される。“私はあなたの言うとおりハイと従いますから”と言って、何も言わないでいると、夫はそれじゃ心細い、困るなあと言われる。」それでまた迷って、「夫にハイというのは、どこまでがハイで、どこからハイと言わなくてもよいのでしょうか」と聞かれた。──そういう問題提起から始まり、いろいろな講師が意見を述べます。

 H講師は、同年3月白鳩大会での谷口輝子先生のお話として、K夫人が夫に胎児を堕ろせと言われた。それにハイと従ったら、夫に殺人の罪を犯させることになるから、従うわけにはまいりません、離縁していただきますと言った。それはわがままではなく神を愛し夫を愛する真心から出た言葉であったので、夫は妻のまごころがわかって、「生むことにしようよ」と言われた──というお話です。それで輝子先生に「もう一度お言葉を」とお願いされ、輝子先生もお答えになっています。

 さて谷口雅春先生の御結語は──
 これは、原文のまま謹写させて頂きます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   実相の夫に従う

 谷ロ雅春 梅津さんの言われた、商売の不得手な夫が奥さんに「この商売どうしたらいいのか、お前ひとつ教えてくれ」といわれるのに「私はもうハイの精神で、夫の言うことにばかり従うんだからもう私の意見は言いません」というのは、ハイじゃないと思いますね。夫は「教えてくれ」と言ってるんだから「ハイ」と言って教えたらいいんだろうと思いますがね。これはむしろ夫に対して反抗的に「もう何だって私の意見を言うものか」というような気持になっているのであって、素直に教えないのは本当じゃないと思います。
 夫に素直に従うということは、夫を神としてですね、実相の本当の夫に従うということでなければならないわけで、夫をいかに神として信頼しているか否か、という根本が定まらなければいかんと思うんですよ。その根本が定まらないところに、「夫はときどき間違うものである、夫は時には“泥坊せよ”とも言うものである。言うかもしれんのであるが、それに従ってもいいのであるか」という考えが起る。それは、すでに妻が夫の完全な実相を見ていないことである。だから妻の観る通りに夫が現れるということになって、やはり夫に“迷い”が現れる。そこでその“迷い”(の夫)の言う通りに従ったら、(正しい)夫の言う通りに従っているのでなくて、自分の迷いが夫に映ったその迷いを聴いて従っているのであって、自分で“自分の迷い”に従っているということになるわけです。
 だから先ず根本的に、夫を神の子として尊敬して、夫の実相を喚び出さなければいかんわけです。そしたら夫は悪いことは言わんわけですよ。「おまえ間男せい。わしはお前嫌いになったから、間男せい」なんていったって、ハイと素直に従うて「間男して来ようか」と、そんな馬鹿なことはないのですね。本当の夫はそんなこと言うもんじゃないということを、根本的に実相を拝んで実相の完全さを引出した上で、夫の要求を聴いて素直に従う、というのであれば間違いないと思うわけですよ。
<つづく>

1204復興G:2012/02/21(火) 11:46:25 ID:ojEbkDH2

實相研鑽会「妻が夫にハイと言う限界について」
谷口雅春先生御結語の<つづき>

   夫の実相を喚び出す

 それから“夫が堕胎せよという、いやなら離婚する”というK婦人の話の場合、夫は必ずしも堕胎せよと言ってやしないんです。「堕胎するか離婚するか、どちらか二つのうち一つを選べ」と言っている。そうでしょう。だから、どっちが本当に夫の実相が呼びかけているのか、ということを聴かなくちゃいかんと思うのですよ。
 そうすると、夫の実相は神なんですから、神ならどう言うか。神なら“おろせ”とは言わん。そしたら、神のみに従うということが夫の実相に従うことになるわけだから、「それでは離婚さしていただきます」と素直に言って夫の実相の声に従う。「堕胎いたしません」と言うのも、夫の本当の声に従ったのですよ。その本当の夫の声に従ったから、夫は“もうこの妻を離婚する必要はない”と自然に実相が発露したというわけで、妻が夫の実相を喚び出さなくちゃいかんですよ。実相を喚び出さないで迷いを喚び出して迷いに従っていながら、「夫に素直に従っているんだ」と言うのは、根本的に間違っていると思います。だから、“神に従うことが即ち夫に従うことである”と完全に一致することになるわけであります。(拍手)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 上記は、私たち信徒が生長の家総裁に「ハイ」と従う場合にも、ヒントになることであると私は思っています。

 生長の家は、原理主義ではない。真理の中心部分は変わらないけれども、周縁部分は時代環境に応じて変わらなければならない、と総裁がおっしゃるのはその通りだと思います。しかし、総裁は神であるならば、真理の中心部分までも変えてしまうような説き方を、神がされるはずはない。生長の家の教えの中心は、現象はあるように見えても、本来無い。影に過ぎない。実相、完全円満な神のみが実在する、ということでしょう。「真理への道はただ一つ、人間は神の子であるということである」。神の子であるとは、イエス・キリストと同じ尊い存在であり、神であるということなんですね。その神以外に何も無い、ということが教えの中心なのですね。完全円満なる神なる総裁が「実相なんか有るか無いかわからない、そんなことはどうでもよい」などとおっしゃるはずはない。もしそんなことをおっしゃったら、私は「離縁していただきます」と申し上げるでしょう。
 雅宣総裁は、「私は神ではない。私の言葉は私の言葉であって、神の言葉ではないから、私の書いたものは聖典と呼ぶな」とおっしゃいました。それでも、やはりすべては神なのだから、総裁のお言葉は神のお言葉であると考えなければならないと、私は思ってきました。しかし、上記『實相研鑽』の谷口雅春先生のお言葉を読むと、これは大変むずかしい公案を与えられていると思わざるを得ない現在です。

 生長の家の根本教義は、『生命の實相』に記されています。現象界に出てきた本には誤植もありえますし、科学的知見などは時代的に合わなくなっていることもありましょう。それでも、根本真理の神の波動がそこには鳴りひびいています。その『生命の實相』がなくなっても、新しい雅宣総裁の『新・生命の實相』が書かれたらよい、とは私は思いません。もし仮にそうなるようだったら、生長の家から神さまが無くなることになるので、私は離縁していただきます。

1205「訊け」管理人:2012/02/21(火) 12:00:50 ID:???

>復興Gさま

『實相研鑽』・・・・・すばらしい御本でありますね。
 感動しております。ブログで使用させては頂けないでしょうか。

 いつも的を射たご投稿をありがとうございます。

1206ハマナス:2012/02/21(火) 12:31:06 ID:u5mC.eb2

皆さま、ありがとうございます。
今日は暖かく、太陽が光り輝いています。
春の気配を感じます。

ももんが様
いつも素晴らしい御文章をありがとうございます。
>何時も、適切な御指導有難うございます。

とんでもございません。こちらこそ、いつも素晴らしいご指導をありがとうございます。
感謝しております。

役行者様
勇気のあるご発言、そして素晴らしいご投稿をありがとうございます。

復興G様
『實相研鑽』からの広範囲に渡る素晴らしいご文章をありがとうございました。
3冊あると思いますが、何冊目でしょうか。

雅春先生のご文章をじっくりと読み、なるほど思させて頂きました。

感謝いたします。

1207ハマナス:2012/02/21(火) 13:10:35 ID:u5mC.eb2

皆さま、ありがとうございます。

       自 分 を 祝 福 す る  (『生活の智慧365章』P.113より)

 自他を祝福するとは、自他の内にやどる「神なるもの」を認めて礼拝することである。
自分も彼もみな「神の素晴らしい自己顕現」であることをみとめ、心で讃(ほ)め、
喚(よ)び出し、その真理を引出すことである。先ず自分自身を祝福することなしに、
他の人々本当に祝福することはできない。吾々は先ず自分自身を祝福し、讃歎し自分
自身の神性を引き出さなければならないのである。その行事が神想観である。

 神想観によって自分の実相が”神の子”であり、完全円満であることを観じて、実相の
完全さを祝福し、讃歎した後に、現象的にも自分の生活に一寸(ちょっと)でも善いこと
をしたことがあれば、それを一々想い出して自分自身を「お前はこんな善いことをした
善い人間である」と讃めてやるのがよいのである。それは恰も(あたかも)学童の
成績を挙げるために、その答案の中に一寸でもある「正しい回答」に◎(にじゅうまる)
をつけて讃めて、その内部の能力を引き出してやるが如くにである。
「お前はあの人の罪を赦した。お前は神の子で愛ふかく寛大である」という風に
讃めるのである。


復興G様
『實相研鑽』第一集の最初でしたね。
失礼致しました。

1208復興G:2012/02/21(火) 18:26:08 ID:ojEbkDH2

 谷口雅春先生著『光明法語』7月3日の法語に、『「ハイ」の無限力』というお言葉があります。「ハイ」は、使命感に対する決意である、と書かれていて、人の言葉に「ハイ」と奴隷のように従えとは書かれていません。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  七月三日の法語 「ハイ」の無限力

 最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。それは「ハイ」の一語である。一切の行為は「ハイ」にて動き、一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。然してこれを実行せよ。然らば必ず成就せん。「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、「ハイ」の決意にてその困難は斫り拓かれ、坦々たる大道となる。「ハイ」は汝を自由ならしめる。「ハイ」は実相その儘である。

  七月四日の法語 「否定」の威力

 「ハイ」に対立する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」である。汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。病いすなわち必ず癒えん。汝に不幸来らんか。「否!」と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも自由に販売しているところの百貨店だと言える。それを求める貨幣は「決意」である。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 谷口雅春先生は、「皆さんが谷口雅春である」と、くり返しおっしゃいました。信徒一人一人が、今こそこのお言葉をしっかりと戴き、「内なる法燈継承」をして、使命感に「ハイ」と決意して起ち上がりましょう。

1209SAKURA:2012/02/21(火) 20:37:31 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは……

【幸福を招く365章…】
■天地一切のものを祝福せよ

朝めざめたならば、神想観を行い、
「神の生命われに流れ入りて、わが生命を健かならしめ給う」と
念じつつ呼吸を整え、更に「神の愛われに流れ入りて、光明燦然と輝き給い、
われを通して天地一切のものを祝福したまう」
と云う思念を繰返すことは、天地一切のものと和解することを
如実に実践する上にきわめて善き方法である。
一切の不幸と病いは、自己が天地一切のものと和解していないで、
ある程度又は或る意味に於て敵対状態にあるから生ずるのである。
然るに上記のような思念を行うときには心の中に、
こちらから積極的に天地一切のものと和解する以上に、
天地一切のものを祝福することになるのである。
                          (谷口雅春著)


毎朝起きますと「神想観…」します時、必ず「世界平和の祈り」を何度も思念します。
ペットに食事させる時も、きちんとおすわりさせて「世界平和の祈り」をします。
おとなしいぐらい“ジ〜〜〜〜〜〜ッ”としておりますが…
かわいいものです〜〜〜ョ???(飼い主の自己満足?ウフフ)

現在!起きています全ての事は?
【天地一切に感謝が足りない!!】と…解釈すべきかもしれませんが…?
現状!私自身の問題を、受け止めて「神想観=瞑想=イメ−ジ」を何度も〜〜♫
繰り返すことによって…今の現状から【脱皮作戦??】出来ると“確信”…!!

■その前に【感謝する事…】なのでしょうか……???

ついつい??「イヤ〜〜ナ人に感謝?」〜〜〜難しいです…ネ!
【言葉の力】で、“思念集中”すればいいのでしょうかしら〜〜〜ン?
何も考えずに、取り越苦労をなくせば……
もしかして?もしかして?…【天地一切のものに感謝】が…倍増!!出来るかも?

今の私は……【吸血鬼・ゾンビ達…】に関わりたくな〜〜〜〜イ!のに…
今日も又!!「いや〜〜なアクシデント」に会い…
このような人達との“考え方”に、どうしても“調和?”が…><
余り〜〜〜募りますと、此方の方が、精神的に参ってしまいますしが…?

なるべく考えない!潜在意識に入れ込まない!これを自己訓練しまして、
【前向きにイメ−ジ】しまして、「いや〜〜な人」を…
心の映画館…“スクリ−ン”上…奥〜〜〜奥〜〜〜遥か彼方??
“追いやる事を、イメ−ジ化”してみますと…意外と「効果…」が?? ウフフ

「今日の言葉」……
私に取りまして「心の浄化」が、難しい〜〜〜課題かしら〜〜ン?
これを乗り越えませんと…次なる“課題”への挑戦が…出来ないのかもしれませんネ
【次のステップ・…】その前の…

                                 再合掌
PS:
>トキ様へ
今日の“言葉…”どの様に“解釈”されますでしょうか…?
そして。。。なかなか“感謝”する事が難しい対象の時は…どのように“クリア”?
すべきでしょうか……“アドバイス”頂けますと幸いです…。

1210トキ:2012/02/21(火) 21:47:26 ID:gmzgHWjw
 毎朝起きて、すぐに神想観をするのが日課になっているので、
かえって返答が難しいです。でも、好きでやるのが一番いいと思っています。
続けている中で、見つかるものがあります。これは、自分で見つけるしか
ないかもしれません。

 感謝できない、と考えるよりも、先に進んだ方がいいと思っています。
そのうちに、生長すると、感謝できる自分がいるのに気がつきます。

・・・・と思っていますが、先達のみなさまのご返答をお待ちしております。

1211ももんが:2012/02/22(水) 00:10:05 ID:XXCuaQns
トキ様
役行者様
ハマナス様
復興G様
『訊け』様
SAKURA様


トキ様、役行者様、ハマナス様、復興G様、『訊け』様、SAKURA様の、皆様、こんばわ。そして、素晴らしい、御投稿文、ありがとうございます。合掌、拝。


今日特に、心に止まりましたのは、復興G様の、役行者様へ御投稿文で『実相研鑽』の御文章です。

特に、ここの文章は素晴らしいですね。
<< 夫に素直に従うということは、夫を神としてですね、実相の本当の夫に従うということでなければならないわけで、夫をいかに神として信頼しているか否か、という根本が定まらなければいかんと思うんですよ。その根本が定まらないところに、「夫はときどき間違うものである、夫は時には“泥坊せよ”とも言うものである。言うかもしれんのであるが、それに従ってもいいのであるか」という考えが起る。それは、すでに妻が夫の完全な実相を見ていないことである。だから妻の観る通りに夫が現れるということになって、やはり夫に“迷い”が現れる。そこでその“迷い”(の夫)の言う通りに従ったら、(正しい)夫の言う通りに従っているのでなくて、自分の迷いが夫に映ったその迷いを聴いて従っているのであって、自分で“自分の迷い”に従っているということになるわけです。
 だから先ず根本的に、夫を神の子として尊敬して、夫の実相を喚び出さなければいかんわけです。そしたら夫は悪いことは言わんわけですよ。「おまえ間男せい。わしはお前嫌いになったから、間男せい」なんていったって、ハイと素直に従うて「間男して来ようか」と、そんな馬鹿なことはないのですね。本当の夫はそんなこと言うもんじゃないということを、根本的に実相を拝んで実相の完全さを引出した上で、夫の要求を聴いて素直に従う、というのであれば間違いないと思うわけですよ。>>


『夫の間違いは、妻の心の影だから、実相を信じんて祈りて、夫の実相をよびだす』ことが、大切と、言うことは、我々は、『悪』を念ずる事をしては、いけないないという、雅春先生の、基本的な教えが、ここでも、説かれていますね。

イエスの説く

“汝の滴を愛せよ”の根本的な神の教えであると、いえますね。
誠に、素晴らしい、教えありがとうございます。復興G様。


それと、次のコメントは、良かったです。

<< 生長の家は、原理主義ではない。真理の中心部分は変わらないけれども、周縁部分は時代環境に応じて変わらなければならない、と総裁がおっしゃるのはその通りだと思います。しかし、総裁は神であるならば、真理の中心部分までも変えてしまうような説き方を、神がされるはずはない。生長の家の教えの中心は、現象はあるように見えても、本来無い。影に過ぎない。実相、完全円満な神のみが実在する、ということでしょう。「真理への道はただ一つ、人間は神の子であるということである」。神の子であるとは、イエス・キリストと同じ尊い存在であり、神であるということなんですね。その神以外に何も無い、ということが教えの中心なのですね。完全円満なる神なる総裁が「実相なんか有るか無いかわからない、そんなことはどうでもよい」などとおっしゃるはずはない。もしそんなことをおっしゃったら、私は「離縁していただきます」と申し上げるでしょう。
 雅宣総裁は、「私は神ではない。私の言葉は私の言葉であって、神の言葉ではないから、私の書いたものは聖典と呼ぶな」とおっしゃいました。それでも、やはりすべては神なのだから、総裁のお言葉は神のお言葉であると考えなければならないと、私は思ってきました。しかし、上記『實相研鑽』の谷口雅春先生のお言葉を読むと、これは大変むずかしい公案を与えられていると思わざるを得ない現在です。

 生長の家の根本教義は、『生命の實相』に記されています。現象界に出てきた本には誤植もありえますし、科学的知見などは時代的に合わなくなっていることもありましょう。それでも、根本真理の神の波動がそこには鳴りひびいています。その『生命の實相』がなくなっても、新しい雅宣総裁の『新・生命の實相』が書かれたらよい、とは私は思いません。もし仮にそうなるようだったら、生長の家から神さまが無くなることになるので、私は離縁していただきます。>>


私も、復興G様と同じく確かに『生命の実相』の実例が時代に合わない(私の場合は遅れて来てる感じる箇所がある)全く同感です。
だからと、云って、『生命の実相』捨てる様な真似は私もしてほしくありません。復興G様は、離縁と言われ辺りは、本流派の様な、執着心の塊が無いのが、素晴らしいですね。私も見習いたいです。


〜つづく

1212ももんが:2012/02/22(水) 00:15:23 ID:XXCuaQns
それから、役行者様のこの御文章が、素晴らしかったです。

<< 善し悪しは別にして、人は前世から引き続き請け負った業、ご先祖様の業、そして、今生で培ってきた自分の生き様が今の環境となってあらわれていると存じます。
 ひとそれぞれの宿命があり、その環境で切磋琢磨するなか、やがて水中を遊泳するが如く使命を邁進できる日がやってくるのでしょう。>>

まさしく、そのとうりですね。無意識ですが、前世の業は、引きずつてますね。神様の宿題なんですよね。

それから、ハマナス様も、素晴らしいコトバを教えてくださり、いつもありがとうございます。感謝です。
<<       自 分 を 祝 福 す る  (『生活の智慧365章』P.113より)

 自他を祝福するとは、自他の内にやどる「神なるもの」を認めて礼拝することである。
自分も彼もみな「神の素晴らしい自己顕現」であることをみとめ、心で讃(ほ)め、
喚(よ)び出し、その真理を引出すことである。先ず自分自身を祝福することなしに、
他の人々本当に祝福することはできない。吾々は先ず自分自身を祝福し、讃歎し自分
自身の神性を引き出さなければならないのである。その行事が神想観である。

 神想観によって自分の実相が”神の子”であり、完全円満であることを観じて、実相の
完全さを祝福し、讃歎した後に、現象的にも自分の生活に一寸(ちょっと)でも善いこと
をしたことがあれば、それを一々想い出して自分自身を「お前はこんな善いことをした
善い人間である」と讃めてやるのがよいのである。それは恰も(あたかも)学童の
成績を挙げるために、その答案の中に一寸でもある「正しい回答」に◎(にじゅうまる)
をつけて讃めて、その内部の能力を引き出してやるが如くにである。
「お前はあの人の罪を赦した。お前は神の子で愛ふかく寛大である」という風に
讃めるのである。>>


自分の実相を拝む事を、するのが、一番大切なことですね。許すて、たくさん、賛嘆や、明るいコトバを使い続けると、出来るように、成ってきますね。これも、ハマナス様が教えてくだされた、お陰です。ありがとうございます。ハマナス様。


トキ様、『訊け』様、SAKURA様の御文章も読ませてもらいました。大変勉強になりました。

トキ様、本流派の人々特異のパフォーマンスな言動に、耐えて、心強く、がんばってください。いつも、細かい、心使いに感謝して、おります。それでは、皆様、おやすみなさい。感謝敬白、合掌、拝。

1213役行者:2012/02/22(水) 08:35:29 ID:EKrK1Cn.

 ももんが様

 復興Gさまのコメント内容を分かりやすいようにコンパクトに纏めてくださいまして、ありがとうございます。
 中心帰一の教えをより深く理解できました。
また、


 >>生長の家の根本教義は、『生命の實相』に記され ています。現象界に出てきた本には誤植もありえま すし、科学的知見などは時代的に合わなくなってい ることもありましょう。
 それでも、根本真理の神の 波動がそこには鳴りひびいています。その『生命の 實相』がなくなっても、新しい雅宣総裁の『新・生 命の實相』が書かれたらよい、とは私は思いませ ん。もし仮にそうなるようだったら、生長の家から 神さまが無くなることになるので、私は離縁してい ただきます。>>


 との復興Gさまのコメントに対して、ももんが様は、


 >私も、復興G様と同じく確かに『生命の実相』の実 例が時代に合わない(私の場合は遅れて来てる感じ る箇所がある)全く同感です。
  だからと、云って、『生命の実相』を捨てる様な真似 は私もしてほしくありません。<

 と感想を述べられております。
 まったくもって、異議はございません。

        合掌

1214ももんが:2012/02/22(水) 09:08:23 ID:XXCuaQns
皆様、お早うございます。今日も、素晴らしい朝ですね。お日様が、ニコニコ照り輝います。さあ、今日も、嬉しく、楽しく、明るく、素晴らしい日にしていきましょう!ありがとうございます。合掌、拝。(^_^)
今月号の『いのちの環』の記事から、抜粋しました。
〜『良人(おっと)やこどもの実相をみましょう。より〜


ただ善なる子供のみ実在であり、乱暴なる子供や、不良の子供や、精神薄弱の子供や、病弱な子供は無いのである。もし自分の子供がそのような不完全な子供にみえるならば、それは両親が実相の完全さを見る力が足りないか、力があっても、その力を子供の『実相』の完全さ』を見る方に集中しないからである。毎夜子供が眠りについた直後、両親または少なくも一方の親は、子供の枕頭に端坐、神想観して、『自分の子供は神の子であってあらゆる点において完全であり、健全である』と念じ、自分の子供が『神の生命』そのものであって光明燦然と光を放っている実相を瞑目せる眼底にハッキリ描いて一回二十分宛心の眼で見詰めるようにするようにするがよい。やがて念ずる通りあなたの子供は凡ゆる点に完全に、健全に成長して行くに相違ない。
(谷口雅春・『新版 女性の幸福365章』369㌻)



昨日の、復興G様、ハマナス様の言われて、いた事と同じような事が、書いてありました。

それは、

どんな、憎い人、悪人と思える人であっても『完全円満な、人間の実相を拝む、祈る』

そして、現象として悪言葉や行いを、成るべく、しないように、して行く事こそが、『神の子の道』であり『神の子の生活』であると、このこの、雅春先生の御文章からも、勉強させてもらっうことが、できました。少し前、生意気に書きました。道元禅師の『正法眼蔵・仏性』とも、通じる、世界観が、そこにはあると、私は、思い、本日は、『四無量心を行ずる神想観』と和解の祈りと、世界平和の祈りと、天皇様御快癒祈願もしまた。


皆様、大分暖かくなりました。外へ出ると、梅の花も膨らんで春は笑顔で、皆様の笑顔を待っています。今日も明るく、素晴らしい日をお過ごしください。ありがとうございます。合掌、拝。

1215ももんが:2012/02/22(水) 09:49:15 ID:XXCuaQns
>>1213

役行者様


お早うございます。役行者様。朝から、御文章を賛嘆して、頂き、大変嬉しく感じております。感謝敬白、合掌、拝(^_^)


役行者様の、賛嘆するコトバの力で、私の心も、明るく成っていますよ。役行者様は、神の子道を実践されて大変に素晴らしいです。本当に勉強になります。ありがとうございます。合掌。


話は、変わりますが、『生命の実相』で、私が、読んでいて、時代に合わない実例もあると言ったは、けして、悪い意味じゃありません。いまの、医学にしても、身近な、生活の常識にしても、既に『生命の実相』の中身が、普通に、或いは、それ以上に、常識的に浸透していたり、高度に成ってるな?私的には、感じる事が、実生活においてあるからです。


だからて、『生命の実相』を読まないわけでは、ないのです。生命の実相は、読む事で、心が洗われる、現れるように感じますから、やはり、良い本です。

では、役行者様、此からも、素晴らしい、教えで、御導きください。宜しくお願いします。いつも、感謝です、感謝敬白、合掌、拝。

1216a hope:2012/02/22(水) 10:52:32 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

気取るな、そのままが一等よい


無邪気といったら、どんなことだといいますと、気どらぬことです。
自分のそのままを出すことです。写真によく映りたいと思って固くなると変な顔に映るでしょう。
知らぬ間にパッと写されると、かえって柔らかい優しい顔に映っているでしょう。
あの固くなるのが無邪気でないのです。あの固くなるのが素直でないのです。
固くならないそのままが、無邪気で素直なのです。

人間は「神の子」ですから、そのままが一等好いのです。

無邪気で素直であれば、目の色から顔貌、動作、技芸、もの憶えまでよくなるのです。
そのままをなんのこだわりもなく出すとき、吾々の「内にある最も佳いもの」がスラスラ出るのです。
皆さん、そのままになりましょうね、素直になりましょうね、こだわりの無い心になりましょうね。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


みなさま おはようございます。



わたしは、復興Gさまのコメント、

>>生長の家は、原理主義ではない。真理の中心部分は変わらないけれども、周縁部分は時代環境に応じて変わらなければならない、と総裁がおっしゃるのはその通りだと思います。しかし、総裁は神であるならば、真理の中心部分までも変えてしまうような説き方を、神がされるはずはない。生長の家の教えの中心は、現象はあるように見えても、本来無い。影に過ぎない。実相、完全円満な神のみが実在する、ということでしょう。「真理への道はただ一つ、人間は神の子であるということである」。神の子であるとは、イエス・キリストと同じ尊い存在であり、神であるということなんですね。その神以外に何も無い、ということが教えの中心なのですね。完全円満なる神なる総裁が「実相なんか有るか無いかわからない、そんなことはどうでもよい」などとおっしゃるはずはない。もしそんなことをおっしゃったら、私は「離縁していただきます」と申し上げるでしょう。
 雅宣総裁は、「私は神ではない。私の言葉は私の言葉であって、神の言葉ではないから、私の書いたものは聖典と呼ぶな」とおっしゃいました。それでも、やはりすべては神なのだから、総裁のお言葉は神のお言葉であると考えなければならないと、私は思ってきました。しかし、上記『實相研鑽』の谷口雅春先生のお言葉を読むと、これは大変むずかしい公案を与えられていると思わざるを得ない現在です。

 生長の家の根本教義は、『生命の實相』に記されています。現象界に出てきた本には誤植もありえますし、科学的知見などは時代的に合わなくなっていることもありましょう。それでも、根本真理の神の波動がそこには鳴りひびいています。その『生命の實相』がなくなっても、新しい雅宣総裁の『新・生命の實相』が書かれたらよい、とは私は思いません。もし仮にそうなるようだったら、生長の家から神さまが無くなることになるので、私は離縁していただきます。<<

を、読んでとても驚きました。
復興Gさまのような、大先輩であっても、今の教団は、
>>これは大変むずかしい公案を与えられていると思わざるを得ない現在です。<<
とおっしゃられている。
さらに、『生命の實相』が現教団からなくなり、雅宣先生が『新・生命の實相』を書かれるようなことになったら、
生長の家から神さまが無くなることになるので、私は離縁していただきます。<<
とはっきり、おっしゃっているのですからね。

わたしは、復興Gさまやおそらくももんがさまより、ずっと年下です。
でも、『生命の實相』の実例が「時代に合わない」、とか「遅れてきている」とは全く感じませんでした。
むしろ、とても新鮮な感じがしました。
聖典というのは、どんなに古いものでも、心から真理を求めている者の魂には必ず深く響くもの、
そういうものなのではないかと思いました。

それでは、わたしの愛する「生長の家」のみなさま、今日も一日元気にお過ごしくださいね!

1217役行者:2012/02/22(水) 12:47:43 ID:EKrK1Cn.

 ももんが様

 ただ、ひたすら神の道まっしぐらに進んでゆきとおございます。

 乗せられたらそのまま上がる代物なので、ご了承のほどσ(^_^;


 さて、生命の実相のことなのですが、発刊された当時は、どちらかというと反体制派で、世論から叩かれることもしばしあったと聞いております。
 それが現在では笑いの効果にしてもほとんど科学的に実証されてきました。
 病はこころの影という心の法則が科学的に認められてもきました。歓ぶべきことと存じます。
 医学にしても、その心と身体の関係の臨床がより深く広く告示されるようになってきております。
 ということから考えても、真理の神髄は神髄として、表現方法は常に変化するのだと思うのです。
 そのことを鑑みると、聖書、仏典、生命の実相は根本として、表現方法は自在に変化しても良いのではないかと思う次第です。
          合掌

1218SAKURA:2012/02/22(水) 20:34:36 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ

【幸福を招く365章…】
■独創のある価値を生み出すには

すべての善きものは内側から生まれます。
内部から生まれないものはすべて形骸(けいがい)であり、
模倣であり、ニセモノであり価値なきものです。
内部とは自分の生命です。
“自分の生命” とは “神の生命” です。
神の生命は無限内容をもっているのですから、重複を厭(いと)うのです。
模倣には同じものが幾つも出てきますが、
内部生命から出るものには同じものは二度とありません。
すべての行動を内部生命から出すとき独創的なものとなり、
内部生命は普遍生命とつながっていますから、
独創的であると同時に普遍的なものがあり、
人類全体の理解と共感とを得るのです。
では内部生命から、独創的なものを生み出そうと思ったならば、
内部生命に深く沈潜して、その無限の中から自己の個性に適する
独創のものを引き出して来なければならないんです。
その沈潜の最良の方法が神想観であります。
                          (谷口雅春著)


“全ての善きもの”は…“内部”…“心”から始まるのです〜〜ョネ!!
でもその…“心”が歪んでいますと…“心”は停滞状態ですから?
「無」から何も生み出すものも…“ゼロ”…と云う事でしょう。

「悪に走る人」は、その人の物差しからの形骸でしょうか…???
そのような人は、どんな角度でも話しても通じる事がなく、
ただ!!!頭の中は【我欲…】で充満しているだけの中身でしょうか〜しらん?

昔から【我欲…】の強い人は…頭が“空っぽ”なのでしょうか??
【我を無くす事】は、そこから始まる“知恵”なのでしょうかと思いますが…?

昨日「トキ様」に質問しました時、まだ私自身にも
「吸血鬼・ゾンビ・黒幕…に、いやなことをされている…><」との
【執着?】があり…その“心”を解放すことで……
初めて、私の“心の深層”が、白紙になり次なるステップへ前進!!出来る…
此処から我“自己個性の創造性”が、芽生えるのでしょうか…?

それに「気付き」を頂きましてから……
「今日の言葉」…が、出てきまして……
やはり!【神想観…】には【内部生命をフゥ〜〜〜深〜〜〜く!礼拝して行きます】?
必ず!いい「アイデア」が浮かぶようです…。

■ ■ 「神の叡智」を〜〜〜導きたまえ〜〜〜です〜〜〜ネ!

                              再合掌

PS:トキ様へ
昨日の“アドバイス”ありがとうございました…。
そして、皆様への“意見討論”…呼びかけて頂きましてありがとうございます…。
「モモンガ様・如月様…」投稿文章…etc ありがとうございます…。
参考に…益々このすばらしい「生長の家」の教えが…“人々の幸せ捜し〜♫〜”
「人類光明化運動…」の指針になります事を…【神に祈り】…
そして、「大調和へと…此の現状が必ず!」…信じております…。

トキ様> 今日の「言葉…」どのように解釈されますでしょうか??

1219トキ:2012/02/22(水) 22:31:53 ID:uwDAtDDc
 いつも素晴らしいご公案をありがとうございます。

 関係のない話を一つ。先日、テレビを見ていたら、歌手の沢田知可子さんの
「会いたい」という歌の話を放送していました。
  女性が恋人の死を悼む内容の歌で、“少しの英語とバスケット、そして、私
はあなたと恋を覚えた”という下りがあります。それまで何回も歌を発売しても
売れなかったのが、この曲のヒットで彼女はメジャーに上り詰めます。少し年配
に人だと知っている人が多いと思います。

 ところが、彼女自身が、この曲と同じ体験をしていたそうです。その話を誰
にもしていないのに、不思議に思い、女性の作詞家に尋ねると、いきなり内容
が作詞家の頭に天下った、という返事をしていました。

 ちなみに、沢田知可子さんの恋人だった人は年上のバスケット部の先輩で、
交通事故で亡くなるまで彼女の歌手活動を応援していたそうです。

 今回は関係のない話でごめんなさい。

1220復興G:2012/02/22(水) 23:26:40 ID:ojEbkDH2

>>1211
ももんが様。

たいへんなお褒めをいただき、ありがとうございます。
私の投稿
<<生長の家の根本教義は、『生命の實相』に記されています。現象界に出てきた本には誤植もありえますし、科学的知見などは時代的に合わなくなっていることもありましょう。それでも、根本真理の神の波動がそこには鳴りひびいています。その『生命の實相』がなくなっても、新しい雅宣総裁の『新・生命の實相』が書かれたらよい、とは私は思いません。もし仮にそうなるようだったら、生長の家から神さまが無くなることになるので、私は離縁していただきます。>>
に対して

>私も、復興G様と同じく確かに『生命の実相』の実例が時代に合わない(私の場合は遅れて来てる感じる箇所がある)全く同感です。だからと、云って、『生命の実相』捨てる様な真似は私もしてほしくありません。復興G様は、離縁と言われ辺りは、本流派の様な、執着心の塊が無いのが、素晴らしいですね。私も見習いたいです。<

という最後のお褒めの言葉には、穴があったら入りたい気持ちです。

しかし、申し上げるべきことはハッキリと申し上げなくてはなりません。ももんが様から役行者様へのコメントで、

>『生命の実相』で、私が、読んでいて、時代に合わない実例もあると言ったは、けして、悪い意味じゃありません。いまの、医学にしても、身近な、生活の常識にしても、既に『生命の実相』の中身が、普通に、或いは、それ以上に、常識的に浸透していたり、高度に成ってるな? 私的には、感じる事が、実生活においてあるからです。
だからて、『生命の実相』を読まないわけでは、ないのです。生命の実相は、読む事で、心が洗われる、現れるように感じますから、やはり、良い本です。<

 とおっしゃっていますが、私にとっては、『生命の實相』は「やはり、よい本です」などという程度のものではありません。『生命の實相』を読むと、「なんで谷口雅春先生は私のことをこんなによくご存じなのだろうか。これは、私一人のために書かれたもののようだ」とびっくりし、深い反省ができたり、ものすごい勇気をもらったりして、魂が共鳴し、飛躍するような感じを与えられることが多い、不思議な本です。これは、谷口雅春先生が、完全に自我を捨てきり、空っぽになって、神様のラッパになって、神の御言葉を伝えられたものだと思わざるを得ません。
 残念ながら、谷口雅宣総裁のご文章で、そのように魂が共感して打ちふるえるような喜びを感じたことは、ございません。
 やはり、『生命の實相』にこそ生長の家大神が鳴りひびいていらっしゃるのだと感じます。

 a hope 様も、>>1216
「『生命の實相』の実例が「時代に合わない」、とか「遅れてきている」とは全く感じませんでした。むしろ、とても新鮮な感じがしました。聖典というのは、どんなに古いものでも、心から真理を求めている者の魂には必ず深く響くもの、そういうものなのではないかと思いました。」
 とおっしゃっていますが、その通りだと思います。

<その『生命の實相』がなくなっても、新しい雅宣総裁の『新・生命の實相』が書かれたらよい、とは私は思いません。もし仮にそうなるようだったら、生長の家から神さまが無くなることになるので、私は離縁していただきます。>

という思いに、変わりはありません。

 2月17日付けで、「生長の家社会事業団の知財高裁判決に対する声明について」という、宗教法人「生長の家」・株式会社日本教文社の釈明文
http://www.jp.seicho-no-ie.org/news/sni_news_20120217.html
が発表されたことを知りました。

 ある教区では、教化部長から五者にそれが伝達されたが、五者は誰もそれで納得はしなかった。「大調和を説く生長の家が、なぜいつまでも相手を責めるだけの争いを続けるのか」と怒りをあらわにするものもあり、予定されていた講習会推進方策の打合せに入ることもできなかったそうです。

 谷口雅春先生は「妻が夫にハイと言う限界について」という實相研鑽会の御結語で「先ず根本的に、夫を神の子として尊敬して、夫の実相を喚び出さなければいかんわけです。・・・夫に素直に従うということは、夫を神として、実相の本当の夫に従うということでなければならない」とご指導くださっています。実相の生長の家総裁は、谷口雅春先生が「耿耿の言」でお説きくださいましたように、「罪あらば我をとがめよ天つ神、民はわが身の生みし子なれば」とお詠みになった歴代の天皇の大御心のごとき慈愛をもって、すべての人々、特に、かりそめにも生長の家の縁に結ばれた、今は反旗を翻している人々のことも包容し生かし導いて下さっていることを信じ、礼拝感謝申し上げてまいりたいと存じます。

1221ハマナス:2012/02/22(水) 23:36:24 ID:u5mC.eb2

神の子の皆さま
こんばんは。早いもので、あと一週間で、3月です。

       生 命 の 進 化 (『新版生活の智慧365章』P.115より)

吾々の生命は常に一層高き進歩に向かって更新しつつあるのである。
併(しか)し、「低いもの」が如何にして「一層高きもの」を思い浮かべ得るであろうか。
「一層高きもの」はそれよりも「低いもの」を考えるのはいと易きことであろう。
しかし「低いもの」には「一層高きもの」を理解することは出来ない筈である。
現在「低いもの」でありながら「一層高きもの」を理解し得るのは、その「一層
高きもの」に触れることによって、自己の内にあるところの「一層高きもの」が
喚び出されて来る結果だというほかはないのである。

「一層高きもの」に生命が進化し行くのは、既に「一層高きもの」が生命の内部に
宿っており、それが色々の環境や条件や境遇や経験によって触発されて輝き発して
来るにほかならないのである。吾々は今与えられている環境・条件・境遇・経験から
逃げ出そうと考えてはならないのである。それを喜んで受け、それから得られる
ところの凡てを経験を通して吸収しなければならない。それによって吾々は内在する
無限の神性を、一層多く開顕することができるのである。

皆さまにとって、明日も素晴らしい日でありますように。
感謝合掌

1222ももんが:2012/02/22(水) 23:49:18 ID:XXCuaQns
役行者様

役行者様、御返事、遅くなりました。ありがとうございます。合掌、拝。

御投稿文の内容正しく、そのとうりです。今や、常識的に、企業や、健康管理法としてや、お医者さんに、行きましても、メンタフィジカル的なことを取り入れていますね。

私が、少し、『生命の実相』の実例で、今の時代の方が、進んでるかな?感じる部分は、『食事に関する事』です。第1巻に、確か?水を余り飲まない方法が出てました。私の場合は胃腸は大変強い為、医者から、糞尿や水分取らなくて強いタイプだから、結石になりやすいし、血液が濃くなりやすいから水をなるべくとりなさいと言われました。
しかし、考えてみると?最近のスポーツ選手は、水を取りながら、バランス良く、身体の調整をして、活動していますよね?

昔は、マラソンなんかでも、水を呑むなと言われていました。

生命の実相にも書いてありましたが、体は物質だが、その、体の物質の奥に、生命が宿ってると言うことでした。

つまり、物質である体をより、丁寧に労りながら、使うように、最近の健康管理法の中には、あるように、思うのです。

これは、『生命の実相』で雅春先生が、メンタフィジカルを日本に紹介した、時代から、充分に色んな形で、社会に浸透し、発展した証拠だと、私は、思うのです。

私は、こうした面、社会の誰もが、宗教、政治に関係無く、使えるように成ることこそ、素晴らしいことだと思います。


役行者様の御指摘は、大変素晴らしいですね、また、今後とも、御指導よろしくお願いいたします。おやすみなさい。合掌、拝。

1223ももんが:2012/02/23(木) 09:59:21 ID:XXCuaQns
皆様、お早うございます。今日も、お日様は、ニコニコしております。さあ、嬉しく、楽しく、感謝行を楽しみ楽しみましょう。ありがとうございます。合掌、拝。


今日は、私の大好きな、道元禅師の御歌を紹介します。

〜”にごりなき、心のみづにすむ月は、なみもくだけて、ひかりぞとなる“〜

この一句はを聴くと、私の心と、ピッタリ一致して、心を洗いだしてくれるようなそんな様に、私は、感じ捉える事がでて、大好きな御歌です。


あと、

〜うらをみせ、おもてをみせて、散る、もみじ。〜

これは、良寛様の御歌ですが、これも、“心”を見事に表現しているので、大好きな歌です。

一件秋の風情の儚い気持ちを歌われてる様に観て、しまいますが、それも一つの見方でしょが、私は、良寛様が、もみじの散る、姿を、“自分の心”と重ね合わせてる、もみじ=良寛様、に成りきってる境地に、私は、感動を持って、この一句をいつも、心で読んでおります。

良寛様の、この一句は、周囲の人には、ルンペンの様に見えても、御一人で坐禅修行しておられる証明なのだと、私は、見たのです。
すいません、今日は、私の私的コトバを言いまして、

それでは、皆様、明るく、楽しく、神の子の生活を楽しみましょう!ありがとうございます。合掌、拝。

1224a hope:2012/02/23(木) 11:52:56 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

白百合と牡丹の花

或る時、白百合の花が、牡丹の花に、「あなたは美しい花をつけていますねえ。
私もあなたのように色のついた花になりたい」と申しました。
白百合の花はだんだん赤くなって、ちょっと見ると美しい鬼百合のような色にかわって来ましたが、
それは前のような尚(けだか)さを失ってしまいました。
そして前よりも人に可愛がられなくなりました。

白百合は白百合で好い所があるのです。
自分自身が持っている「そのまま」を素直に出すのが一等よいのです。
そのまま、吾々は「神の子」だからです。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

みなさま こんにちは

今日は、雨降りですね。今朝の神想観は、雨音を聞きながら行いました。
なんか、また違う趣があってよかったです。

以前、お寺に坐禅に行っていたとき、本堂の工事が行われていた期間がありました。
その工事の音や振動が、真隣にある坐禅堂に直に響いて来て、さらに真夏の蒸し暑さで、
こんな環境では坐禅をするのは無理ではないかとわたしは思ったのですが、
90歳を超えた住職さまが、「どんな環境であろうとも、只管打座(しかんたざ)できるのが、
本物である」みたいなことを、坐禅中に一言おっしゃって、その言葉を聞いた瞬間、
わたしも集中できたのを思い出しました。

その坐禅なのですが、不思議なことに、運よく住職さまの近くで坐禅することができたときは、
雑念が全く浮かばず、ピーン張りつめた無の境地になれるのでした。
住職さまの「気高い境地」にわたしも、引き込まれたような気がしました。
わたしは「生長の家」の教祖である、雅春先生も、そのようなお力を持っていたのではないかと思っています。

ところで、つい最近、わたしは「生命の實相」第20巻をやっと読み終わりました。
他の巻でこんなに読み終わるのに時間のかかったものはありませんでした。
雅春先生の自傅篇の後半なんですが、雅春先生が悟られる前のお考えが書かれているのですがなかなか、
難しくてわたしには理解できませんでした。
ですが、なんとか読み進めていくうちに、雅春先生が「物質はない!」という神の声を聞かれ、
さらに「今起て」という声をお聞きになるところまで来ると、やっとわたしもすっきりしました(笑)。
雅春先生は、真理をもとめ、大変苦悩されていたのですね!

わたしたちは、その雅春先生のそのような苦悩を味わうことなく、
ただ「生命の實相」を読むだけで、その素晴らしい世界一の真理に触れることができるのですから、
本当にありがたいですよね!

「生命の實相」は絶対にこの世から無くしてはいけない偉大な聖典なのだとわたしは思います。

雅春先生の悟りに至る途中に書かれた詩で、「野の百合の生きる道」も紹介されていました。
以前、「谷口雅春に訊け」ブログでも紹介されていますよ。

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65604625.html

それでは、わたしの愛する「生長の家」の先輩方、今日も和解に向けての有意義なお話合いを、どうぞよろしくお願いいたしますね!

1225ももんが:2012/02/23(木) 13:04:20 ID:XXCuaQns
復興G様

復興G様、御返事くださりまして、ありがとうございます。感謝合掌、拝。

復興G様の御返事文を読みまして、復興G様の『生命の実相』を読んだ時に、受ける、復興G様の心の有り様が、良く伝わりました。誠に、勉強になります。改めて、お礼申し上げます。ありがとうございます。

<<、私にとっては、『生命の實相』は「やはり、よい本です」などという程度のものではありません。『生命の實相』を読むと、「なんで谷口雅春先生は私のことをこんなによくご存じなのだろうか。これは、私一人のために書かれたもののようだ」とびっくりし、深い反省ができたり、ものすごい勇気をもらったりして、魂が共鳴し、飛躍するような感じを与えられることが多い、不思議な本です。これは、谷口雅春先生が、完全に自我を捨てきり、空っぽになって、神様のラッパになって、神の御言葉を伝えられたものだと思わざるを得ません。>>


しかし、復興G様も、私の心の心底を誤解されて、読み捉えてると思われます。何分、私は表現べたて、皆様に迷惑と誤解の積み重ねですから、どうか、ご容赦ください。


<<生命の実相は、読む事で、心が洗われる、現れるように感じますから、やはり、良い本です。>>

私が、上記の表現の中で、“良い本です”と言った前の、語句に、“心が洗われる”と“現れるように感じる”との語句を読んで観て貰うなら、私が、“良い本です”の意味の心底を御理解していただけたハズです。
私は、“深層意識で生命の実相を読んでおります。”
“現れ”と“洗う”は、『生命の実相』の中にもありましたが、『心を浄める』又は、『心を浄めた状態』だと書いてあったなと、記憶してますが、間違えていたら、すいません。
仏教でも、心を満月に例えたりますよね。
私が、“良い本”と言ったのは、”心を澄みきった状態“に常にしてくれるコトバの有る本と言う事です。私の表現が、足りなかった事を、深く御詫びします。
読み方、受け取り方は、人其々だと、常に思いますから、それで良いと、私は思いつも思います。

個性が有るから、生命なんですよね。

色々、復興G様の御文章読んで、勉強させてもらってます。色々また、教えてください。宜しく、お願いします。感謝敬白、合掌、拝。

1226ももんが:2012/02/23(木) 14:41:28 ID:XXCuaQns
>>1224

a hope様

a hope様、こんにちは。合掌、拝。

a hope様の坐禅していた時のお話面白く読ませて、もらいました。ありがとうございます。感謝合掌、拝


<<以前、お寺に坐禅に行っていたとき、本堂の工事が行われていた期間がありました。
その工事の音や振動が、真隣にある坐禅堂に直に響いて来て、さらに真夏の蒸し暑さで、
こんな環境では坐禅をするのは無理ではないかとわたしは思ったのですが、
90歳を超えた住職さまが、「どんな環境であろうとも、只管打座(しかんたざ)できるのが、
本物である」みたいなことを、坐禅中に一言おっしゃって、その言葉を聞いた瞬間、
わたしも集中できたのを思い出しました。

その坐禅なのですが、不思議なことに、運よく住職さまの近くで坐禅することができたときは、
雑念全く浮かばず、ピーン張りつめた無の境地になれるのでした。
住職さまの「気高い境地」にわたしも、引き込まれたような気がしました。
>>


特に、和尚様の御言葉。

「どんな環境であろうとも、只管打座(しかんたざ)できるのが、
本物である」

と言われたコトバは、少し、坐禅を知らない方には、難しい表現を使われてると思われました。
私たちの坐禅会では、これをカミ砕くようなコトバで、この様に良く、老師も、他の師も言われます。

『雑念が起こっても、邪魔にせず、相手にせず、只、ひたすらに、数息観なり、公案なり、成りきり、成りきりしていきたさい、そうすれば、自然に只菅打坐に成って行く』

無念無想とは、けして、煩悩や雑念を消してしまう事では無く、その流れを良く観て行く事で自然とその状態に成って行くものと私は捉えいます。

和尚様は、たぶん、工事の音に成りきれば、只菅打坐できるということではなかったかなと思われます。

私の師は、78歳で痴呆の症状がありましたが、最後まで、坐禅を捨てない人でした。
最後は、坐禅して死を向かえました。

宗教とは、かくあるべきと、何時も、思います。


少し、余計な、お話をしてしまい、申しわけありませんでた。
また、素晴らしい、お話、宜しく、お願いします。感謝敬白、合掌、拝。

1227a hope:2012/02/23(木) 17:16:40 ID:kcv2QXTk

ももんがさま

コメントありがとうございます。
住職さまは、健在ですが、今は御隠居されました。

坐禅の後にされていた法話のノートの中に、住職さまがどのように、
「只管打座(しかんたざ)」を説明されたか、わたしが書き写してありましたので、
紹介しますね。

>>只管打座(しかんたざ)― 自分が今、坐禅をしているなどと思えば、もう坐禅の外にいる。
無になり木のように自分をなくす。外の音も耳で止めて、脳まで行かせない。
目で見ても脳までいかせない。<<


わたしは、非常に変わった主婦なので、この住職さまのお話と坐禅を、毎回楽しみにしながら、
お寺にに通っていました(笑)。

1228役行者:2012/02/23(木) 17:54:29 ID:KYSDkuqI
 ももんが様

 >和尚様は、たぶん、工事の音に成りきれば、只菅打 坐できるということではなかったかなと思われま す。
  私の師は、78歳で痴呆の症状がありましたが、最 後まで、坐禅を捨てない人でした。
 最後は、坐禅して死を向かえました 。宗教とは、かくあるべきと、何時も、思います。<

 弘法大師空海しかり、やっぱり宗教家は寝て一畳、座って半畳・・・その座って半畳にて、死を迎えとうございます。
 

 我が祖(^_^;)
 役行者は、かくも天にそのまま上がったという伝説が・・・まるでキリストさまなのですが、真相は如何に!

          合 掌

1229ももんが:2012/02/23(木) 18:31:26 ID:XXCuaQns
>>1227
a hope様


a hope様、御返事ありがとうございます。感謝合掌、拝。

a hope様の所の和尚様の御言葉も、私の所の教えも、コトバの表現は違いますが、同じ事を言われています。

<<只管打座(しかんたざ)― 自分が今、坐禅をしているなどと思えば、もう坐禅の外にいる。
無になり木のように自分をなくす。外の音も耳で止めて、脳まで行かせない。
目で見ても脳までいかせない。>>


『外の音を耳で止めて、脳までいかせない』変わった表現されてますが、

様は、『雑念が起こっても、外の音や見えるものに心が動揺しても、そのままにしておく』と言う意味です。

そして、気付いら、心をとって返して、慣れない内は自分の息、あるいわ、数息観、公案に、心を置き、専心して、行く内に、自然とa hope様の所の和尚様言われた只菅打坐の状態になります。

<<『自分が今、坐禅をしているなどと思えば、もう坐禅の外にいる。
無になり木のように自分をなくす』>>

私どもの所は、同じ曹洞宗でも、公案を用います。


何が、違うかは、口で説明しても難しいものがあります。長年、只菅打坐をされていた、本山の女性の方も、公案をして“見性”されて、初めて、心の蟠りを解消出来たそうです。

見性することで、坐禅だけでなく、色々な物の見方が、変わる事は、間違いありません。

只菅打坐だけでも、悪くはないのですが、自分とは何かと本気で知りたい方は、このほうが、良いと私は思われます。


すいません、また、永く説明してしまいまして。
参考程度に聞いてください。
お話聞いてくださり、ありがとうございます。感謝敬白、合掌、拝。

1230ももんが:2012/02/23(木) 20:08:32 ID:XXCuaQns
>>1228

役行者様


役行者様、コメントありがとうございます。合掌、拝。(^_^)


役行者様、掲示板での活躍、凄いですね(^_^)


私は、悪者モモンガですから、そのイメージーを崩さないよに結構努力してるでけど、やっぱ、ダメですね(^_^)


役行者様は、修剣道士なんですね。凄いな〜(^_^)

尊敬しますよ。

酒井和尚の本読みましたが、酒井和尚クラスになると、悟りのコトバが、たくさん出て来て、読んでるだけで、ありがたいです。

役行者様は、人と人を繋ぐ力、本当に素晴らしいと思います。

此からも、色々と御指導ください。よろしく、おねがいします。感謝合掌、拝。

1231SAKURA:2012/02/23(木) 21:40:54 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ

【幸福を招く365章】
■何が神の導きであるか

心に催して来るところの何(ど)の考えが神の導きであるのだろうか。
唯一つしか催して来ないならば問題ではないが、
ああもしたい、こうもしたい、どちらが神の導きだろうかと迷う場合に、
自分の我の迷いと、神の導きとを区別する示標は何処にあるのだろうかと
尋ねられることが往々ある。
それを見分ける志標となるのは斯うである――
神は全ての全てであるから、
全ての幸福のためにとて発表されるものは神の導きであり、
自分だけの利益のために発表されるものは、 我の導きである。
愛の導きは神の導きであり、 我欲の導きは迷うの導きである。
自分が計画しても故障が起こって面白く行かないものは神が
それを引止めるものとしれ。
                     (谷口雅春著)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

初めて!仕事を始めました時は、「祈り…」?
1)唯一!仕事が順調にいきますように〜〜〜〜〜☆
2)月々の収入が?安定しますように〜〜〜〜〜☆……?
当時の“私”は、ただ〜ただ〜♫ 素直?純粋な?気持ち…にて「祈り…」ました。

その頃の“私”……30代前半で、ただ不思議なのです〜〜♫〜〜
「聴覚障害のハンディ−」がありましたが?“縫製をして下さる方”…
日常にてさりげない事でも?“手助けして来る方…”が、自然と寄ってきました。
そして、当時の私は、「彼女達に収入を上げないと…いけない!」……
その「信念…」で、販売に携わりました…。
■一生懸命“がむしゃら〜〜♫”に……日本列島?全国横断物語……ウフフ

ブレイクしますが…
「現総裁先生御夫婦…」講演にて、日本各地へ活動されていますが、
その“労力”“体力”…大変なものです…ネ!

今!思えば、これは本当に“欲のない私達”……
仕事が、楽しく〜〜ルン〜〜ルン〜〜♫ バタ〜〜バタ〜〜♫
午後3時前後から…彼女達が…“仕事”をもらいに来るのです…。
そして、夕方まで??“御主人の話とか?愚痴とか?”を…
聞いてやったりして…「ストレス!」を発散できるような体制の場所でした…。

次第に、人が増えていきますが…… ><振り返りますと?
その時の私達は、一番【雅春先生の御教え】を…護っていた様にいます…。
思えば、亡き父も…「一番…祈り」に徹していました様に思いますが?
「収入…」が、どんどん増えて行きました。彼女達の顔にも…スマイル!!
無欲?と申しましょうか…

■やはり!世のため…人のため…でしょうか???

さて!現在の私?〜〜〜“欲張り…”なんでしょうかしら〜〜ン?
何故って!!「たくさんの…祈りの願い事…」が…… ウフフ
これを【一つに集中】する事も大事でしょう!!

今!計画してる事は、もう一度“再確認…”して……
更に「祈り〜〜〜に!祈り〜〜〜に!神様に委ねます…。」
世の為!!人の為!!どれ位の事が出来るかが〜〜〜難しいですネ! ><

今日は更に!「吸血鬼・ゾンビ軍団…の美点」を探してみようと思いましたが?
彼ら達を、実際よ〜〜く知らないです“モノ”…
ですから?いくら探し〜〜探し〜〜ても“美点”が浮かびません“モノ”…

私達も?のせられて、同じように“悪口を言えば…”どうなるのでしょうか?
又!又!【同じ繰り返し…】です〜ョネ??
もう〜〜〜〜〜【悪口・被害者意識…」考える“ヒマ”がないと思いますと…
急に!元気パワ−になり、そこを“飛ばせば〜〜云い事”と思いましたが…
この様な【考え方】になりましたが…!
唯今〜〜〜トライ!トライ!で〜〜す。
                             再合掌

>トキ様 へ

昨日の「素敵なお話…」私自身の感想は…??いい〜〜〜〜なぁ☆〜⋆
私の「☆の王子様」も、きっと!何処かで!私を見守っていてくださるの〜〜〜?
きっと!きっと!そうなのだわ〜〜〜〜ァ!何となく?思ってしまいましたが…
何となく「夢の世界」です〜ネ?  ウフフ

今日は?私の体験も踏まえて「回想…」してしまいましたが…??
「トキ様…」現在私ども“アドバイス”して頂いておりますので…「今日の言葉」…
“ピッタリ…”です〜〜ネ!
本日は?「トキ様…」どのように解釈されましたでしょうか??

1232役行者:2012/02/23(木) 22:33:32 ID:KYSDkuqI

 ももんがさま


 >私は、悪者モモンガですから、そのイメージーを崩 さないよに結構努力してるでけど、やっぱ、ダメで すね(^_^)<

 
 段々と、悪者の化けの皮が剥がれてますよ(^。^;)

 > 役行者様は、修剣道士なんですね。凄いな〜(^_^) 尊敬しますよ <

 私も段々と、修剣道士の化けの皮が剥がれつつあります(/_;)



 >酒井和尚の本読みましたが、酒井和尚クラスになる と、悟りのコトバが、たくさん出て来て、読んでる だけで、
ありがたいです <


 下記のような記述が本流掲示板でありました。



 >燃えなかった「甘露の法雨」 NEW *(7037)
日時:2012年02月23日 (木)
名前:山崎

 ≪昭和四十年八月三十一日 焼津市のある火葬場で 奇跡が起こった 。
 1200度の高熱を出して 燃える火葬炉の中から 『甘露の法雨』が焼却されずに 原型を残して発見された。≫

 同じようなことが本日起こりました 。
 私の姉婿さんが亡くなり、本日葬儀がありました。 姉は、比叡山の千日回峰行を2度萬行されてる 。
 酒井雄哉阿闍梨さんが回峰行に使われた藁草履 をはかせて納棺。骨拾いの時、引き出された火葬 炉の台の上にわら草履は全く燃えず残っておりま した。ただ一同、こんな事が起きるのだと驚きま した。
 これは前の「甘露の法雨」の件同様、言葉で は説明出来ない現象でしょう。
 改めて昭和40年に起きた事実を再認識しました。<


 上記の酒井阿闍梨のことと思いますが、私も心より尊敬しております。
 やはり宗派を越えて、ホンモノとのお付き合いをしてゆきとうございます。
 真理の神髄は心に響きます。

          合掌

1233役行者:2012/02/23(木) 23:03:17 ID:KYSDkuqI

 それにしても、ももんが様は何者ですか?

 察するに、禅の一流の大家のところで独参されているようですよね!
 縁がなければできることではありません。
 野暮な話はここまでにして、
是非、今度機会があれば、神想観と座禅、というようなテーマで、我々に瞑想の世界の素晴らしさをお教えください。

 安谷老師のコトバを引用され、雅春先生による公案解釈論の是非を問うほど、禅の世界を知り尽くされておられるのだから、存在さえ知られれば、きっと現総裁先生からお声がかかるかと存じます。

 奥深い禅の世界が開陳される天の時がくる日を、楽しみにしております。

         合 掌

1234ハマナス:2012/02/23(木) 23:13:36 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
ありがとうございます。

   潜 在 意 識 の 浄 化 法  (『新版 生活の智慧365章』P.74より)

 過去の不愉快な事柄を全部自分の心から放ち去ろう。誰が何時、何処で何をいったとか、
何をしたとか――そんなことを常に心にもって心をけがしていて、それで光明思想の信者
だと言えますか。怒り、憎しみ、悲しみ、軽蔑、屈辱・・・そんな事で心を傷つけるのは
馬鹿馬鹿しいではありませんか。人間の幸、不幸は、物質の多寡や、環境境遇によるので
はなく、自分の心を平和に愉しく快適に保つことによって得られるのである。現在意識
から一切の怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、屈辱を棄て去るだけでなく、潜在意識に印象
されているそれらの不快な想念感情を綺麗に拭い去ることが必要である。
その為には神想観して次の如く、神の愛につつまれている自分を、心に強く深く念ずるが
良いのである。――
 
 「神の無限の愛われにふりそそぎ、われを取り巻き、吾を無限の愛をもって抱きしめ
給う。神はわがすべての罪をゆるしたまい、すべての罪を悉(ことごと)く“無”に
まで粉砕したまうたのである。わが罪は悉く”無”にまで粉砕されたのである。われは
一切の怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、屈辱等の傷は悉く消え去ったのである。
ありがとうございます。」


潜在意識の浄化するために、各教化部や道場では、神想観とともに、浄心行が
行われているのですね。

感謝合掌

1235役行者:2012/02/23(木) 23:50:06 ID:KYSDkuqI

 イヤハヤ、またもや、ももんが様へ 

 >〜”にごりなき、心のみづにすむ月は、なみもくだ けて、ひかりぞとなる“〜
 この一句はを聴くと、私の心と、ピッタリ一致し て、心を洗いだしてくれるようなそんな様に、私 は、感じ捉える事がでて、大好きな御歌です 。
 
 あと
 〜うらをみせ、おもてをみせて、散る、もみじ。〜
  これは、良寛様の御歌ですが、これも、“心”を見事 に表現しているので、大好きな歌です 一<

 禅の大家の方々は大抵、月がなぜか好きなのですよ。
 空海、明恵上人、栄西、道元、江戸時代にいたり、沢庵禅師、良寛さま、白隠禅師、幕末の清水の次郎長にもっとも影響を与えたことで後世有名になった山岡鉄舟翁などなど

 かく言う私も月が好きですが・・・この場合、道楽にて(#^_^#)


 それにしても、良寛さまのお言葉、身に染み入ります。
 何とも味わい深いです。
 
 私も大好きなんです。
 良寛さまには、何とも云えぬ魅力を感じます。

 
           合掌

1236役行者:2012/02/23(木) 23:55:10 ID:KYSDkuqI

 あっ、山ちゃん1952様が以前、紹介して下さった江戸時代の慈雲尊者も魅力的です。

 おやすみなさい。

1237a hope:2012/02/24(金) 12:38:25 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春著

「生き生きしさ」を出せ


大発明家で、人の真似をした人はありません。
真似をしたものはもう発明ということはできません。

大芸術家で人真似をした者もありません。
人真似はもう芸術ではありません。

お手本や先生の絵を見ても、その形ばかりを真似してはなりません。

どんなに伸び伸びと思うままに、あるがままに、そのままに、
自分のうちにある「生き生きしさ」をその手本は出しているか、
その先生の絵が出しているか、その「生き生きしさ」を出すのには、
どんな心になるか、その手本を書いた人の、先生の、心になって、
自分自身の「生き生きしさ」をそのまま出すようにしなければなりません。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――


みなさま こんにちは

本当に、あと、1週間で2月が終わってしまうのですね!

ところで、ももんがさまと、役行者さまが、仏教(禅)のお話を楽しそうにされていますね。

役行者とは、もうこの掲示板でかれこれ、半年ほどお付き合い(?)させていただいていますが、
やっぱり、すこし不思議なお方ですよね。
お名前も、変わっているな〜と思っておりましたが、
さきほど調べたら、役行者=(えんのぎょうじゃ) と、読むのですね!
さらに、実在された人物なのですね!

アホの a hopeは、昔のお役人様をそう呼ぶのかと勝手に思い込んでいました。
ですから、役行者さまは、どこかの役所にお勤めされている方なのかと思っていたのです。
だって、お役人様みたいにいつも落ち着いて、冷静に物事に対応されていますし...

まだまだ、勉強が足りない a hopeですね。
役行者さま、大変失礼いたしました。
これからは、これまで以上に尊敬させていただきます。

これからも、こんなアホのわたしですが、どうぞよろしくお願い致します。

1238ハマナス:2012/02/24(金) 16:00:50 ID:u5mC.eb2
皆さま、ありがとうございます。
今日は、日差しが暖かいです。

二月二十四日   心の眼ひらく日  (『光明道中記』より))

 大自然に心が無ければ、大自然より発生した人間に心を生ずる筈がない。
                     (『生命の實相』第十九巻)
 
美しく開く春の花を見るにつけても、その美しさを味わう心の不思議さに驚異される。
天地自然がどんなに美しくとも、若し吾々の心に「美」が宿っていなかったら、天地
自然の美は存在しなかったであろう。天地自然の美、梅の花、桜の花、桃の花・・・
の美。それら凡てを味わうことの出来る「大いなる美」が人間の心に宿っているのである。
人間は美しきものなのである。若し「人間」の知覚力が分析的な測定機の様な顕微鏡的、
機械的装置に過ぎない物だったら、吾々はどんな美人をも粗面の醜婦と観、どんな美術品
もだた空間(あき)だらけな分子の機械的な集まりとして観たであろう。機械的は心に
観られたる世界は機械的なものに観える。そこには「美」は存在しないのである。
吾々の見る世界が美しく観えるのは、吾々が「美しく観える」立場から万象を見ている
からである。吾々は最も美しく観える寸法に於て人間を観、天地自然を観ているのである。
美は吾々の観る心によってのみ発掘される。ものを暗く観る立場から観ている者は盲人
である。
 
先ず心の眼を啓くことが第一である。心の眼明るければ世界は明るく、
心の眼瞑(くら)ければ世界は暗い。


感謝合掌

1239復興G:2012/02/24(金) 20:17:16 ID:ojEbkDH2

>>1225
ももんが様。

ご丁寧なレス、ありがとうございます。
私、昨日は一日中いろいろありましてバタバタしてましたので、夜は疲れて寝てしまい、今日もいろいろあって、お返事遅くなりました。

ももんが様が>>1215
>『生命の実相』で、私が、読んでいて、時代に合わない実例もあると言ったは、……中略……だからて、『生命の実相』を読まないわけでは、ないのです。生命の実相は、読む事で、心が洗われる、現れるように感じますから、やはり、良い本です。<

 とおっしゃっていることに対して、私は

<私にとっては、『生命の實相』は「やはり、よい本です」などという程度のものではありません。>

 と申し上げました(>>1220)。私はももんが様が「『生命の實相』は、不完全だけれどもまあまあよい本と言える」程度に軽く見ておられるように誤解してしまったようです。

 ももんが様は、>>1225

<私が、上記の表現の中で、“良い本です”と言った前の、語句に、“心が洗われる”と“現れるように感じる”との語句を読んで観て貰うなら、私が、“良い本です”の意味の心底を御理解していただけたハズです。私は、“深層意識で生命の実相を読んでおります。”……私が、“良い本”と言ったのは、”心を澄みきった状態“に常にしてくれるコトバの有る本と言う事です。私の表現が、足りなかった事を、深く御詫びします。>

 と、お答えくださいました。
 よくわかりました。私はももんが様のお気持ちをよく受けとっていなかった、ちょっと誤解していたかと思います。お詫びを申し上げます。

 しかし私は、『生命の實相』のすばらしさは、「物質は、無い。現象は、無い」と自らを死にきって、光そのものとなって永遠の生命が輝いているところだと思っています。

 「現象界に出てきた本には誤植もありえますし、科学的知見などは時代的に合わなくなっていることもありましょう。」と、私は>>1220で書きました。
 しかし、『生命の實相』に多少の誤植があっても、また科学的知見が時代的に合わなくなっていることがあっても、そんなことは、ロダンの塑作した「鼻欠け像」は鼻が欠けていても永遠生命を表現しているから却って魂を打つものがあるように、それは全く『生命の實相』の値打ちを損ずるものではないと思っています。
 『生命の實相』第14巻(倫理篇)78〜79頁には、次のように記されています。

 <優れたる芸術家は、時間空間のスクリーンに投影されたる形象だけを捉えるものではない。時間空間のスクリーンに投影されたる影をそのまま実在するものとして、精確にその寸法を測定し重量を秤量し、その間の法則をとらえるのは科学者の仕事である。芸術家は影をそのまま実在として観ないで、影の奥にある生命を、実相生命を、把むのであります。だから、芸術家は凹凸きまざまの不細工な顔の奥にもその実相生命の美を捉えて表現する。ロダンの作った「鼻欠け像」は形そのものとしては美はないけれども、実相生命が捉えてあるから、そこにわれわれは生命の美を感得するのであります。言い換えると、ロダンは、形の上では鼻欠けを塑作していても、鼻の欠けていない実相を塑作していたということができるのであります。さらに言い換えると、「欠けている鼻はない」ということを現象の上では「欠けている鼻」を塑造しながら表わそうとするのが優れたる芸術家なのであります。ここでは芸術家は実際は宗教家であるといえるでしょう。医者なら「鼻欠けを「鼻欠け」として見る。芸術家は「鼻欠け」を「鼻あり」として見るのであります。そしてあらゆる生活上の態度において「欠陥ある現象人間」を見るに、ただそれを欠陥なき神の子としての人間として見よ、そこに欠陥なき人間があらわれて来るであろう──というのが「生長の家」倫理学の中心となる誡命(いましめ)であります。それは生活における芸術的態度といわれるでありましょう。>

 と。宗教は生命芸術であると言われます。ロダンの鼻欠け像のように、欠陥を見せながら欠陥のない実相生命を鳴りひびかせて、神の生命を表現している。
 誤植をなくし、科学的知見を今様に新しくした本を書いたとて、永遠生命が表現されなかったら、人の魂を打つものではなく、救いにはならないでしょう。
<つづく>

1240復興G:2012/02/24(金) 20:17:50 ID:ojEbkDH2

<つづき>
>>1220で私は
 <残念ながら、谷口雅宣総裁のご文章で、そのように魂が共感して打ちふるえるような喜びを感じたことは、ございません。>
 とも書きましたが、雅宣総裁のご文章は失礼ながら、科学者のお仕事のようで、実相生命を把み表現する芸術家・宗教家のお言葉とは感じられません。新しい科学的知見を採り入れた話をされても魂に響かないのは、そのためではないのでしょうか。
 科学的知見は古くなっても、やはり『生命の實相』にこそ生長の家大神が鳴りひびいていらっしゃると私は感じますから、『生命の實相』をこそ大切にしたいと思います。

 私はもう肉体は80歳に届くのも遠くない年齢になりました。しかし、「生命に死はない」ということが、『生命の實相』を読むことによって確信できるようになったので、毎日希望に燃えて充実した日々を送らせて頂いています。『生命の實相』に触れなかったら、とっくの昔に死んでいたでしょう。

 『訊け』ブログ管理人様は『生命の實相』に触れて、事業が好転する奇蹟的な体験を得られたそうですし、
 a hope 様は 「『生命の實相』の実例が「時代に合わない」、とか「遅れてきている」とは全く感じませんでした。むしろ、とても新鮮な感じがしました。聖典というのは、どんなに古いものでも、心から真理を求めている者の魂には必ず深く響くもの、そういうものなのではないかと思いました。」とおっしゃっています。

 『生命の實相』がなくなったら、「生長の家」は「生弔の家」になってしまうでしょう。
 神さまが始められたという「生長の家」の運動に、そんなことがあり得るはずはない。

 「組織板」の方に、「春らんまん」というHNの方が登場され、面白いことを言ってられますね。

<私は、必ずやいつか、現総裁は尊師の説かれた御教えによって救われる、実相顕現する、と信じています。(また、そう願わずにはいられないのです。)
 それは、いつになるか、わからない。今生で叶わなければ、来世かも知れない。しかし、いつの日にかきっと、真理に目覚められると疑いません。……
 私見ですが、私は現総裁は必ず現世で真理を体得されるはずだと考えています。……現総裁が、自らの体験発表を熱く語れば、講習会は大盛会となりますよ!>

 いやー、このようなことを発言する人が出てきたとは──いや、びっくりです。悪い意味ではありません。思ったことを率直に発言される、若い人はすごいことを言うなあ、と感心して、びっくりしているのです。私などは、畏れ多くて、そんなことは仮に思っても言えませんから──。
 これも、神さまの配剤かも知れないと思います。

<3/1の立教記念日に、"私はやっと、悟りました!!!"宣言と大懺悔を致して頂く、というのが理想では御座いますが、それまでに本当に総裁ご自身が変われなければ、上告の書類は7週か8週かけて(再審するか)調査されるようですから、2ヶ月後に"不受理→完敗"までに、なにがあっても、総裁に目覚めてもらうしか、ないのではないですか? それしか、組織全体が救われることはないのではないかと思います。
 また、組織が壊滅しても、"神の意志"として、受け入れなければならないのではないでしょうか。
 私は、1/31の結果を聞いた時、(生長の家の現教団の崩壊開始の時)
 ≪ 戦 後 民 主 主 義 の 終 焉 ≫
 と、喜ばしく思いました。
 "日本の夜明けぜよ"の竜馬の気分になって、裁判所から帰宅したものでございます。
 もともと、尊師が手押し車に1000部から自費発行して始まったではないですか。その原点に帰れば、必ず、やり直せますよ。再合掌>
(組織板・春らんまん様のコメントより)

  ──共感するところ、大いにあります。

1241復興G:2012/02/24(金) 20:45:12 ID:ojEbkDH2

 上記、
<組織が壊滅しても、"神の意志"として、受け入れなければならないのではないでしょうか。私は、1/31の結果を聞いた時、(生長の家の現教団の崩壊開始の時)
 ≪ 戦 後 民 主 主 義 の 終 焉 ≫
 と、喜ばしく思いました。>

 と言うことは、教団崩壊を喜ぶということではなく、役行者様も前におっしゃられていたと思いますが、こういう大激震が起こって、それを契機に必ず一層よくなる、神意が実現するのだと信じるということであります。

1242ももんが:2012/02/24(金) 20:45:55 ID:XXCuaQns
皆様、トキ管理人様、こんばわ。何時も、つまらない、お話にお付き合いくださり、ありがとうございます!合掌、拝。

本日は、良い天気で、私は、日々の行事に追われておりました。さて、本日も、つまらないといいなが、お話を一席させてくだい。


〜白隠禅師の乳もらいの話〜

>>『駿河の国に過ぎたるものが二つある。一に富士、二に白隠』と歌われるほど、原の白隠は有名な禅師であります。
その白隠様の住持した松蔭寺の門前に豆腐屋がありまして、豆腐屋夫妻は、白隠禅師を生き仏のように尊崇し、禅師のために犬馬の労を惜しまなかったとそうです。さて、その豆腐屋に年頃の一人娘がおりました。一人娘なので、良い婿を迎えて家業を継がせようと思っていましたが、中々良い婿が、見つからないでいました。幸いに、良い婿の候補が見つかりましたが、娘は、『イヤ!』の一点張り。いくら説得しても、『うん』と頭を縱に降りません。両親はこの良縁を逃してはと思うほど親は娘にヤッキに成ってあたる。親がヤッキなればなるほど娘はノイローゼが高じて来て、泣き出し、部屋に籠るようになるのでした。
そんな、ある日『ども娘の様子がおかし』と母親が気付きさぐりを入れると、案の定、娘は身ごもっていました。父親はその話を聞くと母親が、止めるのも聞かずに『相手は誰だ?』と娘を詰問しました。娘は、始めは黙っていましたが、いきり立つ父親の権幕に恐れて、つい、『相手は、白隠和尚様です』と、呟くように言った。日頃両親が、白隠禅師に深く帰依していたので、禅師の名前を出せば父親の勘気がとけるのではと娘は思って口を滑らせたのでした。
誠に浅はかな娘の考えだった。何も知らない、父親は、相手が白隠禅師と聞いて、怒りは新たな爆発を誘って頂点にたしました。爾来豆腐屋は、ぷっつりと寺と門をくぐらなかった。やがて、月満ちて、豆腐屋の娘に男の子が生まれました。豆腐屋はその赤ん坊を抱きかかえ、白隠禅師の居室におどり込むように入り、見台に向って祖録をひもといている白隠禅師に向かって『和尚!この子におぼえがあろう。生き仏だと思って仕えて来たのに、娘と不義をなすとはあきれはてた糞坊主。大事な娘をキズものにして一体どうしてくれるんだ。さぁ、手前の子は手前で育てろ!』と赤ん坊を放り出すようにつき出し、足音あら立て去っていった。白隠様は、一人『暫く姿を見せないと思ったら、この事だったのか?』白隠様は一応事は察しがついたが、さて困った、何しろ女手の無い寺のことであり、また、不義の子として押し付けられたのだから人手に委ねるわけにいかないかった。泣けば抱いてあやし、むずがればおむつを取り替え、汚れた物を洗濯する。白隠は誰にもたのまず、みんな自分でやってのけた。ただ困ったのはお乳。白隠禅師は赤ん坊を抱っこして、村々を貰い乳して歩いた。白隠禅師にたいする、世評は一転していて、生き仏は、スケベ坊主に転落し、尊敬は、侮蔑にかわった。
『オラの大事な乳、あんな生臭坊主にくれたかねだが、赤ん坊がかわいそうだで、仕方なしにくれるだよ』『偉そうな顔しやがって、陰で女はらませるスケベ坊主、顔も見るのもけがらわしい』
村の人々は憎しみ、侮蔑、蔑みが痛いほど感じられる中を、白隠禅師は平身低頭して乳もらいに歩いた。
一方、豆腐屋の娘は、父親に責められて白隠様の名前を出してしてしまい、事態が全く予想もつかない方向に進展し、気が気でなく、白隠様に申し訳ない気持ちでいっぱいなのと、赤ん坊の事が心配で仕方がなかった。たまりかねた、娘は、ついに父親に一切を白状した。ビックリ仰天した父親は、『こりゃ、とんでもないことをした!』と、松蔭寺に駆けつけ『いや、はや、何とも申し訳ございません。高徳の禅師様にとんでもない濡れ衣を着せて…この通りでございます。平にご容赦を』と、畳に頭をすりつけて詫び入った。
白隠様は『そうかい。父親がわかったか。そりゃ、よかったのう。』と淡々と答えるだけだった。<<




上のお話中々、面白かったでしょ。白隠様は、濡れ衣着せられても『言い訳しない姿』は、大変、宗教者として優れた所みました。
世間の人々とは、豆腐屋の両親と同じで、噂や証拠などを見えるものに捕らわれてるものですね。

では、では、皆様、本日は、ごゆっくり、おやすみないさいませ!ありがとうございます。感謝敬白、合掌、拝。

1243役行者:2012/02/24(金) 21:21:09 ID:KYSDkuqI
 a hope さま
 
 それはそれは、漸く気づいていただきまして<(_ _)>

 確かに役人というハンドルネームだと、味気ないですねσ(^_^;
 違いますから(>_<)ゞ

 役行者、別名は、役の小角(えんのおづの)でございます。
 
 たぶん、山ちゃん1952さまのブログで詳しく紹介していただいていると存じます。

 サーチした結果、役行者ゆかりの葛城山周辺にはときどき行かれている様子が記載されておりますが、とうとう見つけることはできませんでした。失礼!


 奈良時代に活躍した修験道の祖で、行者としては右にでる方はいないと存じます。

 それから、ももんがさま、白隠禅師の逸話、何回聞いても、すがすがしいです。
 ありがとうございます。

1244トキ:2012/02/24(金) 22:23:50 ID:c8ngWMwc
ももんが様

 すばらしいお話を紹介して下さり、ありがとうございました。原典は知りませんでしたが、岡潔先生の本で読んだ記憶があります。
まあ、私のような人間だと、すぐにDNA鑑定をしろ!と叫びそうだし、鑑定の結果は真っ黒という話になりそうです(笑)。

 北欧のイプセンという小説家の作品に「人民の敵」というのがあります。ある街の主要産業である工場が有害廃棄物を出している
事に気がついた医者が、その事を訴えたら、街の人に誤解され、攻撃されるという話です。スティーブ・マックインが、亡くなる直前
に映画化したと聞きましたが、日本では上映されていないみたいです。(確か、彼は石綿から中皮腫になり、亡くなっていると聞いており
ます。)。それを思い出しました。

 ご神示にも、人は誤解する・・・・と書かれていましたが、これを今の生長の家の状態で言うと、たぶん、教団上層部にも、本流復活派
にも、それを言いたい人はたくさんおられると思います。
 それなりに、良心と信仰にかけて、自分の信じる通りに発言し、行動をされているのですが、それが理解されないもどかしさは
多くの人が痛感されていると思います。

 自分の場合は、その誤解をする群衆のほうですが、自分の無知を内省する姿勢は持ちたいとは思っております。

 では、今後とも、宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

1245ももんが:2012/02/25(土) 06:49:38 ID:XXCuaQns
皆様、お早うございます。本日は、雨模様ですが、本日も、嬉しく、楽しく、明るく、素晴らしい日に、していきましょう!ありがとうございます。感謝敬白、合掌、拝。

昨夜、一昨日と、私への皆様からの心からの御投稿文誠に、心らから、お礼を申し上げます。トキ様、役行者様、復興G様、a hope様、ハマナス様、SAKURA様、誠にありがとうございます。感謝合掌。


明るいコトバを保ちながら、こうした環境に身を晒す事こそ、素晴らしいし、功徳と思います。


これからも、どうぞ、たくさんの事を、教えてくださいますよう、お願いたします。それでは、本日は、雨も降り、少々肌寒いですから、暖かくして、元気に明るく、お過ごしください。ありがとうございます。感謝敬白、合掌、拝

1246a hope:2012/02/25(土) 10:25:20 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

生命とは「生き生きしさ」


「自分自身の生き生きしさ」――これを自分の「生命」というのです。
「生き生きしさ」が無いものとは、どんなよい恰好をしていても生命はないのです。

人間の死ぬ前と、死んでからと、一分間の違いでどんなに異(ちが)いますか。
生きている時には「生き生きしさ」があったのです。
だから「生命がある」というのです。
それが1分間後には「生き生きしさ」が無くなった――それで、生命が無い――死んでいるというのです。

絵でも字でも、仕事でも、「生き生きしさ」がなくなっては死んでいるのです。
人間も生きていても、「生き生きしさ」がなくなったら死んだも同然です。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

みなさま おはようございます。


役行者さま ももんがさま

>奈良時代に活躍した修験道の祖で、行者としては右にでる方はいないと存じます。<

役行者さまというのは、すごいお方だったのですね!


>私の師は、78歳で痴呆の症状がありましたが、最後まで、坐禅を捨てない人でした。
最後は、坐禅して死を向かえました。<

>弘法大師空海しかり、やっぱり宗教家は寝て一畳、座って半畳・・・その座って半畳にて、死を迎えとうございます。
 我が祖(^_^;)
 役行者は、かくも天にそのまま上がったという伝説が・・・まるでキリストさまなのですが、真相は如何に!<

このようことを、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)というのですね。

いろいろお勉強させていただいております、ありがとうございます。


尚 >>1237のわたしの投稿で、一箇所、役行者さまのお名前に敬称がありませんでした。
大変失礼いたしました。


今日は、雨降りの土曜日です。子どもたちが家の中で騒がしいので、映画にでも連れて行こうかと思います。
それでは、わたしの愛する「生長の家」のみなさま、素敵な週末をお過ごしくださいね!

1247春らんまん:2012/02/25(土) 11:56:20 ID:t/2CXHok
>>1241 復興G閣下

合掌
ありがとうございます。

初めまして。閣下をたまげさせてしまった・不遜の末端信徒・春らんまんでございます。
こちらに御感想いただいていたのを発見し、驚きながら感激致しております。
ありがとうございます。

私が常々感じていたのは、"ジェネレーションギャップ”
と言いましょうか、 
本流派を主張する方たちと、現教団にあまり疑いを感じず
”純先生のお料理のプログ、大好きなんです"
"本流って、何を言っているのかわからないわ”という、
30代から40代周辺の会員の「意識の差」です。

もともと、本流側の方たちは
”尊師の悲願・日本国実相顕現を成就する!”
”愛国書・聖典を護り抜かなくてはならない!”という、
悲壮感を持って行動されたと信じています。

しかし、悲しいかな、その”雄叫び”は、 
『 言 っ て い る こ と の 意 味 が 、理 解 出 来 な い 』
会員さんには、まず、伝わらない。

“現総裁に、ハイ”と中心帰一していますから、
“学ぶ会は悪魔の集団なんですよ”学ぶ会のYouTubeなんか観たらいけませんよ”と言われ、
”ハイ”と従っていたり、PC環境がない方等に、

本流掲示板から泡飛ばして”食わず嫌いをやめて””心ある信徒よ、目覚めよ””
と、必死に訴えても、
徒労である+”本流はいつも怒っている”だとかマイナスイメージが増幅してしまう、
そんな危機感を持ちましたので、
こちらの掲示板でつらつらと書かせていただくようになりました。

一部の方には、私が靖国見真会様を叩いているように思えたかも知れませんが、
学ぶ会の方たちがどんな状況で頑張っておられるか、多少なりとも知っている身としては、
自分の不徳を反省しつつ、
必ずや大激震の後には、”良くなるしかない”と信じて、祈る日々でございます。

今後とも、御指導よろしくお願い致します。

再拝

1248復興G:2012/02/25(土) 13:11:43 ID:ojEbkDH2

>>1247
春らんまん様。

 レスをありがとうございます。
 こちらこそ、今後とも、御指導よろしくお願い致します。

 私は「本流対策室」板の方にも書き込みしましたが、私の実践としては、今朝も基本的神想観をして、

 「神の無限の生かす力わが内に流れ入る……」
 と念ずるときに、「われ」を「総裁」と置き換えて念じ、また
 「もはやわれ生くるにあらず、神のいのち今ここにありて生き給うなり」と念ずるところも、「もはや総裁はご自分の力で生きていらっしゃるのではない。神のいのち今ここにありて生き給うなり。総裁は神にまします、光にまします」と念ずる祈りをしました。

 また、われこそ本流と名乗り総裁を攻撃している方々もまた、自分の力で生きていらっしゃるのではない。神のいのち今ここにありて生き給うなり。神にまします、光にまします──と念じました。

 かく念じて両者互いに拝み合い、大調和のすがたにて協力し合っていることを心に瞑視しつつ、現象的にはおかしいと思うところがあれば、素直にそれを発言してまいろうと思います。光明法語より

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  七月三日の法語 「ハイ」の無限力

 最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。それは「ハイ」の一語である。一切の行為は「ハイ」にて動き、一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。然してこれを実行せよ。然らば必ず成就せん。「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、「ハイ」の決意にてその困難は斫り拓かれ、坦々たる大道となる。「ハイ」は汝を自由ならしめる。「ハイ」は実相その儘である。

  七月四日の法語 「否定」の威力

 「ハイ」に対立する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」である。汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。病いすなわち必ず癒えん。汝に不幸来らんか。「否!」と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも自由に販売しているところの百貨店だと言える。それを求める貨幣は「決意」である。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 この法語をかみしめ、実践してまいります。
 ──ということで、迷わず、>>1246で a hope様が謹写して下さいました谷口雅春先生の『人生読本』のご教示──「生き生きしさ」を十分に発揮しながら進みたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
 合掌 拝

1249春らんまん:2012/02/25(土) 17:56:31 ID:t/2CXHok
合掌
ありがとうございます。

>>1248

本日、閣下のご投稿拝読後、人生読本をぱっと開けたら、"知恵なき見方"でありました。。。
(あたっているかも、、、と)
ちょっと落ち込みながらしばらく読んだりしておりましたが、
やはり、聖典は素晴らしいですね。

ありがとうございます。

再拝

1250SAKURA:2012/02/25(土) 22:11:37 ID:J86KuXrI
トキ様 へ
皆様 へ

【幸福を招く365章…】
■自己の心を護ること

最も辛く見えるところの境遇や出来事も、
それは一層魂を深めるところの素材である。
秋が来て落葉するように見える時にも、
吾々は嘆いてはならないのである。
落葉する樹ほど春になって美しき花をひらくのである。
寒さが訪れてくるときに、樹木が葉を落とすのは、
外の出来事にのみ生命を労しないで、
内に深くこもって、生命力をいたわり育て貯蔵せんがためである。
外界が荒々しいときには、
人間も外にひろがることを考えないで、
内を守るが好いのである。
自己の心の中に悪い想念はないだろうか、
間違った感情はないだろうか、よく自己反省して見ることである。
そして外の悪想念の吹き込まないように自己の心を守りそだてるべきである。
                             
(谷口雅春著…)


「不利な立場」に置かされた時…
「理…」に合わないことをされた時…
感情が高ぶる時は…
すべてこちらは“悪くない!!”と考え方から、来るのでしょうか…?
そう!相手を非難している時ほど…
“心”がだんだん歪んでくるようです…。

その様な時は…
ただ!ただ!ひたすらに「神を信じる事…」か?でしょうか…!
昨日!「大住職さんとの雑談」しました時に…
“悪”は、其処で改善しますと…そのまま“仏”になれると云いておられましたが…
私はそんなことはないです〜〜〜ョ!
「一つの経文」を唱えるだけで……“仏”に…

「現象界…」では、そうかもしれませんが…??
又!それなりの世界に、それなりの修行があるのではと…「反論!」しましたが…
例えば【十界語句】には、“地獄界”でもそれなりに「10界語句…」があるのだと…?
以前、知人が云っていました事を…思い出した次第ですが?
そうしますと?それなりの【業…】があるわけですから…
【悪い事】を自覚ないままに、“死”の世界に仮に云った場合…??どの様にと???

■「人間が本当に悟る…」事とは…
何処まで〜♫〜何処まで〜♫〜と……思いながらも……
現在!!「吸血鬼・ゾンビ…もちろん黒幕・その背後の大黒幕」…
この【大の悪業…】は、どうなるのかしら〜〜〜〜ンと、思いますと…
“悟り”も、その【瞬間】ではと、思った次第です。

やはり“心の修行”が大事で、今!私に置かれています“環境”を…
「我が親なる神」にゆだねている所なのですが…。
まだ!まだ!「悪想念…吸血鬼・ゾンビもちろん黒幕…etc」の執拗な悪想念を…
吹き込まれない様に、ただ!ただ!…必ず「花が咲く事」を信じて…
きっと〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜と、かたくなに!

■現在の「生長の家」も必ず!「春が来ます…」と…
「天界の神…声なき声…」が、私には聞こえます…。

明日は、早めの【亡き母の49日の法要…】があります…。
又!時間的に〜〜遅くなるかもしれませんが…
でも「亡き母…」が、「素晴らしい世界!」に旅立ってくれます事…
更に!魂の向上…益々、“絆”として私達を見守ってくれます様に…
私も【先祖供養…】は、大事な事なのです…。
今日は、又!寝る前に【お祈り…】を…母に対して…

>トキ様…
身体の具合が…悪いそうですが…
「インフルエンザ」が、こちらでは、流行しているようなのですが…?
部屋を、暖かくして“暖かいモノ”――>雑炊・うどんとか…etc
召し上がられましたら…?
私は、「ほうじ茶の中に梅…」を入れます…。“きつ〜〜い”時はいいです〜ョ!
更に!「セブンイレブン…おでんセット」が、一袋198円で売っています…。
暖めて食しますと…“大根・こんにゃく…”が入っていますし…いいのでは?
急に冷え込んだり、天候が不順のこのごろですので…気をつけて下さいませ。
そして…“お大事に…”

最後に…
>投稿されていらっしゃいます方々・購読されていらっしゃいます皆様…
くれぐれも…“風邪(体調…)に気をつけられてくださいませ…。

                                再合掌

PS;
>トキ様 へ 本日の「言葉…」如何でしょうか?
人間、ネガティブな感情を抱きますと…体調まで…ダウン気味??
この素晴らしい〜〜〜「雅春先生の真理」当に“良薬”と…思いますが?

1251ハマナス:2012/02/25(土) 22:12:43 ID:u5mC.eb2

神の子の皆さま
 こんばんは。ありがとうございます。

   二月二十五日  心美しきに日   (『光明道中記』より)

 心の眼がひらかれなければ実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。
・・・三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。  (『生命の實相』第十六巻) 

 これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。
「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、
景色などのように思っている人もあるかも知れぬが、「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」の意味である。
浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、主観によって、観る者と
観られたるものとの一体の世界である。孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は
多孔性の世界であるし、塀ばかりを見ている人には、前途見透(みす)かしのつかない
衝突ばかりの世界である。他(ひと)の欠点を探す人には此の世界は孔だらけな
無味乾燥な世界に見えるであろう。棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、
針地獄に見えるであろう。我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。
  
若しそれが美しく見えないならば自分の心が汚れているのだと反省しよう。

1252ももんが:2012/02/25(土) 22:33:50 ID:XXCuaQns
〜両箇の月(二つの月)〜
曹洞宗には、大本山が二つあります。一つは、高祖、道元禅師が御開山の永平寺と、太祖(第四祖)螢山禅師の総持寺と、二つあるのです。
さて、今回は、螢山禅師とその継承者、峨山禅師のお話をします。

峨山禅師は、比叡山で出家され八年間、仏教学、特に天台教学を修め、その蘊奥(うんのう)を究めた。しかし、真の宗教的安心は学問仏教では得られないことを悟り、比叡山を下り、螢山禅師の会下に投じて坐禅修行にはげんだ。彼は資性英敏にして筋骨たくましい偉丈夫で、見るからに頼もしく、螢山禅師は良い後継者に恵まれた事をよろこんだのでした。
さて、そんな、ある冬の夜、月は中天に明るくさえわたり、山河も、野も里も清らかな月光に照らさた、美しき、冬の夜の事です。

螢山禅師は、ふっと思いついたかように、
『峨山和尚、月に両箇(二つ)あることを知っているか?』とたずねました。
峨山禅師は、
『知りません』
峨山禅師には、何のことやら合点がいかなかった。
峨山禅師が、返事をためらっていると、螢山禅師は、低いが、おごそかな、声で、言いました。

『月に両箇あることを知らずば、洞上の種草となしがたし』(月に二つあることがわからないようでは、曹洞宗の禅法を天下に弘める第一人者と許すことはできない)
日頃にない、きびしい螢山禅師の言葉に、峨山禅師はかつて経験したこともない強い衝撃を受けた。その時、峨山禅師の脳裏に去来したものは―

その昔、唐代の傑僧、香厳禅師は師匠の爲山霊裕禅師から、
『お前は何一つ知らんことないほど聡明博学だが、わしはお前が本で覚えたことには用はない。お前がお母さんの胎内を出る前、西も東も分からんさきのお前自身の一句を聞きたい』といわれ、何か答えると、
『それは眼で見たこと』
『それは耳で聞いたこと』『それは本に書いてある』といって、爲山禅師はいっこうにうけがわない。困りはてた香厳禅師が、
『どうか私のために説いてください』
と願うと、爲山禅師は、
『私が説くことのできるのは私の言葉であって、お前の一句に関係がない』
と、突っぱねる。香厳禅師は、これまで学んだ書籍やノートを取り出して調べてみたが一句も見出せない。呆然自失した香厳は『絵に描いた餅では腹はふくれない』とて、本やノートを焼き捨ててしまい『この世で仏法を学ぶ事を諦めて、一個の凡僧として生き、もうこれ以上きびしい求道の生活に心を労するのはやめよう』と泣く泣く、爲山禅師のもとを去り、田舎へ引っ越したのでした。そこに、禅庵をむすび、周囲に竹を植え、その竹を友として、坐禅にはげんでいた、ある日、道路を掃き掃除していたら、箒のさきにあたたった瓦の欠片が飛び、竹に当たり、カチーンと響いた、その時、香厳禅師は、豁然として大悟したのでした。そして、そこに立ち沐浴潔齋して香を焚き、はるかに大爲山を望んで礼拝して言いました。
『大爲山禅師様。あのとき私に一句を言って聞かせたくれなかったら、今日この喜びは、とうてい体験できなかったでありましょ。大禅師様のご恩は父母の恩にまさるものです…』

この話が、峨山禅師の頭の中を過りました。この瞬間から、峨山禅師の態度は一変しました。慎み深く、修行僧に一如した綿密な行持、きびしい坐禅修行。増上慢は微塵も感じられなくなりました。しかし、半年たち、一年たっても『両箇の月』の疑雲はさらに晴れそうにもない。そして、三年の月日が流れた正安三年十二月二十三日、北陸の空には寒月が凄まじいまで冷たくこうこうとさえわたっていた。その月の光を浴び静かに坐禅に励む峨山禅師の姿を見て、その心境の一段と深まったことをはっきり読み取った螢山禅師は、峨山禅師の耳もとで指をはじいた。それはまことにささやかな音であったが、峨山禅師には、三年間なやみ続けた大疑団を打ちくだく大音響であった。
『ああ、そうだ、このところだ!』と峨山禅師は叫んだのであった。
峨山禅師には、月に両箇あり、といわれた、螢山禅師の心が、はっきりと会得されたのでした。

両箇の月。一つは言うまでもなく、中天に輝く澄みぬいてる月です。
いま一つは、その月の光を放って地上の万物をあまねく照しわたってる光のことであります。
それは、どの仏教教理に精通していても、それが日常生活に肉体化されて、喫茶喫飯から、各自の仕事の上まで、生活万般にわたってその顕現してくるのでなかたら、真の悟りと言えなかっかたでしょ。


さあ、本日も、つまらい、禅のお話に、お付き合いくださり、ありがとうございます。香厳和尚も、峨山和尚も、学問や聖典を最後は、焼き捨てました。
これに、近い内容の事が、生命の実相33巻にありました。
それは、自己に宿る、実相を手にいれる為です。

1253ももんが:2012/02/26(日) 06:52:51 ID:XXCuaQns
皆様、お早うございます。昨日は、春雨の激しい朝でしたが、今日は少し雲っていますが、よい天気です。さあ、本日も、“ありがとう”の生活をして明るい生活を楽しみましょう!ありがとうございます。合掌、拝。

今日は、先日から、とても心に残っていた、ハマナス様の投稿文を再度投稿させてもらいます。

<<1234:ハマナス
12/02/23(木) 23:13:36 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
ありがとうございます。

   潜 在 意 識 の 浄 化 法  (『新版 生活の智慧365章』P.74より)

 過去の不愉快な事柄を全部自分の心から放ち去ろう。誰が何時、何処で何をいったとか、
何をしたとか――そんなことを常に心にもって心をけがしていて、それで光明思想の信者
だと言えますか。怒り、憎しみ、悲しみ、軽蔑、屈辱・・・そんな事で心を傷つけるのは
馬鹿馬鹿しいではありませんか。人間の幸、不幸は、物質の多寡や、環境境遇によるので
はなく、自分の心を平和に愉しく快適に保つことによって得られるのである。現在意識
から一切の怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、屈辱を棄て去るだけでなく、潜在意識に印象
されているそれらの不快な想念感情を綺麗に拭い去ることが必要である。
その為には神想観して次の如く、神の愛につつまれている自分を、心に強く深く念ずるが
良いのである。――
 
 「神の無限の愛われにふりそそぎ、われを取り巻き、吾を無限の愛をもって抱きしめ
給う。神はわがすべての罪をゆるしたまい、すべての罪を悉(ことごと)く“無”に
まで粉砕したまうたのである。わが罪は悉く”無”にまで粉砕されたのである。われは
一切の怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、屈辱等の傷は悉く消え去ったのである。
ありがとうございます。>>」


私が、時折感じでいる事と、全く同じです。ハマナス様には、本当に何時も、教わる事ばかりで、ありがたい限りです。

では、皆様、多少御寒いですから、暖かくして、風邪などめしませんように。明るく、楽しく、お過ごしください、ありがとうございます。合掌、拝。

1254役行者:2012/02/26(日) 07:24:18 ID:Smm01I1E

 ももんがさま

 連載で禅の世界で大悟した先達のご文章を掲載下さり、ありがとうございます。
 森羅万象、特に月に魅了されている役行者です。

 ももんがさまのご文章を読んで、自らの悟りの助けになりました。
 このご文章を縁として自己研鑽し、少しでも悟りに導かれるよう、実生活のなかで精進してまいります。

 書物はあくまでも悟りに導かれるための縁なのですね。
 ただ、その悟りの縁となるための書物は仏教界はもちろん、禅の世界にもたくさんありますね。
 確かに内在の実相が一番大切であり、人によっては頼っているすべての書物の記憶を捨てた方が良い場合もあります。その真理の蘊蓄の世界から離れてはじめて内在の実相と感応するのでしょう。この指南は切実に我が身に応えました。ありがとうございます。
 しかし、この公案は全員には当てはまりませんよね。たとえば、大自然の摂理を身体で体得しているのですが、この働きは何なんだと、内在の実相に働きかけている人に、その助けになるような本を愛行したら、一目瞭然として大悟するでしょう。
 また、書物によってもたらされた蘊蓄は何の役にも立たない!ということを教え諭してくれたのも書物を通してですね。
 真理へと指南してくれる書物の大切さを改めて思い知りました。なお一層、生命の実相の大切さを噛みしめた次
第です。
  
 それにしても、指南してくださった先達には何の計らいもないのがよく分かり、禅の只管打坐の世界を少しかえりみれたような気がします。只管打坐を実生活における指針として戴きます。

          感謝合掌

1255復興G:2012/02/26(日) 09:04:08 ID:ojEbkDH2

>>1252
ももんが様。

合掌 ありがとうございます。

>・・・・それは、どの仏教教理に精通していても、それが日常生活に肉体化されて、喫茶喫飯から、各自の仕事の上まで、生活万般にわたってその顕現してくるのでなかたら、真の悟りと言えなかっかたでしょ。<

このお言葉、肝に銘じて精進してまいります。
ありがとうございます。

1256a hope:2012/02/26(日) 10:35:21 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

生き生きした仕事


皆さん、生き生きした心待(こころもち)で、生き生きした動作で、生き生きした瞳を輝かせて、
生き生きした顔の表情で、生き生きした勉強をしましょう。
生き生きした仕事をしましょう。
生き生きした心でした勉強はよく覚えられ、生き生きした仕事はすべて立派にできるのです。
心が生き生きしていれば万事が生きてくるのです。

世の中は日々に新しいのです。
今朝起きれば昨夕(ゆうべ)とはすっかり変わっているのです。
それだのに自分だけ新しくならなくては、世界の進歩に敗(ま)けてしまいます。
新しくなるとは昨日のままでいないことです。
昨日のままの上に、今日は既に新しい偉さが加わることです。
他(ひと)はどんなに偉くとも、自分はもっと新しい偉さがなければなりません。
昨日と同じ所にじっとしていては世の中に敗けるばかりです。
他のして来たところに、さらに新しい偉さと値打を増そうと心掛けることが大切です。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

みなさま おはようございます。

この、「人生読本」本当にすばらしい神さまの智慧とパワーがたくさん詰まった本だなあと思います。
読むだけで、筆写するだけで、わたしは元気になりやる気がでます。

その力をどんなふうに生活に生かしていけるかが、大切なのですよね!

それでは、わたしの大切な「生長の家」のみなさま、今日も、素敵な一日をお過ごしください!

1257SAKURA:2012/02/26(日) 21:02:18 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ

■幸福を招く365章
   【人を憎めば自分の人格が低くなる】

どんなに熱心に、神想観しようとも、神に祈ろうとも、もし誰かを憎んだり、
恨んだり、呪ったりしている限りは、それは無効に帰するのである。
人は自分が誰かを憎んでいる限り、その憎んでいる相手の高さ以上に
昇ることはできないのである。憎んだり怨んだりしているのは、
その人に執着を持っているのであるから、執着のある所まで
その人の心は降りて来るほかはないのである。
人を憎めば、憎んでる相手と同じ低さまで自分の人格が降りたのであるから、
もう自分は、その相手を憎んだり、軽蔑したりする資格はなくなったのである。
どんな相手に対してでも其人に宿る神性を拝むことにするならば、
自分の人格も亦その神性の高さまで昇るのである。
人に何か、欠点があらわれた場合に、欠点をみるな、「神らしくない所」に
眼をつけるなと云われても、どうも、見えるものは仕方がないのであって、
悪い人は悪いと見えるほかはないと云う人がある。
併し、こんな場合に「悪」の存在を否定しようと思うから難しいのであって、
「悪」はそのままにして置いて、其の人の中に宿る善なる神性のみをみつめる
ようにしておれば、その人の善なる神性はあらわれて、
「悪」はおのずから影のように消えてしまうのである。
すべて「悪」と見えるものは本来存在しないのであって、
それを認めている間だけ現れているのである。
                          (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「今日の言葉」は、普段の私達の”感情”の中に、必ずある“モノ”でしょうか?
今の「私の愚痴」?……何故?何故?の…”連続”でしょうか…?

何故〜〜〜?「吸血鬼・ゾンビ達?」は、人の前に、”ぞろぞろ虫”のように、
”執拗”して尾行をするのかしら〜〜〜〜〜ンと…?私の中の”一つの心…”??
私が?自問自答しますと…?
更に!反対の”もう一つの心”…は「そうよ!吸血鬼・ゾンビ達は金で動いている」
「金=尾行=イヤガラセ=プライド…連鎖反応が…」分っている事ですが…
やるせないくらい〜〜><の”募り”が出て来るのです…。
そうなりますと”も〜〜〜う!!”前に進むどころではなくなるぐらい…
「暗闇世界…」にどっぷり入っているような気持ち…!
こうなりますと「人格も…低下」確かにその通りです〜〜ネ!

「今日の言葉」から、”執着”と言えば…いろんな感情があるのだとも分り、
今の私は、なるべく”イヤナ言葉”を吐かない様にして、
「魂の高揚」を高める方に、心を振り向けることが…大事です〜〜ネ!!

「美点」が見えない時は、飛ばして他の事を考えて【仕事に夢中】になるとか…?
一番楽しかった時を、思い出しながら…
思考を、他の事に移動してもいいのではと…
そして私の周囲には【悪は存在しないと思念】をして行こうと思います…。

■認めたことだけが【現象世界に現れるとの事…】
益々!!ないものは〜〜〜ない〜〜〜!!「実相世界」に突入でしょうか???

                              再合掌

PS:>トキ様へ
「今日の言葉」現在の私の「心境……解決策」と申しましょうか?
しかしながら…この心境にならなくては…?思いつつ…??
”心の中”の葛藤が正直有ります。
??思わなくては???してはいけない???こう云う”感情”は、
果たして100%、消えるのせしょうか?この処は、どのように考えれれますか?

1258ももんが:2012/02/26(日) 22:17:20 ID:XXCuaQns
復興G様、役行者様

復興G様、役行者様、昨晩の『両箇の月』御拝読くださり、いつもながら、御言葉賜りましたて、ありがとうございます。感謝合掌、拝。

もとい、教えるなどと言った気持ちは、ありませんから、気楽な気持ちで、お聞き下されば、それで、嬉しゅうございます。

私が、今回、ここで、最も、聞いてほしかったのは、実は、ここの部分で、ございます。

<<その昔、唐代の傑僧、香厳禅師は師匠の爲山霊裕禅師から、
『お前は何一つ知らんことないほど聡明博学だが、わしはお前が本で覚えたことには用はない。お前がお母さんの胎内を出る前、西も東も分からんさきのお前自身の一句を聞きたい』いわれ、何か答えると、
『それは眼で見たこと』
『それは耳で聞いたこと』『それは本に書いてある』といって、爲山禅師はいっこうにうけがわない。困りはてた香厳禅師が、
『どうか私のために説いてください』
と願うと、爲山禅師は、
『私が説くことのできるのは私の言葉であって、お前の一句に関係がない』
と、突っぱねる。香厳禅師は、これまで学んだ書籍やノートを取り出して調べてみたが一句も見出せない。呆然自失した香厳は『絵に描いた餅では腹はふくれない』とて、本やノートを焼き捨ててしまい『この世で仏法を学ぶ事を諦めて、一個の凡僧として生き、もうこれ以上きびしい求道の生活に心を労するのはやめよう』と泣く泣く、爲山禅師のもとを去り、田舎へ引っ越したのでした。そこに、禅庵をむすび、周囲に竹を植え、その竹を友として、坐禅にはげんでいた、ある日、道路を掃き掃除していたら、箒のさきにあたたった瓦の欠片が飛び、竹に当たり、カチーンと響いた、その時、香厳禅師は、豁然として大悟したのでした。そして、そこに立ち沐浴潔齋して香を焚き、はるかに大爲山を望んで礼拝して言いました。
『大爲山禅師様。あのとき私に一句を言って聞かせたくれなかったら、今日この喜びは、とうてい体験できなかったでありましょ。大禅師様のご恩は父母の恩にまさるものです…』>>

特に、本流派、教団派を問わずに、この問題は、是非宗教をやるなら、必ず解決しなければならない問題と思われす。

<<『お前は何一つ知らんことないほど聡明博学だが、わしはお前が本で覚えたことには用はない。お前がお母さんの胎内を出る前、西も東も分からんさきのお前自身の一句を聞きたい』>>

役行者様は、この問題は

<< しかし、この公案は全員には当てはまりませんよね。たとえば、大自然の摂理を身体で体得しているのですが、この働きは何なんだと、内在の実相に働きかけている人に、その助けになるような本を愛行したら、一目瞭然として大悟するでしょう。>>

と言われましたが、そうでは、無く、真に宗教を実践するならば、この体験は、一度はしなけば成らないと、生意気ですが、言わせ頂きます。何故なら、それが、真理だからです。仏教では見性と呼び、カトリックでは霊性と呼ぶようです。

その昔、禅宗の六祖慧能禅師は、学問が無く、文字を読む事も、書く事もできませんでした。だが『金剛般若波羅密経』の誰かが唱える文句を聞いて、廓然と悟りの体験をされたそうです。

これは、『金剛般若波羅密経』が聖典だから悟れたのでしょか?

此れは、慧能禅師の仏性、生長の家的にもうしますなら、『自己内在の生命の実相』と『金剛般若波羅密経』の言葉が、“共鳴”した、一つに成った事を体験されたからでしょ。

先日、復興G様が、”『聖典・生命の実相』を読むと魂が共鳴するよう“と言われたのも、復興G様の心『内在の生命の実相』が、『聖典・生命の実相』の言葉と共鳴したのであって、本来、確認すべき物は、『自己内在の生命の実相』存在を、自分自身が知ることではないかと、思われます。

〜つづく〜

1259ももんが:2012/02/26(日) 22:26:27 ID:XXCuaQns
>>1258 復興G様、役行者様

〜つづき〜


私は、ここ数年、雅春先生の『甘露の法雨講話』テープと山本玄峰老師の『提唱テープ』を聞き比べています。

雅春先生は、英語では『look in to 』と言い、『実相を観る』これをすると、『自己の実相が現れる』そうです。
玄峰老師は、良く、提唱テープでは、『性根玉』と良く使いますが、『生命の実相』の事です。

この様に、違う宗教であるのに、観方が、同じであるのが、本当の『真理』と私は、思うのです。そして、同じ人間であるかぎり、雅春先生だろと、玄峰老師だろ、どこの誰だれだろと、同じ、『真理』を体験出来るが、本当の宗教であると、私は信じます。

そして、『聖典・生命の実相』は神示に有るとうり、確かに、コトバの神殿ではあり、読んだり、愛行する事で功徳を受けるのは、素晴らしいのですが、それでは、御利益宗教と同じに事になりかねません。

私は『聖典・生命の実相』をとうして、『自己の内の実相』を悟り、理解して、神様に、全択できる、様な、生き方を学び、実生活に生かして行くのが、神の子の本来の生き方だと、生意気ながら、思うのです。

復興G様、役行者様、生意気な、私を、どうか、お許しください。私は、本音を言うなら、政治に関わるような、本流派の生き方は好きに慣れません。西洋では、聖母が何度も現れて、警告発する、原子力。神を信ずる、者が、神を裏切る。地球の危機は、生命の危機と思うところです。

では、心使いくださり、ありがとうございました。また宜しくお願いします。
感謝敬白、合掌、拝。

1260ハマナス:2012/02/26(日) 23:23:06 ID:mR2szZkc

ももんが様

ありがとうございます。今日は教区の行事に出掛けてまして、お返事が遅くなり申し訳ございません。

再投稿して頂き恐れ入りました。光明道中記や生命の實相にしても、丁度良いお言葉が書かれてありまして、雅春先生が霊界からお導き下さっているように感じます。

現象は双方が争っているよう見えますが、実相はすでに、大調和しています。
必ず実相が現れ、生長の家が益々、日本国実相顕現、人類光明化の為に貢献するものと信じます。

ももんが様、今朝は、素晴らしい「両箇の月」のお話しをありがとうございました。

雅春先生のお言葉に拝借致しますとと、「真理は頭脳で知っただけでは、神がわがものとはならないのである。全心身をもって体感体得しなければならない。
神が理論上の存在でなくなって、自己の生命そのものとの自覚を得はじめたとき、私たちの生活は変貌しはじめるのである。」と思いました。

真理は生活に生かさなければならない大切な事をお教え頂きまして、感謝申し上げます。
実践して参りとうございます。

感謝合掌

1261ももんが:2012/02/27(月) 07:20:55 ID:XXCuaQns
皆様、お早うございます。今日も、寒いですが、素晴らしい、朝がやってきました!さあ、今日も元気に『ありがとう』をたくさん、皆様の周囲に振り撒き、明るい日にいたしましょ!ありがとうございます!合掌、拝。

ハマナス様、昨晩は、奉仕活動後にお返事くださり、真にありがとうございます。感謝敬白、合掌、拝。お返事は、また、改めてさせて貰います。いつも、ありがとうございます。

復興G様、役行者様も、いつも、心よりの御言葉ありがとうございます。生意気な私ですが、暖かく、接してくださり、心より感謝です。ありがとうございます。感謝敬白、合掌、拝。


さて、最近はと言うよりは、昔から実行はしてましたが、最近、特に、意識て、外食の時も、家でも食べ物に『ありがとう』『いただきます』を気持ちを込めて声だしてあげてます。忘れる事もありますが、やるようにしてます。

では、では、皆様、本日も、明るいコトバを成るべく使うよに勤めて、光明化するように、元気に明るく、生活していきましょ!ありがとうございます。合掌、拝。

1262役行者:2012/02/27(月) 11:44:32 ID:L4NTmRgM
 ももんがさま

 大変、また勉強になりました。感謝!


>その昔、禅宗の六祖慧能禅師は、学問が無く、文字 を読む事も、書く事もできませんでした。
 だが『金剛般若波羅密経』の誰かが唱える文句を聞いて、廓 然と悟りの体験をされたそうです。
これは、『金剛般若波羅密経』が聖典だから悟れた のでしょか? 此れは、慧能禅師の仏性、生長の家的にもうしますなら、『自己内在の生命の実相』と『金剛般若波羅 密経』の言葉が、“共鳴”した、一つに成った事を体 験されたからでしょ 。

 先日、復興G様が、”『聖典・生命の実相』を読む と魂が共鳴するよう“と言われたのも、復興G様の 心『内在の生命の実相』が、『聖典・生命の実相 の言葉と共鳴したのであって、本来、確認すべき物 は、『自己内在の生命の実相』存在を、自分自身が 知ることではないかと、思われます。<


 ご指南、ありがとうこざいます。まさしくその通りと、存じます。『自己内在の生命の実相』を全身全霊で体感することが何よりも大切なことと存じます。
 『生命の実相』という書物ではないですね。
 ただこれら書物は、『自己内在の生命の実相』を体得するための、援助・支援の役はしてくれていると思います。
 つまり、本を通して学で紡ぎ出すこたえでなく、大自然の摂理と感応するための縁を提供してくれる実にありがたい存在と思ってます。
 
 少なくとも私は、大げさに云うと、聖書がなくなろうが、仏典がなくなろうが、『生命の実相』という書物がなくなろうが、宇宙の真理は厳然と存在し、その導きは書物のとおすところではない!と思っています。
 
 つまり、書物が中心ではない、ということです。

 ただ、縁にはなっていただいており、縁は恩であり、私を含め生長の家の信徒一人一人みな香厳禅師ほどの悟りには及びませんが、この書物を縁として人生の何らかの指針になったのですから、大切にしなければならない存在と存じております。

 何回も生まれ変わり、俄然大悟された香厳禅師に対する公案と、我々、一般信徒に対する公案、つまり方便と、比較しにくいところはあります。方便としては、私はご利益信仰もしかりと思ってます。ひとそれぞれ、クリアーしなければならない魂の段階があるかと存じております。
 
 
 >この様に、違う宗教であるのに、観方が、同じであ るのが、本当の『真理』と私は、思うのです。そし て、同じ人間であるかぎり、雅春先生だろと、玄峰 老師だろ、どこの誰だれだろと、同じ、『真理』を 体験出来るが、本当の宗教であると、私は信じま す。<


 まったくもって、異議ありません。


  >『聖典・生命の実相』は神示に有るとう り、確かに、コトバの神殿ではあり、読んだり、愛行する事で功徳を受けるのは、素晴らしいのです が、それでは、御利益宗教と同じに事になりかねま せん。
  私は『聖典・生命の実相』をとうして、『自己の内 の実相』を悟り、理解して、神様に、全択できる 様な、生き方を学び、実生活に生かして行くのが 神の子の本来の生き方だと、生意気ながら、思うの です。<

 このような理念をビジョンとしてますます、『生命の実相』が普及されますことを心より祈っております。

         感謝 合掌

1263ハマナス:2012/02/27(月) 11:55:52 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま

ありがとうございます。
良いお天気になりました。久しぶりに外に洗濯物を出しました。
   

  希望は現実の母    (『新版 生活の智慧365章』P.75)

 「希望は現実の母である」と生長の家の”智慧の言葉“に書かれているのである。
あなたの心の底深く催して来るところの願いは、既に実相鬼於いて成就しているので
ある。これを「みこころが既に天に成る」というのである。それを現実世界に実現
することを「みこころが既に天に成るが如く、地にも成らせ給え」というのである。

 「天」とは「実相世界」のことである。実際、一切の善きものは既にそれが実相世界に
存在するのである。存在しないものを此処に持ち来すのは難しいであろうけれども、
既に存在するものを、「其処から此処へ」というふうにもって来ればよいのであるから、
それは少しもむづかしい事はないのである。それをむづかしいと感ずるのは、実相の
世界に既にそれが成就していることを自覚しないで、「むづかしい」と勝手に自己否定して
しまうからである。


感謝合掌

1264a hope:2012/02/27(月) 12:29:49 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

生きているものは新しい


生きているものは常に新しいのです。
植木や花をよく見てごらんなさい。
生きている限り毎日毎日生長します。
昨日にない新しさが何か殖えています。
新芽が出るとか、葉が大きくなるとか、蕾ができるとか、何かの新しさが加わっています。

このように生きているものは常に新しいのです。
否、常に新しいからこそ生きているというのです。
常に新しくならないことを死んでいるというのです。

植木や花が生きているかどうかを知るには、常にそれが新しくなっているかどうかをしれば好いのです。
それが生きていれば日に日に新しくなって行きます。
それが死んでいれば日に日に古くなって行くか、ミイラや乾物(ひもの)のようにいつまでも変わらないものです。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ー


みなさま こんにちは

この掲示板の各板で、今、とても有意義な討論や、お話、提案がされているような気がするのは、
わたしだけでしょうか?

まだ、ゆっくり拝見していないのですが、たとえば、SAKURAさまや、ハマナスさまの、聖典のご筆写にしても、
本当に、その時の状況にぴったりのものを投稿して下っています。

ハマナスさまは、
>光明道中記や生命の實相にしても、丁度良いお言葉が書かれてありまして、
雅春先生が霊界からお導き下さっているように感じます。<

とおっしゃっていますが、わたしもいつもそう感じています。


わたしたちは、谷口雅春先生のありがたいお導きのお言葉を、しっかりと心にとめて、
これからも、生長の家人としての恥ずかしくないような、投稿を心がけていかなかればいけないのだと思いました。

1265役行者:2012/02/27(月) 12:44:26 ID:L4NTmRgM

 ももんがさま

 それから、下記投稿文!


 > 私は、本音を言うなら、政治に関わ るような、本流派の生き方は好きに慣れません。西 洋では、聖母が何度も現れて、警告発する、原子 力。神を信ずる、者が、神を裏切る。地球の危機 は、生命の危機と思うところです では、心使いくださり、ありがとうございます。<
 

 政治は、民衆の生活の営みをできるだけよくする機関の役目もあります。ですから、まったく政治に関わりをもたない訳にはいきませんが、私も政治にまつわる作意策略にはできるだけ関わりたくないです。
 たぶん、ももんがさまもそういう類のものはあまり好きではなさそうですね。

 さて、原子力のことなのですが、できるだけ環境に、自然に優しいエネルギーがいいですね。
 人類を危険には晒したくはないです。

 このようなエネルギーを活用し始めたのも、近代文明以降です。もともと、日本は太古の昔から循環型社会を形成して、すべてを生かし、生かされる生活を駆使されてました。


 是非、日本古来の生活法を学ぶ中で、今後の日本のエネルギー政策を考えていただきたいものです。
 大自然とできるだけ調和したエネルギー政策を深く希望しております。
    
          合 掌

1266あさひ:2012/02/27(月) 14:00:33 ID:/3nxKE2Q
ももんが様

>  私は『聖典・生命の実相』をとうして、『自己の内 の実相』を悟り、理解して、神様に、全択できる 様な、生き方を学び、実生活に生かして行くのが 神の子の本来の生き方だと、生意気ながら、思うの です

私も同じように考えております。ただ、言うは易しく行うは難いので、日々努力するしかありません。
 
 感謝 合掌

1267SAKURA:2012/02/27(月) 15:15:33 ID:uZSshw7Y
トキ様 へ
皆様 へ

今日は…“投稿者”の皆様がおっしゃいますように、こちらも“晴天”です…。
やはり、私にとりまして“ネガティブ”になりやすい“雨天…”よりも〜♫〜
なんとな〜〜く 心に“ポカ〜ポカ〜”気分…頂く事の出来ます…
太陽???ひかり“サン〜♫〜サン〜♫〜”がポジティブになりやすい私ですので?
…まだまだ!!“人格形成”改造論…まっしぐら??でしょうかしら〜〜ン??ウフフ
当に!もうすぐ〜♫〜“春…らんまん”〜♫〜です〜〜ネ!

さて!!毎日皆様の“投稿内容”…楽しく拝読させて頂いております…。
そして 【雅春先生著…先生の書物の抜粋文】
各々の投稿者のピックアップが…“面白い”と云いますのが私の感想です…。

人は…その【現状の環境・問題に直面した場合】その時の“心の状態”と、
マッチ致しました文章を、投稿する事が往々にして…存じますが?

>ある投稿者の方が…
「○○の文が神の啓示」に近い…??
この言葉は、ご本人の置かれました状況(環境・問題…etc)近い状況でしょう…?
つまり【類の法則…】と云う事でしょう…。
これは……■ 比較論…■ と云う事になるのでしょうか??
個人的には、比較論は“進歩・向上…”生み出すものが無いものと思います…。

■■雅春先生著の御文章は全てが…【神の啓示…】と思います…。

そして、人は置かれました“心の心境”にて、【雅春先生の真理の言葉…】
感銘します箇所が…変わってくるものと思います…。
それが、個性であり、又!素晴らしい事と存じますが…。

尚…現在の「生長の家…」の討論問題…一番の根本は〜〜〜〜
【人格形成…】から“認める心…からスタート”でしょうかしら〜〜ン?

もう一度!!【投稿】させて頂きます…。
                    <つづく>           No.1

1268SAKURA:2012/02/27(月) 15:16:49 ID:uZSshw7Y
<つづく>             No.2
☆SAKURA1257>トキ様 へ 皆様 へ

■幸福を招く365章
   【人を憎めば自分の人格が低くなる】

どんなに熱心に、神想観しようとも、神に祈ろうとも、もし誰かを憎んだり、
恨んだり、呪ったりしている限りは、それは無効に帰するのである。
人は自分が誰かを憎んでいる限り、その憎んでいる相手の高さ以上に
昇ることはできないのである。憎んだり怨んだりしているのは、
その人に執着を持っているのであるから、執着のある所まで
その人の心は降りて来るほかはないのである。
人を憎めば、憎んでる相手と同じ低さまで自分の人格が降りたのであるから、
もう自分は、その相手を憎んだり、軽蔑したりする資格はなくなったのである。
どんな相手に対してでも其人に宿る神性を拝むことにするならば、
自分の人格も亦その神性の高さまで昇るのである。
人に何か、欠点があらわれた場合に、欠点をみるな、「神らしくない所」に
眼をつけるなと云われても、どうも、見えるものは仕方がないのであって、
悪い人は悪いと見えるほかはないと云う人がある。
併し、こんな場合に「悪」の存在を否定しようと思うから難しいのであって、
「悪」はそのままにして置いて、其の人の中に宿る善なる神性のみをみつめる
ようにしておれば、その人の善なる神性はあらわれて、
「悪」はおのずから影のように消えてしまうのである。
すべて「悪」と見えるものは本来存在しないのであって、
それを認めている間だけ現れているのである。
                          (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「今日の言葉」は、普段の私達の”感情”の中に、必ずある“モノ”でしょうか?
今の「私の愚痴」?……何故?何故?の…”連続”でしょうか…?

何故〜〜〜?「吸血鬼・ゾンビ達?」は、人の前に、”ぞろぞろ虫”のように、
”執拗”して尾行をするのかしら〜〜〜〜〜ンと…?私の中の”一つの心…”??
私が?自問自答しますと…?
更に!反対の”もう一つの心”…は「そうよ!吸血鬼・ゾンビ達は金で動いている」
「金=尾行=イヤガラセ=プライド…連鎖反応が…」分っている事ですが…
やるせないくらい〜〜><の”募り”が出て来るのです…。
そうなりますと”も〜〜〜う!!”前に進むどころではなくなるぐらい…
「暗闇世界…」にどっぷり入っているような気持ち…!
こうなりますと「人格も…低下」確かにその通りです〜〜ネ!

「今日の言葉」から、”執着”と言えば…いろんな感情があるのだとも分り、
今の私は、なるべく”イヤナ言葉”を吐かない様にして、
「魂の高揚」を高める方に、心を振り向けることが…大事です〜〜ネ!!

「美点」が見えない時は、飛ばして他の事を考えて【仕事に夢中】になるとか…?
一番楽しかった時を、思い出しながら…
思考を、他の事に移動してもいいのではと…
そして私の周囲には【悪は存在しないと思念】をして行こうと思います…。

■認めたことだけが【現象世界に現れるとの事…】
益々!!ないものは〜〜〜ない〜〜〜!!「実相世界」に突入でしょうか???    
                                            再合掌
PS:>トキ様へ
「今日の言葉」現在の私の「心境……解決策」と申しましょうか?
しかしながら…この心境にならなくては…?思いつつ…??
”心の中”の葛藤が正直有ります。
??思わなくては???してはいけない???こう云う”感情”は、
果たして100%、消えるのせしょうか?この処は、どのように考えれれますか?

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆
上記を、再投稿させて頂きます…。

1269復興G:2012/02/27(月) 20:30:13 ID:ojEbkDH2

 ある誌友会で、講師が『大般涅槃經解釋』をテキストにして、このご本に次のような項があると述べました。
 これは、現在の生長の家の状況において、とても考えさせられることであると思いました。
 『大般涅槃經』の原文は省きまして、谷口雅春先生のご解説文を、2回に分けて謹写ご紹介します。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  世尊の悲痛な心境

   一切大衆所問品(いつさいだいしゆしよもんぼん)第十七
      谷ロ雅春先生
       (『大般涅槃經解釋』p.114〜117より)

 釋尊の時代にも、釋尊の説法を攻撃した者があつたに相違ないのであります。それだからこそ釋尊は御自分のお説きになる教へを「正法」と仰せられ、御自分の説法にケチを付けたり、攻撃したりする者を「正法を誹謗する者」として、そのやうな者に、布施することはよろしくないとせられたのであります。布施といふのは必ずしも財物を与へることではなく、一切の恵みや、便宜を与へることも布施であります。「正法を誹謗する者」に便宜やら恵みを与へることは、それは布施であつても、讃嘆すべき布施ではないと釋尊はここにおいて強調してをられるのであります。「唯一人を除きて、余の一切に施す。讃嘆すべし」と釋尊は言つてをられる。一方において「一切衆生ことごとく佛性あり」と説いてをられる釋尊が、「ただ一人を除きて」と言はざるを得なかつたその釋尊の心境に到達し得ない者は、釋尊の心の底にある深い悲しみを知り得たものではないのであります。釋尊には弟子が非常に多かつた。そのその弟子の中にはいろいろの業因縁を背負つて生れて來てゐる人たちもあり、釋尊の教へを受けながら、その教へに救はれて、相當先輩の導師となりながら、その教へによつて自然に衣食が與へられるのに満足せず、お陰を得た信者のところをまはつて商品を売りつけて私利をはかつたり、釋尊の教団から脱退して別の教団を立て、その教への殆ど全部を盗用しながら、その表現する言葉の言ひ廻しを一寸かへたり、重大な点一二の別異の説をもつてその表面を塗り替へたりしながら、「釋尊の教へよりも、この教への方が立派であるぞ」と言つて自分への信者集めに狂奔して師を攻撃するやうな弟子もあつたのであります。釋尊はさういふ弟子をも愛してをられた。個人としてはそのやうな自分を裏切る弟子をも讃めてやりたかつたに相違ないのであります。しかし、さういふ弟子を放置したり、讃めてやつたりしてゐると、信者のなかには、釋尊がお讃めになる位だから、あの弟子の新教團は立派なものだらう、釋尊が証言したまふのだからといつて、その重大な点に間違のある新教團に走つてしまふこともある。さういふ分派行動をそのまま放置しておいたら釋尊の人類光明化運動の足並がみだれて、多くの信者が間違つた方向に進むことになる。一人の愛する弟子をかばふために多くの信者を間違つた方向に進ませてはならない。そこで釋尊はそのやうな分派行動をする弟子を、「諸(もろもろ)の善根を滅し」佛性を失つてしまつた淤泥(おでい)のやうな一闡提(せんだい)であつて、明珠(みょうじゅ)の功徳をもつてしてもそれを澄まして清らかならしめることができない者だと、悲痛な思ひをもつて叱責せられたのであります。釋尊の叱責は決して一私人的な、「叛逆の弟子を憎む」といふ感情からせられたのではないのであります。また釋尊はバラモン教の盛んな時代に出られましたのでバラモン教を外道として攻撃せられました。弟子の中には「先生がバラモン經について云々せられるのは自分がバラモンの境地に降りて來て争ふことになるのだから、そんなことをして貰ひたくない。もつと世尊には超然としたところがあつてほしい」と言つた者もありましたが、まことに宗教といふものは一つの統一的な人類光明化運動でありますから、それに分派行動や外道が起るならば、それだけ人類救濟運動の効果が微弱になるのでありますから、教團の運動の統一的効果を期するためには、分派行動者を烈しく叱責する必要もあり、外道に対して判釋の鉗鎚を加へる必要もあるのであります。この場合、その叛逆した愛弟子に封する「私的な愛情」はこれから惑はされるかも知れない多くの人々への「公けな愛」によつて打ち克たれなければならないのであります。
<つづく>

1270復興G:2012/02/27(月) 20:30:54 ID:ojEbkDH2

『大般涅槃經解釋』より
<つづき>

そこに釋尊の悲痛な心持がうかがへるのであります。弟子の中には「釋尊は、もつと寛大な氣持で、どんな悪人と見える者にも恵みを與へる布施を行ふべきではないか。そのやうな布施は讃嘆すべきものである、戒を持つた者だけに恵みを與へ、戒を毀(やぶ)つた者には恵みを與へない、そんなことではこの大教團の世尊としては根性が小さいではないか。持戒といひ毀戒(きかい)といひ何の差別があるか、みんな佛の子ではないか。師たる者は、弟子たるものが新教團をつくつたらむしろそれを祝福してあらゆる便宜を布施してやるべきであつて、さういふ弟子からいろいろに言はれても、それは『みな私の不徳の致すところでございます』と言つてゐてこそ世尊としての大人物さが貫録が却つて賞揚せられるのではないか」と純陀のやうに世尊を批判する質問をする弟子も出て來るのであります。それに対して、
 「唯一人を除きて、余の一切に施す。皆讃歎すべきぢやよ」と釋尊は答へられる。世尊は如何なるときにも「私がわるうございました」などと言はれたことはない。自己を最勝最尊とせられたので、心に自己を「最勝最尊」だと信じながら「私が悪うございます。私の不徳のいたすところです」などと言つたら綺語(きご)、妄語を弄することになるからであります。
 「いかなる人をその“唯一人を除く”といふ部類に属すると言ふのですか」と純陀は更に問ひ詰めて行きます。
 「たびたび經文で説いた破戒の人たちのことを言ふのぢやよ。」
 「破戒の人などといつても、どんな人のことだか私にはわかりません。もつとよくわかるやうに言つて下さい」
 「破戒の人とは一闡提のことを言ふのぢや。このやうな者にはどんな恵みも便宜も布施してはならない。その他の人々に対する布施は皆讃むべきぢやよ。そのやうな布施は大なる果報を受けることになる。」
 「一闡提とはどんな意味ですか」と純陀はたたみかける。
 「もし、宗教人であれ、在家の人々であれ、師に封する恩知らずの麤悪(そあく)の言葉をもつて正法を誹謗し、その重大な悪業を犯しながら悔い改めようとはせず、心に慚愧の思ひを起すこともないならば、そのやうな人を名づけて一闡提の道に趣く者といふのぢやよ。もしまた四重禁法(殺生、不與取、邪婬、妄語)を犯し、五逆の罪(殺父、殺母、殺阿羅漢、出佛身血、破和合僧)をつくり、みづからこのやうな罪が重大な罪であるといふことを知りながら敢てそれを犯して恐怖心も慚愧の心も起さず、佛の説きたまふ正法に立帰って、それを惜しみ護り、その教への中に立つて生きる心がない。そして正法の師を軽蔑して悪口雑言する過咎を犯す者、このやうな人たちも亦一闡提の道を歩むものだ。また佛(師)と法(真理)と、僧(僧伽─教團)を否定して悪口を言ふ者も、また一闡提に趣く者ぢやよ。ただこのやうな者以外の者に布施するのはすべて讃歎すべきものぢやよ。」
 右に釋尊があげられた五逆罪のうちに「破和合僧」といふのがありますが、「和合僧」とは同信者相和合して僧伽(サンギャ、教團)を成してゐるものであり、それを破つて人類救濟運動の分裂を來す罪であります。釋尊が弟子を愛しながらそのやうな弟子を「一闡提」と称して叱責しなければならなかつたのは、決して自己弁解でも、その弟子を憎んだのでもない、多くの衆があやまちに導かれるのを悲しまれたからであつて、その悲痛な心境はそのやうな立場に立つてみたものでないとわからないのであります。この釋尊の悲痛な心境を思ひますと涙がこぼれるのであります。「佛身より血を出す罪」といふのが五逆罪のうちにありますが、これは必ずしも佛身を肉体的に傷つけて血を出させる罪だけではなく、佛陀をして血の涙を流さしむる罪であります。釋尊のやうな人でさへも、その臨終にお説きになつたこの涅槃經に、このやうな一闡提を叱責する語があり、その御病氣が腹部の病氣であつたことを思へば、教團内部の和合といふことには随分心の中をいためられたにちがひないと拝察させていただくのであります。
         <以上、謹写終わり>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 さて、ここにまた大変な公案が与えられております。

 教団側は、これを見て
 「谷口雅宣総裁のお説きになる説法が、正法である。これを誹謗する者は五逆の罪を犯す者であり、諸(もろもろ)の善根を滅し佛性を失つてしまつた淤泥(おでい)のような一闡提であって、烈しく叱責されねばならないのだ」というでしょう。

 「本流宣言」の方たちは、逆に「いや、雅宣総裁こそ谷口雅春先生のお説きになった正法を誹謗する者である。……」と言うでしょう。

 これを、それぞれ「我こそは……」と主張する拠り所にしたら、収拾のつかない戦いが続きます。大変なことです。
 さあ、どうしましょう。

1271志恩:2012/02/27(月) 21:35:17 ID:.QY5jUA6
復興G様

さすが、閣下でいらっしゃいます。
代表者会議、直前のグッドタイミングに、この期に、ふさわしい適格な公案を、掲げられました。

教団側は、これを見て「雅宣総裁のお説きになる説法が、正法である。・・・・」なんて、言うのかしら。?????

そういう人達の集まりが、教団だとしましたら、世も末。

1272SAKURA:2012/02/27(月) 22:25:28 ID:2hoR1DnA
トキ様 へ… 
皆様 へ…
こんばんは……

■新たに生まれるための講和
【他を審(さば)いては幸せは来たない…】
その「諸々の苦悩充満せり」と見る世界が、公害の充満せる世界である。
われわれは心の眼を一転して実相世界へ振り向いて、実相の完全な、
公害のない常楽の(常に新しい)世界をこの世の中に映し出して
来なければならないわけであります。
そのためにどうしたらいいかということです。
われわれは余りに他を攻撃して、そして「自分は正しいけれども彼奴が悪いんだ」と
こういうように他を審くことによって自分が利益を得ようとする。
そしていろいろと相手の罪状を挙げるんです。
最近では、いろいろ公害病患者が企業家に対して訴訟でも起して賠償でも取れば、
それだけ儲かるというような浅ましい考えになっているような、
まぁそう見える状態が出ておりますれども、これはまずいと私は思うのです。
キリスト教の『新約聖書』の「マタイ伝」の第七章に、イエスの「山上垂訓」と
いうのがありますが、その中にこう書いてあります。
「なんじら人を審くな、審かれざらん為なり。己がさばく審判(さばき)にて
己がさばかれ、己が図る量にて己も量らるべし」
それで、「相手が悪い、相手が悪い」と、大いに興奮して人を憎み、
そして怨み、悲しんでおって、それで賠償貰って、
それで儲かるというと、決して儲からないと私は思うのです。
そういう怒りとか憎みとか呪いの心を起すと、血液の中に毒素ができて、
もっと早く治るべきはずの公害病が、それがますますひどくなって来る。
どんな薬もきかなくなって来る。
それは、自分の怒りとか憎みとか呪いとかいうそういう心が大脳で震動すると、
大脳の両半球の後の間のところに小さい間脳というのがありますが、
あそこを刺激して、あるホルモンを出すのです。
そのホルモンが異常なホルモンになって出てきて、それが脳下垂体へ行って、
脳下垂体からまた異常なホルモンが出て、それが血液循環によって
副腎のところへ行って、そして副腎からまた異常なホルモンを出す。
この副腎というのは、この腎臓のちょっと上にある空豆ほどの大きさの小さい
臓器であるけれども、これが人体のホルモンの調節をしている中枢になっている。
われわれが腹立てたり、怨んだりすると、アドレナリンという恐ろしい劇薬を出すんです。
 
                  <つづく>             No.1

1273SAKURA:2012/02/27(月) 22:26:43 ID:2hoR1DnA
  <つづく>             No.2
                   
これは喘息の発作がどんなに起っていても、適量注射すれば忽ち喘息の」発作が
治ってしまうというような素晴らしくよく効く薬なんだけれども、
それは適量だから効くので、それを適量以上に、腹立てたり怨んだりしていると、
そういう奴が毒素となって血液を」回って、
治るべき病気も」治らんようにしてその人間を苦しめる。
それも一時だけちょっと腹立っているのならいいけれども、
毎日毎日怨んで、憎んで憎んで……そうしておれば、自分の体の中に毒素を
製造しているから、余所から吸収した公害の水素やらPCB やら……
そんなものよりもねぇ、もっともっとひどい毒素を腹の中で毎日栫えていると
いうことになるのだから、お金貰ったって腹の中に毒素を拵えたのでは、
私はつまらんと思うのであります          (谷口雅春著)                                                                 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆
昨日から改めて「人の悪口に近い言葉」を……
「生長の家…家族」“マコトの人”ならば?まず“悪口に近い言葉”は…と思いますが……
「女性同士の会話…」は、すごい〜〜ですが…
特に!此処“九州”は、関東・関西“と比較しますと?すごいと申しますか?
【我…の張り合い】強いように思います…。

そのような“言葉…”を、
最初は、分からないで聞いて行くうちに、まるでこちらまで…
“感染”されている事が、ありませんか…?
気がつきますと、こちらも“腹立つ事”になりまして…
九州に帰郷してから、殆ど表面上はいいのですが……“裏”はすごい〜〜ですネ!
現在の問題で「生長の家の和解」は、双方が“こちらが一番正しい!”と
云っている“訳…”ですよ〜〜ネ!
更に「言葉の使い方」が、すご〜〜〜い >< 

如何にも、自分は違うといいたげなような書き込み“投稿”ぶりかしら〜〜ン?
拝読で、気分が悪〜〜〜い!更に向こうにも「和解…」が見えないのでは?
更に今の「現原宿教団側でも奇蹟」はそれなりに起きています〜〜ョ!
【心の持ち方】次第だとも思えます。
【言葉は神なり…】ですが、まるで〜まるで〜♫
春…乱流気流“雷”ですが〜〜〜???

■私も「今日の言葉」を、肝に入れまして【自己成長】にと思います。
再合掌

>トキ様 へ
本日は、別の書籍より抜粋致しましたが…どの様に解釈致されますか?
宜しかったらどの様なお考えか“アドバイス”頂きますと幸いです…。

1274ももんが:2012/02/28(火) 01:08:36 ID:XXCuaQns
>>1260
ハマナス様

ハナマス様、昨晩は、真に忙しい中素晴らしい、お返事くださり、大変感動と、感謝を持って、読ませて、頂きました、何時もながら、ありがとうございます。感謝合掌、拝。

<<ももんが様

ありがとうございます。今日は教区の行事に出掛けてまして、お返事が遅くなり申し訳ございません。

再投稿して頂き恐れ入りました。光明道中記や生命の實相にしても、丁度良いお言葉が書かれてありまして、雅春先生が霊界からお導き下さっているように感じます。

現象は双方が争っているよう見えますが、実相はすでに、大調和しています。
必ず実相が現れ、生長の家が益々、日本国実相顕現、人類光明化の為に貢献するものと信じます。

ももんが様、今朝は、素晴らしい「両箇の月」のお話しをありがとうございました。

雅春先生のお言葉に拝借致しますとと、「真理は頭脳で知っただけでは、神がわがものとはならないのである。全心身をもって体感体得しなければならない。
神が理論上の存在でなくなって、自己の生命そのものとの自覚を得はじめたとき、私たちの生活は変貌しはじめるのである。」と思いました。

真理は生活に生かさなければならない大切な事をお教え頂きまして、感謝申し上げます。
実践して参りとうございます。

感謝合掌>>
<<

特に、つぎの御文章は、私が、日頃心で思ってる事と同感であることに、感動しましたしたし、ハナマス様、何時も、素晴らしい、御文章で、ご指導くださり、誠に、感謝います。

ハナマス様は、それに、加え、けして、乱暴なコトバな無い事に、何時も、素晴らしいなと、感動し、何時も、勉強させてもらってます。

私も、1日でも、そうなれるように、明るい心をたくさん、表現できるように、努力したいです。

お疲れ様です。まだ、まだ、寒いですから、神の子さんのハナマス様でも、暖かくして、おやすみください。ありがとうございます。感謝敬白、合掌、拝。

1275ももんが:2012/02/28(火) 01:11:20 ID:XXCuaQns
>>1265

役行者様

役行者様、いつも、素晴らしいお返事くださり、ありがとうございます。感謝合掌、拝。


私の分かり難いお話、御理解くださり、また、『生命の実相』にたいして、同じ理解であることを、嬉しく思います。

<< ご指南、ありがとうこざいます。まさしくその通りと、存じます。『自己内在の生命の実相』を全身全霊で体感することが何よりも大切なことと存じます。
 『生命の実相』という書物ではないですね。
 ただこれら書物は、『自己内在の生命の実相』を体得するための、援助・支援の役はしてくれていると思います。
 つまり、本を通して学で紡ぎ出すこたえでなく、大自然の摂理と感応するための縁を提供してくれる実にありがたい存在と思ってます。
 
 少なくとも私は、大げさに云うと、聖書がなくなろうが、仏典がなくなろうが、『生命の実相』という書物がなくなろうが、宇宙の真理は厳然と存在し、その導きは書物のとおすところではない!と思っています。
 
 つまり、書物が中心ではない、ということです。

 ただ、縁にはなっていただいており、縁は恩であり、私を含め生長の家の信徒一人一人みな香厳禅師ほどの悟りには及びませんが、この書物を縁として人生の何らかの指針になったのですから、大切にしなければならない存在と存じております。

 何回も生まれ変わり、俄然大悟された香厳禅師に対する公案と、我々、一般信徒に対する公案、つまり方便と、比較しにくいところはあります。方便としては、私はご利益信仰もしかりと思ってます。ひとそれぞれ、クリアーしなければならない魂の段階があるかと存じております。>>
 

そして、確かに役行者様おっしゃる様に、生命は、“輪廻転生”を繰り返しでしょから、其処に、個人の生命の意識の差別、魂の差別は、存在するでしょうが、“公案”事態や、各“聖典”事態のコトバには、差別が、ある訳で無く、『聖典・生命の実相』もそうである様に、皆、“真言”としてのコトバが書かれて至り、載っているので、各個人の魂の差は有っても、何らしかの、“悟り”を得ているとは思われます。それを、得と読んだり、御利益と呼んだりするんだと、思います。けして、御利益信仰も悪いわけでは無いと言えますね。そうした、意味では、『聖典・生命の実相』に出会った縁や、読む事は、大変素晴らしいことだといえると思います。先日読んだん、『聖典・生命の実相』第2巻32㌻にこうありました。
〜『本当のことを申しますと、この本が病気を治すのではありません。神の子たる人間に病気は本来無いのであるから、治すも治さぬもない。本来治っているのであります』〜

と、『聖典・生命の実相』に書いてありました。先日から、私の言って事と同じで有ることに、感動した、一節でした。

さて、

<< 政治は、民衆の生活の営みをできるだけよくする機関の役目もあります。ですから、まったく政治に関わりをもたない訳にはいきませんが、私も政治にまつわる作意策略にはできるだけ関わりたくないです。
 たぶん、ももんがさまもそういう類のものはあまり好きではなさそうですね。

 さて、原子力のことなのですが、できるだけ環境に、自然に優しいエネルギーがいいですね。
 人類を危険には晒したくはないです。

 このようなエネルギーを活用し始めたのも、近代文明以降です。もともと、日本は太古の昔から循環型社会を形成して、すべてを生かし、生かされる生活を駆使されてました。


 是非、日本古来の生活法を学ぶ中で、今後の日本のエネルギー政策を考えていただきたいものです。
 大自然とできるだけ調和したエネルギー政策を深く希望しております。>>


そうなんです。役行者様も、政治的なことは、余り好きでないようですね。私も、同じです。政は、大切ですが、日常茶飯が、未熟練な私ですから、日常茶飯をすることが、心傾けたいですね。
あと、地球は生き物だと、私は、思うのです。聖母出現の世界各地でのお話は、たくさんの、群衆が見てる者もあるらしいですね。
雅春先生の講話にも、天使の歌声を群衆が拝聴したお話もあります。聖母の出現はある意味、地球の命の悲鳴なではないでしょか?
原子力だろうと、何エネルギーでも、地球環境を良くする、活動を人間がしないとダメだて、神様は言われているんだと、理解しないといけないと、私は思うかぎりです。役行者様、では、遅くなりましたが、心遣いある、御言葉ありがたく、思ってます。寒いですから、暖かくして、おやすみください。合掌、拝。

1276ももんが:2012/02/28(火) 01:13:21 ID:XXCuaQns
>>1266
あさひ様

あさひ様、初めまして、お返事くださり、ありがとうございます。感謝合掌、拝。


<<1266:あさひ
12/02/27(月) 14:00:33 ID:/3nxKE2Q
ももんが様

>  私は『聖典・生命の実相』をとうして、『自己の内 の実相』を悟り、理解して、神様に、全択できる 様な、生き方を学び、実生活に生かして行くのが 神の子の本来の生き方だと、生意気ながら、思うの です

私も同じように考えております。ただ、言うは易しく行うは難いので、日々努力するしかありません。
 
 感謝 合掌>>



真に、同じお心の方が、いいて、大変嬉しく思って思っております。

確かに、あさひ様おっしゃる様に”言うは易し、行いは難しい“ですね。
私も、出来てない事は、たくさんありますが、出来たなと思うこともありますから、日々一歩、一歩、少しずつ、がんばってます。
それに、この事を『心に常に止め置く』だけで、やはり、気持ちが、違うような気に、私、個人はなります。
あさひ様、誠、お返事遅くなりました事、心から御詫びします。あと、あさひ様も、神の子として、素晴らしい日を此からも、お過ごしくださりませ。ありがとうございます。感謝敬白、合掌、拝。

1277ももんが:2012/02/28(火) 07:10:31 ID:XXCuaQns
皆様、お早うございます。本日も、素晴らしい朝が、やって参りました。さあ、元気に、明るく、楽しく、神の子の生活を楽しみましょう!ありがとうございます。合掌、拝。


>>この世の中は、コトバで言うことが実現するのであって、それ以外の何ものでもない。だから毎日『ありがとう』『ごくろうさん『サンキュー』『メルシー』と言う人たちには、ありがたいことが次々に出て来るのだ。もちろん一日中『ありがとう』ばかりり叫んでいるわけないから、色々と出て来るが、ムッツリとして黙りこくって、文句ばかり言ってる人には、それなりのいやな”注文品“が出て来るのである。<<


〜谷口清超先生著・『ありがとう』はすばらしい!より〜


毎朝、珈琲を駅で飲みますが、いつも『お早うございます』と言われて、明るい心に成って、仕事に行きます。営業コトバであっても嬉しく、感じるものです!
本流の方も、教団の方も、分け隔てなく、神の子ですから、私は、お早うございます!ありがとうございます!明るく、楽しく、本日も素晴らしいコトバで世界を光に満たしましょ!ありがとうございます!感謝合掌、拝。<和解成立成就>

1278a hope:2012/02/28(火) 08:53:18 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

「毎日絶えず」の力


皆さんは、生きているから日に日に新しくならねばなりません。
新しくならなければ人は古くなるのです。古くなることは死ぬことです。
じっとしているものは乾物かミイラです。「生長の家」が今栄えているのも、
いっぺんに大きく公告したから栄えたのではありません。

私が日に日に新しくなったからです。私はこれまで一日でも、
「今日は昨日よりこれだけ進歩した、今日は昨日の上にこれだけの勉強をした」
とその一日を振返って見てハッキリと心の中で言えなければ、安心して寝られなかったものです。
一日無駄に費やした日があったら、その日一日死んだような気がして悲しくて悲しくてしかたがなかったものです。
この心掛けがなかったら、今日の「生長の家」はないのです。

もののできるのは一日でできるのではありません。
今日、土から這い上がって来た蝉でも、土の中で何年間も苦労してきたのです。
蝉が今日這い上がって来たからとて、その時に蝉ができたのだと思ったら間違いです。

例えば、この生長の家でもです。それは私の心の中に日に日に新しく生長したのです。
私は電車の中でも、汽車の中でも、道を歩いている時にも、休憩時間にも本を読みました。
本を読まぬ時には何か良いことを考えました。
何か今より良くなる道を考えました。そしてそれを実行しました。

物を見てもポカンと見ていたことはありません。
その美しさを見るのでも、どこがどんなに美しいかをシミジミと見つめました。
機械を見ても、どこがどうなっているかをシミジミ見つめました。
なんでもシミジミ見つめて味わうようにすれば、面白みのないものはありません。
何からでも、無限の味わいが汲み出されてくるものなのです。

むかしから「点滴ついに石を穿(うが)つ」と言いまして、どんなに大雨でも、
一晩に石に孔をあけることはできませんが、ポトリポトリと苔の先から滴(したた)る、
ほんとに小さい豆粒のような水の滴(しずく)でも、毎日毎時間それが落ちていたら、
ついに固い固い大岩でも孔をあけることができるのです。
小さい豆粒のような水の滴でも、常に絶えず少しずつ進撃したら、
固い固い岩に孔をあけることができるのです。

「常に絶えず少しずつ」の力は、「一気にやって、後はのらくら」よりも大きな進歩をするのです。
常に少しずつ進歩するということほど、尊いことはないのです。

赤ん坊はいっぺんに大人にはなりません。毎日少しずつ生長し、
毎日少しずつ新しきものを付け加えて大人になるのです。

皆さんは兎と亀とが競争した喩話(たとえばなし)を知っているでしょう。
一気に走って、あとは眠っている者よりも、少しずつでもこやみなく進んで行く者が、ついに勝利を得るのです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ー

みなさま おはようございます。

「生長の家」このように大きく生長したのは、雅春先生が毎日、毎日少しずつ自分を良くする、
努力をされたからなのですね!

わたしも、毎日、少しずつでも自分を生長させることを忘れたくないと思いました。

それでは、わたしの愛する「生長の家」のみなさま、今日も素晴らしい一日をお過ごしください!

1279ももんが:2012/02/28(火) 20:11:15 ID:XXCuaQns
トキ管理人様、皆様。

トキ様、御寒いですね、今夜から明日の明け方は、雪だそうです。いつも、心ある、御言葉に感謝しております。感謝合掌、拝。


さて、現在の生長の家や、この掲示板に、とって、良いお話を、させて貰います。

〜『南泉斬猫』と言う無門関にあるお話です〜


昔、唐の時代に南泉山に普願禅師という方の元に、大勢の雲水さんが、集まって修行をしていました。
その僧堂は東西に二棟に別れていたようで、たくさんの修行僧が修行してました。
ある日の事、東西両僧堂の雲水たちが、一匹の猫を捕まえて、猫に『仏性が有る?』か『仏性が無いか?』議論していました。
お釈迦様はお悟りを開かれたとき『一切衆生 悉有仏性』〈生きとし生けるものは、みなことごとく仏性を有している〉と獅子吼されました。
さあ、東側が『猫にも仏性が有る』と言うと?
西側は、『猫の様な畜生に、仏性など無いと』反論します。
『有る』?『無い』?の論争は中々決着がつきませんでした。
その騒がしさに、奥から、南泉老師様が、出てこられました。そして、争う両東西僧堂の雲水さん達の中に入り、左手で猫の首をつかんで『議論をやめろ!“有る”、“無し”の二見にわたらない処で何とか言ってみろ!道〈い〉い得れば猫を助けてやるが、道い得なければ猫を斬ってしまうぞ!』と、
怒気を含んだはげしい言葉を放った。見れば、右手に持った利剣を猫の喉もとにつきつけている。
『道い得ればよし』何を言得ばよいか、道かなった答えをすれば、猫を助けてやるというが?雲水達は、気をのまれて、水を打ったように静かになってしまった。誰一人答える者がない。師家とは、学人が苦しんでも、決して回答を与えない物です。借り物でない、自分の言葉での答えを要求します。
その時、南泉老師様の利剣は、無惨にも、猫を斬り捨ててしまいました。
その夕方、高弟の趙州和尚が、外出先から帰ってくると、南泉老師様は、猫を斬り捨てたことの次第を話ました。そして、趙州和尚に『尊公なら、どうする?』とたずねますと?
趙州和尚は、何も言わずに、履き物を頭に乗せて、部屋から、退出していきました。南泉老師様は、一言呟き『趙州和尚が、いたら、猫を斬らなくてすんだものを、惜しいことをした』と呟きました。

〜おわり。

このお話のポイントは、猫に仏性有り、無しや。これを今日の身近な問題に置き換えと、右だ左だ、保守だ革新だ、神だ、仏だ…解決の難しい二見対立になる。南泉老師は、有、無を偏ぜず無に片寄らず、理論を離れ感情を越えた、囚われの無い世界を一刀一段によって示したのです。
即ち、『和解』とは『中道実相』のことです。

〜つづく

1280トキ:2012/02/28(火) 20:35:15 ID:OxmXfB62
>>1729

ももんが様

 風邪で半分、死んでいるのに、「実相は円満」と叫んでいるトキです。やはり、修行が足りないと
痛感します。

 さて、ももんが様の提示された文章は、深い内容を含んでおります。猫どころか、人間様に「仏性が
あるのか」と言い合っているような状態です。ただ、昔、大学で勉強をしているときに、「わからなく
なったら、原理原則に戻りなさい」というアドバイスをもらったことがあります。

 同じ事が、今の状態にも言えるのではないか・・・・と思っています。

 今日は、少し早く寝ます。ごめんなさい。
では、おやすみなさい。

合掌 ありがとうございます

1282ももんが②:2012/02/28(火) 21:34:00 ID:XXCuaQns
>>1279
〜つづき②

谷口雅春先生の『無門関解釈』南泉斬猫〈127〜131㌻〉
にありますが、その中に次の様なことが、書いてあります。

①、何故なら、争いの本は『形』に捉はれ、現象をあると思ひ、その判断に執するからであるが、それだからとて『形』をこわすには及ばないのである。『形』に罪を着せて『形』をこわすのが悟りではない〈130㌻3行〜5行〉

②、南泉も『悟』とか『争いはない』とか『何とか両堂の争ひを止めさせたい』とか云ふ立場に立っているから、折角生きている猫を殺さねばならぬようになったのである。〜〈131㌻1行〜3行〉

③、形も斬らず、立場も斬らず、悟り執せず、迷いに捉はれず、真理にも固執せず、と云って真理を破るのでは無論なく、八方無構で、一切を生かしながら、一切を完成する、これによって一切の立場が生きて来て、一切の形が生きてくる。―これが生長の家の本当の境涯である。〜〈131㌻7行〜9行〉


③は、特に、先日、『両箇の月』と同感であると言える。


裁判の結果は、現象的産物であると言えるようであります。

聖典生命の実相は、現象的には、本ですが、それは、裁判の勝敗に関係なく、地球人類全ての人々の財産ではないのでしょか?
ならば、分派は、裁判の勝敗に固執して、現象的な正統性ばかりを主張しても、それは、聖典生命の実相の現象的姿に固執してると取られても仕方ないでしょ。教団の信徒は、悪いことはしていないし、同じ神の子の兄弟なのです。
教団へ怒りを捨て、教団信徒の為に、聖典生命の実相を布施として、返還したら、分派の皆様の徳もあがると私は、個人的に思いました。
まあ、その様に、云っても、慈悲のある行動をとるなんて、難しいでしょ。
そう成れば、和解は、すんなり、行くように、思いました。

では、では、トキ様、お疲れでしょ、私の最後のつまらい、お話で、疲れさせしまったかと思うとあいすいません。明日は寒いですから、暖かくして、おやすみください。皆様、おやすみない。感謝合掌、拝。

1283SAKURA:2012/02/28(火) 23:28:38 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは……

【幸福を招く365章……】
■身辺の事物を常に整理せよ!
どんな短い時間にでも、それが読めるように
読みたい本を列べた本箱を自分のすぐ手の届くところに置くことは、
零細な時間を利用するのに便利である。
机の上に混乱させて置くと、書きかけた原稿を探すのに半日かかったり、
未処理の手紙を探すのに一日もかかったりする。
そして物を探して発見しないことは神経を実にイライラさせるもので
あるから精神的エネルギ−の浪費になるのである。
常に進歩し自己反省と自己改善をなさそうと思う者は、
そんなつまらないことに神経を浪費してはならないのである。
日本の女性が裁縫をする時は、本当に縫う時間よりも鋏や糸巻きを
さがしている時間の方が多いと云われている。
自分の身辺の物品をすぐ発見し、すぐ使用出来るように
整頓して置くことは一生の間に見積もると大変な時間の節約になるのである。
                         谷口雅春著
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
今日【ネクスト…リ−ダ−】の処で時間の使い方が……
時間は戻らないけれども >< それなりの結果が残るとの事…
当たり前のことなのに、その様に今まで考えたことがありませんでしたが…

今までは「時間の使い方・時間管理」に目を向けていた私です…
今日開きますと、これが“タイトル”として…ビックリで〜す。
どうしたら時間が上手に出来るかは…「思考錯誤…」中です…。

私は物を整理します時は?何処に直したかは覚えていますが……?
“パ−トナ−”は、整理整頓はうまいのですが…???
何も考えずに、整理している様に思えます…“モノ”が何処に整頓したかを、
いざとなりますと捜すのに大変で〜〜〜 ><
結局!何処に?何を?於いているかを…私が、あらかた把握して、確認!!
その“体制を取る”様になりましてからは〜〜〜〜?
♫〜〜探しモノは??どこですか??〜〜探しモノは??此処ですョ〜〜♫
でも“テ−ブル”の上に、何でも?カンでも?置いていますと……
私はこれに関しましては“ダメ”ですが……“クリ−ん状態”が…グ−!!
更に!仕事の場合は、やはり机の上は仕事が終わりますと…
何も置かない“主義”を取っていますが……
人によっては、置くのが?落ち着く人もいるようですね…

唯今!【時間管理】が、今!ひとつでしょうか。
今日の【ネクスト・リ−ダ−】で、何か記録を残す時間の使い方が“ベタ−”だと?
今から、モット時間を有効に使えるように…【濃縮〜〜型管理】でしょうか。

■ ふと思いますが…「時間の流れ〜♫〜…過ぎ去りし〜♫」
「生長の家…も話し合いの時間は…否応なしに時間が過ぎていく…」
残る…結果!!…【和解…若い”生長の家”に蘇れ〜〜〜】
そうしますと…「過ぎ去りし時間…」生かされてきます〜ネ!!

>トキ様 へ
“風邪”が長引いているようです〜〜ネ!
此処昨今は、寒い日が続きそうです…が!
先ず!部屋の中を温められまして、更に!加湿器置きますと幾分温かくなります。
此処九州ですが…私の部屋は“オイルヒ−タ−”を置いて、加湿器を置きます。
SAKURA (猫ちゃん)が、寒がり屋さんなのでしょうか〜〜?
更に!洋服を着せて…更にカイロを当てていますが?
急に暑くなるようで、その時は?洋服を脱ぎます…。
猫ちゃんなのに“器用”です〜〜ョ
最後は…結局?「今年はラジカセの上…」にて“お休みモ−ド”…
ワン君ナンシ−は、ソファ−とか食卓テ−ブルの椅子に“ちょこんと座って”…
■ 動物は…温度に関して“敏感”なのでしょう…!! 私は??

部屋を暖かくして…更に!私は冬になりますと〜〜〜
必ず!“かぼちゃ・ジャガイモを多く摂取”しましてからは、
【風邪予防…】でしょう。引きにくい状況に今日いたっております…。
如何でしょうかしら〜〜〜ン?

>皆様も…「風邪予防…」気をつけられますように、
お祈り申し上げます…。
寒い日が続きますが体に気をつけて下さいませ…。      再合掌

1284ハマナス:2012/02/29(水) 00:25:29 ID:u5mC.eb2
ももんがさま

ご丁寧なお返事をありがとうございました。慈悲にあふれた暖かいお言葉を
かけて頂きまして嬉しいです。今日が明るい一日になりました。
また、生長の家に触れてありがたいと思う一日でした。
ももんがさまこそ、御教えを生活に実践していらっしゃいます。
私も、大先輩に見習って毎日少しずつでも、精進して行きたいと思います。
ありがとうございました。

今日は、『無門関解釈』の中の「南泉斬猫」の素晴らしいお話しをありがとうございます。

>谷口雅春先生の『無門関解釈』南泉斬猫〈127〜131㌻〉
にありますが、その中に次の様なことが、書いてあります。

①、何故なら、争いの本は『形』に捉はれ、現象をあると思ひ、その判断に執するからであるが、それだからとて『形』をこわすには及ばないのである。『形』に罪を着せて『形』をこわすのが悟りではない〈130㌻3行〜5行〉

②、南泉も『悟』とか『争いはない』とか『何とか両堂の争ひを止めさせたい』とか云ふ立場に立っているから、折角生きている猫を殺さねばならぬようになったのである。〜〈131㌻1行〜3行〉

③、形も斬らず、立場も斬らず、悟り執せず、迷いに捉はれず、真理にも固執せず、と云って真理を破るのでは無論なく、八方無構で、一切を生かしながら、一切を完成する、これによって一切の立場が生きて来て、一切の形が生きてくる。―これが生長の家の本当の境涯である。〜〈131㌻7行〜9行〉<

特に、③に、感動いたしました。

また、同129ページ7行から10行の次のご文章もなるほどと、思わせて頂きました。

「すべての争いの因(もと)は一面観から来るのである。一面観は形を見るから一しか
見えないのである。一面観を截ち切り、争いの因を截ち切る為には、形を切って捨て
なければならない。そこで南泉和尚は形の猫を切り捨てて了(しま)ったのである。
形に対する一面観を捨てたときに争いは消滅するのである。」

色々をお教え頂きまして、ありがとうございました。感謝申し上げます。
明日は(もう29日になってしまいましたが、)寒くなる様です。
どうぞお身体を大切になさって下さいませ。

1285ハマナス:2012/02/29(水) 00:33:46 ID:u5mC.eb2

すみません、訂正いたします。

(誤)「一面観は形を見るから一しか見えないのである。」 
(正) 一面観は形を見るから一面しか見えないのである。」

1286ハマナス:2012/02/29(水) 00:55:43 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
ありがとうございます。

   愛 の 磁 石 的 ち か ら (『新版 生活の智慧365章』P.77より)

 あなたは ”神の子“である。あなたは ”神の子“であるから、神の無限の
智慧がやどっているのである。その智慧を呼び出して来るとき。如何なる環境に
処しても最も適当な処置がとれることになるのである。あなたは”神の子“である。
神は ”無現の愛“であるから、あなたにも神の”無現の愛“が宿っているのである。
愛は磁石的ちからである。その無限の“愛”をあなたが実行に移す時、即ち愛を
実践するとき、あなたの内なる愛の磁石的ちからが活性化して、あなたの周囲に
あなたにとって必要なものを引き寄せてくれるのである。
愛する者は愛されるのである。与える者は与えられるのである。愛が健康の源泉
でもあれば、繁栄の原理でもある。

 あなたは、生長の家から教えられた真理によって少しでも、自己が啓発され、
得る処があったならば、それを他に伝えるべきである。そのようにするとき、更に
大いなる祝福があなたに与えられることになるのである。

みなさま、おやすみなさい。

1287役行者:2012/02/29(水) 06:59:16 ID:L4NTmRgM
 ももんがさま

 >このお話のポイントは、猫に仏性有り、無しや。こ れを今日の身近な問題に置き換えと、右だ左だ、保 守だ革新だ、神だ、仏だ…解決の難しい二見対立に なる。
 南泉老師は、有、無を偏ぜず無に片寄らず 理論を離れ感情を越えた、囚われの無い世界を一刀一段によって示したのです。
 即ち、『和解』とは『中道実相』のこと<


 わたしもそのように存じます。二見対立するところに真理はないと存じます。中道実相にこそそこに、生長の家の教えが秘められていると存じます。
 
 
 >③、形も斬らず、立場も斬らず、悟り執せず、迷い に捉はれず、真理にも固執せず、と云って真理を破 るのでは無論なく、八方無構で、一切を生かしなが ら、一切を完成する、これによって一切の立場が生 きて来て、一切の形が生きてくる。―これが生長の 家の本当の境涯でる。〜〈131㌻7行〜9行

 ③は、特に、先日、『両箇の月』と同感であると言 える <


 この文章を読んで、さわやかな気持ちです。合掌!



 >裁判の結果は、現象的産物であると言えるようであります。 聖典生命の実相は、現象的には、本ですが、それ は、裁判の勝敗に関係なく、地球人類全ての人々の 財産ではないのでしょか? <

 こころより同意します。


 >教団の信徒は、悪いことはしていないし、同じ神の子の兄弟なのです 。教団へ怒りを捨て、教団信徒の為に、聖典生命の実 相を布施として、返還したら、分派の皆様の徳もあ がると私は、個人的に思いました まあ、その様に、云っても、慈悲のある行動をとる なんて、難しいでしょ 。そう成れば、和解は、すんなり、行くように、思い ました < 


 教団の信徒は何の罪もないどころか、被害者です。それこそ、猫状態でしょう。
 このまま、裁判を続けて行けば猫が斬られます。 
 実相、御中の道を是非、双方とも歩んでいただきたいものです。
 ももんがさまは分派に対して書かれておりますが、これは教団側にも云えることと存じます。
 身銭を切らずに、信徒の浄財をさんざん使って、またもや最高裁に上告です。

 双方とも猫を斬らずに生かす道、中道実相の道を早く歩んでもらいたいものです。

        合掌 再拝

1288復興G:2012/02/29(水) 07:57:33 ID:ojEbkDH2

ももんが様
役行者様
皆々様

>>1287
役行者様に、完全同意であります。
特に、

> 教団の信徒は何の罪もないどころか、被害者です。それこそ、猫状態でしょう。このまま、裁判を続けて行けば猫が斬られます。実相、御中の道を是非、双方とも歩んでいただきたいものです。
 ももんがさまは分派に対して書かれておりますが、これは教団側にも云えることと存じます。
 身銭を切らずに、信徒の浄財をさんざん使って、またもや最高裁に上告です。
 双方とも猫を斬らずに生かす道、中道実相の道を早く歩んでもらいたいものです。<

 その通りだと思います。
 合掌 再拝

1289a hope:2012/02/29(水) 09:26:34 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

自分の身体(からだ)を見て悟れ


あなたの身体を見てごらんなさい。
毎日あなたの身体は新しくなっているのです。
皮膚だけでいってみても、古い皮膚は垢となって摩(す)り落ち、
新しい皮膚がまた新しい成分で造られているのです。
筋肉でも内臓でもすべて同じように、すべて古い組織は溶けて尿や垢になって流れ出て、
新しい組織ができているのです。

それであればこそ、吾々は生きているのです。
吾々の肉体は日に日に新しくなっていっているのです。
それであればこそ、吾々は生長しているのです。

同じことは仕事や商売の経営や、勉強の仕方にもいうことができます。
いつも同じような遣方(やりかた)ばかりしていては、新しい事を考えた人に追い越されてしまいます。
商売や仕事の組織にも広告の出し方にも、常に新しい血が流れていなければならないのです。

棚の拭き方にも、糸のつなぎ方にも、昨日よりは今日、今日よりは明日と、
いっそう上手にできるように工夫をめぐらし、行届いた注意をしていかなければなりません。
棚の拭き方や、糸のつなぎ方などは、小さいことだからどうでも好いと思ってはなりません。
何にでも、どんな小さいことにでも行届いたやり方、観方、考え方をする心の習慣をつけていますと、
それがイザという時に、どんな大きな仕事をする時にも役に立って来るのです。

自動車王ヘンリー・フォード翁のすぐれた智慧は、いつ磨かれたかといいますと、
無一物で職工生活(しょっこいうせいかつ)をした時から、しだいに磨かれたのです。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

みなさま おへようございます。

わたしは、毎日、「生長の家」関係の掲示板を拝見するのが日課になっています。
純子先生のお書きになっている、「恵味の日々」も毎日拝見して、お料理のことなど、
参考にさせていただいています。

ですが、昨晩更新された内容に、代表者会議で雅宣先生がお話された内容がを、純子先生が解釈されたものが、
書かれていました。
それを読んで、???と感じました。

>宗教の教典、聖典というようなものは、その中に絶対の真理が説かれているというように、
多くの人が思っています。
しかし文字で表現されたものは、どうしても制約があり、それは読む人によって、
さまざまに解釈されます。
また、どうしても、書かれた時代や地域の影響を受けて、またその場にふさわしい内容が表現されます。
ですから、聖典が無謬、完璧であるという立場をとると、それは原理主義に陥り、
時代に取り残される結果になり、イスラム原理主義のような行動にもつながる可能性があります。<


わたしは、谷口雅春先生の「生命の實相」絶対の真理が説かれていると信じていますし、
その聖典は無謬、完璧である思っています。
問題なのは、間違った解釈をされることにだけあると思っています。

しかし、さらに、

>真理そのものは、時代の変化によっても変わることはありませんが、
表現されたものは、時代の変化とともに、新たに表現されなければなりません。
そのことは谷口雅春先生が、常に言われていたことでもあります。
私たちは聖典と言われるようなものを、しっかりとつかんでいたいと思い、
それを手放すことを大変なことのように思いがちですが、表現は常に変化していかなくてはなりません<

とも、書かれています。
意味がよくわかりません。

そして、最後に、

>常に変化するということは、大変な努力が要求されます。
中心の真理をとらえて、そこに焦点を合わせながらその時代にふさわしい表現をしていかなくてはならないからです。
けれども、それこそが本当の意味での人々の生活とともにある宗教であり、
生活に生きる宗教本来のあり方であるのではないかと思います。
総裁のお話から、私が自分なりに解釈したことです。<

と書かれています。
雅宣先生は、やはり「新・生命の実相」をお書きになるおつもりなのでしょうか?

とても心配です。

みなさまも、純子先生のブログ、ごらんになって見て下さい。

それでは、わたしの大切な「生長の家」のみなさま、今日も寒いですが風邪などひかぬよう気をつけてお過ごしください!

1290a hope:2012/02/29(水) 09:28:22 ID:kcv2QXTk

訂正

みなさま おへようございます。→ みなさま おはようございます。

すみません。朝から変な挨拶をしてしまいました。

1291あさひ:2012/02/29(水) 09:48:22 ID:/3nxKE2Q
ももんが様

合掌 日々、教養あふれるレクチャー楽しみにしております。
毎日Upして下さると有難いです。     合掌

1292復興G:2012/02/29(水) 09:56:49 ID:ojEbkDH2

「本流宣言掲示板」の方に、
<2月28日、代表者会議で、谷口雅宣先生が、『生命の實相』にも「聖経」にも頼らないでいくことを宣言した模様です。(「靖国見真会」参加者様)>

と出ています。
が、これは本当のことでしょうか。

もしそれが本当だとしたら、私は >>1204 で申し上げましたように、
<生長の家の根本教義は、『生命の實相』に記されています。……根本真理の神の波動がそこには鳴りひびいています。その『生命の實相』がなくなっても、新しい雅宣総裁の『新・生命の實相』が書かれたらよい、とは私は思いません。もし仮にそうなるようだったら、生長の家から神様が無くなることになるので、私は離縁していただきます。>
ということになります。

雅宣総裁が本当に、神そのままの実相を現し、形の上だけでなく真理の法燈を継承していらっしゃるならば、そのようなことをおっしゃるはずはない。実相の総裁は、決してそのようなことをおっしゃっていないのだと信じます。

 “『生命の實相』にも「聖経」にも頼らないでいく”というのは、外なるものに頼らなくても、内なる生命の実相に頼ればよい、とおっしゃるのでしょうか。たしかに谷口雅春先生は、「外に求めず、わが内に求めよ」とおっしゃいました。しかし、そのことに気がつかせて頂いたのは、『生命の實相』に書かれた真理の御言葉によってであります。その『生命の實相』はいらない、と否定することは、『大般涅槃經解釋(だいはつねはんぎょう かいしゃく)』にあります

「もし、宗教人であれ、在家の人々であれ、師に対する恩知らずの麤悪(そあく)の言葉をもつて正法を誹謗し、その重大な悪業を犯しながら悔い改めようとはせず、心に慚愧の思ひを起すこともないならば、そのやうな人を名づけて一闡提(せんだい)の道に趣く者といふのぢや」
ということになる恐れがあると思われます。

そのような「五逆の罪」を総裁に犯させ奉ってはならない。ですから、総裁が『生命の實相』はいらない、とおっしゃったというのが本当なら、私は「離縁して頂きます」と申し上げます。

<釋尊は御自分のお説きになる教へを「正法」と仰せられ、御自分の説法にケチを付けたり、攻撃したりする者を「正法を誹謗する者」として、そのやうな者に、布施することはよろしくないとせられたのであります。>
<釋尊の教団から脱退して別の教団を立て、その教への殆ど全部を盗用しながら、その表現する言葉の言ひ廻しを一寸かへたり、重大な点一二の別異の説をもつてその表面を塗り替へたりしながら、「釋尊の教へよりも、この教への方が立派であるぞ」と言つて自分への信者集めに狂奔して師を攻撃するやうな弟子もあつたのであります。>

と『大般涅槃經解釋』にあるような「叛逆の弟子」に、総裁御自身がなってしまわれると、信徒が皆迷いの道に行ってしまいますから、大変なことです。

1293復興G:2012/02/29(水) 10:30:07 ID:ojEbkDH2

>>1289
a hope様

合掌 ありがとうございます。
いつも、清らかな心で、生命の躍動するようなご文章をUPして頂き、ありがとうございます。

>みなさまも、純子先生のブログ、ごらんになって見て下さい。<

見ました。
純子先生は、「大変感銘深い内容で、私は感動して胸が熱くなりました。」と書かれていますけれども、私は“???”でした。

私は、やはり前にも書きましたように(>>1220
<『生命の實相』を読むと、「なんで谷口雅春先生は私のことをこんなによくご存じなのだろうか。これは、私一人のために書かれたもののようだ」とびっくりし、深い反省ができたり、ものすごい勇気をもらったりして、魂が共鳴し、飛躍するような感じを与えられることが多い、不思議な本です。これは、谷口雅春先生が、完全に自我を捨てきり、空っぽになって、神様のラッパになって、神の御言葉を伝えられたものだと思わざるを得ません。
 残念ながら、谷口雅宣総裁のご文章で、そのように魂が共感して打ちふるえるような喜びを感じたことは、ございません。
 やはり、『生命の實相』にこそ生長の家大神が鳴りひびいていらっしゃるのだと感じます。
 その『生命の實相』がなくなっても、新しい雅宣総裁の『新・生命の實相』が書かれたらよい、とは私は思いません。もし仮にそうなるようだったら、生長の家から神さまが無くなることになるので、私は離縁していただきます、という思いに、変わりはありません。>

というのが、今も正直な思いです。

1294役行者:2012/02/29(水) 10:56:03 ID:L4NTmRgM

 復興Gさま

 せわしい時間帯なので、後ほど記載しますが、結論を云いますと、そのようなことは申しておりません。

 コトバは神なりき!で、意志であり、はたらきであり、波動である。
 そのコトバが森羅万象の
現象となってあらわれ、コトバが真理そのものであると仰られておりました。
 その真理のコトバをこの現象世界の書物に書き表すとき、完璧には表現できないというような内容は確かにお話くださいました。
 
 ですから・・・皆様、コトバを拠り所とされたし!と述べられてはおられました。

 それを生命の実相という書物はいらない!と解釈するのは、早合点かと存じます。

 大切なことなので、取り敢えず急ぎ書き込みました。
 
           合掌

1295復興G:2012/02/29(水) 10:59:10 ID:ojEbkDH2

谷口雅宣総裁のブログ「唐松模様」に、“「コトバ」について”と題して2月28日付けで次のように書かれています。

<宗教の世界には「聖典」「経典」「教典」などと呼ばれる数々の立派な書物があり、そこに書かれた文字によって宗教上の“真理”や“教義”が示されているという考えが昔から一般的に存在している。そのため、「聖典の言葉=絶対の真理」という単純な理解で宗教の教えを捉えている人が案外多いのである。しかし、実際にそういう教典や聖典を注意して読んでみると、同じ教典の中に一見相互に矛盾した表現や用語、論理などが散見される。>

 私は、「聖典の言葉=絶対の真理」というのは、ある意味で正しいと思います。「同じ教典の中に一見相互に矛盾した表現や用語、論理などが散見され」ても、です。
 それは、総裁がおっしゃっていますように、
<普通我々が使う言葉は、日常的に普通に存在する事物や人、それらの関係を表現するためのものである。それに対して、宗教で取り扱う重要なことの多くは、“神”や“仏”や“霊”というような日常生活とは少し次元の違うものである。言い換えれば、普通の言葉は日常の“俗事”を表現するためのものだが、宗教は“聖事”を取り扱うのである。しかし、何によって“聖事”を取り扱うかというと、それは言葉による以外にないから、“俗を扱う道具によって聖を説明する”という一種の“離れ技”を行うのである>

ですから、「同じ教典の中に一見相互に矛盾した表現や用語、論理などが散見され」るようなことは当然あり得るでしょう。しかし、その奥に、「絶対の真理」が、鳴りひびいています。だから、内なる実相の魂がそれに共鳴し、歓喜するのです。そして、実相生命が顕現して、病気も消えたりするのです。

残念ながら、谷口雅宣総裁のご文章を読んでも、「内なる実相の魂がそれに共鳴し、歓喜する」ということがない。だから、病気が消えるような体験も出て来ないのではないでしょうか。だから、信徒がどんどん減って行くのではないでしょうか。もっと、聖典『生命の實相』や聖経『甘露の法雨』を、大切に、尊重して頂きたいと思います。それが、私の正直な思いであり、真摯な願いです。

<それだからこそ釋尊は御自分のお説きになる教へを「正法」と仰せられ、御自分の説法にケチを付けたり、攻撃したりする者を「正法を誹謗する者」として、そのやうな者に、布施することはよろしくないとせられたのであります。>(『大般涅槃經解釋』)

1296ももんが:2012/02/29(水) 11:12:48 ID:XXCuaQns
皆様、ありがとうございます!合掌、拝。
それから、昨日の私のしがない、禅のお話に、“心暖かい”お返事くだされました。トキ様,復興G様、ハマナス様、役行者様、真に“ありがとうございます”時間が、有りましたら、また、個別に、お返事いたしたく思っております。感謝敬白、合掌。


さて、皆様、本日は、都内は、朝から雪ですね。私は冬の生まれなので、雪は、風情感じて、好きなのですが、現象的には、大変な自然の法則ですね。現象人間は、自然に対応しながら、自然と一体と成って地球のあらゆる場所で、生きてきたのですよね。

遊牧民たち、例えば、モンゴルや女真族の人々、アイヌの人々なのど、生き方や、神話や言葉や文字の成り立ちを知った時、それは、日本人が『古事記』や『日本書紀』に観るよな、その地域でしか感じる事の出来ない、“神の智恵”を感じる思いがしました。

モンゴル文字も、女真文字も、アイヌ語も、滅亡しつつあります。

強い民俗は生き残り、弱い民俗は滅びる。地球上における、”弱肉強食“の法則は、心の法則として、変わる事なく、継続しています。

神様が雅春先生に、”聖典生命の実相“を書き現させたのは、少しでも、この“弱肉強食”の“争い”を無くす為だったと、私は、本日『聖典・生命の実相』を拝読しながら、更に強く感じたしたいです。

皆様、雪で道路が滑りやすいですから、きおつけて、お出かけください。皆様が、素晴らしい日を過ごせますよに、感謝合掌、拝。


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