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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板

1282ももんが②:2012/02/28(火) 21:34:00 ID:XXCuaQns
>>1279
〜つづき②

谷口雅春先生の『無門関解釈』南泉斬猫〈127〜131㌻〉
にありますが、その中に次の様なことが、書いてあります。

①、何故なら、争いの本は『形』に捉はれ、現象をあると思ひ、その判断に執するからであるが、それだからとて『形』をこわすには及ばないのである。『形』に罪を着せて『形』をこわすのが悟りではない〈130㌻3行〜5行〉

②、南泉も『悟』とか『争いはない』とか『何とか両堂の争ひを止めさせたい』とか云ふ立場に立っているから、折角生きている猫を殺さねばならぬようになったのである。〜〈131㌻1行〜3行〉

③、形も斬らず、立場も斬らず、悟り執せず、迷いに捉はれず、真理にも固執せず、と云って真理を破るのでは無論なく、八方無構で、一切を生かしながら、一切を完成する、これによって一切の立場が生きて来て、一切の形が生きてくる。―これが生長の家の本当の境涯である。〜〈131㌻7行〜9行〉


③は、特に、先日、『両箇の月』と同感であると言える。


裁判の結果は、現象的産物であると言えるようであります。

聖典生命の実相は、現象的には、本ですが、それは、裁判の勝敗に関係なく、地球人類全ての人々の財産ではないのでしょか?
ならば、分派は、裁判の勝敗に固執して、現象的な正統性ばかりを主張しても、それは、聖典生命の実相の現象的姿に固執してると取られても仕方ないでしょ。教団の信徒は、悪いことはしていないし、同じ神の子の兄弟なのです。
教団へ怒りを捨て、教団信徒の為に、聖典生命の実相を布施として、返還したら、分派の皆様の徳もあがると私は、個人的に思いました。
まあ、その様に、云っても、慈悲のある行動をとるなんて、難しいでしょ。
そう成れば、和解は、すんなり、行くように、思いました。

では、では、トキ様、お疲れでしょ、私の最後のつまらい、お話で、疲れさせしまったかと思うとあいすいません。明日は寒いですから、暖かくして、おやすみください。皆様、おやすみない。感謝合掌、拝。


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