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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板

1258ももんが:2012/02/26(日) 22:17:20 ID:XXCuaQns
復興G様、役行者様

復興G様、役行者様、昨晩の『両箇の月』御拝読くださり、いつもながら、御言葉賜りましたて、ありがとうございます。感謝合掌、拝。

もとい、教えるなどと言った気持ちは、ありませんから、気楽な気持ちで、お聞き下されば、それで、嬉しゅうございます。

私が、今回、ここで、最も、聞いてほしかったのは、実は、ここの部分で、ございます。

<<その昔、唐代の傑僧、香厳禅師は師匠の爲山霊裕禅師から、
『お前は何一つ知らんことないほど聡明博学だが、わしはお前が本で覚えたことには用はない。お前がお母さんの胎内を出る前、西も東も分からんさきのお前自身の一句を聞きたい』いわれ、何か答えると、
『それは眼で見たこと』
『それは耳で聞いたこと』『それは本に書いてある』といって、爲山禅師はいっこうにうけがわない。困りはてた香厳禅師が、
『どうか私のために説いてください』
と願うと、爲山禅師は、
『私が説くことのできるのは私の言葉であって、お前の一句に関係がない』
と、突っぱねる。香厳禅師は、これまで学んだ書籍やノートを取り出して調べてみたが一句も見出せない。呆然自失した香厳は『絵に描いた餅では腹はふくれない』とて、本やノートを焼き捨ててしまい『この世で仏法を学ぶ事を諦めて、一個の凡僧として生き、もうこれ以上きびしい求道の生活に心を労するのはやめよう』と泣く泣く、爲山禅師のもとを去り、田舎へ引っ越したのでした。そこに、禅庵をむすび、周囲に竹を植え、その竹を友として、坐禅にはげんでいた、ある日、道路を掃き掃除していたら、箒のさきにあたたった瓦の欠片が飛び、竹に当たり、カチーンと響いた、その時、香厳禅師は、豁然として大悟したのでした。そして、そこに立ち沐浴潔齋して香を焚き、はるかに大爲山を望んで礼拝して言いました。
『大爲山禅師様。あのとき私に一句を言って聞かせたくれなかったら、今日この喜びは、とうてい体験できなかったでありましょ。大禅師様のご恩は父母の恩にまさるものです…』>>

特に、本流派、教団派を問わずに、この問題は、是非宗教をやるなら、必ず解決しなければならない問題と思われす。

<<『お前は何一つ知らんことないほど聡明博学だが、わしはお前が本で覚えたことには用はない。お前がお母さんの胎内を出る前、西も東も分からんさきのお前自身の一句を聞きたい』>>

役行者様は、この問題は

<< しかし、この公案は全員には当てはまりませんよね。たとえば、大自然の摂理を身体で体得しているのですが、この働きは何なんだと、内在の実相に働きかけている人に、その助けになるような本を愛行したら、一目瞭然として大悟するでしょう。>>

と言われましたが、そうでは、無く、真に宗教を実践するならば、この体験は、一度はしなけば成らないと、生意気ですが、言わせ頂きます。何故なら、それが、真理だからです。仏教では見性と呼び、カトリックでは霊性と呼ぶようです。

その昔、禅宗の六祖慧能禅師は、学問が無く、文字を読む事も、書く事もできませんでした。だが『金剛般若波羅密経』の誰かが唱える文句を聞いて、廓然と悟りの体験をされたそうです。

これは、『金剛般若波羅密経』が聖典だから悟れたのでしょか?

此れは、慧能禅師の仏性、生長の家的にもうしますなら、『自己内在の生命の実相』と『金剛般若波羅密経』の言葉が、“共鳴”した、一つに成った事を体験されたからでしょ。

先日、復興G様が、”『聖典・生命の実相』を読むと魂が共鳴するよう“と言われたのも、復興G様の心『内在の生命の実相』が、『聖典・生命の実相』の言葉と共鳴したのであって、本来、確認すべき物は、『自己内在の生命の実相』存在を、自分自身が知ることではないかと、思われます。

〜つづく〜


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