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仏教

122無名:2017/07/16(日) 15:04:35
釈迦 葬儀

http://www.sougi-soudan.com/column/syaka.html
「お前たち(出家=僧侶)は葬儀にかかずらうな。葬儀のことは在家(僧侶ではない)の人たちに任せて、お前たちは修行に専念せよ」
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/8a7911810a9fc569c4f5c949ae78efe4
釈尊を真に尊敬するのは葬儀という儀礼よりも、仏法を実践することが大切なのであって、これは出家者、在家信者を問わない、ということです。中村元先生は「儀礼否定」論であると言われるのですが、「儀礼を行ってはならない」ということではないと思います。

(引用者註:世尊は)「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい目的に向って怠らず、勤め、専念しておれ。アーナンダよ。王族の賢者たち、バラモンの賢者たち、資産者の賢者たちで、修行完成者(如来)に対して浄らかな信をいだいている人々がいる。かれらが、修行完成者の遺骨の崇拝をなすであろう。」
    中村元訳『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経』岩波文庫、131〜132頁

「僧侶が葬儀に関わることが許されない」と理解する者がいる。しかし、相手が「アーナンダ」であることを忘れてはならない。アーナンダは、釈尊の存命中は「阿羅漢果」を得ていない、ただの「修行者」であった。つまり、釈尊は、「阿羅漢果を得ていない修行者は、葬儀に関わることが許されない」といったのであって、僧侶全てが許されないという意味ではないと判断すべきである。

ただ、崇拝は清らかな信を抱く、王族・バラモン・資産者がその任に当たるという。ここから、釈尊の供養は、いわゆる「勝ち組」が行うことになったことが理解できる。つまり、供養するための「塔=ストゥーパ(いわゆるパゴダだ)」は、それを造るのに高い費用がかかるということになるだろう。

なお、釈尊は、「かかずらうな」とかいいながら、アーナンダ(阿難陀)がこの後、「修行完成者のご遺体に対して、われわれはどのように処理したらよいのでしょうか?」(前掲同著、132頁)という問いに対し、釈尊は「世界を支配する帝王(転輪聖王)」に対する処理の仕方をすべきだといい、その方法をアーナンダに教えるのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AC%E5%BC%8F%E4%BB%8F%E6%95%99
僧侶は遺骸の供養等考えず真理の追求に専念すべきだ、供養は在家の信者がしてくれる、と答えたとされる。 ただし、アーナンダは阿羅漢果をまだ得ていなかった状況から、修行途中の弟子に対しての戒めであり、葬送儀礼そのものに出家者がかかわることを禁じたものとは言い難い。


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