ブログ記事の『自灯明法灯明』*1のコメント欄、ひゃっきまるさんとのお話の中で「筏の喩え」*2の話で「目的を達したならば舟を乗り捨てよ、という言葉もあります。」との意見が出てきたのですが(Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 00:19)、この「筏の喩え」*2と師匠の書かれている「ひとは信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とは同じような意味があるように感じるのですが、ひゃっきまるさんは「比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。(マッジマ・ニカーヤ)
この場合の筏(善き教え)とは釈尊の教えのことであることは明らかと思います。またこの喩えは、釈尊の「苦の解決」と「法」に対する考え方を明確にしていると思います。」(Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 14:55)とおっしゃっており、この見解の「教え(法)を捨て去るべき」を「信仰を捨て去るべき」と解釈するならば師匠の言われる「仏教的信仰」も捨て去るべきものとなりましませんか?