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【アメリカ留学】じゃぱにーずinゆないてっどすていつ【体験談】

1マックミラン ◆PNijOAsW.I:2014/12/05(金) 17:17:30 ID:9DicKcOI0
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703名無しのやる夫だお:2024/05/07(火) 11:07:43 ID:N63zJdUY0
609個のスレッドがあります

704名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:14:05 ID:8QR1JWFI0
寔知懸鏡吐珠而百王相續喫劒切蛇以萬神蕃息與議安河而平天下論小濱而淸國土

寔(まこと)知る鏡懸(か)け珠(たま)吐(は)きて而(しかるに)百(よよの)王(おほきみ)相(あひ)続(つ)がみ剣(つるぎ)喫(の)む蛇(をろち)切り以(もち)て万(よろづ)の神(かみ)蕃息(はんそく)せし安河(やすかは)に議(はか)りて而(しかるに)天下(あめのした)平(やは)さむことに与(あづか)り小浜(をはま)に論(あらそ)ひて而(しかるに)国土(くに)清む

まことに、知ったのです。

鏡を掲かかげ珠たまを吐き、数多くの大王おおきみ(天皇)が代々相続し、剣を喫のむ大蛇を切り万よろずの神々が現れてきたことを。

そして、安河やすのかわ(高天原にある川または天の川を指す)の河原において会議が開かれ、葦原中国あしはらのなかつくに(日本列島)を平定へいていするために力を合わせ、小浜おばま(稲佐の浜・島根県出雲市大社町にある砂浜とされる)で話し合いを行ない国土が平定されたのです。

705名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:14:47 ID:8QR1JWFI0
是以番仁岐命初降于高千嶺神倭天皇經歷于秋津嶋

是以(こをもち)番仁岐命(ほのににぎのみこと)初(はじめて)高千(たかち)の嶺(みね)に于(おいて)降(お)り神倭天皇(かむやまとすめらみこと)秋津嶋(あきつしま)経歴(めぐ)るに于(おいて)

その後、番能邇邇芸命ほのににぎのみことが初めて高千穂たかちほの嶺みねに降りました。

そして、神倭伊波礼毘古天皇かむやまといわれひこのすめらみこと(初代神武天皇)は秋津島(本州)を巡りました。

706名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:15:02 ID:8QR1JWFI0
化熊出爪天劒獲於高倉生尾遮徑大烏導於吉野列儛攘賊聞歌伏仇

化(ほのかなる)熊(くま)爪出(いだ)し天剣(あまつつるぎ)高倉に於(おいて)獲(え)尾生(は)ゆ径(みち)遮(ふさ)ぐ大烏(おほからす)吉野に於(おいて)導く儛(まひ)列(つらな)り賊(あた)攘(はら)ひ歌を聞きて仇(あた)伏(ふ)せす

熊の化身が爪を出すも、高倉により天あまの剣つるぎを得てそれをおさえ、生尾いくお(吉野の先住民=井氷鹿いひかまたは石押分之子いわおしわくのこ)に道を遮さえぎられましたが、大烏おおからす(八咫烏やたがらす)によって吉野の土地まで導かれました。

そして、盛大な饗宴きょうえん(もてなしの酒盛り)を設もうけて敵を誘い、これを打ち取りました。(「神武東征じんむとうせい」の話)

707名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:15:16 ID:8QR1JWFI0
卽覺夢而敬神祇所以稱賢后望烟而撫黎元於今傳聖帝定境開邦制于近淡海正姓撰氏勒于遠飛鳥

即(すなは)ち夢(いめ)に覚(み)て而(しかるに)神(あまつかみ)祇(くにつかみ)敬(うやま)ひ所以(このゆえ)に賢后(さかききさき)と称(たた)へ煙を望みて而(しかるに)黎元(れいげむ)を撫(あはれ)び今に伝ふる聖帝(ひじりのみかど)境(さかひ)定め邦(くに)開き近(ちか)つ淡海(あふみ)に制(をさ)め姓(かばね)正し氏(うじ)撰(え)りし遠(とを)つ飛鳥(あすか)に勒(しる)す

すなわち、夢のお告げにより神々を敬うやまわれたことにより賢后けんごうと称えられ(14代仲哀ちゅうあい天皇の皇后こうごう=神功皇后じんぐうこうごう)、煙を眺め民衆を愛しみ(16代仁徳にんとく天皇)、今に伝わる聖帝(13代成務せいむ天皇)は国境を定められ国を開かれ近淡海ちかつおうみ(琵琶湖)で執政しっせいされ姓かばねを正し氏うじを定めなされ、天皇(19代允恭いんぎょう天皇)は遠い飛鳥あすか(大和の国)で統治なさりました。

708名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:15:33 ID:8QR1JWFI0
雖步驟各異文質不同莫不稽古以繩風猷於既頽照今以補典教於欲絶

歩(あゆみ)驟(はしり)各(おのもおのも)異(こと)にし文(あや)質(しろ)不同(おなじからざ)れ雖(ど)も古(いにしへ)稽(かむが)へ以(も)ちて既(すで)に頽(くず)れしに於(おいて)風猷(ふうゆう)縄(ただ)しむ今に照らし以(も)ちて欲(まさ)に絶へむとすに於(おいて)典(のり)教(をしへ)補(おきな)ふこと莫不(あらざるなし)

進む速さはそれぞれ異なり、文化の質は同じではないとしても、過去を振り返り、すでに廃すたれてしまったことに対して気風や道理を正すこと、現在に目を向け、まさに途絶えようとすることに対して法規や教養を補うこと、これらを怠おこたったことは決してありませんでした。

709名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:15:58 ID:8QR1JWFI0
天武天皇の業績
曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世濳龍體元洊雷應期開夢歌而相纂業投夜水而知承基然天時未臻蟬蛻於南山人事共給虎步於東国

飛鳥(あすか)清原(きよみがはら)大宮(おほみや)にて大八洲(おほやしま)御(をさめ)たまふ天皇(すめらみこと)の御世(みよ)に曁(およ)びて潜龍(せむりよう)元(もと)体(あらは)し洊雷(せむらい)応(まさ)に期(こころざ)さむとす夢(いめ)の歌開(と)きて而(しかるに)纂(あつま)りし業(つとめ)相(み)夜(よ)の水(みづ)に投(くくり)て而(しかるに)基(もと)承(う)けむと知る然(しかれども)天(あめ)の時(とき)臻(いた)らず南の山に於(おいて)蟬(せみ)蛻(もぬ)け人(ひと)事(こと)共(とも)給(そな)はり東国(あづま)に於(おいて)虎歩む

飛鳥浄御原宮あすかきよみがはらのみやにて全国を治められた天皇の時代のことです。(40代天武天皇の時代)

御子みこ(天皇の子)は、潜竜せんりゅう(龍になる前の、雄伏している)ことを身にしみて体感し、今ついに水が至り雷鳴が轟とどろく時を迎えたのです。

夢のお告げにあった歌の謎を解いたところすべしであるとなり、禊みそぎをし占ったところ重大な使命を承うけるべきだと告げられたのです。

とはいえ、天の時(天皇即位の時)は未いまだ至らず南の山(吉野山)におられましたが、前天智天皇の崩御ほうぎょ(死亡)により脱皮して蝉せみとなるように天子てんし(天皇)となられました。

そして、人々が集まりいくさの準備ができたので、東国(不破の関=岐阜県関が原付近より東全部)に向かって虎のような大軍が進まれたのです。

710名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:16:12 ID:8QR1JWFI0
皇輿忽駕淩渡山川六師雷震三軍電逝杖矛擧威猛士烟起絳旗耀兵凶徒瓦解

皇(すめら)の輿(こし)忽(たちま)ちに駕(か)け山川を淩(しの)ぎ渡る六師(りくし)雷震し三軍(みいくさ)電逝(でんせい)す矛(ほこ)を杖(と)り威(い)挙(あ)げ猛(たけ)き士(つはもの)煙起(けぶりにたち)旗(はた)絳(あか)くして兵(つはもの)耀(かがや)き凶徒(あた)瓦解(ぐわかいす)

天皇(大海人皇子おおあまのおうじ=天武てんむ天皇)の輿こし(くるま)はたちまち兵を起こし、山を越え川を渡り、六師団は雷のとどろく音をさせ、三軍は稲妻のように素早く進軍しました。

矛を手にして威を高らかに示し、勇猛な士は狼煙のろしに決起し、旗を赤々と掲げて武器を輝かせ、賊ぞく軍(大友皇子おおとものおうじの軍)は瓦解がかい(ばらばらに崩くずれ落ちる)しました。

711名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:16:26 ID:8QR1JWFI0
乃放牛息馬愷悌歸於華夏卷旌戢戈儛詠停於都邑歲次大梁月踵夾鍾淸原大宮昇卽天位

乃(すなは)ち放牛(ほうぎう)息馬(そくば)し愷悌(がいてい)華夏(かか)に帰(かへ)り旗を巻き戈(ほこ)戢(をさ)め舞詠(ぶえい)都(みやこ)邑(むら)に停(やす)む歳(ほし)大梁(たいれふ)に次(やど)り月夾鍾(けふせふ)に踵(あた)りて清原(きよみはら)大宮(おほみや)に昇りて天位(あまつくらひ)に即(つ)く

すなわち牛を放ち馬を休ませ、そのおだやかさは都に戻り、旗を巻き武器を収納し、踊り舞い歌を詠み、京はくつろぎました。

そうして歳とし(暦こよみのこと)は大梁たいりょう(酉とり年)、月は夾鍾きょうしょう(陰暦の二月)となり、浄御原きよみはらの大宮おおみや(飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみや=奈良県明日香村飛鳥にあったとされる天武てんむ天皇の居住地)に昇殿され、天皇に即位されました。

712名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:16:47 ID:8QR1JWFI0
古事記上卷 幷序
臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。

是以、番仁岐命、初降于高千嶺、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。望烟而撫黎元、於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽・照今以補典教於欲絶。

曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世、濳龍體元、洊雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎步於東國、皇輿忽駕、淩渡山川、六師雷震、三軍電逝、杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解、未移浹辰、氣沴自淸。乃、放牛息馬、愷悌歸於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。歲次大梁、月踵夾鍾、淸原大宮、昇卽天位。道軼軒后、德跨周王、握乾符而摠六合、得天統而包八荒、乘二氣之正、齊五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘國。重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。

於是天皇詔之「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。」時有舍人、姓稗田、名阿禮、年是廿八、爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。卽、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然、運移世異、未行其事矣。

伏惟、皇帝陛下、得一光宅、通三亭育、御紫宸而德被馬蹄之所極、坐玄扈而化照船頭之所逮、日浮重暉、雲散非烟、連柯幷穗之瑞、史不絶書、列烽重譯之貢、府無空月。可謂名高文命、德冠天乙矣。

於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。

大抵所記者、自天地開闢始、以訖于小治田御世。故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶

713名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:17:21 ID:8QR1JWFI0
古事記 上巻-1/序文
古事記 上巻-2/神代七代〜伊邪那岐命と伊邪那美命
古事記 上巻-3/天照大神と須佐之男命
古事記 上巻-4/大国主命
古事記 上巻-5/葦原中国の平定
古事記 上巻-6/邇邇芸命
古事記 上巻-7/海幸彦と山幸彦
古事記 中巻-1/神武天皇〜開化天皇
古事記 中巻-2/崇神天皇
古事記 中巻-3/垂仁天皇
古事記 中巻-4/景行天皇、倭建命、成務天皇
古事記 中巻-5/仲哀天皇、神功皇后
古事記 中巻-6/応神天皇
古事記 下巻-1/仁徳天皇
古事記 下巻-2/履中天皇〜安康天皇
古事記 下巻-3/雄略天皇
古事記 下巻-4/清寧天皇〜推古天皇

714名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:18:01 ID:8QR1JWFI0
古事記 原文

715名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:19:02 ID:8QR1JWFI0
日本神話NO.1の荒神スサノオの悪行【ずんだもん&ゆっくり解説】

716名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:19:15 ID:8QR1JWFI0
古事記 ずんだもん

717名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:19:36 ID:8QR1JWFI0
三貴族。。
引き篭もり、根暗、ヤンキー。。。
父は浮気やろう、母はヤンデレ。
どうなってんだ日本神話!

718名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:20:46 ID:8QR1JWFI0
イザナギまたはイザナキ(伊邪那岐/伊弉諾/伊耶那岐)

719名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:21:15 ID:8QR1JWFI0
伊邪那美命(いざなみのみこと、伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)

720名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:21:50 ID:8QR1JWFI0
この後、イザナミは黄泉の主宰神となり、黄泉津大神、道敷大神と呼ばれるようになった。

721名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:22:39 ID:8QR1JWFI0
和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」との記述があり、これが多賀大社の記録だとする説があるが、『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」「幽宮を淡路の洲に構りて」とある。つまり国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮を構えたとある。そもそも後の近江は淡海ではなく近淡海と書くこともあり、真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写であった可能性が高いと考えられる。

722名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:22:58 ID:8QR1JWFI0
名前の由来
以下の諸説があり、定説はない。

「いざな」は「誘う(いざなう)」の語根で、「ぎ」は男性を表す語(本居宣長『古事記伝』1798年)。
「いさ」は「功徳」の意の「功(いさを)」の語根で、「き」は男性を表す語(白鳥庫吉『神代史の新研究』岩波書店1954年)。
サンスクリットの「伊舎那天(いしゃなてん)」、「伊舎那后(いしゃなくう)」から(北畠親房『神皇正統記』1339年頃)。神仏習合を参照。

723名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:24:49 ID:8QR1JWFI0
粘土版 7
エンキドゥが夢の内容を語るには、【アヌは「森番フンババと聖牛グガランナを倒したために、2人のうち1人が死なねばならぬ」と言った。エンリルは「エンキドゥが死ぬべきだ」と答えた。シャマシュは「(ギルガメシュたちは)自分の命令に従って牡牛どもを殺したのに、何故エンキドゥが死ぬべきか」と反論した。するとエンリルは「何故ならば、お前(シャマシュ)は毎日あの2人(ギルガメシュとエンキドゥ)の仲間であるかのように行動するからだ」と怒った。】

語り終えるとエンキドゥは病み倒れて泣き、ギルガメシュはエンリルに採決の取りやめを祈る(あなたの神、すなわちエンキドゥの個人神エンリルを訪ねる[38])が、エンリルによるエンキドゥの死の決定は絶対だった。エンキドゥは狩人の仕事が不景気になるよう呪い、「酔っ払いにお前の頬を打たせてやる」などと言ってシャムハトをまでも呪おうとするので、これを聞いたシャマシュは「シャムハトのお陰で人間らしくなれ、ギルガメシュという親友ができた」と諌め、エンキドゥの心を落ち着かせた。後にエンキドゥは冥界にいる夢を見て、死が近いことを悟る。熱病に倒れてから12日目、ギルガメシュとこれまでの思い出を語り合い、共に冒険し寄り添った親友に看取られながら、エンキドゥは息を引き取った。

724名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:25:59 ID:8QR1JWFI0
「古事記偽書説」と『古事記』の本質

『古事記』は和銅5年(712)太安万侶によって撰録されたものであり、日本最古の古典と言うことが出来る。 しかし、この古典の存在については古くから多くの疑問符が付けられていた。というのも、現存最古の『古事記』の写本は、いわゆる「真福寺本」(国宝)で、その書写作業が終了したのは応安5年(1371)のことであった。現時点では、これより古い写本は存在せず、712年の成立からおよそ650年の時の経過を経て、世に表れたことになる。他の古典と比較しても、この時の断絶の長さは異様であって、たとえば、同じ国家の制作という観点から『古今集』の場合を見てみても、『古今集』の成立は延喜5年(905)であり、最古の写本の存在は元永3年(1120)に書写されたと思われる「元永本」(国宝)であるから、その間の時の経過は、およそ200年ということになる。また『源氏物語』にしても、最初の写本が出現するのは、成立より200年足らずの後のことなのである。これらの古典の例と比較しても、『古事記』の650年という時の経過は長過ぎるであろう。

このようなこともあって、『古事記』の成立は平安時代に入ってからではないかとするいわゆる「古事記偽書説」が古くから存在してきたのであったが、しかし、その偽書説を吹き飛ばしたのが、昭和54年(1979)1月20日の太安万侶の遺骨、および墓碑の発見であった。私は衝撃をもってこの時のニュースに聞き入ったことを覚えている。「偽書説」については、私は大学の講義においてはじめて知り、さらに、私の恩師 の故石田穣二博士は、慎重な言い回しではあったが、『古事記』は「偽書説」の方向で考えるべきだろうとも述べておられたので、この太安万侶の墓と遺骨の出現には正直言って驚いた。そして何よりも思い知らされたことは実証の恐ろしさと凄さということであった。文献から組み立てられる仮説など、遺物の発見という実証にあっては、なんと脆いことか。石や木簡資料の存在する上代ならではの恐ろしさと凄さではあるまいか。

それにしても、「偽書説」が吹き飛んでよかったとつくづく思う。古代日本の中央集権国家は、大化の改新を経て壬申の乱によって確立されたというのが本講義の基本的姿勢であるが、その中央集権国家の確立が、都城の建設(藤原京・平城京)、律令の整備(大宝律令)、 東国経営(東国侵略)、天皇の名の下での歌集の編纂(万葉巻一、巻二)、修史作業(古事記)、対外戦略(日本書紀)という展開をもたらしたのである。『古 事記』とは、そういう歴史の流れの中でこそ捉えられなければならないのであって、平安時代初期の成立などという「偽書説」は、このような流れをまったく無視しているに等しい。

『古事記』は、中央集権国家の確立に即した修史事業であり、天武天皇による、天皇家のための歴史作り、いわば歴史の中央集権化であったと言っていい。

725名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:27:32 ID:8QR1JWFI0
蘇我氏の4代目 蘇我鞍作くらつくりは、一般に"逆賊"として広く認識されている。

 彼は、自らの子を皇子と呼ばせ、父 蝦夷と自らの墓を"大陵おおみささぎ""小陵こみささぎ"と称するなど、傍若無人な振る舞いをしていたが、645年 天皇家の乗っ取りを謀ったとして、中大兄皇子,後の天智天皇らによって、親子ともども誅滅された(乙巳の変)。

 近年 発掘された小山田こやまだ古墳は、一説には、鞍作の父 蝦夷えみしの"大陵"かと推測されているが、それが事実だったとすれば、造ってからすぐに破壊された形跡から、その際の暴風エネルギーが いかに凄まじかったかが窺うかがえた。

 因みに、乙巳の変において、飛鳥板蓋宮で 鞍作が暗殺された後、蘇我氏の館に集まったのが、高向氏と東漢やまとのあや氏である。彼らは、一旦 蝦夷とともに戦う素振りを見せたが、将軍 巨勢徳多こせのとくたの説得によって 蘇我氏の館を退去。翌日、蝦夷は 館に火を放ち自害した。その際、『天皇記』『国記』その他の珍宝が焼けている。

726名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:28:04 ID:8QR1JWFI0
高向王と宝皇女の間の子である"漢皇子あやのみこ"が 天武天皇の正体であるとの説を私は支持しているが、この高向王を 私は蘇我氏の4代目 蘇我鞍作だと疑っている。

 なお、"高向王=蘇我鞍作"説は 既に存在するが、その中で、"漢皇子=天武天皇"は採られていなかった。また、"蘇我鞍作の子=天武天皇"も 一部で見受けられるが、その説では、高向王のことには触れられていなかった。

 用明天皇の孫 高向王が蘇我鞍作であった場合、鞍作の母,すなわち蘇我氏の3代目 蝦夷の妻は皇女だったのではないかと私は壁越推量している(酢香手姫皇女:用明天皇の娘)。蝦夷の父である蘇我氏の2代目 馬子は 第33代 推古女帝との不義が囁かれており、蝦夷の子である鞍作にも同様の噂が立てられていた。この時期、蘇我氏と皇室との間で 血の交配が男女を換えても行われていたのではないかと私は憶測している。

727名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:28:57 ID:8QR1JWFI0
【地底神話】未知なる世界!アガルタ伝説の真相とは!?(ずんだもん&めたん解説)

728名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:29:45 ID:8QR1JWFI0
ところで、蝦夷は 第33代 推古女帝の後継者問題が持ち上がった際、自らの一族とは血の繋がりの薄い田村皇子(舒明天皇:第34代)を皇位に推しているが、もしかすると、その一因として、田村皇子の妻 宝皇女と自らの息子 鞍作との関係があったのかもしれない。

729名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:30:07 ID:8QR1JWFI0
宝皇女と用明天皇の孫 高向王との間の子 漢皇子あやのみこを、究竟 私は 蘇我宗本家で"皇子"と呼ばれていた人物だと愚慮している。

 漢皇子は 天武天皇こと大海人皇子の正体だと目されているが、私が 漢皇子の父 高向王その人だと検討している蘇我鞍作の別称蔑称は入鹿いるかであり、2人の間には関係性があることが窺われた。大方、これは暗喩だったのであろう。イルカは 海の生物だった。

730名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:30:49 ID:8QR1JWFI0
このような例として、他に 蘇我氏の2代目 蘇我馬子と 聖徳太子こと厩戸皇子の関係があると私は心当てをしている。聖徳太子は 一部で怨霊おんりょうであると狐疑されているが、その所以は 彼が本当は即位したにも関わらず、それが無かったことにされたからだろう。然しかして、その理由は 太子が 実は天皇の皇子ではなく、馬子の子だったからではないかと私は恐察していた。当代天皇の黄櫨染御袍こうろぜんごほうを聖徳太子33歳像がお召しになる広隆寺の秘儀は、現在もなお行われている。

 正史『日本書紀』の内容は、時の権力者の都合によって、大きく改変されたことが予想されるが、多分 その代わりに隠喩が残されたのだろう。

 あと、私が 蘇我鞍作(入鹿)と大海人皇子の親子関係を疑う根拠として、ある意外な人物への不可解な位階の贈呈があるが、その件については 最後の方で述べる。

731名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:31:23 ID:8QR1JWFI0
私は、壬申の乱の勝者 天武天皇(第40代)を 蘇我氏と関係する人物だと目算している。

 かの内乱において、紀氏や巨勢氏等の蘇我系豪族が大海人皇子側に加担。勝利を収めた大海人皇子は その後、蘇我氏の本拠地 飛鳥で即位していた。

 蘇我氏は "鳥"を一族の象徴としていた節があるが、天武天皇の亡くなる時の元号を"朱鳥"といい、天武天皇の時代が中心となった文化を"白鳳文化"といった。

732名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:32:06 ID:8QR1JWFI0
大海人皇子は、天智天皇(第38代)から「お前に位を譲ろうか?」と誘いをかけられた際、事前に「お言葉にお気をつけ下さい」との忠告を受けているが、かの忠告を行った者の名は 蘇我臣安麻呂。この時、大海人皇子は 頭を剃って吉野に隠れ、事なきを得た。

 爾後、天智天皇が亡くなり、壬申の乱へと繋がるが、かの争乱は 朝鮮半島の一国 新羅と中国王朝 唐のどちらと同盟を結ぶかの争いであったとも考察されている。

733名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:32:40 ID:8QR1JWFI0
このうち、前者新羅と天皇家は 欽明天皇(第29代)の時代から宿敵関係にあったが、乱後、天武天皇は 新羅と遣使を交換し、唐との遣り取りを断絶。このような政策が採用されたのは、彼が 従来の天皇家とは異質な血統の持ち主であり、全方位外交を行う一族の出身だったからかもしれない。

 ちなみに、私は 天武朝は"第二次蘇我王朝" だったのではないかと愚慮している。壬申の乱という大乱に勝利を収めることができたのも、先代があったからだったのではないだろうか? 天武天皇を、漢の高祖 劉邦に擬なぞらえる見解が一部で唱えられているが、それだけでなく、天武を漢王朝の再興者 光武帝(後漢の初代皇帝)に擬ぎする見解も、確かに存在していた。

 天武天皇は、神話の中で 日本史上初の女帝 推古天皇(第33代)を 天照大神あまてらすおおみかみに比定していたのではないかと私は当たりをつけているが、ともすれば、そこに 天武にとっての先代がいたのやもしれない。その時代、中国王朝 隋に使節が派遣されているが、そこ『隋書』には男王(アメタリシヒコ)の名が記録されており、また、『国記』『天皇記』といった歴史書が編纂されていた。

734名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:33:31 ID:8QR1JWFI0
日本史上初の女帝 推古天皇(第33代)の御代、聖徳太子と蘇我馬子らの手によって、『天皇記』や『国記』といった歴史書がつくられた(620年)。これらは 編纂されたことが伝わるのみで 現存していないが、その所以は 乙巳の変の際に 蘇我宗本家と共に焼かれ、ほぼ失われたからだった(645年)。

 このことから、これらの史書が 天皇家より 蘇我氏と深い繋がりがあることが窺えるが、『天皇記』『国記』の編纂を命じた聖徳太子(厩戸うまやど皇子)は 有力な蘇我系皇族であり、蘇我馬うま子は 蘇我氏全盛の立役者だった。

 余聞だが、私は 彼らは本当は親子であり、この時期 蘇我王朝が誕生していたのではないかと踏んでいる。彼らは 特に外交政策に秀でており、以前の敵対国 高句麗や新興の大国 隋とも上手うまく駆け引きするなど、時流に合わせた柔軟な外交を行っていた。

735名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:34:31 ID:8QR1JWFI0
— 中国などにおいて、歴史書は 王朝が交代した際に編纂されている。それが日本において 必ずしも当てはまるとは限らないが、奈良から京(平安京)に遷都した,時代の区切りの主上である桓武天皇(第50代)は 歴史書(『続日本紀』)の編纂を命じていた。

 また、時代は下るが、六国史に続く『栄華物語』の正編は 藤原最盛期の人物 藤原道長の時代で終了している。この時代は 遣唐使廃止(894年)後で日本独自色が強いが、それ以前は 中国文化の影響を多分に受けていた。六国史の一『日本書紀』は 全文 漢文体で記されていた。

736名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:35:02 ID:8QR1JWFI0
 『日本書紀』の編纂命令者 天武天皇(第40代)は、その素姓が 一部では疑われている。その血統(天武系)が断絶した後、復活した天智系の実質的な初代が桓武天皇であり、彼によって編纂を命じられた歴史書が六国史の二『続日本紀』だ。このことを鑑みると、『日本書紀』も『続日本紀』も、王統が交代したから編纂されたことが疑える。思うに、推古朝において、聖徳太子と蘇我馬子が編纂させた歴史書も そうだったのではないだろうか? 推古女帝の前代である第32代 崇峻天皇は 実に暗殺され果てていたのだった。

 そしてもし、王朝交代が事実だったとすると、壬申の乱の勝者 天武天皇は 自らの素姓を正史に堂々と掲げていたことが考えられる。史書編纂の意図からすれば、当然であるし、一族内に 先に即位した者があったとすれば、正統性もあろうし 尚更だ。

 それが何故 天智天皇(第38代)の弟として天皇家に組み込まれ 本当の素姓が隠されたかと言えば、天武の次代 持統女帝(第41代)が 正史を改変したからだろう。彼女は 天智天皇の娘であり、壬申の乱の敗者 "正統"大友皇子の姉弟だった。畢竟、彼女とその取り巻きによって、正史は彼女達にとって都合の良いモノに変えられたのではなかろうか? 実際、天皇家の最高神 天照大神には、女傑 持統天皇の事跡が投影されていた。

・・歴史書には 少なからず嘘が入っている。正史は 正しい歴史とは相成らず、時の権力者の正当性を示すための宣伝文書に過ぎなかった…

737名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 19:35:42 ID:8QR1JWFI0
 壬申の乱の勝者 天武天皇(第40代)の正体を巡る学説は、正史上 同母兄とされる天智天皇(第38代)との関係を基軸として、大きく 3つの系統に分類される。すなわち、

  ① 非兄弟説

  ② 異父兄弟説

  ③ 異母兄弟説

だ。

 このうち、①の非兄弟説は その名の通り、天武は 天智とは赤の他人とするものであって この説の中には、新羅人 金多遂や高句麗人 淵蓋蘇文えんがいそぶんなどの他国人も含まれる。因みに、淵蓋蘇文については 2006年 韓国でドラマ化されている。

 ただまぁ、兵を率いていないポッと出の外国人に、豪族達がついてくるかなという気はする。この点は、同国人であっても同様で、それなりの権威なり、武威なりは必要だったのではないかと私は推量している。

 翻って、②・③は、天武は 天智と兄弟関係にあったとはするものの、父もしくは母、どちらかが異なっていたとする。正史『日本書紀』には、天智の異父兄・異母兄がそれぞれ登場しており、これらの説は その人物達を念頭に置いていた。

 なお、何故 天武は 天智の異父兄・異母兄であって、異父弟・異母弟でないかと言えば、後世の歴史書と正史『日本書紀』における天武と天智の年齢の兼ね合いである。それらを見比べると、弟である天武の年齢が 兄である天智の年齢よりも上になってしまう。天武天皇の正体を巡る学説は、そもそも、この年齢逆転に端を発していた。



 現在のところ、これらの説のうち、②の "異父兄弟説"が優勢であるかのような印象を私は抱いている。そして、私も その説を支持していた。

 私がその説を支持する所以として、ある兄弟神にまつわる神話の存在があった。

738名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:03:23 ID:8QR1JWFI0
世界中で謎の穴が発生!地底世界へ足を踏み入れた者が語る衝撃の証拠

739名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:10:24 ID:8QR1JWFI0
世界中で謎の穴が発生!地底世界へ足を踏み入れた者が語る衝撃の証拠

740名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:11:41 ID:8QR1JWFI0
神話や伝説には、当時の状況が少なからず反映されていると憶測されている。

 外国の例で言えば、「ノアの方舟」は 三角州にあった都市が水没したことが投影されたと見られているし、この国の例で言えば、皇祖神 天照大神の神話「天孫降臨」は 持統女帝(第41代)が自らの孫に皇位を譲ったことを神格化したものと見做されていた。物語を構想・著述する上では、何のかんのと言っても、基盤ベースとなるものがあった方がやり易いのは事実だった。

741名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:12:21 ID:8QR1JWFI0
持統は 先代 天武天皇(第40代)と対立関係にあったのではないかと私は疑っているが、それは 神々の内実からも窺える。正史『日本書紀』は 天武天皇が命じ 編纂されたものであるはずだが、それにも関わらず、かの書物では天武の次代 持統女帝が投影された女神が最高神として掲げられていた。

 そして 私は、持統女帝は もともと天武が構想していた神話を造り変えたのではないかと胸算している。持統が投影されていると思しき天照大神の神話には「天岩戸」と呼ばれるものも存在するが、それは 日本史上初の女帝 推古天皇(第33代)の晩年に起こった日食が投影されているのではないかと私は当たりをつけていた。恐らく 既に 推古女帝が投影されていた天照大神に持統女帝が更に投影されたのは、持統にとって 推古が憚はばかる対象ではなかったということだろう。

 とまれかくまれ、"天照大神=推古女帝"として神話と当時の天皇家の系譜を見比べると、面白いほど上手く符合した。詳しくは 後述する。

742名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:13:00 ID:8QR1JWFI0
388: 【遊戯王】遊戯王GX やる夫のアカデミア日記11(1000)

743名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:13:17 ID:8QR1JWFI0
 皇祖神 天照大神は 孫であるニニギを地上に降臨させているが、推古の次代 舒明天皇(第34代)は彼女の孫世代に当たっている。

 このニニギの子が 海幸・山幸の"兄弟神"であり 舒明の子 天智・天武 兄弟に比定されるが、この神々にまつわる一連の物語の中で ひどく私の興味を惹きつけるものがあった。

744名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:13:42 ID:8QR1JWFI0
 日本神話の一つ「海幸山幸」神話は、浦島伝説などの先駆的説話として位置付けられている。

 とは言っても、若年層には馴染みがないというのが実情だと思うので、言い換えれば、『パズル&ドラゴンズ』略して『パズドラ』に登場するウミサチヤマサチの元ネタだった。

『バズドラ』に対する詳しい知見を私は持っていないが、少なくとも それは、基本的な属性は踏まえているようであった。

 それでは、早速 元ネタである方の「海幸山幸」神話について簡単に述べ表していく。

745名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:14:10 ID:8QR1JWFI0
 天孫 ニニギの子 海幸・山幸兄弟は、兄 海幸彦が海で漁をして、弟 山幸彦が山で狩りをして生活していた。

 あるとき、2人は弟である山幸彦の強い頼みにより、互いの道具を交換した。これによって海幸彦は山に猟へと出掛け、山幸彦は海に漁へと出掛けた。

 しかし、普段やり慣れないことは 上手くいかないもので、その日 2人はついに獲物を獲得することができなかった。山幸彦に至っては兄から借りた釣り針を魚にとられる始末。そして、その事実を知った兄 海幸彦は当然ながら激怒した。以降、海幸彦は 弟 山幸彦に辛く当たることとなった。

 これに弱り果てたのが、山幸彦。自分の剣を砕いて山盛りの釣り針を作るものの、兄の返事はつれなく、結局、山幸彦は海の中へと兄の釣り針を探しにいく羽目となった。

 潮の神 塩土老翁の協力を得て、やっと辿り着いた海神の宮。そこで 山幸彦は海神の歓迎を受け、しかも海神は自分の娘(豊玉姫)を嫁として差し出してきた。

 そうして、山幸彦が海神の宮に留まり住んで、3年の刻が経過した。そこは安らかで楽しいところであったが、山幸彦にも やはり故郷を思う心があり、時にひどく嘆き、ため息をつくことがあった。

 それを陰で見ていたのが、海神の娘である豊玉姫。彼女は そのことを父である海神に相談した。

 娘から相談を受けた海神は 早速、山幸彦を招き、彼から 彼と兄との経緯いきさつを聞き、海の生物を集めて釣り針を捜索した。すると、赤い鯛の喉のどから ようやく探していた兄の釣り針が見つかったのだった。

 そして、海神は 陸おかに帰る決心をした山幸彦に、兄 海幸彦を懲らしめるための助言と海の秘宝を授けて、海神の宮から送り出してくれた。

 陸に上がって兄に釣り針を返す際、山幸彦は海神に教えてもらった呪文を唱えた。それは呪いの言葉だった。

 これにより、海幸彦は収穫が激減。困窮した海幸彦は、「これはきっと弟のせいに違いない」と考え 山幸彦へと戦いくさを仕掛けてきた。そこで、山幸彦は 今度は海神から貰った海の秘宝で 海幸彦を懲らしめ、ついには、兄は弟に服従するようになったのだった。

746名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:14:41 ID:8QR1JWFI0
時速4万キロメートル

747名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:14:58 ID:8QR1JWFI0
原子爆弾の500倍

748名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:15:35 ID:8QR1JWFI0
-この物語の中で、海幸彦が兄、山幸彦が弟であるわけだが、彼らが天智・天武 兄弟に比定されると私は胸算していた。

 だが、何となく違和感を覚える。というのは、弟である天武天皇の名を大海人皇子というからだ。もし、2人の兄弟関係が かの神々に投影されていることが事実だったとすれば、兄弟関係の逆転もそこに反映されていたのかもしれない。物語の中で、かの神々は奇しくも 各々の役割を交換していた。

 まぁ、海幸彦・山幸彦というのは 実際には彼らの本名ではないし、また、単なる偶然という線も大いにあり得る。では、他の神話はどうなのか?

 なお、天武天皇こと大海人皇子を象徴する"海"を冠する神が争い事に敗れているのは,やはり、天武と対立する勢力が最終的に史書を編纂したからだろう。

749名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:16:12 ID:8QR1JWFI0
 私は、日本神話に登場する海幸彦・山幸彦の兄弟神には 天智・天武 両天皇が投影されていると推考している。

 天智・天武 兄弟には 兄弟関係が逆転しているのではないか 等の疑義が持たれているが、かの神話には その事実も反映されているのではないかと私は踏んでいた。

 英雄 天武天皇の正体を巡る学説には 大きく3つの系統があるが、私は このうち、天武は 天智の異父兄弟であったとの説を支持している。

 私がそう心当てをする理由の一つとして、天智・天武が投影されていると思しき海幸・山幸が誕生する際の説話の存在があった。

750名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:16:25 ID:8QR1JWFI0
 海幸・山幸の父にあたる天孫 ニニギは 祖母らの指令で 天界から高千穂へと降臨したが、降りてきた地上で、ある1人の女性と瞬く間に恋に落ちた。

 天孫 ニニギは、すぐさま女性に求婚。すると、女性の父である山の神は大いに喜び、2人の娘を天孫 ニニギに差し出してきた。1人は 醜いが 寿命が長い磐長姫いわながひめであり、そして もう1人は 彼が見初めた美しいが 寿命が限られている木花咲耶姫このはなさくやひめだ。

 ここで、ニニギは美しい木花咲耶姫のみを娶り、醜い磐長姫を返すという選択をするのだが、ちなみに このことによって天皇に寿命が生じてしまったとされている。

 而しこうして その夜、ニニギと木花咲耶姫は 夫婦の契りを交わした。

 さらば、翌日 何と何と、木花咲耶姫は 一夜にして身籠ったというではないかッ!

 流石に 驚いた天孫 ニニギは、木花咲耶姫に向かって こう言った。

 「ホントに俺の子か?!」

 いくら何でも これにはカチンときた木花咲耶姫。怒りに任せて 戸口のない小屋を造り、その中に篭こもって、

 「私が孕はらんだのが天孫の御子にあらねば、必ず焼き滅びましょう。もし本当に 天孫の御子ならば、火をもっても害されることはないでしょう。」

 と誓いを立て、小屋に火を付けた。

 子は木花咲耶姫の言う通り、天孫の子であったので、見事 お産は成功し、海幸・山幸ら3柱の神が誕生したのだった。

751名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:16:48 ID:8QR1JWFI0
 私は、日本神話に登場する海幸彦・山幸彦の兄弟神には 天智・天武 両天皇が投影されていると推考している。

 天智・天武 兄弟には 兄弟関係が逆転しているのではないか 等の疑義が持たれているが、かの神話には その事実も反映されているのではないかと私は踏んでいた。

 英雄 天武天皇の正体を巡る学説には 大きく3つの系統があるが、私は このうち、天武は 天智の異父兄弟であったとの説を支持している。

 私がそう心当てをする理由の一つとして、天智・天武が投影されていると思しき海幸・山幸が誕生する際の説話の存在があった。



 海幸・山幸の父にあたる天孫 ニニギは 祖母らの指令で 天界から高千穂へと降臨したが、降りてきた地上で、ある1人の女性と瞬く間に恋に落ちた。

 天孫 ニニギは、すぐさま女性に求婚。すると、女性の父である山の神は大いに喜び、2人の娘を天孫 ニニギに差し出してきた。1人は 醜いが 寿命が長い磐長姫いわながひめであり、そして もう1人は 彼が見初めた美しいが 寿命が限られている木花咲耶姫このはなさくやひめだ。

 ここで、ニニギは美しい木花咲耶姫のみを娶り、醜い磐長姫を返すという選択をするのだが、ちなみに このことによって天皇に寿命が生じてしまったとされている。

 而しこうして その夜、ニニギと木花咲耶姫は 夫婦の契りを交わした。

 さらば、翌日 何と何と、木花咲耶姫は 一夜にして身籠ったというではないかッ!

 流石に 驚いた天孫 ニニギは、木花咲耶姫に向かって こう言った。

 「ホントに俺の子か?!」

 いくら何でも これにはカチンときた木花咲耶姫。怒りに任せて 戸口のない小屋を造り、その中に篭こもって、

 「私が孕はらんだのが天孫の御子にあらねば、必ず焼き滅びましょう。もし本当に 天孫の御子ならば、火をもっても害されることはないでしょう。」

 と誓いを立て、小屋に火を付けた。

 子は木花咲耶姫の言う通り、天孫の子であったので、見事 お産は成功し、海幸・山幸ら3柱の神が誕生したのだった。



— 以上が「ニニギの結婚」という神話のあらましとなるのだが、この神話は、実に海幸山幸の父系を疑わせていた。

 なお、立ち上った煙の中から生まれ出でた子が兄 火闌降命ほすせり(海幸彦)であり、熱が鎮まって生まれ出でた子が弟 彦火火出見ひこほほでみ(山幸彦)である。

 火のないところに煙は立たないと言うが、何故よりにもよって 疑惑があるところに、それに則した神話が置かれているのか? 流石に、これは 私には偶然だとは思えなかった。

 まぁ、それでもまだ 偶然の可能性は排除できないので、神話の系譜と当時の天皇家の系譜を比較すれば、以下のようになる。



推古 (日食が起こる)



敏達-⬜︎-舒明-天智・天武-草壁-文武



天照(「天岩戸」)

‖-⬜︎-ニニギ-海幸・山幸-草不合-初代

スサノオ

752名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:17:28 ID:8QR1JWFI0
 このうち、初代 神武天皇に比定される文武天皇は 正史『日本書紀』の最後で 持統女帝に位を譲られた人物であり、当時の世相がもろに反映されていた。中国の歴史書等において 最後を飾るのは、前王朝の最後の帝 もしくは新王朝の初代だった。

 神武天皇は、山幸彦と同じ名前(彦火火出見)を持ち、「神武東征」には壬申の乱が投影されているとも勘案されているが、或いはもともと天武天皇が比定された初代があり、後の権力者によって、それが後方にスライドされるなどして、現在の形となったのやもしれない。

 この件について、詳しくはまた別の機会に述べる。

753名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:17:39 ID:8QR1JWFI0
【ゆっくり解説】人類滅亡の前兆 シベリアの謎の大穴

754名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:17:54 ID:8QR1JWFI0
シベリア 穴

755名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:18:22 ID:8QR1JWFI0
 壬申の乱の勝者 天武天皇(第40代)の正体の最有力候補と目されているのは、天智天皇(第38代)の異父兄である。正史に見える,その人物の名は、"漢皇子あやのみこ"。ついでだが、天智天皇の異母兄の名前は、古人大兄皇子である。

 天智天皇は、宝皇女(皇極女帝:第35代)と田村皇子(舒明天皇:第34代)の子であるが、その異父兄 漢皇子は、宝皇女と その前夫 高向王たかむくのおおきみとの間の子。高向王という人物は、第31代 用明天皇の孫だった。

756名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:18:41 ID:8QR1JWFI0
古人大兄皇子

757名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:19:11 ID:8QR1JWFI0
 漢皇子は 天武天皇の正体ではないかと多くの学者によって指摘されているが、その経歴は謎に包まれていた。彼については、母 斉明女帝(皇極天皇 重祚ちょうそ:第37代)の記録内に その素姓が書かれているのみで、その後の動向等は一切 書かれていなかった。

 このことなどから、この説を唱える方々は 自然、漢皇子の父である高向王が誰であったかを調べる方向へと舵を切っていた。高向王は 用明天皇の孫であると正史に記されているが、用明天皇の子どものうち、誰の血を受け継いでいるか ハッキリしていなかった。

758名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:19:43 ID:8QR1JWFI0
 第31代 用明天皇の孫 高向王は、祖父は分かれど 父親は分からないという人物だった。中世の書物(『本朝皇胤紹運録』)には、用明天皇の孫ではなく 子供であったとするものもあるが、ほぼ同時代の書物には、その続柄の人物に高向王の名前は見えない。用明天皇の第2皇子である厩戸皇子、乃すなわち、聖徳太子が有名となったこともあり その周辺の系譜は充実しているが、太子関連の史料において、聖徳太子の兄弟に 高向王の名はなく、聖徳太子の兄弟の子にも高向王なる人物はいなかった。

759名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:20:23 ID:8QR1JWFI0
 高向王と宝皇女(皇極天皇)の間の子である漢皇子は、一説には大海人皇子,後の天武天皇の正体ではないかと疑われている。

 "漢皇子=大海人皇子"説を採る場合、その父 高向王の素姓が問題とされるが、それは大きく2つの系統に枝分かれする。

 1つは 高向王を本当に皇族だと考えるものであり、もう1つは 高向王は本当は皇族ではなく 漢皇子に箔はくをつけるために 皇族の系譜の中に差し込まれたというものだ。

 後者の場合、高向王の本当の素姓については、

  ・高向玄理たかむこのくろまろ

  ・高向一族の誰か

  ・新羅人

などが挙げられている。

760名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:21:07 ID:8QR1JWFI0
 新羅人という仮説が唱えられているのは、天武天皇(高向王の子?)が後年 新羅寄りの政策を採っているからだ。

 ただ、私としては、母が天皇だったというだけで、果たして 豪族達がついてくるかな、という気はしている。大乱で 多勢を実質的に率いるには、漢皇子の父 高向王が ある程度の規模の母体を持った豪族じゃないと務まらないのではないか と私は懸念していた。

 ちなみに、高向王が何故 用明天皇の系譜に入れられたかについてだが、概して 彼の本来の氏族が用明天皇と近かったから、もしくは 古代史の著名人 聖徳太子にあやかったから と憶測されている。

761名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:21:58 ID:8QR1JWFI0
 翻って、前者,高向王が皇族だと考えた場合、その素姓は 聖徳太子の兄弟 当麻皇子たいまのみこの子ではないかと一部で囁かれている。

 当麻皇子の子である当麻豊浜たいまのとよはまの位は、天武朝の生前冠位の中で最も高く、当麻氏は 壬申の乱で 大海人側で活躍したと見られていた。

 この説を 私は大変 興味深く捉えていたが、私自身は、高向王の父は皇族ではなかったと思料している。

 されども、冠位等を鑑みるに、当麻豊浜が天武天皇と全く無関係とは思えない。而しこう して 用明天皇の子 当麻皇子の系譜を眺めていて、はたと私の脳裏に閃くものがあった。

762名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:22:38 ID:8QR1JWFI0
 聖徳太子の異母弟 当麻皇子には 母を同じくする同母妹が存在するが、その皇女の名は、酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)。 畢竟ひっきょう、用明天皇の孫 高向王とは、用明天皇の娘の子だったのではないだろうか? "すか"或いは"すが"というのは、一説によれば 蘇我そが(宗我・宗賀)の別称だった。余聞だが、彼らの本拠地は飛鳥(あすか)という。

 古代史の有力豪族 蘇我氏と天皇家の間で、この時期 血の交配が行われているが、ひょっとすると、それは男女を替えても行われていたのかもしれない。

 なお、高向王と漢皇子の名前から、彼らと関係の近い氏族が読み取れるが、高向氏も漢氏も蘇我氏と近い豪族だった。

763名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:23:31 ID:8QR1JWFI0
禹の崩御後、益が後継者とされていたが、益が執政に慣れていない事もあり、諸侯は禹の子である啓を帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲とされる。帝位に就いた啓は、有扈氏が服従しなかった為に討伐を加えている。

764名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:24:10 ID:8QR1JWFI0
啓の崩御後、子の太康が帝位を継承したが、『史記』に依れば「国を失った(これを太康失邦という)」と記録されるなど国勢の衰退が見られる。太康の5人の弟たちは「五子之歌」を作った。

「子帝太康立。帝太康失国、昆弟五人、須于洛汭、作五子之歌」
— 「五子之歌」、『史記』「夏本紀」より
『竹書紀年』に依れば、太康を国から追い出したのは羿であるとされる。

765名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:25:44 ID:8QR1JWFI0
五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は太康が戻らない事を弟達が恨んだ歌である。この歌より太康が遊楽に耽り朝政を省みなかった為に国を追放されたのだと解釈されている(孔安国)。

太康の崩御後、弟の中康が後を継いだ。都は斟鄩、元年は己丑、在位年数七年。在位五年秋九月庚戌朔に日食が起こり、また諸侯の羲氏と和氏が淫楽に耽っていたので、胤(胤は名前とも、国の名前とも云う)に命じ羲氏と和氏を討伐している。

『史記』には、中康の後の帝達についての事跡は特に伝えられていない。

『竹書紀年』に依ると、中康の子である相が跡を継いだ。都は帝丘と斟鄩、元年は戊戌、在位年数は二十八年。その在位八年に夏王朝を実質的に支配していた羿がその妻の玄妻(純狐氏)と臣下の寒浞に殺された。二十八年には相自身も寒浞とその子の澆によって弑された。

相の遺児である少康は母である后緡が都でのクーデターから逃れたため、彼女の出身地である有仍国で生まれた。

少康はやがて成長すると、その息子である予や夏王朝の遺臣である伯靡・有仍氏・有鬲氏などと共に寒浞や澆・豷を討ち滅ぼした。これを「少康中興」という。顧頡剛を始めとする「古史辨派」はこれを「『光武中興』を正当化する為に漢人が作った話である」という説を提唱している。

766名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:26:05 ID:8QR1JWFI0
少康の子である予の都は原と老丘、元年は己巳、在位年数は十七年。在位八年に東海と三寿を征伐し、九尾の狐を得た。

予の子は槐である。都は不明、元年は戊子、在位年数は四十四年。在位二年に九夷が来訪した。

槐の子は芒である。都は不明、元年は壬申、在位年数は五十八年。在位十三年に東海にて大魚を得た。

芒の子は洩である。都は不明、元年は辛未。在位年数は二十五年。在位十二年に有易氏を討伐した。

洩の子は不降である。都は不明、元年は乙亥、在位年数は二十五年。在位六年に九苑を討伐した。

不降の弟は扃である。都は不明、元年は戊戌、在位年数は十八年。

扃の子は廑である。都は不明、元年は己未、在位年数は八年。在位八年に太陽が十つ同時に出現した。

767名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:26:35 ID:8QR1JWFI0
イスラエル「イランは大日本帝國のようだ」イラン「イスラエルはまるで大日本帝國だ」→日本「(´・ω・`)」

768名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:26:55 ID:8QR1JWFI0
不降の子で廑の従兄弟、第14代帝は孔甲である。都は西河、元年は乙巳、在位年数は九年。性格が淫乱であり、自分を鬼神に擬する事を好み、人心は夏王朝から離れていったと記録され、夏王朝の徳治にも翳りが出たとされている。

孔甲の子は皐である。都は不明、元年は庚辰、在位年数は三年。在位元年に孔甲が滅ぼした豕韋氏を復国させた。

皐の子は発である。都は不明、元年は乙酉、在位年数は七年。在位七年に泰山で地震があった。

発の子は桀である。都は斟鄩と河南、元年は壬辰、在位年数は三十一年。人徳に欠け、武力で諸侯や民衆を押さえ付けた事で人心の離反を招いた。又、商の天乙 (湯) を呼び出し夏台に投獄している。天乙は後に赦されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり、遂には桀を倒した(鳴条の戦い)。桀は鳴条に逃げたが客死した。この桀に関する伝説は殷の帝辛(紂)のそれと酷似しており、後世になって作られた伝説であるとも言われる。

近年の考古学調査によれば、紀元前1628年にテラ島の噴火により地球規模の気候変動が起きていたことがわかっており、史書にも桀年間の天候不順が記録される。合わせて、夏の遺跡である望京楼遺跡からは殷による激しい破壊と虐殺の跡があり、宮殿以外は全て破壊され、出土する遺骨も多くが手足が刃物で切断されていたり、顔が陥没するなど、深い加害のあとがしのばれる。このようなことから、実際には力によって、殷は夏にとって代わったことがわかる。遺跡からは夏人のどれも毀損された遺骨と共に殷の青銅の武器も出土する[16]。

天乙は帝位に即位すると夏の血を引く者を夏亭(『史記正義』による)に封じた。周代に於いては、杞に於いて諸侯に封じられている。

769名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:27:42 ID:8QR1JWFI0
黄帝有熊氏

770名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:28:19 ID:8QR1JWFI0
啓(けい)は、夏朝の第2代帝。子に帝太康および帝中康がいるほかに、少なくとも5人の男子がいる。『墨子刊誤』によると、元々は開という名であったが、漢代に諱を避けて啓と呼ばれるようになったという。

771名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:29:04 ID:8QR1JWFI0
有扈氏

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有扈氏,夏初的一个部落名,和夏同姓,皆为姒姓部族,位于今陕西西安市鄠邑区一带[1],另说在河南原阳县一带[2],或说为东夷少昊氏族的九扈部落[3]。

禹死后本来是伯益继位,但是禹的儿子启破坏了传统的禅让制度,自己继承了王位[4]。有扈氏不服,以“尧舜举贤,禹独与之”为名反对启的统治。启发兵讨伐有扈氏,大战于甘(今陕西西安市鄠邑区)[5][6],战前,启作《甘誓》称“有扈氏威侮五行,怠弃三正。天用剿绝其命,今予惟恭行天之罚。”这场战争的结局是有扈氏战败被灭[7],其部众被罚为奴隶。各部落不再有异议,启的统治得以确认巩固,家天下的世袭制取代了禅让。《淮南子·齐俗训》评论说:“有扈氏为义而亡,知义而不知宜也。”

有扈氏兵敗後北遷至易水,發展为有易部落[8]。

注釋
《史记·夏本纪》引《集解》地理志曰「扶风鄠县是扈国。」《索隐》地理志曰「扶风鄠县是扈国。」《正义》括地志云:「雍州南鄠县本夏之扈国也。地理志云鄠县,古扈国,有户亭。训纂云户、扈、鄠三字,一也,古今字不同耳。」中国学者李学勤也认同有扈氏活动中心在今陝西鄠县一带的说法,并指出因现代学者基于夏势力西不出潼关的设想才锁定有扈氏在夏朝的核心豫中及豫西地区,他认为夏的势力范围已跨过黄河抵达陝东,汉朝人旧注的意见当有所本。
郑杰祥以为“古有扈氏实生活于今郑州市以北的原武镇一带。”(郑杰祥《试论夏代历史地理》 载《夏史论丛》)
顾颉刚〈《尚书·甘誓》校释译论〉曾指出有扈氏就是九扈氏。
《竹书纪年》载:夏启“杀益夺位”
《史记·夏本纪》写启登极王位,“有扈氏不服,启伐之,大战于甘。”
《史記·夏本紀》引《集解》馬融曰:「甘,有扈氏南郊地名。」《索隱》「夏啟所伐,鄠南有甘亭。」《水經注·渭水》「渭水又東合甘水,水出南山甘谷,...又北逕甘亭西,在水東鄠縣,昔夏啟伐有扈作誓于是亭。」
《史記·夏本紀》:「遂滅有扈氏。天下咸朝。」
《夏代有扈氏历史地理问题考辨》指出「有扈氏失敗后其部落中有一部分不願投降夏朝的遺氏就向北迁徙,後来发展成為有易部落。」

772名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:29:26 ID:8QR1JWFI0
太康(たいこう)は、夏朝の第3代帝。『竹書紀年』によれば、斟鄩に都し、在位年数は4年であった。

政治を省みないで狩猟に明け暮れていたという。そのために羿によって反乱を起こされ、権力を失い、河南(洛水の南側)の陽夏において死亡した。

773名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:29:47 ID:8QR1JWFI0
中康(ちゅうこう)は、夏朝の第4代帝。啓の子。相の父。

『竹書紀年』によると、兄の太康が狩猟と酒に溺れ、諸侯の離散を招き、有窮氏の后羿に斟鄩を追われて[3]洛水の南で亡くなったために、后羿がパトロンとなって即位した。

『竹書紀年』によれば中康5年(秋9月庚戌朔)、『通鑑前編』によれば中康元年に日食があり、羲氏と和氏が酒色に溺れたため、羲氏と和氏の職務である天文を廃し、暦を乱したので、胤(胤国の侯)がこれを攻めた[4]。なお、『書経』胤侯によると、羲氏和氏は夏に忠義があり、羿に対して不満を持っていたともされている。

774名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:30:14 ID:8QR1JWFI0
相(しょう)は、夏朝の第5代帝。少康の父。

帝丘に都し、その後即位9年目に斟鄩に遷都し、15年目に帝丘にもう一度遷都したと言われている。

政治を省みなかった暴君であったという。有窮氏の后羿が反乱を起こし、后羿の家臣である寒浞(かんさく)によって殺される。結果、夏の帝室の権力は大いに損なわれた。また、このことで、夏が一旦滅びたという説もある。

『竹書紀年』によると、相元年(戊戌の年)に淮夷を討ち、相2年に風夷・黄夷を討ったという。また、相7年に干夷が訪れ、相8年に寒浞が后羿を殺し、相28年には寒浞と子の澆の手で殺された。

775名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:31:39 ID:8QR1JWFI0
少康(しょうこう)は、夏朝の第6代帝。

父帝相は寒浞に殺された。少康の母で有仍氏の生まれである后緡は少康を孕んだ状態で出身地の有仍国に逃げ、そこで少康は生まれた。暫くは寒浞と息子の澆と豷に政治実権が掌握されていたが、少康や夏王朝の遺臣らが挙兵し、寒浞や二人の息子は殺害され、政治の実権は夏の帝室に戻った。

『竹書紀年』によると、少康元年(丙午の年)に諸侯の虞公が、二年に方夷が来訪し、十八年に都を原に遷したとされる。

子には七代目夏王の予、鄫に封じられた曲烈、『呉越春秋』越王無余外伝によると会稽に封じられ越王勾践の祖となった「無余」がいる。

越・倭との関係
『史記』越王勾践世家や『漢書』地理志粤地、『呉越春秋』によれば、少康の庶子である無余が会稽に封ぜられ、文身(入れ墨)・断髪したのが越の起源であるとされる。『漢書』によれば、文身断髪した理由は蛟竜の害を避けるためとされる。

『翰苑』巻30所引『魏略』逸文や『魏志倭人伝』にある倭人の習俗についての説明では、倭人が入れ墨を彫っているのは大魚や水鳥の害を防ぐためであるとして、この少康の子の故事が引き合いに出されている。

776名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:32:03 ID:8QR1JWFI0
予(よ)は、夏朝の第7代帝。

『竹書紀年』によれば、寒浞の子の豷を殺し、原に都し、後に老丘に移ったという。また、在位八年目には東海と三寿を征伐して九尾の狐を手に入れたという。

777名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:32:29 ID:8QR1JWFI0
予(よ)は、夏朝の第7代帝。

『竹書紀年』によれば、寒浞の子の豷を殺し、原に都し、後に老丘に移ったという。また、在位八年目には東海と三寿を征伐して九尾の狐を手に入れたという。

778名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:33:01 ID:8QR1JWFI0
槐(かい)は、夏朝の第8代帝。『竹書紀年』によれば、44年在位したという。

即位3年目に9種類の九夷(畎夷・於夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷)が来訪したという。

779名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:33:25 ID:8QR1JWFI0
芒(ぼう)は、夏朝の第9代帝。『竹書紀年』によれば、58年間在位した[1]。

在位中、東海で釣りをし、大魚を得たという[1]。

780名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:34:19 ID:8QR1JWFI0
洩(せつ)は、夏朝の第10代帝。『竹書紀年』によると、在位21年。

781名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:34:51 ID:8QR1JWFI0
 天智・天武兄弟の母 宝皇女は、第30代 敏達天皇の曽孫という皇室の血統が薄い女性にょしょうであった。

 彼女は 敏達天皇の孫である田村皇子と契り 中大兄皇子と大海人皇子,そして間人皇女を産んだとされているが、彼とは再婚だった。それ以前に、宝は 用明天皇の孫 高向王と契りを交わし、漢皇子をもうけていた。

782名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:35:24 ID:8QR1JWFI0
 宝皇女は 後に即位し(皇極天皇:第35代)、一旦 退位した後、再び登極しているが(斉明天皇:第37代)、これが日本史上初の譲位であり、また重祚であった。

 結果から物事を考えると、彼女の身分は 磐石で 何らかの形で保障されていたかのように錯覚してしまう。

783名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:36:06 ID:8QR1JWFI0
 宝皇女は 後に即位し(皇極天皇:第35代)、一旦 退位した後、再び登極しているが(斉明天皇:第37代)、これが日本史上初の譲位であり、また重祚であった。

 結果から物事を考えると、彼女の身分は 磐石で 何らかの形で保障されていたかのように錯覚してしまう。

784名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:36:43 ID:8QR1JWFI0
 だが、それを疑う見解も厳として存在しており、宝は 実際は 皇女ではなく"郎女いらつめ"という呼び方が相応しいのではないかと高察されていた。その説において、宝郎女は 誰と交わっていてもおかしくないくらい低い身分だったと見られている。

 しかし 私は、彼女が落ちぶれていたからといって、宝に寄ってくるのが素姓の怪しい者ばかりだったとは限らないと愚考している。平安時代の長編小説『源氏物語』において、その主人公 光源氏は 困窮していた皇族の娘 末摘花すえつむはなと情を交わしているが、この時代も、そのようなことが十分にあり得たのではないかと私は踏んでいた。

 そして、私は 彼女が即位までいったのは、とどのつまり、運が良かったというよりも、情を通じた相手によって引き立てられたからではないかと勘繰っている。

・・彼女の息子は 時の天皇に対して 反乱(壬申の乱)を起こし 見事 勝利を収めているが、ひょっとすると、それは、彼が母方に皇室の血をひいていたからというよりも、むしろ、母を皇位に押し立てた父方の氏族の影響力が大きかったからだったのやもしれない・・・

 かくて、その一族を 私は古代史の有力豪族 蘇我氏だと胸算している。いつの時点からかはハッキリしないが、宝皇女こと皇極女帝は 蘇我氏の4代目 蘇我入鹿そがのいるかと密通していたのではないかと囁かれていた。

785名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:38:33 ID:8QR1JWFI0
【ガバさ∞のなろう系アニメ】Lv2からチートだった元勇者候補のまったり異世界ライフ - 1話【主人公の都合のためだけに存在する世界】

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786名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:39:23 ID:8QR1JWFI0
 第40代 天武天皇は、舒明天皇(第34代)と皇極女帝(第35代)の皇子として、7世紀前半 この世に生を得たとされている。即位前の主な呼称は 大海人皇子。彼は 天文遁甲を能よくし、また槍の遣い手でもあった。大化の改新の主人公 中大兄皇子、後の天智天皇(第38代)とは 同母兄弟であったと正史には記されている。

 彼の事跡として特筆すべきことは 何と言っても、古代史上最大の内乱 壬申じんしんの乱(672年)であろう。当時、朝鮮半島の国々との間の国境線は不明確であったが、この時代の一連の出来事、とりわけ、この内戦により、ほぼ防衛線が確定。その後の改革も相まって、一部では、天武天皇は"第二建国者"とでも言うべき存在だと目されている。"日本"という名称が使用され、この国の古代の歴史ルーツが纏められたのも かの時代だった。

 正史『日本書紀』において、天武天皇は 全30巻のうち 2巻を占める主役級の扱いを受けているが、にもかかわらず、彼は その素姓が一部で疑われている。というのは、さような優遇を受けていながら正史のどこを探しても 天武天皇の年齢が分からない違和感からだ。これに加えて、後世の歴史書に残された天武天皇の年齢と『日本書紀』に記された彼の兄 天智天皇の年齢を比べると、2人の兄弟関係が逆転してしまう。歴代天皇のうち ハッキリと生年が確定できないのは、天武天皇と南北朝時代の天皇くらいだった。

 また、天武天皇は その前半生が判然としなかった。兄 中大兄皇子が活躍した大化の改新の端緒 乙巳の変(645年)にも 彼は参加していない。彼が本格的に活動を開始するのは、白村江の敗戦(663年)の翌年からだった。



 では、仮に この疑惑が真実だったとして、何故 彼の本当の素姓は隠されてしまったのか?

787名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:39:46 ID:8QR1JWFI0
不降(ふこう)は、夏朝の第11代帝。帝孔甲の父。弟は帝扃。『竹書紀年』によると、19年間在位した。即位後、6年目に九苑を討ったという。

788名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:40:04 ID:8QR1JWFI0
扃(けい)は、夏朝の第12代帝。帝洩の子で、帝廑の父。兄は帝不降。

西河に都した。即位後、天に妖しい光が10日間出たという。

789名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:40:39 ID:8QR1JWFI0
廑(きん)は、夏朝の第13代帝。在位期間は『帝王世紀』では20年間とされている。『竹書紀年』に拠れば、在世中に太陽が十個現れたという怪現象(旱魃の比喩か)があり、その同年に死去したとされている。死亡後、従兄弟の孔甲が帝位を継いだ。

790名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:40:56 ID:8QR1JWFI0
孔甲(こうこう)は、夏朝の第14代帝。

孔甲はいわゆる暴君であり、性格が淫乱であり、自分を鬼神に擬することを好んだ。そのため、諸侯は夏朝から離れていった[要出典]。

在位中に雌雄一対の竜が天から降りてきたが、豢龍氏(龍の飼育に携わる氏族)がいなかった為、養うことができなかった。竜が天から降りてくるということは吉兆であり、それに対応できないということは夏の徳が衰えているということを意味する。そこで、劉累という者が竜を養おうとしたが、雌のほうの竜は死んでしまった。劉累は、死んだ竜の肉を孔甲に献上した。竜の肉は美味だったので、孔甲はさらに竜の肉を求めたが、調達できるわけもなく、劉累は逃げた[1]。

なお、史記(周本紀)によれば、夏王朝の頃に竜が2匹降りてきたが、占いで竜の吐く泡を貰い受けることが吉と出たので、竜から泡を貰い受けた。この竜の泡は、殷・周に引き継がれ、周代にこの泡から褒姒が生まれたという。

791名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:41:11 ID:8QR1JWFI0
皐(こう)は、夏朝の第15代帝。『史記』などにあるように、一般には帝桀の父は帝発とされているが、一説には帝皐が帝桀の父とも言われる。

792名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:41:27 ID:8QR1JWFI0
発(發、はつ)は、夏朝の第16代帝。『史記』などにあるように、一般には帝桀の父は帝発とされているが、一説には帝桀の兄という。

即位後、諸々の夷が発の門前に来て、舞を披露したという。

793名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:41:47 ID:8QR1JWFI0
桀(けつ、ピン音:Jié)は、夏の最後の帝。名は履癸。『史記』などにあるように、一般には帝桀の父は帝発とされているが、一説には帝皐の子ともされる。

生涯
『竹書紀年』によれば、斟鄩に都した。

孔甲以来、諸侯は夏から離反しつつあったが、桀は徳で統治をするのでなく武力で諸侯や民衆を押さえつけたので、諸侯や民衆に憎まれた。有施氏を討った際に末喜という美女を捕らえ、自らの妃としたが、桀は末喜に溺れ、政治を省みなくなった。酒の池に船を浮かべて肉山脯林(にくざんほりん)[1]と呼ばれる肉を山のように盛る豪華な宴会を催し、国力は衰えた。そして殷の湯を呼びつけ、夏台にて牢獄につなげた。湯は許されて解放されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり、ついに桀は倒された。桀は鳴条(現在の山西省運城市夏県)に逃げたが、「吾悔不遂殺湯於夏台使至此(湯を夏台で殺さなかったばかりにこんなことにまでなってしまったのが悔しい)」と言い放ち死んだ(鳴条の戦い)。一説によると、末喜とともに南方に逃げて死んだという。

後世、殷の帝辛(紂王)、周の厲王と並び称される暴君の代名詞となった。

岷山を討った時に琬・琰という2人の女性を手にいれ、とても愛したが、子供ができなかったので苕華の玉に2人の名を刻んだ。苕には琬の名を、華には琰の名を刻んだ。

794名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:42:28 ID:8QR1JWFI0
 第38代 天智天皇の崩御後、その跡目を巡って2人の同格の皇子の間で 骨肉の争いが起きたことが正史に記されている。古代史上最大の内乱 壬申の乱(672年)だ。

 この内戦で争ったのは、天智天皇の息子である大友皇子と 天智天皇の弟である大海人皇子。もともと 天智天皇は後継者として大海人皇子を考えていたが、そこは天智も人の親。子である大友皇子が長ずるに従って 我が子が可愛くなり、671年 大友皇子を太政大臣に任命。その死の間際には、弟である大海人皇子を枕元に呼んで「お前に皇位を譲ろうか?」と誘いをかけた。このとき 大海人皇子は その誘いに乗らず 出家し、吉野の山へと隠遁するのだが、この天智天皇の心変わりが 後の大乱につながったと読めるように正史には記載されている。吉野に旅立つ大海人皇子の姿を見て、周囲の人々は「虎に翼をつけて野に放すようなものだ」と噂したという。

 天智天皇が亡くなって しばらくして、大友皇子は天智の陵みささぎを造ると称して人夫を集めた。だが、その手には 鍬ではなく武器が握られていた。そして、このことを大海人皇子に伝えるものがあった。これを聞いた大海人は急遽 吉野を進発。各地で軍隊を集めて、不破の関(現在の関ヶ原付近)などで近江政権の軍と対決、大海人皇子の軍が勝利を収めた。しこうして、大海人皇子が飛鳥の地で即位。天武天皇(第40代)となった。

 余聞だが、この争乱(壬申の乱)は 初代天皇の事跡「神武東征」に投影されていると一説には推測されている。

795名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:42:55 ID:8QR1JWFI0
 ところで、天智天皇の崩御から壬申の乱が起こるまでに半年の皇位の空白期間が存在していた。このことから、大友皇子は即位していたのではないかと古来より囁かれている。平安時代後期の『大鏡』や鎌倉時代初期の『水鏡』、更には徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』では かの人物は天皇扱いされており、明治になって 大友皇子は公式に即位が認められた(弘文天皇:第39代)。

 そうして、この辺りの兼ね合いで 天武天皇の本来の素姓が隠されたことが疑われている。

796名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:43:26 ID:8QR1JWFI0
 壬申の乱の勝者 天武天皇(第40代)は 即位後、歴史書の編纂を臣子らに命じたとされている。その動機の一つとして考えられていることが、やむを得なかったとは言え、時の天皇を殺害してしまったことだ。その後ろ暗い事実を隠蔽いんぺいするために、天武は自らの指示で歴史編纂事業を開始、真実をねじ曲げたものと一部で推測されている。第39代 弘文天皇(大友皇子)は、正史『日本書紀』の中では即位していないものとされていた。

 『日本書紀』は 天武天皇の子である舎人親王が総裁し、天武天皇の孫である元正天皇(第44代)の御代に完成した歴史書である。この関係から、それは 天武ファミリーのための書だと広く認識されていた。にも関わらず、その中でファミリーの親玉である天武天皇の生まれた年は分からなかった。

 このことは、それが明らかになることによって 天武の皇位継承の順位が本当は 大友皇子よりも劣っていたことが露見してしまうからだと臆度されていた。それを避けるために、正史『日本書紀』では、大友皇子の素姓だけでなく、天武天皇の素姓も改変されたのだろうと思料されている。



 因みに、正史『日本書紀』は 漢文体で書かれており、編成は年代ごとに事績をまとめる編年体。その主な特徴は "反蘇我"であり、天武天皇が亡くなって(686年)、30年以上経って完成していた(720年)。

797名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:44:06 ID:8QR1JWFI0
 壬申の乱の勝者 天武天皇(第40代)は 即位後、歴史書の編纂を臣子らに命じたとされている。その動機の一つとして考えられていることが、やむを得なかったとは言え、時の天皇を殺害してしまったことだ。その後ろ暗い事実を隠蔽いんぺいするために、天武は自らの指示で歴史編纂事業を開始、真実をねじ曲げたものと一部で推測されている。第39代 弘文天皇(大友皇子)は、正史『日本書紀』の中では即位していないものとされていた。

 『日本書紀』は 天武天皇の子である舎人親王が総裁し、天武天皇の孫である元正天皇(第44代)の御代に完成した歴史書である。この関係から、それは 天武ファミリーのための書だと広く認識されていた。にも関わらず、その中でファミリーの親玉である天武天皇の生まれた年は分からなかった。

 このことは、それが明らかになることによって 天武の皇位継承の順位が本当は 大友皇子よりも劣っていたことが露見してしまうからだと臆度されていた。それを避けるために、正史『日本書紀』では、大友皇子の素姓だけでなく、天武天皇の素姓も改変されたのだろうと思料されている。



 因みに、正史『日本書紀』は 漢文体で書かれており、編成は年代ごとに事績をまとめる編年体。その主な特徴は "反蘇我"であり、天武天皇が亡くなって(686年)、30年以上経って完成していた(720年)。

798名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:44:31 ID:8QR1JWFI0
 内乱の結果 皇位に就いた天武天皇の後嗣は 后である持統じとう女帝(第41代)が襲い、約1世紀ほどの期間、その血脈が皇位を継承する時代が続いた。

 この"天武系"と呼ばれる血統が途絶した所以は、男子に恵まれなかったことだ。天武系 最後の天皇となった称徳女帝(第48代)は、現在のところ、この国の歴史上 唯一 女性皇太子として立てられていた。

 なお、天武系が主流となった時代は 主に奈良に都が置かれており、奈良の大仏こと東大寺盧舎那仏像も この時代に建立されている。

・・天武系が断絶した後、再び天智天皇(第38代)の血をひく人物が皇位に返り咲いた。"天智系"の復活だ。この皇統は 永きに渡り現在に至るまで受け継がれている(第49代 光仁こうにん天皇〜)。

 因みに、天武の皇后である持統女帝も天智の娘であり、彼女は 壬申の乱の敗者 大友皇子とは姉弟関係にあった。



 いわゆる天武系は、天智系との対比で用いられるが、天武 並びに 彼の後を受け継いだ第40代〜第48代までの天皇は、天智の娘である持統も含め、天皇家の菩提寺に祀られていなかった(位牌がない)。また、仏式だけでなく、神式の祭祀からも除外されていた。

 天武の素姓が疑われていることを鑑みると、この事実は やはりと思わざるを得ないものがあるが、それが真実だったとして、一体何故 天武は政変を起こし、それは支持され、そして 成功するに至ったのか?

799名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:44:53 ID:8QR1JWFI0
天武系 最後の天皇となった称徳女帝(第48代)は、現在のところ、この国の歴史上 唯一 女性皇太子として立てられていた。

800名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:45:44 ID:8QR1JWFI0
 いわゆる天武系は、天智系との対比で用いられるが、天武 並びに 彼の後を受け継いだ第40代〜第48代までの天皇は、天智の娘である持統も含め、天皇家の菩提寺に祀られていなかった(位牌がない)。また、仏式だけでなく、神式の祭祀からも除外されていた。

 天武の素姓が疑われていることを鑑みると、この事実は やはりと思わざるを得ないものがあるが、それが真実だったとして、一体何故 天武は政変を起こし、それは支持され、そして 成功するに至ったのか?

801名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:46:05 ID:8QR1JWFI0
【人間のエゴが強いなろう系アニメ】出来損ないと呼ばれた元英雄は、実家から追放されたので好き勝手に生きることにした-2話【そんなんだから恐れられてたんじゃないの?】

802名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 20:46:39 ID:8QR1JWFI0
 6世紀末期、分裂し 混迷していた中国を統一する王朝が誕生した(581年)。隋ずい王朝だ(統一は589年)。

 隋はもともと"隨"という字が当てられていたが、"辶しんにょう"が「走る」という字義を持ち、短命で終わることが危惧されたことから名称を変更(一説)。されども、かの王朝は 対外政策の失敗などにより、統一後、約20年ほどで滅亡した(618年)。

 隋朝の後、中国の覇権を握ったのは、世界帝国 唐とう。唐の王室は 前朝の親戚筋にあたっているが、隋から科挙など諸々の政策を踏襲。対外政策も受け継いだ。




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