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【アメリカ留学】じゃぱにーずinゆないてっどすていつ【体験談】
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五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は太康が戻らない事を弟達が恨んだ歌である。この歌より太康が遊楽に耽り朝政を省みなかった為に国を追放されたのだと解釈されている(孔安国)。
太康の崩御後、弟の中康が後を継いだ。都は斟鄩、元年は己丑、在位年数七年。在位五年秋九月庚戌朔に日食が起こり、また諸侯の羲氏と和氏が淫楽に耽っていたので、胤(胤は名前とも、国の名前とも云う)に命じ羲氏と和氏を討伐している。
『史記』には、中康の後の帝達についての事跡は特に伝えられていない。
『竹書紀年』に依ると、中康の子である相が跡を継いだ。都は帝丘と斟鄩、元年は戊戌、在位年数は二十八年。その在位八年に夏王朝を実質的に支配していた羿がその妻の玄妻(純狐氏)と臣下の寒浞に殺された。二十八年には相自身も寒浞とその子の澆によって弑された。
相の遺児である少康は母である后緡が都でのクーデターから逃れたため、彼女の出身地である有仍国で生まれた。
少康はやがて成長すると、その息子である予や夏王朝の遺臣である伯靡・有仍氏・有鬲氏などと共に寒浞や澆・豷を討ち滅ぼした。これを「少康中興」という。顧頡剛を始めとする「古史辨派」はこれを「『光武中興』を正当化する為に漢人が作った話である」という説を提唱している。
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