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本迹のログ倉庫

46美髯公:2009/11/13(金) 12:39:59
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

223 :もくれん:2008/12/02(火) 19:34:30
>>220の続き

>この場合「本」が静物で、それを写した作品は「迹」になるだろうが、
>価値は作品にあるというです。
>ここで本当に言いたかったことは、「本迹は優劣に限らない」なのです

風景画、静物・例えば「リンゴ」などでは、作品そのものが、文句なしに
価値があるといっても過言ではないでしょう。
題材にした現地の風景とかリンゴとか、価値の上下・優劣を「絵画」と
比較すること自体が通常は、ないはずです。
評価されるのは絵画からの「感動」であり画家の力量であり、

価値が作品にあるということは「貨幣的価値」「鑑賞して感動する価値」
が思いつきます。

「貨幣的価値」といえば、ジョン・レノンの「スケッチ画」がオークションで
ものすごい「高値」がつく・・などニュースで聞くこともあります。
すでに「評価」の定まっている画家、例えば「ゴッホ」の絵などは無条件で
億単位の値段がつくわけです。
しかし、どんなにお金がある人でも、その「ゴッホ」の絵に億単位のお金を
出す意思の無い人も、当然おります。
美術館で「入場料1000円」で、「こころゆくまで」鑑賞する人もいます。

小学生が描いた「お母さんの絵」は、絵画コンクールで、入賞しなくても
その絵を描いた子供の母親には「世界一の宝物」であることでしょう。
でも、現実に生きて生命活動をしているこの母親、つまり、生身の人間と
紙の上の「お母さんの絵」は、比較するべきものでないし、
優劣というより、いざとなれば、どちらが大切かは、勿論、本物の母親でしょう。
万が一、その大切な「母の絵」を紛失しても、それでは「又描こう」で
すみませんか。作品に価値はあるが、臨機応変に対処もできる。

絵画にしても、映像作品にしても、果たして「本迹」で立て分けるべき
ことでしょうか。被写体と作品をです。
本迹で立てわけるには原点に戻り、「あらゆる現象」ですね。動的ですね。

確かに、「法華経の智慧」で、法華経28品を「スクリーン」と先生は表現しま
したが、やはり何かが違うと思います。
その「何か」は、まだ説明できません。

法華経28品そのものが、「迹」ですね。大聖人の文底独一本門を「本」とすれば
法華経も「スクリーン」にもなれば「迹」そのものにもなります。
法華経28品にしても、大聖人の南無妙法蓮華経にしても、「法」そのものですね。
片や、まわりくどく、ばかていねいに、「法」を説明し・・・
片や、単刀直入に「南無妙法蓮華経」のひとことで「法」を顕し・・・
「仏」の「説法」という現象・事象での「本迹」ですね。
この場合、修行が簡単なほど、「法門」の価値は高いですね。
釈迦・天台の仏法と比較して、大聖人の仏法が「勝れている」のは
修行が、万人に可能であるという点が大きいですね。

芸術作品ではと・・・作家が作品を創造する「行為」「作業」「作品への一念」
などは、同一作家での「本迹」は当然あるはずですね、
命を削る思いで、魂を打ち込んで作品を創る・・その作家としての「本」
結果、すばらしい作品ができても、被写体との「本迹」は無理なのでは?
売れればいいと、惰性での創作活動であれば・・・その作家としての「迹」

私たちが「地涌の菩薩」の自覚での行動であれば「本」
惰性で、表面的には広布の行動をしているようでも、心が堕ちれいれば「迹」

いや〜〜わかりませんですね。



芸術作品は、評価する人によって、評価が変わります。
たまたま「絵画」を例にしましたが、「映像作品」でも同様かと思います。

絵画にしても、映像作品にしても、「被写体」と「作品」は「本迹関係」かは
いまだ疑問があります。

先ほどの法華経28品が、スクリーンの例とは、何かが違う・・
でも、それが何かは、今はまだ明確に説明できません。

47美髯公:2009/11/13(金) 12:41:47
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

224 :もくれん:2008/12/02(火) 19:46:03
今、ちょっと思いつきましたが、

先ほどの一千万円と証文書ですが、結果的に「同じ価値」があるのだが
一時的に違う形態であると・・・当然「本物・本体」のほうが確かですから
「本」ですし、「迹」の方は、一歩間違えると「パー」になってします危険もある。
紛失とか、

法華経28品と大聖人の「南無妙法蓮華経」は、結果的に正しく「対処」つまり
「文底」で読めば、同じ価値を生む・・・しかし、一歩間違えると、つまり
文底での読み方ができないと、価値を生まないばかりか「損」をする・・

本迹には、このような「意味合い」がありますね。

私の「本迹」でも、「迹」のまま、一生を過ごせば「本来の価値」を
出すことができずに、「損」な人生になってしまう・・

ちょっと頭が疲れました・・


225 :もくれん:2008/12/02(火) 19:57:11
>>222  梅さん

>★しかし、梅さんの「言いたいこと」が少し、わかってきました。
>★「体」は必ずしも「同一」とは限らないが、無関係な「体」どうしでは
>★本迹は発生しない。
>★梅さんの「問題提起」が無ければ、ここまでは考えませんでした。

>>222
>上記はその通りだと思いますが、貴女の結論ではないのですね?

私の「オリジナルの結論」ではないのは「確か」ですね。
梅さんの「問題提起」があって、思索したことですから。

>★「体」は必ずしも「同一」とは限らないが、無関係な「体」どうしでは
>★本迹は発生しない。

この2行については、納得していますよ、現時点では、

48美髯公:2009/11/13(金) 12:46:25
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

226 :梅:2008/12/02(火) 20:00:09
もくれんさん

>>210
>「証文書」も、紛失しなければ、いずれ「本体一千万円」の価値を手に
>入れられる。
>明確に「勝劣」です。

これから書くことは細かすぎて、上記はスルーしちゃおうと思いましたが
後で後悔しないために書き込みます。

まず、一千万円(本)ですが、すでに親から譲り受けているのです。
ですから、その「迹=影」としての「証文書」があります。

実体を証明するものですから、それなりに価値はあるでしょうね。
しかし、「証文書」を紛失しても、その一千万円の所有権そのものには
影響は全くありません。
そして、そのような本迹を「勝劣」のみでとらえるのは、ほんのちょっと?です。


227 :梅:2008/12/02(火) 20:17:15
もくれんさん

>>224
>先ほどの一千万円と証文書ですが、結果的に「同じ価値」があるのだが
>一時的に違う形態であると・・・当然「本物・本体」のほうが確かですから
>「本」ですし、「迹」の方は、一歩間違えると「パー」に
>なってします危険もある。
>紛失とか

>>226は上記を読む前に投稿準備したものです。
ちょっと行き違いましたが、証文書なんてなくてもよいのは、
ご理解いただけたでしょうか?

>法華経28品と大聖人の「南無妙法蓮華経」は、結果的に正しく「対処」
>つまり「文底」で読めば、同じ価値を生む・・・
>しかし、一歩間違えると、つまり文底での読み方ができないと、
>価値を生まないばかりか「損」をする・・
>本迹には、このような「意味合い」がありますね。

これは、かなり問題発言かも知れませんよ(笑)
それは、この文の1と2行目です。
3、4行は同意です。

49美髯公:2009/11/13(金) 12:50:55
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

228 :もくれん:2008/12/02(火) 20:31:27
>>221   梅さん

>したがって、先生の講義等を引くにしても、出来るだけ最新のものを
>用いるべきですね。
>この対話を行うきっかけとなった天城さんの沖浦批判論は、会長講義を
>引かれていますが昭和52年「諸法実相抄」及び昭和53年「観心本尊抄」です。

三大秘法の根本教義そのものは、「変質」はしていないと私も確信しています。
「法」そのものですから、変質させようがありません。
「律」は人間が、作り、時代とともに変えることも多々あります。

むしろ、宗門は「三大秘法」を「否定」しました。(先生のスピーチより)
その詳細は、後ほど書きますが。

当然「戒壇さま」は、我が教団にはありませんから、「戒壇」の文字は
使わないですが「戒壇さま」の真偽はともかくとして、
我が教団には無いのですから、

三大秘法、なかんずく一大秘法の「本門の本尊」は
2008年 10月号 大白蓮華  「報恩抄」講義より

★万人の生命に本来、具わる尊極の生命を一人一人に自覚させるために、
★大聖人己証の尊極の生命をあらわされた「本門の本尊」とあります。

ちなみに、書籍「教学の基礎」ならびに「仏教哲学大辞典」は
「本門の本尊」とは、日連大聖人が胸中に所持されている久遠元初の妙法たる
南無妙法蓮華経であり、またそれを図顕された曼荼羅本尊・・とあります

いずれも、御本仏の「御生命」が「本尊」です
かって「戒壇の大御本尊」が「本門の本尊」であったことと、内実は
全く同じことです。
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候・・」
本質的には、何も矛盾はありません。

勿論、細かいこと
地涌の菩薩・・・けしからん・・・地涌の菩薩の眷属と言え・・
今は堂々と「地涌の菩薩」と言えます・

「導師」・・けしからん信徒の分際で・・今は「導師」普通に使えます

葬儀は「僧侶」がいなくてはだめだ・・今は、仏法の本義にのっとり、自由です
「僧侶」が必要な方は「改革同盟」の御僧侶がおられますし・・

勿論、その他、ありますが、きちんと資料に基ずいて書かないとまずいので
今は思いつくことだけ書きましたが。

「根本の教義」「三大秘法」は、創価学会だけが、大聖人直結で実践している
わけです。先ほども書きましたが、宗門は「三大秘法否定」です。

又、あとで、詳細は書きます・・


229 :もくれん:2008/12/02(火) 20:36:04
>>227  梅さん

>これは、かなり問題発言かも知れませんよ(笑)

そうですね。
同じ価値は「時代」が釈尊の時代ですね・・・
末法では、「同じ価値」は、無いですね、だから「本迹」でありましょうし・・

50美髯公:2009/11/13(金) 12:52:58
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

230 :もくれん:2008/12/02(火) 20:44:44
>>226  梅さん

もくれんさん

>>210
>「証文書」も、紛失しなければ、いずれ「本体一千万円」の価値を手に
>入れられる。
>明確に「勝劣」です。

>これから書くことは細かすぎて、上記はスルーしちゃおうと思いましたが
>後で後悔しないために書き込みます。

>まず、一千万円(本)ですが、すでに親から譲り受けているのです。
>ですから、その「迹=影」としての「証文書」があります。

>実体を証明するものですから、それなりに価値はあるでしょうね。
>しかし、「証文書」を紛失しても、その一千万円の所有権そのものには
>影響は全くありません。
>そして、そのような本迹を「勝劣」のみでとらえるのは、ほんのちょっと?です。

ごめんなさい、「遺言状」のようなものと勘違いしてました。
「証拠」ですね。法華経の智慧で再確認。

あまり、私が先に書くと、落とし穴だらけになりそうですね。
しばらくは「本迹」に関しては「聞き役」に徹します。

51美髯公:2009/11/13(金) 12:56:28
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

231 :梅:2008/12/02(火) 20:51:14
もくれんさん

>>223

「芸術作品」の例にはあまりこだわらないで下さい。
先生が「池に映った月の影」を現代的に「スクリーン」に置き換え
面白い喩えでユーモアをされていた(学生の卒業)ので、
触発されて考えただけです。
ただ、先生は勝劣・優劣にこだわっておっしゃっていないように思いました。

>釈迦・天台の仏法と比較して、大聖人の仏法が「勝れている」のは
>修行が、万人に可能であるという点が大きいですね。

同感です。
しかし、貴女がおっしゃる万人に可能な修行って何のことですか?
実は、ここに「一大秘法」云々のカギがあると私は思います。


232 :梅:2008/12/02(火) 22:13:43
もくれんさん

>>228
>三大秘法の根本教義そのものは、「変質」はしていないと私も
>確信しています。

解釈というよりか「表現」に変化があるのだと思います。

>むしろ、宗門は「三大秘法」を「否定」しました。(先生のスピーチより)
>その詳細は、後ほど書きますが。

そうなんですか!
詳しく教えて下さい。

>かって「戒壇の大御本尊」が「本門の本尊」であったことと、内実は
>全く同じことです。
>「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候・・」
>本質的には、何も矛盾はありません。

この点が一番の問題なのです!

「内実」という意味をはっきりさせねばなりませんが
内実が全く同じなら、沖浦さんは間違いになる余地があると思います。
逆に内実が違うなら、沖浦さんの言われることを直ちに非難せず、
検証しようという姿勢が必要かと思います。
私は、創価学会が「戒壇の」を外したことは
貴女が内実と言われている以上の、とても重要な意味をもっていると考えます。
でなければ、貴女の言われた「発迹顕本」の意味がありません(そのくらい重要)
ただし、この問題はネットで軽々しく言うようなことではありませんので
この問題については、ここまでにしたいと思います。
天城さんの沖浦批判が、中途半端な感を免れないのもそのためだろうと
思います。
これが、ネットの限界です。
ですから、沖浦さんもリアルでの対話を望んだのだと思いますよ。
それでよく、沖浦さんが逃げていると言われてますが、非難のための非難が
多いようです。

52美髯公:2009/11/13(金) 13:00:40
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

233 :梅:2008/12/02(火) 23:28:24
もくれんさん

これが本日最後の投稿になると思います。

沖浦版の「戒壇様本懐論につてどう思いますか」に投稿されていましたね。
これは単に日付の問題ではなく、そんなものをはるかに越える
本質的な問題があります。
沖浦さんは、それを踏まえて言われているのだと思います。
そして、それは貴女がおっしゃってる論理が、あたかも空を切り
むなしく思えるような、沖浦さんの投稿を先ほど読みました。
>>202です。

>ご本尊様と人間、どっちかしか助けられない時、自分はどうするべきなんだろう?
>現場を見て、悩んだ人間の深刻な葛藤でした。

このような葛藤がなければ、今日の沖浦さんの結論はあり得ないと思います。
貴女は、この火事の状況でどのように判断しますか?

私も自分の命に代えても、御本尊様を持ち出せと教えられた世代でしたので
その葛藤を少しは理解できます。
今時、人間のほうを捨てよなんて学会員が言うでしょうか?
色々な学会員がいるのですから、いたらいたでかまないのですが・・

さて、沖浦さんの投稿に少しでも同感するところがあったら
「法華経の智慧」第5巻173ページをお読みになってくださいませんか。
そこでは『人間のための手段にすぎない』と明確な表現で書かれています。
論理なんかでなく、ピーンと来るものがあるかも知れませんよ!


235 :梅:2008/12/03(水) 13:39:10
>>230
>あまり、私が先に書くと、落とし穴だらけになりそうですね。
>しばらくは「本迹」に関しては「聞き役」に徹します。

そうですか。
では、まとめてみましょう。

釈迦の法華経を本門迹門に分け本迹相対で、明確に勝劣を判定しました。
しかし、日蓮独一本門により釈迦の法華経は全て迹門になりました。
これが、本迹の基本的な用法です。

その応用例として、本迹の言葉が様々な場面で使われます。
たとえば、本=本当の姿、迹=仮の姿という表現自体が応用になりますが
そこから、現象として外的に認知できる場面だけでなく
「一念」という内面に踏み込んだ使い方もなされました。

さらに、その一念のあり方などから、自他を本迹で言う場合なども出てきます。
そして、このような応用では、本迹は勝劣・優劣に拘るのではなく
むしろ、「本」とされた対象を大切にするという視点が重要視されます。
そして、そのための「迹」となりますから「手段」という表現もなされます。

以上です。

沖浦さんが「曼荼羅は迹」という表現をしたとき
「本迹をそのようには使わない」と批判した人が多くいます。
しかし、その批判は上記したことを理解すれば、正当な批判になっていません。
むしろ、批判者が言いたかったことは
「曼荼羅は迹」という本質的な考え方だったはずです。
だとすれば、「曼荼羅は手段」であるか否かを正攻法から論ずるべきなのです。
それを、言葉に拘るから単なる非難に終始してしまう。
これでは最初から対話になんかなりませんね。

貴女が真摯に批判的態度を保とうとされるなら
「彼は何がいいたいのだろう?」という、私が最初にあげたテーマに
ぶつかるはずです。
その検証なくしては、「己義だ邪義だ」というばかりであって
誠意を尽くした対話にはならないと思います。

53美髯公:2009/11/13(金) 13:06:52
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

239 :もくれん:2008/12/03(水) 22:41:13
>>233 梅さん

>ご本尊様と人間、どっちかしか助けられない時、自分はどうするべきなんだろう?
>現場を見て、悩んだ人間の深刻な葛藤でした。

このような葛藤がなければ、今日の沖浦さんの結論はあり得ないと思います。
貴女は、この火事の状況でどのように判断しますか?

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

池田先生の指導で、「御本尊さまは、又、いただけるのだから、絶対に無理をして、
自分の命を落とすようなことがあってはいけない」という指導を
読んだ記憶があります。ただ、出典は記憶にありませんので、出せません。

私の判断はというと、基本的には、両方、助けたいと思います。
あらかじめ「if」は、持ちたくないと思います。
御本尊さまをお巻きするのに、30秒くらいでしょうか。
シュミレーションは、必要だと認識しています。


240 :もくれん:2008/12/03(水) 23:24:06
>>232  梅さん

>三大秘法の根本教義そのものは、「変質」はしていないと私も確信しています。

解釈というよりか「表現」に変化があるのだと思います。

>むしろ、宗門は「三大秘法」を「否定」しました。(先生のスピーチより)
>その詳細は、後ほど書きますが。

そうなんですか!
詳しく教えて下さい。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://jbbs.livedoor.jp/study/7888/storage/1215745197.html  57

池田大作全集83(スピーチ集)  1999年発行 から 抜粋

161〜163ページ   抜粋

御本尊といっても、大切なのは、「信心」である。
日寛上人は、「観心本尊抄文段」で、述べられている。

「もし、刹那も信心あらば即ち、一念三千の本尊を具す。
故に、『介爾も心あれば即ち三千を具す』というなり。
譬えば水ある池には月便ち移るが如し。
宗祖の所謂『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり』とはこれなり。
   (文段集 466P)

大聖人は『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり』  御書 1224 P
と仰せである。
『信心の二字』の中にこそ、御本尊はまします、と。

戸田先生は、御本尊を幸福製造機に譬えられたが、強情な信心に
よってのみ、御本尊の広大無辺の大功力も現れるのである。
この一点に、大聖人の仏法の真髄がある。

そして、日寛上人は「こういう法門は前代未聞であり、誰が
信じられようか」と問を設けられたあと、大聖人の血脈抄である
「本因妙抄」の次の一節を引かれ、答えとされている。

すなわち『観行理観の一念三千を開して名字事行の一念三千を顕す、
大師の深意・釈尊の慈悲・上行秘伝の秘曲・是なり』
      御書  872 P

観心の本尊の深義もここにある。

さらに、日寛上人は、このこと、すなわち、
信心にこそ、本尊は具することを、知っているかどうかに
『御相伝の家』 か 『不相伝の輩』 かを分ける基準を置いておられる。

この観心の本義からいえば、信心強き人ほど、尊き人はいない。
その人の胸中には御本尊がましますからである。

そして、日顕宗は、「最も信心強き人」すなわち、創価学会を
破門したという一点だけでも、じつは『不相伝の輩』なのである。

★ まさに、日顕宗は三大秘法否定の邪教である。
★ この、大悪を根絶してこそ大善になる。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

先生のスピーチを記載したものです。
★印は、私が強調したい目的で、つけたものです。

宗門は「広宣流布」への信心が無いに、尽きるわけです。
御本尊と戒壇だけあって、「御本尊を信じての自行化他の題目が無いですね」
三大秘法にならないのですね。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

54美髯公:2009/11/13(金) 13:12:26
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

242 :もくれん:2008/12/03(水) 23:52:19
>>235  梅さん

>貴女が真摯に批判的態度を保とうとされるなら
>「彼は何がいいたいのだろう?」という、私が最初にあげたテーマに
>ぶつかるはずです。
>その検証なくしては、「己義だ邪義だ」というばかりであって
>誠意を尽くした対話にはならないと思います。

オアシスを丹念に見ていただければ、わかりますが、
沖浦さんが「何を言いたいのか」の探求でした。
同時進行で、「対話」をしていた方も、何人かおりますが、
彼らは「破折」が目的だったと思います。
私は「とことん」「何が言いたいのか」の探求でした。
そのプロセスで、例のドブ板からも、非難の連続でした。
何故ならば、ドブ板は、沖浦氏は「統監上は名簿はあるが、学会員ではない」が
前提で「最初に悪人ありき、一切問答無用」のスタンスですから
理解してあげようなんて人間は、イコール敵ですから。

しかし、私のレスを「合成捏造」され、それを「池田先生が仰っています、
もくれんさんのレスからです」と若鷹掲示板で、掲載され、
「もはや、ここまで」となったわけです。

http://jbbs.livedoor.jp/study/7888/storage/1214133728.html

524〜550 までは、多いに参考にしていただきたいです。

http://jbbs.livedoor.jp/study/7888/storage/1215745197.html

321・322・323・329・330・331・332・333・337・369・374・376・385・388
440・450・451・452・453・454・462・470・476・・・・

参考にしていただければと思います。

55美髯公:2009/11/13(金) 13:13:36
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

243 :もくれん:2008/12/04(木) 00:31:37
>>235  梅さん

>だとすれば、「曼荼羅は手段」であるか否かを正攻法から論ずるべきなのです。

これは、勿論、少なくとも、私は言いましたよ。
「帰命の対境」であると。

ただね、沖浦さんの「新板」「天城氏の邪義を笑うスレッド」で
唯一、沖浦氏が自説の根拠として「提出したもの」ですが、
このスレッドの  >>26  >>27  を参照していただきたいですが
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

★凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり・・
この深義について・・・

先生の「諸法実相抄講義」より 池田大作全集24 P45〜

凡夫があくまで「本仏」である。これに対して、釈迦仏をはじめ、
経文に説かれるあらゆる仏は、妙法蓮華教の働きとしての「迹仏」に
すぎない、ということであります。
法華経の道理から言えば当然のことでありますが、それをこのように
明確に言い切り、凡夫こそ本仏なりと断ぜられたところに、日蓮大聖人の
教えが、末法万年の未来に投じた、不滅の力用と光明があるのであります。

★ ここに、凡夫と仰せられたのは、別して日蓮大聖人の御事であり、
 日蓮大聖人が御本仏であられることを示されております。
 「御義口伝」に「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり・・・仏とも云われ
  又凡夫僧とも云わるるなり」とあるとおりであります。

ともに、総じて私どもは、当然凡夫であります。その凡夫が最も、尊く、
偉大であることを、日蓮大聖人が、自ら凡夫の姿を示してお説きくださって
いるのです。
あくまでも、日蓮大聖人の仏法は、人間が中心であります。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このことに関連して、沖浦氏の掲示板に「時乃旅人」さんが来てました。

「M」なる実名と、具体的職業名、完全に本人を特定できます。
「M」氏なる人物が先生の言葉を結果として「捏造」したかの沖浦氏の
発言に、直接「M]氏を知る「時乃旅人」さんが厳重抗議したわけです。
梅さんとも「やり取り」してましたね。

ですから、「曼荼羅」は「帰命の対境」です・・と言っても、沖浦氏の耳には
届かなかったのです。「手段」は言語道断ですね。

>だとすれば、「曼荼羅は手段」であるか否かを正攻法から論ずるべきなのです。

私は、やり尽くしました、次は梅さんに期待します。


更には このスレッドの >>176 ですね。
生死一大事血脈抄ですね。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3764/1216869448/l50
小野さんは、偏見なく、誠実に、教学対話をされたと思います。
又、過去レスでも、誠実に正確に「偏見」無く「対話」されたと思います。
ややもすると、関西系は「教学上」以前に「過去の行状そのもの」が
許せないというのがスタートらしいです。
その点、小野板では、偏見無く、対話を重ねていたと思います。

56美髯公:2009/11/14(土) 13:05:13
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

247 :もくれん:2008/12/04(木) 13:39:57
>>232  梅さん

>かって「戒壇の大御本尊」が「本門の本尊」であったことと、内実は
>全く同じことです。
>「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候・・」
>本質的には、何も矛盾はありません。

この点が一番の問題なのです!

「内実」という意味をはっきりさせねばなりませんが
内実が全く同じなら、沖浦さんは間違いになる余地があると思います。
逆に内実が違うなら、沖浦さんの言われることを直ちに非難せず、
検証しようという姿勢が必要かと思います。
私は、創価学会が「戒壇の」を外したことは
貴女が内実と言われている以上の、とても重要な意味をもっていると考えます。
でなければ、貴女の言われた「発迹顕本」の意味がありません
(そのくらい重要)
ただし、この問題はネットで軽々しく言うようなことではありませんので
この問題については、ここまでにしたいと思います。
天城さんの沖浦批判が、中途半端な感を免れないのもそのためだろうと
思います。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「戒壇」については、特に資料を持ち出さずとも、正本堂が完成して
それまでの場所から、正本堂へ大御本尊さまを「移動」・・正式な言い方は
今資料が無くて・・御遷座でしたっけ・・
当時の日達上人が、正本堂の完成で「御遷座」により「本門の戒壇」と
認めた・・これでよろしいでしょうか?
又、すぐに、書籍で見つけますが、

「内実」とは、「曼荼羅御本尊」は「御本仏の御生命を図顕したもの」であるから
「戒壇」の言葉が付こうが、付くまいが、「御本仏の御生命」という内実は
同じですという意味です。

現在、最新の「本門の戒壇」の定義は、2008年10月号大白蓮華「報恩抄」講義

南無妙法蓮華経への不信を互いに戒め、大法の弘通と立正安国の実現を誓い合う
和合僧を築くゆく「本門の戒壇」・・とあります。

私は、納得しています。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/1422/1226090096/114

2008年9月29日付けの聖教新聞「秋季彼岸勤行法要での名誉会長のスピーチ」
師弟会館の   「創価学会常住御本尊」
関西の池田記念講堂の「関西常住御本尊」

「法華弘通のはたじるし」1243P

との指導を引かれて、詳しく語られている。
このスピーチから、何を読み取るかは個人差があっても仕方ないが、

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「戒壇の大御本尊」に「対応」すべく、「法華弘通のはたじるし」を
どう、読み取るかは、現時点では、個人差があって当然だと思います。

創価学会の発迹顕本とは、あらゆる点で、本来の仏法の本義に則り
人間主義の日蓮大聖人直結の教団になれた・・という意味で使いました。
それまでは、宗門からの「縛り」が多々あったのは事実ですから。

「御本尊」は「法」そのもの、「大聖人の御生命」そのものですから、
破門によって変質すべき「性質」のものではありません。

むしろ「御本尊」を全く信じていなかったのが、現宗門であり、
まともな御僧侶は「離脱」したわけです。

57美髯公:2009/11/14(土) 13:10:10
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249 :梅:2008/12/04(木) 15:06:22
もくれんさん

>>247
>「内実」とは、「曼荼羅御本尊」は「御本仏の御生命を図顕したもの」で
>あるから「戒壇」の言葉が付こうが、付くまいが、
>「御本仏の御生命」という内実は同じですという意味です。

論点の理解について、お互いの間にズレが見られるようです。

私は「戒壇の大御本尊」は大聖人の「出世の本懐」を顕した「特別の大御本尊」だと
いう伝統的教義の視点からています。
そのことには現在では「内実」に変化があると思います。

それに対し、貴女は「戒壇の大御本尊」とその他の「曼荼羅御本尊」とを
区別しない観点から「内実」は変わらないと言われているようですね。 

ズレがあると申し上げた点はご了解いただけますか?

私の視点に立てば、これは先にも言いましたように、単に「戒壇の」を外したでは
という問題を越えているという表現もご理解いただけると思うのですが・・

しかし、今これを論じるのは置いておきます。
それに、私たちの対話では論点として取り上げる必要もありません。
私がこの問題に触れたのは、教義の「解釈・表現」は、伝統的解釈であっても
時代の変化に応じて変わりうるのだということを言いたいがため過ぎません。
『本門の戒壇』でも、かつては『国立戒壇』だったのです。
そういう事のご理解のために、私の手元にある昭和61年版「仏教哲学大辞典」の
記載を参考資料に出したのでした。
これは、もくれんさんにもご理解していただけたものと思っていました。

さて、沖浦さんを他人がどう評価しているかは、私たちの対話では本質的な
ことではありません。
ですから、私たちの対話を進めるために
私の>>235の本題である本迹の「まとめ」についてレスを下さい。
そこに齟齬があるようでしたら、そのことこそ真摯に対話する内容なのですから・・


251 :梅:2008/12/04(木) 15:16:25
>>249
不具合かどうか、投稿の一部が欠けました。

「伝統的教義の視点から」の後に→「内実」を見

58美髯公:2009/11/14(土) 13:13:11
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252 :もくれん:2008/12/04(木) 16:00:47
>>249  梅さん

>私は「戒壇の大御本尊」は大聖人の「出世の本懐」を顕した
>「特別の大御本尊」だという伝統的教義の視点からています。
>そのことには現在では「内実」に変化があると思います。

そうですね、「特別の御本尊」であって、例の金原氏の本でしょうか
「真偽はいかに」と、仮に「真」であったとしても、つまり公安2年10月12日のですね
今は、他教団に存在するのですから、どうしようもないですね。

でも、他教団にせよ、またいずれかにせよ、弘安2年10月12日に出世の本懐で
ある大御本尊建立・・これは「御書の世界」の先生の言葉ですから、そのとおりに
受け止めます。

これは、沖浦氏の板で、森野さんとも話しましたが、「完成形」という表現を
一度は使い、軽々しく使うのは撤回しました。森野さんも私も同様です。
ただ、出世の本懐の大御本尊以前の、個人的な授与の御本尊が
どのようであれ、御本仏が厳然とおられ、御本仏自ら認めたのですから
何の問題もないですね。

しかし、それまでの個人的に授与されていた曼荼羅に対して
「一閻堤浮総与」という意味は重要だと思います。
一閻堤浮総与がポイントだと思います。
本当は、いわゆる「戒壇様」は人類全体のためのものですね
宗門が「独占」して、大聖人の精神とを違えてしまったのです。
その意味でも、宗門は「邪教」ですね。

「邪義」の定義は、大聖人の御精神に反する・・先生のスピーチより
宗門と一緒だった時は、「戒壇様」といわれる、大御本尊が出世の本懐・・
これは、そのとおりでいいと思います。真偽は別にして・・

御本尊に関しては、日蓮大聖人直結の、つまり、大聖人の御精神のとおりの
実践の団体が「授与の資格」があります。・・・先生のスピーチより
私は全く納得しています。授与とは、いつか梅さんが問題提起していた
「書写」のことも含まれます。
私はこの「仏意仏勅」の教団が、ポイントだと思います。
あまり、御本尊のことを自分で思索するのは、「無意味」とは言いませんが、
迷路に入ると思います。

一番大切なのは「広布への実践」だと思います。
創価学会に在籍しているということは、個人差がありますが、「一応」
組織総体を信頼しているわけです。
更に言えば、師匠を信頼しているわけです。

その「伝統的教義」という点では、ゆるやかな舵取りで、おそらく
大多数の方は、自然に納得しているのだと思います。
何よりも、唯一の仏意仏勅の教団で地涌の菩薩として活躍できることに
喜びと感謝の思いが、大きいと思います。

又書きます


254 :もくれん:2008/12/04(木) 16:17:15
>>231 梅さん

>同感です。
>しかし、貴女がおっしゃる万人に可能な修行って何のことですか?
>実は、ここに「一大秘法」云々のカギがあると私は思います。

「曼荼羅御本尊」と「信」の「自行化他の題目」で「己心の妙法(本尊)」
を事実の上でひらいていける・・これに尽きますよね。

59名無しさん:2009/11/14(土) 13:23:15
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255 :もくれん:2008/12/04(木) 16:33:38
梅さん、これが沖浦さんのレスですね。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

http://jbbs.li沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/12/02(火) 21:06:36 ID:AJ3hr85o0
 あのね、もくれんさんや、他の方々、私が曼荼羅が迹、人が本と言うでしょう。
 そうすると、判で押したように、ご本尊様軽視だ。って、浮かれ騒ぐんですよ。

 馬鹿ですね〜〜、この手合い。
 じゃ、自分たちは人間軽視じゃないですか。
 この単純明快な道理を忘れ果てて浮かれてんです。

 迹が軽視ならね、アンタ方、この世で最も大切な人の命軽視してるんじゃ
 ないですか。
 
 私が19歳の時、近所で火事があったんです。
 創価学会員のお宅で、生まれて一月ほどの赤ちゃんが焼死されました。
 私と幹部が非難場所に激励にいきました。
 すると幹部が、ご本尊様はどうしました?って、聞いたんです。
 ご主人がキット顔を上げられて、子供も出せなかったんです。
 と、返事されました。
 数日後、妙本寺という寺で友人が出家してたので聞きました。

 この場合どっちが優先なんだ?
 すると、人です。って、即答されたのです。
 私は当時、人よりご本尊様が先だと教えらていたんです。
 
 以来、31歳まで、ズ〜〜〜〜〜ット考え続けていました。
 ご本尊様と人間、どっちかしか助けられない時、自分はどうするべきなんだろう?
 現場を見て、悩んだ人間の深刻な葛藤でした。
 31歳で耕治が3歳、と1歳、火事になって、子供見捨ててご本尊様助けて
 本当に正しいのか?
 子供見ながらいつも考えていたんです。
 その時、池田先生の観心の本尊抄のご指導を聞きました。

 『観心とは信心です。
 我が己心の仏界を信じる。
 これが観心です。
 私たち凡夫が信心するためには本尊が要る。
 そのための本尊だよ、本尊のための人間じゃないよ。
 その信心のための本尊を、五の五百歳に始めておいたよ。と、こう読むんです。
 本尊のための人間じゃないよ、人間のための本尊だよ。
 だから大聖人様はありがたいんです。』(趣意)

 その時、長年の疑問がパット解決しました。 

 人を先ず助けよう。

 それから、御書の読み方が変わりました。

 人が迹、曼荼羅本。
 絶対に邪儀ですよ。

 人の命より大切なもの、この世にあるはずないじゃないですか。
 それを、人が本で曼荼羅迹だとご本尊様軽視??
 アンタ方ね、命軽視の大謗法です。

 情けない!!
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

>迹が軽視ならね、アンタ方、この世で最も大切な人の命軽視してるんじゃ
>ないですか

人間が迹・・とは、誰も言っていないのに「カン違い」です。

>私は当時、人よりご本尊様が先だと教えらていたんです。

これは厳密には「カン違い」か「間違い」だと思います。
御本尊を大切にとの指導は当然あるでしょうが、今でもですね
人命と比較した指導は、聞いたこともありませんし、書籍でも見たことは
ありません。

> 私たち凡夫が信心するためには本尊が要る。
> そのための本尊だよ、本尊のための人間じゃないよ。

この記述は、精緻に検証します。

>人が迹、曼荼羅本。

これは、誰も主張してません。念のために。

60美髯公:2009/11/14(土) 13:26:30
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256 :もくれん:2008/12/04(木) 16:40:18
沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/12/02(火) 16:09:46 ID:AJ3hr85o0
 もくれんさん

 邪儀ですね〜〜。
 先生はね、

 御法主上人猊下様に心服随従し。

 何百回も言われてます。
 貴方、サッサと如師に心服随従なさい。

 本当に、機根読めない人ですね〜〜。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ただ、「御書の世界」は、破門後で、まして2003年頃・・・

このレスは、沖浦さんが、破門前であれば、場合によっては「妥協した表現」を
言わなくてはならなかったことと、「カン違い」ですね。

結局、他人のレスの内容を、ほとんど読んでいません。

258 :もくれん:2008/12/04(木) 16:55:39
>>235  梅さん

>さらに、その一念のあり方などから、自他を本迹で言う場合なども出てきます。
>そして、このような応用では、本迹は勝劣・優劣に拘るのではなく
>むしろ、「本」とされた対象を大切にするという視点が重要視されます。
>そして、そのための「迹」となりますから「手段」という表現もなされます。

以前、沖浦さんが、沖浦さん自身と友人の例で使っていた >>196 と
同様と理解していいですか?

私は伝統的教学に則るべきと、思いますので、
明確に「間違い」と申し上げます。

私の「本・迹」
友人の「本・迹」
これは、そのとおりですね。

しかし、私と友人を「本迹」関係で、表現しなくても、普通に素直に
「友の幸せを祈り、共に行動し・・・」でいいと思います。


259 :もくれん:2008/12/04(木) 17:13:50
>>235  梅さん

>曼荼羅は手段

確かに「曼荼羅」は、衆生の仏界の生命涌現に、「使われます」「活用されます」
タンスにしまっておいたら、意味ないですね。
本来の目的を、果たしませんと・・

そういう意味では、「衆生自身の己心の本尊」を「ひらく」のが、人間にとって、
真の「目的」ですから、絶対に「間違い」とは、言い切れませんが。が、が、
そもそも「手段」という言葉は、曼荼羅御本尊に対しては
「きわどい」「あやうい」表現であることは、間違いありません。
★ 内実から言えば、完全に「間違い」です。
★ どこまでも「帰命の対境」ですから。

普通の学会員が「手段」という「表現」をしますか?
これは、驚きますよ。

やはり、日顕宗の「信徒支配のための御本尊利用」の、トラウマが
大いに影響があるのだと思います。
「利用」とは、自身の目的のために他者を「手段」とすることですからね、
「利用された」と、恨みをこめて、言うのを聞くことはありますね。

氏なりに、法華講のひとたちとの「たたかい」の結果ですが・・
それについては、興味深い記事がありますので、次のレスで
夜以降になりますが、紹介します。

61美髯公:2009/11/14(土) 13:30:26
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

260 :梅:2008/12/04(木) 17:21:37
もくれんさん

>>252
>「真偽はいかに」
・・・・・・・・・・
>でも、他教団にせよ、またいずれかにせよ、弘安2年10月12日に出世の本懐で
>ある大御本尊建立・・これは「御書の世界」の先生の言葉ですから、
>そのとおりに受け止めます

もくれんさん、これは貴女の把握している金原本の「内容」が違うのです!
貴女はひできさんからの簡単な情報を受けただけですね。
金原本は「偽造」云々を通して論じるような、そのような視点で
書かれていないのですよ。
私は大御本尊に関することを、軽々しくネットでは書かないと前に申し上げました。
ですから、これ以上は金原本にも触れません!
しかし、あなたの把握している内容は、全く間違っています。

こんなことよりも
本迹の「まとめ」についてレスを下さいな。


261 :梅:2008/12/04(木) 17:25:53
もくれんさん

>>260
>258、>259の書き込みを知る前に書いた投稿です。


262 :梅:2008/12/04(木) 17:57:05
もくれんさん

>>235の冒頭部分を再掲します
分かり安くする為に①②・・と行頭に数字を加えます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
①>>そうですか。
②>>では、まとめてみましょう。

③>>釈迦の法華経を本門迹門に分け本迹相対で、明確に勝劣を判定しました。
④>>しかし、日蓮独一本門により釈迦の法華経は全て迹門になりました。
⑤>>これが、本迹の基本的な用法です。

⑥>>その応用例として、本迹の言葉が様々な場面で使われます。
⑦>>たとえば、本=本当の姿、迹=仮の姿という表現自体が応用になりますが
⑧>>そこから、現象として外的に認知できる場面だけでなく
⑨>>「一念」という内面に踏み込んだ使い方もなされました。

⑩>>さらに、その一念のあり方などから、自他を本迹で言う場合なども
 >>出てきます。
⑪>>そして、このような応用では、本迹は勝劣・優劣に拘るのではなく
⑫>>むしろ、「本」とされた対象を大切にするという視点が重要視されます。
⑬>>そして、そのための「迹」となりますから「手段」という表現もなされます。

⑭>>以上です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

貴女は⑩以降の文にレスされていますが
A:それ以前の⑨まではこの対話の了解事項でよろしいですか?

「曼荼羅は手段」は『まとめ』では触れていませんよ。
⑬は迹が手段という表現で使われる場合もあることを指摘しています。
それが「法華経の智慧」第5巻173頁にあることは指摘済みです。

B:⑬について了解事項になりますか?

以上A.Bについてのレスをお願いします。


263 :梅:2008/12/04(木) 18:06:44
>>262
訂正

分かり安く→分かり易く

「安易」って書くのにねぇ〜
「容易」とは違う、考えるとちょっと面白い!

62美髯公:2009/11/17(火) 13:10:26
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

264 :もくれん:2008/12/05(金) 11:13:46
>>262 梅さん

⑨までの、返答です

③>>釈迦の法華経を本門迹門に分け本迹相対で、明確に勝劣を判定しました。
はい、そうです。

④>>しかし、日蓮独一本門により釈迦の法華経は全て迹門になりました。
はい、そうです。

⑤>>これが、本迹の基本的な用法です。

はい、そうです、念のために、本地と垂迹も入れておきます。

⑥>>その応用例として、本迹の言葉が様々な場面で使われます。

はい、そうです。ただし、「応用例」というより、基本概念に則り
様々な事象への「適用」と、念のために付け加えておきます

⑦>>たとえば、本=本当の姿、迹=仮の姿という表現自体が応用になりますが

はい、ちなみに、仏教哲学大辞典では、「仮」は記述はありませんが、
法華経の智慧では使用しています、ので、返答は、イエスです。
「仮」は応用というより、「迹」「跡」だけが仏教哲学大辞典に
記載されていますが、先生たちが、「法華経の智慧」で、
実際に使用しているので、「迹」「跡」に準ずるもので、
基本的概念に含んでいいと思います。

⑧>>そこから、現象として外的に認知できる場面だけでなく
⑨>>「一念」という内面に踏み込んだ使い方もなされました。

はい、ちなみに、先生は「臆病な心」を「迹」と表現されています。

というか「一念」の反映が「具体的行動・事象」に表出するので
ありますから、「一念・こころ」と「行動・ふるまい・現象・事象」は
根底で不二の関係ですので、「現象・行動・事象・ふるまい」等の表現だけでも
「一念・こころ」等の「内面的な」ものを含んでいると思います。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
簡単ですが、⑨まで、答えました。


265 :もくれん:2008/12/05(金) 11:26:37
>>264の続き

>「曼荼羅は手段」は『まとめ』では触れていませんよ。

フライングであったかもしれません。

>⑬は迹が手段という表現で使われる場合もあることを指摘しています。
>それが「法華経の智慧」第5巻173頁にあることは指摘済みです。

>B:⑬について了解事項になりますか?

記述されている、通りに理解していますが、「手段」という言葉を
一人歩きさせては、いけないと思います。
法華経の智慧 第5巻173pの、ケースの場合は、その通りと理解しています。

63美髯公:2009/11/17(火) 13:14:22
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

266 :もくれん:2008/12/05(金) 12:05:45
もくれん:2008/12/05(金) 12:03:55 ID:gO.Fk5NY0
>>202  沖浦さん

今、粛坊さんの掲示板で、梅さんと、沖浦さんご主張の論「衆生己心の
妙法が本・曼荼羅が迹」についての「意見交換対話」をしています。
そろそろ、終盤になります。
梅さんとの「対話」が終了すれば、掲示板への書き込みは一切終了します。
その後は、自分のブログを作る予定です。

本日の沖浦さん宛のレスは、事実上、最後のレスになります。
長くなりますので、2回くらいに分けます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>あのね、もくれんさんや、他の方々、私が曼荼羅が迹、人が本と言うでしょう。
>そうすると、判で押したように、ご本尊様軽視だ。って、浮かれ騒ぐんですよ。

> 馬鹿ですね〜〜、この手合い。
> じゃ、自分たちは人間軽視じゃないですか。
> この単純明快な道理を忘れ果てて浮かれてんです。

> 迹が軽視ならね、アンタ方、この世で最も大切な人の

>命軽視してるんじゃないですか

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

最初に、日々朗らか(決意)さんのことを話します。

沖浦さん自身が、ご存知のように、大多数の会員から、「沖浦説、つまり
衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」は「間違い」である「邪義」であるとの
指摘を受けています。

しかし、日々さんは頑として「沖浦さんは間違えていない」と主張しています。

例えていえば、日々さんが息子、沖浦さんが父親
息子が学校で「お前の父ちゃん、おかしなことを言っている、アホだ」
と、毎日のように、いじめにあい、いたぶられても、それでも
「俺の父ちゃんは何ひとつ間違えていない!!!」と、健気に反論をします。

そして、梅さんは
「伝統的教学上の表現では、間違えているが、それでも、沖浦さんの「真意」を
信じたい・・との思いで、私との対話を続けています。

★ 今回のレスの目的は、日々さんや、梅さんの「沖浦さんを信じたい」
 との「思い」を踏みにじらないで、裏切らないで、との「お願い」の
 レスです。

・・・・御本尊さまを軽視していないのであれば・・
常識的な表現方法で、充分、可能です。
以下、先生の講義から、引用します。

▼ 自分が幸福になるための御本尊です
▼ 万人を幸福にするための御本尊です
                    いずれも「御書の世界」から

まだ続きます

64美髯公:2009/11/17(火) 13:16:31
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

267 :もくれん:2008/12/05(金) 12:40:18
:もくれん:2008/12/05(金) 12:38:23 ID:gO.Fk5NY0
>>208 の 続き

火事の際の、池田先生の指導を読んだ記憶があります。記憶ですが
内容的には正確に覚えています。

▼ 御本尊様は、又いただけるのであるから、御本尊様を持ち出そうとして
 自分の命を落とすようなことがあっては、いけない・・
 実際に、命を落とした方の例があっての、ご指導だったと記憶しています。

ただし、私は個人的には、我が家に、あっては、「絶対に火災は出さない」
との決意で日々祈っております。

現実問題として、同志の方の家屋が「スワ!、火事だ」ということで、駆けつけ
当然、その同志の方の救出を最優先しますが、その前に専門家である「消防隊」
が、その方を救出中であれば、防火服を着ている、専門家に依頼して
仏間の御本尊の「持ち出し」を依頼するかもしれないです。

素人が防火服なしで、火災のど真ん中へ飛び込むのは、危険です。

ただ、火災の例での比較は、現実面での「対応」の話です。

大多数の皆さんが、指摘しているのは、日蓮仏法の根幹の教義上のことです。

沖浦さんが、理解している「本迹」の使い方は、一旦、封印して、
先生の著書では、沖浦さんが「言いたいこと」を適切に表現していますので
それらの表現を使用すれば、何の問題も発生せず、
日々さんの「沖浦さんは、間違っていない!!」との「証明」になります。

以下、御書の世界より
▼ 全民衆を救済するためには、どうしても、人間自身の胸中にある本尊を
 涌現させていく以外にない。
 全人類が平等に胸中の本尊を涌現することができ、万人にその可能性が
 与えられる。
 「観心本尊」は、偉大なる本尊革命であり、人間の可能性を最大に尊重し
 現実に変革を可能にする「人間のための宗教」の精髄です。

ここだけでも、かねてから、沖浦さんが主張している「人間のための宗教」
が、しっかり表現されています。
曼荼羅が迹、などの表現を使用しなくても「人間のための宗教」は
表現できます。

とりあえず、ここまでで・・

65美髯公:2009/11/17(火) 13:23:51
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

268 :梅:2008/12/05(金) 14:00:33
もくれんさん

>>266
>そして、梅さんは
>「伝統的教学上の表現では、間違えているが、それでも、沖浦さんの「真意」を
>信じたい・・との思いで、私との対話を続けています。

私は沖浦さんの「真意」を信じたいから、貴女と対話してるわけではないですよ。
大変誤解を生む言葉です。

>>157
>>本迹の使い方が違うのではないかというご指摘は、確かに伝統的な教学では
>>違うかもしれないですね。
>>このことは、沖浦板の「三大秘法について考えませんかⅠ」No838での
>>私の投稿の中で投稿者の多くに見て取れる本迹の混乱について
>>触れるコメントをしました。

>>しかし、原則的な本迹の理解ではなく使われてる用例もありはしませんか?
>>たとえば、「眠っている時は迹・起きている時は本」のような場合です。
>>私は、この用例があまりよく理解できないのです。
>>貴女は、どう思われますか?

>>もし、この用例が従来の本迹の用例として合理的説明ができるなら
>>そこで改めて沖浦さんの本迹の使い方を考察したいと思います。

私は、このように申し上げていて、「沖浦さんが間違っている」などとは
一言も言っていないですよ。
本迹の検討が済んだら、沖浦さんの本迹を考察しましょう提案しています。
明白な誤りですから、沖浦版にもご訂正願います。

また
>今、粛坊さんの掲示板で、梅さんと、沖浦さんご主張の論「衆生己心の
>妙法が本・曼荼羅が迹」についての「意見交換対話」をしています。
>そろそろ、終盤になります。

まだ、本迹の確認段階ですね。つまり、序論までも終わっていません。
沖浦さんの主張については、本格的には手をつけていない段階です。
したがって、「終盤」はまだまだずっと先のように思いますよ。


269 :梅:2008/12/05(金) 18:16:47
もくれんさん

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
③>>釈迦の法華経を本門迹門に分け本迹相対で、明確に勝劣を判定しました。
④>>しかし、日蓮独一本門により釈迦の法華経は全て迹門になりました。
⑤>>これが、本迹の基本的な用法です。
⑥>>その応用例として、本迹の言葉が様々な場面で使われます。
⑦>>たとえば、本=本当の姿、迹=仮の姿という表現自体が応用になりますが
⑧>>そこから、現象として外的に認知できる場面だけでなく
⑨>>「一念」という内面に踏み込んだ使い方もなされました。
⑩>>さらに、その一念のあり方などから、自他を本迹で言う場合なども
 >>出てきます。
⑪>>そして、このような応用では、本迹は勝劣・優劣に拘るのではなく
⑫>>むしろ、「本」とされた対象を大切にするという視点が重要視されます。
⑬>>そして、そのための「迹」となりますから「手段」という表現も
 >>なされます。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の>>262に対する、貴女の>>258.>>264.>>265の投稿を整理すると
⑩⑪⑫以外は本迹の『基本概念の適用』(←貴女が言われたことです)
があり、貴女と私の「合意が見出せた」と了解してよろしいですね?
私はこれを『適用』といおう『応用』といおうと大差ないだろうと
考えますますので貴女の同意があれば次に進みたいと思いますが
いかがでしょうか?

66美髯公:2009/11/17(火) 13:28:43
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270 :梅:2008/12/05(金) 19:41:59
もくれんさん

>>225
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★「体」は必ずしも「同一」とは限らないが、無関係な「体」どうしでは
★本迹は発生しない。

この2行については、納得していますよ、現時点では、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記のあなたの発言について確認します。
ここで、取り上げている「同一の体に限らない」は
「自他」を論じる前提でしたね。

この点について、貴女の>>258の投稿では、撤回しているようにも読めます。
明確にしたいと思いますので、レスをお願いします。


272 :もくれん:2008/12/05(金) 22:55:19
>>269  梅さん

>貴女の同意があれば次に進みたいと思いますがいかがでしょうか?

了解です。


273 :もくれん:2008/12/05(金) 23:42:24
>>270  梅さん
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★「体」は必ずしも「同一」とは限らないが、無関係な「体」どうしでは
★本迹は発生しない。

この2行については、納得していますよ、現時点では

>この点について、貴女の>>258の投稿では、撤回しているようにも読めます。
>明確にしたいと思いますので、レスをお願いします。

「法華経の智慧」第5巻216ページに
>親から一千万円うけついだとして、一千万円それ自体を「本」
>その「証文書」を「迹」だとしています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

実はね、法華経の智慧の引用でしたし、錯覚もあったかな・・
一千万円・・・本
証文書・・・・迹

と、これだけ見れば、「札束」と「書類」ですから、
「関連性のある別の体」ですね。
だから、★印のように「そんな気がした」のは確かです。

しかし、後から、又考えました。
まずは、原点に戻り、・・・・万物に就いて本迹を分け、勝劣を
弁ずべきなり・・
「まずは分ける」

一千万円と証文書は「分けた結果の別の体」です
それと、「あなた」と「私」のように、最初から「別の体」とは異なります。

あの時は、頭が混乱していました。
撤回というより、あの時は、正しく把握できなかったのです。

でも、結果として「撤回」ですね。

>「自他」を論じる前提でしたね。

そうだったのですが、梅さんが引用したのは「結果としての本迹」の例を
別の体として、提示しましたね。私も頭が混乱していて、正しい判断が
できなかったのは確かです。

そのまま「適用」すれば結果としての「自・他」別の体です

単純にあてはめれば

       本           迹
     一千万円        証文書
     人間・A        人間・B

このように、なりますから、単なる「当てはめ」であればそうですが、
でも、AとBを、どのように、本迹に振り分けるのかも疑問ですし
あの時は、そこまで思考できませんでした。

ごめんなさい「錯覚」しました。「トリック」ですよ。

原点に戻り、「分けた結果」その差は「水火天地偉目」と、大変な勝劣が
あるのですから、人間同士が結果として「本迹」関係は理論的にも
ありえないし、「分ける」時点で、どのように「分けたのか」が
問題ですし、

そういうわけで、「撤回」です。ごめんなさい。

67美髯公:2009/11/18(水) 12:55:05
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323 :梅:2008/12/06(土) 18:21:41
もくれんさん

【閑話休題】

沖浦さんの火事についての話は、現実の話を踏まえた教義についての
問いかけです。

>>267
>現実問題として、同志の方の家屋が「スワ!、火事だ」ということで、駆けつけ
>当然、その同志の方の救出を最優先しますが、その前に専門家である「消防隊」
>が、その方を救出中であれば、防火服を着ている、専門家に依頼して
>仏間の御本尊の「持ち出し」を依頼するかもしれないです。

貴女は『現実問題として』と言われながら、非現実的な話をしておられますよ。
もし、消防士にかような依頼をしたら、『火を消すのが先でしょう!!』と
言われるのがオチです。
場合によっては、『なんと非常識なのか』と思われかねませんね。

ふつうに人の心があれば、幼子を亡くした親に同苦するでしょう。
そのときに、真っ先に御本尊云々するならば、「教義」に
毒されているのではないか?

沖浦さんが火事の例で言いたかったことは、そういうことだと思いますよ。
人間主義の仏法ですから、教義もそのように解釈されるべきです。

>大多数の皆さんが、指摘しているのは、日蓮仏法の根幹の教義上のことです。

『大多数の皆さん』を言うべきではありませんよ。
そもそも、『大多数』を検証できないのですから。
ネットでは批判者が多いことを言っているなら論外ですね。
そんなことで、正邪を判定できるものではありません。


324 :梅:2008/12/06(土) 18:58:46
もくれんさん

>>317
>梅さんとは、今までどおり、前回の続きから「対話」を続行しますので
>お願いします。

感情的な沖浦批判を慎まれることが前提です。
それをやったら、他の批判者と何ら変わりませんし、
私が対話する意味を失います。

>ただ、今回の移動したレスは、心血注いで、取り組んできたものです。
>他人のものも、若干ありますが。

そうでしょうね。
しかし、こんなフウにされると、対話の過去レスを探すのが大変になります。
私は、どこでどのように書いたかを点検しながら投稿を書いています。

>梅さんが、言っていた、沖浦さんが、「何を言いたいのか」・・それも含めて
>私の対話の記録です。

貴女のPCに保存しておけば済むことかと・・
貴女のしておられることが理解できません。
仮に私の知りたいことが書かれていたとしても
こんな膨大な量を読む気にはなれませんです^^;

68美髯公:2009/11/18(水) 12:57:01
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326 :もくれん:2008/12/06(土) 22:47:49
梅さん、一日で状況が一変しました。

まさに、私が最後の「望みを託して」沖浦さんの板に書き込みしたことでです。

そして、梅さん、    >>321
>そう言うことなら、私に関する話題を慎みなさい。
> 私の話題を出しながら、本人を締め出すことは出来ませんよ。
> これは常識です。

これは、一般論として誰でも、そうですね。
現場でもそうですし、自分のいない場所で、「ネガティブ」な話題を
出されて嬉しい人はいません。

ですから、一般論としての「人本仏迹」論の「正邪」の検討・・
でしたら、可能ですね。

ただ、検討する以前に「一目」で邪であるのは、普通の水準の学会員で
あれば、常識の範疇です。

むしろ、ある程度、沖浦さんと親しくしてきた経緯があると、純粋な
教学的な判断の目が、曇ると思います。

一度は親しく、ネット上とはいえ、会話をした梅さんです。
謗法与同罪から梅さんを、フリーにして差し上げたかったというのが
本心で、それ以外の気持ちはありません。

この己義の「謗法」の程度は甚大と私は思います。

あとは、沖浦さんの「己義」を、日連仏法の根幹から、どのように
評価するのかは、梅さん自身の判断にお任せしたいと思います。
その上で、私に何か手伝えることがあれば、喜んでお手伝いさせて
いただきます。

69美髯公:2009/11/18(水) 12:58:48
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327 :梅:2008/12/06(土) 23:21:58
もくれんさん

仏の出世(出現)の目的は何だとお考えですか?
(「出世の本懐」のことではありませんよ、念のため)

それがお分かりになれば、「人本仏迹」論は間違いではないのです。
ただ、「本迹」でいうから、伝統的な基本的使い方しか分からない人には
理解し難いだけですね。
ですから、私は貴女との対話で、本迹論から入ったのです。
そして、貴女は本迹の使い方への理解をだいぶ深められました。
そうではありませんか?

>ただ、検討する以前に「一目」で邪であるのは、普通の水準の学会員で
>あれば、常識の範疇です。

最初からこのような目線でいては、検証する姿勢に欠けるのです。
『普通の水準』とは何ですか?
『常識』とは何ですか?
これがいかにいい加減な表現であるかは、「仏教大辞典」の記述で
指摘したではありませんか。
「折伏経典」ではもっとすごいですよ。
解釈は時代背景とか、各国地域の歴史風土その他の事情いう要素でも
変わるのです。
今日の沖浦説の邪が明日は正になるかもしれないのです。
謙虚に考察・検討する姿勢が必要とされるのはそのためです。

70美髯公:2009/11/18(水) 13:02:32
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328 :もくれん:2008/12/07(日) 00:04:44
>>327  梅さん

>仏の出世(出現)の目的は何だとお考えですか?
>(「出世の本懐」のことではありませんよ、念のため)

>それがお分かりになれば、「人本仏迹」論は間違いではないのです

沖浦さんが、かねてから、「人間のための宗教」と主張しているのは
知っています。
それもあるから、以下のレスをしたのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9645/1217511921/209

以下、御書の世界より
▼ 全民衆を救済するためには、どうしても、人間自身の胸中にある本尊を
 涌現させていく以外にない。
 全人類が平等に胸中の本尊を涌現することができ、万人にその可能性が
 与えられる。
 「観心本尊」は、偉大なる本尊革命であり、人間の可能性を最大に尊重し
 現実に変革を可能にする「人間のための宗教」の精髄です。

ここだけでも、かねてから、沖浦さんが主張している「人間のための宗教」が、
しっかり表現されています。
曼荼羅が迹、などの表現を使用しなくても「人間のための宗教」は
表現できます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ですから、「人間のための宗教」を、表現するのは、上記の、池田先生の
表現で充分ですね。

>今日の沖浦説の邪が明日は正になるかもしれないのです。

これについては、その「根拠」を、まず、梅さんが示して下さらないと
対応できません。


330 :もくれん:2008/12/07(日) 10:29:28
梅さん、一応、下記に、目を通して見てください
そして、ご感想をお願いします。

 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/1422/1226090096/298

71美髯公:2009/11/18(水) 13:05:54
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

332 :梅:2008/12/07(日) 13:21:47
もくれんさん・やまいぬさん

>>今日の沖浦説の邪が明日は正になるかもしれないのです。

沖浦批判が正等な評価かどうかを問うて言うために
今日・明日の対比で表現しています。
この程度の比喩は読み取れるお方と思いましたが・・

沖浦さんの解釈が、人間主義で貫かれているということについて
お二人はご了解しておられると思います。
でしたら、次に出てくるのは、その表現が適当であるか否かだけでは
ありませんか?
私はそのためにもくれんさんとの対話を本迹論から始めたのです。

批判者がよくする悪口暴言は、その後でもやれることでしょう。
私はそんな悪口等はネットでする必要ないと思いますが・・
お二人がするのはご自由です。

なお、やまいぬさんへのレスは、ココではこれが最後です。
貴方だけではなく、龍破さんにも同じ対応をさせていただいてます。


333 :梅:2008/12/07(日) 13:44:56
もくれんさん

>>326
>この己義の「謗法」の程度は甚大と私は思います。

そうですか?
それは貴女御自身の評価ですから私には分かりません。

何が「己義」でそうでないかは難しいものがありますね。
たとえば、貴女は

>>163
>曼荼羅御本尊の「本・迹」は、ありますよ。

とおっしゃってます。
そして、次のレス>>165では

>これは、誤解されやすいので、いの一番に「正確」に書いておかないと・・・

と「御書の世界」を引かれていますが、何ら説明になっていません。
それで、これはどういうことなのかと、私はその書物で該当箇所を
直接あたってみましたが曼荼羅御本尊に「本・迹」があるという記述は
見つかりませんでした。

これは本迹論でも最重要な論点でしょうね(私は考えもしていなかったことです)
しかし、もくれんさんのおっしゃることですから、私が見逃しているのかも
知れません。
それが書かれている箇所をご指摘願います。
また、万が一それが貴女の「解釈」であったとしても、
もう一度わかりやすくご説明願います。


334 :梅:2008/12/07(日) 14:11:06
もくれんさん

>>330
>梅さん、一応、下記に、目を通して見てください
>そして、ご感想をお願いします

今までの沖浦さんのご主張を簡潔にまとめられたものと思います。

72美髯公:2009/11/18(水) 13:08:04
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

335 :もくれん:2008/12/07(日) 15:00:34
>>333 梅さん

私は単行本は持っていないので、大白蓮華 2003年1月号 御書の世界 

第13回 22P〜23P です。

▼「本・迹」に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が「本」で
▼   虚空会は「迹」です。
▼ 「迹」をもって、「本」を顕すのです。
 
>曼荼羅御本尊に「本・迹」があるという記述は見つかりませんでした。

本迹に立て分ければ・・に訂正します

▼印では、不十分ですか。これ以上は私自身には説明できません。
書いてあるとおりにしか、わかりません。
当然、その前から読んでいただいての、本迹の▼印ですが、


336 :もくれん:2008/12/07(日) 15:18:10
>>334  梅さん

 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/1422/1226090096/298

>三大秘法とは私共凡夫の姿その物ですよ

これについては、いかがですか?

ちなみに、学会出版物としては、最新といってもいいですね、
2008年10月号 大白蓮華 58P 「報恩抄」講義で、先生が
三大秘法について、書いて下さっていますので、ご参照ください。

73美髯公:2009/11/18(水) 13:09:53
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

337 :梅:2008/12/07(日) 15:23:22
もくれんさん

>>335
>本迹に立て分ければ・・に訂正します

『曼荼羅御本尊の「本・迹」は、ありますよ。』→『曼荼羅御本尊を
「本迹に立て分けれ」』にしても、意味は変わらないと思いますが・・

私が質問しているのは、次のA・Bです。

A:ここでは、曼荼羅御本尊が本とか迹とかに触れているのですか?
B:曼荼羅御本尊を本迹で貴女がおっしゃってるのですか?

>▼印では、不十分ですか。これ以上は私自身には説明できません。

貴女はご理解されているからこそ、『誤解されやすいので』と
書かれたのではありませんか?
ただ文章を引かれるのではなく、貴女御自身の理解されていることを
ご説明下さい。

74美髯公:2009/11/18(水) 13:12:47
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338 :もくれん:2008/12/07(日) 16:03:11
>>337 梅さん

>A:ここでは、曼荼羅御本尊が本とか迹とかに触れているのですか?

曼荼羅御本尊を「本」と「迹」に立て分けているのです。

>貴女はご理解されているからこそ、『誤解されやすいので』と
>書かれたのではありませんか?

この箇所を読んだ時は、「ハッ」としましたよ。
大白蓮華が発行された直後に読んだ時は、気付かなかったです。
今回の「本迹」論議で、更にしっかり読んで、気付いたのが実情です。
私にとっても、新鮮な驚きでしたから、慎重に扱ったということです。
この件は「やまいぬ」さんなどは

 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/1422/1225415423/357

スラスラ、理解できていて、スラスラ、書いていますが、

私にとっても、「慎重」に扱わざるを得ないほど、「新鮮な驚き」でした。
それが、「誤解されやすいので」となりました、
ことは、御本尊様のことですから。

「本迹」関連が頭にあって、先生の著書を読んでいて昨日こんな表現が
ありました。
国家総体では、国民が「本」国家が「迹」・・・必要なら、きちんと書きますし
出典も明らかにして・・

万物に就いて「本迹を立て分ける」注意深く読んでいると、結構、先生の著書に
ありますね。

>B:曼荼羅御本尊を本迹で貴女がおっしゃってるのですか?

先生の言葉です、▼印は

でも、更によく読んで、自分の言葉で正確さは失わずに書けるように
準備します。しばし、お待ち下さい。

75美髯公:2009/11/18(水) 13:17:43
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339 :梅:2008/12/07(日) 16:34:39
もくれんさん

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>337
A:ここでは、曼荼羅御本尊が本とか迹とかに触れているのですか?
B:曼荼羅御本尊を本迹で貴女がおっしゃってるのですか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>>338
>曼荼羅御本尊を「本」と「迹」に立て分けているのです。

貴女はAだといってるわけですね。
では

曼荼羅御本尊の「本」とはなんですか?
曼荼羅御本尊の「迹」とはなんですか?

Aをとられているのですから、貴女御自身の言葉でなくてけっこうです。

340 :ume:2008/12/07(日) 16:54:48
「本迹」関連が頭にあって、先生の著書を読んでいて昨日こんな表現が
ありました。
国家総体では、国民が「本」国家が「迹」・・・必要なら、きちんと書きますし
出典も明らかにして・・

>>214 のタンポポさんの「本・迹」観は「メチャクチャ」であるのは
言うまでもありません。

341 :梅:2008/12/07(日) 17:09:40
>>340は投稿原稿未整理のうちに投稿されてしまいました。


343 :梅:2008/12/07(日) 17:44:28
もくれんさん

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>214 のタンポポさんの「本・迹」観は「メチャクチャ」であるのは
言うまでもありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記は、沖浦版「本迹に関して対話する」のNO273で貴女が
投稿されたものです。
しかし

>>338
>「本迹」関連が頭にあって、先生の著書を読んでいて昨日こんな表現が
>ありました。
>国家総体では、国民が「本」国家が「迹」・・・必要なら、きちんと書きますし
>出典も明らかにして・・

を理解されているなら、タンポポさんような本迹の使い方・表現も
お分かりになるはずです。

沖浦さんの使われてる本迹も、そのような理解の姿勢が
必要なのではないかと思います。
「理解即正しい」と申しているのではありません。
そのような思考がなされないと
単なる非難になってしまうのではないか、そういうことを恐れて言うのです。

76美髯公:2009/11/19(木) 12:43:57
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

352 :もくれん:2008/12/08(月) 11:14:49
>>343  梅さん

>>338
>「本迹」関連が頭にあって、先生の著書を読んでいて昨日こんな表現が
>ありました。
>国家総体では、国民が「本」国家が「迹」・・・必要なら、きちんと書きますし
>出典も明らかにして・・

を理解されているなら、タンポポさんような本迹の使い方・表現も
お分かりになるはずです

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
国民が「本」国家が「迹」について、正確に書きます。
タンポポさんのことも、順次書きます。

出典・・平成7年8月8日 日本・ブラジル合同研修会 創価のルネサンス 88 と、

池田大作全集 86


長野県出身の言論人、竹内・好氏の話から始まり・・
先生の「日中国交回復提言」・・竹内氏が先生の「提言」を読んだことを
ふまえて、氏の著書からのスピーチです。

▼印が先生のスピーチです。

▼「国家が目的、人間は手段」の転倒から戦争が
▼さて、きようは、ここからが本題である。竹内氏は、その一文「光は
▼あったのだ」の中で同義の問題に続いて、こう論じておられる。
▼「感銘した第2点は、国交回復の問題を、国家レベルでなしに、民族レベルで、
▼または民衆レベルで考えている点である。

▼あくまで人が基本である。人と人、民衆と民衆とが手を握るのが、
▼講和なり国交回復なりの内容でなくてはならない。
▼この点でも日本の歴代政府の考え方は、池田氏の指摘されるとおり、
▼まちがっている。
▼人、そして人の集合体としての民族、これが本体であって、
▼国家はその生存のための手段にすぎない。
▼国家を本位にして、国家を目的化すると、方針を誤る。
▼過去の侵略戦争がそのよい教訓だった。いま、侵略戦争の非を非とするためには
▼国家本位からの脱却がどうしても必要である。民族を本位とすること、
▼この基本姿勢は中国問題を解決するに当たって欠くことができない。

▼要するに、民衆の幸福が目的である。国家は手段である。
▼民衆が「本(本体)」である。国家は「迹(影)」である。
▼民衆が主人である。権力は使用人である。

いったん送信します。

77美髯公:2009/11/19(木) 12:49:25
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

353 :もくれん:2008/12/08(月) 12:04:53
>>352の続き  梅さん

先生のスピーチには「国家主義」に関するものは、たくさんあります。
あの戦争も「国家主義」により、牧口先生・戸田先生の入獄も「国家主義」により
このへんは、説明は不要ですね。法華経の智慧にも、詳しく書かれている箇所も
ありましたね。

民衆が「本」国家は「迹」・・このとおりですね。

次に権力者に関して、スピーチから見つけました。

平成7年10月8日 滋賀県最高協議会 創価のルネサンス89.池田大作全集・86

▼群雄が割拠した中国の戦国時代(前453年から前221年)
▼そのなかにあって、栄えゆく国、勝ちゆく時代には、やはり指導者に、
▼それなりの哲学があり、人格があった。
▼当時、戦国七雄として栄えていた国の一つに趙の国がある。
▼この国では、国王の母の太后の存在が大きかった。

▼彼女のもとに、新しく王位に就いた隣国の斉の国の国王(王建)が、
▼あいさつの使者を送った。
▼使いの手紙を開く前に、太后は使者にたずねた。
▼まず、「天候や作物の実りに変わりはありませんか」ついで
▼「人民にも変わりはありませんか」そして最後に「王様にも
▼変わりはありませんか」と使者は、この質問の仕方は無礼だと思った。

▼「なぜ、王のことよりも先に、天候や作物の実りや、人民のことを
▼たずねるのですか」、太后は切り返した。
▼「天候が不順で作物の実りが悪ければ、人民は安穏ではありません。
▼そして、人民が安穏でなければ、国王も安泰ではない。
▼「本」である民衆のことをさしおいて「末」である王のことを問うのは、
▼間違ってはいませんか」(戦国策・斉藤第4から)

▼民衆が「本」、権力者が「末」である。
▼その「末」である権力者が「本」である民衆をいじめる。困らせる。
▼それこそ「本末転倒」の社会である。そこには、もはや衰亡しかない。
▼大聖人は、「王は民を親とし」御書1554P・・王は民を親のように
▼大切にし・・と仰せである。このお言葉を、よくよく拝さなくてはならない。

・・少し飛ばして・・・・・・・

▼偉い指導者とは、どういう人か。それは、真摯に生きゆく民衆を、
▼心から尊敬できる人、民衆に敬虔に礼を尽くし、仕えていく人である。
▼本物の指導者かどうかの基準はここにある。
▼民衆が「権力者は偉い」と盲目的に従い、卑屈に頭をさげているようでは
▼進歩の未来はない。民衆が、いかなる権威にも、堂々と胸を張り、毅然と
▼頭をあげていく・・そうした真の民主の国土を築いてまいりたい。

続く

78美髯公:2009/11/19(木) 13:00:01
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

354 :もくれん:2008/12/08(月) 12:31:31

 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9645/1226278322/214
214 :タンポポ:2008/11/25(火) 23:43:25 ID:WwDrUF2wO
今日帰りしな国会議事堂を見ていてちょっぴりわかった事。
国会議事堂へ選挙で上がれた国会議員は迹。市町村議員や市町村長も迹。
国民が本。国民のために働ける国会議員や市町村長や市町村議員は本。
国会のためや市町村長利益のために動く国会議員や市町村長や官僚らは迹。
国民のために働けている国会議事堂議会が本。
市町村民のために働けてる市町村議会が本。と悟り理解できました。
国会議事堂議会議員や市町村長や市町村議会議員は本として
国民の幸せのために一生懸命本分を尽くして欲しいと願います。チョイ悟りまで。
宗教の中でも同じですね。民衆のため人間のための宗教であることが本だね。
宗教のために人間では迹だね。

一旦送信します 書き込み画面では見づらいので、

355 :もくれん:2008/12/08(月) 13:39:39
>>354の続き 梅さん

タンポポさんの文章を確認します。

>国会議員は迹。市町村議員や市町村長も迹。国民が本

国民が本は、そのとおりです。
しかし、議員・首長は、「権力者」です。勿論、権力を民のために良き方向に
行使する方もいますが、やはり、先ほどの先生のスピーチにあるとおり、

民衆が「本」、権力者が「末」・・

>国民のために働ける国会議員や市町村長や市町村議員は本。

議員・首長・それぞれが、民のために本来の働きをすれば、その議員・首長本人の
「本・迹」では、「本」になりましょう。

>国会議事堂議会議員や市町村長や市町村議会議員は本として
>国民の幸せのために一生懸命本分を尽くして欲しいと願います。

国会での決定は「国家の意思」として自国民や、他国民に良き結果、
悪しき結果及ぼします。

その意味でいえば、まぎらわしいのですが、原点に戻り
「民衆が本」「国家は迹」・・ですから・・

国家といっても、良き国家もあります。
過去の阿育王(アショーカ王)の治世での「国家」、中米コスタリカは軍備を放棄して、
教育立国とか・・

考えをまとめるために、一度送信しておきます。

356 :もくれん:2008/12/08(月) 14:06:40
>>355の続き  梅さん

>国会議事堂議会議員や市町村長や市町村議会議員は本として国民の幸せの
>ために一生懸命本分を尽くして欲しいと願います

ここから、切り取ります

>>国民の幸せのために一生懸命本分を尽くして・・その結果、
これは良き国家の見本ですね。
その捉え方から、言えば
どこまでも「国家」対「国民」の関係ですね。
政治総体の結果という点と、議員の資質・働きとは、ちょっと微妙ですね。

>宗教の中でも同じですね。民衆のため人間のための宗教であることが本だね。宗教のために人間では迹だね

>民衆のため人間のための宗教であることが・・・人間の幸福のためと
言い換えます

民衆の幸福が目的である、国家は手段である・・>>352   「本迹」成立
民衆の幸福が目的である、宗教教団組織は手段である・・・ 「本迹」成立
       
>>民衆のため人間のための宗教であることが・・・人間の幸福のためと
言い換えます

宗教の中身・高低・浅深が大切だと思います。

▼ 自分が幸福になるための御本尊です
▼ 万人を幸福にするための御本尊です
                    いずれも「御書の世界」から

▼ 全民衆を救済するためには、どうしても、人間自身の胸中にある本尊を
▼ 涌現させていく以外にない。
▼ 全人類が平等に胸中の本尊を涌現することができ、万人にその可能性が
▼ 与えられる。
▼ 「観心本尊」は、偉大なる本尊革命であり、人間の可能性を最大に尊重し 
▼ 現実に変革を可能にする「人間のための宗教」の精髄です。

・・・・・ここに全て言い表されていると思います・・・・

宗教団体・つまり組織と人間は、「本迹」関係は成立すると思います。
先ほどの「国家」と人間の「本迹」関係のように、

とりあえず送信します。

79美髯公:2009/11/19(木) 13:04:36
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357 :もくれん:2008/12/08(月) 14:28:41
>>356の続き 梅さん

タンポポさんの「言いたい」ことは、勿論、理解していますよ。
理解しているということと、「本迹」の使用の仕方を正しいと認めることは
別問題です。

ただかなり、本質的に「言いたいことの」方向性としては、間違いでないと
いう意味で「メチャクチャ」の評価は撤回します。
が、使用法として「正しい」と認めてわけではありません。

思いますに、「本迹」の概念は難しいです。
勿論、掲示板とかブログとか、私見として書くのは自由だと思います。
書いた結果、さまざまな評価を受けるのも、いた仕方ないことです。
評価に対しての反論も、当然、自由ですし、
私個人の価値観としては、あいまいなことは、書かない、これに尽きます。

タンポポさんの「本迹」観の「正誤」は「保留」にしておいて、あとは
タンポポさんが、沖浦氏の「人本仏迹」論に対しての、彼女の「価値観」の
ほうが重要だと思います。

むしろ、タンポポさんに関しては、「人本仏迹」論に対する「考え」の方が
私としては、関心があります。

何故ならば、今回、例に出した「本迹」観は、宗教の根幹とは無関係な命題です。
「人本仏迹」論は、日蓮仏法の根幹に関わるものです。
主張している方、支持している方が、「そんなつもりではない」といっても
結果として「そのように」なります。

誤った宗教の例を出せば、故意に悪気があって、間違えた宗教を信ずる人は
いないはずです。宗教の内容に「無知」であるが故です。
しかし、「狐」を、拝めば、「畜生」の、いのちに、感応します。

 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/1422/1226090096/298

> 一大秘法とは、衆生己心の妙法でお題目です。
> これを、一大事の秘法ともいいます。
> それはそのまま本尊です。
> 衆生己心の妙法が大聖人様の仏法の本尊です。

> ココまでがご不満なら違う宗派おやりなさいね。
> 衆生己心の妙法が本尊で、そのままお題目ですね。
> そして、それを保つ私共の身体。
> 戒壇です。

> 三大秘法とは私共凡夫の姿その物ですよ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

梅さん、この文章の内容のどこに、日蓮大聖人がおりますか?
大聖人の「たましい」がありますか?
大聖人の「御生命」がありますか?

どうか、2008年10月号 大白蓮華「報恩抄」講義、ご参照ください。


「御本尊を軽視」する「つもりはない」・・が・・結果的には「御本尊軽視」
「御本仏不在」です。

80美髯公:2009/11/19(木) 13:08:32
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359 :もくれん:2008/12/08(月) 15:14:27
>>351  梅さん

 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4595/1227502248/26

>>沖浦さんの解釈が、人間主義で貫かれているということについて
>>お二人はご了解しておられると思います。

>ニセ、のね。(^^)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>ニセに賛成です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宗教は人間のためだ、宗教のために人間があるのではない・・
これは、正しいです。しかし、宗教=曼荼羅御本尊としてしまった故の
言葉の「誤謬」だと思います。
宗教全般概念と「根本尊敬」の「対象」を、混乱させてしまいました。

宗教は人間のためだ・・・「聖職者などが介在したり、信徒利用があったり、
それらは、宗教(聖職者・教団)のための人間に、させられていますね。

>宗教は人間のためだ、宗教のために人間があるのではない・・
ここで、宗教と曼荼羅本尊をそっくり、入れ替えてしまったのですね。
曼荼羅本尊は人間のためだ、曼荼羅本尊のために人間があるのではない・・

宗教は人間のためにある・・・
この氏の言い分は「うそ」ではないと思います、が、せっかく、私が

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
▼ 自分が幸福になるための御本尊です
▼ 万人を幸福にするための御本尊です
                    いずれも「御書の世界」から

▼ 全民衆を救済するためには、どうしても、人間自身の胸中にある本尊を
▼ 涌現させていく以外にない。
▼ 全人類が平等に胸中の本尊を涌現することができ、万人にその可能性が
▼ 与えられる。
▼ 「観心本尊」は、偉大なる本尊革命であり、人間の可能性を最大に尊重し 
▼ 現実に変革を可能にする「人間のための宗教」の精髄です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
氏の掲示板での「火事」の件に関連して、投稿しましたが、
師の指導のエッセンスでもあるのに、まったく顧みることもありませんでした。
曼荼羅御本尊と人命の比較は「個人差」があると思います。
その「個人差」と「曼荼羅御本尊」の「絶対的価値」を比較するのは
次元の違う話ではないかと、私は思います。

曼荼羅御本尊を「粗末」にする人はいます、人命に関係ない場面でもです。
当人の「信仰姿勢」の問題で、曼荼羅御本尊そのものを、そのような「尺度」
で測るのは、間違いだと思います。
つまり、人命と曼荼羅御本尊は、どちらが大切かと・・
どとらも大切だからこそ「帰命の対境」ではないでしょうか。
理論的にも、御書にもあるとおり、

然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ
全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈
とは云うなり・・・(御書 1337P)

と、あるように、差別はないのですから(現実には信が必要)
日常的な意識として、両方大切にしていこう、祈っていこう、というのが
本来だと思いますし、いざという時の「もしも」は、「断じてそうしない」
の「決意」が大切だと思います。

自分、自分の家族、同志一同、その他友人・近隣、皆の安全・無事故を
日々祈っていくことが、まずは肝心なことと思います。

蛇足ですが、曼荼羅は物質としての側面から「成住壊空」は、当然ですが、
そこに顕された「法」は、絶対ですので。

81美髯公:2009/11/19(木) 13:11:10
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

360 :もくれん:2008/12/08(月) 15:51:36
>>339  梅さん

>曼荼羅御本尊の「本」とはなんですか?

根源の法である南無妙法蓮華経

>曼荼羅御本尊の「迹」とはなんですか?

  虚空会

>Aをとられているのですから、貴女御自身の言葉でなくてけっこうです

▼「本・迹」に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が「本」で
▼   虚空会は「迹」です。
▼ 「迹」をもって、「本」を顕すのです。

御本尊は、「本」は「本」なのですが、「虚空会」という「迹」も
「詳細説明」として、用いて、相貌を顕したわけです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御書の世界から、ピックアップします。

御本尊の相貌として「寿量品が説かれた時の虚空会の儀式」を用いた。
仏も衆生も国土も、永遠の妙法の当体であることを「象徴」しているのが
虚空会です。
宇宙全体が永遠の妙法で貫かれている、その永遠の妙法を大聖人は
南無妙法蓮華経として顕された。
しかし、永遠の法といっても、目には見えない。
それで、法華経では「虚空会」という、時空を超えて普遍的な価値をもつ
「永遠の法」即「永遠の仏」を「象徴的」に表現した。

虚空会は十界の衆生をすべて、相貌の中に納めます。

御本尊の相貌は、万人の平等の尊厳性を示しています。
御本尊には、いかなる分断や対立をも調和し、融合する力がある。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上、御書の世界・第13回「御本尊・下」から、ピックアップして
書き出したのですが、梅さん自身で、熟読するほうが、正確ですし
価値的だと思います。

82美髯公:2009/11/19(木) 13:16:05
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

363 :梅:2008/12/08(月) 16:12:23
もくれんさん

>>357
>ただかなり、本質的に「言いたいことの」方向性としては、間違いでないと
>いう意味で「メチャクチャ」の評価は撤回します。
>が、使用法として「正しい」と認めて
>わけではありません。

私は本迹は様々な使用法があると認識しています。
それは、貴女との対話では中心的な論点でしたね。
「五重の相対」でいう本迹相対でしか本迹を言ってはならないとしたら
貴女が挙げた先生の使い方でさえ、貴女の尺度では正しくなくなるでしょうね。
そうでないことは、私との対話でお分かりになったはずです。
>>264.>>265で、貴女は同意してますよ。

ともあれ、貴女の「評価」であったとしても、「メチャクチャ」発言を
撤回なされたわけです。
余計なおせっかいですが、タンポポさんに貴女の謝意を表されたら
どうでしょうか。

私たちの対話では、これ以上、取り上げて論じる必要性は全くありません。
タンポポさんに関してはここまでにしたいと思います。

『曼荼羅御本尊の本迹』の対話を続けましょう。
貴女は私の質問に答えておられません。

>>339を再掲します。

梅:2008/12/07(日) 16:34:39
もくれんさん

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>337
A:ここでは、曼荼羅御本尊が本とか迹とかに触れているのですか?
B:曼荼羅御本尊を本迹で貴女がおっしゃってるのですか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>>338
>曼荼羅御本尊を「本」と「迹」に立て分けているのです。

貴女はAだといってるわけですね。
では

曼荼羅御本尊の「本」とはなんですか?
曼荼羅御本尊の「迹」とはなんですか?

Aをとられているのですから、貴女御自身の言葉でなくてけっこうです。


364 :梅:2008/12/08(月) 16:17:38
もくれんさん

>>363の投稿は>>360を読む前に投稿準備したものです。
行き違いがありました。

83美髯公:2009/11/19(木) 13:18:01
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

365 :もくれん:2008/12/08(月) 16:19:58
>>363  梅さん

>余計なおせっかいですが、タンポポさんに貴女の謝意を表されたら
>どうでしょうか。

これは、沖浦氏の「人本仏迹」論を彼女が間違いであると認識できた暁には
そうさせていただきます。関係ないことではありませんから。


366 :梅:2008/12/08(月) 16:27:56
もくれんさん

誤解されていませんか。

先生は南妙法蓮華経が「本」で、虚空会を「迹」とされたので
曼荼羅御本尊に本迹の「立て分け」があるとは言っておられないと思います。

再考願います。

84美髯公:2009/11/19(木) 13:21:59
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋


368 :もくれん:2008/12/08(月) 22:47:48
>>366 梅さん
もくれんさん

>誤解されていませんか。

>先生は南妙法蓮華経が「本」で、虚空会を「迹」とされたので
>曼荼羅御本尊に本迹の「立て分け」があるとは言っておられないと思います。

>再考願います。

▼「本・迹」に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が「本」で
▼   虚空会は「迹」です。
▼ 「迹」をもって、「本」を顕すのです。

▼印は全て先生の発言です。何度か、そう、書いたはずです。
梅さん自身が「御書の世界」で、確認されるのが一番確実と思います。


370 :もくれん:2008/12/08(月) 23:37:48
梅さん

 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9645/1226278322/297
>粛坊さんの掲示板で梅さんが、「寝ている間もウトウトしている間は
>本迹どちらになるのか」
>(趣意です。もくれんさんのスレッドにあります。今ログ出せないので。
>梅さんすみません)という事おっしゃっていましたが

風凛さんのあげられた箇所は私ではありません。もくれんさんの発言です。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>寝ている間もウトウトしている間は本迹どちらになるのか」

上記の如く、書いた記憶は、ないのですが、一応探してみました。
該当する記述はないのですが、提示していただけますか。

85美髯公:2009/11/19(木) 13:26:08
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

371 :梅:2008/12/08(月) 23:57:52
もくれんさん

>>359
>曼荼羅御本尊と人命の比較は「個人差」があると思います。
>その「個人差」と「曼荼羅御本尊」の「絶対的価値」を比較するのは
>次元の違う話ではないかと、私は思います。

「個人差」と言われてる意味が分かりません。ご説明願います。
また、「曼荼羅御本尊の絶対的価値」とはどういう意味ですか?

>曼荼羅御本尊を「粗末」にする人はいます、人命に関係ない場面でもです。
>当人の「信仰姿勢」の問題で、曼荼羅御本尊そのものを、
>そのような「尺度」で測るのは、間違いだと思います。

そのような「尺度」の意味がわかりません。
したがって、「間違いだ」も理解できません。ご説明願います。

>つまり、人命と曼荼羅御本尊は、どちらが大切かと・・
>どとらも大切だからこそ「帰命の対境」ではないでしょうか。
>理論的にも、御書にもあるとおり

「人命が大切」とふだん私たちは言います。
しかし、いとも簡単に人命が軽視されるのも現実ですね。
それは、なぜですか?
沖浦さんは、火事の例で、その問いかけをなされたのだと思いますよ。

火事で幼子を亡くした親に「御本尊様は?」と聞いた者がいました。
その親は「わが子さえ、助けることは出来なかったのですよ」と
答えるしかなかった。
ふつうの感覚なら、こんな無神経なことは尋ねませんよ。

それとも、貴女は「御本尊様の絶対的価値」とかで
こんな無神経発言を許す学会員なのですか?
仮にそれが教義からくるものなら、どこか間違っていると思わないのですか?

もくれんさんは、沖浦さんの人間主義はウソだと断言しました。
それは、貴女とは教義解釈が違うからですね。
しかし、沖浦さんは、御本尊様を軽視した発言はしてないですよ。
「本迹」をいえば「勝劣」のみと思い、それで判断しようとするから
貴女の解釈の結果として、御本尊様を軽視してると
決めつけてるのではないですか?

それに、「人本仏迹」論が万一間違いだとしても、それだからニセ人間主義とは
いえないはずです。
そんな論がまかり通るなら、他宗を信仰する人々は全てニセ人間主義者に
なってしまうじゃないですか!
私には、「ニセ人間主義者」は暴言としか思えません。

86美髯公:2009/11/19(木) 13:30:25
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

374 :梅:2008/12/09(火) 14:36:28
もくれんさん

>>368で貴女が引かれている先生の発言部分は
「虚空会の儀式と南無妙法蓮華経」という小タイトルの最後のところに
ありますね。
『大聖人が御本尊の相貌として用いられたのは、「寿量品がとかれた時の
虚空会の儀式」です』
として、説明されているところです。

そこで書かれていることは、『曼荼羅御本尊の本迹の立て分け』ではありません。
貴女の言うようなカテゴリーも文言も確認できませんでした。

とすれば、このようなカテゴリーの『曼荼羅御本尊の本迹の立て分け』をするのは
貴女御自身の解釈ということになりませんか?

そして、貴女は
「曼荼羅御本尊」の「本」=南無妙法蓮華経
「曼荼羅御本尊」の「迹」=虚空会
としましたね。

先生は、御本尊の「相貌」は「虚空会」の儀式を用いたとされています。
すなわち、宇宙の根源の法である南無妙法蓮華経を「本」とすれば虚空会は
「迹」だと言われてますが「曼荼羅御本尊の本迹」ではありませんね。

貴女はご自身の解釈で「曼荼羅御本尊」の「本迹の立て分け」に
踏み込まれたと言うことになります。
私はその解釈が正しいとか誤っているとかを、
今直ちに検証するものではありません。

しかし、こんなことを言えば、しっかりした検証もせず
やれ「己義」だ「邪義」だとはやし立てるものは、必ずいるでしょうね。
まさに、沖浦さんへの批判をするときがそうじゃありませんか。

そこで、再度質問します。
「曼荼羅御本尊の本迹の立て分けは」どこに書かれていますか?

87美髯公:2009/11/19(木) 13:32:39
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋


377 :もくれん:2008/12/09(火) 19:27:39
 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/1422/1226090096/298

★  三大秘法とは私共凡夫の姿その物ですよ。

これは、沖浦氏の「三大秘法」の定義です。

以前も言いましたが、2008年10月号 大白蓮華 「報恩抄」講義
このスレッドの >>358で蓮さんが、書いて下さっていますが、
ご自分で、直接「報恩抄」講義を確認されたほうがいいです。

その中で池田先生が「三大秘法」について、教えてくださっています。
それを読んでも、なお、沖浦氏の「三大秘法」の定義が、正しいと信ずるので
あれば、もうあきらめます。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このレスは、梅さん、ヒロさん、その他沖浦氏の「人本仏迹」論を
信じている全ての方へです。

特に梅さんは、わざわざ、私がこの掲示板に招待しましたので、
申し訳ないと思いますが、梅さんについても、先生の「報恩抄」を
読んだ後でも、

★ 先生の言葉より、沖浦氏の言葉が、正しいと思うのであれば、
★ 完全に、あきらめます。

88美髯公:2009/11/19(木) 13:35:41
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋


378 :梅:2008/12/09(火) 20:57:06
もくれんさん

>>371 と >>374 の私の質問はどうするのですか?

371では、貴女の「ニセ人間主義者」の発言は暴言だと指摘しています。
これを貴女は認めるのですか?

374は沖浦さんの主張を検証する大事な前提です。
なぜなら、貴女は「曼荼羅御本尊」に「本迹の立て分け」をなさいました。
沖浦さんは「曼荼羅は迹」だと発言されています。
そして、貴女は沖浦発言は誤りだという。
となれば、このところは重要な論点であって、軽くスルーするわけには
いきません。

>>377
>このレスは、梅さん、ヒロさん、その他沖浦氏の「人本仏迹」論を
信じている全ての方へです。

沖浦さんの「三大秘法」云々は、先の本迹を解決した後の論点だと
認識しています。
それから、ヒロさんを入れてますが、私が彼の投稿を読んで理解する限りでは
彼は「人本仏迹」論を信じる立場ではありません。
それがお分かりになったら、訂正をされることをお勧めします。


379 :梅:2008/12/09(火) 21:37:37
【閑話休題】

反論・批判を封ずる方法

① 「文証を出せ」
② もし出したら・・・「切り文である」
③ 「先生の指導にない」
④ 「その発言は広布を妨げる」
⑤ 「謗法与同罪だ」

これを言ってやれば、大抵の素直な学会員は怖気づいてしまうだろう。

ネットで誠実に対話しようと思うなら、上記の発言をしてはいけないと思う。
私は悪口を言いたいときも、出来るだけガマンします。
ネットの投稿では、言葉だけが人格を現すからです。
リアルでは、学会員同士で、悪口雑言目くじら立ててこんなこと
やってないでしょう?
えっ、アナタはやってるんですか?
では、アナタはご自由にどうぞ〜

89美髯公:2009/11/19(木) 13:40:23
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

385 :梅:2008/12/09(火) 23:55:04
もくれんさん

横レスします

貴女は、「人本仏迹」論者に、ヒロさんを名指しで加えました。
ですから、貴女にはヒロさんが「人本仏迹論者」であるとする証明責任が
あるのですよ。
しかし、彼の投稿からそうでないことが明らかなんですから、
貴女には謝罪の責任があります。
それが道理というものでしょう?

ヒロさんが、沖浦さんとどのように教義上での距離をとるかは、
彼の全くの自由意志です。
貴女が沖浦さんの邪義を判定したからといって、どうこうすべきだと
彼に要求することなど出来ないはずです。
貴女は彼の指導的立場でもないのですから、なおさらですね。

399 :梅:2008/12/10(水) 14:33:19
もくれんさん

>>398
>あの時点では、梅さんの「意思尊重」が最優先でした。
>私が「ご招待」したという、事情もありました。
>現時点では、>>377 で、梅さんが、どのような「意思表示」されるのか
>待機中です。

もくれんさん、貴女は私との対話を逃げ始められたのですか?
このところ、少しややこしいスレの流れになっていますが
私の、>>371 >>374で投稿した貴女への質問は
とくに、>>374は >>339 >>363 と継続して、しかも同じ質問内容です。
ところが、貴女が待機中だという>>377はその後に出てきています。

お分かりでしょう?
対話相手にこんなこと言いたくはありませんが
貴女は質問に答えられるだけの内容をお持ちでないのかと・・
少し前までは、貴女は私との対話の中でも「撤回」を言う勇気がおありでしたよ。

>>371については、特に一つあげましょう。
貴女は『曼荼羅御本尊の絶対的価値』という言葉を使いました。
私はそれを見て、貴女が真理と価値を混同しているのではないかと疑いました。
それをはっきりさせる為に質問しています。
しかし、スルーしたままですね。

また>>374で繰り返し質問し、また貴女の>>377には、直ぐに>>378でレスを
入れてます。
つまり、沖浦さんの三大秘法云々の前に
私たちの対話では片付けなくてはならない問題提起がなされているのです。
あなたが言う『曼荼羅御本尊の本迹と立て分け』は、貴女ご自身の「己義」の
疑いがあります。
ですから、それが間違いかどうかを問う以前に、そのような文言が
あるかどうかをお尋ねしています。
貴女は沖浦さんを「己義」で「邪義」と批判しているのですから
私の質問に答えてこそ、貴女の正義とかが言えるのではないでしょうか。

>ですから、龍破さんが、今でも何か「ご意見」がありましたら、
>書いていただくのは大歓迎です。
>その結果、梅さんがこの掲示板を「去る」ことに、なっても、もはや、
>いた仕方ないものと、承知しております。

全く理解に苦しむご発言ですね。
龍破さんと貴女が対話するのですか?
龍破さんは私に質問されていました。
このスレが貴女のモノだとしても、対話しているのは貴女と私なのですから
第三者を加えてはややこしくなるだけですよ!
ですから、私はやまいぬさんにも教義解釈や見解ついてのレスは
一切していないのです。

以上です。
このままでは、貴女の不誠実さとなることを恐れて書き込みました。

90美髯公:2009/11/19(木) 13:45:55
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋


400 :梅:2008/12/10(水) 15:09:59
もくれんさん

ヒロさんへのレスは巧妙に書かれています。
あなたの見解を、押し付けていなそうにみえて、押し付けてる。
これがあなたのやり方ですか?
学会員といってもいろいろなんですから、もっと度量を広くもたれたら
どうでしょう。
何やかやと決め付けてしまうのは、大変危険だと思います。

それと、下記もおかしいですよ

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一般論ですが・・あくまで一般論ですからね
「沖浦氏に個人情報を握られているから・・・」という方がいたとします。
ただ、個人情報を先方に渡した時点では、本人が納得して、相手を信頼して
教えたはずです。その後、人間関係に変化が生じて、個人情報を教えたことは
失敗であったと、思うのは、世間的なことでもありそうな話です。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「一般論」を言いたいのなら、「沖浦氏」などと固有名詞を出しては
いけないですね!
こういうやり方を、プロパガンダというのですよ。
この部分は、撤回されることをお勧めします。

402 :梅:2008/12/10(水) 15:42:45
もくれんさん

>>397
>宗門は、日蓮大聖人直結の広宣流布への信心が無い、それだけのことです。
>創価学会と一緒だった頃は、かろうじて「正宗」たりえたのです。
>創価学会を破門したことによって、完全な「邪教・日顕宗」になったのです。

このような発言はよく聞きますね。
では、創価学会と一緒でない前の宗門はどうなのですか?
あなたの言う「かろうじて正宗」でないとすれば、邪宗だったということですか?

あなたは、信心に「正」か「邪」しかなく、中間はないと明言されておられます。
したがって、あなたの見解では「邪宗」だったということになりますね!

もちろん、大聖人様より下の歴史ということになりますから
宗門が、邪宗になったのはいつからなんですか?

もし、「邪」だということになれば、あなたの見解は沖浦さんと
同一の可能性がありますね。
もっとも、沖浦さんは日寛師の「戒壇本尊論」を否定しているだけですので
あなたの見解の方が、より否定的であることになるでしょうね。

しかし、そうだとしたら不思議ですね。
牧口先生・戸田先生はそういう「邪」の宗門に入信されたのですからね。

この辺は大変興味深いところですので、より詳しくご見解を書き込んでください。

91美髯公:2009/11/23(月) 13:00:34
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

403 :梅:2008/12/11(木) 15:32:00
もくれんさん

貴女は沖浦批判の投稿のどこかで、「法」は変わらない、変わるのは「律」だと
おっしゃっていましたね。
このような言葉の使い方が果たしてあるのか、私は知りませんので
ロムしていただけでしたが・・

貴女の使う「法」は宗教用語としての法ですね。
もしかしたら、世の中の一般法でいう「法律」の使い方と混同されているのかも
知れません。
一般法で言えば、法の法たる憲法でさえ不変法でないのはご存知かと思います。

それでは、宗教用語としての「法」は不変であるか?
貴女は「700年変わらなかった」とも、「無始無終」とも書かれましたね。
つまり、教義は変わらないとおっしゃっているわけです。
私も、教義がくるくる変わるとは思えません。

しかし、教義の「解釈」や「見解」・「表現」は変わると思います。
それは、貴女が>>377で私や他の皆さんに見解表明を要求されている
「三大秘法」についても同様です。
以下、証拠(文証)をあげます。

昭和61年第2版「新版・仏教哲学大辞典」で「三大秘法」を引くと、
非常に詳しく解説されています。
しかし、5頁にもわたるものを引用して書き込めませんから
そのエッセンスともいうべき、【三大秘法の総在の本尊】の項目を
全文引用します。

『三大秘法(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)が包含された一大秘法の
本門の本尊のこと。本門戒壇の大御本尊をいう。
本門戒壇の大御本尊とは、日蓮大聖人が、弘安二年(一二七九年)
十月十二日、出世の本懐として建立された一閻浮提総与の大御本尊のこと。
現在、日蓮正宗総本山大石寺の正本堂に御安置されている。第二十六世日寛上人の
依義判文抄には、「三大秘法を合する則は但一大秘法の本門の本尊と成るなり、
故に本門戒壇の本尊を亦三大秘法総在の本尊と名づくるなり」
(六巻抄一一八ページ)とある。』

ちなみに、【三大秘法】の項目には、『本門戒壇の大御本尊』の小項目があり
その最初の書き出し部分は次のようにあります。

『人即法・法則人の人法一箇の御本尊こそ弘安二年十月十二日の
本門戒壇の大御本尊である。
現在は日蓮正宗総本山大石寺の正本堂に厳護されている。
この本門戒壇の大御本尊は、一機一縁の御本尊とはその意義が異なり、
末法万年のほか未来永遠の一切衆生がことごとく帰依して即身成仏の大功徳が
得られる大御本尊であり、一閻浮提の一切衆生に与えられた大御本尊である。』

そして、この項の最後は、日寛師の観心本尊抄文段を引いて

『また、「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり、
既にこれ三大秘法の随一なり、況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」
(文段集四五二ページ)と示されている』

と締めくくっています。
さらに、【本門戒壇の大御本尊】の項目では
『本門戒壇について』の小項目に

『・・・事の戒壇とは、本門戒壇の大御本尊が御安置されるところである。
・・・第六十六世日達上人は戒壇に御安置される根源の法体こそ真の
事の戒壇であり、本門戒壇の大御本尊の当体及び所在が事の戒壇であると
御相伝の上から示されている・・・』

また、同項目の『本門の本尊について』の小項目では

『本門の本尊とは、弘安二年(一二七九年)十月十二日に御図顕された
未曾有の大御本尊のことであり、本門戒壇の大ご本尊のことである・・・
日蓮大聖人の仏法の根本は本門戒壇の大御本尊である』

さぁ、もくれんさんどのように読まれましたか?
これらは、貴女が読むようにと言われた御書講義の「三大秘法」の部分と
合わせたら微妙なところもありますが、従来とは明確に「解釈」が
異なってきていますよね。

現在もなお日寛師の「戒壇本尊論」に拘ったら、大変おかしなものになることは
貴女にもご理解いただけると思いますが、いかがですか?
これが、今からほんの22、3年前には、創価学会教学部の解釈であり
宗門でいえば700年来の伝統的教義だったのですよ!

ですからね、沖浦批判についても、邪義だ邪義だとかみつくのではなく
「もしかして、そのような発想がありうるだろうか」という検証姿勢が
必要だと思うのです。
そのための対話がなされることが必要とこそすれ、悪口雑言・非難に向かって
しまうのは私たちがネット社会の対話に未成熟だからではありませんか?
私が貴女と対話しようと思ったのは、貴女にはそれを乗り越える知性が
おありに違いないと信じたからです。

92美髯公:2009/11/23(月) 13:07:51
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

408 :もくれん:2008/12/13(土) 00:37:06
梅さん

沖浦氏の「人本仏迹」説の「誤り」を、認識していただきたいというのが
唯一、梅さんを、この掲示板にご招待した理由です。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/1422/1226090096/298

★  三大秘法とは私共凡夫の姿その物ですよ。

これは、沖浦氏の「三大秘法」の定義です。

以前も言いましたが、2008年10月号 大白蓮華 「報恩抄」講義
このスレッドの >>358で蓮さんが、書いて下さっていますが、
ご自分で、直接「報恩抄」講義を確認されたほうがいいです。

その中で池田先生が「三大秘法」について、教えてくださっています。
それを読んでも、なお、沖浦氏の「三大秘法」の定義が、正しいと信ずるので
あれば、もうあきらめます。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の「力不足」で、「目的」を成就できなく、私を「敗残者」として
見ていただいても結構です。

せめて、「学会公式出版物」なかんずく池田先生の「最新」の「指導」
くらいは、真摯に向き合っていただきたかったです。

★ あとは、是非、梅さんに「人本仏迹」説を「ダイレクト」に
  証明していただきたいです。

「法」・・物理法則とか、つまり、自然界の、宇宙の・・E=MCの2乗とか・・
      万有引力の法則とか・・久遠元初の妙法・・
「律」・・人間がさだめた決め事・・国法・条例、その他・・

西洋から、lawの言葉が入った時に「法律」と訳したのが、不適切であった旨の
先生の著書は読んだことはあります。

「法」とは「久遠元初の妙法」とも言いますし、まぎれもなく、宇宙の根源の
法そのものです。


「人本仏迹」説の正しいことの、証明、お願いします。


409 :もくれん:2008/12/13(土) 01:05:46
>>403   梅さん

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『本門の本尊とは、弘安二年(一二七九年)十月十二日に御図顕された未曾有の
大御本尊のことであり、本門戒壇の大ご本尊のことである・・・
日蓮大聖人の仏法の根本は本門戒壇の大御本尊である』

さぁ、もくれんさんどのように読まれましたか?
これらは、貴女が読むようにと言われた御書講義の「三大秘法」の部分と
合わせたら微妙なところもありますが、従来とは明確に「解釈」が
異なってきていますよね。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>『本門の本尊とは、弘安二年(一二七九年)十月十二日に御図顕された未曾有の
>大御本尊のことであり、本門戒壇の大ご本尊のことである・・・
>日蓮大聖人の仏法の根本は本門戒壇の大御本尊である』

勿論、私が読むようにお願いした、2008年10月号の「報恩抄」講義とは
文字上は、表現は違います。

以前にも言いましたが、日蓮大聖人の「たましひ」ですね・・
その「内実」は、同じことを表現しています。
「日蓮がたましひをすみにそめながして書きて候・・」の「たましひ」が
「本門の本尊」ですから、

★日蓮大聖人直結の、唯一の、仏意仏勅の、広宣流布の教団である創価学会・・
★これには、梅さんは「納得」されていますか?

上記2行に、納得しているかどうかが「分岐点」だと思います。

とりあえず、質問は★印だけにします。

前レスの「人本仏迹」論の「証明お願いします」は撤回します。
発明製造本舗の本人ですら、証明できないのですから。
証明は不可能であるのは、わかりきっていますから。

★印が、本質的な「ホシ」だと思います。

93美髯公:2009/11/23(月) 13:25:03
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

410 :もくれん:2008/12/13(土) 09:00:12
>>402 梅さん

あなたは、信心に「正」か「邪」しかなく、中間はないと明言されておられます。
したがって、あなたの見解では「邪宗」だったということになりますね!

もちろん、大聖人様より下の歴史ということになりますから
宗門が、邪宗になったのはいつからなんですか?

もし、「邪」だということになれば、あなたの見解は沖浦さんと
同一の可能性がありますね。
もっとも、沖浦さんは日寛師の「戒壇本尊論」を否定しているだけですので
あなたの見解の方が、より否定的であることになるでしょうね。

しかし、そうだとしたら不思議ですね。
牧口先生・戸田先生はそういう「邪」の宗門に入信されたのですからね。

この辺は大変興味深いところですので、より詳しくご見解を書き込んでください

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>より詳しくご見解を書き込んでください

私の「見解」は、一切ありません。すべて、先生のスピーチからです。
以前も一度書きましたが、

小冊子・創価のルネサンス  1〜100  一冊 100円

その他、池田大作全集 82・83・84・85・86 等々・・

破門後の平成5年頃、先生はスピーチで、「日顕宗」に関して、懇切丁寧に
教えてくださっています。
できれば、梅さんが、そのスピーチを、直接読むのがベストです。

しかし、手元に無ければ、随時、少しずつ書きますが、

例えば、牧口先生・戸田先生は「神札を受けろ!!」と、強制され拒否・・
信徒除名になったはずです・・その時の「法主日恭」はその後火災で焼死・・
又、17世「日精」の「法主絶対論」とか、今は資料無しで書いてますので
アバウトですが、先生のスピーチで、正確にかっきり書きます。

「邪義」の定義も、先生は書いています。
例えば「葬儀を僧侶にしてもらわなくては成仏できない」・・
これは「邪義」であると・・
「総本山に来なければ成仏できない」・・これは邪義であると・・
「法主絶対論」これは言語道断の「大邪義」であると・・
また、かっきり書きます・・

94美髯公:2009/11/23(月) 13:26:00
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

411 :もくれん:2008/12/13(土) 09:31:57
>>408    梅さん

「法」・・物理法則とか、つまり、自然界の、宇宙の・・E=MCの2乗とか・・
      万有引力の法則とか・・久遠元初の妙法・・
「律」・・人間がさだめた決め事・・国法・条例、その他・・

西洋から、lawの言葉が入った時に「法律」と訳したのが、不適切であった旨の
先生の著書は読んだことはあります。

「法」とは「久遠元初の妙法」とも言いますし、まぎれもなく、宇宙の根源の
法そのものです。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>先生の著書は読んだことはあります。

「法」と「律」の読んだ記憶の「本」を探しました。

先生は「宗教」の「翻訳」に関して、ご意見を書いてあったとの「記憶違い」です。

書籍名・・「仏教とキリスト教」
著者・・・堀 堅士
出版社・・第三文明社・レグルス文庫 1974年発行

著者紹介・・当時、関西大学法学部教授・つまり、法律の専門家・・

・・あとがきより抜粋・・・・・

法律学者である私が、宗教について「ユダヤ教」や「キリスト教」や「仏教」について
研究していることを、それがまるで専門外の横道にそれた無駄な研究で
あるかの如く非難するい人々があります。

しかし「法律」とは、いったい何でありましょうか。あなた方は「仏法」といい、
「ローマ法王」と言うのに、どうして「法」が宗教と無関係であるのでしょう。
又、あなたがたは、「モーゼの十戒律」といい「律宗」と言うのに、どうして「律」が
宗教と無関係であると言うのでありましょうか。

私は「法」と「律」の区別さえも知らない人たち、かの「木」を見て「山」を
見ない人たち、殊に「法・ダルマ・dharma・人間を超越した宇宙の真理」
「律・ヴィナヤ・vinaya・人間の考え出した規律」との区別も知らないで、
法律学者であると自称している人々に対して・・・(抜粋終わり)

ちなみに、この本は著者が聖書とか、仏典等、膨大な書物から、「仮定」を
立てた本です。
つまり、キリストなる人物が、あの時代「シルクロード」を往復25年位かけて
漢の国で、仏教とりわけ「法華経」を学んで、故郷に帰り、弘教したのではないか???
との、著者の「仮説」の本です。
第三文明社も出版をしたのは、読者の考察の一助になるとの判断でしょうし
私は、「なるほど」と、思いましたよ。でも、あくまで思索の参考程度で
その本の「正・誤」を追求する必要は無いと思っています。
「仮説」ですから。仮説ですので・・・・・

★いずれにしても、南無妙法蓮華経こそ、「宇宙の根源の法」であり、
  人間が作った「決め事」それを「律」と呼ぶとすれば
 「律」と「法・ダルマ」は、おのずと違うわけです。

95美髯公:2009/11/23(月) 13:40:39
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

412 :もくれん:2008/12/13(土) 10:09:20
梅さん   とりあえず下記の文章をごらん下さい

 ttp://ranhou.hp.infoseek.co.jp/jyuyo.htm

この学会による御本尊授与は、

日蓮大聖人の「信心の血脈(けちみゃく)」を受け継(つ)ぐ唯一(ゆいいつ)の

和合僧団(わごうそうだん)としての使命と資格に基づくものであり、大聖人の

仏法における御本尊の本義、また大聖人の御本尊御建立(ごこんりゅう)の

元意(がんい)のうえからも、最もその意義に適(かな)った決定であります。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これは以前も紹介しましたが、梅さんが、上記の文言に「納得」できていないと
これから、先生のスピーチを、私が労力を費やして書いても、「徒労」に
終わる危険性があります。

>>409
★日蓮大聖人直結の、唯一の、仏意仏勅の、広宣流布の教団である創価学会・・
★これには、梅さんは「納得」されていますか?

これと、重複しますが、梅さん自身が、大聖人の御遺命である「広宣流布」への
地涌の菩薩としての「誓願」が、真実であるかどうかに、かかっています。

「授与の資格」と「書写の権能」に、ついて、以前、梅さんと話したのは記憶
しています。

その時は、明言しませんでしたが、「書写の権能」は「授与の資格」の中に
含まれると、個人的には信じています。個人的にはですので、誤解のないように。
平成5年の時点では、日寛上人御書写を「教団決定」したことで納得しています。


413 :もくれん:2008/12/13(土) 10:45:57
梅さん

これから「邪義」に関する先生のスピーチを書いていきます。
「大謗法」「大聖人に違背」等も、同義です。


以下は全集 81  です・・これは平成4年で破門前です・・

★ 大聖人は、妙法を行ずる一人一人が仏であり、最も大切な存在であることを
  説かれています。
  そのまったく反対に、今の宗門では、いちばん偉いのが僧侶で、信徒は僧侶に
  仕える存在としている。これほどの人間尊厳の否定はないし、大聖人への
  「大違背」「大謗法」はない。すべては明瞭です。

★81P・・・・・
 「僧侶に拝んでもらわなければ成仏できない」などという教えは「御書」にも
  「六巻抄」にも一切ない。
  大聖人・日興上人等の教えに反した葬式仏教の「邪義」である。

★138P・・・
 日淳上人は、先ほどふれたように、ここ長野県の伊那のご出身であられた。
 また日達上人も、若き日、同じく伊那の信盛寺に在勤しておられた。
 お二人は、正法の「広宣流布」を願い、学会に理解を寄せてくださっていた。

  ここで、歴代の正師の遺徳をしのびつつ、日有上人の「化義抄」等と、
 それを注解された日亭上人の言葉を、少々、紹介したい。
 日有上人の教えに従うべきことは、日蓮正宗の「宗綱」に明記されている。
 ひとつでも、背くならば、もはや「正宗」ではない。

 大聖人の仰せに基づいて、日有上人は指南されている。
 「仏法は平等なり、法は何事も平等なるべし、仏の御跡を継ぎ申したる出家は
 何事にも一切の人に偏頗之有るべからず、若し偏頗有るならば必ず餓鬼道に
 堕つべきなり」

 仏法は平等であり、「偏頗」すなわち人を差別する僧侶は餓鬼道へ堕ちるとの
 教えである。
 今は「偏頗」ばかりである。僧侶の間の差別・僧の中での差別・

 すべて「平等の大法」である妙法と正反対であり、「邪法」の証拠である。
 いわんや、「如来の使い」である広布の戦士を見下し、差別するとは
 その一点だけでも、「仏敵」である。
 御書にも、日有上人の教えにも背き、もはや宗内は完全に
 「正宗」ではないのである。

96美髯公:2009/11/24(火) 12:41:02
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

414 :もくれん:2008/12/13(土) 11:11:54
同じく全集81から(破門前です)

P154・・・・

★ 文永5年、蒙古からの国書到着。十一通の書状を、良観・道隆・その他の
  高僧に送る
  「今こそ、仏法の邪正を決すべき」と「公場対決」を迫る。

 大聖人は、いかなる権威にも、権力にも、一歩も退かれなかった。
戦って戦って、戦い抜かれた。戸田先生は、その大聖人の御心を拝しながら
こう言われている。
「日蓮大聖人は、権勢に恐れず、富貴にこびず、万衆(一切衆生)をあわれみ
末法一大利益の南無妙法蓮華経を授けられた大聖哲であります」
そして、結論として「創価学会の魂とは、この大聖人の魂を魂と」するところに
あると宣言されたのである。

これこそ、万年に変わらぬ大聖人直結の「学会精神」である。
死身弘法なされた戸田先生の遺言なのである。
一方、現宗門は「大聖人の魂」をまったく失ってしまった。
日興上人にも違背し、反逆してしまった。
「日蓮正宗」の名に値しない「邪教」に堕してしまった。

もはや、本当の「日蓮正宗」の心は、わが学会にしかない。
きょうは、あえて、この真実を申し上げ、後世に残しておきたい。
日蓮大聖人の魂を継ぐのは、「仏勅」どおり「広布」に進む創価学会である。
戸田先生は、その根本を明確に示し、残されたのである。
大聖人直結こそ、初代牧口先生・第二代戸田先生以来、寸分も変わらぬ、
そして永遠に変わらぬ、わが学会の誇りなのである。

416 :もくれん:2008/12/13(土) 11:36:03
>>413 訂正

>以下は全集 81  です・・これは平成4年で破門前です・・

「破門通告書」・・平成3年11月28日・・・

以下は全集 81  です・・これは平成4年で破門後です・・に訂正


417 :もくれん:2008/12/13(土) 12:00:27
平成4年10月24日  関西最高会議

「日興遺誡置文」の実践者は学会

二十六箇条の一箇条でも犯せば門下ではない。

★ 「師敵対」が「五老僧」の本質であり、日顕宗は五老僧の末流である。
 しかも、五老僧は、日興上人の正義を、かえって、法門の異類を立てるもので
 道を失っていると非難した。
 みずから、謗法に堕しながら、学会の正義を誹謗している点も、五老僧そっくり
 である。

★★★★  最重要 ・・・・303P

戦前、戦中、宗門に「神本仏迹論」という「邪義」を唱える僧侶が出た。
戦後もこの邪僧を強く責めるどころか、邪僧の罪をただした学会を
処分したのである。
今も、日顕が本で、大聖人が迹などという転倒の「顕本仏迹論」に従っている
僧俗が多数いる。

五老僧と、その末流は、「本迹の本義」を知らず、日蓮大聖人を御本仏と
仰ぐことができなかった。
日興上人の法統を継ぎながら、大聖人よりも日顕を「本」とする日顕宗は
「獅子身中の虫」の最も悪質なものであろう。 


★ 日々さん、五老僧のこと、詳しく書きましたよ・・・

97美髯公:2009/11/24(火) 12:48:52
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

418 :もくれん:2008/12/13(土) 12:55:47
>>417の続き 全集 81より


謗法払いも、学会が僧侶に教えたのである。学会が存在しなければ、
大聖人、日興上人の正統は、守り伝えられなかったのである。・・・・305P

★・・ここは、梅さんが、最大に関心のあることです・・・・

316Pから317P

また戸田先生は、第二代会長に就任した直後、こう述べられた。
「立宗七百年に際し、日蓮正宗教団が、全国わずかに、一、二万軒を数えるに
すぎない現状は、われわれが宗開祖に対したてまつり、申し訳ない次第である。
もし、いま宗開両祖がご出現あらば、いかばかりか、お嘆きあり、かつおしかり
あるかを思う時、おそれ多く、もったいなく、かつは申しわけなく、
身も心もいたむものである。」

「かかる時、教団の一部に、意味なき嫉妬による折伏行進の邪魔をなすものが
いるのは、まことに残念な次第である。」
戸田先生は、広宣流布への責任を一身に感じられていた。
そして、ただ一人立ち上がって、折伏の陣頭指揮をとられた。

しかし、当時の宗門は、学会に協力するどころか、まったく無理解だった。
そのうえ、一部の僧は「意味なき嫉妬」にかられて、折伏の妨害までしたのである。
牧口初代会長も、宗門の無理解や妨害につねに苦しめられた。
最後も宗門の裏切りによって、獄死されたのである。

戸田先生は、また、「この教団の七百年の古い伝統は、一面には尊く、かつ清く
ありがたく、かつ一面には、猫もねずみも出るであろう。
かかる猫やねずみの類は、必ず一掃されるから、心配することはない」
(昭和26年6月)
悲しいことに、日顕宗は「猫やねずみばかり」になってしまった。

大聖人の仏法を食い物にし、供養を貪り、うごめいている、ノラ猫や
飢えたネズミのごとき醜侶は、広布へ進む信心の世界から、一掃せねばならない。
また現実に、清らかな「広布の世界」には、いられなくなって、みずから
去っていったのである。


419 :もくれん:2008/12/13(土) 13:12:33
同じく全集 81 

大正十一年十月、日蓮宗(身延派)、顕本法華宗など日蓮宗各派の管長らと
同座したうえ、身延の管長の導師で寿量品の読経・唱題した法主がいた。(日正法主)

しかも、それは他宗派とともに、大聖人に「大師号」を宣下するよう政府に
請願し、「立正大師」号を受けたことに記念行事であった。
宗祖と正反対の「権力迎合」の姿である。

その後、身延に大聖人の廟所(墓所)があるとしたためた「念書」を、政府に
提出した高僧さえいた。(日開法主・日顕の父)

日興上人の「身延離山」の崇高な御精神を踏みにじり、身延と「謗法同座」したの
である。身延と「与同罪」であり、大謗法である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おなじく321P

謗法者の供養を受けることは、謗法を容認するに等しい。与同罪にあたる。
宗門は戦後、疲弊した本山の収入増加をねらい、他の謗法の諸寺と同じような
「観光地化」を計画したことがあった。
それを、やめさせたのが戸田先生であった。謗法の供養を受けるところを
学会が救ったのである。

98美髯公:2009/11/24(火) 12:50:37
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

420 :もくれん:2008/12/13(土) 13:37:17
入力に手が疲れた・・ちょっと、迷・発見

 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7888/1164545168/51

2008/10/10(金)

本迹もそうなんです。
 ****さん。

 例えば大聖人様と私共。
 身体は仮のものですから迹ですね。
 恐れ多いので私で説明いたします。
 大聖人様もおなじですよ。
 
 ○○○○と言う人間。
 これはこの世での仮の姿です。
 ですが命は妙法なんですね。

 この身体は迹。 
 次に生まれる時は違う身体です。

>>身体は仮のものですから迹ですね。
>>この身体は迹。 
>>これはこの世での仮の姿です。

・・空・仮・中 の 三諦の「仮和合」の「仮」を「迹」に使っている・・

最初から、論理的整合性のある「使い方」をしてないのだ。
「行き当たりバッタリ」の使い方である。

99美髯公:2009/11/24(火) 12:56:42
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

421 :梅:2008/12/13(土) 13:51:57
もくれんさん

レスが途絶えたので、どうしたかなと案じておりました。

私の投稿の>>399をもう一度お読み下さい。
この投稿では、特に最後の部分を最重要と意識して書き込みました。
今回の貴女のレスは、プリントアウトすると10枚近くになります。
しかし、>>399には全く触れておられないようです。
どうしてですか?

貴女の>>408でのご質問は>>409で撤回されていますので、ここでは触れません。

>>408
>私の「力不足」で、「目的」を成就できなく、私を「敗残者」として
>見ていただいても結構です。

貴女の対話者がかような見方をする者と思って、この対話を始められたのですか?

>せめて、「学会公式出版物」なかんずく池田先生の「最新」の「指導」
>くらいは、真摯に向き合っていただきたかったです。

そのよう努めております。
貴女が読めといわれた講義も、何回も確認しました。
その上での投稿が>>403です。
この投稿は、『教義の解釈や見解・表現は変わる』ということに
私の論点があります。
私が「法」及び「本尊」を否定などしてないことは、お分かりでしょう?
もう一度お読みになって確認してください。

貴女の投稿>>409についてのレス

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★日蓮大聖人直結の、唯一の、仏意仏勅の、広宣流布の教団である創価学会・・
★これには、梅さんは「納得」されていますか?

上記2行に、納得しているかどうかが「分岐点」だと思います。

とりあえず、質問は★印だけにします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

全くその通りであると納得し信仰を続けてきました。
もっとも私は6歳からですから、教学的な意識に目覚めたのは
中学・高校時代からです。
そのときの最初の参考書が「折伏教典」でした。
その時の一番古い版のものが行方不明ですが
今手元にあるのでも、現在の学会教義とは全く違うところがあります。
そういう事では、古い学会員はおそらく必死で学会についてきたのだと
思いますよ。

貴女投稿>>410について

>また、かっきり書きます・・

私の投稿>>402が、現在の日蓮正宗について
正邪を論じていただこうとは思っていないことはお分かりのはずですよね。

貴女の投稿>>411について

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このようなキリストについての仮説については興味の対象外です。
★いずれにしても、南無妙法蓮華経こそ、「宇宙の根源の法」であり、
  人間が作った「決め事」それを「律」と呼ぶとすれば
 「律」と「法・ダルマ」は、おのずと違うわけです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そりゃそうですよね。
ですが、「法」と言おうが「ダルマ」と言おうが、人間がそのように
名づけて呼んだだけですよ。

貴女の投稿>>412について

>その時は、明言しませんでしたが、「書写の権能」は「授与の資格」の中に
>含まれると、個人的には信じています。個人的にはですので、
>誤解のないように。

これは個人的見解なんですね。
「信じる」というのはけっこうだと思います。
でも、「人本仏迹」を「信じる」というと
すぐに反応して、「邪義」を「信じる」のか、となるのはどうしてでしょうね。

貴女の投稿>>413,>>414について

先生の引用のみで、貴女の思索された上でのコメントがありませんね。
現在の日蓮正宗がその通りであることは、私も認識しています。
むしろ、ここまで引用なされるなら
「戒壇御本尊本懐論」と学会の現在の教義について、差異があるのかないのか
学会員としての貴女の見解を伺いたくなりました。
2007年の金原本から以後、ネットで見ていると、意識変更された方も
多いように見えます。

100美髯公:2009/11/24(火) 13:00:40
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422 :梅:2008/12/13(土) 14:27:28
もくれんさん

>>417
>二十六箇条の一箇条でも犯せば門下ではない。

これは、直接は私宛のレスではないようですが
私の『教義の解釈や見解・表現は変わる』という論点に関係しますので。

現代において、そのまんまで、二十六箇条を適用できないことはご存知ですよね?

また
>謗法者の供養を受けることは、謗法を容認するに等しい。与同罪にあたる。

これなんか、江戸時代に宗門がやっていたことですね。
これを厳格に守れば、「不受不施」派のように考えねば筋が通りませんね。


423 :梅:2008/12/13(土) 15:26:08
訂正

貴女の投稿>>411について
「・・・・・・・・・・」は
★の上に入ります
興味の対象外なのは、私です。


424 :梅:2008/12/13(土) 16:35:38
もくれんさん

>>420

>・・空・仮・中 の 三諦の「仮和合」の「仮」を「迹」に使っている・・
>最初から、論理的整合性のある「使い方」をしてないのだ。
>「行き当たりバッタリ」の使い方である。

これは、ご本人に確かめられたほうがよさそうです。
貴女は、彼が三諦で使われてると断言してますが
「仮諦」ではなく、むしろ「仮の姿」=「仮体」で使われているかも知れませんよ。
それを確かめられた上で、『行き当たりバッタリ』の発言が説得力を
もつはずですね。
そうでなければ、たんなる難癖です。

101美髯公:2009/11/24(火) 13:04:37
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425 :もくれん:2008/12/13(土) 23:44:31
>>421 梅さん

深夜なので、レスしやすいことから、書きます。

>先生の引用のみで、貴女の思索された上でのコメントがありませんね。

先生のスピーチは、まずは「その通り」と受け止めます。

>現在の日蓮正宗がその通りであることは、私も認識しています。
>むしろ、ここまで引用なされるなら
>「戒壇御本尊本懐論」と学会の現在の教義について、差異があるのかないのか
>学会員としての貴女の見解を伺いたくなりました。

梅さん、これからは、単刀直入に書きます。
まず、創価学会の実践に「大いなる意義」があると大確信しております。
ですから、創価学会の方針に全く納得しています。
例の「御本尊の授与の資格」云々でもそうです。

私は、平成5年から、授与開始された日寛上人御書写の御形木御本尊様です。
日顕書写のからの「交換」ですが。

事実の上で、確実に他者を幸福にしていく実践こそ肝要と思います。
そういう意味では、「戒壇様本懐論」がどうのこうの、私は全く、関心も興味も
現時点では、ありません。

前にも書きましたが、正本堂へは何度か行きました。
御開扉を受けました。あの中央の大御本尊様が、弘安2年10月12日の御建立の
出世の御本懐の大御本尊様と、当然、信じていました。
が、今は、他教団にあります。真偽はともかくとしても。

大聖人の出世の本懐そのものは、「御書の世界」に書かれていることで
その通りだと思います。
その「出世の本懐の《実物》の大御本尊様」に対して「執着」は、持っても
現実として、致し方なくもあり、すでに、創価学会は、未来向けて
新たなスタートをしているわけです。
日蓮大聖人直結の「意味」を、よくよく思うべきと思います。
御本尊は「法華弘通の旗印」といいます。
その意味では、先生は、明確に、最近のスピーチで「旗印」を語っています。
このスレッドでも紹介しましたが。

一大秘法でもあり、本門の本尊の定義である、
日蓮大聖人が胸中に所持されている、久遠元初の妙法たる南無妙法蓮華経と
またそれを図顕された曼荼羅本尊・・

             書籍「教学の基礎」
             仏教哲学大辞典

これは、いわゆる「戒壇様」の内実そのものです。
「戒壇様」は、日蓮大聖人の胸中の南無妙法蓮華経を図顕された「曼荼羅」
そのものですね。

「教義」は、変わりようがありません。誰にも変えられません。
今後未来永劫に変わりようがありません。一大秘法・本門の本尊・変わりません
一大秘法にすべて合するのですから。
「本門の本尊」は、御本仏の「たましい」ですから、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候・・」ですから、

くどいようですが、「法」「宇宙根源の法」ですから、人為的に変えられるもの
ではありません。
ただ、ただ、宗門が「広宣流布への正しい信仰実践が皆無」が実体です。
それから、日蓮正宗との名称は、「宗教法人」としての正式名称ですが
創価学会員の立場からすれば、破門し、正本堂を破壊し、日顕宗と呼ぶのが
創価学会員としては、ノーマルであると思います。
最終的には、本人の自由ですが、宗門の悪を認識できている学会員は
必ず、「日顕宗」と言います。

102美髯公:2009/11/24(火) 13:07:10
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

426 :もくれん:2008/12/13(土) 23:51:48
>>424 梅さん

このレスは、むしろ「やまいぬ」さんに読んでいただくのが目的でした。
勿論、「やまいぬ」さんが、気がついて読んで下さる程度でいいのですが。


427 :もくれん:2008/12/14(日) 00:15:59
>>399 梅さん

>もくれんさん、貴女は私との対話を逃げ始められたのですか?

そうですね、そう言われても仕方ありません。
梅さんに「罵られても」逃げたいと思い始めました。

私は、創価学会の公式出版物の記述を「その通り」と受け止めています。
自分の思索とは、又、次元の違う話であると思います。

確認しますが「人本仏迹」論を、梅さんに「間違い」であると、気付き
認識していただければ、この掲示板にお誘いした目的が達せられるのです。
が、梅さんは、「絶対に間違いと認めたくない」とのスタンスですね。
前にも言いましたが、「曼荼羅本尊」と「衆生」の関係は「本迹」を
使った時点で、つまり「入り口でアウト」です。
しかし、そこは譲歩して梅さんとの対話にお付き合いしてきました。
御招待したという、こちらの立場の弱みもありました。
その分、私も新たに研鑽できたプラス面はあります。
しかし、梅さんに対して、限界を感じたのは事実です。

現時点で、梅さんは「人本仏迹」論を「間違い」であると「認識」できない
あるいは「認識したくない」あるいは「いや正しい」・・
いずれのスタンスであっても、今は、無理に「結論」を出さなくても
いいのではないかと思います。

創価学会の組織での実践を続けるプロセスで、自然に結論は導き出される
はずです。

ですから、私は「白旗」を、掲げるつもりでいます。
梅さんに、「人本仏迹論」の誤りを認識させてあげることが、できなかったと。
そして、私自身は「敗北」のつもりはありません、矛盾するようですが。

創価学会の現場組織での、「打ち出し」といわれる「たたかい」こそが
最重要であると確信しているからです。
実践の中からしか「自得」は、不可能であるとも確信しています。

梅さんから、出されている「質問」は必ず答えますよ。
答えるタイミングは大事ですからね。


428 :もくれん:2008/12/14(日) 00:29:20
>>421  梅さん

>でも、「人本仏迹」を「信じる」というと
>すぐに反応して、「邪義」を「信じる」のか、となるのはどうしてでしょうね。

随分と、はっきり書いてますね。

>>でも、「人本仏迹」を「信じる」というと

梅さんは「信じて」いるのですか?


人本仏迹論を、梅さんが、本当に信じているのであれば、
信じているのであれば、信ずる根拠があるはずですね。
是非、根拠をお聞きしたいですが。

103美髯公:2009/11/24(火) 13:12:51
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

439 :もくれん:2008/12/14(日) 22:55:55
梅さん

梅さんを、この掲示板にお誘いしたのは、結果的に「私の間違い」でした。
その、私の間違いについて、深くお詫び申し上げます。
結果的に、梅さんの貴重な時間を使わせてしまったことも、お詫び申し上げます。

「人本仏迹」論の対話そのものは、私の方は終了させていただきたく思います。
梅さんが、「追求」したいことは、書いていただいて結構だと思いますし、
応じる必要のあることは、私も書きますが、最初から申し上げているように
「人本仏迹」論は、100パーセント間違いです。邪義の言葉がお嫌でしたら
「間違い」の言葉を使いますが、「100パーセント間違い」です。

しかし、ひとつだけ、サービスで書かせていただきたく思うことが
あります。
サービスというのは、梅さんが、読もうが読むまいが、これだけは
梅さんのために、書いてあげたいという意味です。
ですから、梅さんが、「読もうが、読むまいが」読んだ結果、「何、意味の無い
ことを書いて」と、がっかりしようが、私としては、何も「期待しない」で
書きますということです。

結果はともあれ、先生のスピーチに、私自身が「ピーン」とくるものが
ありますので。

 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/1422/1226090096/403

このレス内容は、梅さんにとって、最も切実なことですね。


続く


440 :もくれん:2008/12/15(月) 00:55:22
梅さん

>さぁ、もくれんさんどのように読まれましたか?
>これらは、貴女が読むようにと言われた御書講義の「三大秘法」の部分と
>合わせたら微妙なところもありますが、従来とは明確に「解釈」が
>異なってきていますよね。

>現在もなお日寛師の「戒壇本尊論」に拘ったら、大変おかしなものになることは
>貴女にもご理解いただけると思いますが、いかがですか?
>これが、今からほんの22、3年前には、創価学会教学部の解釈であり
>宗門でいえば700年来の伝統的教義だったのですよ!
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

破門後、宗門とは完全に分かれて、いわゆる「戒壇様」は、創価学会には
存在しないのであるから、「本門戒壇」の文字は無くなって当たり前。
創価学会が仏意仏勅の唯一の団体であるということを、確信できるかどうかが
分岐点。
しかし、破門後数年間は、いろいろな思いの会員の心情を配慮して、先生の
以下のスピーチがある。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ttp://jbbs.livedoor.jp/study/7888/storage/1215745197.html 116・124

大聖人の出世の本懐である一閻浮堤総与の大御本尊が信心の根本で
あることは、これからも少しも変わらない。
日達上人は述べられている。
「大聖人はもう亡くなられております。その魂、その大聖人の御魂が、
この戒壇の大御本尊様である。(中略)あなた方の各仏壇に安置する
ところの御本尊様が、大聖人の御精魂である。
大聖人様即、法身報身応身の三身相即したところの御本尊様でございます。」
(1962年 昭和37年 9月7日 小田原教会での説法 日達上人全集)

各家庭の仏壇に御安置した御本尊は、「大聖人の御魂であり、御本仏の当体である」
と拝すべきなのである。そう信じて唱題するとき、そのまま、その場所で
大御本尊を拝していることになる。

日達上人は「御本尊安置の場所がどこであれ、いちおう義の戒壇と申して
その御本尊に向かって一心に余念無く唱うるところのお題目は即座に
本門戒壇の大御本尊に納まり、南無妙法蓮華経と唱えるその場所即霊山浄土
であり、即身成仏のところであります。1977年11月23日 同前)
と述べられている。

世界のいずこの場所であれ、御本尊を信じて、純真な「信心」の一念で
唱えた題目は、即座に大御本尊に通じていく。
「登山しなければ功徳なない」などというのは、先師の指南に背いた
大邪義である。

第一回 アメリカSGI最高会議  平成5年9月16日

続く

104美髯公:2009/11/24(火) 13:18:10
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

441 :もくれん:2008/12/15(月) 01:10:51
梅さん

>>宗門でいえば700年来の伝統的教義だったのですよ!

これは、随分と宗門も乱れた時代があったらしいですね。
17世日精の「法主絶対論」とか、
日寛上人は、それまでの邪義をすべて破折して、大石寺つまり日興門流を
「御本尊根本」の正義に整えたと

 ttp://jbbs.livedoor.jp/study/7888/storage/1215745197.html  121

日寛上人は広宣流布の実現を、強く願われていた。
「六巻抄」や「文段」の著述も、すべて広布のためであられた。
当時、世間に流布していた一切の邪儀を鋭く破折され、大聖人の
正義を宣揚されたのも、広宣流布を願われたからである

第一回 アメリカSGI最高会議  平成5年9月16日

★ 御本尊根本の正義を教えられた日寛上人

日寛上人は「中興の祖」と仰がれたように、信・行・学にわたって、
「最も優れた法主であられた。

日亨上人は
「六巻抄を中心にして大聖人の御正義を完ぺきに打ち立てられた」と
  (大白蓮華 昭和31年11月号)

日寛上人は、大聖人の「御本尊根本」の正義を強く主張なされた。
このことは、「六巻抄」や「観心本尊抄文段」等で明らかである。

「観心本尊抄文段」には、
「十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、
皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく
一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の
妙用あり。(中略)これ即ち蓮祖(日蓮大聖人)出世の本懐、
本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり」
(文段集 443P)と、述べられている。
一切の諸仏の一切の功徳が、すべて、この御本尊に具わっているのである。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

700年間一貫して必ずしも、御本尊根本の正しい教義で、きたわけでは
ないらしいですよ。
それに、戦前など「神札」の強要ですよ。


442 :もくれん:2008/12/15(月) 01:47:55
梅さん

>ですからね、沖浦批判についても、邪義だ邪義だとかみつくのではなく
>「もしかして、そのような発想がありうるだろうか」という検証姿勢が
>必要だと思うのです。
>そのための対話がなされることが必要とこそすれ、悪口雑言・非難に
>向かってしまうのは私たちがネット社会の対話に未成熟だからでは
>ありませんか?
>私が貴女と対話しようと思ったのは、貴女にはそれを乗り越える知性が
>おありに違いないと信じたからです。

梅さん、前にも言いましたが、私は沖浦氏と、とことん対話をしてきました。
梅さんこそ、今度こそ、梅さん自身が、沖浦氏と対話をされたらいいと思います。
沖浦氏に単刀直入に「人本仏迹」論の「根拠」を、お尋ねになればいいと思います。

> そのような発想がありうるだろうか」という検証姿勢が

これは、私程度の教学力でも、簡単に「間違い」であると判断できます。
氏の「何が故に人本仏迹論を主張するのかの、心情的背景は、すでに
解りきっています、それも、複数の方たちがです。
これは、日顕宗との、氏なりの「たたかい」の産物です。

 ttp://jbbs.livedoor.jp/study/3764/

前にも紹介しましたが、ここの彼らは誠実に、氏に向き合ってきたのです。
最後の最後まで。

>乗り越える知性

「知性」の次元の話ではなく「信心」それも、何度も言いますが
創価学会とは、何ぞやの次元の話です。

日蓮と同意ならば・・この誓願の姿勢がなければ、無理な話です。
知性で解決できるようなレベルではありません。


443 :もくれん:2008/12/15(月) 01:51:29
梅さん

>現在もなお日寛師の「戒壇本尊論」に拘ったら、大変おかしなものになることは
>貴女にもご理解いただけると思いますが、いかがですか?

こだわっているのは、一体誰なのか?
理解に苦しむ文章です。「戒壇本尊論」とは、何でしょうか?

105美髯公:2009/11/24(火) 13:25:42
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

444 :もくれん:2008/12/15(月) 02:02:33
梅さん
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>そして、この項の最後は、日寛師の観心本尊抄文段を引いて

>『また、「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり、
> 既にこれ三大秘法の随一なり、況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」
>(文段集四五二ページ)と示されている』

>と締めくくっています。
>さらに、【本門戒壇の大御本尊】の項目では
>『本門戒壇について』の小項目に

>『・・・事の戒壇とは、本門戒壇の大御本尊が御安置されるところである。
>・・・第六十六世日達上人は戒壇に御安置される根源の法体こそ
>真の事の戒壇であり、本門戒壇の大御本尊の当体及び所在が
>事の戒壇であると御相伝の上から示されている・・・』

>また、同項目の『本門の本尊について』の小項目では

>『本門の本尊とは、弘安二年(一二七九年)十月十二日に御図顕された
>未曾有の大御本尊のことであり、本門戒壇の大ご本尊のことである・・・
>日蓮大聖人の仏法の根本は本門戒壇の大御本尊である』

>さぁ、もくれんさんどのように読まれましたか?
>これらは、貴女が読むようにと言われた御書講義の「三大秘法」の部分と
>合わせたら微妙なところもありますが、従来とは明確に「解釈」が
>異なってきていますよね。

>現在もなお日寛師の「戒壇本尊論」に拘ったら、大変おかしなものになることは
>貴女にもご理解いただけると思いますが、いかがですか?
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こだわっているのは、誰なのかは、ともかくとして、日寛上人は正しいですね。
別に、今でも、正しいですね。
ただ、破門されて「戒壇様」は、我が教団には「存在しない」という事実ですね。

「存在」しなくても、日蓮大聖人の御精神・直結ということが最も大事ですね。

何も、矛盾はないし、「解釈」が変わったのでなく、しいていえば
「戒壇様」は、もう無いよ・・ですよね。
「無くても」何も、学会は「困らない」
日蓮大聖人の「御魂」は、創価学会にこそ「ある」・・
それが「確信」できるかどうか、一切は「信心」です。知性ではありません。

106美髯公:2009/11/25(水) 12:51:51
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

445 :梅:2008/12/15(月) 13:18:23
もくれんさん

>>425
>事実の上で、確実に他者を幸福にしていく実践こそ肝要と思います。
>そういう意味では、「戒壇様本懐論」がどうのこうの、私は全く、関心も興味も
>現時点では、ありません。

この1行目は当然ですので異論ありませんが、次の2行はかなり問題だと
思います。
この「戒壇様本懐論」は沖浦さんの姿勢を理解するためには、必要不可欠の
通過点なんですよ。
関心も興味もなく、貴方は沖浦さんと対話したのですか?
そうであるならば、かみ合った対話ができるわけありませんね。

>その「出世の本懐の《実物》の大御本尊様」に対して「執着」は、持っても
>現実として、致し方なくもあり、すでに、創価学会は、未来向けて
>新たなスタートをしているわけです。

「執着」を持つ必要もなく「致し方なく」と言う必要もない教義解釈が新時代の
要求だと思いませんか?
現実に、大白10月号の報恩抄講義では三大秘法の「本門の戒壇」について
従来とは方向転換されています。
そういうことを踏まえて、私は『教義の解釈や見解・表現は変わりうる』と
申し上げているのです。
昭和61年版仏教哲学大辞典をあげたのは、そういうことを証明する文証と
してあげました。
さらに、私が中学時代に教学任用試験で出題範囲であり、
懸命に勉強した「折伏教典」は、現在には時代遅れの教義解釈があります。
これで学んだ学会員もまだたくさん生きているのです。
私の>>423で投稿した内容と意味を、ご理解いただけてましたか?

>「戒壇様」は、日蓮大聖人の胸中の南無妙法蓮華経を図顕された「曼荼羅」
>そのものですね。
>「教義」は、変わりようがありません。誰にも変えられません。
>今後未来永劫に変わりようがありません。一大秘法・本門の本尊・変わりません

「法」という意味で、貴方の言う「内実」という点では変わらないでしょうね。
しかし、その「法」の解釈や見解・表現という点では変わりうるのです。
学会でも破門前、「戒壇様」は人法一箇の究竟中の究竟である大御本尊とされ
三大秘法の「本門の戒壇」である「事の戒壇」に御安置されるものと
されてきたのですよ。
現在、もしこの通りの解釈を維持するなら、学会には三大秘法の一部が
かけてしまうのです。
そんなことありませんよね!
ですから、大白10月号報恩抄講義では、「本門の戒壇」を
「和合僧としての戒壇」としていると思いませんか?

>創価学会員の立場からすれば、破門し、正本堂を破壊し、日顕宗と呼ぶのが
>創価学会員としては、ノーマルであると思います。
>最終的には、本人の自由ですが、宗門の悪を認識できている学会員は
>必ず、「日顕宗」と言います。

貴方はご自分の使われている言葉の論理がおわかりですか?
貴方は、「本人の自由」だと前提を置きながら、「必ず」日顕宗と呼ぶのが
「ノーマル」な学会員だとしてます。
しかし、このように「ノーマル」である学会員なら、「必ず」日顕宗と呼ぶと
断定されたら、学会員に「本人の自由」はなくなるのですよ。
おわかりですか?
貴方のこの発言は、ひできさんの分析>>435の4,11、15(ラベリング形)に
該当しそうです。

以上、>>425についてです。

107美髯公:2009/11/25(水) 12:57:57
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

446 :梅:2008/12/15(月) 14:02:26
もくれんさん

>>427へのレスです。

>梅さんに「罵られても」逃げたいと思い始めました。

正直さに好感を持てますが、後段にある次の

>ですから、私は「白旗」を、掲げるつもりでいます。
>梅さんに、「人本仏迹論」の誤りを認識させてあげることが、できなかったと。
>そして、私自身は「敗北」のつもりはありません、矛盾するようですが

上記はかなり良心的に受け止めないとイヤミですね。
対話を途中で放棄したら、な〜んだ、で終わりなんですよ。
貴方が言う『実践の中で自然と結論が導き出せるなら』ネットでの
対話なんぞ必要性がないのですよ。
もちろん、沖浦見解を批判する必要も、貴方にとっては「ない」のでは
ありませんか?

>私は、創価学会の公式出版物の記述を「その通り」と受け止めています。
>自分の思索とは、又、次元の違う話であると思います。

1行目、貴方の姿勢ですからご自由です。
2行目、思索をし、ただの引用ではなく自分の言葉で語ることが、
対話では血の通ったものになるのではないですか?
ただの引用ならロボットにすぎません。

>前にも言いましたが、「曼荼羅本尊」と「衆生」の関係は「本迹」を
>使った時点で、つまり「入り口でアウト」です。

ですから、本迹論から対話に入ったのでしょう?
また、最初の入り口で「アウト」だと言うのは、古典的な本迹論から
一歩も前進できなかったのですね?
そうだとすると、撤回を重ねることになりますね。

貴方には本迹論がダメなら、他にも「切り口」はあったのです。
その一つをあげれば「他力本願・自力本願」の民族的もしくは民俗的考察です。
この切り口は、「御書の世界」に糸口がありましたが、
対話を途中でもお終いにしたいようですから
これ以上は申しません。貴方の思索に任せましょう。

>現時点で、梅さんは「人本仏迹」論を「間違い」であると「認識」できない
>あるいは「認識したくない」あるいは「いや正しい」・・
>いずれのスタンスであっても、今は、無理に「結論」を出さなくても
>いいのではないかと思います。

貴方のご意見として受け止めます。

108美髯公:2009/11/25(水) 13:02:05
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        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

447 :梅:2008/12/15(月) 14:05:41
>>446訂正

貴方が言う『実践の中で自然と結論が導き出せるなら』
       ↓
貴方が言う『実践の中で自然と結論が導き出せる』なら


448 :梅:2008/12/15(月) 14:31:41
もくれんさん

>>428へのレスです。

>人本仏迹論を、梅さんが、本当に信じているのであれば、
>信じているのであれば、信ずる根拠があるはずですね。
>是非、根拠をお聞きしたいですが。

貴方は>>427で結論を出さずともよいと、私にアドバイスなされていますよ。
それに、沖浦見解である「人本仏迹」は本迹論の定義がキチンと前提になければ
いかにそれを論じても、貴方の言う『入り口』で『アウト』なのです。
これまでの批判合戦はそこを明確にせずに終始していますね。

また、私の対話の目的は自説の展開ではなく、本迹を明らかにした上での
沖浦見解の検証する姿勢でした。
それに、今日(15日)の貴方の投稿をざっと読んだ限りでは
貴方は、私との対話の真摯な継続態度に欠けてしまったようです。
したがって、私も貴方の質問に誠実にお答えする対話相手としての義務も
なくなってしまいました。


449 :梅:2008/12/15(月) 14:48:29
もくれんさん

>>439へのレスです。

>梅さんを、この掲示板にお誘いしたのは、結果的に「私の間違い」でした。
>その、私の間違いについて、深くお詫び申し上げます。
>結果的に、梅さんの貴重な時間を使わせてしまったことも、お詫び申し上げます

まぁ、これ以上の謝罪には及びません。
了解いたしました。
私としても、改めて勉強しました。ムダにはなっていません。

>「人本仏迹」論は、100パーセント間違いです。邪義の言葉がお嫌でしたら
>「間違い」の言葉を使いますが、「100パーセント間違い」です。

言い切ってしまいましたねぇ(*^_^*)

この後の貴方のレスは、私への『サービス』なんですね。
『読もうが読むまいが』とおっしゃいますが、読んでしまったので(笑)
読んでて、なんだか分からないところを、私もサービスで指摘しますね。
投稿を次に送りますから、読まなくてもけっこうですよ〜

109美髯公:2009/11/25(水) 13:13:08
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450 :梅:2008/12/15(月) 15:08:55
もくれんさん

>>440
>破門後、宗門とは完全に分かれて、いわゆる「戒壇様」は、創価学会には
>存在しないのであるから、「本門戒壇」の文字は無くなって当たり前。

すごく飛躍した論理ですねぇ。
貴方の思索として受け止めます。

>大聖人の出世の本懐である一閻浮堤総与の大御本尊が信心の根本で
>あることは、これからも少しも変わらない。

そうです。これは「法華経の智慧」でも「御書の世界」でも書かれています。
そして、その出世の本懐が弘安12年10月12日の
一閻浮堤総与の大御本尊であることも両書は明確に書かれています。
(ただし、その書き方は以前と違い控えめに触れた程度ですね)
「本門戒壇」を外すとかの問題ではないですよ。

>日達上人は述べられている。

三大秘法の「本門の戒壇」を「義」と「事」に立て分けられているのですよ。
当然、日達師の時代では「事の戒壇」に御安置するのは、いわゆる「戒壇様」ですね。

しかし、報恩抄講義ではこのような立て分けは書いてありませんね。
戒壇=和合僧(仏教教団)と捉えているようです。お分かりですよね。


451 :梅:2008/12/15(月) 15:27:33
もくれんさん

>>441
>700年間一貫して必ずしも、御本尊根本の正しい教義で、きたわけでは
>ないらしいですよ。

その通りですね。
しかし、700年変わらぬ「富士の清流」と教えられたことも事実です。
私の初登山は小学生の頃ですが、そんな話を聞いていても良く分かりませんので
総本山の境内を流れる清流を見て、なるほどこのことかと理解しましたね(笑)
今は知りませんが、昔は水量が豊富でまさに清流でした。

ただ、日寛師について言えることは、彼の教学の全ては、
いわゆる「戒壇様」という「大御本尊」の「法」の証明だったわけですね。
これは、現代で考えるとのとは少し違うのです。
江戸時代の徳川封建制度の中で、富士門流が生き延びていくという時代背景が
あるようです。
現代では、私たちの大御本尊は「戒壇様」である必要はないですね。
私自身の人生からは戒壇の大御本尊様ははずせないですが、
教学的には私はそういう理解です。


452 :梅:2008/12/15(月) 16:03:21
もくれんさん

>>442
>これは、私程度の教学力でも、簡単に「間違い」であると判断できます。

確か「入り口」で「アウト」でしたね。
本迹を伝統的・古典的・定型的に言えば、そうなります。
ですが、何度も言っているように、他の見方も出来るのではないか、
これが私の考え方です。
それで>>170は「仮説」を提示し、対話の中で考察しましょうと提案しました。
その上で、人本仏迹論も検証しようとしたはずです。

>梅さんこそ、今度こそ、梅さん自身が沖浦氏と対話をされたらいいと思います。
>沖浦氏に単刀直入に「人本仏迹」論の「根拠」を、お尋ねになればいいと思います。

私は沖浦さんが言わんとしていることは、貴方より深く理解しています。
彼は、本迹を「立場」論で捉えていますね。貴方はお分かりでしたか?
誤解を恐れずにいえば、仏の出世の目的を考えれば、「人本仏迹」も
間違いとはいえなくなるのです。
これは私の見解です。
また、「人本仏迹」について他に適当な言葉があれば、沖浦さんも使わなかったかも
知れません。

「本迹」の言葉に引っかかると、直ぐに邪義といいたくなる気持ちは理解します。
しかし、対話は終わったわけですから、これ以上は申しません。

110美髯公:2009/11/25(水) 13:19:58
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

453 :梅:2008/12/15(月) 16:21:57
もくれんさん

>>443
>>現在もなお日寛師の「戒壇本尊論」に拘ったら、大変おかしなものになることは
>>貴女にもご理解いただけると思いますが、いかがですか?

>こだわっているのは、一体誰なのか?

もちろん、拘ったのは私で、それを私なりに乗り越えた上での発言ですよ。

>理解に苦しむ文章です。「戒壇本尊論」とは、何でしょうか?

ええ! 驚いて返す言葉がありません。

『日蓮大聖人の出世の本懐とされる弘安2年10月12日建立の
日蓮正宗総本山大石寺にある本門戒壇の板曼荼羅大御本尊を
通称「戒壇様」とお呼びして一閻浮提総与の「本門の本尊」たる大御本尊とし、
これをめぐる様々な論争を指す』

そういうことですが。


454 :梅:2008/12/15(月) 16:44:12
もくれんさん

>>444
>こだわっているのは、誰なのかは、ともかくとして、日寛上人は正しいですね。
>別に、今でも、正しいですね。

そうですか。
貴方の見解ですから、ご自由です。
しかし、創価学会には日寛師を越える学匠がいづれ現れると思います。

仏法には「時」というのもあるようですから、何十年もずっと先のことでは
ないでしょうね。
それは単数の人間ではなく複数の人間でなされるのかも知れません
(教学部のようにね)
牧口先生の価値論、戸田先生の生命論があって、
日蓮仏法は現代に蘇ったといいます。
宗門と分かれた現代において、当然、これらの視点に立った教学の
見直しがあると思います。
もちろん、これは私の個人的見解です。


455 :梅:2008/12/15(月) 17:08:00
もくれんさん

貴方のレスにすべてお返事しました。
1ヶ月未満で対話が終わるとは思ってもみないことでした。
内心では3月位かなと考えていたからです。

しかし、対話は相手があって成り立ちますから
一方に無理強いをしてもせんないことですね。
特にここはネットですから、スルーされればそれきりです。

リアルでも、一時交流が途絶えていた友人でも
ふとした機会に思い出したように対話することがありますね。

そういうことでもあったら、沖浦板においで下さいませ。
ネットをやめない限り、そこに常駐しています。

ひできさんには、きちんとしたレスを頂きたいところでしたが、
この板を去ればロムもしませんので再度私が要求したご指摘はもうけっこうです。

また、沖浦板で会いましょう。
教学解釈が違うくらいで、いがみ合うのはソンですよ。
お若いのですから、沖浦さんの人生に学ぶというくらいの
大きな気持ちで眺めてみるのも大切かと思います。

粛坊さんはじめここの皆さん、スレを占領しご迷惑をおかけしました。
静かに見守ってくださり、お礼申し上げます。


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