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(´・_ゝ・`)白天、氷華を希うようです('、`*川

1名無しさん:2024/01/01(月) 00:00:05 ID:yFlHhZ5Y0

四方八方から聞こえる楽しそうな歓声に耳を塞ぎつつ、人にぶつからないように道を歩く。
三年間の高校生活を華々しく飾るはずのメインイベント、修学旅行。
そんな素晴らしい機会を一人寂しく消費していただけの私は、運良く空いていたベンチを見つけるやいなや、そこにゆっくりと腰掛けた。

眼前には、明るい色の私服に身を包んだ高校生たちが和気藹々と走っていくのが見える。
どの子も見覚えのある顔ばかり。
一度も話したことはない、普通科クラスの男子たちだ。

ポケットから取り出したスマホを一瞥する。
“一緒に回ろう”と約束をしたものの、今朝突然体調を崩し、ホテルで一人休んでいる数少ない友人からのメッセージはなかった。
そもそも電波を示すアンテナは小さな一本が辛うじて立っているのみ。おそらく、この人込みのせいで繋がりにくくなっているのだろう。
"これが遊園地というものか"と新たな学びを得たことに嘆息しつつ、私は使い物にならなくなったスマホをカバンに戻した。

63名無しさん:2024/01/19(金) 00:35:21 ID:KKTQDt7.0

从'ー'从「…せんぱーい、聞いてますかぁ?」

('、`;川「……へ?あ…ごめん、なに?」

从'へ'从「あ〜!やっぱり聞いてなかったぁ〜!」

いつの間にか呆けていたのか。
すっかり出来上がってしまっている後輩に向き直り、慌ててただ持っていただけのジョッキを置く。
あれほど綺麗に立っていた泡は既にほとんど消え去っていた。
どうやら自分はそこそこ長い間、物思いに耽っていたらしい。

从'ー'从「だからぁ、先輩は何か最近、面白い話ないんですかぁ〜!?」

('、`;川「お、面白い話…?」

おじさんみたいに枝豆を貪りながら、とんだむちゃぶりを投げかけてくる。
これが年配の男性上司なら舌打ちをした後すぐさま人事にぶちこむのだが、可愛い後輩となれば話は別だ。

顎に手を当て考える。
記憶力には自信がある。最近どころか、物心付いた頃からならば日付を含めた些末なことまで思い出せる。

だが、巡っても巡っても特に彼女の興味を惹けるような話など見当たらない。
ここ最近は、新しく決まった大型業務の対応で手一杯だったのだ。
それに加えて、省庁への応対や社長のスケジュールの修正まで並行してこれまで通りにやらねばならないのだから、それはもう大変で――。

64名無しさん:2024/01/19(金) 00:37:16 ID:KKTQDt7.0

『婚約書類、確認したらサインと印鑑押して――』

('、`*川「――あ」

考えないよう、頭の奥底に仕舞っていた記憶を引き出してしまい、無意識に言葉が漏れる。
慌てて口を塞ぐも、もう遅い。
さきほどまで胡乱な目をしていた筈の後輩の両眼が、星空のような輝きを放って爛々とこちらを向いていた。

从*'ー'从「ちょっとその反応!なんですなんです!?」

('、`;川「い、いや…別に、面白くはないから…!!」

从*'ー'从「隠そうとするってことは、私が面白く感じる話でしょ〜!?白状して下さいよ〜!」

“迂闊”という漢字二文字がグルグルと脳内を回る。完全にやらかしてしまった。
“よく分からないプロポーズをされた”、そんな恋愛色の強い話は彼女の極上のエサになることなんて容易に想像がついたというのに。

少しでも情報を漏らせば最後。根掘り葉掘り聞かれることになるに決まっている。
そうなれば二軒目…いや三軒目までハシゴすることになるのは明白。
良くて終電逃しタクシー帰宅コース、下手すれば始発で朝帰りコースだ。

65名無しさん:2024/01/19(金) 00:40:15 ID:KKTQDt7.0

視線を横に移し、助けを求めようとデルタくんにアイコンタクトをとる。
あの唯我独尊男の隣に10年以上立ち続け、果てには副社長となった男だ。
彼のその有望ぶりは仕事だけにとどまらず、人付き合いでも遺憾なく発揮される場面を何度も見ている。
あの頭の固い官僚や役人ですら忽ち篭絡させるその手腕、いま頼らずにいつ頼るのか。

私の念が通じたのか、デルタくんは小さく、それでいてしっかりと頷く。
よし、勝った。これで後は彼が話の流れを上手く私から逸らしてくれる筈。
その後はナベちゃんを飲ませ続ければ終電帰りも夢じゃない。

('ワ`*川(ごめんねナベちゃん……でも、勝った…!)

明日も定刻通り仕事なのだ。ただでさえ最近はまともに寝ていないし、少しでも睡眠時間は確保したい。
ナベちゃんには悪いが、ここで流れを断たせてもらおう――。

66名無しさん:2024/01/19(金) 00:41:58 ID:KKTQDt7.0

( "ゞ)「…あー、そういえば」

( "ゞ)「伊藤さん、デミタスからのプロポーズどうだったの?返事した?」

('ワ`*川

('、`*川

('、`;川

从'ー'从「……………ぷろぽーず?」

一瞬だけキョトンとしたナベちゃんの顔が、みるみる内に明るく変わっていく。
まるで、花が開く瞬間をハイスピードカメラで見ているかのように。

騒がしい居酒屋の中、私たちのテーブルだけが途端に静寂に包まれる。
急に閑かになった雰囲気にようやく違和感を覚えたのか、デルタくんは「あれ?」とでも言いたげな顔をする。

彼が自身の発言のミスに気が付いたのと、ナベちゃんが立ち上がったのは、全くの同時であった。

67名無しさん:2024/01/19(金) 00:43:27 ID:KKTQDt7.0

从;*'ワ'从「プロポーズ!?!?!?!?」

店の中で、一際大きな叫び声が響き渡る。
同時にこちらに向けられた驚きと非難を込めた視線の数々。
私とデルタくんは慌てて周りに頭を下げるも、ナベちゃんは構わず話を続けた。

从*'ワ'从「えっえっ、つ、ついにですか!?社長から!?うわ、うわうわうわ〜!!」
('、`;川「しっ、しーー!!ナベちゃん止めて!お店だからここ!ねっ!?」

わざとらしく口に手のひらを当てながら、少女のように燥ぐ彼女に頭が痛くなる。
隣に恨みがましい視線を向けると、デルタくんは縮こまりながら両手を合わせてこちらに頭を下げていた。
もう遅い。今度絶対仕返ししてやる。

68名無しさん:2024/01/19(金) 00:46:24 ID:KKTQDt7.0

从*'ー'从「え〜!?どんな感じだったんですか!?やっぱりあの人のことだから、ちょ〜お高いレストランで…とか!?」

从*^ワ^从「あ、分かった!社長室だ!あそこからなら綺麗な横浜の夜景一望できますもんね〜!!うわわ、ロマンチック〜〜!!」

('、`*川「……え、あ、いや、そういうのじゃなくて」

('、`*川「なんか車で、“はい”って書類渡されただけだけど」

从*^―^从「え〜!?車で!?いいじゃないですかそういうのも……」


从'ー'从「……え、書類?何それ?」


火力を最大まで上げたヒーターよろしく盛り上がっていた彼女の熱が一気に冷める。
あぁよかった。あまりにも普通に渡してきたから、逆に私の感覚がズレているのだろうかと心配だったのだ。

('、`*川「いやだから…いきなり“サインと印鑑押しとけ”って言われて、書類の束渡されて…中身はちゃんとした、婚約についての文章だったけど」

从;'ー'从「へ……書類の束?え?花束の間違いじゃなくて?」

('、`*川「いや紙だったけど」

从#'ー'从「おいどういうことだ保護者」ドゴッ

(; "ゞ)「うぐっ!?」

無表情になったナベちゃんがノールックのままデルタくんを小突く。
彼の箸に捕まれていた唐揚げは無常にもテーブルを転がり、重力に従ってそのまま床へと落ちていった。

69名無しさん:2024/01/19(金) 00:48:35 ID:KKTQDt7.0

(; "ゞ)「ど、どういうことって…そのままだよ。デミタスと伊藤さんが婚約関係になるにあたっての、色々細かい条件とかを決めた証書を……」

从'ー'从「いや諸々すっ飛ばしすぎでしょ。えっ、先輩ってもうあの人と付き合ってたんですか?」

('、`*川「ううん全然」

从#'ー'从「保護者、説明」

(; "ゞ)「いやそれは俺も言おうとしたけど…ちょっと待って箸を目に向けないで」

ナベちゃんの持つ箸先は、容赦なく、見事にその直線状にあるデルタくんの両目を捉えている。
彼の頬には本気の焦りの汗が伝っていた。ナベちゃんのことだ、彼女はマジで狙っている。

(; "ゞ)「と、とにかく…伊藤さん、結局なんて返事したの?俺も最近忙しくて、デミタスとはニアミスばかりで話聞けてないんだよね」

デルタくんの震えた声に、私は少し言い淀む。
脳裏に浮かぶのは、自室の机の上に置かれたままの婚約に関する書類のこと。

('、`;川「えっと、……それが、その」

('、`;川「……まだ、何も返事して、なくて」

私の返答に、デルタくんの目が丸くなる。
おそらく彼は、認容するなり却下するなり、何かしらの返答はした筈だと思っていたのだろう。
今までの私ならそうだ。面倒そうなことほど先に対応する。
だが今回に限っては、あの日から二週間以上たった今でも、私は何の結論も出せずにいた。

70名無しさん:2024/01/19(金) 00:49:54 ID:KKTQDt7.0

( "ゞ)「…どうして?やっぱりなにか書類におかしなトコあった?一応、俺も確認したんだけど」

从#'ー'从「おい確認してたんなら止めろや!何そのままGoサイン出してんだ仕事しろぉ!」

(; "ゞ)「痛っ、ちょ、痛い痛い!!髪はやめて!!髪は!!」

助けを訴えるデルタくんを尻目に、受け取った書類の文章を脳内で暗誦する。

社長から書類を渡されたあの日の夜。泊まったホテルの部屋ですぐに内容を確認した。
最初こそとんでもないことが書かれているのではとか、ドッキリの類なのではないと勘繰ったが、中身は至って真面目な婚姻に関する契約書であった。

いや、真面目どころではない。
ただの婚姻についての同意に留まらず、互いの家が持つ資産への言及、婚姻後に私が“盛岡家”に縛られることのない旨の保障、万が一離婚した際の財産分与についての規定まで。
どれもが緻密に規定されており、それでいて、どれもが私に有利になるような文面だった。

彼の家柄のことも考慮すると、ここまで手が込んだ書類をイタズラでも作る訳がない。
それこそ成年になる前から、嫌と言うほどに由緒正しい家のお嬢さんとの縁談の話が持ち上がっていた筈だ。
“婚姻”という言葉の意味を、彼は単純な法的効力以上に重く捉えているはずなのに。

更には、最後のページに記されていた書類作成者の名義人には、大学の後輩で、今は東京で弁護士をしている友人、“新塚ニュッ”の名があった。
彼も関わっているということは、おそらく本当にこの書類に記されていることに誤りや、私を陥れる意図などはないのだろう。

71名無しさん:2024/01/19(金) 00:52:08 ID:KKTQDt7.0

('、`*川「ううん、内容に問題はなかったの。そもそも新塚くんが作った書類なら大丈夫だろうし、一応私なりに確認したけど、大丈夫だった」

从'ー'从「うわ、ニュッのやつも一枚絡んでるんですか?うげ〜今度会ったらイタズラしてやろ」

( "ゞ)「一応聞くけど、具体的に何するつもりなんだ?」

从*^―^从「デレちゃんの前で“やっぱり私とは遊びだったのね”って泣き喚く♪」

( "ゞ)「聞いてよかった。絶対やるなよ」

('、`*川「新塚くんはマジで訴えてくるだろうね」

“半分冗談です〜”という発言の後、残っていたビールが不満げに飲み干されていく。
半分、という単語については聞かなかったことにしておいた。

“デレちゃん”というのは、新塚くんの幼馴染の彼女のことだ。
時々話を聞くが、実はこの中で私だけはまだ会ったことがない。
大学の時から話だけは聞いているのだが、いつか挨拶したいと思いながら数年の時が経ってしまった。

ナベちゃん曰く、“あんな根暗法律オタクにはもったいなさすぎる良い子”とのこと、
容姿と違って少し捻くれたところのある彼女にこれだけ言わせ、更にはあの新塚くんを心底夢中にさせるのだから、相当な良い子なのだろう。

72名無しさん:2024/01/19(金) 00:54:08 ID:KKTQDt7.0

( "ゞ)「…でも実際、伊藤さんはデミタスのどこが嫌なんだ?」

('、`;川「い、嫌って訳じゃ……」

( "ゞ)「確かにデミタスはよく人のことバカにするし、社員たちの名前も碌に覚えないし、株主に対してもすぐ喧嘩売ったりするけど、悪いやつじゃ…いや悪いやつか……?」

途端に難しい顔をしながらテーブルを見つめ出すデルタくん。
こうして特徴を挙げていくと、寧ろプロポーズを断らない理由を見つける方が大変かもしれない。
というかアレがそもそもプロポーズといえるかどうかも疑わしい。
私が常日頃思っていることは間違いではないのだと思うと、少し心が軽くなった。

( "ゞ)「……でも、まぁ、結婚相手としては悪くないだろ?」

( "ゞ)「由緒正しい家の本物の御曹司だし。家に頼らずとも資産はあるし、何より……」

( "ゞ)「…あいつは、伊藤さんなら絶対大切にすると思うよ。これは副社長としてじゃなく、あいつの10年来の友人としての意見だけど」

真剣な眼差しと、真面目な声色が心に刺さる。
確かにそうだろう。社長は善人とは間違いなく言えないが、かと言って悪人でもない。
それぐらいのことは、いくら私でも分かっている。

73名無しさん:2024/01/19(金) 00:55:39 ID:KKTQDt7.0

从'ー'从「…まーでも、確かに盛岡先輩はメチャ優良物件ですよね〜。喋らなきゃイケメンだし、背も高くてスラっとしてるし、お金持ちだし!」

从'ー'从「私の周りでもキャーキャー言ってる女の子ばっかりですよ?私はいくらお金持ちのイケメンでも、あんな変人まっぴらごめんですけど〜」

('、`;川「あ、あはは…まぁ、変わってはいるよね……」

ナベちゃんの言う通りだ。
家柄良し、見た目良し、学歴も社会的地位も良し、おまけに個人資産は優に200億を超えている金持ちときた。
あまりこの言い方は好きではないが、間違いなく極上の“優良物件”なのだろう。

彼が結婚する女性というのはどういう人なのだろうと、考えたことがないわけじゃない。
偶にだが、持ち込まれた縁談を面倒そうに断っている彼の姿を見たことがある。
一度だけ、こっそり相手の写真を確認したことだってある。そこには、自分では足元にも及ばないほどに、綺麗な女性が写っていた。

結局、どんな人が社長と結婚するかは検討がつかずに終わった。
事務次官の娘か、元財閥の令嬢か、海外のセレブの女性か。候補としてはこんなところだろうか。
…まぁ、少なくとも、私ではないということだけは、確実だろう。
そう結論付けてからは、あまり考えないようにしていた。

74名無しさん:2024/01/19(金) 00:56:50 ID:KKTQDt7.0

そんな人が、意図は分からないが私に婚約を申し込んできた。
何の取り柄もない、強いて言うなら、気味の悪さすら感じるほどの記憶力だけ。
家柄は中途半端で、見た目もせいぜい十人並みの、可愛らしさの欠片もないこんな女に。
本来なら、こんな女を選んでくれたことに感謝すらするべきなのだろう。

…だけど。

从'ー'从「……というか、そもそも先輩は嬉しくないんですか?」

从'ー'从「だって、先輩、ずっとあの人のこと――」

ナベちゃんの質問は、終ぞ最後まで言われることはなかった。
愛想のいい店員のお兄さんが、これでもかと盛られた刺身の盛り合わせを持ってきたからである。

言葉を途中で止め、“待ってました”といわんばかりに箸を刺身へと伸ばす後輩。
彼女に苦笑いを浮かべつつ、心配そうにこちらに目を向ける副社長の視線には気が付いてないフリをする。

(-、-*川(………本当に)

(-、-*川(どうしたらいいのかしらね、私)

美味しそうに料理を味わう可愛い後輩を見ながら、すっかり温くなったビールを呷る。
冷たいのだが温かいのだか分からないそれは、ひどく苦いものに思えた。

75名無しさん:2024/01/19(金) 00:59:19 ID:KKTQDt7.0



( "ゞ)「……じゃあ、俺たちはこっちだから」

('、`*川「うん。ナベちゃんのこと、お願いね」

( "ゞ)「伊藤さんも気を付けて。…やっぱり、伊藤さんの分のタクシーも呼ぼうか?」

('、`*川「ううん、ちょっと歩きたい気分だから。それに、まだ終電まで余裕もあるし」

( "ゞ)「…そっか。じゃあ、お疲れ様。おやすみなさい」

('ー`*川「うん、お休み。……ナベちゃんも、またね」

从- -从スピー グーー

背負われたまま、一向に起きる気配のない後輩の頭をサラッと撫でる。
長い睫毛とサラサラの髪に、なんとも言えない愛らしさ。
私がもし男性なら、このままお持ち帰りしていただろうなとも思った。それでも毎回酔いつぶれた彼女を送っていくのはデルタくんなのだから、彼の鉄の理性には恐れ入る。

店の前に止まったタクシーに乗り込んだ二人を見えなくなるまで見送ってから、私は踵を返して歩き出した。
ここから駅まで10分もかからない。改札までの距離と、最寄りについてからの徒歩を含めても午前1時前には家に着ける。
そこから化粧落としやシャワーの時間も考えると、ギリギリ5時間は眠れる筈だ。

76名無しさん:2024/01/19(金) 00:59:59 ID:KKTQDt7.0

路地を抜け、大通りに出る。
日付が変わりそうなこの時間帯でも、私と同じような飲み会帰りの社会人がちらほら見られ、並ぶ店の前では若いお兄さんたちが呼び込みを続けている。
その賑やかさは、新宿や池袋などの都心と比べても遜色ないものだろう。

道中、一組のカップルが目に入った。否、よくよく辺りを見れば、一組どころではない。
道の端や、飲食店の入り口付近まで。少し離れたところで、色んなカップルたちが乳繰り合っているのが見えてしまった。
慌てて目を逸らすも、無駄に良い記憶力だけはいい脳が勝手に視界を思い返してしまう。
考えるなと自身に言い聞かせながら、必死に足を速く動かす。

('、`*川(………恋愛、かぁ)

いくら夜中とはいえ、街灯や建物の明かりがあるのによくやるものだ。
早くここを抜けてしまおうと速度を上げる両脚と共に、思考もまた速く巡り始める。
この28年間、全くといっていいほど私の人生において“恋愛”なんてものが入る余地はなかった。

77名無しさん:2024/01/19(金) 01:01:19 ID:KKTQDt7.0

高校の頃も、大学に上がってからも、社会人になった今も。
いつの頃も、あの変人についていくだけで精一杯だった。恋愛なんて、縁もゆかりも、そもそも耽溺する時間的余裕すらなかった。

圧倒的経験不足。だからだろうか。
私は未だに、“彼”に抱くこの感情が、“そういうこと”なのかについても自信がない。
恋情なのか、尊敬なのか、少し特殊な友情なのか、はっきりと分けることが出来ないでいた。

言い訳にはなるが、それが当然だろうと開き直る自分もいた。
あれだけ強烈な個性を持つ異性がいれば、どうしたって意識してしまう。
もういい年した大人なのに。そんな自己嫌悪が胸中を纏わりついて離れない。

('、`*川(……父さまたちは、喜ぶんだろうな)

婚約証書と実家のことを思考の天秤に乗せる。家柄と金と体裁が大好きなあの家族のことだ。
“盛岡家”との繋がりが出来ると知ればすぐに手のひらを返し、地面に頭を擦りつけてでも私に言い寄ってくることだろう。

78名無しさん:2024/01/19(金) 01:02:47 ID:KKTQDt7.0

……実際、一体私は何を不満に思っているのだろうか。

盛岡くんが、彼自身のことが嫌なのだろうか。
なら、彼が別の女性と結婚するのだと早とちりしたあの時、どうして私は泣きそうになったのか。

婚約証書に書かれていたことに文句があるのだろうか。
それもきっと違う。何度も何度も内容を確かめたが、盛岡くんに不利になりそうな規定はあれど、私が嫌な目に遭うようなことはなかった。
それこそ、些細な可能性すら重箱の隅をつつくかのように潰されていた。

じゃあ、私は一体、何をそんなに、迷って――。

('、`*川「…………あれ…?」

道中、ピタリと足が止まった。
それと同時に、視界内の照準がとある一点に固定される。
視線の先には、先ほどと似たような一組の男女がいた。

“またか”とか“よそでやれ”とか、内から湧いてくる怒りのなりかけみたいな感情を抱いたのは、ほんの一瞬。
足を止めたのは決して文句を言おうとしたからでも、別の道に進路を変えようとしたからでもない。



(´・_ゝ・`)ζ(゚ー゚*ζ



その男女の片方に、ひどく見覚えがあるからだった。

79名無しさん:2024/01/19(金) 01:04:24 ID:KKTQDt7.0

('、`;川(………だ、れ)

片方は、すぐに分かった。
見間違いであって欲しい。ただの他人の空似であって欲しい。
そんな淡い希望を、他ならぬ私の記憶力が全否定する。

暗がりなど関係ない。背格好も雰囲気も、着ている服も、視認できる全ての情報を基に、私の脳は彼を盛岡くんだと判断した。
社長だ。盛岡くんだ。私がよく知る、彼だ。

じゃあ、隣の女性は誰なのか。
私の記憶にはない。ということは、私が一度も会ったことのない人物ということだけは分かる。

ζ(゚ー゚*ζ

とても可愛らしい女性だった。
ナベちゃんに勝るとも劣らない。嫉妬すら欠片も浮かばないほどに、可憐な女の子。
私より若そうに見えたが、着ている服は色合いを含めてとても落ち着いている。
牡丹のような少女性と、芍薬のような大人の女性らしさを上手く両立しているような、そんな人。

80名無しさん:2024/01/19(金) 01:05:48 ID:KKTQDt7.0

立ち止まったまま二人を見続ける。
どうしようか。このまま立ち去るべきだろうか。それとも、思い切って声をかけるべきだろうか。
そもそも私に、声をかける資格などあるのだろうか。

動かない両脚とは対照的に、脳は高速で回転する。
彼が綺麗な女性と並んでいるところを見るのなんて別に初めてじゃない。寧ろよくあることだ。
というかそもそも私は別に、盛岡くんの彼女という訳じゃない。
私はあくまで、ただの部下で、元同期で、元クラスメイトで、友人の一人に過ぎなくて――。

――だから、なんだ。

無意識に歩き出していた。
頭の中は未だごちゃごちゃで、整理なんて少しも出来ていない。

あの女性は誰なのか。
彼女なのだとしたら、なぜ私に婚約の誓約書など渡してきたのか。
どうしてこんな時間に、こんな所にいるのか。
私は、彼のことをどう思っているのか。
彼にとって、私は一体何なのか。

声をかける。かけてやる。
この10年で積もりに積もった疑問を、ありったけぶちまけてやる。

81名無しさん:2024/01/19(金) 01:07:03 ID:KKTQDt7.0

死地に向かう兵士みたいに、速度を緩めることなく近づいていく。
もうそれほど距離もない。仮に石を投げたなら、私の筋力でも十分届く距離。
声をかけよう。そう思って息を吸い、吐き出そうとした、その瞬間。


(;´・_ゝ・`)ζ(゚ー゚*ζ

(;´-_ゝ・`)ζ(゚ワ゚*ζ

(*;´・_ゝ・`)ζ(^ー^*ζ




( 、 川


――私の記憶にない、顔が、見えた。

82名無しさん:2024/01/19(金) 01:09:40 ID:KKTQDt7.0

( 、 川(あ)

( 、 川(あ、ああ、ああ あ)

声が出ない。それどころか、上手く息さえ吸えやしない。
足が止まったまま動かない。あれだけの勢いが、風船みたいにしぼんで消える。

( 、 川(なにか、いわなきゃ)

『何を言うの。お邪魔虫になるだけじゃない』

( 、 川(なにか、きかなきゃ)

『見て分かったでしょ?あなた、彼のあんな顔、一度だって見たことある?』

( 、 川(違う、そんな、でも、じゃあ、なんで)

『遊ばれたか、揶揄われたか。有力なのは、単なる“圧力をかけてくる家や世間への体裁作り”ってとこかしら』

脳裏に響く声が、幾重にも鼓膜で反響する。
今までの人生で一番聞いた声が、一番聞きたくないことを言おうとしている。

83名無しさん:2024/01/19(金) 01:10:21 ID:KKTQDt7.0

『あなたみたいな凡人が、彼の隣にいられること自体、奇跡みたいなものだったのよ』

『ずっと昔から気付いてたでしょ?なのに、何年も気付いてないフリしてた』

『特に何かアクションを起こす訳でもなく、ただただ、ぬるま湯に浸かるみたいに隣にいられることに甘んじてた』

( 、 #川(やめて…やめて!うるさい!やめて!!)

『もう終わり。時間切れ。サッカーじゃないんだから、ロスタイムなんてものはない』

『…いえ。大学卒業から今までが、ロスタイムだったのかもね』

呼吸も瞬きも出来ないまま、頭に響く声を聞かされるまま。
目の前の景色は変わらない。ただひたすら、意中の男性が、仲良さげに私ではない女性と話し込んでいる。

動かなきゃ。逃げなきゃ。とにかく今は、ここにいちゃダメだ。
頭では理解しているのに、金縛りにあったように身体が動かない。

問い質したい。ここから逃げたい。彼と話したい。顔も見たくない。
相反する感情がごちゃ混ぜになる。動かなきゃいけないのに、脳が上手く身体を操作しない。
急げ、彼に気付かれる前に。早く、早く、一秒でも早く。
とにかく足を動かさなければ。祈るように、慎重に、右足を後ろに下げた、その瞬間。

84名無しさん:2024/01/19(金) 01:11:46 ID:KKTQDt7.0


ζ(゚ー゚*ζ「………?」

―――目が、合った。



( 、 ;川「――――っ!!」

気が付けば、私は走り出していた。
今まで歩いた道を、泥棒みたいにみっともなく。

離れていく。駅から、家から、彼から、思い出から。
視界が滲む。街灯の明かりがぼやけて、自分がどこにいるのかも分からなくなっていく。



…一体どれだけ走ったのか。
息を切らしながら、痛む足を抱えながらよろよろと壁にもたれかかる。
周囲を見る。誰もいない。それどころか、全く見覚えのない場所だった。

85名無しさん:2024/01/19(金) 01:12:41 ID:KKTQDt7.0

ぼやけた頭で、ほぼ無意識にスマホを取り出す。
表示された時間は午前1時に差し掛かろうとしている。
疾うに、終電はない。

(*;´・_ゝ・`)ζ(^ー^*ζ

少しでも気を抜いたその途端、あの二人の光景がフラッシュバックする。
消えろ消えろと呪詛を吐きながら、何度も何度も頭を叩く。

けれども消えない。消えてはくれない。
私には一度も向けてくれなかった彼の笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。

( 、 川「……」

( 、 川「…………」

( 、 川「………………」

( 、 川「………………………」

( 、 川[決めた」

誰にも聞こえない、きっと、神様にだって聞こえない囁き声が口から洩れた。

86名無しさん:2024/01/19(金) 01:13:16 ID:KKTQDt7.0

何を迷っていたのだろう。何を悩んでいたのだろう。
少し考えれば分かったことだ。最初から、私に選択肢など、必要なかった。

楽しい日々だった。夢のようだった。
振り回されるのも、怒るのも、呆れるのも、見惚れるのも、慕うのも、憧れるのも。
彼の隣にいられただけで、私はとても幸せだった。

けれど、もう、充分。
あまりに心地よかったから、いつからか、とんでもない勘違いをしていたみたいだ。

身の丈に合わない仕事をするのも。
必死に誰かをフォローする生活も。
目の下のクマを必死に化粧で誤魔化す日々も。
ロボットみたいに、機械的に淡々と彼を支えるのも。
ちょっとでも、彼の役に立てていると、自惚れながら息をする毎日も。

87名無しさん:2024/01/19(金) 01:13:40 ID:KKTQDt7.0


( 、 川(夢は、もう、いいや)


――見るのも、醒めるのも、もう御免だった。

88名無しさん:2024/01/19(金) 01:14:29 ID:KKTQDt7.0



(´ _ゝ `)「………」

('、`*川「…なにか、御用でしょうか、しゃちょ――」

(´ _ゝ `)「何だコレは」

社長室は、重苦しい雰囲気に包まれていた。

12月の寒い空気が理由なのか、はたまた、空調が壊れているのか。
原因はどちらでもない。この空気を生み出している原因は、今まさに、社長が机に叩きだしたものだ。

私の言葉を遮りながら、乱暴に出された紙の束。
乱雑に丸められたそれは、処々に乱暴に破かれた痕が判然と見受けられる。
まるで、子どもがイタズラで破いた紙クズのよう。というか、もはやそれにしか見えない。
一種の執念すら見受けられるほどに破かれまくったそれを、私は冷ややかな目で見つめていた。

89名無しさん:2024/01/19(金) 01:18:00 ID:KKTQDt7.0

('、`*川「…見てお分かりいただけませんか」

(´ _ゝ `)「お前こそ、僕が何を聞いているのか、本当に分かってないのか」

決して少なくない怒気を含んだ声が部屋に響く。
珍しいほどに怒っている彼を前に、私は一切怯まず言葉に応じた。

('、`*川「…それが私の返事です。一応、契約書の性質を有するものである以上、今後悪用されることのないように破いただけですが」

(´ _ゝ `)「………これが、“返事”?」

('、`*川「そうです。…他に用がないなら、これで失礼……」

(#´ _ゝ `)「ふざけてるのか」

彼が立ち上がると同時に、乱暴な音を立てて椅子が倒れる。
声も表情も、まるで何の感情も乗っていないみたいにのっぺりとしている。
それでも、彼がはっきりと怒っていることだけは分かる。
“こんなに怒っている彼を見るのは初めてだな“と、どこか冷静に見ている自分がいた。

90名無しさん:2024/01/19(金) 01:18:50 ID:KKTQDt7.0

(´・_ゝ・`)「……僕は、内容を確認して、サインと印鑑を押して持ってこいと言った」

(´・_ゝ・`)「納得いかない箇所があれば、その都度教えろ、とも言った」

(´-_ゝ-`)「…お前は、記憶力が良い。頭も悪くない。だが、流石に法律は専門外だろう。何かを勘違いした可能性もある」

(´・_ゝ・`)「だから、もう一度だけ、確認する」

トントンと、彼は机の上の紙屑を叩いた。

(´・_ゝ・`)「…………これは、何だ?なんのつもりだ?」

氷みたいに冷たい視線が、容赦なく私の全身を射抜く。
けれど、私の心は動かない。
凪いだ海の波みたいに、いや、凍った化石みたいに、ピクリともその感情は動こうとしない。

視線を机上の紙屑にやる。
いくつもの文章の下に、ちらりと見える署名欄。
乱雑に破いたにしては、何故かそこだけ綺麗に残っている。

……無論、私のサインは、ない。

91名無しさん:2024/01/19(金) 01:20:01 ID:KKTQDt7.0

('、`*川「……要するに」

('、`*川「“お断りします”、ということです」

一切の震えもないまま、何の想いも籠っていない声色で、そう言った。

('、`*川「質問には答えました。ご用件は以上ですよね」

('、`*川「それと、本日のスケジュールですが、今朝社内メールで連絡した通りです。詳細は関ケ原副社長か、私の部下の誰かにお聞きください」

('、`*川「それでは、私はこれで失礼しま――」

(#´ _ゝ `)「―――いい加減にしろ!!!」

一度だって聞いたこともない怒号が、周囲の全てをかき消した。

踵を返し、部屋を出ようとしていた足が静止する。
私は背を向けたままの体勢で、彼の次の言葉を待った。

92名無しさん:2024/01/19(金) 01:21:02 ID:KKTQDt7.0

(#´ _ゝ `)「……断る、のは、別にいい。だが、これはなんだ。どういうことだ」

(#´ _ゝ `)「ただそのまま返せばいいだけの話だろうが。それを、なんだ」

(#´ _ゝ `)「…この一ヶ月、僕を避け続けた挙句、ビリビリに破いた紙屑を持ってくるとは」

(#´ _ゝ `)「一体、どういう了見なんだ」

背中を見せたまま、私は動かない。
後ろから伝わってくる怒りが、夕暮れ時の驟雨みたいに背に降り注ぐ。
だが、何も言わない。何の言い訳をすることもない。
私は人形のように黙ったまま、彼の怒りを聞いていた。

(#´ _ゝ `)「…言いたい事があるなら、はっきり言えよ!!」

(#´ _ゝ `)「いつも、ずっと、お前は僕にそうしてきただろうが!!それがっ…それが今更、なんだ!!」

( 、 川「………」

何も言い返さない。最初から、何か反論する気など欠片も持ち合わせていない。
どれだけ怒りをぶつけられようと、私の決断は変わらない。

93名無しさん:2024/01/19(金) 01:22:21 ID:KKTQDt7.0

そもそも、もっと早くにこうするべきだったのだ。
心のどこかで分かっていたのに、今日までズルズルと伸ばしてきたのは、私の責。

( 、 川(…今日が、終われば)

胸に忍ばせた封筒をぎゅっと握った。

(#´・_ゝ・`)「……だんまりか」

(#´・_ゝ・`)「…あぁそうだ。昔からそうだな、お前は」

声のトーンが更に下がる。
無言のまま、私は眼前のドアを見つめ続ける。

言いたいことがあるなら、言えばいい。
私だってそうだ。やりたかったからやった。破りたかったから、破いた。

彼が怒ることなんて、分かり切っていた事象だ。
署名をせずに、“悪用されないため”なんて小学生のような詭弁を使って、破いて突っ返すなど怒るに決まっている。

94名無しさん:2024/01/19(金) 01:23:06 ID:KKTQDt7.0

(#´・_ゝ・`)「頑固で、面倒で、言いたい放題言う癖に、本当に言いたい事は何も言わずに僕が察するのを待つんだ」

(#´・_ゝ・`)「それも、僕がそういうことを苦手なのを承知の上でだ。何度も何度も煮え湯を飲まされた」

言えばいい。ぶちまければいい。
何を言われたって、私の心は動かない、変わらない。

(#´-_ゝ-`)「確かに、僕はお前を振り回してきた。自覚はある」

(#´ _ゝ `)「……だが、それに見合う報酬や給料は与えてきたはずだ。世間から称賛されるような地位も、金も、仕事も!」

部屋にある家具が、彼の激高を反射して小刻みに震える。
彼の頭にある豊富な語彙が、怒りというフィルターを通して、全て私に向けられている。

別に何を言われようと今更堪えない。反応する必要もない。
固辞したまま、背を向けたまま、彼の裂帛をじっと聞いているだけの時間が流れていく。

答えは出た。これ以上ないほどに、100点満点の解答が。
あとは、案山子みたいに彼の癇癪を聞くだけでいい。

別に昔からやっていることだ。男性の怒号など、子どもの頃から慣れている。
それが、彼からの言葉でも、変わりは――。

95名無しさん:2024/01/19(金) 01:23:36 ID:KKTQDt7.0



(´ _ゝ `)「……ずっと、今まで、そうやって」

(´ _ゝ `)「僕を馬鹿にしてたのか」



( 、 川

変わりは、ない。

そのはずだった。

96名無しさん:2024/01/19(金) 01:24:09 ID:KKTQDt7.0

(#´-_ゝ-`)「…あぁ、そうだ。思い返せば、昔からか」

(#´・_ゝ・`)「お前に挑んでは、負けて、ムキになって勉強して、それでも最後まで負け続けて」

(#´・_ゝ・`)「…さぞ、面白かったろうな?懲りずに勝負を挑んでくる世間知らずのボンボンに、勝って、嗤って、変な採点して、馬鹿にする日々は」

純粋な怒りから一転、彼の話し声にヘラヘラとした薄笑いが混じる。
自嘲、後悔、羞恥、諦観、批難。
多種多様なマイナスの感情が、背中越しに伝わってくる。

だが、私はそんな変化にも対応できずにいた。
いや、正しくは。

…意味が、分からなかったのだ。

97名無しさん:2024/01/19(金) 01:25:02 ID:KKTQDt7.0

(#´・_ゝ・`)「要するにこれは、僕に対する、お前の最後のあてつけって訳だ」

(#´・_ゝ・`)「なんだ。怖いお父上から、別の男との縁談でも決まってたか?…我ながら、咄嗟の推定にしては良い線いってそうだな」

(#´・_ゝ・`)「それを利用して、最後に僕がみっともなく喚く姿でも見ようってか。…ははっ、全くふざけた――」

さっきから、彼は一体何を言っているのだろうか。

脳は動いている。彼の言った言葉の意味を理解しようと、必死に稼働を続けている。
だが、演算処理が終わらない。ずっとずっと、一つの単語を認識したまま、その先に移行しようとしない。

何を言ってるのか。何を話しているのか。
何を主体にして話しているのか。誰に向かって言っているのか。


ずっと。ずっとずっとずっと。


人を、馬鹿にしてたのは。

98名無しさん:2024/01/19(金) 01:25:54 ID:KKTQDt7.0

( Д #川「――馬鹿にしてたのは、どっちよ!!!」

叫び声が響いた。

同時にようやく後ろに振り返る。
すると、眼前には、目を白黒させた彼が一人。

刃物で引っかかれたみたいな痛みが喉を走る。
違和感を覚えて喉に手を伸ばそうとすると、その前に、手の甲にポタリと何かが落ちた。

落ちてきた“何か”を確認しようと、視線を下ろす。
同時に、手の甲だけでなく、ポタポタと何かが無数に零れて、床を濡らす。

(;´・_ゝ・`)「……い、伊藤……?」

突然、世界が滲んだ。
ガサガサの自分の手も、毎日我慢して履いているヒールも、見慣れた筈の、目の前に立っている彼の顔すら上手く見えなくなる。

ああ、そうか。
あまりにも久しぶりすぎて、理解が遅れてしまっていた。



(;、;*川



泣いてるんだ、私。

99名無しさん:2024/01/19(金) 01:26:39 ID:KKTQDt7.0

(;、;#川「そっちこそ……!!そっちこそ、今まで、楽しかった!?

(;、;#川「記憶力しか取り柄のない地味なやつ煽てて、傍において、便利に使って、あんたの掌で踊ってるバカ女見てて、楽しかった!?」

(;、;#川「楽しいわよね!?こんなっ…こんな、紙切れごときに動揺してる小娘見て、自分は綺麗な女の子と夜まで一緒にいて!!」

(;、;#川「嗤って、馬鹿にして、困ったときだけ使って、それで、それで、今度は、こんな……」

言葉が嗚咽に詰まる。
口が脳についていかない。
言いたいことは上手く出てくれないのに、涙だけは溢れて止まらない。

あぁ。違う。そうじゃないのに。こんなはずじゃなかったのに。
出来るだけ穏便に済ませて、君の前から消えるはずだったのに。

…こんな情けない姿、最後まで、見せるつもりじゃなかったのに。

100名無しさん:2024/01/19(金) 01:27:57 ID:KKTQDt7.0

( 、 #川「……君にとって、私ってなんだったの?」

10年間、ずっと聞けなかったことが、涙にまみれて口を零れた。
怖くて怖くて、聞きたかったけれど、聞けなかったこと。

(;、;#川「元クラスメイト?単なる知り合い?ちょっと便利なメモ帳?女除け?……それとも、全部?」

(;、;#川「別に……別に、なんだっていいわよ。友達だとすら思われて、なくても、女の子として、見られてなくて、も」

(;、;#川「……君の横にいられるなら、君の役に立てるなら、それだけで、よかった」

文脈の間に吃逆が混じる。秘めていた想いが、あまりにみっともなく漏れていく。
ずっと隠していた、言うつもりもなかった。
考えないようにすらしていた、そんな、本音。

101名無しさん:2024/01/19(金) 01:28:49 ID:KKTQDt7.0

(;、;#川「それでも…それでも、ちょっとくらい、特別に想われてるかもって、浮かれてた」

(;、;#川「でも、違う。違った。君にとって私は、やっぱりただの、便利な道具でしか、なかったのね」

心の隅でひっそり抱えていた望みが、蝋燭の火みたいに容易く消える。
想っていた。望んでいた。少しくらいは私のことを、特別に見てくれてるんじゃないかと。
…そんな訳、なかったのに。彼の目に、私なんか、映るわけなかったのに。

あぁ、なんてみっともないんだろう。
“弁えてます”みたいな顔をして、一人でずっと舞い上がって。

その始末が、コレだ。
いい年した女が、ボロボロと涙を流して、顔をぐしゃぐしゃにして、夢見がちな女子中学生みたいな願望を嗚咽交じりに吐き散らす。
もういっそ、消えてなくなってしまいたいと思うほどに、自分が情けなくて仕方がなかった。

102名無しさん:2024/01/19(金) 01:29:52 ID:KKTQDt7.0

(;、;#川「…家から、“結婚しろ”ってせっつかれた?ずっとそういう話はあったもんね。それくらい知ってたわよ」

(;、;#川「手頃な私で、済ませようと、したんでしょ?…私なら、他の女の子と遊んでも怒らないと思った?ついでに、便利な記憶装置を、傍におけると思ったの?」

(;、;#川「私の家の事情だって利用すれば、ずっと私のこと使えるものね。そもそも、私に有利な条件つけたところで、よく考えれば、君は痛くも痒くも、ないもんね」

言えば言うほど、吐けば吐くほど、自分の置かれた立場が鮮明になっていく。
言葉を紡げば紡ぐほどに、私と彼の違いを思い知ってしまう。

“婚約に関する契約書”。あれにどれだけ私に有利な内容が書いてあっても、彼にとってはなんてことはない。
父たちの圧力がかかるであろう私から、離縁など申し出る訳もない。例え理由が、不貞であったとしても。
百歩譲って離縁することになったとて、数千万の手切れ金など、彼にとっては少し良い万年筆を買う程度の出費だ。そんなこと、少し考えれば分かった筈だ。

それでも、分からなかった。考えないようにしていた。ずっと、意図的に目を逸らし続けていた。
少しでも長く、夢を見続けていたい一心で。

103名無しさん:2024/01/19(金) 01:31:30 ID:KKTQDt7.0

(;、;#川「…一瞬、それでもいいって思った。君の助けになるなら、別に、それでも……って…」

“彼の役に立ちたい”。それは、偽らざる私の本心だ。
彼と同じ大学に進んだのも、彼が立ち上げた会社に入る道を選んだのも。
隣にいたい、彼のためになることがしたいと、心の底から願ったから。

それが叶うのならどんな形でもいいと、本気で思っていた“つもり”だった。
その覚悟で、10年以上、ずっと彼の近くにいようと、必死に走り続けていた。

なのに。

( 、 川「……でも、ごめんなさい。…やっぱり、無理、です」

……見てしまった。そして気付いてしまった。
あの夜に。迷いながら歩いていた、あの晩に。
彼が、自分に見せないような顔を、他の女性に向けているのを見た瞬間に。
自分の奥の奥にある、自分勝手で、あまりにも、黒く濁ったその感情に。

例え、君の隣にいられるとしても。
君の横を歩けるとしても。君の役に立てるとしても。

君が選んだのが、私じゃないのなら、もう――。

104名無しさん:2024/01/19(金) 01:33:35 ID:KKTQDt7.0



( 、 川「…………今まで」

(;ー;*川「……今まで、お世話になりました」



震えた手で、胸元に入れていた封筒を出す。
表側には、“退職届”という三文字が、涙が落ちても消えないようにボールペンで書かれていた。

(;´・_ゝ・`)「はっ…?ちょ、ちょっと待て伊藤、"俺"は――」

(、; 川「………しつれい、しま、す………!」

(;´・_ゝ・`)「………っ!お、おい、待てっ………!?」

必死に声を絞り出しながら、彼のネクタイに無理やり封筒を押し付ける。
地面に落ちたそれを拾うこともなく、彼の制止の声に応じることもなく、私は走って部屋を出た。

105名無しさん:2024/01/19(金) 01:34:57 ID:KKTQDt7.0

廊下を走る。
エレベーターに乗り、降りる。
廊下で色んな人から声を掛けられたが、全てを無視して自分のデスクに向かう。

この一ヶ月で、業務の引継ぎは終えていた。
無駄な書類や備品は、全て昨日までに処分しておいた。

鞄を手に取り、嵐のような勢いで部署を出た。
階段を転がるように1Fまで降りてロビーゲートをくぐり、無用の長物となったカードキーを投げ捨てる。
途中ですれ違った同僚にも、上司にも、後輩にも、警備員の人にも、一切挨拶しないまま逃げるように進んでいく。

106名無しさん:2024/01/19(金) 01:35:19 ID:KKTQDt7.0

( 、 ;川「きゃっ………!?」

ふいに、足元が歪んだ。

地面に強打した膝を見てみれば、ものの見事に出血している。
痛みを感じながら振り向くと、ヒールが綺麗に折れていた。

いや、ただ痛いだけじゃない。なぜか顔だけじゃなく、足がべっとりと濡れている。
何故だろうと思いながら、足に走る痛みに歯を食いしばり、未だ目から溢れる涙を拭う。
鮮明になった視界を数度瞬きしてようやく私は、いつの間にか外に出ていることに気が付いた。

地面には、雪が積もっていた。
空を見上げると、ゆらゆらとした雪がゆっくりと、それでいて無数に降下してきているのが見える。
息を吐くと、瞬く間に白く濁り、空中へと霧散していった。

帰らなければ。一刻も早く、ここを離れなければ。
雪景色の中、脳内で繰り返される命令に従って足に力を入れる。

107名無しさん:2024/01/19(金) 01:36:37 ID:KKTQDt7.0

( 、 ;川「…あっ……」

立ち上がろうとした、その瞬間。
運の悪いことに、全く雪が積もっていない地面に向かってポケットからスマホが落ちてしまった。

耳障りの良くない音を立てながら転がるスマホを追いかけ、拾う。
壊れたのか、ヒビは入っていないだろうか。確認しようと慌てて表を向け、液晶を表示させようとタップする。

( 、 川「……あぁ………」

『(´・”_ゝ・`)///v('ー`*川』

案の定、画面には大きなヒビが入っていた。

高校生の頃、修学旅行で訪れた遊園地で撮った、彼との写真。
覚えている。あれは、集合時間まであと5分もないと、二人で園内を走っていた時だ。

途中にあったフォトポイントが、夕日を反射する雪と相まって、あまりに綺麗に見えたものだから。
傍にいた遊園地のスタッフさんに頼んで、撮ってもらったのだ。

テストの点数勝負の結果と、たった一度の修学旅行という口実を使い、撮れた唯一のツーショット。
“写真は嫌いだ”と渋い顔をする彼と、にこやかにピースサインを掲げる私。

そんな過去の私たちを分断するように、中央を走る大きなヒビ。

108名無しさん:2024/01/19(金) 01:37:29 ID:KKTQDt7.0

( 、 川「……うぅ」

(;、;*川「…あぁ、ああ………」

(;Д; *川「あぁ、あ、ああ、……ああぁ……!」

一瞬は止んだ雨が、更に強さを伴って、また降り注ぐ。
決壊したダムみたいに、ボロボロと涙が零れていく。

どうすればよかったんだろう。私は、一体どこで間違ったんだろう。

何も考えず、彼との婚約を受け入れれば良かったのだろうか。
彼の傍で働くことが、間違いだったのだろうか。
彼と同じ大学に進んだ時点で、失敗していたのだろうか。

あんな風に思われていたなんて、知らなかった。
馬鹿にしているなんて、そんなこと、彼に対して思ったことなんて一度もないのに。

109名無しさん:2024/01/19(金) 01:38:29 ID:KKTQDt7.0

私なんかが、彼と会ったこと自体、ダメだったのだろうか。

いくら泣いても答えは出なくて。
擦りむいた膝よりも心が痛くて、鬱陶しい雪も涙も、一向に止んでくれなくて。
スマホに映る、幸せそうな過去の私が、彼の隣で笑っている私が、妬ましくて仕方がなくて。


( 、 川(――ごめんなさい)

( 、 川(あんなに怒鳴って、ごめんなさい。思い上がって、ごめんなさい)


どうしていいか分からない。
涙の止め方も、明日からの息の仕方も、何もかもの検討が微塵もつかない。
ぐちゃぐちゃになった思考のまま、ただ只管、祈るみたいに、想い人への謝罪だけが募っていく。

110名無しさん:2024/01/19(金) 01:39:31 ID:KKTQDt7.0



(;、;*川(―――私、なんか、が)

(;、;*川(好きになって、ごめんなさい)



当然、答えはない。返答も、救いも、何もない。
勝手に期待しただけの痛い女には、部分点すら与えられる余地はない。



0点女のみっともない泣き声が、降り注ぐ雪に埋もれて消えた。

111名無しさん:2024/01/19(金) 01:40:28 ID:KKTQDt7.0
前半はここまで。
来週くらいに後半を投下します。よろしくお願いします。

112名無しさん:2024/01/19(金) 09:14:53 ID:6UqyCAwU0


113名無しさん:2024/01/19(金) 13:11:55 ID:uELU9.uM0
乙、、、

114名無しさん:2024/03/19(火) 00:32:07 ID:4hRpiPzg0

*

(´∩_ゝ `)「………」

机の上に置かれた書類をただ眺めるだけで、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

やらなくてはいけない業務も、目を通さなければならない書類も、文字通り山のようにある。
自分がやるべきことをやらなければどれほどの損害が出るのか。どれだけの人間が困るのか。その責任についても十分に理解している。
だというのにここ数週間、手も脳も、まるで意欲的に動こうとはしてくれなかった。

一年半かけて選んだ自分好みの椅子に深く背中を預ける。
目の前に置かれた書類の文章を手に取って読もうとするも、意味が全く頭に入ってこない。
これは“読む”とはいえない。ただ眼球が文字を追っているだけだ。

書類を手放し、如何とも言葉にし難いイラつきの衝動に駆られて頭をガシガシとかく。
そうこうしながら書類と詮無き睨めっこを続けていると、ガチャリとドアが開く音がした。

( "ゞ)「……まだ不貞腐れてるのか」

音がした方向に目をむける。そこに立っていたのは無二の親友であった。

115名無しさん:2024/03/19(火) 00:33:10 ID:4hRpiPzg0

そもそも、顔を向けて確認せずとも分かることだ。

社長室兼作業部屋であるこの部屋に入るには、社員すら持ってない特殊なカードキーが必要である。
それを持っていて勝手にここに入れるのは自分を除けば、デルタと、あの口うるさい腐れ縁くらいのもので――。

脳裏に浮かんだ女性の姿を払うが如く、再び頭を掻きむしる。
考えまいとすればするほどより濃く影を落とす残像の、その存在感は日ごとに増していた。

(; "ゞ)「いい加減やることやってくれ、業務が滞って仕方ない。下からの苦情に取引先へのフォロー…社員たちを誤魔化すのもそろそろ無理だ。俺にも限界ってもんがある」

(´∩_ゝ `)「……やる気が起きない」

( "ゞ)「大学生みたいなこと言うな。ほら、追加だ。さっさと目を通せ」

ただでさえ山のように積まれていた書類の上に、更なる紙の束が置かれる。
ペーパーレスが進むこの時代に、何故こちらが古い企業に合わせて紙を使わなくてはならないのか。
若い頃に飲み込んだつもりの不条理だが、やはり如何とも理解しがたい。

116名無しさん:2024/03/19(火) 00:34:26 ID:4hRpiPzg0

更なる苛立ちの泡が浮いてくると共にダラリと身体がずれる。
汚いモノでも摘まむかのように一番上の紙を捲ったのはいいものの、面倒な単語が並んだ文章に気が滅入ってすぐに戻す。

( "ゞ)「おい」

あからさまな溜息交じりの注意が耳に入るも、やる気が出ないものは仕方ない。
というか、やる気が出ないのは仕事に限った話ではない。
二週間以上前のあの日から、碌な生活を送っていなかった。

食事も、睡眠も、ただ服を着るという行為ですら面倒で仕方がない。
今では家に帰ることも億劫で、シャワーを社員用のものを使い、夜は社長室の隅にあるソファで寝泊まりする始末。
“どうでもいい”という感情のみが、自分の胸中を占めていた。

( "ゞ)「おいデミタス。まだやる気が出ないところ悪いんだが、お前にお客さんが来てるぞ」

(´∩_ゝ `)「…今日は面会謝絶だ。誰だか知らないが、帰ってもらって…」

「ここまで呼んどいてそれはないでしょう。先輩」

声が聞こえた瞬間、目を見開いてバッと上体を起き上がらせる。
デルタではない声色だった。だが、ひどく馴染みのある声。
そして、今は二番目に聞きたいと願っていた声だった。

117名無しさん:2024/03/19(火) 00:35:23 ID:4hRpiPzg0

( ^ν^)「…うわ、なんすかこの無駄に広い部屋、入りづら…」

どこかいけ好かない細んだ目と、性格が伺える針金のように歪んだ口元。
一学年下の後輩であり、大学を卒業した今でも頼りにしている弁護士。
“新塚ニュッ”。
ロースクールに進むことなく在学中に司法試験を突破し、早期卒業制度を使って自分たちと同時期に大学を出た白眉である。

だが、何故このタイミングで奴がここに来たのかが疑問だった。
確かに聞きたいことはあったが、彼に連絡はまだしていない。
不思議に思いながらデルタの方を見ると、彼はさも当然といった様子でスマホを操作し、メッセージアプリのトーク画面を表示する。
そこには数日前になされたらしき、デルタとニュッの会話が記録されていた。

(*´・_ゝ・`)「〜〜っ!でかしたデルタ!よし、よく来たなニュッ!入れ!座れ!話聞け!!」

( ^ν^)「命令系のオンパレードかよ」

部屋の中心にあるソファに二人が座る間、机の引き出しに入れていた書類を取り出す。
出した紙の束を持ちながら早足で二人に近付き、自分との間にあるテーブルの上に置いた。

118名無しさん:2024/03/19(火) 00:40:03 ID:4hRpiPzg0

( ^ν^)「…なんすか、このビリビリのゴミ」

(´・_ゝ・`)「お前に依頼して作ってもらった、伊藤との婚姻証書だ」

(; ^ν^)「はっ?……え、これが!?破ったんすか!?俺がどれだけ必死に作ったと…!」

( “ゞ)「違う。破られたらしい」

(; ^ν^)「破られっ…!?それってつまり、ふ、振られ…」

(;´・_ゝ・`)「わざわざ言うな!とにかく、もう一度これ全部見直してくれ!」

見るも無残なほどに、ビリビリに破られた紙の束。
紙の一片に至るまで念入りにズタボロにされたそれを、一つ一つ、丁寧に修復する作業には骨が折れた。
とんでもなくアナログな重労働と、そんな時代遅れな作業を他ならぬこの自分がやる羽目になったというストレスのお陰でここ数日は睡眠不足である。

119名無しさん:2024/03/19(火) 00:41:05 ID:4hRpiPzg0

( ^ν^)「…だから、何度も言ってますけど、完璧な契約書なんてこの世に存在しないんですよ」

(# -ν-)「そういう注文をするアホが未だに蔓延ってるから、俺ら弁護士はいつまでも苦しんで……」

(;´・_ゝ・`)「そんな話はいい!早く!」

心底嫌そうな顔を浮かべるニュッに、無理やり書類を押し付ける。一瞬だけ聞こえた舌打ちのような音は気のせいだということにして流した。
テープで継ぎ接ぎに修復されたそれを、彼は再び破れることがないよう、丁寧に一枚一枚確認していく。
時間にして、およそ30分ほどは経過しただろうか。
空調と紙が捲られる音だけが響く部屋を一新するかのように、長い長い溜息が流れた。

( -ν-)「……終わりました」

(;´・_ゝ・`)「…!ど、どうだった。一体どこに問題が…」

( -ν-)「ないっす」

ほぼ反射的に「は?」という声が漏れる。
ニュッは酷使した眼球を労わるように目頭を抑えながら、疲れた声色で話を続けた。

120名無しさん:2024/03/19(火) 00:42:11 ID:4hRpiPzg0

( ^ν^)「変なトコも、誤字脱字の類もないっすよ。形式的には何の問題もないと思います。婚約に関してって点に限ればっすけど」

( "ゞ)「…それじゃあ、つまり」

( ^ν^)「断言は出来ないっすけど、十中八九、この契約書が問題なんじゃない」

( ^ν^)「やっぱ、問題があるのは婚約云々じゃなくて、盛岡先輩の方――」

(#´ _ゝ `)「――ンな訳あるか!!」

社長室に罵声と、勢いよく机を叩いた音が響き渡る。
気が付けば、自分は無意識に立ち上がっていた。

(#´・_ゝ・`)「僕と……この僕との婚約だぞ!?一体、何の問題が、デメリットがある!?」

(; ^ν^)「うわビックリした……」

(#´・_ゝ・`)「僕には資産も、社会的地位もある!あいつがずっと苦しんでる家絡みの問題も解決できる!!」

(#´・_ゝ・`)「僕自身に問題なんてあるはずがない!!ここに、この書類になにか不備がある筈なんだ!!それさえ見つければ、そうすれば、アイツは……!!」

頭を掻きむしりながら、再び書類を手に取って睨む。
ここにこそ、何か原因があるはずなのだ。

121名無しさん:2024/03/19(火) 00:42:37 ID:4hRpiPzg0

結婚相手の男性として、“盛岡デミタス”という人間にどれだけの価値があるか、それを伊藤が理解していない訳がない。
自分なら、盛岡家の力も借りず、散々アイツを無碍に扱っていた伊藤家から遠ざけてやれる。
アイツがずっと苦しんでいた原因を、根っこから取り除くことが今の自分になら出来るのだ。

日本で一番とされる国立大学に入り、死に物狂いで経営を学んだ。
空いた時間はほぼ全て、アプリ開発や起業に関することに費やした。
海外に向けて展開した学生向けのファイナンシャル事業も成功させ、自分の家に一切頼らなくてもよくなった。

欲しかった手札は集めきった。10年かけて、必要なものは全て揃えた筈だった。
なのに、ダメだった。一体何がダメなのかも分からず、部分点すら得られず、自分は今こうしてみっともなく地団駄を踏んでいる。
一体、どこに、この盛岡デミタスに、どんな失態があったというのか。

( ^ν^)「…つーか、そもそもどうやって伊藤先輩に告白したんですか」

ニュッが何気なく呟いたのであろう一言に、文字を追う眼球が止まる。
顔を上げると、ニュッは腕を組みながら不思議そうにこちらを見ていた。

122名無しさん:2024/03/19(火) 00:43:54 ID:4hRpiPzg0

( ^ν^)「婚約証書(こんなもの)を俺に作らせたってことは、結婚してもいい段階まで来たってことでしょう?…そもそも俺は、お二人が付き合ってたことも最近まで知りませんでしたけど」

( ^ν^)「付き合う時はどんな風に言ったんです?こんな形式ばったもの使わなくても案外、その時と同じようにした方が上手くいくかも――」

(´・_ゝ・`)「……いや、付き合ってないが。何言ってるんだ?」

今度は、彼が「は?」と言う番であった。

急に彼の口から出てきた質問に、僕の脳は追いついていなかった。
付き合うも何も、僕と伊藤はそういう関係ではない。

関係性という観点から話すのであれば、色々と名前を付けることは出来る。
友人、元クラスメイト、大学の同期、上司と部下、知人、腐れ縁、その他諸々。
だが、その中に“恋人”という単語はない。そうであったことなど今までの人生で一秒すらない。

自分たちがそういう関係ではない事を、この後輩は知っていた筈なのに、一体どうしてそんな的外れな質問をしてきたのか。
それが自分には全く分からなかった。

123名無しさん:2024/03/19(火) 00:47:31 ID:4hRpiPzg0

(; ^ν^)「……え?付き合ってすら、ないの?」

(´・_ゝ・`)「ない。そんな打診をしたことすらないな」

(; ^ν^)「………なのに、“結婚しよう”って言ったんすか?」

(´・_ゝ・`)「そうだが。身分関係の変更で重要なのは入籍だと言ったのはお前だろ?なら、わざわざ交際関係を経る必要ないだろ」

(´・_ゝ・`)「まぁ、流石に時間的担保はあった方が良いだろうから婚約という形にしたが」

僕の発言を聞き終わると、ニュッは再び長い溜息をつく。
顔を両手で覆った彼は、指の隙間から隣に座っているデルタを睨みつけた。

( ∩ν∩)「……どういうことですか」

(; "ゞ)「……違うんだ。その、こいつが聞く耳持たなくて……」

(# ^ν^)「そこをどうにか聞く耳持たせるのが関ケ原先輩の役割でしょう!?立派な任務懈怠ですよこれは!」

(; "ゞ)「いや、まさかここまで暴走するとは思わないだろ!?」

僕を置いてけぼりにして、二人は突如として言い合いを始める。
自分の発言が端緒であることは何となく察しているが、一体何か問題があったのだろうか。

124名無しさん:2024/03/19(火) 00:49:36 ID:4hRpiPzg0

(# ^ν^)「いくらなんでも非常識すぎる!!何なんすかアンタは、人生RTAでもやってんすか!?」

(;´・_ゝ・`)「あ、あーる……??」

(; ^ν^)「意外な無知…!!」

( “ゞ)「こいつ、自分自身はゲームとかやらないからな」

僕の混乱を他所に二人は聞き慣れない単語を交えて会話を続ける。
何を言っているのか要領を得ないが、少なくとも褒められてないことだけは確実だろう。

( "ゞ)「とにかく…原因ははっきりした。間違いなく、書類云々じゃなくお前自身が問題だ」

( ^ν^)「ですね」

(;´・_ゝ・`)「はぁ!?デルタまで…!」

目の前のソファに腰掛けている二人から分かりやすい批難の視線が向けられる。
誰かのフォローを貰おうにも、配慮と記憶力に長けるいつもの部下はいない。
文字通りの孤軍奮闘。善戦を望みたいが、相手がこの二人となれば流石の僕でも分が悪すぎる。

125名無しさん:2024/03/19(火) 00:51:01 ID:4hRpiPzg0

(;´-_ゝ-`)「…………何がダメだっていうんだ」

潔く白旗を上げ、降参の意を告げる。
この二週間、仕事も商談も放り投げて一人で考え込んだ結果、何も成果を挙げられなかったのだ。
ここで詰まらない意地を張っても仕方ないし、この二人に対してなら猶更というもの。
負け戦に挑むなどという詮無き趣味は、とうの昔に、高校時代で飽きている。

(; "ゞ)「…いや、何がダメっていうか」

( ^ν^)「もう、何もかもがダメですよね。常識なさすぎです」

(;´・_ゝ・`)「だ、だから何に問題があるんだ!?」

後輩からの辛辣な批評に思わず目が点になる。
フォローが得意なデルタからの支援もないどころか、深く頷いている始末。

( ^ν^)「普通、恋人って関係を経由してから結婚について考えるんですよ」

「何を今さら」とでも言いたげな様子で放たれる、溜息交じりの教え。
昔からこの生意気な後輩は言葉を選ぶということをしない。仕方なく敬語を使ってやっているという態度が見え見えの声色と話し方に青筋が立ちかける。
が、今回ばかりはそれを指摘する余裕も立場もない。

126名無しさん:2024/03/19(火) 00:53:43 ID:4hRpiPzg0

(´・_ゝ・`)「……いや、それは知ってるが、要らないだろ」

( ^”ν^)「はぁ?要らない訳ないでしょう?」

(´・_ゝ・`)「だって、それは一般的な男女の場合だろ?僕と伊藤は高校からの知り合いなんだし、お互いのこともよく知ってる。なら別に、”恋人”って関係はスキップ可能な筈だ」

(´・_ゝ・`)「それに、”僕”だぞ?僕と結婚することのメリットなんて、それこそ伊藤が分かってない筈がないだろ。考える時間がそこまで必要か?」

(; "ゞ)「…本当にRTA知らないのか?走者じゃないのか?」

(;´・_ゝ・`)「だから何なんだその、あーるなんとかってのは!」

(#´・_ゝ・`)「…大体、ニュッだって大して長く付き合ってないくせに、もう結婚するつもりなんだろうが!僕に説教できる立場か!?」

(; ^ν^)「うげっ!?な、なんでもう知って……!?」

(´・_ゝ・`)「先月、偶然出会った津島さんに聞いた。お前、デルタには相談してたくせに僕には何も言わないようにしていたらしいな」

127名無しさん:2024/03/19(火) 00:56:00 ID:4hRpiPzg0

ニュッの幼馴染であり、彼女でもある”津島デレ”さんと偶然出会ったのは一ヶ月以上前のことだ。
夜遅くにフラフラと歩いていた彼女を見つけ、「良ければ」と声をかけて駅の近くまで送り、少しだけ雑談をした。
お互いの近況や仕事の話、共通の知り合いであるニュッの話、そして付き合って一年が経った先月にニュッからプロポーズを受けたこと。

「まだ付き合って一年しか経ってないのに、せっかちですよねアイツ」と口では言いながらも、その表情は彼女が作る洋菓子のように甘ったるいものだった。
嬉しそうに式の予定を話す彼女に「自分、何も伝えられてないな」と後輩に不満を抱きつつも、そんな二人をよく見ていたからこそ、自分も結婚しようと思うようになったのだ。

(; ^ν^)「いや、その、盛岡先輩には式の日取りが決まってから話そうと…え、てか、来るんすか?えー?」

( "ゞ)「あ、本当に呼びたくないんだ……冗談かと思ってた…」

(´・_ゝ・`)「二度と僕に常識がどうだのとほざくなよお前」

(; ^ν^)「と、とにかく!俺らは幼馴染だから例外として、普通はちゃんと…」

(´・_ゝ・`)「おい何サラッと自分を棚に上げてんだ」

( "ゞ)「一気に説得力なくなったな」

先ほどまでの悠々とした態度はどこへやら。
恥じるように顔を両手で覆ったニュッはすっかりソファの隅に縮こまる。
一転して意気消沈してしまった後輩を見て、小さく息を吐いたデルタが身をこちらに乗り出してきた。

128名無しさん:2024/03/19(火) 00:57:16 ID:4hRpiPzg0

( "ゞ)「まぁ、とにかく…世間一般の女性からすれば、交際相手じゃない異性からいきなり”結婚しよう”なんて言われても、“はい”なんて言う訳がないんだよ。付き合いが長いとか、そんなのは関係ない」

( "ゞ)「相手がお前みたいな金持ちであってもな。伊藤さんが至って普通の感性を持つ女性だっていうのは、誰よりもお前が知っているだろう?」

(´・_ゝ・`)「…………」

こちらの反論を想定しきった旧友の言葉に。僕は何も言えず黙り込むしかなかった。
いつもなら例え伊藤が居たとしても何かしらの反撃をするのだが、今回ばかりは何も反論が思いつかない。

本気で何の問題もないと思っていた。
自分にも、伊藤にも、大きなメリットしかない素晴らしいアイデアだと。
だが、どうやらまた失敗らしい。それも幾度も気を付けるよう注意を受けていた点を思いっきり突く形のミス。
つくづく自分の常識の無さが嫌になる。多少はマシになったと自負していたが、とんだ思い上がりだったようだ。

129名無しさん:2024/03/19(火) 00:58:22 ID:4hRpiPzg0

(´ _ゝ `)「……僕は、ここからどうすればいい」

我ながら本当に情けない小声が、自慢の社長部屋の中に響いた。

今まで、どんな問題があろうともあの手この手で対処してきた。
会社を立ち上げた時も、銀行からの融資を渋られた時も、大手から足元を見られた時も。
「今度こそ終わりだ」と世間から指を差される度に、その都度、困難を乗り越えてきた。

だが、今回ばかりは何も浮かばない。本当に、何をどうすればいいのか分からない。
原因は分かっている。結局、僕は一人では何も出来ないのだ。

詰まるところ、僕は天才などではなかった。
どこかの誰かみたいな、圧倒的記憶力も、コミュニケーション能力も、情報整理能力も持ち合わせていない。
いつもいつも、近くにいる人の助けを得て進んできた。それは、一企業の社長となった今でも情けないことに変わらない。
たった一人の友人との仲直りする方法すら、僕は自分一人では思いつけないのだ。

130名無しさん:2024/03/19(火) 01:02:10 ID:4hRpiPzg0

( "ゞ)「……連絡はしたのか?」

(´ _ゝ `)「…電話も、メッセージも、全部ダメだった。メッセージは既読すらつかない」

( "ゞ)「家には?」

(´ _ゝ `)「…一回だけ行った。居留守なのか、本当にいなかったのかは、分からなかったが…」

( "ゞ)「こういう時、どうするんだ?」

(;´・_ゝ・`)「いや、だからそれが分からないから」

( "ゞ)「違う。お前じゃない」

顔を上げ、デルタの顔を見る。
そこには自分の右腕ではなく、ましてや副社長でもなく、自分のただの友人としての顔をしたデルタの姿があった。

( "ゞ)「伊藤さんも落ち込んでる筈だ。泣いてたんだろ、彼女」

( "ゞ)「彼女は落ち込んだ時、何をするんだ。どういう所に行くんだ。どういうものに縋るんだ」

( "ゞ)「この10年、お前は彼女の何を見てきたんだ。どういう所を好きになって、どういう所に焦がれたんだ」

( "ゞ)「……お前が一番、伊藤さんのこと知ってるんじゃないのか」

131名無しさん:2024/03/19(火) 01:04:37 ID:4hRpiPzg0

(;´・_ゝ・`)「……」

(;´-_ゝ-`)「……………」

目を瞑り、思考を巡らせる。
確かに。そうだ。そうだった。言われて今更思い出した。

自分が一番、彼女のことを見てきた。知ろうとしてきた。
何が好きなのか。何が嫌いなのか。
喜んでいる時の笑みも、怒っている時の表情も、悲しんでいる時にすることも、気を抜いて居眠りをする時の横顔すらも、何一つ取りこぼさないように見てきた筈だ。

彼女は昔から、嫌なことがあったら一人で抱え込むタイプだった。
他人を責めることに慣れていない彼女は、自省するため、静かな所で一人で泣こうとする。
それでも、無音に耐えられるほど強くはないから、少しだけ外の音や誰かの声が聞こえるような場所を選ぶ。
高校生の頃はよく、グラウンドに近い教室の隅で放課後、偶にこっそり佇んでいた。

132名無しさん:2024/03/19(火) 01:05:16 ID:4hRpiPzg0

あとは何だ。何で絞れる。
思考を進ませ、大学生の頃の記憶を漁る。
そうだ、確か地元から彼女の両親が口を出しに来た日があった。
その日の夜、少し心配になって電話をかけたら、酔っぱらったような声色で当たり障りのない返答をされたことがある。

あの時、自分はどう思ったのか。
酒に逃げると安直だなとぁ、口調がへべれけだとか、他の人の声が少しうるさいとか。
聞き慣れないジャズのせいで、彼女の声が聞き取り辛かったとか――。

(´・_ゝ・`)「………なぁ、デルタ」

頬から手を離し、顔を上げる。
すると、目の前に座っていた彼は、僕が何かを言う前にひらひらとスマホをこちらに向けていた。

( "ゞ)「とりあえず、明日の午前までは空けたぞ」

相変わらず、痒い所に手が届く奴だと内心で舌を巻く。
やるべきことは思いついた。それを実行するための時間も、今まさに有能な旧友が確保してくれた。
あとは、自分がなりふり構わず動くだけ。

133名無しさん:2024/03/19(火) 01:06:12 ID:4hRpiPzg0

(´・_ゝ・`)「ありがとう。…あと、一つだけ、用意して欲しいことがある」

( "ゞ)「なんなりと」

演技染みたニヒルな笑みを浮かべる彼に、こちらも自然と口角が上がる。
僕はポケットからスマホを取り出し、一枚の画像を見せた。

(´・_ゝ・`)「これ、用意しておいてくれないか」

僕が見せたスマホの画面を見て、ニュッは嫌そうに顔をしかめ、デルタは嬉しそうに破顔した。

( ^ν^)「…相っ変わらず常識知らずですね……いや、外れって言った方が正しいか?」

( "ゞ)「それでも”やると決めたらやれる”ってのが“盛岡デミタス”だよなぁ。…いいよ、なんとかしてみる」

(´・_ゝ・`)「ありがとう、任せた」

( “ゞ)「任された。行ってこい」

134名無しさん:2024/03/19(火) 01:06:37 ID:4hRpiPzg0

互いに作った握りこぶしを合わせ、僕は勢いよく立ち上がった。
デルタが「なんとかする」と言ったのだ。それならば、例えどれだけ無茶な注文でも確実に実現してみせる。
僕がそこに注意を向ける必要も心を配る必要もない。

社長室を出て廊下を進み、早朝のサラリーマンみたいにエレベーターへ乗り込んだ。
上着や最低限の現金が入った予備の財布など、大事な物は車の中。
スマホは今持っているから、外で動くのに支障はない。

液晶パネルに表示されていた、階数の下の時刻を見る。
今は夕方の17時。そろそろ日が沈み始め、冬空の茜が瞬く間に黒へと変わる頃。

エレベーターの液晶パネルが地下の駐車場を示し、静かに扉が開く。
今までにないくらい高鳴る心臓を自覚しながら、僕は止めてある自分の愛車へと走り出した。

135名無しさん:2024/04/03(水) 21:52:46 ID:VP0Da38U0

*

グラスの中で、カランと甲高い音が鳴った。

項垂れていた視線を向ける。さっきまで綺麗に積まれていた筈の氷塔が崩れていた。
中に入っていた琥珀色の液体は、溶けだした氷の水と混ざって薄くなっている。
手を伸ばし、中途半端に残っていた酒をやるせなさと共に一気に飲み干す。

“ズブロッカ”という酒がある。
ポーランドにある“パイソングラス”という非常に珍しい草を使用して作られたウォッカのことだ。
特徴的なのは、洋酒であるにもかかわらず桜餅のような爽やかな風味。高いアルコール度数とは裏腹に、酒にあまり慣れていない私でもスルリと飲める。
酒好きにも、普段はあまり飲まない私のような人間にも人気の酒だ。

( 、 *川「……すいません、おかわり。ダブルで」

¥・∀・;¥「…伊藤ちゃんどうしたの?流石に今日は飲みすぎじゃない?」

(-、-*川「だーいじょうぶです。どーせ明日も、明後日も、ずーっとお休みなんで」

この店の店主であるマニーさんからの注意にも耳をかさず、手をひらひらと泳がせるのみ。
すると、1分もしないうちに新しいグラスが二つ眼前に置かれた。
右は私が頼んだズブロッカのお代わり。左は頼んだ覚えのないミネラルウォーター。

136名無しさん:2024/04/03(水) 21:55:52 ID:VP0Da38U0

¥-∀・¥「せめて合間に飲んで。酔った女の子の相手はいいけど、アル中患者の相手は御免だから」

( 、 *川「………どうも」

以前、両親から口を出されて嫌な気分になった時もここに来たことを思い出す。
その時もこうして水を貰ったなと思いながら、苦笑いと共に差し出された気遣いを一口含む。
酒で火照った身体と脳の熱が、キンキンに冷えた水で中和されていくのを感じた。

少し冷えた頭でぼんやりと最近の日々を振り返る。
会社から、あの人から逃げた日から既に二週間以上の時間が経過していた。

最初の数日こそ楽しんでいた。
昼間に起き、化粧も碌にせずに近所をあてもなく散歩し、ずっと気になっていた店に入って食事を楽しむ。
特に理由も無く高いホテルに泊まったり、大浴場に浸かったり、プロのマッサージを受けたり。
多忙な日々の中、無駄に貯まっていた蓄えはまだまだある。しばらくは何も考えず、今までしたくても出来なかったことをしてみよう。
そう思い、色んな物を食べたり、色んな所を巡る悠々自適な甘い生活。
……まぁ、そんな夢に見た生活も僅か7日目で、見事に終わりを告げたのだが。

137名無しさん:2024/04/03(水) 21:56:27 ID:VP0Da38U0

社会人になってからずっとやってみたいと思っていたことは、蓋を開けてみると僅か1週間で済んでしまうことだった。
私はこれほどまでに詰まらない人間だったのかと落胆すると同時に、無常にも襲ってくる不安感。

勢いで会社を辞めたが、これからはどうするのか。
貯蓄こそ確かに平均以上はあるだろうが、それでも一生分には到底満たない。なんとなくしていた投資や定期預金も、すぐに現金に変えられるものではない。
再就職はどこにするのか。いつするのか。その目途が立ってから辞めるべきだったのではないか。

家にいると、そんな考えばかりが埃のように湧いて出てくる一方であった。
かといって外に出る用事も大して思いつかない。家で出来る趣味を見つけようと思ってなんとなく買った最新ゲームも、操作が複雑すぎて想像していたほど楽しめなかった。

何をすればいいのかに対して答えは出せないどころか、何がしたいのかについても模範解答は出てこない。
ただただ家で、形容し難い将来への不安と過去への後悔が積もっていくのを眺める日々。
そんな毎日に嫌気がさし、こうしてデルタ君から以前紹介されたお気に入りのバーで一人寂しく酒をかっくらっている訳である。

138名無しさん:2024/04/03(水) 21:57:01 ID:VP0Da38U0

(-、-*川「…あー、おいしくない……」

¥-∀-;¥「ならもう止めときなさい。はいお水二杯目」

(-、-*川「やだぁ、現実はもっとおいしくない……」

マニーさんからの注意も耳に入れず、ちびちびとだが確実に酒を減らしていく。
明日はどうしようか。次は日本酒でも飲みにいってみようか。
そんな詮無いことを考えていると、ふと、周りの喧騒に耳が向いた。
意識していた訳ではない。だが、なんとなく聞き慣れた単語が聞こえた気がしたのだ。

グラスから視線を外し、いつの間にか来ていた人たちの集団に目を向ける。
そこでは、私と大して年が変わらなさそうな人たちが、スーツ姿で騒いでいるのが見えた。

139名無しさん:2024/04/03(水) 21:59:19 ID:VP0Da38U0

(・∀ ・*)「でさ、けーっきょく俺の案が採用されたんだよ!あんだけ時間かけといてそれってマジ無駄じゃん!?頭悪いっつーかさー」

リハ*´∀`ノゝ「えーマジー?」

(・∀ ・*)「マジだって!つーか普通にやばいやつ?つーの?」

バーの中心にある大きなテーブルを囲むグループの中、一人の男性が大声で何かしら話しているのが分かる。
ちらりと目をやる。先ほどの声の主であろう男性と、その周りに数人の男女。誰もかれも、遠目からですら分かるような愛想笑いのオンパレードだ。
察するに、おそらくあの男性が彼らの上司か、同期の出世頭か、何かしら一番影響力がある人なのだろう。

ただ、全員相当酔っているのは事実らしい。
彼以外の人たちも相当大きな声で喋ったり、オーバーな身振り手振りをしている。今のところ注意をするレベルではないし、幸いか不幸か、今日は私以外にお客さんもいない。

気にせずこのまま飲もう。どうせならあまり味わったことのないものがいい。
そう思って眼下のメニューに目を滑らせる。そうだ、次はストリチナヤでも頼もうか。昔、20歳になりたての頃に一度だけ飲んだきりの筈だ。
凝りもせずまだまだ蒸留酒に凭れかかろうとしていた、ちょうどその時だった。

140名無しさん:2024/04/03(水) 22:01:10 ID:VP0Da38U0

(・∀ ・)「やっぱさ、全然大したことなかったわ!マジふっつーのボンボンだよ」

(・∀ ・)「――“盛岡デミタス”って奴はさ!」

( 、 *川

グラスを持つ手が、スルリと滑った。

氷がテーブルに転がる音でハッと我に返り、慌てて落ちた氷を拾う。
唐突に飛び込んできた名前に意識を奪われたのは刹那、既に液体は飲み干していたのが幸いした。
心配そうにこちらを見るマニーさんに「大丈夫」と小声で返し、水を啜りながら平常心を保とうとするも、聴覚だけが勝手にしっかりとあの社会人集団に向かってしまう。

何よりも私の興味を惹く名前。いや、耳が向かう理由はそれだけじゃない。よく聞くと、彼の声色にも覚えがある。
アルコールで侵され切っていない脳の部分を何とか起こし、必死に記憶の底を漁る。
思い出した。彼は確か、二ヶ月ほど前にうちに商談に来た、大手の通信会社の人だ。
確か名前は”斎藤またんき”。

141名無しさん:2024/04/03(水) 22:01:43 ID:VP0Da38U0

うちに来た時の彼はあくまで補佐役で、実際には彼を連れてきた精悍な顔立ちをした”高岡”という男性が殆どのやり取りをしていた。
うちの社長相手に一歩も引かず話をする人間は、大手どころか省庁にも滅多にいない。
相当なやり手だと感心していたのだが、どうやらその付き人はそこまででもなかったらしい。

聞いてないフリをしながら水を飲む。というか、意識せずとも勝手に耳に入る声量だ。
話の内容は、酔った今の私でも容易に理解できるものだった。

要するに、彼は有名人である“盛岡デミタス”の讒言と、自分の虚栄心を満たすために喋っているらしい。
話の内容のどれもが、彼の上司の言動に脚色を加えたものばかり。
果てにはうちの社長をこき下ろすような発言もちらほら伺えた。

まぁ、社長が世間から嫌われているのは今に始まったことではない。
高校生の頃からクラスメイトにも先生たちにも煙たがられていたし、大学生になってすぐ起業してからも数多の人たちとコミュニケーション上のトラブルを引き起こしていた。
デルタ君と私がいなければ一体いくつもの民事訴訟を抱えていたのかは想像に難くない。

会社を大きくし、一躍時の人となった今でも、彼をよく知らない世間からの評判もこんなものだ。
やれ“詐欺師”だの、“親の七光り”だの、彼に対する悪口を挙げていけば枚挙に暇がない。
寧ろ彼に純度100%の好感を抱いている人の方こそいない。彼を好意的に捉える人など、それこそ鳥取砂丘から米粒を見つけるくらいには見つけられないだろう。

142名無しさん:2024/04/03(水) 22:05:38 ID:VP0Da38U0

(  ゚¥゚)「え、でもさ、実際あそこまで会社を大きくしたのってあの人なんだろ?この前テレビでやってた」

リハ´∀`ノゝ「確か私たちと年変わらないよね。やばいよね〜」

(・∀ ・)「いやいや、あれは間違いなく親からのお小遣いっしょ!あの社長って有名なトコの御曹司なの、知ってる!?」

こんな悪口、私にとっては浴び慣れたビル風のようなものだ。
実際に働く中ではもっと直接的な嫌味や誹謗を聞いたこともある。
それに比べればこんな酔っ払いの戯言など、いちいち目くじらを立てるまでもない。

<(' _'<人ノ「え、あれってマジなの〜?」

(・∀ ・)「そうそう!つーか実際話したけど、大したことなかったしな。敬語も碌に使えないの!ホントに大卒って思ったわ。でっけーガキって感じ」

凪いだ心持ちでマニーさんに追加の水を頼む。
そもそも、私はもうとっくに会社を辞めた身なのだ。
疾うに部外者である私が彼を注意する義務も責任もない。

143名無しさん:2024/04/03(水) 22:06:19 ID:VP0Da38U0

(・∀ ・)「どーせ大学もコネだよアレ。苦労とか努力とか、知らなそーなツラしてたし」

(・∀ ・)「時価総額だの個人資産だの、やっぱ嘘吐きは数字使うって本当なんだなって思ったわ」

寧ろ、良い気味だと嗤う権利すら私にはあるかもしれない。
散々こき使ってきた挙句、意味の分からない契約書のようなものまで持ち出してきたのだ。
そうだ、あんな人、そもそも皆から嫌われて正解なのだ。

他者を気遣わない。露骨に出来ない人を見下す。生まれた時から人が羨むものを全て持っていて、それなのに人に合わせようともせず周囲を振り回すだけ振り回す。
終には、自分は綺麗な女性と夜に仲良さげに話ながら、身近にいただけの女を都合よく利用してくる始末。いっそ、本当に地獄に落ちた方がちょうどいいくらいだろう。

(・∀ ・)「そもそも盛岡がやってることって、なんか目新しいとか斬新とか言われてるけど、どれもよく見ればなんかの焼き直しだぜ?社長っつーか、もう詐欺師だよ。さーぎーし!」

(・∀ ・)「商談の時もさぁ、なんか横にいた女に会話投げてたし、かっこわりぃっつーか……」

( 、 *川(……………)

144名無しさん:2024/04/03(水) 22:10:41 ID:VP0Da38U0

あぁ、そうだ。まさにその通り。もっともっと言ってしまえ。
そこの調子に乗った青年よ。もっと吐き出せ。酒の勢いに身を任せろ。
私が言いたかったことを、世間が思っている妬み恨みをより代弁してみせろ。

グラスから口を離し、席を立つ。
なにが社長だ。なにが代表取締役だ。肩書こそ立派になったのだろうが、貴方の本質は変わらない。
意地悪で、プライドが高くて、不親切で、無愛想で、無神経。

( 、 *川「………」

世間からの悪評判も、彼を煙たげにする人達も、何も間違っちゃいない。
彼は最低だ。ひどい人だ。人間の風上にも置けないような、人の上に立っちゃいけないような人非人だ。

そんな人を。彼を。盛岡デミタスなんて人を、好意的に捉える物好きなどいる訳がない。
蓼食う虫も好き好きというが、あれは蓼なんて比喩では収まらない毒物だ。
そんな彼を好きになる人などいない。そんな感情、間違いだ。幻覚だ。気の迷いで、不正解。

仮にこれがテストなら、部分点すら与えられないほどの不出来。
どんなに控えめに採点しても、経済的視点という項目でせいぜい1点か2点貰えるかどうかが関の山。



だから、あの人の普段の行動にすら、そんな評価が妥当だとするのなら。

145名無しさん:2024/04/03(水) 22:11:58 ID:VP0Da38U0

(・∀ ・;)「――――へ?」ビチャ

( 、 *川


私のこの行為も、きっと0点なのだろう。


(・∀ ・#)「は、はあぁ!?な…なにすんだよアンタ!?」

頭から水を滴らせた男性が、顔を真っ赤にしたまま私に叫ぶ。
私の右手に握られているのは、すっかり空になったグラスが一つ。

( 、 *川「………すみません。随分酔っぱらってらっしゃるようなので」

('、`*川「お水、少しは飲んだ方がいいですよ」

なんてことはない。
私はただ、騒ぐ彼の頭上で水の入ったグラスを一回転させただけである。

146名無しさん:2024/04/03(水) 23:57:17 ID:VP0Da38U0

¥・∀・;¥「ちょっ…!?伊藤ちゃん!?」

マニーさんが慌ててカウンターから飛び出てくる。
まぁ、さっきまで大人しく一人で酒を呑んでいた女が、いきなり席を立って歩き出したかと思えば、何の躊躇もなく水を他の客にぶっかけたのだ。そりゃあこんな風に慌てもするだろう。
けれど不思議なことに、そんな彼とは対照的に私はひどく落ち着いていた。

(・∀ ・;#)「は、は!?うっわびっちょびちょ…!ふっざけんなよオイ!!」

('、`*川「さっきからずっとふざけていたのは其方ではありませんか」

(・∀ ・#)「あぁ!?なにスカしたツラしてんだ!?絶対弁償させてやっからな!言っとくけどな、このスーツはお前みたいな女には到底払えないような…」

('、`*川「斎藤またんきさん、でしたよね?どうも、お久しぶりです」

彼の本名を口にした瞬間、生まれたてのヒナみたいに囀っていた彼の口が止まる。
ウォッカのアルコールに浸された脳とは言え、別に過去の記憶が失われる訳ではない。
酒如きで飛ぶ記憶力なら、私はもう少し前向きな人間になっていた筈だ。

147名無しさん:2024/04/03(水) 23:59:18 ID:VP0Da38U0

('、`*川「二ヶ月と13日前はお世話になりました。私、盛岡デミタスの部下だった、伊藤ペニサスと申します」

(・∀ ・;)「……あ…アンタ、まさか……」

('、`*川「あぁそういえば、上司の高岡さんはお元気ですか?確かあの日は、お二人でいらっしゃったと記憶していますが」

(・∀ ・lii)サァー

私の追撃に、周りの人たちは戸惑い、彼の顔は青くなる。
よかった。どうやらこの人は口こそ悪いものの、どこぞの変人社長ほど記憶力が悪い訳ではないらしい。
あの日、二言三言しか口を開かなかった私のことも思い出してくれたようだった。

(;  ゚¥゚)「…え、なに、このおねーさん、知り合い?」

(・∀ ・lii)「い、いや、まぁ、その」

(-、-*川「あぁ、そうそう」

('、`*川「不躾ながら貴方のお話が聞こえてしまったのですが、数点、誤解があるようでしたので訂正しておきます」

人の顔色というのは比喩ではなく本当にここまで変わるものなのかと、どこか他人事のように感心している自分がいた。
だがしかし、病人のような顔色になった青年に気を遣う気は一切湧いてこない。
どこか機械的な心持ちのまま記憶を辿り、埃のようにたまったモヤモヤの悪感情を敬語という名のオブラートにせっせと包むことにした。

148名無しさん:2024/04/04(木) 00:01:16 ID:kBWnHJag0

('、`*川「一つ目。うちの盛岡は金銭の授受を親にねだったことは一度もありません。会社の運営はおろか、学生時代の学費すらも自身で工面していました」

紛うことなき事実である。
会社を立ち上げるにあたって、登記にかかる細かいお金から始まる全ての費用を彼は自分で工面していた。
奨学金を元手にすると言い始めた時は流石に眩暈がしたが、結局彼は今日にいたるまで一度も自らの家を頼ることはしなかった。

('、`*川「二つ目。盛岡はコネで大学に入ってはいません。高校時代は毎日こっそり使われてない教室の隅っこにギリギリまでいて勉強していました。国立はコネが通るほど甘い機関ではありません」

これも事実。
高校三年生の頃、変にプライドが高い彼は、他の生徒のように自習室に入り浸ることをしなかった。
かと言って家にも帰りたくなかった彼が選んだのが、別棟の奥にあった、使われてない教室である。
碌に掃除もされておらず只管に埃が積もる中、彼は黙々と過剰なまでの勉学に励んでいた。

149名無しさん:2024/04/04(木) 00:03:06 ID:kBWnHJag0

確かに、彼は本当に嫌味なやつだ。
生まれは裕福で、才覚もある。私たちのような人間とはそもそも住む世界が違う。
性格はお世辞にも良いとはいえないし、いつまで経っても人の名前と顔を覚えようとはしない。
少しでも納得ができないことがあれば、相手が誰であろうが、ビジネスの場であろうが途端に暴走し始める。彼の特徴を羅列していけば、どうやったって批判の方は多くなるだろう。

それでも。

( 、 *川「最後の三つ目ですが」

それでも、最低でも、デリカシーがなくても、それでも。
眼前にいる人のように、あることないことを平気で口にする人なんかよりも。

いや、なんなら。
色んな言語を自在に操る、ふわりとした自慢の才女よりも。
大学在学中に司法試験に受かった優秀な後輩よりも。
どんな人とも円滑なコミュニケーションを送れる、凄くスマートな同僚よりも。

150名無しさん:2024/04/04(木) 00:05:17 ID:kBWnHJag0

( 、 *川「うちの盛岡は、人並みの優しさなど持ち合わせてもいません。それは事実です」

( 、 *川「が」

ずっと見てきた。十年以上、誰よりもずっと近くで社長を、盛岡君を見てきた。
深夜になって従業員が全員帰った後でも、一人ぽつんと部屋に籠って仕事をする姿を見てきた。
手の打ちようがないと言われた案件も、どうにか結果を出そうと苦心しながら一人で抱え込む彼を見てきた。

( 、 *川「どんな困難な問題も自分の力で切り抜けます。例えそれがどんなに泥臭い方法でも」

( 、 *川「どれだけ世間から後ろ指を指されようと、自分で決めた道を振り返ることなく歩けるような人間です。」

それを、そんなに頑張ってきた人を。好きな人を。

( 、 *川「カッコ悪くなどありません。寧ろ、誰よりもずっと、ずっとずっと、カッコいい人です」

( 、 #川「……少なくとも」

下らない法螺話で人をこき下ろすような奴なんかに。
人の悪口を楽しそうに、嗤いながら話す奴なんかに。

こんな何も分かってない奴なんかに、馬鹿にされてなるものか。

( 、 #川「陰口で人を貶めた挙句」

( 、 #川「頭から無様に水をかけられた、どこかのお間抜けさんよりは、ずっと!!」

151名無しさん:2024/04/04(木) 00:06:42 ID:kBWnHJag0

言い終わると同時に、周りが静かになった。
そう思ったのは、ほんの一瞬だけだった。

顔を真っ赤にした斎藤さんに、胸倉を捕まれる。
何を言っているのか、アルコールに浸された頭では上手く理解できない。
まるで壊れたラジオみたいに不快な雑音が絶え間なく発信される。
ただ、私への非難であることだけは辛うじて分かった。

手が振り上げられる。
同時に、彼の後ろにいた人たちの顔が一変したのが見えた。
マニーさんの焦った声も聞こえる。勢いよく振り下ろされる腕が、何故かスローに映る。

周りが騒然とし、視覚から得られた情報を処理した脳が緊急事態であることを懸命に叫ぶ中。
私はただ、あぁ、殴られるのかと、どこか他人事のように思うだけだった。

152名無しさん:2024/04/04(木) 00:07:53 ID:kBWnHJag0

( 、 *川(懐かしいな、なんか)

走馬灯みたいに過去の思い出が沸き上がる。
何が気に食わなかったのか、私に手を上げる父の姿。
それを止めることなく、気付いていないフリをしつつ家事に従じる母の背中。
庇うどころか、嘲るように嗤ってこちらをみる兄たちの顔。

何年経とうが、大人になろうが変わらない。
言わなくていいことを言って、人を不愉快にして、叩かれる。
身の丈に合わない努力をしたとて、大した成果は出せないまま空回りして終わる。それが私の人生だ。
そういう星の元に生まれたのだと、とっくの昔に諦めはついている。

だが、今の気持ちはいどうしてか幾分晴れやかだった。
なるほど。言いたいことを言うって、こんなにスッキリするものなのか。
今まで社長の悪口や陰口を言っていた人たちの気持ちがようやく分かった。

反省はない。後悔もない。
よく考えれば当然だ。好きな人の好きな部分を褒めて何が悪いのか。
好きな人を大した理由もなく貶されて、それを怒って何が悪いのか。
開き直りと言われればそれまで。ただ私の胸の中には不思議と不安も恐怖もなく、今まで感じたことのないような満足感だけが渦巻いていた。

腕が感情のまま私目掛けて下ろされる。
大した防御姿勢を取ることもないまま、風に凪ぐ波のような心持ちのまま。
私はただ、数秒後の衝撃に備えて慣れた様子で目を瞑った。

153名無しさん:2024/04/04(木) 00:09:29 ID:kBWnHJag0


(´ _ゝ `)「僕、どっかのクソ生意気な後輩と違って法律には詳しくないんだけどさ」

(´ _ゝ `)「暴行罪って、未遂の処罰規定、あるんだっけ?」


予期していた衝撃は、いつまで経ってもこなかった。
そして、まるでその代わりだとでもいうように、予期していなかった声が聞こえた。


(´・_ゝ・`)「…まぁ、でも、多分、伊藤にも非はあるんだろうな」

(´・_ゝ・`)「相変わらず、優等生のフリして意味分かんないことするよなぁ、お前は」


恐る恐る目を開ける。天井の明かりが、誰かの背に隠れている。
一番会いたくなかった人が、呆れた目で私を見降ろしていた。

154名無しさん:2024/04/04(木) 00:12:07 ID:kBWnHJag0

('、`;川「…………しゃ、ちょう?」

(´・_ゝ・`)「他の誰かに見えるのか、酔っ払い」

目をパチパチと瞬かせるも、眼前の景色はまるで変わらない。
もう十年以上毎日見ていて、ここ十数日一度も見ていなかった顔がそこにあった。

いつ入ってきたのか。いつから居たのか。
いや、そもそもどうしてここに来たのか。まさか、私を探しに来たのか。
無数の疑問符が脳内を踊り出す。だが、私の口から何か言葉が出るよりも、周囲が騒然となる方が早かった。

<(' _';<人ノ「えっ、盛岡デミタス!?本物!?」

リハ;´∀`ノゝ「うっわ…雑誌とかテレビで見るまんまじゃん、やば…!」

¥・∀・;¥「も、盛岡くん…!?」

(´・_ゝ・`)「やぁマニーさん、お久しぶりです、僕から奪ったテーブルたちを使って営む飲食業は順調ですか?」

¥・∀・;¥「あ、あぁ久しぶり…いや奪ってないよ!君が2年以上も買い渋ってたのが悪いんでしょ!?」

(´・_ゝ・`)「その2年にも渡る深慮を台無しにしたのが貴方だ。あぁ、もし経営が難しくなったすぐにご相談を。つい最近コンサル事業も立ち上げたばかりでしてね…」

¥・∀・;¥「えっまさかの営業トーク!?この状況で!?怖っ!!」

155名無しさん:2024/04/04(木) 00:13:29 ID:kBWnHJag0

魂を抜かれたように呆けた私やざわざわとし始めた周りの人たちも気にせず、社長はマニーさん相手に笑顔で話を始めようとする。
この二人、面識あったのか。いや、そういえばここを教えてくれたのはデルタ君だ。そりゃあ繋がりがあって当然か。
当事者である私まで、呑気にそんなことを考える始末。だが、無論そんな歪な状況がいつまでも続くはずがない。

( ∀ #)「―――おいっ!!」

事実、社長の流れるような営業トークは、とある怒号によって中断された。

(・∀ ・#)「なに俺のこと無視して喋ってんだよ!!これが見えてねぇのか!!あぁ!?」

斎藤さんが自らの服を見せつけるように引っ張ってみせる。
シャツの袖や彼の前髪からは未だにポタポタと雫が零れているのが伺えた。

(・∀ ・#)「そこの女…おたくの社員がさぁ、いきなり水ぶっかけてきたんだよ!!」

(・∀ ・#)「部下の責任は上司の責任だよなぁ!!一体、どう落とし前つけてくれる――」

(´・_ゝ・`)「…えっ、まだいたのか君?」

まるで、下校チャイムがなったのにまだ校内にいる生徒を見つけた教師のような。
朝の登校中に見かけた猫が、その日の夕方の下校中にもいた時のような。
そんな、本当になんでもないことのような声色だった。

156名無しさん:2024/04/04(木) 00:14:21 ID:kBWnHJag0

(・∀ ・;)「………は?」

(´・_ゝ・`)「普通、人を殴ろうとしていたところを見られたらすぐに謝るか、面倒ごとになる前にさっさと立ち去るものだと思うんだが…変わった人だな」

(´・_ゝ・`)「あぁ、まさか僕に何か用なのか?仕事の話ならちゃんとアポをとってから後日に頼む。僕には今から個人的かつ、とてもとても大事な用があるんだ」

至って平坦な音程の声が店に響く。
私とマニーさん、そして周りの人たちの顔はどんどん青白くなり、それらと反比例するみたいに斎藤さんの顔は更に赤くなる。
そんな中、社長の顔色だけは一切変化がないのが、殊の外奇妙に思えた。

(・∀ ・;#)「ふっ……ふっっざけんな!!」

予想通りの裂帛が沈黙を破った。

157名無しさん:2024/04/04(木) 00:16:39 ID:kBWnHJag0

(・∀ ・;#)「ざけんなよマジで!!ありえねぇ、ありえねぇ!!はぁ!!お、お前、おかしいだろオイ!!いきなり水ぶっかけて、そんで、そんで…はぁ!?」

(´・_ゝ・`)「初対面の人にお前って言うのも中々ありえないと思うが」

(・∀ ・#)「しょ、初対面だと…!?」

(´・_ゝ・`)「……あ、もしかして話したことあった?しまったな、やっぱりデルタも連れてくるべきだった。今のナシで」

今にも殴りかかってきそうなほどに興奮している彼とは対照的に、社長は心底面倒そうな表情を隠そうともしないまま頬をポリポリと掻くのみ。
相手の反応は当然である。私でも、あんな風に煽られたら正気を保てる自信はない。

(´・_ゝ・`)「しかしそうか…変な人じゃなくて、単に知能とプライドが釣り合ってないタイプか。本当、どこにでもいるなぁ君みたいなの。量産型か?」

(・∀ ・#)「う、訴える、訴える!!裁判だ裁判!!お前の会社ごと訴えてやる!!マジだぞ、マジでやってやる!!」

(´・_ゝ・`)「何を理由に訴えるんだ?」

間髪を入れない社長の言葉に、斎藤さんの勢いがほんの一瞬だけ止まる。
だが、すぐにまた彼は再び大声で怒鳴り始めた。

158名無しさん:2024/04/04(木) 00:17:38 ID:kBWnHJag0

(・∀ ・#)「だから…見て分かんねぇのか!?水かけられて、何十万もするブランド物のスーツもずぶ濡れだ!!どうしてくれるっていう話を…!」

(´・_ゝ・`)「いや、それそんな大した値段しないだろ。見れば分かる。そもそもかかったのって只の水だろう?」

(´・_ゝ・`)「仮に金銭で解決するとしても精々クリーニング代の数千円だ。それをどうして数十万なんて額に増やしたんだ?どういう計算なんだ?」

(・∀ ・#)「……ッ!あ、あれだ、損害賠償――」

(´・_ゝ・`)「それなら尚の事、今この場で主張して支払いを要求するものじゃないだろう。…まさか、それを踏まえた上で大声で“訴訟”と口にしたのか?脅迫や名誉棄損とかのリスクを考えず?社会人なのに?嘘だろ?」

何を言われても、社長の声のトーンは微塵も変化がみられない。
それは一企業の束ねる経営者の冷静な声というよりも、駄々をこねる幼稚園児を諭すような、そんな声色をしていた。

159名無しさん:2024/04/04(木) 00:18:23 ID:kBWnHJag0

(・∀ ・;#)「じゃ、じゃあ、いきなりその女が俺に喧嘩売ってきたのは、どう言い訳すんだよ!?あぁ!?」

(・∀ ・;#)「な、なぁお前ら!!見てたよな!?なぁ!!」

怒号と共に後ろを振り向き、一緒に来ていた人たちを睨みつける。
いきなり話を振られた彼らはオロオロとしながらも、首を縦に振ろうとする者は一人もいなかった。

(´・_ゝ・`)「…あぁ君たち、無理に話合わせなくていいよ。正直、ここに居るのもしんどいでしょ」

(´・_ゝ・`)「大丈夫。そのあたりは、店にあるカメラ見せてもらえばいい話だから」

さらっと言った社長の言葉を聞いて、斎藤さんは汗を浮かべてままマニーさんの方を見た。

¥・∀・;¥「……え、カメラあるって教えたことあるっけ?」

(´・_ゝ・`)「入口と、カウンターの奥に見つけ辛いけどあるでしょ。あれ、昔うちでも導入してたことあるんだ。映像だけじゃなくて音声も拾ってくれるヤツ。レンタル料高くてすぐ外したけど」

(´・_ゝ・`)「ある程度余裕がある個人の飲食経営者が、カメラの一つや二つ、店に置いてない方がおかしいでしょ。必要になったら後で見せてくれ」

¥・∀・;¥「全部バレてる!?会社経営者って皆こんななの!?怖っ!出禁!!」

世間話をする時のノリで話す二人と、さっきまでの勢いがすっかり無くなってしまった斎藤さんという構図が、いやにアンバランスに視界に映る。
また二言三言会話をした後、「あ、そうだ」と思い出したように社長は私の方を向いた。

160名無しさん:2024/04/04(木) 00:19:41 ID:kBWnHJag0

(´・_ゝ・`)「…で、なんでお前は水なんてかけたんだ」

( 、 ;川「……っ」

何を考えているのか分からない双眸が、真直ぐにこちらを射抜いた。
気が抜けていた私は即妙に返事をすることが出来ず、口を真一文字に閉じながら目を逸らす。
意地を張った訳ではない。純粋に、どう答えていいか分からなかったのだ。
いきなり会社を辞め、暴言を吐いて逃げた元部下がどの口で「貴方の悪口を言われたから」などとほざくのか。

(´・_ゝ・`)「だんまりか。まぁ、ある程度は予測がつくが」

(´・_ゝ・`)「…さて、君の望む通りに事を進めたら君が不利になりそうだけど、どうする?まだやる?」

( ∀ ;#)「……ッ」

一瞬だけ呆れたような目をした後、私から斎藤さんへと視線が移される。
斎藤さんの後ろでは既に同僚らしき人たちは気まずさを通りこしてやや苛々しているようにも見える。
知り合いたちの前で水をかけられ、挙句に先ほどまでこき下ろしていた本人にここまで理屈詰めされては立つ瀬がないだろう。ほんの少しだが同情する。

161名無しさん:2024/04/04(木) 00:21:52 ID:kBWnHJag0

(´・_ゝ・`)「君が失礼をした。それに対して伊藤も失礼をした。それであいこだ。それなのに、君は相場以上の見返りが自分に来ることを期待してる。仮に上手くいったとしたって、別に君自身の人生が劇的に変わる訳でも、救われる訳でもないのに」

(´・_ゝ・`)「君さぁ、もう二十代後半とか、それなりの年齢だろ?それなりに生きてるだろ?なのに何故こんな詰まらないことに拘るんだ?何の根拠もない他人の悪口を外で言うなんて、ダメなことだって知らないのか?」

(´・_ゝ・`)「教えてくれる人がいなかったのか、それを理解できない頭を持って生まれたのか、どちらにせよ可哀そうだな」

(´・_ゝ・`)「…僕も伊藤に会うまでは、周りから君みたいに見られてたのか。なるほど、ぞっとする」

社長の視線は既に私にはない。ここからでは彼の目の色は伺えないし顔も見れない。
それでも、只の声色だけで十分なくらい、彼の声には気の毒なまでの憐憫の情が含まれているのが分かる。

彼は挑発で言っている訳でも、ましてや真っ青な顔をしている男性を馬鹿にしている訳でもない。
本当に心から、”救えない”と、”どうでもいい”と思っているのだ。いっそただ馬鹿にされた方が、素直に見下された方が斎藤さんにとってはよっぽど楽だったろうに。

162名無しさん:2024/04/04(木) 00:22:19 ID:kBWnHJag0

(・∀ ・;#)「ば、馬鹿にしてんのか!?お、お前、いい加減に――!!」

(´ _ゝ `)「いい加減にするのはそっちだろう」

声の温度が一気に低くなった。
同時に、ずっと前のめりだった斎藤さんがほんの少しだけ後ずさる。

バーの中は外と違って暖かく、適切な温度に保たれている。それは社長がやってきた前と今とで変わりはない筈なのに。
社長の声のトーンが一変したと同時に、空調全てが壊れたのではないかと錯覚するほどに。
それほどに底冷えする空気が一気に部屋の中を満たしていった。

(´ _ゝ `)「僕はな、これから恐ろしく難しい交渉に臨むんだ。今までやった、国や政治家、大手企業の役員共を相手にした商談が、飯事に思えるくらいの交渉だ」

(´ _ゝ `)「なにせ相手が相手だ。この僕…あらゆる才能や環境に恵まれた僕ですら一度も勝てない相手。もちろん、相応の準備も、覚悟もしてここに来た」

(´ _ゝ `)「それを、自分にも非があるような詰まらないことで、やれ謝罪だの訴訟だのほざく蒙昧に邪魔された僕の気持ちが分かるか?なぁ?」

心臓がキュっとなるような低い声。少なくとも、私には今まで一度たりとも向けられたことのないタイプの怒り。
社長が一歩踏み出す。それに応じて斎藤さんは後ろに退く。
斎藤さんの口は開いたまま、そこからは言語化された声など一切発される様子はない。


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