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戦争 兵器3

1WS:2020/04/26(日) 07:53:23
主に兵器に関するネタ

前スレ
ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/computer/648/1332660070/

2WS:2020/04/26(日) 07:56:20
戊辰戦争の銃
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/computer/648/1332660070/998-1000

戊辰戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
戊辰戦争の銃はスナイドル銃、Starr carbine、ドライゼ銃

3WS:2020/04/26(日) 07:56:51
シャスポー銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E9%8A%83
慶応2年(1866年)12月、ナポレオン3世は2個連隊分(1800丁とも2000丁とも)のシャスポー銃を江戸幕府に無償提供している。
また、幕府もこの銃を10000丁ほど注文している。
しかし1866年にイギリスで採用されたスナイドル銃は、日本での兵器販路開拓においては薩摩・長州をパートナーとしていたイギリス系のグラバー商会(イギリス東インド会社 - 香港のジャーディン・マセソン商会直系)がすでに一歩先んじて大きな市場を得る事に成功していた。
イギリスとの商流が弱い主な佐幕派の諸藩もプロイセン系のスネル兄弟や、長岡藩にガトリング砲を納めた横浜のスイス系ファーブル・ブランド商社、また香港・上海に無数に存在した中国向け兵器商人たちを窓口としていたなど、幕府を経由してシャスポー銃を始めとするフランス製兵器の売り込みを図ったフランスには強力なライバルたちが存在していた。
特にスナイドル銃は簡単な加工で前装銃を後装式に改造できたため、既に多数輸入されていたエンフィールド銃を元に日本国内でも改造する事が可能(事実、当時の鉄砲鍛冶は旧々式化していた数百年前の種子島式火縄銃までも後装銃に改造している)であり、完成度の高いボクサーパトロンは防水・防湿性に優れた密閉構造だったため、多湿・多雨な日本や当時のイギリス植民地であった南・東南アジアでも問題なく着火する信頼性を有していた。
これに対してシャスポー銃は、フランス語通詞が少なかったために教範(取扱・運用説明書)の日本語訳すら完了していなかった。さらに遠く離れたフランス本国で製造されていた専用弾薬の供給も困難であり、薬莢の構造と日本の気候の相性が悪く不発が多かったこともあって全く有効に運用されず、一説には江戸城開城の際に手付かずの状態で蔵に残されていたとも言われている。
大鳥圭介率いる幕府陸軍の精鋭部隊、伝習隊がシャスポー銃を使用していたという記述が散見されるが、これを真っ向から否定する研究者もいる。もっとも、雨が多く湿度の高い日本で紙製薬莢の扱いに苦労したり、不足した専用弾薬を大鳥が日本で作らせたがうまくいかなかった等の記録が残っていることから、伝習隊がシャスポー銃・ドライゼ銃といった紙製薬莢を使う後装式銃を一時期であれ使用していたことは確かなようである。

4WS:2020/04/26(日) 08:01:51
エンフィールド銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83
日本では幕末に大量に輸入され、戊辰戦争では新政府軍の主力小銃であった。
日本で最も初期にエンフィールド銃を導入したのは薩摩藩とされ、薩英戦争後の軍制改革で4,300挺を購入したと伝えられており、輸入された当初はその弾丸の構造からミニエー銃(Minie rifle)の一種とされ、イギリス・ミニエーと呼ばれていた。
1865年(慶応元年)に双方で300万もの兵士が戦ったアメリカの南北戦争が終結すると、南北両軍が使用していた大量の軍需品が民間業者に払い下げられた。これらの払い下げ品には、90万丁近くが米国に輸出されていたエンフィールド銃も含まれており、その多くは市場を求めて太平天国の乱が続いていた中国(上海・香港)へ集まり、幕末の日本にもグラバーに代表される外国商人によって輸入された。
この頃から、フランス製のミニエー銃と区別するために“エンピール銃”・“鳥羽ミニエー”といった呼び名が付けられ、後に発足した日本陸軍ではエンピール銃の呼称が継承された。
長州など倒幕派諸藩は、エンフィールド銃を1挺あたり15両程度で購入させられていたが、後装式銃器の普及で急速に旧式化したエンフィールド銃の価格は、戊辰戦争の頃から暴落した。同時にスナイドル式銃尾装置によりエンフィールド銃を後装式へ改造する方法が欧米から伝えられ、国内での改造が諸藩や鉄砲鍛冶の間で流行した。
ただし、こうした改造を受けたエンフィールド銃の多くは、側方に設けられたヒンジにより機関部が右方向に開くために、タバコ入れに見立てられ莨嚢式(ろくのうしき)の方式名が与えられたスナイドル銃とは異なり、同時期にベルギーより輸入されていたアルビニー銃などと同様に前方に設けられたヒンジにより機関部が前方向に開く方式が使用された。これは前方開放型のアルビニー式がスナイドル式の側面開放型よりも改造が容易であったからに他ならない。スナイドル銃と区別する意味で前開き型には活罨式(かつあんしき)の方式名が与えられ、より正確には前方枢軸型活罨式と呼ばれた。
新生日本陸軍が発足すると、その歩兵操典に後装式を用いる版が採用された事から、日本陸軍の主力小銃は全て後装式に統一され、スナイドル銃(金属薬莢式)が主力小銃となり、ドライゼ銃(紙製薬莢式)が後方装備とされた。
廃藩置県後に新政府管理へ移管されたエンフィールド銃は、1874年(明治7年)頃から徐々にスナイドル銃への改造作業が始められていたが、1879年(明治10年)に西郷隆盛を首魁とする私学校徒が鹿児島の火薬庫に残されていたエンフィールド銃を強奪して決起して西南戦争が勃発する。
これに対して政府軍はスナイドル銃を主力とする鎮台兵を派遣して戦い、連射速度の違いから西郷軍は緒戦から多くの損害を出して圧倒され、日本最後の内戦は前装式銃の時代とともに終焉した。
貧弱な基盤しか有さず、前装式のエンフィールド銃で戦った西郷軍の鎮圧に莫大な戦費と犠牲を費やした政府は、各地に退蔵されていたエンフィールド銃が不平士族や当時隆盛だった自由民権運動激派に強奪されて同様の反乱が発生する事を恐れ、西南戦争後の1878年(明治11年)から全国各地に残されていたエンフィールド銃を集めてスナイドル銃へ改造する作業を行い、老朽化が激しく改造されずに残された物は軍の射撃訓練用として使用されつつ寿命を迎えて廃棄処分となり、民間へ払下げられる運命を辿った。

5WS:2020/04/26(日) 08:04:22
ミニエー銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%BC%E9%8A%83
ミニエー銃(ミニエーじゅう、Minie rifle)は、パーカッションロック式(雷管式)の前装式ライフル歩兵銃。
本来滑腔砲であるマスケット銃にライフリングを刻みこんだもので、ライフルド・マスケット(英語版)とも呼ばれる。従来使用されていたゲベール銃(マスケット銃の一種)の銃身に改修を施す方法で製造された。
ミニエー弾と呼ばれる独特の弾薬を使用した。

江戸幕府は幕末の元治元年(1864年)にオランダ製ミニエー銃を採用した。しかし当時は南北戦争が終結直後であったため、アメリカから余剰武器のエンフィールド銃が約5万挺も輸入され同時に幕軍に配備されたほか、佐幕派・倒幕派双方の諸藩も制式小銃として購入・運用した。
戊辰戦争では幕軍も新政府軍も主力はエンフィールド銃で、戦跡から出てくるのはほとんどがプリチェット弾である。
箱館戦争では、新政府軍の装備するスナイドル銃と連発式のスペンサー銃は全軍の5%にも満たなかった。
箱館政府軍が武装解除した際に引き渡された装備の内訳は、エンフィールド銃(二ツバンド三ツバンド)1,600挺に対しスナイドル銃(元込め銃)107挺だった。
幕府は本銃の配備と同時に、イギリスから同銃の操作・運用に関する資料を輸入し、当時幕府翻訳方であった福沢諭吉に翻訳させた。
この操作マニュアルは「雷銃操法」と題され、のちに『福沢全集』に収録された。
幕末に坂本龍馬がミニエー銃400丁を買い付けていろは丸に乗せて運搬中に紀州藩の船と衝突し沈没したと主張したが、近年行われたいろは丸の調査ではミニエー銃は見つかっていない。

6WS:2020/04/26(日) 08:09:45
ゲベール銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%8A%83
前装式(マズルローダー式)、滑腔銃身(ライフリングがない)、フリントロック式(燧石式)、またはパーカッションロック式(雷管式)の洋式小銃である。
すなわち、マスケットと呼ばれるものと同一であるが、幕末日本では特にこう呼ぶ。
日本では、幕末期に西洋軍制を導入した江戸幕府や藩が相次いでゲベールを購入した。
1831年に砲術家の高島秋帆がオランダから輸入したのが始まりとされる。幕末の早い段階から輸入が開始され、すでに施条銃の時代となっていた西欧から旧式のゲベールが大量に日本に輸出された。
また輸入だけではなく、火縄銃とは発火装置が異なる程度だったため各地で国産のゲベールが製造されたほか、火縄銃の発火装置を(燧石式を飛ばして直接)管打式に改造した和製ゲベールも見られる。
そのため値崩れを起こし、価格は1挺5両ほどにまで下がった。
一方で欧米でも、随時ライフリングが刻まれてミニエー銃に改修されたり、滑腔銃身のままミニエー弾やプリチェット弾が配布されたり、中には後装式に改造されるまで使い切られるゲベール銃も存在したが、日本ではほとんどそのような改修や運用は行われなかった。
輸入が始まった頃は薩摩藩・長州藩や幕府軍で採用されていたが、薩摩・長州では早い段階から、ゲベール銃よりも新式で命中率・射程距離に優れた施条銃であるミニエー銃やスナイドル銃へと更新を進めた。
幕府軍も第二次長州征討以降は積極的に施条銃を導入し、幕府陸軍の歩兵隊などに支給した。
戊辰戦争時点ではゲベール銃は時代遅れの銃となっていたが相対的に安価であり、東北諸藩のほとんどは幕末期に購入したゲベール銃やヤーゲル銃(英語版)が主力のまま戊辰戦争に突入していた。

7WS:2020/04/26(日) 08:16:25
村田銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E9%8A%83
薩摩藩・日本陸軍の火器専門家だった村田経芳がフランスのグラース銃(金属薬莢用に改造されたシャスポー銃)の国産化を図る過程で開発し、1880年(明治13年)に日本軍が採用した最初の国産小銃。
明治維新前後の頃には国内で様々な輸入小銃が使用されており、建軍直後の日本軍でも、陸軍がイギリス製のスナイドル銃、海軍が同マルティニ・ヘンリー銃を主に使用していたが、村田経芳が十三年式村田銃の製造に成功したことで、初めて「軍銃一定」(主力小銃の統一・一本化)が成し遂げられた。このことが後の日清戦争において、雑多な小銃を用いる清軍に対し、日本軍の優位につながる一因となった。
明治維新期は火器が飛躍的に発達しはじめた時期にあたり、様々な形式の火器が出現して数年を置かずに瞬く間に旧式化するというサイクルが繰り返されており、各藩から集められた火器は新旧各種が混在した状態だった。
発足したばかりの新生日本陸軍での歩兵教練は、輸入されたテキストを日本語に翻訳したマニュアルとお雇い外国人による指導に頼っており、1872年(明治5年)兵部省によって1870年版フランス陸軍歩兵操典が、次いで1874年(明治7年)に陸軍省によって1872年版同操典が採用された事から、その主力小銃は全て後装式に統一された。

西南戦争は日本陸軍の勝利で終結したが、歳入のほとんどを戦費に使い果たした日本政府は財政難に陥り、陸軍も新小銃の国産化よりエンフィールド銃のスナイドル銃への改造を優先させたため、村田経芳のシャスポー銃改造計画は凍結された。
しかし、この凍結が怪我の治療を終えた村田経芳に時間の余裕を与え、シャスポー改造グラース銃を一部簡略化した設計で試作を始めた村田は、1880年(明治13年)に至り、ついに国産小銃の製造に成功した。

旧式化した十三年式・十八年式村田銃の一部は、軍の収益事業の一環として着剣装置や銃身内のライフリングを銃身長の半分まで削り取られ[19][20][21]、散弾銃に改造されてから民間に払い下げられ、軍用銃としてよりも長い期間を猟銃として活躍した。

8WS:2020/04/26(日) 08:17:54
グラース銃(グラースじゅう、仏: Fusil Gras Modele 1874 M80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B9%E9%8A%83
19世紀フランスのボルトアクションライフル
フランス陸軍によって使用されたグラース銃は、バジーレ・グラース(Basile Gras)大佐によって、シャスポー銃を金属製カートリッジに適合させた物だった。このライフルは、口径11mm、重量25g、黒色火薬を充填したセンターファイアカートリッジを使用した。それは強力な兵器だったが、装填後に1発の弾丸しか撃てなかった。また、Model 1874 「グラース」として知られている、三角形の銃剣が付属した。
シャスポー銃からの改良点としては、同銃が撃針のコッキングをボルト解放前に親指で撃鉄(コッキングピース)を引く事で、手動で行う必要があったのに対して、グラース銃はボルトの引き起こしと同時にコッキングが完了するコックオン・オープニング方式を採用した事であった。コッキングピースを直接引く機能は残されてはいたが、この改良により速射時の操作性が向上した。
グラース銃は単発銃であった為、1886年から8連発のルベルM1886ライフルに置き換えられていった。それまでに約40万挺のグラース銃が主にサン=テティエンヌ造兵廠によって製造された。

9WS:2020/04/26(日) 08:33:40
カービン(Carbine)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%B3
本来歩兵用小銃より銃身が短い騎兵用小銃のことだが、今日では単に全長を短め(概ね80cm以下)にした銃のことを指す。
日本語では騎兵銃、騎銃等と訳される。

M1793カービン。フランス革命戦争頃に使用された。
ウィンチェスター・レバーアクション・カービン M1866
マーリンM1894

なお戊辰戦争は1868年
ウィンチェスター・レバーアクション・カービンM1866は1866年、ウィンチェスター社販売
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%83%AB
ラスト・サムライの冒頭エピソードは実に正しい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A4
モデルとなった戦争は西南戦争(1877年)が該当らしいが、忍者軍団が登場するあたりでお察し

10WS:2020/05/16(土) 02:33:07
グランビルの法則
https://tradelife.jp/investment/3559/
https://tradelife.jp/cms/wp-content/uploads/2018/04/1.jpg


1、買いパターン1 《買いの第1段》
移動平均線が長期間下落、または横ばいで推移した後、株価が上昇に転じ移動平均線を下から上に突き抜けた場合に買い

2、買いパターン2 《押し目買い》
株価が移動平均線を下回った場合でも、移動平均線が上昇中の時は押し目買い

3、買いパターン3 《買い乗せ》
移動平均線より上にある株価が足踏み状態の時、上昇中の移動平均線が割り込むことなく再度上昇に転じた時は買い乗せの局面である

4、買いパターン4 《自律反発の買い》
下向きになっている移動平均線よりも、さらに株価が大きくかけ離れて下落した(下への乖離幅が大きくなった)場合は自律反発する可能性が高いと判断して買い

5、売りパターン1 《売りの第1段》
移動平均線が長期間上昇、または横ばいで推移した後、株価が下落に転じ移動平均線を上から下に突き抜けた場合は売り

6、売りパターン2 《戻り売り》
株価が移動平均線を上回った場合でも移動平均線が下落中の時は戻り売り

7、売りパターン3 《売り乗せ》
移動平均線より下にある株価が足踏み状態の時、下落中の移動平均線が上回ることなく再度下落に転じた時は売り乗せ局面である

8、売りパターン4 《自律反落の売り》
上向きになっている移動平均線よりも、さらに株価が大きくかけ離れて急騰した(上への乖離幅が大きくなった)場合は自律反落する可能性が高いと判断して売り

11WS:2020/05/21(木) 15:54:00
東艦(あずまかん、旧名ストーンウォール(CSS Stonewall))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%89%A6
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Stonewall-Kotetsu.jpg

日本海軍の軍艦。 艦名の東の意味は吾妻、吾嬬などと共に全てあづま(あずま)と読み、京都から東の国を指す汎称になる。
本艦を指すことが多い呼称で甲鉄艦(こうてつかん)があり、一般には鋼鉄製装甲の軍艦(装甲艦、Ironclad)を指す言葉で固有名詞ではないが、幕末から明治にかけての日本史でこれが用いられる時は本艦を指す事が多い。
艦首水面下に突出した衝角が特徴的

慶応3年(1867年)に小野友五郎を代表とする江戸幕府の訪米使節がアメリカに「ストーンウォール(CSS STONEWALL)」買取を約束したが、翌慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発して幕府が瓦解すると、新政府側でもストーンウォールを買い取りたいと言い出した。
旧幕府側はこれに反発。横浜に至ったアメリカ側は、戦争の決着がつくまでストーンウォールをどちらにも売る気はないと、局外中立を宣言した。
しかし奥羽越列藩同盟が崩壊し、榎本武揚ら旧幕府海軍が蝦夷地へ渡って所謂「蝦夷共和国」を樹立させた頃には、明治政府が新たなる政府であることを認めて局外中立を撤廃。
まだまだ財政が厳しかった明治政府は躊躇したが、明治2年(1869年)2月3日ストーンウォール(甲鉄艦)購入に踏み切った。

戊辰戦争
旧幕府海軍は旗艦の開陽丸を座礁で失った上、明治政府のストーンウォール(甲鉄艦)購入の知らせが箱館に届き危機を感じた榎本らは軍議の上、同艦への移乗攻撃による奪取作戦を計画(アボルダージュ作戦)、宮古湾海戦が起こった。
榎本らは甲鉄艦の装甲を貫ける新型砲弾を開発しており、船に積んでいたと言われるが、天候などの不運も重なりその威力は試せないまま奪取に失敗した。
本艦は宮古湾海戦で旧幕府軍艦を追撃した後、青森に待機し、同年4月9日の新政府軍上陸に際して箱館湾に出撃。
箱館湾海戦を経て旧幕府軍の降伏に至った。

日本海軍では「甲鉄」と呼ばれていた(?)
甲鉄と乾行の2隻は中島四郎(甲鉄に乗艦)の指揮で横浜港に派遣された
1872年(明治5年)12月7日には名を「東艦」と改められた

12WS:2020/05/21(木) 15:59:18
甲鉄艦 (ストーンウォール(CSS Stonewall))
東艦 甲鉄
東は吾妻、吾嬬(あづま・あずま)とも記載。京都から東の国を指す汎称
日本史でこれが用いられる時は本艦を指す事が多い。

ドックで整備を受ける竣工当時の本艦を艦首から撮影した写真。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/CSSStonewallBow.jpg
男性が座っている砲門部により艦首方向への砲撃を可能とした。

13WS:2020/05/21(木) 16:20:20
装甲艦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%85%E7%94%B2%E8%89%A6
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Meyers_b12_s0661a.jpg
鉄ないし鋼の装甲を施した軍艦を指す用語
日本では甲鉄艦ともいい、明治時代にはより一般的な名称であった。
1854年に、世界で最初の装甲艦がフランスで建造。110mmの鉄板と440mmのオーク材で強固に装甲されていたが、帆走と150馬力の蒸気機関による最高速力はわずか数ノットの浮き砲台だった。

日本史における装甲艦
織田信長が伊勢の大名九鬼嘉隆に建造させた、「鉄甲船」という木造の船体の外側に鉄板を貼り付けた大型の軍艦が初の装甲艦の例として挙げられることもある。
これは1576年(天正4年)の7月13日の第一次木津川口の戦いの際、毛利輝元麾下の水軍に焙烙火矢攻撃を受けた事を戦訓として、建造されたものである。
ただし、鉄甲船の装甲はあくまで防火のためのものであり、防弾を目的とした装甲とは意味が違うものである。そして後世の装甲艦とは技術的なつながりは全く存在しない。

産業化以前の装甲艦
https
://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%8C%96%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E8%A3%85%E7%94%B2%E8%89%A6
厚い金属板により装甲がほどこされた木製の、または鉄骨に木板張りなど数種の材料で作られた軍艦である。
1854年にフランスにおいて世界初の航洋装甲艦ラ・グロワールが建造される以前から、ヨーロッパにおいては船を建造する際衝角として利用するために金属製の船骨を用いており、また金属板張りの軍船についての記述も存在する。
それらのなかには艦砲が装備されているものもあった。
東アジア においては16世紀から艦砲を持ち金属の装甲が施された軍船についての記録がある。

鉄甲船
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%94%B2%E8%88%B9
戦国時代から江戸時代初期にかけて大型の安宅船に鉄板を張った船。
主に織田信長と、豊臣秀吉が建造を命じた鉄甲船が知られる。

織田信長の鉄甲船
信長が伊勢志摩の豪族であり水軍を率いた九鬼嘉隆に命じて作らせたといわれる
本船の存在は信長の側近・太田牛一の著した『信長公記』、多聞院の英俊が記した『多聞院日記』、宣教師オルガンチノのルイス・フロイス宛の報告書などに記載が見られるが、詳細については詳らかではなく、未だ定説を見ていない。
本船は船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍が得意とした焙烙火矢に対する装甲としたと伝わる。
しかし、これを直接的に示している同時代の史料は『多門院日記』しかなく、その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。

豊臣秀吉の鉄甲船
秀吉が文禄・慶長の役時に鉄の装甲を持った大型船を建造したことは『フロイス日本史』に文禄2年(1594年)のこととして明確に記述されている。
「関白はこのたびの朝鮮征服のために幾隻か非常に大きい船舶を建造させました。
 それらの舟は、すべて水面から上は鉄で覆われ、中央に船楼を有します。
 相互に通じる船橋は、いずれも鉄が被せられ、木(造部)は露出していません。
 そして全て甚だしく美しく塗金されています。」

亀甲船
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B2%E8%88%B9
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9f/Turtle_boat.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5e/TurtleShip1795.jpg
李氏朝鮮時代に存在したとされる朝鮮水軍の軍艦の一種。
亀甲船についての記述が初めて登場するのは15世紀の太宗実録である。
豊臣秀吉による文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)で実際に5隻が運用されたとされる。
日本側の記録には登場しない。

李舜臣行録
「亀甲船の大きさは、板屋船(当時の主力戦艦)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。
そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった」、
「前方には竜頭を作り、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。
左右にはそれぞれ6個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ」、
「戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせてカモフラージュしたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むとみな刺さって死んだ。
また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後から一斉砲火をやられた」

14WS:2020/05/21(木) 16:30:30
安宅船
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5b/Arakebune_in_Hizen_Nagoya_Castle_byobu.jpg
室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船
巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ないが、戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進されることから小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができた。
室町時代後期以降の日本の水軍の艦船には、安宅船のほか、小型で快速の関船と関船をさらに軽快にした小早があり、安宅船がその中核を成した。

いずれも船首上面が角ばった形状をしており、矢倉と呼ばれる甲板状の上部構造物も方形の箱造りとなっているのが特徴である。
上部構造物は船体の全長近くに及ぶため、総矢倉と呼ばれる。この形状によって確保した広い艦上に、木製の楯板を舷側と艦首・艦尾に前後左右の方形に張って矢玉から乗員を保護した。
もともと速度の出ない大型船であるため船速は犠牲にされ、楯板は厚く張られて重厚な防備とした。楯板には狭間(はざま)と呼ばれる銃眼が設けられ、隙間から弓や鉄砲によって敵船を攻撃した。
移乗攻撃を行うため、敵船との接舷時には楯板が外れて前に倒れ、橋渡しとできるようになっていた。
楯板で囲われた総矢倉のさらに上部には屋形が重なり、外見の上でも城郭施設に似ている。
特に大きな安宅船には二層から四層の楼閣があげられていた。その構造と重厚さから、安宅船はしばしば海上の城にたとえられる。

村上水軍の安宅船模型
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/%D0%9C%D1%83%D1%80%D0%B0%D0%BA%D0%B0%D0%BC%D0%B8_%D0%BF%D0%B8%D1%80%D0%B0%D1%82.jpg

安土・桃山時代
1578年には信長の命により、九鬼水軍を率いる部将九鬼嘉隆が黒い大船6隻を、滝川一益が白い大船1隻を建造している。
その規模は、その噂を聞いて書き残した興福寺の僧侶の記録(『多聞院日記』)によれば横七間(幅約12.6m)、竪十二、三間(長さ約24m)で、鉄張りであったという。
鉄張りにしたのは毛利氏の水軍が装備する火器の攻撃による類焼を防ぐためと考えられ、当時の軍船としては世界的にみても珍しい。
これが有名な信長の「鉄甲船」である。
更に、この大安宅船を実見した宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノの証言によれば、各船は3門の大砲と無数の大鉄砲で装備していたといい、6月20日に伊勢から出航して雑賀衆や淡輪の水軍と戦い、大阪湾に回航し、9月30日に堺湊で艦船式、11月6日に木津川口で九鬼嘉隆の6隻が毛利氏の村上水軍や塩飽水軍と海戦を行い勝利している(第二次木津川口の戦い)。
1584年の蟹江城合戦では、九鬼嘉隆は伊勢白子浦から蟹江浦に滝川一益の兵3千人を揚陸させているが、同月19日の海戦に敗れて嘉隆は大船を捨て小舟で沖に逃れている。
この時の嘉隆の大船は、「大宮丸」、「日本丸」と伝わる。

1591年に始まる豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では軍需物資や兵員を輸送し、兵站を維持するために大量の輸送船が西国の大名によって建造された。
これらの輸送用の船舶とは別に、緒戦期に朝鮮水軍の襲撃で被害が出ると日本側も水上戦闘用に水軍の集中と整備を開始し、『太閤記』などの記述によれば石高十万石につき大船(安宅船)二隻を準備させたという。
その結果、慶長の役では日本水軍が活躍することとなった。
また、この役のために九鬼嘉隆が建造した「鬼宿」は長さ百尺(約30m)、櫓百挺で、漕ぎ手と戦闘員をあわせて180名が乗り込むことができた巨船で、豊臣秀吉の命名によって「日本丸」と改名されたことで知られ、安骨浦海戦では敵の襲撃を強靱な船体で受け止め、脱出に成功している。
(大きさについては異説あり)また、山内一豊に宛てた手紙では、「船長十八間(約32m)、幅六間(約11m)」と規定した軍船の建造を命じている。

江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て江戸時代初期には、日本の各地で次々に巨城が築城された軍事的な緊張の時代を反映して九鬼氏をはじめ西国の諸大名によって日本丸を上回る巨艦が次々に建造され、安宅船の発展はピークを迎えた。
しかし慶長14年(1609年)に江戸幕府は西国大名の水軍力の抑止をはかって500石積より上の軍船を没収している(大船建造の禁)。
寛永12年(1635年)には武家諸法度により全国の大名に500石積より上の軍船の保有が禁じられている。
江戸幕府は500石積より上の軍船保有を禁じたのと同年に、長さ三十尋(約55m)で3重の櫓をあげ、200挺の大櫓を水夫400人で漕ぐという史上最大の安宅船である安宅丸を完成させた。
しかし、安宅丸は巨体のために航行に困難が伴い、隅田川の河口にほとんど係留されたまま留め置かれた末に1682年に解体され、和船最後の巨船ともなった。

15WS:2020/05/21(木) 16:59:03
装甲巡洋艦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%85%E7%94%B2%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6
水線部舷側を防御する装甲帯と装甲板で覆われている

元来、艦砲では沿岸要塞に対抗できないのがセオリーとされていた。
しかしクリミア戦争でフランス軍が実戦投入した装甲浮き砲台が要塞攻撃を成功させたことで、状況は一変した。
この戦訓を踏まえて、フランス海軍が1859年に進水させた「ラ・グロワール」と、これに対抗してイギリス海軍が1860年に進水させた「ウォーリア」により、世界の海軍は装甲艦の時代に突入した。

装甲巡洋艦の端緒とされるのが、フランス海軍が1890年に竣工させた「デュピュイ・ド・ローム」である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%94%E3%83%A5%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A0_(%E8%A3%85%E7%94%B2%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/58/Armoured_cruiser_Dupuy_de_L%C3%B4me.jpg

これらの装甲巡洋艦は、通常の巡洋艦と同様に通商破壊や商船護衛、前路哨戒や植民地警備といった任務に投入されていたが、
19世紀末ないし20世紀初頭には、更にこれを準主力艦として位置付けて、同種艦数隻で戦列を構成して戦艦部隊とともに行動する運用法が生じた。
日本海軍の六六艦隊計画(1896年開始)も主力艦として戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を整備する計画であり、日露戦争の日本海海戦にも主力艦として投入されている。

16WS:2020/05/21(木) 17:24:53
防護巡洋艦 Protected cruiser
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6
19世紀後半から20世紀初頭にかけて存在した巡洋艦の形式である。
装甲艦や戦艦、装甲巡洋艦が舷側に鋼鉄の装甲を張って防御としていたのに対し、主機室の上の甲板を装甲し(これを防護甲板という)、舷側には装甲を持たない比較的軽防御の巡洋艦をいう。
チリ海軍がイギリスのアームストロング造船所に発注した巡洋艦「エスメラルダ」(1884年竣工)が世界最初の防護巡洋艦といわれる
(同艦は1895年に日本海軍が購入し、二等巡洋艦「和泉」となった)。
大型の装甲巡洋艦 1 隻の費用で小型高速の防護巡洋艦 3 隻が建造できるとされ、各国が競って装備した。
しかし、実戦において防御力の不足が明らかになったこともあり、やがて廃れた。

製鋼技術の進歩を背景として、防護巡洋艦のうち大型の艦では、再び垂直防御の導入が図られた。
これが装甲巡洋艦であり、その端緒とされるのが、フランス海軍が1890年に竣工させた「デュピュイ・ド・ローム」であった。

エスメラルダ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89_(%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1f/Japanese_cruiser_Izumi_at_Sasebo_1908.jpg
和泉(いずみ)は、日本海軍の防護巡洋艦。
艦名は旧国名「和泉国」にちなんで名づけられた。
元はチリ海軍所属、世界初の防護巡洋艦「エスメラルダ」(スペイン語: Esmeralda、「エメラルド」の意味)。
1894年に日清戦争に伴う戦力増強のため、チリ政府から日本海軍が購入した。

ニューアーク(アメリカ海軍)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Uss_newark_cc-1.jpg

「エドガー」級防護巡洋艦(イギリス海軍)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/56/HMSgib.jpg

カイゼリン・エリーザベト(オーストリア=ハンガリー帝国海軍)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/12/SMS_Kaiserin_Elisabeth.jpg

ハミディイェ(オスマン帝国海軍)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4e/Savuranoglu_hamidiye.jpg

超勇(清国海軍)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Chaoyong_2.jpg

ヴァルキリエン(デンマーク海軍)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e4/Danish_Cruiser_Valkyrien_1899.jpg

トルード(フランス海軍)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5f/Armoured_cruiser_Troude.jpg

バウティク(ポーランド海軍)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4b/Former_cruiser_ORP_Baltyk.JPG

アヴローラ(ロシア帝国海軍)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3a/Kruiser_Aurora.jpg

17WS:2020/07/30(木) 17:39:41
スウォーム
https://trafficnews.jp/post/63639/2
1000機の「群れ」が一斉突撃 米のマイクロドローン群
無数のドローンによる攻撃を「スウォーム」と呼び、ある意味では「ファンネル」よりもはるかに恐ろしい

無人戦闘機による空中戦
機動性や搭載センサーなどをある程度、割り切って安価にした「ミサイルキャリアー」に徹し、有人戦闘機の攻撃コマンドやデータリンクによる情報共有を受けて、前方に出て大量のミサイルを撃ち込む「ロボットウイングマン(僚機)」として使用する



「ファンネル」実現へ?
https://trafficnews.jp/post/63639
アメリカ国防総省は2017年1月9日(月)、前年10月にF/A-18「スーパーホーネット」へ搭載した103機からなるマイクロドローン群「ペルディクス(Perdix)」の、投射・飛行テストを成功裏に実施したと発表
「ペルディクス」は重さ290g、翼幅30cm、20分の航続時間を持ち、航空機から投下したあとはAIによって完全に自律します。
さながら小鳥や虫の「群集(スウォーム)」のように、全体でひとつの固体として振る舞う「集団的意思決定」、集団を維持する「適応編隊飛行」、1度崩れた群れを回復する「自己治癒」などの、高度な「群れ飛行制御技術」を実証しました。

18WS:2020/07/30(木) 17:42:53
米海兵隊が主力戦車M1A1「エイブラムス」廃止を決断を下した
https://grandfleet.info/military-trivia/why-do-the-us-marines-want-to-abolish-tanks/
世界中に普及してしまった無人機や精密誘導兵器の前に「戦車」や「装甲車」といった時代遅れの装備は生き残れないと考えているからだと報じ、この考えを裏付ける実例として今年2月にトルコ軍とシリア政府軍との間で発生した戦闘とリビアの例を挙げた。

シリア政府軍の戦車や装甲車は建物や茂みに隠れたりカモフラージュを施しトルコ軍からの攻撃を回避しようとしたが、上空を飛行する無人機に搭載されたセンサーや赤外線画像の前には無意味で次々と位置が特定され遠距離からの精密誘導兵器による攻撃で破壊されてしまった。

19WS:2020/11/04(水) 11:28:38
重力弾実験
実際に「神の槍」落としてキノコ雲作った映像あるんかな
ICBMが雲突き破って落ちてきた写真はあるが、その後が見たい

ひょっとして米軍隠してる?

20WS:2021/01/16(土) 21:34:19
海の底まる見え検証2「冷戦期の失われた核兵器」
空母「インディペンデンス」
1947年 クロスロード作戦で核実験に参加
沈まなかったものの放射能汚染が酷く
カリフォルニア沖で調査た後、海岸160km先へ投棄

21WS:2021/04/24(土) 14:50:42
IV号突撃砲 6000ユーロ(80万円程)

22WS:2021/05/05(水) 15:29:05
攻城塔 ブリーチング・タワー ベルフリー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BB%E5%9F%8E%E5%A1%94
要塞の防壁に接近する際、攻撃者やはしごを防御するよう特別に作られた攻城兵器
攻城櫓(こうじょうやぐら)とも呼ばれる。

古代から地中海世界・西アジア・中央アジア・中国の諸文明、中世ヨーロッパや戦国時代の日本など、極めて広範囲に普及した。
古代の近東では紀元前11世紀から使用され、ヨーロッパでは紀元前4世紀に、また古代の極東でも攻城塔は使用された。
建造には相当な時間を要し、もしも梯子による攻撃や坑道戦、または防壁や門の破壊などによって要塞の抵抗と防御を打破できないとなれば、攻城塔が主力として作られた。

知られている中で最古の攻城塔の投入は、アッシュールナツィルパル2世(在位:紀元前883年 - 859年)率いる新アッシリア帝国の陸軍が、紀元前9世紀に用いた例である。彼の治世、またその後の治世のレリーフでは、傾斜道や衝角のようないくつかの包囲戦術の使用とともに攻城塔が描かれている。

攻城塔は大型の火砲の開発によって脆弱で時代遅れなものに変じた。
しかし、後に建造された「砲列塔」は火薬の時代においても類似の任務を帯びた。攻城塔に似たこうした塔は、包囲戦用の砲を据えるため、現地で木によって作られた。
1552年のカザン包囲戦に投入された。この塔は10門の大口径砲と50門の軽砲を搭載した

23WS:2021/05/05(水) 15:33:11
戦国時代の兵器
http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/senngokuheiki1.html
車井楼
http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/42.jpg
http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/34.jpg
http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/110.jpg
http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/210.jpg

車竹束
http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/162.jpg
http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/171.jpg
竹束は銃弾を貫通させません、当初、弓矢から身を守る為に木の板を盾とした押車が考案され戦場で使われていましたが鉄砲が実戦で使用される様に成ると竹束を全面に取付けた押車が登場します、2名の兵が車を押してその背後に切込み兵が身を隠し敵に近づき敵陣へ切込む戦術です。

24WS:2021/07/02(金) 22:07:36
空挺戦車
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%8C%BA%E6%88%A6%E8%BB%8A
輸送機(※ここでは、輸送用の飛行機、グライダー、ヘリコプター)に搭載可能な軽量の戦闘車両。
戦闘地帯に空中投下もしくは強行着陸によって輸送され、火力が不足しがちな降下直後の空挺部隊(エアボーンフォース)に火力と機甲戦力を与えることが目的である。
「戦車」とは呼ばれるが、空中投下もしくは強行着陸によって輸送される装甲戦闘車両全般を指す。

アメリカ軍においては、ベトナム戦争時に空挺対戦車自走砲M56スコーピオンと空挺戦車M551シェリダンの2車種が開発・実戦配備された
M551はパナマ侵攻作戦においても実戦で空中投下運用が行われているが、空中投下された車両のうち半数が故障・損傷して使用不能になるなど、その結果は馨しいものではなかった


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