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戦争 兵器3

14WS:2020/05/21(木) 16:30:30
安宅船
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5b/Arakebune_in_Hizen_Nagoya_Castle_byobu.jpg
室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船
巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ないが、戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進されることから小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができた。
室町時代後期以降の日本の水軍の艦船には、安宅船のほか、小型で快速の関船と関船をさらに軽快にした小早があり、安宅船がその中核を成した。

いずれも船首上面が角ばった形状をしており、矢倉と呼ばれる甲板状の上部構造物も方形の箱造りとなっているのが特徴である。
上部構造物は船体の全長近くに及ぶため、総矢倉と呼ばれる。この形状によって確保した広い艦上に、木製の楯板を舷側と艦首・艦尾に前後左右の方形に張って矢玉から乗員を保護した。
もともと速度の出ない大型船であるため船速は犠牲にされ、楯板は厚く張られて重厚な防備とした。楯板には狭間(はざま)と呼ばれる銃眼が設けられ、隙間から弓や鉄砲によって敵船を攻撃した。
移乗攻撃を行うため、敵船との接舷時には楯板が外れて前に倒れ、橋渡しとできるようになっていた。
楯板で囲われた総矢倉のさらに上部には屋形が重なり、外見の上でも城郭施設に似ている。
特に大きな安宅船には二層から四層の楼閣があげられていた。その構造と重厚さから、安宅船はしばしば海上の城にたとえられる。

村上水軍の安宅船模型
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/%D0%9C%D1%83%D1%80%D0%B0%D0%BA%D0%B0%D0%BC%D0%B8_%D0%BF%D0%B8%D1%80%D0%B0%D1%82.jpg

安土・桃山時代
1578年には信長の命により、九鬼水軍を率いる部将九鬼嘉隆が黒い大船6隻を、滝川一益が白い大船1隻を建造している。
その規模は、その噂を聞いて書き残した興福寺の僧侶の記録(『多聞院日記』)によれば横七間(幅約12.6m)、竪十二、三間(長さ約24m)で、鉄張りであったという。
鉄張りにしたのは毛利氏の水軍が装備する火器の攻撃による類焼を防ぐためと考えられ、当時の軍船としては世界的にみても珍しい。
これが有名な信長の「鉄甲船」である。
更に、この大安宅船を実見した宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノの証言によれば、各船は3門の大砲と無数の大鉄砲で装備していたといい、6月20日に伊勢から出航して雑賀衆や淡輪の水軍と戦い、大阪湾に回航し、9月30日に堺湊で艦船式、11月6日に木津川口で九鬼嘉隆の6隻が毛利氏の村上水軍や塩飽水軍と海戦を行い勝利している(第二次木津川口の戦い)。
1584年の蟹江城合戦では、九鬼嘉隆は伊勢白子浦から蟹江浦に滝川一益の兵3千人を揚陸させているが、同月19日の海戦に敗れて嘉隆は大船を捨て小舟で沖に逃れている。
この時の嘉隆の大船は、「大宮丸」、「日本丸」と伝わる。

1591年に始まる豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では軍需物資や兵員を輸送し、兵站を維持するために大量の輸送船が西国の大名によって建造された。
これらの輸送用の船舶とは別に、緒戦期に朝鮮水軍の襲撃で被害が出ると日本側も水上戦闘用に水軍の集中と整備を開始し、『太閤記』などの記述によれば石高十万石につき大船(安宅船)二隻を準備させたという。
その結果、慶長の役では日本水軍が活躍することとなった。
また、この役のために九鬼嘉隆が建造した「鬼宿」は長さ百尺(約30m)、櫓百挺で、漕ぎ手と戦闘員をあわせて180名が乗り込むことができた巨船で、豊臣秀吉の命名によって「日本丸」と改名されたことで知られ、安骨浦海戦では敵の襲撃を強靱な船体で受け止め、脱出に成功している。
(大きさについては異説あり)また、山内一豊に宛てた手紙では、「船長十八間(約32m)、幅六間(約11m)」と規定した軍船の建造を命じている。

江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て江戸時代初期には、日本の各地で次々に巨城が築城された軍事的な緊張の時代を反映して九鬼氏をはじめ西国の諸大名によって日本丸を上回る巨艦が次々に建造され、安宅船の発展はピークを迎えた。
しかし慶長14年(1609年)に江戸幕府は西国大名の水軍力の抑止をはかって500石積より上の軍船を没収している(大船建造の禁)。
寛永12年(1635年)には武家諸法度により全国の大名に500石積より上の軍船の保有が禁じられている。
江戸幕府は500石積より上の軍船保有を禁じたのと同年に、長さ三十尋(約55m)で3重の櫓をあげ、200挺の大櫓を水夫400人で漕ぐという史上最大の安宅船である安宅丸を完成させた。
しかし、安宅丸は巨体のために航行に困難が伴い、隅田川の河口にほとんど係留されたまま留め置かれた末に1682年に解体され、和船最後の巨船ともなった。


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