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戦争 兵器3

11WS:2020/05/21(木) 15:54:00
東艦(あずまかん、旧名ストーンウォール(CSS Stonewall))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%89%A6
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Stonewall-Kotetsu.jpg

日本海軍の軍艦。 艦名の東の意味は吾妻、吾嬬などと共に全てあづま(あずま)と読み、京都から東の国を指す汎称になる。
本艦を指すことが多い呼称で甲鉄艦(こうてつかん)があり、一般には鋼鉄製装甲の軍艦(装甲艦、Ironclad)を指す言葉で固有名詞ではないが、幕末から明治にかけての日本史でこれが用いられる時は本艦を指す事が多い。
艦首水面下に突出した衝角が特徴的

慶応3年(1867年)に小野友五郎を代表とする江戸幕府の訪米使節がアメリカに「ストーンウォール(CSS STONEWALL)」買取を約束したが、翌慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発して幕府が瓦解すると、新政府側でもストーンウォールを買い取りたいと言い出した。
旧幕府側はこれに反発。横浜に至ったアメリカ側は、戦争の決着がつくまでストーンウォールをどちらにも売る気はないと、局外中立を宣言した。
しかし奥羽越列藩同盟が崩壊し、榎本武揚ら旧幕府海軍が蝦夷地へ渡って所謂「蝦夷共和国」を樹立させた頃には、明治政府が新たなる政府であることを認めて局外中立を撤廃。
まだまだ財政が厳しかった明治政府は躊躇したが、明治2年(1869年)2月3日ストーンウォール(甲鉄艦)購入に踏み切った。

戊辰戦争
旧幕府海軍は旗艦の開陽丸を座礁で失った上、明治政府のストーンウォール(甲鉄艦)購入の知らせが箱館に届き危機を感じた榎本らは軍議の上、同艦への移乗攻撃による奪取作戦を計画(アボルダージュ作戦)、宮古湾海戦が起こった。
榎本らは甲鉄艦の装甲を貫ける新型砲弾を開発しており、船に積んでいたと言われるが、天候などの不運も重なりその威力は試せないまま奪取に失敗した。
本艦は宮古湾海戦で旧幕府軍艦を追撃した後、青森に待機し、同年4月9日の新政府軍上陸に際して箱館湾に出撃。
箱館湾海戦を経て旧幕府軍の降伏に至った。

日本海軍では「甲鉄」と呼ばれていた(?)
甲鉄と乾行の2隻は中島四郎(甲鉄に乗艦)の指揮で横浜港に派遣された
1872年(明治5年)12月7日には名を「東艦」と改められた


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