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戦争 兵器2

1WS:2012/03/25(日) 16:21:10
主に兵器に関するネタ

前スレ
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/computer/648/1238062652/

998WS:2020/04/26(日) 07:48:22
戊辰戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
戊辰戦争の銃はスナイドル銃、Starr carbine、ドライゼ銃

日本におけるスナイドル銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB%E9%8A%83
スナイドル銃は戊辰戦争期にイギリスを通じて薩摩藩に導入され、先進的軍備の整備を目指した長岡藩や、仙台藩の額兵隊など幕府諸軍によっても使用された。
大倉組によると幕末に輸入された本銃は、当時の価格で一挺9ドル30セント
戊辰戦争当時、日本に入っていたスナイドル銃の数は少なかったが、後装式で連射性に優れていたため、会津戦争での戸ノ口原の戦いでは僅か10挺のスナイドル銃が、旧式のゲベール銃を装備した会津藩白虎隊を打ち破るなどの活躍を見せた
倒幕派諸藩が導入していた前装式エンフィールド銃に簡単な改造を施すだけで後裝銃を製造できたため、諸藩で改造が行われた
ただし、当時の日本での改造銃の多くはベルギー製のアルビニー銃と同じ、薬室が前方に開閉する活罨式(かつあんしき)と呼ばれる方式だった。
新生日本陸軍の誕生とともに、信頼性の高い金属薬莢を使用するスナイドル銃が主力装備とされ、陸軍の歩兵・工兵ならびに海軍(後にマルティニ・ヘンリー銃を採用)が装備し、大量に調達されていた
近代工業基盤が存在した鹿児島(旧薩摩藩)が弾薬を国産化して、ほぼ独占的に供給していた
スナイドル銃は西南戦争で政府軍の主力装備として用いられ、農民層からの徴兵を主体とする政府軍は銃撃戦で士族中心の薩軍と対峙したため、陸軍省は諸外国の商会を通じて大量の弾薬の調達に奔走し、清国から弾薬を借用する交渉まで進められていた
鹿児島にあった主装備を大阪に持ち去られ、草牟田や磯の火薬局・造船所から強奪した旧式のエンフィールド銃しか装備できなかった薩軍は、緒戦からスナイドル銃の連射能力の前に多大の出血を強いられ圧倒された

ウエンデル銃  アルビーニ方式の銃 
http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/348

999WS:2020/04/26(日) 07:49:38
スペンサー銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E9%8A%83
米南北戦争中の北軍、特に騎兵隊に採用された。
南北戦争後、アメリカで余剰となったスペンサー銃、スペンサー騎兵銃が、幕末の日本に輸入された。
当時の日本では英語の「スペンサー・カービン」よりも、蘭語読みの「スペンセル・カーバイン」と呼称される方が多い。
総督府の発注で慶応4年(1868年)に大村益次郎が横浜で入手した際の価格は一挺37ドル80セントと記録されており、当時の官軍主力銃であったスナイドル銃の価格(一挺9ドル30セント)に比べると四倍近くも高価であった。
幕府歩兵隊(後の大鳥圭介配下含む)と主に佐賀藩・黒羽藩が購入して装備し、戊辰戦争で使用したが、高価さに加えて専用弾薬の入手難易度が高い(内製化されておらず、全て輸入に頼っていた)ため、弾薬補給の観点から他の輸入銃に比べて数は多くはない。
この他に、郡上藩の凌霜隊(同藩の佐幕派から成る諸隊の一つ)も装備していたとみられ、少数とはいえ討幕・佐幕双方で使用していたといわれる。
会津藩士の山本覚馬は長崎でスペンサー騎兵銃を購入し、会津に居た妹の八重に送った。彼女が戊辰戦争の会津若松城籠城戦で城に入り、この銃で奮戦したエピソードが知られている。
西南戦争後の1878年当時、近衛砲兵大隊ではスペンサー銃が主力小銃となっていたが、銃剣装備が不可能であったため同年の竹橋事件ではスナイドル銃のほうが良いと言われたという。

1000WS:2020/04/26(日) 07:50:20
ドライゼ銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BC%E9%8A%83
1841年にプロイセン軍に採用された軍用小銃であり、世界初の実用的ボルトアクション小銃
幕末期には様々な洋式銃が日本に流入したが、ドライゼ銃も例外ではない。
ドライゼ銃(日本では普式ツンナール銃と呼ばれた)は開国以前から兵学のテキストに最新式の後装銃として記載されていたため、その存在は多くの洋学者に知られていたが、開国後のオイレンブルク使節団で実物を観察することができた。
また文久遣欧使節は現地で性能調査を行い、横浜鎖港談判使節団では特別任務としてベルリンでの購入が計画されていたが、実際に日本へ輸入されるようになったのは、上海から日本にやって来たプロイセン人のスネル兄弟が活動を開始した1860年以降の事である。
その後、明治維新後になって徳川御三家のひとつである紀州藩(和歌山)が、津田出(つだいづる)・陸奥宗光等の指導下で独自の徴兵制(農兵)とプロイセン軍制を導入し、カール・ケッペンを軍事顧問に招聘すると共にドライゼ銃はその主装備として大阪のレーマン・ハルトマン商会から購入された。
廃藩置県が断行され新生日本陸軍が誕生した後、紀州藩から政府が弁済購入した兵器類の中にドライゼ銃が多数含まれていた。
ドライゼ銃は、日本陸軍の主装備とされたスナイドル銃や幕府から継承されたシャスポー銃とともに、台湾出兵や西南戦争などの戦役で使用された後、村田銃の採用以降は、射撃訓練用・電信・砲兵等の後方部隊に使用され、最終的には教練銃として払い下げられたり、銃剣術の訓練用に改造されて使用されたほか、千島列島・占守島への入植者の申請を受けて護身用に販売されていた事[23]なども記録されており、最終的に廃棄処分となったのは明治30年代になってから。




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