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歴史掲示板

1管理人:2012/01/12(木) 17:24:57
古代史掲示板を新設しました
古代史掲示板を新設しました。画像・動画等の投稿も可能です。古代史関連の投稿をお待ちしています。

12093シルクロード:2022/07/15(金) 02:32:43
(無題)
なんと!!! アベノエミシを討った山上は本気で征夷大将軍か!「始祖は吉備真備、中祖に坂の上田村麻呂」とある。

12094シルクロード:2022/07/15(金) 02:35:18
Re: (無題)
> なんと!!! アベノエミシを討った山上は本気で征夷大将軍か!「始祖は吉備真備、中祖に坂の上田村麻呂」とある。

管理人の田村麻呂よりこちらの田村麻呂の方が信憑性があると言わざるをえんなぁw ヤマノウエノ・タムラマロ。
(汗汗)

12095シルクロード:2022/07/15(金) 03:55:46
Re: (無題)
安倍宗任
安倍晋三は和系蝦夷(俘囚)・安倍宗任を祖とし44代目の末裔であるとしている。その他、貞任の子孫を名乗る津軽安東氏・安藤氏、秋田氏、九州松浦党がいる。

12096シルクロード:2022/07/15(金) 04:46:46
ヤマト人
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013097M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013097_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013097_3M.jpg

私の姓の分布図とYHg-O-M117の比率
両方長崎と岡山で比率が高いのがポイントだろう。斎藤成也の用語では「ヤマト人」だ。姓は改姓があったりするから、ヤマト人は遺伝子で見るのが良い。今は片親性遺伝標識やひとつの遺伝子座よりも、ゲノムワイドで見るのに越したことはない(図2)。図2の「渡来人」は弥生時代以降に日本列島に入った集団の総称(渡来系弥生人や古墳人など)。

皆さんはきちんとしたヤマト人?!



12097シルクロード:2022/07/15(金) 07:28:05
今や在日コリアン(の一部)と縄文人の利害は一致し、「偽りの同盟」を組もうとしている!(爆)
遺伝学・考古学・言語学の学際的研究成果によって分かったことは、日本人(ヤマト人)とは渡来人であるということだ。日琉語族は「渡来系弥生人」の言語であり、古墳人は「日本人の直接の祖」である。

しかし、この渡来人の正統性を、両端から損なおうとする不届き者が残っているー在日コリアン(の一部)と縄文人YAP+(ヤポネシア人)だ(笑)

自らを渡来人と同一視することで自分たちが日本国を作ったと思っていたい在日コリアン(の一部)と、早くヤマト人になりたい縄文由来のヤポネシア人・・・。

そう!
今や奇妙なことに、在日コリアン(の一部)と縄文人の利害は一致し、「偽りの同盟」を組もうとしているのである!(爆)そして、アベノエミシ射殺事件のあと、この動きは加速化している!w

12098シルクロード:2022/07/15(金) 18:30:50
安藤 百福
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013099M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013099_2M.png

広義の渡来人として、戦後日本国籍を再取得した台湾人も入る!
安藤 百福(あんどう ももふく、1910年(明治43年)3月5日 - 2007年(平成19年)1月5日)
日清食品(株)創業者。インスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」の開発者。日本統治時代の台湾出身で出生名は呉 百福(ゴー・ペクホク)。台湾本島人のため戦後は中華民国籍となり、1966年(昭和41年)に日本国籍を再取得(帰化)した。



12099岩石(ハンドルネーム):2022/07/15(金) 18:41:23
岩宿時代~縄文時代
 オーシャノイド系のホモサピエンスは、海岸伝いを移動し、少なくとも4万年前には既に日本列島に最初に到達していた。志那大陸に到達する前にかなり早く日本に到達した。岩宿遺跡は、群馬県みどり市笠懸町阿左美地内の琴平山・稲荷山の小さな丘陵が接する部分に位置する。昭和21年、切通しの道となっていた岩宿遺跡を通りかかった相沢忠洋氏は切通しで露出した赤土(関東ローム層)から石器を発見した。相沢氏はその後も何度となくその崖を調査し、赤土の中から次々に石器を見つけたが、土器は伴わなかった。当時は1.5万年以上前の火山灰からなる関東ローム層の時代には人が住めなかったと思われてきたが、自分が確かめた事実を信じ、昭和24年の夏、ついに誰が見ても疑いようのない黒耀石の石槍を発見した。この発見はいち早く東京の学者に知らされ、相沢氏と明治大学が岩宿遺跡を発掘調査することになった。昭和24年9月11日、岩宿の丘に立った発掘調査隊はそれまで未知の地層であった関東ローム層に挑み、ついにその地層の中から石器が出土した。その後、その年の10月、翌昭和25年4月にも発掘調査が行われ、こうした一連の岩宿遺跡の調査によって以下のことが明らかとなった。その当時は最も古いと考えられていた縄文時代の土器がやや離れたC地点から発見されたが、それらは関東ローム層より上の黒土に含まれていたので、ローム層から発見された岩宿遺跡(A・B地点)の石器は明らかに古いことがわかり、土器を伴わず石器だけが発見され、縄文時代より古いものであった。発掘調査によって関東ローム層中に層を違えて2つの石器群が発見され、少なくとも約3.5万年前(岩宿I石器文化)と約2.5万年前(岩宿II石器文化)の時期があることが判明し、早くもこの時点で岩宿遺跡の時代に異なる文化の段階があり、その岩宿時代が長い時期にわたっていたと考えられるに至った。2万年前までの世界では打製石器が使われ、旧石器時代と呼ばれたが、日本では世界よりも2万年早く磨製石器が作られ、4万年前から既に新石器時代に突入していた。また、「土器」というこの時代に無いものを用いて時代の呼び方にすることも問題である。岩宿博物館では土器を持たず、狩猟・採集の生活を営んでいたと推定される日本最古の時代をその研究の発端となった岩宿遺跡にちなんで「岩宿時代」と呼ぶことが何人かの研究者により提唱されている。
 1万9000年前から海面上昇が始まり、縄文時代に突入した。氷河期の日本列島はステップ気候で森林は屋久島までだったが、氷河期が終わると全体が森林に変わっていった。1万5000年前頃から地球は急激な温暖化に見舞われた。草原が少なくなり、日本列島は闊葉樹の森林に覆われる。狩猟を生業としてきたブリヤート人は大型動物が少なくなって深刻な食糧不足に見舞われた。人類が土器を使ったのは1万3000年前、シベリアのアムール川周辺で発掘され、ブリヤート人はこの手法を日本列島に持ち込んだ。ソバの原産地はバイカル湖付近から中国東北地方に至る冷涼地域。世界最大のソバの原産地であるシベリアの普通ソバが日本に伝わった。北海道の「はまなす遺跡」は縄文前期のものとみられるが、この遺跡から普通ソバの花粉が出土している。縄文晩期とみられる青森県田子町の遺跡からもソバの花粉が出土している。信州の野尻湖底からは弥生時代の普通ソバの花粉層が発見されたので、ソバ伝来の歴史は、縄文前期まで遡って考える必要があり、ブリヤート人が日本に渡来してきた時にシベリアの普通ソバを持ってきた。

http://ume.sakura.ne.jp/~edo/yukimura.html



12100シルクロード:2022/07/15(金) 19:17:39
山上のために神社を建てたい!w
.

12101岩石(ハンドルネーム):2022/07/16(土) 03:37:47
縄文人について(補足版)
 南欧(6万年前)→黒海北岸(3万9000年前、イタリア・ナポリ西側で火山が大噴火)→コーカサス北部・ウラル南部・シベリア南部・バイカル湖畔・極東南部・北海道(2万年前)→東日本(1万4000年前)→西日本(3500年前)でコーカソイド系(大部分は南欧ラテン系=Y染色体ハプログループDはすべて日本固有種)、ユーラシアン系(モンゴル~東日本、大部分は日本固有種)、オーシャノイド系(3万8000年前、岩宿時代の長江沿岸・日本列島系、大部分は日本固有種)がミックスし、縄文人を形成していった。生物多様性によりいろいろな免疫を獲得した。日本人は90歳、100歳まで生きると中国の歴史書に記されている。7000年前の縄文海進では関東まで熱帯だった。温帯だった青森(色白金髪碧眼のY染色体ハプログループN)から寒冷化に伴い、関東(湿型の耳あか、毛深い、頭髪が天然パーマで禿げやすいY染色体ハプログループD)→西日本(3500年前)と移動していった。3000前から戦乱が続く志那大陸からオーシャノイド系(主に黄河沿岸系)が大量に西日本に流入し、瀬戸内海沿岸に住んだ。先住オーシャノイド系(主に長江沿岸・日本列島系)を加えると、オーシャノイド系が倍になり、全体の過半数を占めるようになった。
 沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北だ。一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。瀬戸内海沿岸は酒に弱い黄河沿岸系だが、高知県は酒に強い長江沿岸系である。なお、今回、北海道はアイヌの人々が含まれず、関東の各県と近い比率である。縄文女性の顔の特徴に関わる遺伝子を調べた結果、肌はしみができやすい性質(コーカソイド、湿型の耳垢)で色が濃く、毛髪は細く縮れたタイプ(毛深いが、優勢遺伝の天然パーマ・禿げやすいラテン系)。鼻の高さは中程度で、瞳は茶色(劣性遺伝の青い瞳・色白金髪の蝦夷)だった。アルコールを効率よく分解できる遺伝子を持ち、酒に強かった。血液型はA型だった。
 ロシア連邦のロシア人が多い極東連邦管区南部を日本に併合すると、今度はコーカソイド系が1.5倍になり、全体の過半数を占めるようになる。この後、タタール人や中央アジア人や中国人を嫌ったシベリア南部のロシア人が新日本に流れ込むと、コーカソイド系が倍になり、コーカソイド系優位のヨーロッパの飛び地になる。しかし、再び志那大陸が戦乱の時代を迎えると、志那大陸からの難民が新日本に押し寄せ、再びコーカソイド系よりオーシャノイド系が多くなる。この場合、シベリアも併合する必要がある。

http://ume.sakura.ne.jp/~edo/yukimura.html



12102岩石(ハンドルネーム):2022/07/16(土) 20:30:24
稲作は縄文時代に始まった
 ハプログループNO→N、Oはスンダランド大陸から北東亜平野に移動し、縄文文明(紀元前1万6500年~紀元前1000年頃、旧O2b系)と長江文明(紀元前1万4000年頃~紀元前1000年頃、旧O2a系O-SRY465*・7.7%、ベトナム系言語)となったが、海面上昇によって分かれたものの、黄河文明人に侵略された長江文明人は東南アジアや東アジアに逃げ、その一部は日本列島にも逃げ込んだ。日本列島がステップ気候から森林に変わると、太平洋の島々(最南端はパラオ、グアム)の人々(旧O2a系O-M95*・1.9%or0.8%)も日本列島に移り住み、その言語(オーストロアジア語族)も取り込まれた。計9.6%。これに日本列島先住日本人、北から来た者を合わせると計80.0%。オーストロネシア語族のO1a(旧O1)も1.3%or3.4%いるという統計もある。
 稲作はスンダランド大陸低地で2万年前頃から始まったが、約1万9000年前から海面上昇が始まったことから、移動したスンダランド人によって、長江沿岸に1万2000年前、鹿児島に1万2000年前、岡山に6000年前伝わった。これは長江文明人が縄文時代から頻繁に日本に往来していたことを意味する。ナウマンゾウが住んでいた瀬戸内海は約1万年前に海水が入り込み、陸地から内海に変わった。旧O2a系O-M95系統は中国南部、東南アジア、インド東部など、特にオーストロアジア語族に属す言語を話す民族に多い。オーストロネシア語族は台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族である。縄文時代早期の1万2000年前、この頃本州と四国はまだ陸続きで、ナウマンゾウが生息していた。
 しかし、地球上の氷河期が終わって気温が上がり、氷が溶け出し、その水が海へ注ぎ、海水の量が増えて来ると、それまで草原と湖だった瀬戸内へも海水が入ってきた。縄文海進による海面上昇で(9000年前〜6000年前までに海面は約15m上昇した)瀬戸内海が出来ると、岡山の縄文人たちは海で漁をするようになった。
 世界最古の土器を作った人々が稲作を開始した。現在は海底となっているスンダランド大陸低地で2万年前頃から稲作が始まった。約1万9000年前から海面上昇が始まり、原住民はスンダランド大陸低地を放棄し、北東亜平野に移動した。稲作はスンダランド大陸低地で2万年前頃から始まったが、約1万9000年前から海面上昇が始まったことから、移動したスンダランド人によって、長江沿岸に1万2000年前、鹿児島に1万2000年前に伝わった。また、岡山県岡山市にある朝寝鼻貝塚からプラントオパールが発見され、8000年前に稲が生育していたことが分かった。佐賀県唐津市教育委員の中島直幸が菜畑(なばたけ)遺跡を発掘調査した結果、7000年前の水田区画跡が発見された。
 熱帯植物である稲は黄河沿岸以北や朝鮮北半分以北では栽培できない。日本では、暖流である黒潮のおかげで関東まで稲作ができる。朝鮮南半分でも稲作ができる。稲作は朝鮮を経由していない。稲作のための水路を作る過程で大量の土が余り、その土で古墳(匈奴由来)を作った。1万2000前に朝鮮半島の先住民(ハプログループN)は、朝鮮半島の木を燃やし尽くし、朝鮮半島が禿山になった。彼らは北アジア一帯及びウラル地域から北欧にかけて移動した。朝鮮半島では草が生え始めてから5000年経ってやっと森林が復活した。この間、人間は住んでいなかった。神武東征(紀元前667年)後、稲作・古墳は2500年前に南朝鮮に伝った。
 志那大陸は3000年前から春秋戦国時代となり、大勢の華北人(旧O3系)が周辺国に逃げ、そのうち東シナ海を渡って日本に逃げ込んだ華北人(黄河文明系の旧O3系O-LINE1・3.1%、O-M122*・6.6%、O-M134・10.4%、シナ・チベット語族)は日本人の20.1%or19.1% or16.7%を占めた。華北人(旧O3系)が東シナ海を渡って北九州から侵入し、主に瀬戸内海沿岸に住み、在来の日本人と混血した。
 紀元前の華北人(旧O3系)はまだコーカソイドのままだった。北から来た者も南から来た者も当時はコーカソイドだった。現在の日本人は北日本で新モンゴロイド化が進み、南日本はコーカソイドのままである。この結果、華北では、紀元後、人口が激減し、西暦3世紀が中国史上、空前絶後の人口崩壊期となった。この不足分を補充するため、北方の鮮卑を華北に移住させ、その後も鮮卑が流入し続けた結果、華北では白人=コーカソイドから新モンゴロイドへ置き換わっていった。

http://ume.sakura.ne.jp/~edo/yukimura.html



12103管理人:2022/07/17(日) 01:11:45
新・九州古墳状地形ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013104M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013104_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013104_3M.png

https://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku305.htm



12104岩石(ハンドルネーム):2022/07/17(日) 05:38:40
ロシアの北海道侵攻を食い止める
ハプログループD
 ハプログループD=血液型A型は関東=毛人(もうじん)で5割程度、アイヌで75.0%~90%、沖縄県は55.6%。他は太平洋沿岸、日本海沿岸、東シナ海沿岸に多い。欧州ハプログループR=血液型A型。先住ヨーロッパ人だった南欧ラテン語系日本人(ハプログループD=34.7%=4349万2980人)は黒海北岸から東進した。南欧ラテン語系日本人は地中海沿岸と同様に天然パーマで、剥げやすく、毛深い。日本固有種D-P37.1*(3.9%)、D-M116.1*(16.6%)、D-M125*(12.0%)、D-P42(2.3%)。樺太、千島列島もハプログループDが多い。
 チベット人(D+ O3=新基準O2)、ブータン人(過半数の血液型A型=D、2~3割の血液型О型=長江系・O2=新基準O1b、2割のネパール系)、チベット民族D1a1a-M15・16%、D1a1b?P99・33%、D1a1-Z27276系統・49%。C2・1.9%、D1(xD1a1,D1a2)・3.8%、D1a1・46.6%、N・2.9%、O3=新基準O2・35.2%、R・6.7%。
 チベットではD1a1-Z27276、日本ではD1a2a?M55、アンダマン諸島ではD1a2b-Y34537が高頻度だが、同じハプログループDに属していても、サブグループが異なるため、地中海沿岸or黒海北岸で分岐してから5万3000年以上経っている。
 チベット人、ブータン人は中国人同様に東アジアで直毛になった。一方、天然パーマは優性遺伝であるため、日本人の7~8割は天然パーマ・癖毛である。日本人に近いアンダマン諸島民は肌が黒く、縮れ毛である。中国人は直毛だが、日本人は直毛でない。これは美容師の間では有名である。志那朝鮮に忖度して日本人は直毛だとマスメディアが嘘を言っている。天然パーマや禿げで悩む日本人は多い。
ハプログループDは黒海北岸→ユーラシアステップ→バイカル湖畔→日本→中央アメリカ
免疫グロブリンの血液型Gm(ガンママーカー)遺伝子
 現在の殆どの日本人に最も濃く残っている免疫グロブリンの血液型Gm(ガンママーカー)遺伝子は土着系(シベリアから来た縄文人)と同じ。旧石器時代にプリヤ―トから日本に渡ってきたが、その痕跡を示す遺跡が残っている。プリヤ―ト人の一部と遺伝子が同じ。
 現代日本民族全体では、北方型の黒のag遺伝子(白人)が45.8%、緑のaxg遺伝子(白人)が17.6%、黄色のab3st遺伝子(北方系新モンゴロイド)は26%、南方型の赤のafb1b3遺伝子(南方系新モンゴロイド)は10.6%であり、大半を占めるシベリア系の遺伝子基盤にシナ大陸中南部系を追加しただけで90%を占める。残りの10%は東南アジア系等のさまざまなDNAで、今の朝鮮半島人のDNAと似たものは僅かに5%程度。
 日本人は旧石器時代にバイカル湖畔のブリヤートでモンゴルと分かれた北方民族である。ハプログループD(Y染色体) が日本・チベット・ブータン等に向かい、ハプログループN (Y染色体)がサハ共和国・ネネツ共和国等に向かい、ハプログループC2 (Y染色体) がモンゴル等に向かい、ハプログループC1a (Y染色体)が中国大陸・日本列島・シベリア等に向かった。日本にいた色白金髪碧眼のハプログループN (Y染色体)の一部が西に向かった後、北のフィンランド・ハンガリー等に向かった。南方民族のオーシャノイドのようにマラリアに対する免疫がほとんどなく、戦時中、日本兵は東南アジアでマラリアに相当やられた。ロシア連邦極東連邦管区のザバイカリエ地方~ハバロフスク地方南部、沿海地方、モンゴル、満州北部はほとんど日本人と同じである。原日本人の数が多かったために縄文中期に渡来した人々、飛鳥、奈良時代の渡来人の血も原日本人の中に吸収され、同化していった。
北ツラン同盟(アルタイ諸語系・ウラル語族系)
 西側フン族=トルコ及び中央アジア諸国(カザフスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギス、トルクメニスタン、ウイグル)と東側フン族(日本、モンゴル、満州、朝鮮)はフン族同盟を結ぶ。北アジア連邦、サハ共和国及びフン族同盟は北ツラン同盟を結ぶ。
 日本人には、アルタイ諸語系(ハプログループC)= 8.5%=1065万3900人、ウラル語族系(ハプログループN)=1.6%=200万4160人、NO=2.3%=288万0980人いる。ハプログループDは短期間でユーラシアステップを移動したため、ハプログループC 、Nが少ない。
 西シベリアの北極圏においてヨーロッパ人の先祖であるハプログループH(mtDNA) =R1a(Y染色体)、U(mtDNA) =I系統(Y染色体)と、日本人やアメリカ先住民の先祖であるハプログループD(mtDNA)が一緒に暮らしていた。ハプログループX(mtDNA)=DE(Y染色体)はヨーロッパ・中近東、東日本(縄文人、アイヌ)、北アメリカ大陸北東に共通して観察される。
 U2e1 (mtDNA) =I系統(Y染色体)西シベリアの北極圏では、永久凍土のミイラはゼレニーヤール(Z-Y)の埋葬地(66°19'4.54 С; 67°21'13.54Â)にある12〜13世紀の墓で発見され、古代のDNA分析は、ZYミイラのmtDNAハプロタイプが5つの異なるハプログループ、すなわちU5a=I系統(Y染色体)、H3ao=R1a(Y染色体)、D=D(Y染色体)、U4b1b1=I系統(Y染色体)、及びD4j8に属することを示した。それらは西部と東部のシベリア特異的mtDNAハプログループのそれらの独特の組み合わせでそれらを区別する。D4j8(mtDNA)という遺伝子はバイカル湖周辺で生まれ、ブリヤート人と日本人に分かれた。バイカル湖の東方の村 、ブリヤート共和国のマクソホン村に日本人にそっくりのブリヤート人が住んでいる。縄文人のDNAと完全一致するブリヤード人の住む村を特定することができた。
 日本人にそっくりなシベリア先住民族は、ブリヤード人(ハプログループC2:60.5%、N:30.9%、O2:2.5%、R:3.7%)だけではない。シベリアを代表する先住民族ヤクート人(ハプログループN:88%)、北緯70度のツンドラでトナカイを追うドルガン人、極東の大河アムール河で魚を捕って暮らすウリチ人(ハプログループC1a1:100%)。広大なシベリア全土に、日本人によく似た人びとが散らばっている。
 ブリヤート人はまさしく古代トルコ民族の末裔である。古代トルコや突厥の版図の北限がバイカル湖周辺であって、そこに至る中央アジア諸国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)も古代トルコ民族の足跡が残っている。しかし、1万5千年前頃から地球は急激な温暖化に見舞われた。草原が少なくなり、日本列島は闊葉樹の森林に覆われる。狩猟を生業としてきたブリヤート人は、大型動物が少なくなって深刻な食糧不足に見舞われた。人類が土器を使ったのは1万3千年前、シベリアのアムール川周辺で発掘されている。東進したブリヤート人はこの手法を日本列島に持ち込んだ。これが約1万年にわたった日本の縄文時代の始まりである。シベリアの土器に較べて日本の縄文土器は薄手で煮炊きに適している。私たちの祖先はシベリア土器を上回る世界でも有数の土器技術を持ったことになる。縄文土器が無ければ、日本列島に渡来したブリヤート人は絶滅していたかもしれない。闊葉樹林で採取したドングリやトチの実を煮ることによって、食用にする術を覚えた。
 音節文字の要素を持つ突厥文字はセム系の文字を継承している。鉄勒(漢音:てつろく、拼音:Ti?lè)6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシア北部に分布した突厥以外のテュルク系遊牧民の総称。この中から回鶻(ウイグル)が台頭した。「鉄勒」という表記は勅勒,丁零などと同じく、Türkを音写したもの。

http://ume.sakura.ne.jp/~edo/yukimura.html



12105岩石(ハンドルネーム):2022/07/18(月) 04:30:50
鉄を生産したのは日本が最初
 7300年前に鬼界カルデラが超巨大噴火を起こし、日本全国に灰が積もった。九州南部の薩摩半島・大隅半島・屋久島・種子島等において、そこで作られていた縄文集落が噴火の後無くなっており、人骨が見つかっていないことから、住民がどこかへ逃避したことがわかっている。タミル人は既に全国に広がっており、そこのタミル人はいなくなったが、タミル語だけは残った。志那大陸やアメリカ大陸に渡った人たちもいた。7000年前に縄文人が朝鮮に渡り始め、縄文語から朝鮮語が分かれた。7000年前の縄文海進では関東まで熱帯だった。西日本は人口が少なく、人口は東日本に集中していた。寒冷化に伴い、3500年前に東日本から西日本に人口が流れていった。そのため、7300年前の鬼界カルデラの超巨大噴火での被害は少なかった。黄河文明は約6800年前、南米エクアドルで見つかった縄文土器は約5500年前である。なお、縄文文明と関係が深かった遼河文明は8200年前に始まった。インカ帝国の皇族は縄文人だったという言い伝えがあり、多くのペルー人は日本人ルーツ説を信じている。JCウイルスが東日本と中央アメリカ大陸原住民が同じMY亜型である。また、縄文人に関連する遺伝子としてATLのレトロウイルス (HTLV-1) がある。シュメール文明も縄文人が起こした。日本の神代文字が世界の各地で発見されている。
 7000年前に縄文人は朝鮮半島に渡り始め、縄文語から朝鮮語が分かれた。旧石器時代のハプログループNが朝鮮半島の森林を燃やし尽くしたため、1万2000年前から禿山になった。その後、ハプログループNは北上したため、その間に人はまったく住んでいなかった。そして、朝鮮は5000年かけて森林が復活した。日本では、墨を使うようになってから、高温を実現することができるようになったため、鉄器を作れるようになり、これまでの厚い縄文土器から薄い弥生土器を作れるようになった。ヒッタイト以前の6000年前に日本の奥出雲で鉄鉱石から玉鋼が作られ、これによって鉄器が作られた。日本は既にこの頃から鉄器を使用していた。その後、日本は朝鮮半島南部の鉄鉱石で鉄器を作っていたが、三国時代の魏はこの鉄器を日本から輸入したので、青銅器を使っていた呉や蜀より強かった。日本では製鉄のために木を燃やした後、計画的に植林していった。鉄器を使った4大文明と言われる地域では、木を倒した後、植林をしなかったので、砂漠化していった。
旧唐書「倭国日本伝」には「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす」「あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。倭国とは南朝鮮と九州北部のことであり、倭寇の8割は南朝鮮人だった。
 日向(宮崎県)の高千穂峰の麓・高原町で生まれた神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)は、紀元前667年に兄3人と共に南九州を出発し、隼人族(鹿児島県、宮崎県南部)を中心とする熊襲(鹿児島県、熊本県、宮崎県)を伴って、大分から船出して、瀬戸内海沿岸の華北人に稲作の技術指導をしながら東征した。3人の兄が亡くなったが、奈良県橿原市で末子相続(モンゴル帝国、縄文人、フン族に共通する慣習)により初代天皇に即位し、神武天皇となった。神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)の母も祖母も奄美大島の人間であった。
 日本国は、古代に山陰地方から関東地方にかけて住んでいた毛人(もうじん)=地中海沿岸系日本人、倭国及び高句麗、平安時代に東北蝦夷=匈奴、明治以降に北海道アイヌ=地中海沿岸系日本人等を服属させた。志那からの疫病が朝鮮を経由して日本で蔓延したことから、大和朝廷は大宰府で徹底的に検疫した。志那からの疫病に対する防波堤として、三韓(新羅、百済、高句麗)という自治政府を置き、日本国の配下においた。三韓(新羅、百済、高句麗)のうち新羅が反乱を起こしたので、神功皇后が三韓征伐(主に新羅成敗)を行った。
志那大陸が青銅器時代だった三国時代に、日本は伽耶で鉄を生産し、日本刀等を製造したりして、魏に輸出していた。呉や蜀が青銅の武器しか持っていなかった時代に、魏は日本の鉄や鉄の武器で呉や蜀に勝利していった。
 東三洞貝塚(釜山市)で縄文土器が見つかった。?1929年 日本人高校教師が最初に発見しました、?釜山市影島区の遺跡、?約4000年〜3500年前の土器、?新石器時代(日本の縄文時代)の土器が階層的に見つかる、?九州の縄文土器片が出土、?西北九州型の釣針が出土,?九州の黒曜石が出土、?九州の阿高貝塚と同じ貝面が出土、等である。
 朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にした。
 契丹古伝によると、「殷は倭なり」と、大陸最古の王朝と言われる「夏」、その夏を滅ぼしたと言われる「殷」、また中国史では蔑称で記される「東胡」「匈奴(遼河~北東亜平野~西日本発祥)」も、同祖・同族という。大陸の先住民である「殷」の末裔と「漢」との対立こそ、ユーラシア大陸の古代史の真相であるというのが、この『契丹古伝』の核心部分のようだ。古代中国の尭・舜・殷はこのシウカラ系の国家であったが、「海漠象変」と表現される天変地異とともにシウカラ族(東大神族→その末裔たちが韓・満洲・日本の3大民族の祖として大陸に雄飛した)は没落し、西族(漢民族)によって中原を追われる。『契丹古伝』によれば、のちに東夷とよばれるようになる日・韓・満民族こそが中国大陸に超古代王朝を築いた先住民であり、契丹王朝もその末裔であった。また『契丹古伝』は、本州と九州がかつては陸続きであったが、人工的に開削されて海峡となったことや、ゴビ砂漠にはニレワタとよばれる幻の湖があったことなど、超古代の地形の変遷についても特異な伝承を伝える。志那大陸の倭人が築いた夏(紀元前3000年~)や殷(紀元前17世紀頃~紀元前1046年)の時代には反乱が起きたことがない。日本列島だけでなく、環太平洋一帯の人間を倭人と呼び、北九州だけでなく、朝鮮半島、志那大陸東海岸にも倭人はいた。周(紀元前1046年頃~紀元前256年)における春秋戦国時代(紀元前770年に周が都を洛邑=成周へ移してから、周の知事を王に戴く秦が紀元前221年に中国を統一するまでの時代)に難民が周辺国に逃げ込んだ。志那大陸は封建制(中世の日本、ヨーロッパ)の周から専制の秦になり、未だに専制政治が続いている。秦の皇族は日本に渡って秦(はた)氏と名乗り、責任主義だった日本に法治主義を取り入れた。志那大陸では漢が人治主義を取り、未だに人治主義のままである。
 最近の遺伝子解析の結果、紀元前の黄河文明人は白人(コーカソイド)であったことが分かった。つまり、日本に流入した頃の華北人はまだ白人(コーカソイド)であり、新モンゴロイドではなかった。北から日本に来た者もコーカソイドで、南から来た者もコーカソイドだった。特に北から来たコーカソイドはルーマニア先住民+αだった。コーカソイドだった黄河文明人が他民族を征服して、男は皆殺し、女は性奴隷にしてレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族である。これまでの通説が間違っている。
 華北では、紀元後、人口が激減し、西暦3世紀が中国史上、空前絶後の人口崩壊期であり、この不足分を補充するため、北方の鮮卑を華北に移住させ、その後も鮮卑が流入し続けた結果、華北では白人(コーカソイド)から新モンゴロイドへ置き換わっていった。

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12106岩石(ハンドルネーム):2022/07/20(水) 05:51:27
色白金髪のネアンデルタール人と日本人
 12万7千年前ごろにできた地層と、約11万年前の三瓶木次火山灰でできた地層に挟まれた地層から石器が出土した。島根県出雲市の砂原遺跡で約12万年前の旧石器が出土した。
 ヨーロッパから広がったネアンデルタール人は日本にも旧石器時代中期の12万年前から住んでいた。ネアンデルタール人は旧石器時代の石器の作製技術を有し、火を積極的に使用していた。3万8000年前から日本に住んでいたホモ・サピエンスは新石器(磨製石器)を使用していた。ヨーロッパのホモ・サピエンスはネアンデルタール人を絶滅させたが、日本ではネアンデルタール人と共生していた。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は交配していた。ヨーロッパの白人にはネアンデルタール人の遺伝子が少ないが、日本人にはネアンデルタール人の遺伝子が多い。つまり、日本では緩やかに混血して共生していた。ネアンデルタール人は、北方の気候に適応して、?現在のヨーロッパ人以上に白い肌、?金色や赤い色の毛、?青い目や灰色の目、となる。
 複数あるTLRのうちTLR1とTLR6、TLR10は染色体上に隣接している。ネンデルタール人やデニソワ人の3つのTLRを含む領域を現代人と比較する。ヨーロッパ人と東アジア人、アフリカ人など現代人の14集団のこの領域を調べると7つのタイプに分類された。このうち2つがネンデルタール人由来、ひとつがデニソワ人由来だと判明する。理論的にはヒトより数十万年先にアフリカを出て、中東を経由してヨーロッパに広がったネアンデルタール人の遺伝子は、アフリカに残った祖先由来のアフリカ人には存在しない。調べると、確かにアフリカ人にはネンデルタール人由来のTLRを含む領域がほとんどみられなかった。このように、現代人のTLRを含む領域のゲノム配列を詳細に調べ比較してネンデルタール人とデニソワ人由来だと突き止めた。そして、機能が非常に重要性なので、数万年という自然選択を受けてもほとんど変わらずに高頻度で残っていたと考えた。
 実はこのネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6、TLR10遺伝子を最も多く持つのが日本人。どの集団よりも高く、約51%が持っていた。花粉症の最大の要因にTLR1とTLR6、TLR10が直接関与するわけではないが、免疫システムを通して人類の壮大な進化を想像し、内なるネアンデルタール人を思うことで少しは症状が軽くなるかもしれない。
 日本海に渓谷の跡があり、日本海は海抜―1200mの陸地だった可能性がある。そこは酸素濃度が高くなる。「進撃の巨人」のような15mの巨人が住んでいた可能性がある。それが日本神話の元になったのもかもしれない。超巨大な超古代遺跡(都の区画整理跡)がヒルコ(北東亜平野【現在の黄海・東シナ海の大陸棚】と沖縄陸橋の間の内海)にある。滑走路のようなものもある。あまりに大きすぎてこれが何なのか分からない。ネアンデルタール人による最初の文明が日本で始まった可能性がある。同じようなものは縄文人が大航海してたどり着いたメキシコ・カリフォルニア湾沖にもある。大西洋(アフリカ・カナリア諸島の600マイル西あたり)にもある。地中海を見てもこのようなものはない。
 ネアンデルタール人は欧州などに20〜30万年前に住み始め、狩猟などで生活していた。イギリスのオックスフォード大のチームが遺跡の出土品などを分析した結果によると、ネアンデルタール人が欧州で絶滅したのは41,000年前〜39,000年前だった。45,000年前には欧州の広い地域に生活の痕跡があったが、約4万年前にいなくなった。ネアンデルタール人は、ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジアにまで分布しており、旧石器時代の石器を作製し、火を積極的に使用していた。遠目には現生人類とあまり大きく変わらない外見をしていた。シベリアのアルタイ地方で発見されたデニソワ人、インドネシアのフローレス島で発見されたフローレス人は、ネアンデルタール人の兄弟種である。
 約4万年前にネアンデルタール人が絶滅した時期には、欧州に現生人類(ホモ・サピエンス)が既に現れており、ネアンデルタール人と現生人類が数千年の間共存していたので、両者の混血や技術の交流があった。人類とネアンデルタール人の混血については、かなりの交わりがあった。化石人類の発見、分子遺伝学の研究、解剖学的研究などによって、ネアンデルタール人と現生人類の間に混血があったことが分かる。
 アフリカ系の人類はネアンデルタール人と混血していないが、「出アフリカ」をした人類の全遺伝情報の2〜3%ほどがネアンデルタール人由来。しかもヨーロッパ人だけでなく、アフリカ人以外の民族は同じような割合でネアンデルタール人のDNAを引き継いでいる。人類が「出アフリカ」の直後にネアンデルタール人と交わり、遺伝子を引き継ぎ、その後、世界に広がり、環境や進化の違いで様々な人種に分かれた。ネアンデルタール人の遺伝子は現代人に一様に分布しているのではなく、民族・自然環境などによって特定の遺伝子が選択されている。ネアンデルタール人の遺伝子は人類の拡散と共に世界中に広まった。
 45,000年前のスロベニアの遺跡から見つかった出土品の中に、ネアンデルタール人が熊の大腿骨で作った笛もある。ネアンデルタール人からヨーロッパ人へ引き継がれた遺伝子は、皮膚、爪、髪などの遺伝子部分に細分化されて多く残っており、白い肌、金髪や赤毛、青い目などはネアンデルタール人由来。東洋人の直毛もネアンデルタール人由来。また、ネアンデルタール人は丈夫ながっしりした体格で、顔は大きく、鼻も大きく、手足は短かった。人類がネアンデルタール人から受け継いだDNAは免疫力を高めた。デニソワ人由来のDNAにより、チベット人は標高4,500mを超えるチベット高原の薄い酸素の中でも生活できる。このように混血は我々人類に有益だったようで、生存に有利に働く遺伝子をネアンデルタール人などから獲得できた。しかし、逆に、ハーバード大学医学部の論文によると、ラテンアメリカの人々の糖尿病を引き起こすDNAはネアンデルタール人由来と結論付けている。また、オックスフォード大学とプリマス大学が、癌はネアンデルタール人のDNAに原因があると発表している。ミトコンドリアDNAは母親から子に引き継がれるが、人類とネアンデルタール人はミトコンドリアDNAが一致しない。これをどう考えるか現段階では正解を出すのは困難だ。

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12107秦野北斗:2022/07/21(木) 19:37:32
Re: 鉄を生産したのは日本が最初
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013108M.jpg

岩石(ハンドルネーム)さんへのお返事です。

鉄は歴史に従おうよ、 シルクロードさんはDNAが歴史を語るって言ってたな・・・
鉄は秦から入り、朝鮮半島南部で造られた。古代日本と韓国は共同統治されていた。

「後漢書韓伝」三韓 を読むと(現代の読みでは韓国には倭国はない、これは誤訳で実際は56国あるんですな、小学生のころに学んだ歴史は嘘なんです。)

韓有三種 一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰 馬韓在西有五十四國 其北與楽浪南與倭接 辰韓在東十有二國 其北與濊貊接 弁辰在辰韓之南亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國 伯濟是其一國焉 大者萬餘戸小者數千家 各在山海間
理解できないだろう、訳すと、倭接 凡七十八國:倭国は七は総て八國接する(56国)。(これが読めなかったの・・・)

図を添付する。歴史は古事記、日本書記、中国史籍に記される、創作はダメです。

現在の韓国人は文献によると高句麗人と成っている、弱く統治力はない少数民族になる。
古代2000年の歴史には自立の実績はない、韓国人の自立は不可能だろう、いずれ崩壊する。



>ヒッタイト以前の6000年前に日本の奥出雲で鉄鉱石から玉鋼が作られ、これによって鉄器が作られた。日本は既にこの頃から鉄器を使用していた。その後、日本は朝鮮半島南部の鉄鉱石で鉄器を作っていたが、三国時代の魏はこの鉄器を日本から輸入したので、青銅器を使っていた呉や蜀より強かった。日本では製鉄のために木を燃やした後、計画的に植林していった。鉄器を使った4大文明と言われる地域では、木を倒した後、植林をしなかったので、砂漠化していった。



12108管理人:2022/07/21(木) 23:19:02
平塚川添遺跡方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013109M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013109_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013109_3M.jpg

先日お知らせした九州の古墳状地形を結ぶ方位ラインの件で、特に平塚川添遺跡上で交差する3本の方位ラインの存在を明らかにしましたが、その続きで、以前お知らせした図1の方位ラインのうち、平塚川添遺跡上を通過する図2のラインについて再考しています。

ここで平塚川添遺跡(弥生時代中・後期の遺跡)⇔長田大塚古墳(卑弥呼の墓説あり)⇔杷木神籠石⇔小迫辻原遺跡(弥生時代後期の遺跡)⇔白岩遺跡(弥生時代末期の高地性集落)へと延びる西15度偏角のラインがあるのですが、各遺跡上を通過するラインを一覧にしたのが図3となります。

まず東端の白岩遺跡については、図のように左右不均等な撥状に開いた前方をもつ前方後円墳状地形があり、その周囲には狼煙台の跡があることから、この高地性集落の狼煙台が平野部へと移行したものが前方後円墳の原型であることをこちらでもしばしば指摘してきたとおりです。その後円部の中心点にライン起点を考えます。

次にその西隣の小迫辻原遺跡についてですが、図に重ねた遺跡地図ように高速道路北側の特に3世紀末-4世紀初頭の土器が出土した第3号居館跡あたりをラインが通過していることがわかります。このラインの年代を決定する上で重要です。

続いて、その西隣の杷木神籠石についてですが、図のように高速通西側の神籠石(赤ライン)の内側に位置する山頂部の台形の平坦な地点をラインが通過しています。

そして、その西隣の長田大塚古墳については、図のようにこのライン上に載ることから見て、この円墳が小迫辻原遺跡等と同年代の可能性を示すものでしょう。

最後に平塚川添遺跡へと至りますが、図のように遺跡西南端にある水の祭祀場(調整池)あたりを起点とし、その中央集落の大型建物跡南側あたりをラインを通過しており、先日お知らせした古墳状地形を結ぶラインが通過していた、その西北の前方後円墳状地形(西広場)の後円部よりやや南側となるのですが、伊川の古墳状地形から延びる北からのライン上にはこの水の祭祀場が載ることからみて、重要位置にあります。

この水の祭祀場が後円部のように円形をしているのも、測量拠点としての意味があったのかもしれません。



12109秦野北斗:2022/07/22(金) 10:23:01
Re: 平塚川添遺跡方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013110M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=yvc0LadtZUk



12110管理人:2022/07/23(土) 16:49:14
九州古墳状地形・神籠石ライン2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013111M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013111_3M.jpg

秦野さんお返事ありがとうございます。ご指摘のような聖方位の観念は古代にもあったかもしれませんね・・・。先日の平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳⇔小迫辻原遺跡⇔白岩遺跡ラインは西15度偏角ですから、二十四方位からいけば辛⇔乙の方位ですね。この時代の方位角は確かに15度偏角、30度偏角単位が多いですが、その辺の中国の方位観念とかかわっていたとすると面白いです。

さて、先日の方位ライン分析において掲載した九州の遺跡や神籠石、古墳状地形を結んだライン図では、ライン拠点を宇佐神宮としてましたが、ライン面から再確認してみたところ、宇佐神宮よりやや北方の宇佐高校庭遺跡周辺がライン位置としてふさわしいことにきづきましたので、図1のように訂正してみました。

また図2の遺跡一覧図のように、この宇佐高校庭遺跡のある高校校庭東部に測量にかかわりそうな円形の地形があり、この高校のある台地そのものが弥生遺跡のような人工地形だったのかもしれません。

この遺跡からは箱式石棺や銅戈が出土しており、弥生時代後期から末期の遺跡と考えうるでしょう。

また上記の平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳⇔小迫辻原遺跡⇔白岩遺跡ラインと伊川の古墳状地形⇔女山神籠石ラインとの交点にあたる小郡井上の地域に、図2のような古墳の周濠を思わせる池が周囲にあり、若干のマウンド上の盛り上がりがあるようです。

ここでこの小郡井上の古墳状地形から白岩遺跡への上記ライン上に平塚川添遺跡が載るわけですが、その遺跡の大型建物のやや南部をラインが通過していることがあり、ここがこの集落における重要拠点だった可能性がありそうです。

なお、その小郡井上の古墳状地形から東40度偏角のラインと、伊川古墳状地形⇔唐沢山城⇔宇佐高校庭遺跡への西10度偏角のラインとの交点にあたる赤村赤合田地域にも図2のような古墳状地形が見て取れます。

さらにこの合田古墳状地形⇔白岩遺跡への西55度偏角のラインがあり、先の小郡井上古墳状地形⇔合田古墳状地形ラインと直交しますが、このラインはその西側の伊川古墳状地形⇔小原辻原遺跡へのラインと平行になる。

そして女山神籠石⇔杷木神籠石⇔唐沢山城ラインでも、図のように杷木神籠石では、平塚川添遺跡⇔白岩遺跡ラインと、神籠石頂部の台形状地形上で交差していることがわかります。

あと、女山神籠石⇔唐沢山城ラインと伊川の古墳状地形⇔小迫辻原遺跡ラインとが直交しており、また伊川の古墳状地形⇔宇佐高校庭遺跡と伊川の古墳状地形⇔女山神籠石ラインとが直交していることもわかります。

同様に、伊川の古墳状地形⇔ダンワラ古墳そばの日田の古墳状地形?ライン上に小迫辻原遺跡がありますが、図のようにこのラインと先の女山神籠石⇔唐沢山城ラインとが、この小迫辻原遺跡の3世紀末~4世紀初頭とされる第3号居館周辺で交差していることがわかります。

そして伊川の古墳状地形⇔平塚川添遺跡への南北ラインがあり、これらの古墳状地形と神籠石、そして平塚川添遺跡や小迫辻原遺跡が、密接に関わって造営されていることがわかります。

その他、細かい遺跡とラインの位置関係についても図2をご覧いただきたいのですが、特に祇園山古墳の位置については、正確に高速通の東側をラインが通過していることからみても、これらの古墳状地形や神籠石と関わる形で造営されたことが予想されます。年代的にもこれらのラインの構築と同時代であろう。





12111シルクロード:2022/07/23(土) 23:32:36
【AI診断】縄文人?弥生人?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013112M.png

https://funny-ai.com/jyomon_yayoi



12112シルクロード:2022/07/24(日) 02:56:59
【AI診断】縄文人?弥生人?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013113M.png

安倍之蝦夷は弥生100%。



12113シルクロード:2022/07/24(日) 02:59:25
【AI診断】縄文人?弥生人?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013114M.jpg

北海道縄文人は縄文95%、さすがw



12114岩石(ハンドルネーム):2022/07/24(日) 07:56:38
日本人のY染色体まとめ
 南欧(6万年前)→黒海北岸(3万9000年前、イタリア・ナポリ西側で火山が大噴火)→コーカサス北部・ウラル南部・シベリア南部・バイカル湖畔・極東南部・北海道(2万年前)→東日本(1万4000年前)→西日本(3500年前)でコーカソイド系(大部分は南欧ラテン系=Y染色体ハプログループDはすべて日本固有種)、ユーラシアン系(モンゴル~東日本、大部分は日本固有種)、オーシャノイド系(3万8000年前、岩宿時代の長江沿岸・日本列島系、大部分は日本固有種)がミックスし、縄文人を形成していった。生物多様性によりいろいろな免疫を獲得した。日本人は90歳、100歳まで生きると中国の歴史書に記されている。7000年前の縄文海進では関東まで熱帯だった。温帯だった青森(色白金髪碧眼のY染色体ハプログループN)から寒冷化に伴い、関東(湿型の耳あか、毛深い、頭髪が天然パーマで禿げやすいY染色体ハプログループD)→西日本(3500年前)と移動していった。3000前から戦乱が続く志那大陸からオーシャノイド系(主に黄河沿岸系)が大量に西日本に流入し、瀬戸内海沿岸に住んだ。先住オーシャノイド系(主に長江沿岸・日本列島系)と合わせると、オーシャノイド系が倍になり、全体の過半数を占めるようになった。
 12万年前~4万年前頃、色白金髪碧眼のネアンデルタール人が日本に住んでいた。岩宿時代(4万年前頃~2万年前頃)の日本人はネアンデルタール人と混血し、色白金髪碧眼となった。最終氷河期(7万年前~1万年前)はユーラシア大陸、北東亜平野(現在の黄海・東シナ海・志那大陸東側沿岸等の大陸棚)、台湾、琉球陸橋、九州、四国、本州が陸続きであり、4~7万年前にハプログループK-M214が西インド→スンダランド→北東亜平野→古長江沿岸、古黄河沿岸、古遼河沿岸、西日本に広がり、3万4600±4700 年前にK-M214→NO、N、Oに分かれた。旧O1(オーストロネシア語族)が分離した後、旧O2は約2万8300年前に旧O2a系(オーストロアジア語族)と旧O2b系(古長江沿岸、西日本)に分かれた。1万9000年前に始まった海面上昇に伴い、旧O2b系は長江沿岸(ベトナム系言語)と日本(縄文語)に分かれた。旧O2b系O-47zは日本固有種。温暖化(縄文海進は約1万年前~6000年前)に伴い、Nは適温の青森など東北に移り住んだ。
 日本列島先住日本人(日本固有種旧O2b系O-47z・22.0%or25.1%、日本固有種C-M8・5万年前・5.4%、NO-M214*・2.3%=福岡県3.8%と徳島県5.7%、N-LLY22g・1.2%、N-M178・0.4%)が全国に広がって住んだ。計31.3%。Nは東北に多く、岩宿時代、4万年前(世界より2万年早い)に磨製石器を発明した。先住日本人には古長江沿岸・日本列島系のO-47zと遼河沿岸系のNO-M214*、N-LLY22g、N-M178、C-M8が混在していた。
 最終氷河期には中近東と南欧は陸続きだったので、ハプログループDEは南欧に入った後、DE→D(YAP+) (約6万年前、黒海北岸)、E(YAP−) (6万5200年前、地中海沿岸)に分かれた。ハプログループEはエジプトなどのアフリカ、イタリア、フランス、ドイツなどの西欧、ウクライナなどの南欧、イスラエル、イランなどの西アジア、インド等に残った。約3万9000年前にイタリア・ナポリ西側で火山の大噴火が起きた後、南欧にいたハプログループE(YAP−)から派生したハプログループD=地中海沿岸系日本人の先祖(日本固有種D-M116.1*・16.6%、D-M125*・12.0%、D-P37.1*・3.9%、D-P42・2.3%、古代ラテン語)は黒海北岸(現在のウクライナ、モルドバ、ルーマニア【紀元前にローマ人が入植し、周囲のスラブ系民族が使うキリル文字ではなく、ローマ字を使っていたワラキア、トランシルヴァニア、モルダヴィアが19世紀に独立】あたり。ウクライナやポーランドではマンモスの骨で作られた住居跡が発掘されている)に移り住んだ。2万年前、食料となるマンモスを追って東に進み、バイカル湖畔を経由して寒冷化による南下を始め、アムール川、沿海州を通って、氷河期は海面が140メートル低く陸続きとなっていた樺太や北海道(マンモス生息域南限)に南下した。約1万4000年前、凍った津軽海峡を渡って東日本縄文人となった。ヨーロッパ南部(+バルカン半島・北欧系I-P19・0.4%、2万年前、古代コーカサス語)→西シベリア南部(アーリア系R-M207・0.4%、2万年前、古代ケルト語)→バイカル湖畔(+トルコ系C-M217*・1.9%、2万年前、古代トルコ語)→アムール川(+タタール系Q-P36・0.4%、2万年前、古代インディアン語族)→沿海州(+北方ツングース系ウリチC-M86・1.2%、2万年前、古代ツングース語系)→樺太→北海道(2万年前、残留組がアイヌ)→東日本(1万4000年前)と移り住んだ。計39.1%。短期間に黒海北岸から北海道まで東進したため、ハプログループI-P19、R-M207、Q-P36、C-M217*、C-M86の割合が少ない。主に関東に住んでいた東日本縄文人は、3500年前、寒冷化に伴い、西日本(人口が東日本の10分の1)に広がり、日本海沿岸、太平洋沿岸、東シナ海沿岸、沖縄に移り住んだ。関東のハプログループDは平安時代に毛人=地中海沿岸系と呼ばれていた。
 ハプログループNO→N、Oはスンダランド大陸から北東亜平野に移動し、縄文文明(紀元前1万6500年~紀元前1000年頃、旧O2b系)と長江文明(紀元前1万4000年頃~紀元前1000年頃、旧O2a系O-SRY465*・7.7%、ベトナム系言語)となったが、海面上昇によって分かれたものの、黄河文明人に侵略された長江文明人は東南アジアや東アジアに逃げ、その一部は日本列島にも逃げ込んだ。日本列島がステップ気候から森林に変わると、太平洋の島々(最南端はパラオ、グアム)の人々(旧O2a系O-M95*・1.9%or0.8%)も日本列島に移り住み、その言語(オーストロアジア語族)も取り込まれた。計9.6%。これに日本列島先住日本人、北から来た者を合わせると計80.0%。オーストロネシア語族のO1a(旧O1)も1.3%or3.4%いるという統計もある。
 志那大陸は3000年前から春秋戦国時代となり、大勢の華北人(旧O3系)が周辺国に逃げ、そのうち東シナ海を渡って日本に逃げ込んだ華北人(黄河文明系の旧O3系O-LINE1・3.1%、O-M122*・6.6%、O-M134・10.4%、シナ・チベット語族)は日本人の20.1%or19.1% or16.7%を占めた。華北人(旧O3系)が東シナ海を渡って北九州から侵入し、主に瀬戸内海沿岸に住み、在来の日本人と混血した。

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12115管理人:2022/07/24(日) 15:12:06
Re: 【AI診断】縄文人?弥生人?
シルクロードさんへのお返事です。

> 面白いからやって見て。私は弥生75%だった。
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffunny-ai.com%2Fjyomon_yayoi

私は弥生側頻度54%でした!別の写真でやったら弥生100%になってたけど(笑)

12116管理人:2022/07/24(日) 16:46:30
祇園山古墳・住吉神社⇔鹿島神宮ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013117M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013117_2M.png

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昨晩お知らせした九州の古墳状地形や遺跡、神籠石を結んだ方位ラインの拠点として見えていた高良山の祇園山古墳についてですが、こちらも以前お知らせした図1のラインについて再考しています。

図2,3は拡大図ですが、こうみるとまず住吉神社(九州)⇔伊川古墳状地形⇔本住吉神社⇔鹿島神宮への東15度偏角のラインがあり、これと平行に祇園山古墳⇔軽豊明宮(応神宮)⇔高柳銚子塚古墳への東15度偏角のラインがあることに気づきます。

また図のように、祇園山古墳⇔宇佐神宮⇔住吉大社⇔磐之姫命(仁徳后)墓⇔鹿島神宮への東18度偏角のラインがあります。

そして、昨日もお知らせした女山神籠石⇔祇園山古墳(高良山神籠石西側)⇔伊川古墳状地形への東78度偏角のライン上に応神天皇の蚊田宮が載ることもわかります。

その蚊田宮周辺には、楕円形の河川で囲まれた領域が複数あり、その一つの中央部をラインが通過していることからみて、ここに応神に関わる宮地や古墳などがあった可能性がみえてきます。

加えて、以前お知らせしたよう図2のように畿内領域では元住吉神社⇔住吉大社⇔応神陵⇔軽豊島宮(応神宮)への西30度偏角のライン、宇治墓(仁徳兄の墓)⇔磐之姫命(仁徳后)墓⇔軽島豊明宮への南北ラインが見えますが、概してこれらのラインは高良山・住吉・鹿嶋神等を信仰する南方航海民と応神・仁徳朝に関連するラインとみなしうることがありました。

そこでまた関東領域をみていくと、鹿島神宮⇔香取神宮⇔高柳銚子塚への東45度偏角のラインがあり、その高柳銚子塚については円筒埴輪・長持形石棺を出土する5世紀中ごろ古墳とされています。

この長持形石棺が仁徳陵からも出土することから、以前この長持形石棺を出土した古墳を結ぶ方位ラインをお知らせしたとおりで、それらは概ね河内王朝と同時期の古墳となることがあります。

これらのライン分析から言えることとしては、河内王朝を開いた集団は、もともとは九州で古墳状地形や神籠石等を造営していた弥生時代以来の在地系集団と深くかかわっており、彼らが4世紀になって吉備等を経由して河内へと進出する機会があり、その際に住吉三神・鹿嶋タケミカヅチ信仰などをもたらしながら、さらに東方へと展開していったことが考えうるでしょう。

また今回、珍しく香取神宮がライン上に見えてきたことがあり、この神宮の創始の経緯もこのラインとの関係で理解できるかもしれません。フツヌシ(経津主)がミカヅチとともに東征していった伝承とも関わりそうです。

その九州時代の拠点のひとつに、伊川の古墳状地形や高良山、そのそばの祇園山古墳があり、そこで神武天皇や神功皇后、応神・タケウチスクネといった人物のモデルとなる存在を主としていたことのでしょう。

それで、祇園山古墳とその主について、彼らがかなり重要視していた可能性が見えてくるのですが、この古墳が卑弥呼とその殉死者たちの墓との指摘があることもよく知らせているところで、昨晩お話した平塚川添遺跡を中心とした集団の中でも重要な墓として理解されていたことは確かでしょう。

その観念が、河内王朝の時代に至っても継承されていたので、女山神籠石⇔祇園山古墳⇔蚊田宮⇔伊川古墳状地形へのラインが造営されていったわけですね。

あと、昨晩の弥生時代末期と予想した古墳状地形や神籠石を結んだラインでは、宇佐高校庭遺跡をそのライン拠点としましたが、今回のラインでは宇佐神宮領域でも南部の上宮付近をラインが通過している点で相違があります。

宇佐神宮の上宮はこの河内王朝の時代に創建された可能性がみえてきますが、その上宮で??一之御殿:八幡大神??- 誉田別尊(応神天皇)、二之御殿:比売大神 - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)、三之御殿:神功皇后となっているので、今回の応神・神功に関わる拠点を結ぶラインとも深く関わっていたことが理解できそうです。

もう少し宇佐方面について調べてみる必要がありそうですね。



12117シルクロード:2022/07/24(日) 18:26:38
Re: 【AI診断】縄文人?弥生人?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013118M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013118_2M.png

https://funny-ai.com/flavor_face



12118シルクロード:2022/07/24(日) 20:41:11
Re: 【AI診断】縄文人?弥生人?
シルクロードさんへのお返事です。

酢顔って何だと思って調べたら、塩顔よりもさらに淡白らしいw 知っとった?w

12119岩石(ハンドルネーム):2022/07/25(月) 07:56:58
先史時代のヨーロッパ人とY染色体ハプログループ
 イギリスで巨石文化を作り上げた人々に名前がついていない。とりあえず巨石人と書いたが、ビーカー人、ケルト人、ブリトン人との接続がよくわからない。今日では先史時代人類学の基本となっているY染色体ハプログループによってあとづける。
最初のサピエンスはハプロC1a2人
 ヨーロッパに到達した最初のホモ・サピエンスは、アフリカ以外のすべての世界と同じくY染色体ハプログループCであった。その中でも最初の分岐に近いハプログループC1a2である。C1a1-M8とされる日本最初の渡来人と近縁関係にある。4万年前に始まったオーリニャック文化の担い手と考えられ、ハプログループIが渡来するまでは、ヨーロッパ人類の主流であった。
アルメニアで生まれたハプログループI人
 Y染色体ハプログループIは、4万年前に現在のアルメニア付近で発生した。下位系統の分岐は3万年前に始まっており、この頃から小アジア・コーカサス方面へ展開を始めたと考えられる。32,000-22,000年前にヨーロッパに至り、コンゲモーゼ文化などを担ったとされる。
クロマニョン人はI2a人
 13,000年前のクロマニョン人がスイスで出土され、ハプログループ I2aであることが明らかとなった。このことからクロマニョン人は I2a人と考えられる。
農耕と巨石文明をもたらしたハプログループG2a人
 ハプログループI人(クロマニョン人)は狩猟採集民だが、その後にハプログループG2a人がやってきて、農耕と巨石文明をもたらした。ハプログループGはハプログループFの子系統で、1〜2万年前にジョージア付近で発生した。非印欧系集団と考えられる。ハプログループG2aはGから分離した後、紀元前5000年ころからヨーロッパに移住した。彼らは新石器文化と農耕技術を備え、ハプログループ I2a人を巻き込んで文明をもたらした。紀元前5000年〜紀元前3000年のヨーロッパの人骨の多くはハプログループG2aである。現在もコーカサスとカザフスタンで最多頻度を示しているが、ヨーロッパではまれな存在となっており、後続人種に駆逐された可能性がある。
アイスマンはG2a
 1991年にアルプス山中で発見された約5,300年前の凍結ミイラ・アイスマンはG2a2a1bだった。あまりにも急激なG2a人の衰亡は、彼らに対するジェノサイド攻撃があったことを示唆する。
ハプログループRの出現
 ハプログループRはハプログループPから分岐した。その出現は2万〜2.5万年前とされ、ハプログループGとほぼ同時期の分岐の可能性がある。
 親系のハプログループPが非常に奇妙な移動を行っており、おそらく未確定。中央アジアに到達したハプログループP人がハプログループRに分岐し、その後も東西に移動拡散を繰り返している。おそらくは半ば狩猟、半ば遊牧の生活を送っていた。
R1b人の武力進出
 R1系統は最終氷河期の後に拡散を開始した。一部がインド北部から中央アジアや東ヨーロッパに進出(R1a)、残りが西欧・南欧に進出(R1b)した。R1b人は青銅器文明(武器)を伴って西ヨーロッパまで分布を広げた。今日のバスク人やケルト系民族に80%以上の高頻度に存在する。
 ただイギリスで実際にG2a人を駆逐したビーカー人とケルト人は異なっていると見られ、なお検討を要する。

http://ume.sakura.ne.jp/~edo/yukimura.html



12120岩石(ハンドルネーム):2022/07/25(月) 08:03:23
ハプログループIを碧眼遺伝子の担い手であったとする説は矛盾だらけ
 最近のゲノム解析により、ハプログループIは碧眼遺伝子の担い手であったとされ、高身長との関連性も示唆されている。
 ハプログループI(Y染色体)が色白金髪碧眼高身長と主張する説を唱える者がいるが、ハプログループI(Y染色体)が多いバルカン半島も北欧バイキングも色白金髪碧眼ではない。アボリジニの女性・子供に金髪の者がおり、父系Y染色体にハプログループCとS(Nと近接)がある。3割が色白金髪碧眼・高身長であるタタール人にはハプログループI はない。色白金髪碧眼・高身長の蝦夷(えみし) にはハプログループI はない。北欧ではハプログループNとIが近くにいるため、色白金髪碧眼はI(Y染色体)の方だと思い込んでいるようだ。
 色白金髪碧眼高身長はY染色体ハプログループやmtDNAハプログループではなく、ゲノム(全遺伝情報)で見る必要がある。色白金髪碧眼高身長はY染色体ハプログループCやNやSに随伴している可能性がある。ハプログループIには随伴していない。
 Y染色体は男性にしかないが、女性の色白金髪碧眼高身長はどう説明するのか?色白金髪碧眼高身長のタタール人あしやさんは女性である。3割が色白金髪碧眼のタタール人(C2、Q、N)や蝦夷(C、N)やアボリジニ(ハプログループC-M130*(xM8、M38、M217、M347)・1%、C-M347・19%、K-M526*(xM147、P308、P79、P261、P256、 M231、M175、M45、P202)・12%、S-P308・12%及びM-M186・0.9%、女性や子供は肌が黒いのに金髪)にはハプログループIがないが、これはどう説明するのか?
 東北に青い瞳等が1~2割いる。瞳の青い蝦夷は大和朝廷軍に敗れてから全国に広がった。青い瞳は劣性遺伝なので、日本人の遺伝子に隠れているケースが多い。現代日本人の中にネアンデルタール人の遺伝子が1.4%含まれている。白っぽい皮膚、金髪や赤毛、青い目などはネアンデルタール人から受け継いだ。シベリアで発見されたネアンデルタール人の兄弟種の化石から、その遺伝子の一部がポリネシア人に混入している。青い瞳等は、日本でネアンデルタール人→蝦夷(ハプログループC、N)→北東亜平野で匈奴(ハプログループC、N)→西シベリアでヨーロッパ人の先祖(ハプログループR)と受け継がれた。
 色白金髪碧眼でNが大部分を占めるフィンランド人(ハプログループN1a1・61%、 I ・29%、 R1a ・5%、R1b ・3.5%)(色白金髪碧眼)、ノルウェーに住むサーミ人(ハプログループN・48%、I1・約31%)(色白金髪碧眼)、バルト三国人(エストニア人N・41%、ラトビア人、リトアニア人) (色白金髪碧眼)等。
 金髪碧眼ではないが、色白でNが大部分を占める極東連邦管区北東部の端のチュクチ半島に住むチュクチ人(Y染色体ハプログループN-Tat・58.3%、Q-M3・33.3%、R・4.2%、C2-M217・4.2%) (色白)、極東連邦管区西部のサハ共和国に住むヤクート人(Y染色体ハプログループN・94.5%、C2・2.1%、Q・0.5%)(色白)、シベリア連邦管区極北部のガナサン人(N・92%)(色白)、北西連邦管区北東部のネネツ人(N・97%)(色白)等。
 スラブ系は結構Nが多く、ゲルマン系はNが少なく、ラテン系はNが全くない。スラブ系のロシア人(R1a・19.8%~62.7%で平均46.7%、N・5.4~53.7%で平均21.6%、I・0-26.8%で平均17.6%、R1b・0-14%で平均5.8%) (色白金髪碧眼)、ウクライナ人(R1a・43.2%、I・27.2%、R1b・7.9%、E1b1b・7.4%、N・5.4%) (色白金髪碧眼)等。

http://ume.sakura.ne.jp/~edo/yukimura.html



12121秦野北斗:2022/07/25(月) 12:31:29
Re: ハプログループIを碧眼遺伝子の担い手であったとする説は矛盾だらけ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013122M.jpg

https://hugkum.sho.jp/335560#:~:text=「鬼門」とは、陰陽,を施してきました。



12122岩石(ハンドルネーム):2022/07/25(月) 16:24:36
バイキングは北欧系ではない。
 北大西洋を船で自由に航海しながら沿岸部の村々を襲うがっしりとした金髪碧眼の荒くれ者。これが歴史の本にも載っている典型的なバイキングのイメージだ。
 しかし、DNAの研究からは、どうやらこうしたイメージは正しくないことが分かった。バイキングのDNAを解析した研究が『Nature』(9月16日付)に掲載された。それによると、実はバイキングは遺伝的にかなり多様で、必ずしも北欧(スカンジナビア)にルーツを持つ人たちではなかった。
南ヨーロッパやアジアにルーツを持つバイキングの存在
 コペンハーゲン大学をはじめとする国際的研究グループは、青銅器時代から近代(BC2400年〜AD1600年)までの墓地から発掘された人間の遺体442体のゲノムを解析し、これを現代人3855人(イギリス人、デンマーク人、スウェーデン人)と古代人1118人と比較。これによって、所謂バイキング時代(750〜1050年)にスカンディナビア(スウェーデン・ノルウェー・デンマーク)からヨーロッパ各地に移住した人たち、すなわちバイキングの影響を調査した。この結果、バイキングの祖先には、南ヨーロッパやアジアにルーツを持つ人たちもいたことが明らかになった。
 金髪碧眼のバイキング。これは彼らが北欧系の人々の子孫であると考えられていたからこそのイメージだ。しかし、例えば南ヨーロッパ人やアジア人の遺伝子を持つバイキングならば、その姿はかなり違うものだった。
バイキングの移住ルートも明らかに
 また、この時代のバイキングの移住先について、かねてより提唱されてきた仮説のいくつかを裏付けることもできた。
 例えば古代デンマーク系のDNAがイングランドで、ノルウェー系のDNAがアイルランド、アイスランド、グリーンランドで発見されている。
 意外だったのは、現代のスウェーデン人に似たDNAがヨーロッパ西端の地域で、デンマーク人に似たDNAが東端の地域で発見されたことだ。このことは、バイキングたちの定住・貿易・略奪ルートが複雑に入り組んだもので、そのためにさまざまな祖先を持つコミュニティがヨーロッパ各地に誕生したことを示唆している。
これまで考慮されたことのなかった南ヨーロッパやアジアに起源があるDNAの影響を分析したところ、バイキングの遺伝的な祖先は、スカンディナビア人などではなかったことが分かった。バイキングの多くは、スカンディナビア内外で暮らしていた非スカンディナビア系の祖先を持っている。これのことは、ヨーロッパでは常に遺伝子が流動していたことを示唆してもいる。(コペンハーゲン大学 Martin Sikora氏)
バイキングではないバイキング
 中には、遺伝的にはまったくバイキングではないバイキングもいた。それはスコットランド、オークニー諸島にあるバイキングの墓地で発見された遺体だ。その遺体はバイキングの様式で埋葬(剣などの副葬品と一緒に埋葬)されていながらも、遺伝的にはピクト人の子孫だったのだ。ピクト人は、かつてスコットランドのハイランド地方に勢力を誇っていた、ヨーロッパでも特に謎が多いとされる民族だ。
 こうしたことからは、バイキングが北欧にルーツを持つ人たちではなく、バイキングであるという感覚的なアイデンティティを持つ人たちだったらしいことがうかがえる。
 海賊王に俺はなる!と言っていたルフィは金髪碧眼の北欧人ではないが、逆にもしかしたら正真正銘のバイキングの血を引き継いだ可能性も無きにしも非ず。

http://ume.sakura.ne.jp/~edo/yukimura.html



12123シルクロード:2022/07/25(月) 16:43:56
渡来人
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渡来人
・渡来系弥生人/日琉語族集団(図2)
・渡来系移住民/帰化人(図3)
・古墳人(日本人の直接の祖)



12124シルクロード:2022/07/25(月) 18:30:39
賃金については、数年前から韓国の水準が日本を上回っていたのだが、その差が拡大したことになる。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013125M.jpg

急激な円安が進んだ結果、日本の1人当たりGDPは、韓国より低くなり、アメリカの半分以下になった。米韓との賃金格差も拡大している...

中国に抜かれ、韓国に抜かれ...
次は台湾にも抜かれるか?"我らが北朝鮮"も後に続け!笑

賃金については、数年前から韓国の水準が日本を上回っていたのだが、その差が拡大したことになる。また、日本の値は、アメリカの半分にもならない。

企業の時価総額を見ても、日本が立ち後れている。
日本のトップであるトヨタ自動車は、世界第39位で2110億ドルだ。これに対して、台湾の半導体製造会社TSMCは、世界第11位で4339億ドル、韓国のサムスン電子は世界第25位で2991億ドルだ。



12125秦野北斗:2022/07/25(月) 19:32:40
Re: 賃金については、数年前から韓国の水準が日本を上回っていたのだが、その差が拡大したことになる。
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シルクロードさんへのお返事です。

teacup. byGMOのサービス終了する頃に中国に抜かれ、韓国に抜かれ...
次は台湾にも抜かれるか?"我らが北朝鮮"も抜かれるか?日本はベベですな・・・
サービス終了も理解できる。おっと、北朝鮮の水爆を打つ意味がなくなるな、日本より韓国を脅したら、金になるかもな・・・シルクロードさんの背中に水爆・・・北朝鮮に金持って来い日本円でなくウオンだぞ、

> 急激な円安が進んだ結果、日本の1人当たりGDPは、韓国より低くなり、アメリカの半分以下になった。米韓との賃金格差も拡大している...
>
> 中国に抜かれ、韓国に抜かれ...
> 次は台湾にも抜かれるか?"我らが北朝鮮"も後に続け!笑
>
> 賃金については、数年前から韓国の水準が日本を上回っていたのだが、その差が拡大したことになる。また、日本の値は、アメリカの半分にもならない。
>
> 企業の時価総額を見ても、日本が立ち後れている。
> 日本のトップであるトヨタ自動車は、世界第39位で2110億ドルだ。これに対して、台湾の半導体製造会社TSMCは、世界第11位で4339億ドル、韓国のサムスン電子は世界第25位で2991億ドルだ。



12126シルクロード:2022/07/25(月) 21:55:10
【日本の歴史】子供自殺装置ニホン【終了】
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013127M.jpg

日本の児童や生徒による自殺の数が2021年度、過去最多となっていたことが15日までに分かった。文部科学省が明らかにした。1974年に統計を取り始めてから最多となった。また、15〜34歳の若い世代で死因の第1位が自殺となっているのは、先進国(G7)では自殺装置国家ニホンのみ。



12127シルクロード:2022/07/25(月) 22:00:20
日本だけ停滞
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013128M.jpg

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他の国が成長している一方で、日本だけ停滞が続いていますので、このままさらに下位の国に抜かれていく事になります。



12128秦野北斗:2022/07/26(火) 00:49:00
韓国政府が借金の90%を免除する
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https://www.youtube.com/watch?v=Kt7P6BZmO3Y



12129シルクロード:2022/07/26(火) 01:27:54
欧米景気後退で日本人がさらに「貧しく」なる根拠
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日本人の生活水準は継続的に低下
もし歴史が繰り返されるのなら、このことは2つの好ましくない結果をもたらし、長期的に尾を引くだろう。第一には後述するように、大部分の日本人が生活水準の継続的な低下を経験することである。それは大多数の労働者の実質賃金の低下や高齢者1人当たりの社会保障支出の削減といった形をとる。

中堅国
第二は、アジアにおける日本の影響力が低下し続け、中国に対抗する力が弱まることである。2021年版「アジア・パワー・インデックス」が報告するところによれば、すべての分野において、日本のパワーは「初めて大国とみなされる閾値である40ポイントを下回り、高パフォーマンスの中堅国として考えられている」と報告している。

アジア内の経済関係(貿易、投資、技術的リーダーシップといった「経済的相互依存関係を通じて影響力とレバレッジを行使する能力」)に関しては、日本のスコアは、インデックス算出を開始した2018年の56点から、2021年の40点に落ちた。これに対し、中国のスコアは96点から99点に上昇した。

日本は自由貿易協定や安全保障問題での協力、軍事力の強化などを通じて影響力を高めようと努力しているが、日本の経済的重要性の相対的な低下を克服するには十分ではない。

他国がより迅速に影響力と交流関係を拡大する中で、日本はつねに後れをとっている。例えば、2021年のアジア太平洋25カ国の輸出品に占める日本の割合はわずか9%であるのに対し、中国の割合は33%に増加している。

この趨勢に加えて、他の観点でも同様の傾向がみられた結果、貿易に関する日本のスコアは2018年の37点から2021年の25点に急落した。地域投資については、2018年の日本のスコアは79対83と中国に近いものだったが、2021年には56対97と大きく引き離されている。

要するに、日本の経済的弱点は、生活水準のみならず、国家安全保障に対する脅威でもあるのだ。

世界的なショックでより大きな打撃を受ける日本
概観すれば、世界的、国内的なショックが発生した場合、日本経済は他の富裕国と比べてより大きな打撃を受け、その被害はより長期間持続することがわかる。

2008〜2009年の世界的な金融危機を考えてみよう。日本の金融システムは、この災いを引き起こした不正行為にほとんど関与していなかった。しかし、2007〜2009年には、日本のGDPは5.6%低下した。これは、OECD(経済協力開発機構)に加盟している富裕国23カ国の中で21番目に大きな落ち込みを見せた。OECD全体のGDP低下率は、その半分未満の2.5%にすぎない。

その次には、新型コロナウイルス感染症が流行した。日本は他の富裕国に比べて患者数も死亡者数もはるかに少なかったにもかかわらず、それに伴う封じ込め対策と、サプライチェーンにおけるボトルネックによって、経済的にはるかに大きな打撃を受けた。

さらに悪いことに、新型コロナは2019年の消費税引き上げによる負担と重なった。その結果、2022年1〜3月期の日本の1人当たり実質GDPは、3年前の2019年春と比べ、いまだに2.6%低い水準にある。一方、他のOECD諸国では、同期間のGDPは2%上昇した。スペインを除けば、日本のパフォーマンスはOECDの中で最悪だった。

実際、2度の消費税増税(2014年と2019年)と新型コロナの流行の結果、2022年1〜3月期の日本の実質GDPは、ほぼ9年前になる2013年と比較して2%しか増えていない。個人消費は2013年に比べて3.4%減少している。

なぜ日本はこれほど脆弱なのか
他国では比較的軽度で一時的な影響しか及ぼさないショックが、なぜ日本ではこれほどの被害をもたらすのだろうか。その理由は、近代的な成長理論の大原則に日本が抵触していることにある。

1960年代から、経済学者の間では、市場経済がマクロ経済の不安定化を回避するためには、その成長は「均衡」をとらなければならない、すなわち、GDP、個人の所得、消費、投資が長期的には、大まかには同一のペースで成長しなければならない、ということが知られていた。

失われた数十年の間に、個人所得はGDPの成長に後れをとるようになり、その状況は時間とともに悪化している。このような不均衡は他の富裕国でも見られるが、日本ではより深刻である。

言い換えれば、GDPの成長が鈍化しただけでなく、その成長の果実が賃金、年金、預金金利などを通じて国民に行き渡る量が少なくなっているのである。1995年から2018年まで、1人当たり実質GDPの成長率は総計17%であり、OECDの中で2番目に低い成長率だった。



12130シルクロード:2022/07/26(火) 01:47:14
二流の国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013131M.jpg

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英語力「112カ国中78位」の日本で広がる外国嫌い
日本は112カ国中78位――。
近年、さまざまな指標における世界での日本のランキングの低さが話題になるが、ついに「英語力」も下から数えたほうが早くなってしまった。11月16日に発表された、EF英語能力指数(EF EPI)において日本の順位は2020年の55位から大幅にランクダウン。2011年の14位からは急落している。ちなみに、隣国の韓国は34位と日本から背中すら見えない状態だ。

これは単に日本人が、英語が苦手である、ということを意味しているのではない。このランキングが示しているのは、日本の外国人嫌いが加速し、国全体が急ピッチで孤立主義の姿勢を強めつつあることだ。

日本の「外国離れ」はあらゆる場面で見られる。

例えば、政治家たちはかつてより外国人を軽視している。筆者が来日した1995年当時、有力な国会議員のスタッフには、若い外国人研修生がおり、外国からの情報を議員に提供するなどしていた。それは政治家たちが自らを世界に開かれた存在であると示す手段でもあった。そんな政治家たちは「国際派」と冗談で呼ばれていた。

「しかし、今では外国人研修生はいなくなってしまった。そんなことをしたら、その議員は日本人よりも外国人を優遇しているというシグナルを送ることになってしまうからだ」と、あるアメリカ人ロビイストは語る。

今や岸田首相は、野党からも、外国人を日本から締め出すためにより一層の努力をするように迫られている。そして日本国民は90%の確率で彼の施策を支持している。私自身、国境をもっと開くことを支持するこのような記事を書くことで、多くの批判を受けるだろう。しかしこうした政策をとることによって日本が強くなるとは到底思えない。

金融業界でも「孤立主義」が炸裂している。東京や福岡、そして大阪も「金融ハブ」を標榜しているが、上述の通り日本には英語を話せる人材が不足しているうえ、不透明な規制があり、新しい考えの受け入れに消極的で、キャピタルゲインへの厳しい課税があるにもかかわらず、こうした問題を解決するための具体的な努力をしていない。こうした中、海外の金融機関は東京を去り、シンガポールや韓国に拠点を置き始めている。

オフィスの新設場所に日本は選ばない
こうした日本の状況に呼応してか、海外からの日本への関心も低下している。2006年、当時の小泉純一郎首相は、2011年までにFDI(海外直接投資)をGDP(国内総生産)の5%に引き上げることを公約した。その15年後、FDIは4.7%とOECD加盟国の中で最低となっている。2番目に低い韓国は、日本の3倍である。3位の欧州連合(EU)は75%で日本の15倍だ。767%のルクセンブルグは日本の163倍である。

日本企業の買収に、いまだに興味を持つ外国企業もある。後継者がいない企業においては、これは一生に一度のチャンスとも言える。「しかし日本企業は、外国企業に買収される位なら死ぬほうを好みがちだ」と、フランスの監査法人の支社長は嘆く。

今や外国企業は工場やオフィスの設立場所を決める際に、日本を迂回するようになっている。中には北東アジアの本部を日本から韓国に移した企業もある。日本はコストが高く、労働力が減少しているため、外国企業はますます日本に生産拠点を置く意味がなくなってきているのだ。

フランスにとって日本は今や、二流の国になっている。真の意味での国賓訪問は、8年前の2013年に当時のフランソワ・オランド仏大統領が訪日したのが最後だ。

エマニュエル・マクロン大統領は、フランスが開催する2024年パリ大会を見据えて、8月に東京オリンピックの開会式のために訪日したが、ある関係者によると、菅政権の硬直性とどんなテーマでも妥協する意思のないことに愕然としたという。マクロン大統領はすぐには再訪日しないだろう。

日本は、東京オリンピックを開催したことで、世界の中心にい続けられると思っているかもしれない。しかし、1964年に東京で開催された壮大で革新的な大会のような重要性は、オリンピックにはない。むしろ、日本政府がオリンピックを重要視していることは、日本が現在の世界を誤解していることの表れでもある。

日本政府はまた、2025年に大阪で開催される万博も桁外れに重要視している。岸田政権では、この問題を担当する国際博覧会担当相がいるほどだ。しかし、世界的な博覧会は、今や開催国以外では誰も気にとめないローカルなイベントとなっている。日本人で誰が、現在ドバイが万博を開催していることを知っているというだろうか。



12131岩石(ハンドルネーム):2022/07/26(火) 07:25:51
ヨーロッパでもアジアでも寒い地域ほど平均身長が高い
 アジア人は世界の中でも身長が低いというイメージはないか?逆にヨーロッパ系の人々は背が高く、体重や体つきも大きいというのが固定概念として多くの人が抱いている。
 2014年の調査では、日本人の平均身長は、17歳の男性の場合、170.7cm、同年齢の女性で157.9cmとなっている。戦後、栄養状況が飛躍的に改善した日本では、長らく平均身長が年々更新されていたが、近年は変化がなくDNAの限界とも言われている。
 といっても、日本の戦国武将には2メートル近い人や180?以上の人も意外にいた。現在でも背の高い日本人はおり、大谷翔平(193?)、ダルビッシュ有(195.6?)などの野球選手はアメリカの大リーグで活躍している。女子バレーボール選手などにも185?の女性がいる。
 対して、ヨーロッパ諸国の平均身長を見てみると、北欧系のオランダが181.7cm、ノルウェーは179.9cmと、日本人より10cm以上高い国々が目につく。ところが、ラテン系のスペインは173.9cm、ポルトガルが170.7cmと、日本人と差がない。
 実はこの身長差の背景には、居住地域の寒さが関係していると言われている。
ベルクマンの法則とは?
 「ベルクマンの法則」は、1847年にドイツの生物学者であるベルクマンが発見した法則で、「寒い地域の動物の方が体が大きい」。例えば、熊は大きい。
 東南アジアに生息するマレーグマは140cm程度、北海道を中心に生息しているヒグマが200cm、ホッキョクグマが250cmと、寒い地域にいくほど、同じ種の動物でも平均サイズが大きくなっている。
 先ほどあげた日本や諸外国の平均身長もこれと同じことが言える。アングロサクソン人やゲルマン人など、北方に住んでいた人々は身長も高く、体つきもガッシリとしている。対して、温暖な地中海などを拠点としていたラテン系の血を引く人々は、日本人とさほど身長の差がない。
 ではなぜ、寒冷地域の動物は体が大きくなるのか?それは、体内で発生させる熱と、それを逃がす体の表面積にあった。
恒温動物は体を大きくすることで熱を維持する
 人は、自分の体内で熱を発生させて一定の体温を保つ「恒温動物」である。そのため、寒い地方ではいかに体温を維持できるかが生存の鍵となる。体重を増やし、体つきを大きくすることで、体内でより多くの熱を発生させることができる。
 体を大きくすると、その分、熱を逃がす表面積も広くなるが、同じ体の大きさを基準に考えた時、体重は体格に対して3乗、表面積は2乗という対比の基準がある。つまり、体が大きい方が体重あたりの表面積は小さくなる。そのため、寒い地方に生息している動物はなるべく体を大きく成長させるように進化した。
 対して、赤道付近に住む生物は熱を放出させることに重きを置いた進化をしている。人類でも、南の島に住む人たちは身長が低いが、耳や足、尾など、体温を逃がす部分は大きくなる。これは温暖な地域の生物の特徴といえる。
国内だけでも見られる地域と身長の関係
 この「ベルクマンの法則」に似たものに、「アレンの法則」というものがある。同じ種の個体でも、地域によって体格や成長に差があるというものである。
 これは世界単位の話ではなく、日本国内でもあてはめることができる。2014年に行われた学校保健統計調査では、17歳の男性の平均身長で最も背が高かったのは石川県の171.7cm、次いで秋田県と富山県の171.4cmが続く。逆に、身長が低い県は下から、沖縄県の168.8cm、福岡県の169.3cm、島根県、広島県、高知県の169.8cm。わずか3cmの違いだが、国内でもこうした特徴が出ている。
 なぜ地域で身長差があるのか、漠然とした疑問でも、科学的な側面から見ていくと、意外な事実が出てくる。

http://ume.sakura.ne.jp/~edo/yukimura.html



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12133岩石(ハンドルネーム):2022/07/26(火) 18:21:03
ハプログループN (Y染色体)と色白金髪碧眼高身長
 ハプログループN (Y染色体)、ハプログループZ(mtDNA)があるのは次のとおり。
 色白ではあるものの金髪碧眼ではない極東連邦管区北東部の端のチュクチ半島に住むチュクチ人(Y染色体ハプログループN-Tat・58.3%、Q-M3・33.3%、R・4.2%、C2-M217・4.2%) (色白)、極東連邦管区西部のサハ共和国に住むヤクート人(Y染色体ハプログループN・94.5%、C2・2.1%、Q・0.5%)(色白)、シベリア連邦管区極北部のガナサン人(N・92%)(色白)、北西連邦管区北東部のネネツ人(N・97%)(色白)、北アジア一帯(色白)に多い。シベリアはC2、Q=血液型O型、N=血液型A型が多い。古遼河沿岸系?
 スラブ系は結構Nが多く、ゲルマン系はNが少なく、ラテン系はNが全くない。スラブ系はロシア人(R1a・19.8%~62.7%で平均46.7%、N・5.4~53.7%で平均21.6%、I・0-26.8%で平均17.6%、R1b・0-14%で平均5.8%) (色白金髪碧眼)、ウクライナ人(R1a・43.2%、I・27.2%、R1b・7.9%、E1b1b・7.4%、N・5.4%) (色白金髪碧眼)等。
 色白金髪碧眼高身長のハプログループI(Y染色体)=血液型A型がないもののハプログループN(Y染色体)=血液型A型がある日本の東北地方の蝦夷(えみし)(C、N) (色白金髪碧眼)、 タタール人(Q、C2、N)の3割(色白金髪碧眼)である。
 北欧には色白金髪碧眼のハプログループN (Y染色体)=血液型A型があるフィンランド人(Y染色体ハプログループN1a1・61%、 I ・29%、 R1a ・5%、R1b ・3.5%)、ノルウェーに住むサーミ人(N・48%、I1・約31%)、スウェーデン人(Y染色体ハプログループI・37.5%、R1a・24.4%、R1b・13.1%、N・4.4%)、ノルウェー人(Y染色体ハプログループI・40.3%、R1a・17.9%~30.8%、R1b・25.9%~30.8%)、バルト三国人(エストニア人N・41%、ラトビア人、リトアニア人)がいる。バイキングとして集まったバルカン半島のハプログループ I (Y染色体)、アジア特に色白金髪碧眼高身長の蝦夷(えみし)のN、ゲルマン系のR1a、R1bが混血し、北欧人となっていったことが分かる。
 ハプログループN(Y染色体)=東北に青い瞳等が1~2割いる。瞳の青い蝦夷は大和朝廷軍に敗れてから全国に広がった。青い瞳は劣性遺伝なので、日本人の遺伝子に隠れている。現代日本人の中にネアンデルタール人の遺伝子が1.4%含まれている。白っぽい皮膚、金髪や赤毛、青い目などはネアンデルタール人から受け継いだ。シベリアで発見されたネアンデルタール人の兄弟種の化石から、その遺伝子の一部がポリネシア人に混入している。青い瞳等は、日本でネアンデルタール人→蝦夷(ハプログループC、N)→北東亜平野で匈奴(ハプログループC、N)→西シベリアでヨーロッパ人の先祖(ハプログループR)と受け継がれた。
 ハプログループI(Y染色体)が色白金髪碧眼・高身長と主張する説を唱える者がいるが、ハプログループI(Y染色体)が多いバルカン半島も北欧バイキングも色白金髪碧眼ではない。アボリジニの女性・子供に金髪の者がおり、父系Y染色体にハプログループCとS(Nと近接)がある。3割が色白金髪碧眼高身長であるタタール人にはハプログループI はない。色白金髪碧眼高身長の蝦夷(えみし) にはハプログループI はない。北欧ではハプログループNとIが近くにいるため、色白金髪碧眼はI(Y染色体)の方だと勝手に思い込んでいる。色白金髪碧眼・高身長のタタール人のあしやさんは女性である。男性にしかない父系Y染色体を色白金髪碧眼・高身長と結び付けようとすること自体に無理がある。昔からウィキペディアの嘘を訂正してきたが、思い込みの激しい者が意固地になっているため、難儀させられた。
 色白金髪碧眼・高身長はY染色体ハプログループやmtDNAハプログループではなく、ゲノム(全遺伝情報)で見る必要がある。色白金髪碧眼高身長はY染色体ハプログループCやNやSに随伴している傾向があるが、ハプログループIには随伴していないことは明らかである。ハプログループIのウィキペディアには嘘を書いている。
 日本人には黒髪だけなく、ブリュネット(栗毛)、レディシュ(赤毛)、プラチナブロンド(明るい金髪)、ストロベリーブロンド(明るい赤毛)がいるが、ヨーロッパ人等にあるダークブロンド(金髪と茶髪の中間)、アッシュブロンド(少し青い色素がある栗毛)、濡烏(青みを帯びた黒髪)はいない。

http://ume.sakura.ne.jp/~edo/yukimura.html



12134管理人:2022/07/26(火) 20:54:41
宇佐神宮の古墳状地形
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013135M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013135_2M.jpg

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https://0ccult.online/yamatai05/



12135管理人:2022/07/27(水) 15:43:25
古墳状地形・神籠石方位ライン(九州)2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013136M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013136_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013136_3M.png

先日お知らせした九州の古墳状地形や神籠石、遺跡を結ぶ方位ラインについてですが、さらに調べを進めてみたところ、図1のように吉野ヶ里遺跡と、天ケ瀬五馬の元宮神社が主要なライン拠点として絡んでくることがわかりました。

具体的には、伊川古墳状地形⇔日田古墳状地形?(ダンワラ古墳そば)⇔本宮神社(五馬)へのライン上に小迫辻原遺跡があり、このラインと女山神籠石⇔唐沢山城ライン、そして、先の平塚川添遺跡⇔白岩遺跡ラインが、この小迫辻原遺跡の3世紀末~4世紀初頭とされる第3号居館周辺で交差します。図2参照ください。

そして、そこにみえる元宮神社(五馬)から吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓へと至る西10度偏角のライン上に、祇園山古墳が載ることもあり、この祇園山古墳が平塚川添遺跡や女山神籠石・伊川古墳状地形等とともに、吉野ヶ里遺跡をも視野にいれていたことがわかります。

あと、この元宮神社⇔女山神籠石ラインと、吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔長田大塚古墳ラインはともに東10度偏角で平行となりますが、前者は女山神籠石⇔伊川古墳状地形ラインと概ね直交し、後者は東峰村福井付近で女山神籠石⇔唐沢山城ライン、本宮神社⇔日田古墳状地形?⇔会所山⇔小迫辻原遺跡⇔鎌田原遺跡⇔伊川古墳状地形ラインと交差します。

そのライン上の元宮神社では五馬姫が、同じく会所山上のラインが通過する地点にある久津姫神社では久津姫が祀られており、ともに豊後国風土記に記されている女性です。

あと、吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔長田大塚古墳ラインと祇園山古墳⇔平塚川添遺跡ラインの交点には、河川で囲まれた前方後円墳状の地形(図3:後円部150m前後)があり、その西傍に赤司八幡宮がありますが、元は止誉比咩社であり、以前こちらでも予想したように、この止誉比咩社が女王・台与(トヨ)の墓所等であるならば、その前代の卑弥呼の墓も、ラインで接続する祇園山古墳か長田大塚古墳となる可能性があるでしょう。

なお、この赤司八幡には、日の三女神降臨伝承があり 、あるいは三代の女王等を象徴していたのかもしれません・・。

その他、先日お知らせした合田の古墳状地形についてですが、図2のように、前方後円墳状地形の推定位置を少し変更しました。この合田古墳状地形⇔平塚川添遺跡⇔祇園山古墳へのラインも平塚川添遺跡の中央集落・大型建物南部を通過する点で、他の伊川の古墳状地形⇔平塚川添遺跡ラインや小郡井上古墳状地形⇔平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳⇔杷木神籠石⇔小原辻原遺跡⇔白岩遺跡ラインが、同じく平塚川添遺跡の中央集落・大型建物南部を通過することとで共通します。

そういう意味で、この中央集落・大型建物南部を発掘すれば何か出てくる可能性があるでしょう。

今回の方位ラインの年代的は、以前お知らせした弥生時代前・中期と予想した志賀島北部や支石墓・神籠石等を結んだ九州の方位ライン群が平塚川添遺跡の北西部を通過していた時代(つまり平塚川添遺跡の設置前)よりも、新しい時代の構築で、弥生時代後半から末期にかけてのラインと考えうるでしょう。

その後、それらの拠点に白岩遺跡等の高地性集落などが関わってきて、これが前方後円墳の原型となっていたはずです。

さらにその前後で、纒向型前方後円墳に関する方位ラインが見えてきて、さらにその後、箸墓や中山茶臼山といった前方後円墳を結ぶ方位ラインへとつながっていくのではないでしょうか。



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12138管理人:2022/07/28(木) 23:27:27
新・神籠石方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013139M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013139_2M.jpg

また連投となりますが、先日お知らせした九州の神籠石を結んだ方位ラインについて、大幅に訂正・追加が生じましたので、お知らせいたします。

まず、図1のように、新たに大島の御嶽神社を頂点としたラインがあることにきづいたのですが、その御嶽神社(大島)⇔志賀島(潮見公園)⇔三雲南小路遺跡⇔雷山神籠石⇔おつぼ山神籠石への東65度偏角のラインがあり、同じく御嶽神社(大島)⇔御所ケ谷雷山神籠石⇔唐沢山城への西30度偏角のラインがあります。

また、その後者のラインに近くに位置する宗像大社⇔大野城⇔女山神籠石への南北ライン(完全な同経度)ラインがあり、このラインに直交する形で、志賀島(潮見公園)⇔鹿毛山神籠石⇔御所ケ谷神籠石への東西同緯度ライン、三雲南小路遺跡⇔大野城⇔宇佐高校庭遺跡への東西ラインがあります。

なお、これらのラインと遺跡の位置関係については図2の一覧図をご参照いただきたいのですが、御嶽神社は台形状地形の上にあり、宗像大社についても、その庭園内の円形の池地の中心をラインが通過するので、その池がそのまま周壕だった可能性があるでしょう。

志賀島についても中東部の潮見公園東部に台形状地形があり、大野城については大城山山頂部の台形状地形の南部に2つのラインの交点があります。

また、図のように、おつぼ山神籠石⇔帯隈山神籠石⇔御所ケ谷神籠石への東35度偏角のラインがあることは以前もお知らせしたとおりですが、このラインと平行に、女山神籠石⇔杷木神籠石⇔唐沢山城への東35度偏角のラインがあり、その後者のラインと雷山神籠石⇔女山神籠石への西55度偏角のラインとが直交しています。

あと、帯隈山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔祇園山古墳⇔高良山神籠石⇔本宮神社(五馬)への10度偏角のラインがありますが、その高良山については、図のように女山神籠石⇔高良山(奥宮)⇔内山田⇔鹿毛山神籠石への東70度偏角のラインがあり、このラインは元宮神社(五馬)⇔唐沢山城への東70度偏角のラインと平行になります。

その内山田の字名は邪馬台国の”内部”を想起させる字名でその北の日の岡の字名とともに留意しておくべきかもしれません。

その他、宇佐高校庭遺跡を起点としたラインとして、宇佐高校庭遺跡⇔唐沢山城⇔志賀島(潮見公園)への西10度偏角のライン、宇佐高校庭遺跡⇔平塚川添遺跡⇔帯隈山神籠石への東12度偏角のラインがあり、後者は平塚川添遺跡の中央集落・大型建物南部を通過している点で、昨日お知らせした古墳状地形等を結ぶラインと同じですが、また雷山神籠石⇔平塚川添遺跡(北部)⇔杷木神籠石への西18度偏角のラインでは、平塚川添遺跡の北西部の鷂天神社付近をラインが通過している点で相違があります。

この2つのラインは平塚川添遺跡東のブリジストン工場あたりで交差するのですが、前者の神籠石を意識してないラインと、後者の意識しているラインとで、年代が相違する等の要因が背景にあった可能性もあるでしょう。

これらのラインの年代としては、ライン上に見える志賀島の金印に関連する後漢時代、つまり「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」 建武中元二年(57年)の成立が考えうるでしょう。

そういう意味では、これらのライン上にみえる 鷂天神社、高良大社、宗像大社、本宮神社あたりは、日本最古の神社であった可能性が見えてきますね。鷂天神社で祀られる大日霊貴命、宗像三女神、五馬媛・・・といった女神の原型もこの時期にすでに仕上がっていた可能性もあります。

そして神籠石や山城の成立は通説の7世紀代ではなく、弥生時代まで遡ることもライン面からみてあきらかでしょう。

弥生時代のある時期に、かなり高度な石造技術をもった集団が渡来していたはずで、その起源を探る必要があります。

その集団として考えうるのが、このライン上にみえる三雲南小路遺跡から出土した南越王墓と同類の玉壁にみられるような華南からの渡来人かもしれません。以前その辺の渡来人についてはお話したので割愛しますが、列島外からの石造技術の系譜を調べていく必要がありそうですね。



12139管理人:2022/07/29(金) 15:40:08
新掲示板を開設しました
こちらの掲示板が今月末で終了するので、ひとまず臨時的に新規掲示板を開設しました。こちらのアドレスになりますので、よろしくご確認ください。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Frara.jp%2Ftoraijin%2F



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12141管理人:2022/07/30(土) 23:12:08
グスク・神籠石方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013142M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013142_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013142_3M.png

先日の九州の神籠石を結ぶ方位ラインについてですが、その神籠石の石積みにみられるような石造技術の起源について、以前、沖縄のグスクと神籠石とは類似することを指摘したことがありました。

そこで、九州の神籠石と沖縄のグスクを結ぶ方位ラインを作成したのが図1です。

特に注目すべきことは、九州、沖縄に70度偏角のラインが見えることです。

まず九州では、?元宮神社(五馬)⇔唐沢山城への東70度偏角のライン、それに平行して?女山神籠石⇔高良山(奥宮)⇔内山田⇔鹿毛山神籠石への東70度偏角のライン、やや角度誤差はありますが、?御嶽神社(大島)⇔志賀島(潮見公園)⇔三雲南小路遺跡⇔雷山神籠石⇔おつぼ山神籠石への東65度偏角のラインも、おそらくは平行となるように意識したラインと考えうるでしょう。

その?に接続するのが、?笠狭崎(ニニギ宮)⇔今帰仁グスク⇔北谷沖海底遺跡⇔浦添グスク⇔首里城⇔照屋グスクへの東70度偏角のラインとなります。

また図のように、?のラインが久米島の具志川城に接続することがあります。

あと、斎槻御獄⇔奥間グスク⇔アマングスク⇔越山(沖永良部島)⇔大和グスク(徳之島)⇔宮之浦岳(屋久島)⇔串間への東60度偏角のラインがあったことが予想できます。

この串間からは、中国の南越王墓出土のものと同様な玉壁が出土しており、同じく先のライン?の三雲南小路遺跡からも出土していることがあります。

そして、その三雲南小路遺跡⇔串間への西70度偏角のラインがあり、ここで先の?の東70度偏角のラインと同偏角で交差していることもあります。

あと、野原岳(宮古島)⇔串間への東55度偏角のラインがあり、その間に、トカラ列島や宝島、口之島なども通過しており、このラインも航海指標として用いられていた可能性もあるでしょう。

このような方位ライン無しでは正確に最短航路を用いての航海は難しかったはずで、方位ライン作成の意義のひとつがこれらから垣間見ることができるでしょう。

そこで、魏志倭人伝の邪馬台国の位置についてですが、神籠石が邪馬台国と関わるならば、その起源がグスクにあった可能性があり、グスクのほうがよりしっかりとした石造建造物を残している点で、技術・文化的起源が沖縄方面から派生していたのでしょう。

そうすると、倭人伝における女王国の位置が、投馬国の南に陸行一月・水行二十日とあることも、琉球方面を指していた可能性があり、その件を考慮すべきかもしれません。

ただ、同じく倭人伝には、邪馬台国の南に四千里で侏儒国があるとの記載もあり、こちらが琉球のことだとすると、すでに邪馬台国は九州へと移動していたことも考えうるのですが、ただ問題としては、琉球のグスクに比して、神籠石が不完全に終わっている(あるいはグスクと同類のものが下に埋まっている?)点を考慮すると、これをどう解釈すべきかとの問題も残ります。

ひとつ思いつくところとしては、琉球方面から移住した集団がグスクと同じものを、九州北部に構築しようとしたものの、途中(初期段階)で放棄せざるを得ない状況に追い込まれたとの見方もできそうです。

ただ、神籠石の水門などの完成度をみると、未発掘の可能性もあり、その辺の調査を進めていく必要がありそうですね。



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