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祇園山古墳・住吉神社⇔鹿島神宮ライン
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昨晩お知らせした九州の古墳状地形や遺跡、神籠石を結んだ方位ラインの拠点として見えていた高良山の祇園山古墳についてですが、こちらも以前お知らせした図1のラインについて再考しています。
図2,3は拡大図ですが、こうみるとまず住吉神社(九州)⇔伊川古墳状地形⇔本住吉神社⇔鹿島神宮への東15度偏角のラインがあり、これと平行に祇園山古墳⇔軽豊明宮(応神宮)⇔高柳銚子塚古墳への東15度偏角のラインがあることに気づきます。
また図のように、祇園山古墳⇔宇佐神宮⇔住吉大社⇔磐之姫命(仁徳后)墓⇔鹿島神宮への東18度偏角のラインがあります。
そして、昨日もお知らせした女山神籠石⇔祇園山古墳(高良山神籠石西側)⇔伊川古墳状地形への東78度偏角のライン上に応神天皇の蚊田宮が載ることもわかります。
その蚊田宮周辺には、楕円形の河川で囲まれた領域が複数あり、その一つの中央部をラインが通過していることからみて、ここに応神に関わる宮地や古墳などがあった可能性がみえてきます。
加えて、以前お知らせしたよう図2のように畿内領域では元住吉神社⇔住吉大社⇔応神陵⇔軽豊島宮(応神宮)への西30度偏角のライン、宇治墓(仁徳兄の墓)⇔磐之姫命(仁徳后)墓⇔軽島豊明宮への南北ラインが見えますが、概してこれらのラインは高良山・住吉・鹿嶋神等を信仰する南方航海民と応神・仁徳朝に関連するラインとみなしうることがありました。
そこでまた関東領域をみていくと、鹿島神宮⇔香取神宮⇔高柳銚子塚への東45度偏角のラインがあり、その高柳銚子塚については円筒埴輪・長持形石棺を出土する5世紀中ごろ古墳とされています。
この長持形石棺が仁徳陵からも出土することから、以前この長持形石棺を出土した古墳を結ぶ方位ラインをお知らせしたとおりで、それらは概ね河内王朝と同時期の古墳となることがあります。
これらのライン分析から言えることとしては、河内王朝を開いた集団は、もともとは九州で古墳状地形や神籠石等を造営していた弥生時代以来の在地系集団と深くかかわっており、彼らが4世紀になって吉備等を経由して河内へと進出する機会があり、その際に住吉三神・鹿嶋タケミカヅチ信仰などをもたらしながら、さらに東方へと展開していったことが考えうるでしょう。
また今回、珍しく香取神宮がライン上に見えてきたことがあり、この神宮の創始の経緯もこのラインとの関係で理解できるかもしれません。フツヌシ(経津主)がミカヅチとともに東征していった伝承とも関わりそうです。
その九州時代の拠点のひとつに、伊川の古墳状地形や高良山、そのそばの祇園山古墳があり、そこで神武天皇や神功皇后、応神・タケウチスクネといった人物のモデルとなる存在を主としていたことのでしょう。
それで、祇園山古墳とその主について、彼らがかなり重要視していた可能性が見えてくるのですが、この古墳が卑弥呼とその殉死者たちの墓との指摘があることもよく知らせているところで、昨晩お話した平塚川添遺跡を中心とした集団の中でも重要な墓として理解されていたことは確かでしょう。
その観念が、河内王朝の時代に至っても継承されていたので、女山神籠石⇔祇園山古墳⇔蚊田宮⇔伊川古墳状地形へのラインが造営されていったわけですね。
あと、昨晩の弥生時代末期と予想した古墳状地形や神籠石を結んだラインでは、宇佐高校庭遺跡をそのライン拠点としましたが、今回のラインでは宇佐神宮領域でも南部の上宮付近をラインが通過している点で相違があります。
宇佐神宮の上宮はこの河内王朝の時代に創建された可能性がみえてきますが、その上宮で??一之御殿:八幡大神??- 誉田別尊(応神天皇)、二之御殿:比売大神 - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)、三之御殿:神功皇后となっているので、今回の応神・神功に関わる拠点を結ぶラインとも深く関わっていたことが理解できそうです。
もう少し宇佐方面について調べてみる必要がありそうですね。
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