レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。
歴史掲示板
-
九州古墳状地形・神籠石ライン2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013111M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013111_3M.jpg
秦野さんお返事ありがとうございます。ご指摘のような聖方位の観念は古代にもあったかもしれませんね・・・。先日の平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳⇔小迫辻原遺跡⇔白岩遺跡ラインは西15度偏角ですから、二十四方位からいけば辛⇔乙の方位ですね。この時代の方位角は確かに15度偏角、30度偏角単位が多いですが、その辺の中国の方位観念とかかわっていたとすると面白いです。
さて、先日の方位ライン分析において掲載した九州の遺跡や神籠石、古墳状地形を結んだライン図では、ライン拠点を宇佐神宮としてましたが、ライン面から再確認してみたところ、宇佐神宮よりやや北方の宇佐高校庭遺跡周辺がライン位置としてふさわしいことにきづきましたので、図1のように訂正してみました。
また図2の遺跡一覧図のように、この宇佐高校庭遺跡のある高校校庭東部に測量にかかわりそうな円形の地形があり、この高校のある台地そのものが弥生遺跡のような人工地形だったのかもしれません。
この遺跡からは箱式石棺や銅戈が出土しており、弥生時代後期から末期の遺跡と考えうるでしょう。
また上記の平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳⇔小迫辻原遺跡⇔白岩遺跡ラインと伊川の古墳状地形⇔女山神籠石ラインとの交点にあたる小郡井上の地域に、図2のような古墳の周濠を思わせる池が周囲にあり、若干のマウンド上の盛り上がりがあるようです。
ここでこの小郡井上の古墳状地形から白岩遺跡への上記ライン上に平塚川添遺跡が載るわけですが、その遺跡の大型建物のやや南部をラインが通過していることがあり、ここがこの集落における重要拠点だった可能性がありそうです。
なお、その小郡井上の古墳状地形から東40度偏角のラインと、伊川古墳状地形⇔唐沢山城⇔宇佐高校庭遺跡への西10度偏角のラインとの交点にあたる赤村赤合田地域にも図2のような古墳状地形が見て取れます。
さらにこの合田古墳状地形⇔白岩遺跡への西55度偏角のラインがあり、先の小郡井上古墳状地形⇔合田古墳状地形ラインと直交しますが、このラインはその西側の伊川古墳状地形⇔小原辻原遺跡へのラインと平行になる。
そして女山神籠石⇔杷木神籠石⇔唐沢山城ラインでも、図のように杷木神籠石では、平塚川添遺跡⇔白岩遺跡ラインと、神籠石頂部の台形状地形上で交差していることがわかります。
あと、女山神籠石⇔唐沢山城ラインと伊川の古墳状地形⇔小迫辻原遺跡ラインとが直交しており、また伊川の古墳状地形⇔宇佐高校庭遺跡と伊川の古墳状地形⇔女山神籠石ラインとが直交していることもわかります。
同様に、伊川の古墳状地形⇔ダンワラ古墳そばの日田の古墳状地形?ライン上に小迫辻原遺跡がありますが、図のようにこのラインと先の女山神籠石⇔唐沢山城ラインとが、この小迫辻原遺跡の3世紀末~4世紀初頭とされる第3号居館周辺で交差していることがわかります。
そして伊川の古墳状地形⇔平塚川添遺跡への南北ラインがあり、これらの古墳状地形と神籠石、そして平塚川添遺跡や小迫辻原遺跡が、密接に関わって造営されていることがわかります。
その他、細かい遺跡とラインの位置関係についても図2をご覧いただきたいのですが、特に祇園山古墳の位置については、正確に高速通の東側をラインが通過していることからみても、これらの古墳状地形や神籠石と関わる形で造営されたことが予想されます。年代的にもこれらのラインの構築と同時代であろう。
|
|
|
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板