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歴史掲示板

12135管理人:2022/07/27(水) 15:43:25
古墳状地形・神籠石方位ライン(九州)2
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先日お知らせした九州の古墳状地形や神籠石、遺跡を結ぶ方位ラインについてですが、さらに調べを進めてみたところ、図1のように吉野ヶ里遺跡と、天ケ瀬五馬の元宮神社が主要なライン拠点として絡んでくることがわかりました。

具体的には、伊川古墳状地形⇔日田古墳状地形?(ダンワラ古墳そば)⇔本宮神社(五馬)へのライン上に小迫辻原遺跡があり、このラインと女山神籠石⇔唐沢山城ライン、そして、先の平塚川添遺跡⇔白岩遺跡ラインが、この小迫辻原遺跡の3世紀末~4世紀初頭とされる第3号居館周辺で交差します。図2参照ください。

そして、そこにみえる元宮神社(五馬)から吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓へと至る西10度偏角のライン上に、祇園山古墳が載ることもあり、この祇園山古墳が平塚川添遺跡や女山神籠石・伊川古墳状地形等とともに、吉野ヶ里遺跡をも視野にいれていたことがわかります。

あと、この元宮神社⇔女山神籠石ラインと、吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔長田大塚古墳ラインはともに東10度偏角で平行となりますが、前者は女山神籠石⇔伊川古墳状地形ラインと概ね直交し、後者は東峰村福井付近で女山神籠石⇔唐沢山城ライン、本宮神社⇔日田古墳状地形?⇔会所山⇔小迫辻原遺跡⇔鎌田原遺跡⇔伊川古墳状地形ラインと交差します。

そのライン上の元宮神社では五馬姫が、同じく会所山上のラインが通過する地点にある久津姫神社では久津姫が祀られており、ともに豊後国風土記に記されている女性です。

あと、吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔長田大塚古墳ラインと祇園山古墳⇔平塚川添遺跡ラインの交点には、河川で囲まれた前方後円墳状の地形(図3:後円部150m前後)があり、その西傍に赤司八幡宮がありますが、元は止誉比咩社であり、以前こちらでも予想したように、この止誉比咩社が女王・台与(トヨ)の墓所等であるならば、その前代の卑弥呼の墓も、ラインで接続する祇園山古墳か長田大塚古墳となる可能性があるでしょう。

なお、この赤司八幡には、日の三女神降臨伝承があり 、あるいは三代の女王等を象徴していたのかもしれません・・。

その他、先日お知らせした合田の古墳状地形についてですが、図2のように、前方後円墳状地形の推定位置を少し変更しました。この合田古墳状地形⇔平塚川添遺跡⇔祇園山古墳へのラインも平塚川添遺跡の中央集落・大型建物南部を通過する点で、他の伊川の古墳状地形⇔平塚川添遺跡ラインや小郡井上古墳状地形⇔平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳⇔杷木神籠石⇔小原辻原遺跡⇔白岩遺跡ラインが、同じく平塚川添遺跡の中央集落・大型建物南部を通過することとで共通します。

そういう意味で、この中央集落・大型建物南部を発掘すれば何か出てくる可能性があるでしょう。

今回の方位ラインの年代的は、以前お知らせした弥生時代前・中期と予想した志賀島北部や支石墓・神籠石等を結んだ九州の方位ライン群が平塚川添遺跡の北西部を通過していた時代(つまり平塚川添遺跡の設置前)よりも、新しい時代の構築で、弥生時代後半から末期にかけてのラインと考えうるでしょう。

その後、それらの拠点に白岩遺跡等の高地性集落などが関わってきて、これが前方後円墳の原型となっていたはずです。

さらにその前後で、纒向型前方後円墳に関する方位ラインが見えてきて、さらにその後、箸墓や中山茶臼山といった前方後円墳を結ぶ方位ラインへとつながっていくのではないでしょうか。






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