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歴史掲示板
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平塚川添遺跡方位ライン
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先日お知らせした九州の古墳状地形を結ぶ方位ラインの件で、特に平塚川添遺跡上で交差する3本の方位ラインの存在を明らかにしましたが、その続きで、以前お知らせした図1の方位ラインのうち、平塚川添遺跡上を通過する図2のラインについて再考しています。
ここで平塚川添遺跡(弥生時代中・後期の遺跡)⇔長田大塚古墳(卑弥呼の墓説あり)⇔杷木神籠石⇔小迫辻原遺跡(弥生時代後期の遺跡)⇔白岩遺跡(弥生時代末期の高地性集落)へと延びる西15度偏角のラインがあるのですが、各遺跡上を通過するラインを一覧にしたのが図3となります。
まず東端の白岩遺跡については、図のように左右不均等な撥状に開いた前方をもつ前方後円墳状地形があり、その周囲には狼煙台の跡があることから、この高地性集落の狼煙台が平野部へと移行したものが前方後円墳の原型であることをこちらでもしばしば指摘してきたとおりです。その後円部の中心点にライン起点を考えます。
次にその西隣の小迫辻原遺跡についてですが、図に重ねた遺跡地図ように高速道路北側の特に3世紀末-4世紀初頭の土器が出土した第3号居館跡あたりをラインが通過していることがわかります。このラインの年代を決定する上で重要です。
続いて、その西隣の杷木神籠石についてですが、図のように高速通西側の神籠石(赤ライン)の内側に位置する山頂部の台形の平坦な地点をラインが通過しています。
そして、その西隣の長田大塚古墳については、図のようにこのライン上に載ることから見て、この円墳が小迫辻原遺跡等と同年代の可能性を示すものでしょう。
最後に平塚川添遺跡へと至りますが、図のように遺跡西南端にある水の祭祀場(調整池)あたりを起点とし、その中央集落の大型建物跡南側あたりをラインを通過しており、先日お知らせした古墳状地形を結ぶラインが通過していた、その西北の前方後円墳状地形(西広場)の後円部よりやや南側となるのですが、伊川の古墳状地形から延びる北からのライン上にはこの水の祭祀場が載ることからみて、重要位置にあります。
この水の祭祀場が後円部のように円形をしているのも、測量拠点としての意味があったのかもしれません。
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