したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

自覚スレ

1名無しさん:2015/02/17(火) 19:05:39
自覚ワークや内観をしていて気がついた自分の観念について書いてみませんか?

2名無しさん:2015/02/17(火) 19:06:39
私は矛盾することはダメなことだと思い込んでいました

3慧空:2015/02/17(火) 19:50:43
いいですね(^^)
私もひとつ、だいぶ以前のものですが、
「無能なやつはダメだ」という思い込みがありました。
この思い込みにより、私は自分自身や他の人を長い間傷つけていました。

4名無しさん:2015/02/17(火) 20:48:38
携帯をもってなきゃいけないとかメールは返信しなきゃいけないとか
プレゼントをされたら返さなきゃいけないとか日本語を喋らないといけないとか
いろんな事を覚えておかなくてはならんとか
なんでか毎日パソコン開いて情報を得なくてはと思っているの
いけないいけないのオンパレードでした

5名無しさん:2015/02/17(火) 21:28:41
一人の人を愛し続ける事を良い事だと思い込んでました
スピ系に興味持った時も、なにやら私達には根源があるという情報を得て
その根源を探しにいってた。

テレビドラマや広告、親、友達、宗教からいつのまにか刷り込まれてる感じ。
でもそれを持つ選択をしたのは自分なのねって思った。

6dogs:2015/02/17(火) 23:25:04
こんばんわ。
私も1人を思い続ける事が正しいことで、それが出来ない自分を無いことにしていたって、最近気付き楽になったなー
これって、真実は一つ。的な思い込みの亜流だなぁ。

自他に対して、フラットに見ることが出来つつある気がします。
ヘイトも嫌悪感がありましたが、そうしたい人がいる事実をつけ止められる。
残念だけど、って思えます。ヘイトがいい悪いって事ではなく、他者の嫌悪感に呑み込まれずに済んでいるのかな。

7めがね:2015/02/18(水) 14:07:49
今、酒を飲んで寝ながら空を見ています。
見える範囲は1メートルx50センチ程度の窓の隙間です。
青い空に少しの雲、
気持ちの良い気分で音楽を聞き流し今を楽しみます。
一時すると雲が一面ずっと続きます、音楽を聞いていても気分は高揚しません。
この気持ち青空の割合もしくは白く明るいと気分は良く暗く深い闇ではゆうつな気分になりと2元の迷いに気づきます(o^^o)

8名無しさん:2015/02/18(水) 22:08:14
死んだら楽になる。
プライドを持ってないとダメだ。

9dogs:2015/02/19(木) 00:40:56
神やおおいなるものを敬っていましたし、その心はまだあります。
ですが、神を殺したい。っていう心にも気がつきました。衝動に近い感情かもしれません。

10名無しさん:2015/02/21(土) 18:26:01
ものすごい普通なんだけど
息止めたらしんどい…動いてないとしんどい…

11名無しさん:2015/02/21(土) 22:13:23
浅田:フランスのトマ・ピケティの『21世紀の資本(論)』が世界的ベストセラーになったのも不思議じゃない。ただ、原書が出たとき読んで、このタイトルはまったくの誇大広告だとわかった。

マルクスが『資本(論)』で資本主義のメカニズムを原理論的に解き明かし、資本主義を乗り越える方向を示したのに対し、ピケティの『21世紀の資本(論)』は、資本主義下で(戦争の時期を除き)格差が拡大する傾向にあることを統計から現象論的に実証し、税制によるその是正を提案するだけ。

その程度の本を『資本(論)』と題してベストセラーにするなんて、ウエルベックなみのあざといメディア戦略だよ(苦笑)。

浅田:日本でも遅まきながら邦訳が出て、ピケティが宣伝のため2月に来日するらしい。対談しないかって言われたけど、とくに興味ないな。

田中:監訳が山形浩生ですから。

浅田:あんな本だから英訳からの重訳でもいいと思うけど、本来、みすず書房はそういう本を出す出版社じゃなかったよね。

12名無しさん:2015/02/22(日) 00:11:01
平等である事は良いことだと思い込んでた
平等であるべき!くらい脅迫的に
うける

13名無しさん:2015/02/27(金) 01:37:29
解決しないといけない

14名無しさん:2015/02/27(金) 08:22:30
エネルギーも対象であり幻想
エネルギーは私ではない

15名無しさん:2015/02/27(金) 08:23:01
意識も対象であり幻想
意識は私ではない

16:2015/03/04(水) 22:13:01
 ハートの核は、失恋で痛むところですか?

17慧空:2015/03/04(水) 22:24:03
>ハートの核は、失恋で痛むところですか?

はい、そうです。
同じところです。

18無学:2015/03/07(土) 11:26:04
自覚は空腹だとより集中しますが、食べ物で何か気をつけましたか?

19慧空:2015/03/07(土) 18:58:11
無学さん
私の場合は、食べ物は何も気にすることなく、好きな物を好きなだけ食べました。
これはいまでもそうです。

ただ、2013年の秋くらいからアルコールを飲む気がしなくなっていき、2
014年に入ったころからは、殆どアルコールを飲まなくなりました。
以前は結構好きだったのですが。
あと、それと時期を同じくして、肉類に対する食欲が段々と低下してきました。
いまでも食べることは食べてますが、量はかなり減っています。
肉についても、以前は結構好きだったのです。

あと余談ですが、断食は悟りに限らずいろんな観点で面白そうだと思っています。
やろうやろうと思って、まだ一度もやったことがないのですが(笑)。

それと、最後に強調したい点は、食事に対する囚われも邪魔になりますので、
注意が必要だと思います。
よく、深い悟りに到達した人は、アルコールを飲まないとか、肉類を食べないとか、
一日一食になるとか、いろいろ不確かな話が流れています。
それらは、すべて出鱈目です。
深い悟りに到達した人でも、アルコールや肉食を続ける人はいるんじゃないかと思いまし、
元気に何でももりもりと食べる人もいるのだろうと思います。
食べ物は、自然な欲求に任せるのがいいと思いますよ。

20小雪:2015/03/09(月) 10:48:11
慧空さんに自覚の質問です。

自覚を取り組み出して比較的大きな恐怖があり自覚しました、数分で掴めなくなったのですが、その後後頭部の上から観ている意識?思考が流れだけのような、感覚だけ在るような状態が30分位続きました。憤慨視点になるのは避けたほうがいいのですか?
無理矢理他の事に意識を持っていき現実に戻ったほうがいいのでしょうか?

21慧空:2015/03/09(月) 11:35:43
小雪さん
小雪さんは相当強い集中力を持っておられるようですね。
しかも、とても上手に自覚をやっておられるのだと思います。
本当に目が覚めている間はずっとやっておられるのでしょうね。
そのうち、寝ている間もやり続けるようになられるかもしれません(最終的には本当にそうなっていきます、笑)。

小雪さんが捉えたそのただ見ている視点は、観照意識です。
観照意識は、自我の意識の根底にあって、思考が少なくなると表面に出てくるのです。
ですから、私に対して高い集中のもと、自覚をされると、自ずと観照意識に移行するのです。

観照意識になっても自覚はできますので、そのまま続けて頂きたいと思います。
つまり、何か目の前で現象が起こったら、「それを私が見ているのだな」と自覚してください。
また、観照意識のまま、うっすらと感覚(知覚)や思考が起こることがあると思います。
そうしたら、その感覚や思考もそれがいま私に起こってきているぞと自覚してください。
この意識状態で自覚を進めることができれば、どんどん自覚が進みます。
根強い固定観念もどんどん剥がれ落ちていきます。

ですが、一点注意させてください。
観照意識に囚われないようにしてください。
自然と観照意識になるのはいいですが、意図的に観照意識に移行しようとはしなくてもいいです。
浅い悟り階層での観照意識の状態は、それ自体が囚われになることがあるのです。

22小雪:2015/03/09(月) 12:16:59
詳しく教えくださり有難いです。

眠る時にも自覚してるのですが、その時起きる意識変化もそれだったんですね…夢に入る瞬間も意識が残ってる感じがありました。

固定観念はカルマですか?カルマの定義が人によって全然違うので、疑問なんです。
自覚を忘れて生活してると今の状態から後退する事はあるのでしょうか?

観念意識に囚われる事ないように、自覚していきます。
言われた通り最強のツールですね。
また、わからないことがあれば 相談させていただきますm(_ _)m

23慧空:2015/03/09(月) 12:57:01
小雪さん

>固定観念はカルマですか?カルマの定義が人によって全然違うので、疑問なんです。

このあたりの捉え方や定義は人それぞれだろうと思います。
実は私(慧空)自身、ハッキリと定義できている訳ではありません。
私の場合、固定観念とカルマとの間に明確な区別はないんです。
強いて言えば、前世(本当に前世とやらがあるのかどうか分かりませんが、笑)から引き継いた囚われをカルマと言って、
今世で握り締めた考え(囚われ)を固定観念と言っています。

>自覚を忘れて生活してると今の状態から後退する事はあるのでしょうか?

どうなんでしょうね。
私は自覚を最後まで続けたので、分かりません。
周りでもまだ、自覚をやめてしまった人がその後どうなったかは実際に会った見たことがないので。

24小雪:2015/03/09(月) 18:58:06
ありがとございます。

私の知りたい知りたいが抑えられないのです。
囚われの手放しの記事も凄く参考になりました。

起こってくる事に振り回されてしまう事がまだまだあるので、しっかり自覚していきたいと思います。

25しののめ:2015/03/17(火) 05:53:53
おはようございます。 初めまして・・・・

>>19に断食と書かれてあったので、参考までに貼っておきます。
興味のある方はどうぞ・・・


・断食・医師 甲田光雄1/6 ラジオ深夜便
ttp ://www.youtube.com/watch?v=A5Cn_Foh2UE&list=PL7EEB77D8E3C6F629

絶食療法の科学 Science of Fasting   ttp ://www.youtube.com/watch?v=oA-eI2WQLRU

理想的な断食法の理論と実際(2)   ttp ://www.t-shinpo.com/749/749_4.html

理想的な断食法の理論と実際(3)     ttp ://www.t-shinpo.com/752/752_8.html

断食療法 ttp ://www.nishikai.net/japan/ryouhou/danjiki.html
  このサイトには、3〜8日間断食の回復食が表になってる。


断食のすすめ1〜6   ttp ://www.daitouryu.com/iyashi/frame/f-danjiki.html

7日断食後の食事
ttp ://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1112986561

3回目の30日断食後、後藤氏は何を食べていたか?
ttp ://antihogosettoku.blog111.fc2.com/blog-entry-256.html


ダイエットの基本 > 停滞期対策 ttp ://www.august-diet.com/knowledge.html

26慧空:2015/03/17(火) 07:26:03
しののめさん
断食の情報、ありがとうございます。

27:2018/01/09(火) 20:42:06
内観や自覚を通して自分なりに気付くことや成長がありました。

最近は自覚している事そのものにまつわる事柄に意識が向くようになりました。
自覚する事を通して、自覚できている実感が欲しいという想いがあったり、自覚ができればある程度は思考をコントロールできるだろう、という期待感を自分は抱いていたようです。

そもそも、自覚を意識して行わなくても、五感で物事を認識しているし、思考や感情にも常に気付いている事にも気付きました。

28名無しさん:2018/01/10(水) 08:27:57
箱さんへ
書き込み、ありがとうございます。

>自覚を意識して行わなくても、五感で物事を認識しているし、思考や感情にも常に気付いている事にも気付きました。

箱さんは既に、内観や自覚がオートマチックのように意識しなくとも常にできるようになっておられるのだと思います。
箱さんは、そのスッキリされた意識でこれからどうなさるおつもでしょう。

29慧空:2018/01/10(水) 08:28:42
上の28番の書き込みは、私でした。

30:2018/01/10(水) 22:48:58
>>28

返信ありがとうございます。

悟りたいと思っています。自分なりに腑に落ちて、納得したいという想いがあります。
それと、執着している物事(趣味のこと)についても納得いくまで追求していこうと思います。
ただ、あれこれ考えつつ根底には、楽になりたいという想いが強くあるように思います。

31慧空:2018/01/11(木) 08:03:40
箱さん
お返事ありがとうございます。

>あれこれ考えつつ根底には、楽になりたいという想いが強くあるように思います

ご自分の内面をよく観られていると思います。
何かに縋ったり、信じたりしなければ、自ずと進んでいかれるのだろうと思います。

32:2018/03/11(日) 00:14:02
慧空さん

縋れるものはないし、信じられるものは何もないという知的な理解はしたのですが、
とはいっても何かないか、と探し回る衝動は延々と起きています。
また、そういう時は同時に「縋れるものはないし、信じられるものなどないのだよ」と言い聞かせて
自身の思考を抑えようとする思考の働きも起きている事を認識しています。

自覚をしているだけと思いつつ、実は自分の考えを監視して、
コントロールしようとする微妙な衝動が常に存在しています。

33慧空:2018/03/11(日) 17:13:06
箱さん

>自身の思考を抑えようとする思考の働きも起きている事を認識しています。
>自覚をしているだけと思いつつ、実は自分の考えを監視して、
 コントロールしようとする微妙な衝動が常に存在しています。

読んでいて思わず、素晴らしい、と言ってしまいました。(*^_^*)
その通りなんです。

>微妙な衝動が常に存在しています

箱さんはその衝動をどうされるおつもりでしょうか。
それを止めようとしてもなかなか止まるものではありませんが、
どうしてそのような衝動が絶えず起こってしまうのでしょう。
観察、追求して頂きたいと思います。

34:2018/03/11(日) 20:03:52
慧空さん


コメントいただいてから少し考えてみました。

(自覚をしているにも関わらず)自身に浮かぶ考えや感情を見たくないというのがあり、
見たくないものを「自覚」という考え?(というよりは言い訳?)でねじふせる形になっているのかなと思います。
ある意味、お酒で気を紛らわそうとするのと同じ事をしてしまっているような気もします。

35慧空:2018/03/11(日) 21:18:05
箱さんへ

>見たくないものを「自覚」という考え?(というよりは言い訳?)でねじふせる形になっているのかなと思います。
ある意味、お酒で気を紛らわそうとするのと同じ事をしてしまっているような気もします。

確かに、自覚にはそのような側面があります。
どういうことかと言いますと、自覚、もっと言えば、「私」という考え、あるいは「私」という考えへの集中(これも考え)は、
とても深く強力な力を持っています。
そのような意識の使い方をするとき、他の考え(感情や思考等)はねじ伏せられるように大きく抑制されてしまいます。
それにより、私の中心で考え(感情や思考等)が起こる現場が観察しやすくなり、気づきやすくなります。

36:2018/03/11(日) 23:46:12
慧空さん

ありがとうございます。
もっと「私」という考えに集中して自覚を続けてみようと思います。
また気づいた事があったらこちらに書いてみようと思います。

37:2018/03/12(月) 20:28:49
自覚している事と関係あるのかよく分からないのですが、最近就寝中に見た夢を覚えていることが多いです。
また、夢で体験した事をあとから思い起こしてみると、現実で体験した過去の記憶と夢の中での体験の記憶との間に違いを見出せませんでした。
一応は、これは夢で体験した事の記憶、あれは現実で体験した事の記憶、と区別はしているのですが、過去の記憶という意味では同じ質感に感じられるのですよね。記憶というのは思いのほか曖昧なものなのかもしれません。

そこまで思い至って、「それなら夢の中でも無茶はせず普段通りに振る舞おう」などと反射的に考えてしまいました(^^;

38慧空:2018/03/13(火) 08:09:55
箱さんへ

>一応は、これは夢で体験した事の記憶、あれは現実で体験した事の記憶、と区別はしているのですが、過去の記憶という意味では同じ質感に感じられるのですよね

そうですね。

39:2018/03/15(木) 20:19:03
慧空さん

夢については、こちらにコメントして満足してしまった?のかそれっきり夢に見た内容を記録しようとする衝動がなくなってしまいました。ただ、自覚を続ける手掛かりにはなったような気はします。

ここ数日は「死にたい」という想いが湧き、何をするにも億劫だったのですが、その思考や億劫な気分になる理由や原因を無意識に探している自分を見ていました。

更にもう一段、そう言った思考や感情が現れる前のモヤモヤも見ていました。モヤモヤをそのまま放っておけずに、私はそれに思考や感情を貼り付けていました。
モヤモヤをどうにかしようとする意識と放っておこうとする正反対の衝動がある事を見ました。

また、更にこのように自覚して見えた事に対して、勘違いではないかと否定する意識も現れている事を見ました。

40慧空:2018/03/15(木) 20:38:06
箱さん

>そう言った思考や感情が現れる前のモヤモヤも見ていました

そのモヤモヤを焼き払うような激しさで、私に意識を集中してみてください。

41:2018/03/15(木) 21:58:28
慧空さん

ありがとうございます。
あれこれ言い訳せずやってみます。

42:2018/03/18(日) 13:08:59
慧空さん

全ての行動や考えがモヤモヤを覆い隠す形で現れるているようです。

これこれこう言ったことが起きたから自分は苦しい、幸せ、というのもこじつけでモヤモヤに合わせて、思考や感情を作ってモヤモヤに被せているようです。

引き続き自覚を続けます。

43慧空:2018/03/18(日) 15:33:58
箱さん

>全ての行動や考えがモヤモヤを覆い隠す形で現れるているようです。

全てと言う切れるかどうかはありますが、確かにそのようなところはあると思います。
さて、そのモヤモヤは何でしょうね。

44:2018/04/01(日) 01:13:04
慧空さん

ほんとうになんなのでしょうね。モヤモヤは不安定でゆらゆらしている感覚はありますが、
それが何なのか現状はわかりません。ただ、モヤモヤをとても鬱陶しく感じていて、それを無視したいと自分は思っているようです。
だからなのか、モヤモヤから気をそらしてくれるような嫌な事が起きると喜んでいる節が私にはあるようです。

ところで、ブログの更新コメントはしていませんが、とてもありがたく思っています。

45慧空:2018/04/01(日) 19:29:22
箱さん

>それを無視したいと自分は思っているようです

そうですか。
それじゃあ、しょうがないですねぇ。
モヤモヤが気になって気になって仕方がなくなるまで、待つしかないのかなぁ。(^^)

私のブログ記事を読んで頂いて、ありがとうございます。

46:2018/04/12(木) 23:34:38
慧空さん

いやいや、気になってしかたがないですよ。
思考であれこれ考えや感情は起こしてはいますが、
思考が静まってくれば勝手にモヤモヤに意識が向いてしまいますし。

ところで、少し前にモヤモヤに性質があるかのような感覚で書き込みをしましたが、
特にそういうのはないのだと気付きました。
性質があるというのもただの考えでした。

47:2018/05/13(日) 12:08:53
モヤモヤの自覚を続けています。
あれこれ考えは浮かんできますが、それは放っておいて感じたことを書きます。

モヤモヤを見ている時、意識がそわそわします。モヤモヤそのものはジタバタしているような感触があります。今の認識を言葉にすると、動き出そうとする衝動と言うのが近い表現になると思います。

また自分なりに気づく事があれば書いてみます。

48慧空:2018/05/13(日) 19:25:46
箱さんへ
モヤモヤを観るのもいいのですが、ぜひ普通の自覚もやっていただきたいと思います。
普通の自覚が基本ですから。

49:2018/05/13(日) 22:31:03
慧空さん

ご指摘ありがとうございます。モヤモヤの方に意識が向き過ぎていました。基本の自覚も忘れずに取り組みます。

50:2018/08/19(日) 00:58:04
ブログ記事のコメントにちらっと書きましたが、最近は日常生活の些細な事を大切にしたい、というような想いがある事を自覚しています。
例えば、夜散歩している時に虫の鳴き声が聞こえてきて、そよ風が吹いて・・・という瞬間に、その事に意識を向けずにあれこれ関係ない事に考えを巡らしていて、
目や耳では見聞きしている筈なのに、実際には頭の中の考えや妄想にしか意識が向いていない事が多いのです。

最近、歩いている時に、自分が目の前をちゃんと見ているか気が向いた時に確認する事があるのですが、実際に確認してみると妄想や考えごとの方に意識が完全に向かっていて、目の前に見える事や聞こえる音を認識の外に置いているような感触があります。
自分は歩きながらスマホは操作していませんが、実際妄想や考えに意識が完全に向かっている状態は、歩きながらスマホをいじっているのと大差ないほど注意散漫だなぁとも思います(笑)。
急いでいたり焦って行動している時はその傾向が顕著に現れているように思います。

そういった注意散漫な状態で、何かトラブルがあると、すぐにあれこれ言い訳し(あるいは他者や自己の批判などを行って感情的になる)、目の前の出来事から気をそらしている事への後ろめたさ?のような物をごまかしていたように感じており、
今までの自身の行動にも違和感を感じるようになりました。

ちなみに、何かしたいという強い願望を抱く根底に、願望や目標を持っていたいという欲がある事もなんとなく感じるようになりました。

51名無しさん:2018/08/20(月) 09:32:12
箱さんへ
書き込みありがとうございます。

52慧空:2018/08/20(月) 09:32:44
上の名無しは私です。

53:2018/09/17(月) 00:34:38
目標や目的、意味や理由がなければいけない、という考えを最近自覚しました。
そういった考えは主に、他者との関わりの中で沸き起こるようです。

54つよし:2018/09/17(月) 23:31:12
慧空さん、皆さん、ご無沙汰しております。

スローペースですが、「観るものは観られるもの」の意味がやっと腑に落ちました笑
このキーワードには以前からかなり執着していましたが、やっとスッキリです。
最近人生が苦しいためか、自覚に拍車がかかっていたのが功を奏したようです。

何年か前に「考えの連鎖」を自覚しましたが、まだその時は中途半端な気づきだったようで、今ならわかります。

「考え」とは、本当に考えだった笑
思考(認識)だけがある。
「観るもの」は真我や本当の自分などではなく、それも考えであり「観られるもの」。

今なら2014年あたりの慧空さんのブログ記事が難なく読めます。
ついでにクリシュナムルティの講話もスラスラ入ります笑
確かに、観るものも観られるもの(考え)であることがわかると解放が起きますね。

しかし、まだスッキリしないところが多くあります。
まだまだ私は苦しみもがいているので自覚はこれからも続くと思います。

55慧空:2018/09/18(火) 09:10:01
つよしさん
お久しぶりです。

>「考え」とは、本当に考えだった笑
>思考(認識)だけがある。
>「観るもの」は真我や本当の自分などではなく、それも考えであり「観られるもの」。

どうやら、理解されたようですね。
よかったです。
ここまでの道のり、大抵ではなかったのでしょうね。
しかし、まだ先があります。
ここからは、「苦」だけが頼りです。
苦から逃げず、苦を頼りに歩んで頂きたいと思います。

56慧空:2018/09/18(火) 09:12:05
「苦を頼りに」は、表現がいまいちですね。
「苦を手掛かりに」に訂正しますね。(^^)

57つよし:2018/09/18(火) 16:22:05
>>56
慧空さん、ありがとうございます。
これより先はどうも手がかりというか、何をどのように自覚するのか、どう苦と向き合うのか、指針がはっきりしないと言うか、、、。
一時期は非常に人生が楽しく楽でしたが、今は悟りを追求すればするほど、苦しみが増しているような気がします。
はっきりしないながらも、苦と向き合わなければいけないのかなと感じています。

58:2018/09/27(木) 07:07:43
武と申します。

初めまして。

このブログ興味深く読ませていただいている最中です。

慧空さんは凄い水準の方ですね。

私がこの表現を使う方はそういません。

私などは慧空さんの足元にも及びません。

私はサマタ瞑想の方はからっきしダメなのですが、その分だけ観の方は自分で
もかなりの熟達者だと思っています。

先日マインドフルネスの講習会に出てきました。

巷でどのような事を教えているのか覗きに行っただけなのですが、
慧空さんのような指導できるだけのメンタル水準にも全く至っていない方が
教えている現状でした。

私は教える立場の者ではありませんが、
この辺は慧空さんはどのように思われますか。

私は、あのような事をやっていたら、
あの指導している方自身の観の成就も遅らせてしまう事になるだろうと
思いました。

59慧空:2018/09/27(木) 20:16:02
武さん
書き込みありがとうございます。

>この辺は慧空さんはどのように思われますか。

巷で行われているマインドフルネス等の瞑想のことは、どのようなものかよく知りませんし、
また興味もありません。
ですから、どうも思いません。

60:2018/09/28(金) 20:49:57
お返事どうも有り難うございます。

お蔭で慧空さんが少し見えたように思います。
(見ると言う表現は私のメンタルではその機能がありません、
自己紹介まで)

>巷で行われているマインドフルネス等の瞑想のことは、
>どのようなものかよく知りませんし、

簡単に説明すれば、私が参加したものは私の眼には単なる
リラクセーションの効果しか無いしろものでした。

理由は簡単です。

まず指導者自身が、精度の劣った自己洞察力でした。

ただし、やろうとしている事は内面の動きを捕まえようとしている
というものなのです。

あの場で指導者を含めそれが出来ている人は居ませんでした。

もっとも、あの場でそれを完ぺきに行えたなら、
私以外のあの場の全ての人は対話を初めとする行為がほとんど
停止してしまう事になります。

あの手のものは、プラセボ効果しか無いと思いました。

私自身は実は自己洞察系の訓練は特殊なメンタルにつき通常は
出来ないのですが、その場ではしているフリだけしていました。

ただし、私も自己洞察系行為が、状況に応じて一時的にできる事は
あります。

出来ると言うよりは、その場の状況で一時的に短い間発生して
又自動で収束すると表現した方が正しいと思います。

私は今まで色々な人を見てきた中で、多くの人は自己洞察系の訓練は、
不必要だと思っています。

私自身が生きている誰かに指導を受けて学んだわけではありませんが、
それをやらなくて正解だと思っています。

慧空さんのブログを拝見していましたが、囚われはよく無いから手放し
てと言うような内容に読み取れるものがありました。

もちろん、ある段階の人に向けたメッセージだとは思いますが。

言い換えれば囚われを手放す囚われに囚われろと言う事だと思います。

確かに正論ですが、色々な人を見る中で、
これが本当にまともにできる人が居るのかと思ったわけです。

私は囚われを手放すのでは無く、自己洞察はしなくて良いので、
まずは多くの人は、特定の囚われを尊重する方向性で
思いっきり生きる事に価値があると思います。

段階を踏まなければ、いきなり自己洞察系の訓練にかかっても無理
だろうと思っています。

私自身はどちらかと言えばメンタルを殺す方向で歩んだ者ですが、
慧空さんもおっしゃっていられる涅槃を経験してしまっている、
私もその一人ですが、
その場合は私のようになる人は多いのではないかと思います。

死んだ後にあれをやったら消えてしまうのかな。

肉体が無ければ戻りようがありません。

慧空さん自身は、慧空さんが指導や助言をして、
どなたか一人でも良いので、
悟りに近いメンタル水準まで辿り着かせた経験は
おありでしょうか。

61慧空:2018/09/28(金) 21:58:38
武さん、お返事ありがとうございます。

>私は囚われを手放すのでは無く、自己洞察はしなくて良いので、
>まずは多くの人は、特定の囚われを尊重する方向性で
>思いっきり生きる事に価値があると思います。
> 段階を踏まなければ、いきなり自己洞察系の訓練にかかっても無理
だろうと思っています。

私も、その通りだと思いますよ。

>慧空さん自身は、慧空さんが指導や助言をして、
>どなたか一人でも良いので、
>悟りに近いメンタル水準まで辿り着かせた経験は
>おありでしょうか。

悟りに近いメンタル水準と仰る意味が分かり兼ねますが、
一人もいないと言うのが正解なのでしょうね。
もう少し正確に言いますと、私とやり取りをする前に、明け渡しか、それに類似する何らかの悟り体験を既にしておられる方については、
やり取りをするうちに、悟りの行程をある程度進まれた方はおられます。
しかし、何の悟り体験もなく、また悟りの行程に入られてない方については、
私とやり取りをしている過程で、その方が何らかの悟り体験をするという例は、まだ無いです。何らかの悟り体験をされた例は未だ無いです。

62:2018/09/30(日) 09:47:12
慧空さん、私の眼でこの方は凄いと判断できた方と、
お話ししてみたいと思っていました。

科学の分野なら、学会でそこそこの人たちが集まり、
さらに発展する方向の動きが出てきますが、
ことメンタルの分野では私がこの方は凄いと思う水準の方自身が
極希少です。

慧空さんはサマタ瞑想について、相当の熟達者の方と見ました。

私はサマタ瞑想についてはそれほどでも無い分、
観(自己洞察)の方にウエイトがかかって今現在に至っていますので、
実はプロセス的に慧空さんと相異する所もあり、今の慧空さんの
分類する所の私がどのあたりに相当するのかは別にして、
共通部分があるように見出しています。

それを前提として、私は観(自己洞察)については、
やり始めて1年少しで今現在の所、
すなわちメンタルの構造が変わってしまった事により、
常時の訓練が消滅してしまう状態に至っています。

観(自己洞察)の訓練の方が消滅してしまいますので、これを持って、
成就と表現するしかないのですが、
私はこれを悟りと表現したりもしていましたが、
不要な議論をさけたいので、その表現を使わないでお話をしています。

しかし、それは短期間ですがかなり過酷なものでした。

命を落しても不思議ではないと表現出来ます。

実は今まで、お一人だけ懇願されて私がその方を指導したことが
あります。

結果として、その方と出会って数カ月後に、
その方も私と同じところまで至れたましたが、
その方からも命懸けでしたとの表現が出て来ます。

私の手順では、どうしても煮詰まった状態(切羽詰まった状態)からくる
動機が無い方には教える事が不可能です。

しかも、私の眼で相手の微細なマインドの動きを見抜いて
さらに窮地に追い込んでいくので、
大量生産の様な事も無理だと思います。

とは言っても、その方はこまめなメールの指導だけで
それを達成したのですが。

ちなみに、その方は座禅みたいなことはしたことがない人でしたし、
私が編成した、観(自己洞察系)の内容しか教えませんでしたが、
私と同じところまで達成できました。

自己洞察の正体は内面を殺す方法ですから、自己洞察をやる前に、
人間としての生き方、生き甲斐のようなものをもっと育んで
楽しんで生きる意義を感じて、
その方向で精一杯生きた人にしか教えられないものだと思っています。

ただ、私が言う観(自己洞察)の成就と言うのは、
心臓のあたりから私と言う感覚が発せられていて、
それをポイと外して自他の境界線ごと消滅させると言う、
私の経験値での表現ですが、それとは別のものです。

観の成就の方は意識がどこかに焦点を合わせようとする、
その機能が変化して無くなってしまって自他識別が無くなってしてしまう
ようなものですが、後者の方は自他の境界線そのものをポイと外して
なくなってしまうという、
私の経験値から表現するとそのような違いがあります。

ただ、私が言う観(自己洞察)の成就をしてしまうと、
メンタル構造の変化から「意志」の機能が消滅してしまいますので、
ただやっているだけ、ただ言っているだけ、
このような状況になってしまい、もう後戻りもできないわけです。

実は意志(エゴ)の機能が無くなってしまいましたので、
「ポイ」ができなくなってしまいました。

意志の無い行為、ただやっいているだけ、
これを唯(ただ)やっているだけの行為、
唯作とか唯作心と表現するようです。

http://arana-vihara.blogspot.com/2009/07/

(続きます)

63:2018/09/30(日) 09:48:09
(続きです)

慧空さんは、最初から特化したサマタ瞑想系の才能がおありの
方のように見受けましたが、その分だけ観(自己洞察系)のウエイトは
少なくて済んだのではと私は思っています。

ですので、慧空さんの本質はサマタ瞑想の得意な方向けなのかも
しれません。

その分私の方が、観(自己盗洞察系)の訓練には特化したものを
持っている可能性があるのかもしれません。

サマタ瞑想無しの、観の訓練だけで観の成就は
乾観者と言いようですが、
一人だけでも観の訓練の終点まで手ほど出来たので良かったと
思っています。

http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-61.html

その方自身もとても有難がっていましたが。

この状態になってしまうと、
唯(ただ)言っているだけの心を込めた表現は出来なくなってしまいます
が、有難かったという事です。

しかし、観(自己盗洞察系)の訓練を成就して唯作になると、
振る舞い方は本当に普通の人なので、
誰からも特殊な人と見抜かれるような事はありません。

死に物狂いの事をした結果、最終的に普通の人になるわけですから、
当の本人が一番唖然としてしまうような結果です。

やる前とやった後では、確かに何かが違うのですが、
私は命懸けで何をやってきたのだろうと、
のど元過ぎてしまうとそのような感触ですね。

仏教では解脱と言う表現では「慧解脱」と「心解脱」、
両方揃って「俱解脱」と表現してますが、
慧解脱を悟りと表現しています。

心解脱のみは、不還、有学、時解脱で、
慧解脱と俱解脱が阿羅漢、無学、不時解脱、悟りの分類に
なっているようです。

私の経験則の枠の中で重要として捉えているポイントしては、
観の成就、涅槃、心臓の感覚をポイの3点です。

観の成就は当然慧解脱ですが、
涅槃か心臓の感覚をポイのどちらかが、恐らく心解脱です。

慧空さんに特化したものは、サマタ系能力だと思います。

私の場合はサマタ系ではなく自己洞察能力の方が特化していました。

慧空さんとのプロセスの違いはここから来ているように思います。

>五下分結経(マハーマールンキャー・スッタ)
>
>「尊師よ、もし、これが、出離の道ならば、
> 心が解脱した者と、智慧によって解脱した者。
>その両者の違いとは、如何なるものでしょうか。」
>
> 「アーナンダよ、能力の違いと、私は解く。
> 禅定に優れた者は、心による、解脱を果たし、
> 智慧に優れた者とは、慧による、解脱を果たす。」

私の場合は、たとえ死んでも前進するレベルの「強靭的な意志力」を
手に入れている状態の方であれば、
私がその方の眼の役を務めることで私の所まで
辿り着かせられる確率はかなりあると思いますが、
さすがによほどの懇願でもされない限りは試す気にはなりません。

千載一遇的に、それに合致する方が居られたので、
その方は私の所までたどり着けたと言う事はありました。

ただ、こうやって慧空さんにお話をしているのは、
これ以外の何かがあるのかもしれないし無いのかもしれないし、
見落としがあるのかもしれないし、そう思ってお話をしています。

64慧空:2018/09/30(日) 21:59:13
武さん、お返事ありがとうございます。

武さんが私に関して興味を持っておられる事柄の一つに、
武さんの悟りと私の悟りが同じかという点があるのだろうと思います。
この点についてはっきりとしております。
武さんの悟りと私の悟りは、全く別物です。

>実は意志(エゴ)の機能が無くなってしまいましたので、
>「ポイ」ができなくなってしまいました。
>意志の無い行為、ただやっいているだけ、

上記のように、武さんは意志が無いと言っておられますが、
私には、意志も自我も、薄くはなっているもののしっかりとあります。
間違いありません。

それと、古い経典類の記載についてですが、私は経典類の記載を殆ど信用していません。
釈迦の正確な言葉は殆ど残っていないのだろうと思っています。
例えば、慧解脱、心解脱、具解脱等の概念もとても曖昧かつ不完全であると思っています。

もし私でよろしければ、スカイプでお話しさせて頂きますが、いかがでしょう。
ご希望でしたら、ブログトップの右側に記載のメールアドレスにメールをお送りください。

65:2018/10/01(月) 20:56:46
慧空さん、お返事有難うございます。

誠実そうなお人柄が見えております。

>武さんが私に関して興味を持っておられる事柄の一つに、
> 武さんの悟りと私の悟りが同じかという点があるのだろうと思います。

このような先入観念が持てないのが私の意識状態です。

ただ(唯)言っているだけなのです。

もっとも、そうとられても良いような対話内容になっているのだと思います。

>この点についてはっきりとしております。
> 武さんの悟りと私の悟りは、全く別物です。

実は私もそのように見えておりました。

私が関心を示したのは、どちらかというと慧空さんのサマタ系能力の方でした。

以前に涅槃を体験した方とお話をした事があります。

私にはエゴにまとわりつかれて苦しそうに見えましたが、しかし、
その方はそれを最終的な悟りと捉えておりました。

私は特化した自己洞察能力を持っていたので、
その時解脱で手を打つことができませんでした。

心臓の感覚をポイについては、私にとっては時解脱的でしたので、
そこでも妥協はできませんでした。

涅槃に心臓のポイのこの二つは、エゴの推進力を利用する事で突入しました。

>私の経験則の枠の中で重要として捉えているポイントしては、
> 観の成就、涅槃、心臓の感覚をポイの3点です。

慧空さんとはこの中で、観の成就とする部分に不一致があると思っておりました。

>上記のように、武さんは意志が無いと言っておられますが、
> 私には、意志も自我も、薄くはなっているもののしっかりとあります。
> 間違いありません。

慧空さんには内面がおありですね。

実は私には常時の内面そのものが消滅していてありません。

よって外と内の別が無いので、これを禅の言葉で「内外打成一片」と
呼ばれています。

私の現状は、対象となるものが何もないと表現するより仕方がありません。

ただし、これは心臓の感覚をポイとは別な物です。

私の常時の意識はフラットな状態で、特定なものに、
意識が焦点を合わせません。

(続きます)

66:2018/10/01(月) 20:57:22
(続きです)

状態としては、剣禅一致を説いた沢庵の不動智神妙録に出てくる
「葉一枚に心留めれば木全体は見えなくなる」、
あるいは剣道用語で「遠山の目付」、
これも意識の焦点機能を問題として説かれている内容ですが、
これに近いものが常時の状態です。

http://www.nihonjiten.com/data/39542.html

この私の状態については「意識の焦点機能の消滅」と言う表現で、
EOと言う方が次ページで詳しく説明していられます。

他にもこの方は正確に私の今の状態をここで説明されています。

http://www.mumyouan.com/e/eouch2.html

釈迦が説いたとされる経典では、
「意識の焦点機能の消滅」は「識別作用の消滅」と言う表現で説明されております。

スッタニパータ
>『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起るのである』
>というのが、一つの観察[法]である。
>『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、
>苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。


>それと、古い経典類の記載についてですが、私は経典類の記載を殆ど
>信用していません。
> 釈迦の正確な言葉は殆ど残っていないのだろうと思っています。

釈迦が覚者であるとの固定観念をお持ちのところ恐れ入りますが、
常識的な推論で言えば、釈迦など大昔に死んだ人であり、
今現在誰も現実に会った人などいません。

にもかかわらず、現代の覚者とされる方をも含み釈迦が覚者と認められている
のは、ひとえに釈迦が説いたとされる伝承されてきている経典類の水準が
評価に値するものだったことに他なりません。

そして、その経典類を説いたとされるのが釈迦なら、
釈迦は覚者であると言うのが本質です。

評価に値するのは経典類であって、
誰か他の方が釈迦の名をかたって説いたものであったとしても
それは問題ではありません。

話が横道にそれました。

要するに、どのくじを引いたら何が当たったか、ここが問題なのです。

結果の出ない内容なら、流行のようにすたれていくだけです。

私は慧空さんとは異なり、生きている人を師にはしませんでした。

仏教の原始経典をテキストにしました。

それで、今の結果が出たのです。

もう一人、私に手ほどきされて同じ結果を出した方もいられます。

至った今なら、原始経典の内容は私の状態に至るための方法であることが
理論的にも見えておりますが、私も最初の頃は、
くじ引き同様の感覚で原始経典をテキストとしました。

やり始める時には、誰もが見えない先を進んでいくのですから、
当たりくじを引く人もいれば、外れくじを引く人もいるだろうし、
一等賞が当たる人も2等賞が当たる人もいるのはあたりまえの事です。

とうの釈迦ですら、2人も師を変えて外れくじだった経験の持ち主
なのです。

>もし私でよろしければ、スカイプでお話しさせて頂きますが、いかがでしょう。
>ご希望でしたら、ブログトップの右側に記載のメールアドレスにメールをお送りください。

実は文字に残せるほうが意義ありと感じ掲示板を選択しました。

67慧空:2018/10/01(月) 22:06:54
武さん、お返事ありがとうございます。
これ以上、申し上げることはありません。

68:2018/10/03(水) 00:15:32
慧空さんどうも有り難うございます。

実は釈迦の経典については問題点があります。

この教えだけではほとんどの方は至れません。

そもそも原始経典は釈迦当時の出家至上で説かれた内容です。

釈迦当時の環境でしかも、出家とセットにしないと恐らく効果が出ない
はずのものです。

マインドフルネス(ヴィパッサナ)瞑想を一つ取ってみても、
受け身の訓練、つまり、その本質は積極性の無い訓練です。

釈迦当時の出家と言うのは、まず頭陀行ですね。

https://blog.goo.ne.jp/0000cdw/e/f750d1129a61233cd2eb123b9540decf

墓地や死体捨て場に住むとか、尋常ではないシチュエーションです。

刑務所のお勤めの方が何倍もましですね。

>スッタニパータ
>958 修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、
>山間の洞窟の中におり、
>
>959 または種々の座所のうちにいるのであるが、
>そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。
>──修行者は音のしないところに坐臥していても、
>それらを恐れて震えてはならないのだが。
>
>960 未到の地におもむく人にとっては、
>この世にどれだけの危難があることだろう。
>──修行者は辺鄙なところに坐臥していても、
>それらの危難にうち克たなければならないのだが。
>
>964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、
>五種の恐怖におじけてはならない。
>すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れること
>である。
>
>965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない。
>──たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。
>──また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。
>
>966 病いにかかり、餓えに襲われても、
>また寒冷や酷暑をも耐え忍ぶべきである。かの<家なき人>は、
>たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、
>堅固に努力をなすべきである。

このようなシチュエーションを用意して、
マインドフルネスのような受け身の訓練が効果を出す仕組みです。

少し考えてみて下さい、
夜中に灯りも無しに熊の出そうな山の中奥深くに独りで分け入って、
観の訓練をするとどんなものでしょうか。

実は、私の場合は、
原始仏典の他に新約聖書の4つの福音書をテキストにしていました。

そのおかげで釈迦の教えのマイナス点が補完出来ておりました。

見る眼が備わっていない一般の方には、
新約聖書の福音書は釈迦の原始経典とは違うものに見えると思いますが、
本質は同じ理論の元に構成されている同じ結果が出せるものです。

例えば、マザーテレサと言う方は、
キリスト教でありますが私の眼で見て私同様の観の成就を果たして
いられる方です。

この方はイエスをイメージしながら励んでいられたようですが、
観の成就をした段階でそのイメージを使用する方法が出来なくなって
しまっています。

それと、私の意識状態では、祈りという行為がそもそもできません。

祈っている真似しかできません。

http://www.afpbb.com/articles/-/2272720


実際はこれが観の成就の状態なのです。

私の前には認識(識別)される対象がありません。

これが実現できると無我と言う事になります。

自他の識別の関係においては、他が対象として認識されるので、
その時には自も対象として認識されます。

しかし、他を対象として認識することがなくなれば、
相対に位置する自も対象として認識する事は消滅します。

69慧空:2018/10/03(水) 10:22:47
武さん
そのように未だにネット上を彷徨い、私のところへやってきて、
熱心に自らの主張を並べておられる。
このような行為は、余りに不自然であり、わざわざ感満載です。
まさに、あなたの自我の活動です。
それで自我が滅したと仰るのは、無理があります。

70:2018/10/03(水) 18:57:23
慧空さん、私から逃げようとしていらっしゃいますね。

見えてしまいますもので。

その様な私の姿勢に対する事では無くて、私の話をしている内容について、
良いとか悪いとかそれは違うとか、そのようなご意見が頂きたいのです。

その為にお話しているようなものなのですから。

妄想とは、厄介なものですね。

71慧空:2018/10/03(水) 20:19:57
武さん
ですから、あなたの自我が滅したという、その認識が間違っていると言っているのです。

72:2018/10/04(木) 00:25:45
>ですから、あなたの自我が滅したという、その認識が間違っていると言っているのです。

慧空さん、実はこの受け答えがあなた自身の現在の水準を表しています。

あなたには、私のエゴ表現から私の事をそのようにしか見えませんね。

しかし、あなたが私の表現に反応してこの言葉を発した瞬間に、
確実にあなた自身のエゴがその分増強したことを見抜けていませんね。

私のエゴ表現に対して、あなたがあなた自身のエゴを増強させて反応を示した
と言う意味です。

これがあなたの自己洞察能力の現状です。

慧空さんには、私のこの受け答えが頓珍漢に聞こえますね。

私は何度もあなたに説明していますが、
あなたがその意味を理解していないので、
あなたのここでのリアクションなのです。

>意志の無い行為、ただやっいているだけ、
>これを唯(ただ)やっているだけの行為、
> 唯作とか唯作心と表現するようです。


私と慧空さんと、もし意見の言い合いをしたとしても、
エゴ増強の苦悩を受けるのは慧空さんの方だけです。


「I AM THAT 私は在る」(ニサルガダッタ・マハラジ)
>私は無だ。
>何ももたず、何もできない。
>だが、すべては私から立ち現われる。
>その源が私だ。
>その根底と源泉が私なのだ。

慧空さんは、このマハラジさんの水準に居ないので、
この方の発しているこの言葉の意味が分かりませんね。

私はまだ慧空さんのような意識水準であった時には、今、
ここで慧空さんの発したリアクションはとてもできませんでした。

私とあなたの自己洞察能力の違いです。

そもそも、人のことを言う前に、
ここの掲示板では慧空さんのエゴ満載ではないですか。

気づけていませんね。

私はエゴの演出をしているだけなのですから。

あなたの見方は、あなたの水準の枠内の方に対しては確かにその通りですが、
マハラジさんを初め、あなたの水準では推し量れない人たちがいるのが
真実です。

私は、掲示板に書き込むのは本当に何年ぶりでここに書き込みをしています。

実はあなたの秀でたサマタ系能力が目に留まり、
あたなにここで立ち止まってほしくなくてお話をしていたのです。

73いつぞやの者 佐藤:2018/10/04(木) 09:39:14
>>72

おそらくtkさん

慧空さん

ご無沙汰です!

久々に覗かせていただいたら

楽しそうな対談!

74慧空:2018/10/04(木) 12:15:36
武さん

>ここの掲示板では慧空さんのエゴ満載ではないですか。

(^o^)
そんなことは、承知しているに決まっているでしょに。
ここは、私の自我が作り出した慧空ランドですから。

自分の自我の活動に気づけず、目を背けているのは、
武さん、あなたでしょ?

あなたは、私のところにわざわざやってきて、
繰り返し何度も、
自分の自我が滅したとか、
対象が無いとか、
内面が無いとか、
言ってるでしょ?

それを言っているのは、誰なのですか?
あなた自身でしょ?

自我が滅したと言うからには、自我が滅したという何らかの判断、認識が行われているはずです。
その判断、認識は、誰がしたのですか?
あなた自身でしょ?
判断、認識は、自我の活動そのものでしょ?
自我が滅したことを、自我はそう判断、認識するのは、どう考えても不合理だとは思いませんか?

それとも、自我が滅したという判断も認識もないまま、
あなたはそう言っていると仰るのでしょうか?
それは余りにも、ナンセンスであり、道理が通りません。
話にならない。

ところで、佐藤さんはおよびじゃないですよw

75慧空:2018/10/04(木) 12:24:43
訂正です。

上記の「自我が滅したことを、自我はそう判断、認識するのは、どう考えても不合理だとは思いませんか?」
は、「自我が滅したことを、自我がそう判断、認識するのは、どう考えても不合理だとは思いませんか?」
です。

76:2018/10/04(木) 20:10:32
>>ここの掲示板では慧空さんのエゴ満載ではないですか。
>
>(^o^)
>そんなことは、承知しているに決まっているでしょに。
>ここは、私の自我が作り出した慧空ランドですから。


つまり、我を尊重して思いっきり生きると言うものですね。

これはどうも失礼しました。

私はその生き方も尊重するものですから。

> 自分の自我の活動に気づけず、目を背けているのは、
> 武さん、あなたでしょ?

そのように思っていていただいた方がよろしいかもしれません。

悟りと言う表現は使用しない方が無難と思います。

なぜなら、釈迦の名前と一緒に広がったような用語です。

しかし、釈迦は無我や非我を説いた人ですから、
その用語を使い回すのは誤解を招きかねません。

慧空さんの一連の行動は理解できました。

精一杯楽しんで生きて下さい。

77慧空:2018/10/04(木) 20:40:12
やっぱり、tkさんでしたかw
ラピ。さんによろしくです^^

78いつぞやの者 佐藤:2018/10/04(木) 23:19:54


take
tk

なるほど! 今気づきました。

さすがのネーミングロジック

79:2018/10/05(金) 20:46:47
面が割れてしまいましたので、最後に感想を置いていきます。

ここのサイト読んでましたが、現代の風潮である中途半端さがここのサイト
にも見受けられます。

自我を強める事は必要ですが、それと内観まがいの事の取り合わせは、
相殺し合う関係なので得るものは無しと言う所になると思います。

自己洞察でも内観でも呼び方は何でも良いですが、
これは内面の自我の圧力を抜く為の方法、
言い方を変えれば自我を弱めるための方法です。

確かに、苦しんでいる人に内観で自我の力を抜く方法を授ければ、
その分楽になれるのかもしれません。

しかし、それで自我が強まる事はありませんから。

自我というのは端的に言えば方向性とその力ですから、
強い大型の台風ならどんな障害でも吹き飛ばしてしまう力があります。

人生を快適に生きることができます。

しかし、いくら強大な台風であったとしても、
鉄筋コンクリートの強度の強い建物まで吹き飛ばす事はほぼ困難です。

それこそ、これでもかこれでもかと力を増した所で、
困難な事は困難です。

そこで初めて、その困難を打破するための手段として、
自我の力を強める以外の方向性が必要となってきます。

とは言え、その方向性での進み方も困難に立ち向かい最大級となった
自我の力が必要です。

運悪く命が落ちてしまっても、
前進するレベルの意志(自我)が必要となります。

つまり、命より重たい意志(自我)が必要なのです。

こうやって定められた方向性で命より大切な自我(意志)を振るい続けると、
ある時に突然「何じゃこりゃ?」という、
予想外の展開が発生して全てが終了します。

もう、再び開く事は出来ません。

何が起きたのか、それは、何と、命より大切にしていたその自我(意志)が、
忽然と消えてしまったのです。

想いが起動しない、内面が発生しない、
文字通り「なんじゃこりゃ?」ですね。

これが、「何もできない」の意味する所です。

分かりやすく譬えるなら、急な先も見えない山道をひたすら登ると、
最後には頂上に到着して、もう登る事が出来ない、となるわけです。

命より大切にしていた意志(自我)が突如に忽然と消えた。

もう意志はありません。

それからはもう、ただ(唯)生きるだけ、ただ(唯)やってるだけ、
ただ(唯)言っているだけ、
このように中身の無いような事になってしまうわけです。

しかし、この結果だけを言うと、よく巷の人の中では、
結果の状態だけを取ってきて、意志を使わない事が良いのです、
とこのようなバカみたいな事を言い出す人が出現したりするのです。

しかし、それをやったら、
山の途中で頂上にも向かわずに寝そべっているのと同じ事ですから。

このようなバカな人たちが居うるのです。

そうでは無くて、ポイントは命より大切な意志(自我)が必要なのです。

この命より大切な意志(自我)をどうやって作り上げるかも、必要な要素です。

これ等を踏まえた上で、ではどうするのかという事です。

最後まで、強度の自我こそが必要であることについてお話ししました。

それでは、お元気で、口先だけで恐縮ですが、ご健闘をお祈りします。

80慧空:2018/10/05(金) 21:03:55
>最後に感想を置いていきます

自我の無いと仰る方が、感想を述べておられる。
話にならん。

81:2018/10/06(土) 04:50:42
>自我の無いと仰る方が、感想を述べておられる。
>話にならん。

あなたのこの姿勢は好感が持てますが、ひとこと解説しておきます。

根本となる無我の定義が違っています。

あなたの言う無我は、私が非我と表現しているものです。

なので、あなたの定義で私は我が有ると言うのは当たっています。

定義の違いではあるのですが、
私が非我と表現する手前のもう一つをあなたが知っていると、
それでもある程度話が通じたと思います。

あなたの無我の定義で、巷の文献を読むと、
あなたにはちんぷんかんにしか取れないものは多くあると思います。

82慧空:2018/10/06(土) 06:14:40
>なので、あなたの定義で私は我が有ると言うのは当たっています。

あなたは、本当に曖昧でハッキリしない人ですね。
最初っからずっとそうだ。
それでは、あなたのその非我というのと、その手前の一つについて、
ここで、できる限り明確に説明してみてくださいな。

83:2018/10/06(土) 08:35:07
>あなたは、本当に曖昧でハッキリしない人ですね。
>最初っからずっとそうだ。

実際は私の現状に対して、
その状態に無い人に明確な表現の方法がかなりの困難なものです。

私はどうもここでそれをするつもりが無いようです。

参考までに釈迦とは逆のプロセスを辿っていられますね。

私もここでは奇妙なものを目にしたと思っています。

釈迦のプロセスでは知覚できる対象に対して、
全て自分のものでは無いとラベリングする事になります。

視覚は自分のものでは無い、思考は自分のものでは無い、
聴覚は自分のものでは無い、味覚は自分のものでは無い、
このように全て知覚できる対象は自分のものでは無い、
このようにラベリングしていくわけです。

この世界に自分のものなど何もない。

これを有名な言葉で諸法非我と言います。

また、無所有とも言います。

しかし、ここでは、それとは真逆の、あれも自分である、これも自分である、
このようにラベリングするようですよね。

何事も全力でやってみなければ、
どのような結果が出るのか分かりませんので、
出た結果がお気に入りならそれはそれという事で本人の価値観です。

慧空さんは釈迦の定義する悟りには該当しません。

事実だけは申しあげておきます。

84:2018/10/06(土) 10:34:16
>実際は私の現状に対して、
>その状態に無い人に明確な表現の方法がかなりの困難なものです。

参考までに次の方の説明が私の状況です。

私以外の違う方の表現を持ってきましたが、
それでも本当にその状況の者にしか分からないはずです。

もっとも、私が手引きして至られたあの方も、この状況です。

「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>この第二の変化の本質は外にあるすべてのものの脱落で、その結果、
>あの素晴らしい「一なること」も、
>個々の物に焦点を当てられる立体鏡も無くなり、
>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。
>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
> 最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。しかし時がたつにつれて、
>償いとなるものが何もないので、この状態が次第につらくなって来ました。
>内にも外にも絶えず虚無だけを見ることは何とも言えない徒労で、
>耐えがたいことなのです。


>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。


>この旅について特に強調したいことは、
>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。
>これは私にとっては神なしで生きることを意味していました。
>こうして希望と信頼を奪われ、究極の実在なしに生きることに十分に慣れ、
>ついにこの状況を受け入れるほかなくなった時にはじめて、
>突然「それ」が真理でありすべてであることが分かったのです。


>沈黙した心のままで会話もできる

これと次の方の表現が同じことを指しています。

「I AM THAT 私は在る」(ニサルガダッタ・マハラジ)
>私は無だ。
>何ももたず、何もできない。
>だが、すべては私から立ち現われる。
>その源が私だ。
>その根底と源泉が私なのだ。

これは内面を沈黙させたままでの対話、唯(ただ)やっているだけの行為、
唯作を現しています。


>こうして私は内にも外にも何も無いという

私の状況として既にお話しした、内面が無い、外にも認識できる対象が無い、
意識の焦点機能の消失、何も無い、禅の言葉で内外打成一片、
この方は私と同じ状況です。

>個々の物に焦点を当てられる立体鏡も無くなり、



>これについて、言葉で表すのは難しいのですが

>実際は私の現状に対して、
>その状態に無い人に明確な表現の方法がかなりの困難なものです。

その状況に至っている者として、口を揃えてそう言うより他には有りません。

もっとも、私はこの方同様に不可抗力的にこの状況に至り、
その後は元には戻れません。

そればかりか、さらに、もう一人手引きまでしてしまいました。

釈迦の言っていた悟りです。

慧空さは慧空さんで、各々が各々の好みの道を歩まれればよろしいと思います。

85慧空:2018/10/06(土) 16:35:15
tkさんが、いろいろ勉強して物知りなのは分かりました。
そうやって、人の言葉に頼ってばかりいないで、
あなたの悟りを自身の言葉で語ったらどうですか?

釈迦がその悟りをどう定義したかは、どうでもいいですから、
あなたの悟りの定義をここで言ってみてくださいな。

86慧空:2018/10/06(土) 16:36:55
自分の言葉で話せない人は、ここでは無用です。
去りなさい!

87:2018/10/06(土) 19:06:18
>去りなさい!

お気持ちはご察しします。

慧空さんのご本心では、私にここで語ってほしくはなかったようですよね。

私の方は少し語る事で、必要な目的というものが果たせるので、
ご迷惑は承知でこちらに寄せていただいておりました。

悟りと表現しているものの内容が釈迦の悟りとするものと異なる点だけは、
この場をお借りして情報提供の必要があると思いましたが、
お蔭でその目的は果たせました。

後は知り得た情報をどう扱うか各々の問題です。

知らないでいるより、早めに知った方が良い事実というものはあります。

私がここで出来るのはここまでです。

ご迷惑だと言うのは、承知しておりましたので最後にお詫び申し上げます。

幸運をお祈りします。

88慧空:2018/10/06(土) 20:37:05
いやいや。
あなたの悟りを自分の言葉で語るのなら、どうぞ語ってくださいな。
お伺いいたしましょう。

はい、どうぞ!^^

89オクトーバー:2018/10/07(日) 00:34:20
非常に興味深いお話が続いていますね。

90慧空:2018/10/07(日) 09:27:05
あれ、tkさん何も書いてないなぁ〜
人のことではなく、自分のことを自分の言葉で書くなら歓迎なのですがねぇ。

そういうのは嫌なのかなぁ。
まさか、自信ないとか。

確かラピ。さんの掲示板に書かれたときも、人の話ばかりを書いていたもんなぁ〜。

91慧空:2018/10/07(日) 11:27:23
tkさん、ラピ。さんってだれ、と思われる方も多いと思うので、
リンクを貼っておきますね。
ラピ。さんの前のブログは、これです。
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/
いまのブログは、これです。
https://ameblo.jp/perfectrapi/
そして、tkさんが書き込みをしていたラピさんの掲示板はこれです。
https://jbbs.shitaraba.net/study/12104/

92慧空:2018/10/08(月) 10:18:48
本当は、tkさんに彼の悟りを自分の言葉で語ってもらった後で、
私の考えを書かせてもうらいと思っていたのですが、
ついうっかり、「去りなさい!」なんて言っちゃったものだから、
やりとりが途切れちゃいましたね。
まあ、しょうがいない。(^o^)

ヒマだから、tkさんが上で書いた文章の中のいくつかの概念について、
私の考えを書かせていただきます。
基本的には、私がブログ等で繰り返し言っていることをまた書くだけなのですが。

93慧空:2018/10/08(月) 10:28:32
まず、
>私は無だ。
これについてです。
悟り業界でよく言われる言葉ですが、曖昧であり、問題や誤解の多い言葉です。
本当に無になったら、認識も何も無いはずであり、その人の存在も世界も何もかも無くなってしまうはずです。
これが本当の無です。
「私は無だ」という発言があるということは、その発言が成されるまでの過程で、
何らかの認識や判断があるはずであり、それこそまさに自我の活動なのです。

悟りの過程で、「私は無だ」といいたくなる感覚や状態にになることは確かにあります。
「私は無だ」というのは、そのような感覚から出ている言葉なのです。

94慧空:2018/10/08(月) 10:41:18
次に、
>唯(ただ)やっているだけの行為、 唯作
についてです。
関連する言葉として、
「ことは起き、行為はなされていく。しかし、そこに行為者はいない」
というようなものもあります。

これも、悟りの行程の中で、確かにそう言いたくなる感覚や状態はあります。
これを経験すると、自分の意志や自我が滅した、あるいは機能を失ったかのような錯覚をしてしまいます。

しかし、これもとても曖昧で感覚的なものであり、問題や誤解がとても多いと思います。
私は強く言いたいのです。
本当に「意志」が消失してしまったのでしょうか?
そう言っているどの覚者も、意志が消失したと言いながら、結構いろいろなことをやっています。
上のtkさんだって、自分の意志が無いと言いながら、夜な夜な私のところにやってきて、
せっせと書き込みをしていました。
本当に意志がなくて、そのようなやらなくてもいい余分な行為をやれるものなのでしょうか。
意志が無いはずはないのです、それをできる程度の意志は残っているのです。
その残った意志に本人が気づけていないだけなのです。

95慧空:2018/10/08(月) 10:58:25
>内外打成一片

これについても、然りです。
曖昧すぎるのです。

どうしてそのようになるのか。
どうして、そのような曖昧な言葉しか出てこないのか。
どこに問題があるのか。

端的に言えば、彼らの悟りにまだ問題があるということなのです。
彼らの悟りには、まだそれを表現したくなる形(状態や感覚と言ってもいいです)があるのです。
彼は自らの悟りの形を言葉で表現しようとしているのです。
彼らは、その悟りの形に拘っている、囚われていると言ってもいいです。

悟りとは、そもそも言葉で表現することはできないものなのです。
それを、未だ途中である中途半端(失礼、笑)な悟りを
吟味の足りない「無だ」、「唯作だ」等の言葉で無理に表現しようとするから
おかしくなるのです。
まあ、それもしょうがいないことなのですが。
かく言う私自身にもそういう時期はありましたし。

最終的な悟りには、形がありません。
そこでは、「無だ」、「唯作だ」等の中途半端な概念が出てくることは決してないのです。

あら、仕事に行かなくちゃ。
時間がなくなり、ちょっと尻切れですが、アップしちゃいますね。(^o^)

96:2018/10/12(金) 18:14:32
すいくうさん

自分に起こってきた考えや感情を、自分が起こしたものであると引き受けて受け止める覚悟が必要でしたね。

また、どんな教えも

97:2018/10/12(金) 18:43:25
間違えて投稿ボタン押してしまいました。続けます。

また、これまで取り入れてきたどんな教えも諦めて、そういった拠り所なしで生きる事が必要に思いました。

悟りの方面でも、大体の人は正しい方向に行きたい(表現は人それぞれかもですが)と熱望しているように思います。そして、正しい方向に歩んでいると安心するために、知識を取り入れ続けようとしたり、あれこれ取り組んでいるように思います。それぞれの取り組みは尊いものだと思いますが、起点が不安や恐怖から来るものであれば、どこまでいっても満足できないように思います。そういう状態で内心不安定なままだと、他者に過剰なお節介もしたくなるのだろうなと思います。

そうやって右往左往する自身の意識を拠り所に、自分と向き合い歩めば成るように成る気がします(笑)

98慧空:2018/10/12(金) 19:50:30
箱さん

>自分に起こってきた考えや感情を、自分が起こしたものであると引き受けて受け止める覚悟が必要でしたね

はい、全ては自己責任ですから。

>これまで取り入れてきたどんな教えも諦めて、そういった拠り所なしで生きる事が必要に思いました
>そうやって右往左往する自身の意識を拠り所に、自分と向き合い歩めば成るように成る気がします

そうですね。
でも難しく考える必要はなくて、シンプルに自分の本心からやりたいことをやればいいだけなんですけどね。

99:2018/10/12(金) 23:35:39
慧空さん

こちらに書き込むのもその一環です(笑)
月並みな言葉ですが、書いている内に考えが整理されますし、
同時に自分が何を思いこんでいるか自覚するきっかけにもなると感じています。

100:2018/10/22(月) 06:50:21
慧空さん。

かなり上から目線的な姿勢の受け答えの方ですね。

それでは、得るものも得られない事でしょう。

悟ると負のカルマの先取り現象のようなものが集中的に起きてくるようです。

私もこのような状況にあるので、
このような時の最善のスタンスは受け身的姿勢です。

よって私の現状では情報発信の姿勢を作る事がままなりません。

このような事情で、受け答えがうまく行かない点ご理解ください。

>本当に無になったら、認識も何も無いはずであり、その人の存在も世界も何もかも無くなってしまうはずです。
>これが本当の無です。

その通りです。

ただし、サマタ系の方的なベクトルで、
知覚できる対象をどこまでも追及していくベクトルだけではありません。

「ただ在るだけ」と言うベクトルが他に存在します。

釈迦が悟りと表現するのはこちらの方です。

心解脱(止)と慧解脱(観)のベクトルの違いです。

観のベクトルは知覚対象を追求するのではなく、
知覚対象を認識する「認識機能」の方を変容させます。

慧空さんからは、サマタ瞑想系の方特有の、
「認識」と言う表現が当たり前のものとして多発しています。

https://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/0de0cfda777eb487df6014efa7979fde

サマタ系的には正しいです。

しかし、慧解脱を果たした方は、
この「認識」と言う表現が使えなくなります。

その機能が、以前あったような機能とは異なってしまっているからです。

そして、釈迦が悟りや阿羅漢果と表現する段階は、
心解脱では無く慧解脱達成の事です。

時解脱の涅槃は、定から出ればまた、エゴ(煩悩)の過中です。

理由はサマタ瞑想で到達できる涅槃は、
エゴを推進力にして突入できるからです。

慧空さんはまだ釈迦の表現する阿羅漢果でもなければ、悟りでもありません。

これを告げようと、しどろもどろに書き込みをしています。

ベクトルが違うのです、釈迦のテーマは時解脱的に涅槃を達成する事では無く、
「煩悩」をどうするかの方に力点があります。

内容的には「努力、忍耐、根性、苦悩」の方に重点が置かれます。

これが慧解脱、釈迦の表現する悟りを達成する手段です。

マスターゲート氏の「自覚」は初心者向きの低い教えに見えます。

もちろん低い教えには低い教えとしての価値があり、
初心者にはこの方が多大な効果があると思われます。

しかし、この水準の教えでフィニッシュは出来ません。

聞く姿勢の無い方に語れるほどの姿勢は今の私にありません。

何かコメントを頂いても、受け答えは今の私からは出てこないと思います。

一方的な情報提供のようになってしまい恐れ入ります。

私が情報提供できるのは、
釈迦の表現による慧解脱(悟り)についてに限定しています。

ですので、聞く姿勢(関心)が無ければそれはそれです。

別にどうしても釈迦の表現する悟り(慧解脱、彼岸)に
辿り着かなければならないというものではありませんので、
お断りだけしておきます。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板