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自覚スレ
1
:
名無しさん
:2015/02/17(火) 19:05:39
自覚ワークや内観をしていて気がついた自分の観念について書いてみませんか?
101
:
慧空
:2018/10/22(月) 09:38:55
武さん
また来られましたね。
そうやって、わざわざまた私のところへやって来られるのはどうしてでしょう。
あなたは私のことが相当気になっているのです。
そこにあなたの意志が無いとは言わせませんよ。
>私が情報提供できるのは、
>釈迦の表現による慧解脱(悟り)についてに限定しています。
また釈迦の悟りの話ですか。(^_^;)
だから、釈迦の悟りは信憑性が無いから話にならないと言っているでしょに。
そうやって釈迦の言葉に頼るのじゃなくl、あなたの悟りをあなたの言葉で語ってくださいな。
話にならん。
102
:
武
:2018/10/25(木) 21:30:59
慧空さん
>そこにあなたの意志が無いとは言わせませんよ。
勝手に言ってて下さい。あなたの水準で私のことは逆立ちしてもわかりません。
あなたには、私がしようとしていた水準の話しは適しません。
これは私の判断です。
マスターゲート氏の「自覚」は片手落ちの教えに思えます。
「自覚」はある一点の要素を欠く事で、
エゴむき出しの人間性を増長させてしまう。
波乱万丈の人生が待つと思います。
ちなみに私の意識状態では、「認識」対象そのものがありませんので、
マスターゲート氏であろうと釈迦の諸法非我であろうと、
ラベリング行為そのものが私は既に出来ません。
これが観の成就(悟り)、終了段階に至った者の特徴です。
私の眼で至った水準の方であると判断できる方は、例えば次の方々です。
この方々の悟りとしているのは、私と同じです、
「認識機能」の変容の事です。
(当然ですが、慧空さんは全然至っていません、
認識機能という思考回路の一部分に必死にしがみついている段階の方です。)
原田雪渓氏
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E6%88%91%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%95-%E3%83%BB%E7%A6%85-%E3%81%9D%E3%81%AE3-%E5%8E%9F%E7%94%B0-%E9%9B%AAE6%B8%93/dp/493890201X
>『悟りとは、人の分別心や認識の入らない世界を言います。
>言い換えれば"今"ということです(略)
井上貫道氏
http://www.nakanojouganji.jp/kihou/12inoue1.htm
>ところが 「認識」のまだない子どもは、
>なにも思わずにやっているだけです。そういう世界がある。
>お釈迦さまはそういうことを悟ったのです。
※私の単なる自論ではないと言う裏付けとして、
他者様の引用をさせていただいております。
私の分類で初歩段階の方とは、
自らの「認識機能」を絶対的なものとして訓練する方。
そして、次の段階が私やラピ。さんの真骨頂、激流段階であり、
「認識機能」を崩壊させるプロセスになります。
この激流段階は別名、バカを極めるための訓練とも表現できます。
(私も自らがこの訓練をしている時には本当にバカになるのではと怖かったです。)
井上貫道氏
http://zazen.blog.jp/archives/1031026404.html
>修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。
>それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。
>大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。
103
:
慧空
:2018/10/26(金) 09:27:47
tkさん
「認識機能の崩壊」。
自らの認識機能が崩壊したと考えているのは、誰ですか?
あたなでしょ?
それに、「認識機能の崩壊」とは、まだそのような形や状態があるというこです。
まだ途中です。
104
:
慧空
:2018/10/26(金) 21:48:30
>ところが 「認識」のまだない子どもは、
>なにも思わずにやっているだけです。そういう世界がある。
この貫道さんの言葉も、何らかの状態のことを言っており、
形への囚われがあります。
まだ途中です。
105
:
慧空
:2018/10/26(金) 22:14:38
>「I AM THAT 私は在る」(ニサルガダッタ・マハラジ)
>私は無だ。
>何ももたず、何もできない。
>だが、すべては私から立ち現われる。
>その源が私だ。
>その根底と源泉が私なのだ。
一般的な覚者はよく「無」という言葉を使いたがります。
しかし、そこにはまだ「無」という表現に関連した何らかの状態に関する囚われがあります。
マハラジもそうです。
吟味が足りないのです。
「無」、「源」などの言葉が出てくるようでは、話になりません。
未だです。
106
:
武
:2018/10/27(土) 12:23:34
私はこれでここを失礼しようと考えています。
ほとんど私が今できるべきコメントは残すことができました。
今の慧空さんに理解してもらおうと、ここで話をしたのではありません。
何らかの信じる方向性のある方を説得するほど骨の折れる事はありません。
ただし、後々ここで残した私のコメントが役に立つ時が来るかもしれない、
ただそれだけです。
ご健闘をお祈りします。
107
:
慧空
:2018/10/27(土) 16:59:09
そう仰らずに、またお越しくださいな。(^^)/
108
:
慧空
:2018/10/27(土) 21:02:36
ところで、tkさんは「観るものは観られるもの」をお分かりですか?
109
:
武
:2018/10/28(日) 23:18:00
お別れの挨拶を申し上げた直後の質問ですね。(笑)
>tkさんは「観るものは観られるもの」をお分かりですか?
この表現、私は見かけたことがありませんので、主客の関係なら、
私の言葉で表現して認識機能において自他の境界線が私にはありません。
慧空さんは時解脱によるサマタの涅槃を基準にするので、
全て途中ですと言う判断になるようですが。
しかし、事はそう簡単にはいきません。
ある理由が存在していて、観の成就を果たさなければ、
時解脱以外では涅槃を達成できない事になります。
よって釈迦は時解脱の涅槃を悟りとはせず、慧解脱を悟りとしています。
私には幽体離脱と言マスターゲート氏の覚醒の発端となった特徴が
幼き頃より有り、探究ツールとして活用しました。
その結果である事実が判明しています。
実はこの物質世界の特徴とは、煩悩が実現し難いと言う特徴があります。
この物質世界の特徴を利用する事で、煩悩を落す事が可能となります。
さて、時解脱の涅槃ですが、
この物質世界の煩悩のままになりにくい特徴を利用し、さらに、
エゴの推進力を利用して突入するのです。
しかし、肉体から離脱後にはこの物質世界の特徴は跳躍のために
利用できません。
譬えるなら、100m走を地面を蹴ってゴールを切ることができたとしても、
地面を蹴る事も出来ない宇宙空間のような所で足をばたつかせても、
ゴールなど切れるものではありません。
実は煩悩とはアストラル体の特徴の一つですが、
そのアストラル体をそっくり消滅させる事が可能です。
それが慧解脱です。
カルマの種子も全てアストラル体に蓄積されているので、
転生は終了する事となります。
ただし肉体がある限りは、終了にはなりません。
http://mahorobanomori.web.fc2.com/spiritual-Seven-Bodies.html
>第五身体を実現した人は、アストラル体に影響されなくなる。
>つまりカルマから自由になる。
>そういう人が死ぬと、その人のアストラル体は消える。
(続きます)
110
:
武
:2018/10/28(日) 23:19:04
(続きです)
慧解脱は時解脱的な涅槃とはまるでベクトルが逆です。
知覚対象を追求したら反対に遠ざかるだけです。
EO氏がこの辺りをうまく説明していられます。
EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
>ただし『それは知り得ない』が、『それで在り得るという事は可能だ』。
>これが、光明のすべてを物語る、世界一短い言葉だ。
>
> 『不可知、只在あるいは只不在』と。
>
>だから、それを痛感し尽くした彼らは「探すな、求めるな、見るな、知るな」と30年
>も40年も言い続けた。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html
>「認識機能の崩壊」。
>自らの認識機能が崩壊したと考えているのは、誰ですか?
>あたなでしょ?
このような知覚対象追求ベクトルの質問を発している内は、
あなたは永遠にたどり着けません。
この質問、「認識できません」(不可知)が私の答えです。
マハラジのコメントの無にしても、
悟っていないあなたは無の表現さえ聞けば、
知覚対象追求ベクトルでの無しか思い浮かばないようですが、
認識できる知覚対象が無いと言う意味での、
異なるベクトルでの無が存在します。
知覚対象追求ベクトルでの無は、あなたの言う通りに知覚対象です。
このベクトルでの知覚対象とならないものは時解脱的な涅槃だけですから。
ただし、この時解脱涅槃はとても曲者で、定からでれば煩悩の渦中です。
マスターゲート氏の自覚、初心者には向きますね、しかし、
これも次第説法で初心者に向くものはフィニッシュに使えません。
これは慧解脱、すなわち悟りを得るための教えではありません。
知覚対象は認識機能によって自らに取り込まれるのです。
認識機能が変容してしまえば、知覚対象は知覚対象としてただ在るだけです。
これがあるがままと表現される現象です。
慧空さん、そろっと気が付かれたらどうですか、
知覚対象とそれを認識する機能の内の、
あなたには知覚対象追求ベクトルしかありません。
悟りである認識機能変容ベクトルがあなたにはありません、これが事実です。
このような内容を貴方にお話しするには、
早すぎたのではないかと少々ためらいがありました。
しかし、あなたの現実を明らかにしてくれる方はまずいませんから、
お話をさせていただきました。
111
:
箱
:2018/10/28(日) 23:34:34
個人的にはお二方のやりとりによって、自分自身が掴んでいる考えやらなにやらが色々意識に浮かんできて、
とても居心地が悪いのですが(ある意味で良い事なのかもしれませんが)、
ついつい気になってこちらでのやりとりをチェックしています。
ところで、少し横槍のようでお二方には申し訳ないのですが・・・
「観るものは観られるもの」というのは、
ものを見ている時、ものへの認識だけではなく、
それを見ているという明確な感覚があり、どちらか一方だけが起こる事が
ないという感覚とはまた別の事ですか?
112
:
武
:2018/10/29(月) 03:59:08
>「観るものは観られるもの」というのは、
>
>ものを見ている時、ものへの認識だけではなく、
>それを見ているという明確な感覚があり、どちらか一方だけが起こる事が
>ないという感覚とはまた別の事ですか?
横レスもOKですよ。
この言葉の中に、一つ私に当てはまらないものがあります。
>それを見ているという明確な感覚があり
私にはこの感覚がありません。
「見ている」と「見えている」僅か1文字ですがされど1文字、
この両者は全くの別物です。
この二つの違いには「意志」が関与しているか否かです。
「見ている」の方は明確な意志が関与しています。
従って指向性が発生し、見ようと思っている方向しか見えません。
しかし、「見えている」の方は意志が関与しておりません。
こちらの方は、周辺視野の情報まで飛び込んでくるわけです。
これが沢庵の不動智神妙録の中の千手千眼の真髄です。
https://www.bushidoart.jp/ohta/2012/03/14/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%99%BA%E7%A5%9E%E5%A6%99%E9%8C%B2%EF%BC%88%E5%8D%83%E6%89%8B%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E3%81%AE%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%99%BA%EF%BC%89/
私には意志が関与しませんので千手千眼の「見えている」しか出来ません。
113
:
オクトーバー
:2018/10/29(月) 15:28:55
私も横レス失礼します。
皆様方の対話を大変面白く拝見させて頂いております。
>>112
その「意志の関与なき見えているもの」が「見ている私」に他ならず、
目の前に広がる世界(あっち)は私(こっち)とイコールであると。
そのような、あっちもこっちもない境地(生き方)が、
「観るものは観られるもの」と表現されております。
114
:
オクトーバー
:2018/10/29(月) 15:44:42
訂正および補足です。
見えているもの、聞こえているものが、私やで。
こっちに私がおって向こうを見て
向こうに見えてる対象が私と離れて存在する
ということではなくて
見えているもの、聞こえているものが、私やで。
ということです。
しどろもどろです。
115
:
慧空
:2018/10/29(月) 16:54:54
tkさん
>主客の関係なら、
>私の言葉で表現して認識機能において自他の境界線が私にはありません。
実は最初から分かっていたのですが、やはりtkさんは「見るものは見られるもの」をご存知ないようですね。
主客に関係することではあるのですが、「自他の境界線」は関係ないのです。
tkさんはこれをご存知ないが、ひょっとすると、ラピ。さんは分かっておられるかもしれない。
また、マハラジを含むアドバイタ系の覚者は知らないが、バーナーデット・ロバーツは知っているかもしれない。
tkさんやマハラジと、バーナーデット・ロバーツとの間には、微妙ではあるが、これを知っているか否かの違いがあるのですが、
tkさんにはそれがお分かりにならないでしょう。
116
:
慧空
:2018/10/29(月) 16:59:46
オクトーバーさん
>見えているもの、聞こえているものが、私やで。
>こっちに私がおって向こうを見て
>向こうに見えてる対象が私と離れて存在する
>ということではなくて
>見えているもの、聞こえているものが、私やで。
上のこの記載は、何に対する補足説明なのでしょう?
この記載は、大分しどろものろではありますが(笑)、
まさに「見るものは見られるもの」について表現しているものです。
117
:
慧空
:2018/10/29(月) 17:07:23
箱さん
>ものを見ている時、ものへの認識だけではなく、
>それを見ているという明確な感覚があり、どちらか一方だけが起こる事が
>ないという感覚とはまた別の事ですか?
せっかく書いて頂いたのに、仰りたい内容が上手く読み取れないのでハッキリとは申し上げにくいですが、
箱さんが考えておられる内容とは、別のことです。
「見るものは見られるもの」は、日常的な感覚からのギャップが大きく、体験しないと理解するのは不可能です。
あまりに気にしないでください。
118
:
武
:2018/10/29(月) 19:27:13
「自覚」の説明のようなものですね。
>tkさんはこれをご存知ないが、ひょっとすると、
>ラピ。さんは分かっておられるかもしれない。
確かに悟る前のラピ。さんが似たような事を言ってました。
「あなたは私」とかね。
しかし、その手のものは全て捨ててもらいました。
自他境界線を超えるには、その手のものでは不可能だからです。
119
:
箱
:2018/10/29(月) 19:52:21
慧空さん
オクトーバーさん
オクトーバーさんの説明が、自分が本来表現しようとしていた事が近いかなと個人的には思います....が、実際のところ腑に落ちた感覚はないので、昔聞いた他人の話を、頭でこねくりまわしているだけのため、コメントが不明瞭になっているようです。
「観るものは〜」の事は気にしないことにします。
120
:
慧空
:2018/10/29(月) 19:54:29
>「あなたは私」とかね
違うって言ってるのに。
それはおそらく、ワンネスってやつでしょう。
まったく別ものですよ。
121
:
武
:2018/10/29(月) 20:21:13
>違うって言ってるのに。
>それはおそらく、ワンネスってやつでしょう。
たぶんそうです。
「観るものは観られるもの」かなり私の意識に照らせば違和感のある言葉ですね。
観るものも観られるものも、私の意識では、
そのようなものはどちらもいないのですから。
122
:
いつぞやの者 佐藤
:2018/10/29(月) 20:23:32
tkさんのようにその世界?次元?を完璧につきつめてるのもある意味すごいなと思いました。
ただ引用が多すぎて、ご自身の言葉がもう少し欲しいですね。
前からの事なので、そうなのかもしれませんが。。
あと慧空さんの断定口調も人格というか、そういうよなーと読ませていただきました。
失礼します!
123
:
箱
:2018/10/29(月) 21:02:14
武さん
コメントありがとうございます。
あらためて自分の状態を確認してみましたが、武さんの仰る感覚は自分にはないようですね。
思考が静かになっている時に物を見ている感覚を、「見ている」ではない「見えている」感覚と
誤解する事はありましたが、どれだけ意識が朦朧としていても、観ているという意思がはっきりあります。
124
:
慧空
:2018/10/29(月) 21:25:41
佐藤さん
>完璧につきつめてる
って、どういう意味ですか?
125
:
武
:2018/10/29(月) 21:27:40
箱さん
>思考が静かになっている時に物を見ている感覚を、「見ている」ではない「見えている」感覚と
>誤解する事はありましたが、どれだけ意識が朦朧としていても、観ているという意思がはっきりあります。
それでいいのですよ。
このようなものは私も狙ってなったわけではなく、
不可抗力的になったものでしかありません。
これが達成するその瞬間までは地獄のような中にいました。
その地獄に終わりがあるとはその瞬間まで思ってもいませんでした。
(もっと驚きなのは、まさか、その後に、
この地獄に他者をも落す事になろうとは思いもよりませんでしたが。)
「見ている」を初めとする意志行為を精一杯した者が、
その結果としてこのような方向に進まざる得なくなるものです。
「見ている」で良いんです。
126
:
慧空
:2018/10/29(月) 21:29:24
もう一つ。
>ある意味すごいなと
ということは、別の意味ですごくないという意味ですか?
127
:
慧空
:2018/10/29(月) 21:38:53
tkさん
もう一つお伺いしてもよろしいでしょうか?
観照意識はご存知ですよね?
128
:
武
:2018/10/29(月) 21:55:25
>観照意識はご存知ですよね?
聞いた事はあります。
しかし私にはありません。
129
:
武
:2018/10/30(火) 03:19:59
>しかし私にはありません。
遭遇する出来事に応じ、一瞬胸に感覚が発生し、
その時一瞬観照が発生しています。
発生してすぐ消えます。
胸の感覚とセットで、その時だけ観照が発生しています。
130
:
慧空
:2018/10/30(火) 17:04:16
tkさん
ご回答頂きありがとうございます。
>遭遇する出来事に応じ、一瞬胸に感覚が発生し、
>その時一瞬観照が発生しています。
>発生してすぐ消えます。
観照意識は、胸というより頭なんです。
一瞬だけ発生するというのも違っていて、
それを体験するようになると、もっともっと時間的に長く継続するものなのです。
人によってはずっとその状態で過ごしている人もいるのだろうと思います。
131
:
武
:2018/10/30(火) 19:50:02
>観照意識は、胸というより頭なんです。
胸の感覚は観照ではありません。
実は観照と言う言葉は一度も使ったことがないので、
不要な議論を招かないよう違う言葉で表現します。
私は自己洞察瞑想の完成者ですので、自己洞察と言う言葉で表します。
自己洞察瞑想は終了地点があります。
それが、観の成就、慧解脱です。
なぜ終了となるのか、
終了地点の特徴の一つは洞察される対象である内面がそっくり消滅してしまう
からです。
洞察したくても洞察行為そのものが消えてしまいます。
このようにして、自己洞察行為は終了を迎えます。
しかし、悟った後の釈迦も悪魔相応と言う経典で、
自らの内面と対話している記述がありますが、
遭遇する状況によっては胸のあたりに情動の根源となる感覚が
発生する事があります。
その感覚がそれまで消えていた内面となり、
それとは別に自動発生的に自己洞察機能も自動起動し、
そのすぐ後には再び内面ごと自動発生した自己洞察現象も
洞察対象である胸の感覚と一緒に消滅します。
内面が瞬間起きて瞬間消えてしまう、オートマチック自己洞察現象です。
この間に、思考と言う種類の感覚は連動しません。
つまり、悟る前の人のような思考化は起こりません。
このような事で、観の成就者は、もう学ぶ必要のない人、
無学と呼ばれるものと思います。
通常は内面はありませんし、もはや意識と呼べる肉厚感覚のものでは無く、
認識する者のいない知覚です。
132
:
慧空
:2018/10/30(火) 21:02:04
tkさん
tkさんがアストラル体なんて言い出すものだから、もしかしてと思って観賞意識のことを聞いてみたのですが、
あなたは、「観照」というものをご存知ない。
だから、語れば語るほどトンチンカンなことになってしまうのです。
観照は自己洞察とはまったく異なるものです。
133
:
武
:2018/10/30(火) 22:41:11
>観照は自己洞察とはまったく異なるものです。
この言葉は目にしたことがある程度で、一度も使った事がありませので
良く知りませんでした。
おいおい機会が有ったら、知識を得ようと思います。
私は、今ここで知識の収集をするつもりがありません。
ここのニーズと合わないようなので、この辺で失礼します。
134
:
武
:2018/10/31(水) 03:52:11
知識を吸収する事と、悟りは別ベクトルですから、
悟りは反対にバカを極めること、
知識は捨てなければ辿りつけない特徴のものです。
今の慧空さんはその時期では無いと判断できます。
少なくとも「自覚」は逆ベクトルです。
私は後々役に立つかもしれない事のためにここに話を置きに来ただけですので、
これで失礼します。
135
:
武
:2018/10/31(水) 07:13:00
それと私がアストラル体(幽体)の用語を使うのは、理論値ではありません。
意図的に何度も離脱を繰り返し、実証に基づき使用しています。
その結果、肉体にいながらアストラルの動きを感覚的につかむ事が
私には出来ます。
では、ご検討をお祈りします。
失礼します。
136
:
つよし
:2018/10/31(水) 13:59:00
>>131
お二人のやり取り、私も興味深く読んでいました。
tkさんに質問させて頂きたいのですが、
>その感覚がそれまで消えていた内面となり、
それとは別に自動発生的に自己洞察機能も自動起動し、
そのすぐ後には再び内面ごと自動発生した自己洞察現象も
洞察対象である胸の感覚と一緒に消滅します。
内面が瞬間起きて瞬間消えてしまう、オートマチック自己洞察現象です。
これは視覚だけがそこにあり、それを観る者はいない状態のことを仰っているのでしょうか?
(正確には、他の五感も起こりますが、その所有者がいない状態のことです)
そして、これが慧解脱の最終地点という認識でよろしいでしょうか。
137
:
慧空
:2018/10/31(水) 19:41:25
tkさん
kさんのニーズはもの凄くあると思いますよ。
みんなとても興味を持って、tkさんの書き込みを読んでると思います。
書き込み歓迎ですので、気が向かれたらいつでも書き込みなさってくださいな。
138
:
武
:2018/11/01(木) 03:54:33
質問が来てました。
実は悟りを得るには、最低限の知識以外は障害となるもので、
最近ぼちぼち精神世界知識というものを、
たまに吸収して読書などしているところでした。
今よんでいる書籍でアーチャン・チャー、私の眼で見て、本物の阿羅漢です。
古来から言われている表現で、名称と形態(色)、ナーマとルーパと言います。
名称と言う表現が、識別作用、私の言葉で認識機能の変容、
慧解脱を指します。
釈迦の経典は私の師ですので、引用させていただきますが。
次は有学と無学の説明で、慧解脱で初めて無学(阿羅漢)となります。
阿湿貝経(キータギリ・スッタ)
>「第四の段は、見をして到る、見到である。
> 彼らには、法則を解する、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、身で体現する者になる。」
>
> 「第五の段は、身をして現す、身証である。
> 彼らには、実践に於ける、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、名を解脱する者になる。」
>
> 「第六の段は、名を越える、慧解脱である。
> 彼らには、智慧を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」
>
> 「第七の段は、色も越える、倶解脱である。
> 彼らには、身体を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」
私が説明してきた2方向からの名と色(身)のベクトルでの訓練は、
古来から存在しています。
名を解脱する者、名を越える慧解脱と説明がありますが、
識別作用すなわち認識機能の変容を指します。
>これは視覚だけがそこにあり、それを観る者はいない状態のことを仰っているのでしょうか?
>(正確には、他の五感も起こりますが、その所有者がいない状態のことです)
>そして、これが慧解脱の最終地点という認識でよろしいでしょうか。
そうです。
今までの私の説明にありましたが、
「意志」の関与がなくなる事が大きな特徴の一つです。
そうすると、説明しました通りで「見えている」と言う意志の
関与しない事となり、EO氏の言う不可知、つまり知る(認識する)以前で、
自己も含めて認識対象が全て無くななり名を解脱した者、慧解脱となります。
アーチャン・チャー「手放す生き方」より
>もし、心が自由なら、現象を区別することはない。
>わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、
>究極的には、我(アッター)も無我もないのだ。
139
:
慧空
:2018/11/01(木) 10:17:32
tkさん
チャーの言葉を引用されてますが、
>わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、
>究極的には、我(アッター)も無我もないのだ。
この我も無我もないというところの意味を、
tkさんはどう理解されてますか?
140
:
つよし
:2018/11/01(木) 22:52:26
>>138
tkさん、
ご説明ありがとうございます。
私は解脱をしていないので、チャーさんと無明庵EOさん(ヤバいイメージでしたがリンクを読んで見方が変わりました笑)、そしてtkさんのお話でイメージとして慧解脱を伺い知ることができませんが…、
例えばリンゴを見た時、
瞬時に「リンゴだ」と認識します。
これは思考が起こる前にすでに認識しており、認識の後にその説明として「リンゴだなー」と思考が出てきます。
認識とは何だろう?と細かく観察して行くと、それは瞬時によぎる過去からのイメージであるなと実感します。
レッテルと言われるものです。
このレッテル付け機能が消滅してしまった状態が慧解脱と仰るものなのかなと想像しました。
そうであるから、そのような世界に対し「あるがまま」という言葉を用いられているのかなと思いました。
しかしやはり疑問が残ります。
あるがままの世界を「これがあるがままの世界だ」とレッテル付けを誰がしているのだろうか?
「あるがまま」という過去からのイメージがそこにはあるではないか?ということです。
こればっかりは慧解脱してみないとわからないものだよ、と言われればそう納得するしかないのですが…。
私にはそのような認識、イメージ、考え、が瞬時にポコポコと現れては消えて行き、そしてそれを観察している者も認識のひとつであり、「ここには認識しかない」という境地止まりですが、その認識、考えを完全に掴まなくなる境地があるのだとしたら、早く行ってみたいものです。
まとまらない感じですみません。
ご丁寧なレス、感謝致します。
141
:
武
:2018/11/02(金) 02:39:20
慧空さん
>もし、心が自由なら、現象を区別することはない。
>わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、
>究極的には、我(アッター)も無我もないのだ。
>この我も無我もないというところの意味を、
> tkさんはどう理解されてますか?
>現象を区別することはない。
このことの説明として語っています。
「現象を区別」は原始経典用語で「識別作用」、
私の言葉で認識機能のことを指します。
「究極的」の表現は慧解脱のことを指しています。
身で体現する者、
身証者(定で涅槃に飛び込んだ経験のある人)にしてみれば、
究極的という表現は、悟りを達成していないので、
時解脱涅槃がそれと思うしかありませんが、この場合は違います。
アーチャン・チャーはサマタ瞑想を、補助的手段としか考えていません。
アーチャン・チャー「手放す生き方」より
>サマーディはヴィパッサナーの土台としてのみ用いられる。
>ゆえに、そんなに強いサマーディは必要ないのじゃ。
>心を直接観察することが、智慧である。おまえさんが心を観察し、
>それを理解するとき、経典を読む事や、
>サマーディ(定)の力の限界を知るだろう。
>この我も無我もないというところの意味を、
> tkさんはどう理解されてますか?
不可知、
すなわち我も無我もその他「一切の」知覚対象がありません
と言う意味です。
EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
>ただし『それは知り得ない』が、『それで在り得るという事は可能だ』。
>これが、光明のすべてを物語る、世界一短い言葉だ。
>
> 『不可知、只在あるいは只不在』と。
>
>だから、それを痛感し尽くした彼らは「探すな、求めるな、見るな、知るな」と30年
>も40年も言い続けた。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html
私は今回は稀にしか見ない身証者の方がおられたので、
その先の情報提供にここを訪れました。
悟りに向かうベクトルは「自覚」では無く「自滅」ですが、
その前段として「自覚」は有効な特徴の教えだと思います。
142
:
武
:2018/11/02(金) 03:07:39
つよしさん
>あるがままの世界を「これがあるがままの世界だ」とレッテル付けを誰がしているのだろうか?
中々良い質問です。
悟った人でも普通人同様に生きているのに、変だろう、
と言う種類の質問ですね。
実は、悟った人である慧解脱者はパラドキシカルな世界で生きています。
心が沈黙したまま、言葉が発せられ、行為が現れ、しかし、
言葉を発している者や行為者はいない。
以前ご紹介したバーナーデッド・ロバーツのおどろおどろしい表現が、
実はあの方の慧解脱したての頃の表現です。
「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>この第二の変化の本質は外にあるすべてのものの脱落で、その結果、
>あの素晴らしい「一なること」も、
>個々の物に焦点を当てられる立体鏡も無くなり、
>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。
>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
>最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。しかし時がたつにつれて、
>償いとなるものが何もないので、この状態が次第につらくなって来ました。
>内にも外にも絶えず虚無だけを見ることは何とも言えない徒労で、
>耐えがたいことなのです。
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。
>この旅について特に強調したいことは、
>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。
>これは私にとっては神なしで生きることを意味していました。
>こうして希望と信頼を奪われ、究極の実在なしに生きることに十分に慣れ、
>ついにこの状況を受け入れるほかなくなった時にはじめて、
>突然「それ」が真理でありすべてであることが分かったのです。
これは、慧解脱達成したての時に、
その事をそのまま無理して表しています。
表現としては、なりたての人の表現なので生々しいです。
「認識」と言う言葉を普通に使い回す慧解脱(悟り)前の人には、
これは理解できる代物ではありません。
(続きます)
143
:
武
:2018/11/02(金) 03:08:32
(続きです)
>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。
これは私が解説した通りで、「見る」意志行為は出来なくなり、
意志の関与しない「見える」しかできなくなった事を表したいわけです。
>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
> 最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。
他の人から見たら、この方の前にはしっかりと景色も物体もあるのに、
この方自身は何も無いと表現するわけです。
普通の人が見たら「目の前に物があるのに、何も無いって、
あなた頭が変なんじゃないですか、ロバーツさん」と言う状況です。
この方は目をつむっているわけでも何でもありません。
このパラドキシカルが、慧解脱(悟り)の特徴です。
知覚は在るが、認識できる知覚対象が無いと言う、
悟りの完成形の内容がここに表されています。
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
心が沈黙しているのに会話ができる、パラドキシカルです。
他の人から見たら行為をしているのに、行為していないと表現したり、
このような世界です。
私の場合はアストラル体の動きを殺す事が目的の一つでしたので、
慧解脱のパラドキシカルれが到来しなければ、
身動きもままならないで、
永遠にスローモーションでもがく事になっていました。
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。
心が沈黙での会話は慣れれば快適です。
>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。
この虚無は、前にもお話しした認識機能を駆使しての
知覚対象追求ベクトルの状態としての無(虚無)ではなく、
我も無我も無い無我同様に、我も無我も虚無も実在も、
認識できる知覚対象が一切無いとする虚無です。
認識機能を有したまま知覚対象を追求する、
知覚対象追求ベクトルに対して、
認識機能が無くなって知覚対象を追求以前になってしまった者。
私も達成したての頃は随分とこれが珍しかったのですが、
慣れとは恐ろしいもので今では当たり前です。
144
:
武
:2018/11/02(金) 07:01:53
悟った者のパラドキシカルについて、
「認識」と言う言葉を当たり前に使い回す人には
到底理解できないものである事を、実例で説明しました。
>あるがままの世界を「これがあるがままの世界だ」とレッテル付けを誰がしているのだろうか?
私は何もしていません、
そのようにみられる行為がただそこにあるだけです、
これが私の回答です。
「I AM THAT 私は在る」(ニサルガダッタ・マハラジ)
>私は無だ。
>何ももたず、何もできない。
>だが、すべては私から立ち現われる。
>その源が私だ。
>その根底と源泉が私なのだ。
「マハラジさん、あなたそこにいて会話したり行動しているのに、
何もできないって、あなた頭が変なんじゃないんですか」、
このように「認識」と言う言葉を当たり前に振り回す人たちには、
悟りを得た人の世界は全く理解できないものですので、
そういう「認識」機能の変容してしまった悟りを得た人たちの不可解な
世界があると、そのように思っていていただくより
仕方ないのかもしれません。
145
:
慧空
:2018/11/02(金) 08:02:52
tkさん
上の、
>この我も無我もないというところの意味を、
> tkさんはどう理解されてますか?
という私の質問は、質問の内容が悪かったようです。
すみません。
しかし、私も何度も言いますが(笑)、
認識機能が無いという人が、自分に認識機能が無いと言うのは、
余りに馬鹿げています。
存在がまだあるのですから、認識機能が薄くなることはあっても、
認識機能が無くなることはありません。
と言っても、無駄か(笑)。
この私の文章を読まれたら、あなたの右指を自分の鼻の穴に突っ込んでみてください。
そして、誰がその手を動かしたのかを改めて考えて頂きたいと思います。
と言っても、無駄か(笑)。
146
:
武
:2018/11/02(金) 19:48:44
慧空さん
>認識機能が無いという人が、自分に認識機能が無いと言うのは、
> 余りに馬鹿げています。
慧空さんにとってはそうなのでしょうね。
何度も申し上げますが、
「自分」と認識できるものはありません(不可知)。
これも、沈黙の言葉です。
このように言葉に表すと、異次元のオンパレードです。
> 存在がまだあるのですから、認識機能が薄くなることはあっても、
> 認識機能が無くなることはありません。
>と言っても、無駄か(笑)。
言うのは勝手です。
>この私の文章を読まれたら、あなたの右指を自分の鼻の穴に突っ込んでみてください。
>そして、誰がその手を動かしたのかを改めて考えて頂きたいと思います。
>と言っても、無駄か(笑)。
「誰が(不可知)」、最初からこの説明に終始してますので、
もう諦められた方がよろしいです。
この質問も知覚対象追求ベクトルです。
慧空さんはそれで良いと思います。
「認識」と言う言葉を当たり前に使い回す段階の方に対し、
理解してもらおうとかで、
興味に答えるだけしか意味をなさない質問に答えたわけではありません。
分からない事を述べている人物の印象を残すために答えました。
これで、ひととおり答えたので、そろっと失礼しましょうか。
147
:
慧空
:2018/11/02(金) 20:26:40
tkさん
「不可知」と仰る割には、自分の自我は滅しているとか、認識機能が無いとか、
えらく断定的なことを仰る。
そのあたりの矛盾に目を向けられたらどうでしょう。
悟りについて、無我だ、認識機能が無いだのと、特定の概念を主張するところが、
まだまだなのです。
吟味が足りてないのです。
と言っても、無駄か(笑)
tkさんは、きっとまたここに来られますよ。
私や私の言うことが気になってしょうがないはずです。
いつでも歓迎ですから、どうぞお越しください。
148
:
武
:2018/11/02(金) 22:10:08
慧空さん素晴らしい。
つい、出てきてしまいました。
>tkさんは、きっとまたここに来られますよ。
>私や私の言うことが気になってしょうがないはずです。
ここの部分です、この視点。
さすが身証。
かなり見直しました。
頑張って下さい。
では失礼します。
149
:
つよし
:2018/11/02(金) 23:37:33
tkさん、
再度詳しいご説明頂きありがとうございます。
いろいろと質問や意見をしてみたい点もありますが、まず自分自身が終結した感がないのでやめておきます笑
すみません。
でも、tkさんやバーナデッドロバーツさんが仰る境地は、とある別の覚者が仰っている境地と同じだなと思いました。
認識を超えた先。
自覚でいう「考え」それなしにモノを観る。
そのモノがあるとわかってるんだから自我はあるでしょうに、というのが慧空さんの言い分?かと勝手に思っていますが、ここは自身で虚無に突入し確かめて、この目で観なければ(目はありませんが)何も言えないなと思いました。
実践あるのみです。
ありがとうございました。
150
:
武
:2018/11/03(土) 04:27:34
ちょっと尻切れトンボになりましたので、最後の最後のコメントです。
私はずっと慧空さんには、あなたは知覚対象追及ベクトルしかありませんと
突きつけてきましたが、
最後の最後にもう一つの欠落していたベクトルが出てきたので、
これを評価しました。
>tkさんは、きっとまたここに来られますよ。
>私や私の言うことが気になってしょうがないはずです。
「気になってしょうがないはず」、
自らのこれ(内面と言う胸のあたりの感覚)を見抜いていく視点が
もう一つの別ベクトル。
これを続けていくと、内面そのものが最後に消滅します。
やがて結果として、私のような意識でもなく、
ミクロンレベルの薄っぺらな知覚だけみたいなことになってしまいます。
マハラジではありませんが、知覚が在ること以外には「私は何もできない」、
消滅した内面ではそれ以上何も起こせません。
そうすると内面も「認識」も無いのに、行為だけが繰り出されていく。
「認識」は「内面」に関係しています。
私のこれもただ(唯)言っているだけです。
良かったですね、訪れたかいがありました。
本当にこれで、失礼しますので、ではさようなら。
151
:
慧空
:2018/11/03(土) 07:47:47
tkさん
>知覚が在ること以外には「私は何もできない」
また馬鹿なことを仰いましたね。
吟味が足りないから、発する言葉が矛盾だらけになるのです。
「知覚はある」と仰るのに、「認識はない」と仰る。
あなたは、知覚と認識の区別ができているのか!!
区別できているのなら、去る前に、ここでそれを説明してみてくださいな。
152
:
箱
:2018/11/04(日) 00:30:12
知覚はあるのに、認識はない、というのはロボットのようでもありますね。
153
:
武
:2018/11/04(日) 03:29:52
>また馬鹿なことを仰いましたね。
いくら呼ばれても、悟っていない方にこれ以上説明する意義を感じません。
この捉え方で結構です。
既に説明しましたが、理解されるためでは無く、
訳の分からない事を話する者がいる印象ずけのために来ただけで、
充分にその目的は果たせました。
私も至る前はこの状況が来ることは、その瞬間まで一切わかりませんでした。
つまり、分からなくても「悟り」には辿りつけます。
「自覚」は知覚対象に対する「認識機能」を駆使する教えと見ております。
私はあなたにとって、馬鹿な事を話する人物で良いです。
あなたにとって将来役に立つかもしれない、情報を置きに来ただけですから。
今の自信のあるあなたをひっくり返すために来たわけではありません。
私は今は言語化がスムースでは無い時期です。
既に述べましたが、私がお勧めする両者が「認識機能」について
うまい説明しているではありませんか。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12486/1424167539/102
>原田雪渓氏
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E6%88%91%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%95-%E3%83%BB%E7%A6%85-%E3%81%9D%E3%81%AE3-%E5%8E%9F%E7%94%B0-%E9%9B%AAE6%B8%93/dp/493890201X
>『悟りとは、人の分別心や認識の入らない世界を言います。
>言い換えれば"今"ということです(略)
>井上貫道氏
http://www.nakanojouganji.jp/kihou/12inoue1.htm
>>ところが 「認識」のまだない子どもは、
>>なにも思わずにやっているだけです。そういう世界がある。
>>お釈迦さまはそういうことを悟ったのです。
>※私の単なる自論ではないと言う裏付けとして、
> 他者様の引用をさせていただいております。
あなたにしてみたら、まともに生活しているのに
「知覚」があって「認識」が無いって、あなた馬鹿なんじゃないんですか、
と言う訳ですね。
それで良いと思います。
このような、悟った者達にとってのあたりまえでも、
それ以前の人にとってはパラドキシカルな不可解以外の何物でもない事を、
これ以上説明する意義を感じません。
原田雪渓氏
>原田: いや、聞くものと教えとの間に、
>自分というものを差し挟まなければ、直接耳に入る。
>直接ものが見えるということになります。自分というものの介在がなければ。
>いわゆる自分を立てて聞くとか、見るとかという、
>そういう意識がなければね。
>しかし私たちはいつでもそれをしているわけです。そんな意識をしながら、
>〈私は今、私がものを見ている〉〈私がものを聞いている〉というような
>ことを意識せずに、いつでもどこでも何をしておっても、
>それはきちんとそういうものと一体となっている状態というのは
>あるわけです。それを「今」とこう言っています。
>「今」からちょっとずれると、認識が起きて、ものを認める、
>ということになるわけです。ものを認めることが一番問題になるわけですね。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-567.htm
この方は説明がうまいですね。
失礼します。
154
:
武
:2018/11/04(日) 03:44:28
箱さん
>知覚はあるのに、認識はない、というのはロボットのようでもありますね。
その通りです。
着眼点が凄くいいですね。
普通の人が持っている機能を手放して、
ロボットのそれに近くなったとする捉え方は、当たりです。
ロボットとの共通点は、
「内面(と捉えられている思考と連動する胸のあたりの感覚)」が
無い点です。
155
:
武
:2018/11/04(日) 04:09:50
慧空さんの質問は知覚対象追求ベクトルでの質問に終始していて、
それ一本に縛り付けられています。
こちらは、その追求機能の方がありませんから、その質問、
何度も繰り返しますが悟りとベクトルが異なります。
「認識機能」に縛り付けられているあなたは、
このベクトルの違いに気が付けません。
でも、それで良いと思います。
もっと言えば、サマタ瞑想も悟った後には変化します。
こちらには「集中」と言う機能が無い訳ですから。
余談でしたね、では失礼。
156
:
慧空
:2018/11/04(日) 07:34:35
また人の引用ですか。
いい加減にしなさい。
雪渓さんや貫道さんの言葉なんてどうでもいい。
人の引用ばかりをごちゃごちゃと書いてないで、
あなたの言葉で、知覚と認識の違いをここで説明してみなさいな。
さあ!
157
:
武
:2018/11/04(日) 07:42:41
>吟味が足りないから、発する言葉が矛盾だらけになるのです。
あなたにとって矛盾だらけは、私だけでは無いでしょう。
バーナーデッド・ロバーツもニサルガダッタ・マハラジも、
あなたにとっては全て矛盾だらけです。
あなたにわからないものがある事を理解したらどうですか。
はっきり言います、悟ってない事を理解したらどうですか、慧空さん。
あなたは、我々と次元が違います。
これが答えです。
158
:
慧空
:2018/11/04(日) 07:48:27
そんなことより、
知覚と認識の違いをどうぞ。
159
:
ジョン
:2018/11/04(日) 09:13:42
知覚は「今」、認識は「過去」
武さん、何度も戻ってくるんだから、これで最後とか言わないでくださいな
やりとりを楽しんでる人もいるんだから
160
:
武
:2018/11/04(日) 11:10:59
慧空さん
>そんなことより、
>知覚と認識の違いをどうぞ。
すみません、知覚が紛らわしい表現だったかもしれません。
感覚と表現を替えれば意味が通じますか。
それでも意味が通じませんか。
161
:
武
:2018/11/04(日) 11:24:08
>そんなことより、
>知覚と認識の違いをどうぞ。
この違いは次のページに説明されています。
第12講 「感覚」「知覚」「認識」 – Study Support
http://hi-5kaku.net/moriyama/2013/08/18/%E7%AC%AC11%E8%AC%9B%E3%80%80%E3%80%8C%E6%84%9F%E8%A6%9A%E3%80%8D%E3%80%8C%E7%9F%A5%E8%A6%9A%E3%80%8D%E3%80%8C%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%80%8D/
162
:
武
:2018/11/04(日) 11:30:10
この定義によると、私の表現は知覚ではなく感覚でした。
失礼しました。
163
:
武
:2018/11/04(日) 11:54:33
この定義づけで行くと、慧空さんは知覚を認識の表現で使い回していられる
ように思われます。
https://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/0de0cfda777eb487df6014efa7979fde
定義をはっきりさせておかなければなりませんでした。
164
:
武
:2018/11/04(日) 12:18:10
この定義に基づいて、慧空さんは感覚を知覚している者は誰ですかが
問いたい内容だと思います。
この定義にしても、答えは「知覚できません(不可知)」という事になります。
165
:
中田
:2018/11/04(日) 12:27:16
武さんにお尋ねします。
内面(とされるもの)の不眠不休の観察によって、内面が消滅する。
といった理解でよろしいでしょうか?
見ることを尽くして「見る」が消えて「見える」だけになる。
最初で最後の努力によって、やがて努力不要(より正確には努力ができなくなる)という在り方になる。
このように理解しておりますが、如何でしょうか?
166
:
武
:2018/11/04(日) 12:46:12
答えが全てあの定義づけのページにかかれているように思います。
つまり、感覚に意志が作用しなければ、ただの(ありのままの)感覚です。
意志が作用して、初めて知覚行為になります。
そして、知覚行為が無い事がイコール無我(我の不可知)です。
私も普段使いなれない定義づけですが、
あのページのおかげで説明が容易です。
167
:
武
:2018/11/04(日) 13:14:39
原田雪渓氏
>原田: いや、聞くものと教えとの間に、
>自分というものを差し挟まなければ、直接耳に入る。
>直接ものが見えるということになります。自分というものの介在がなければ。
>いわゆる自分を立てて聞くとか、見るとかという、
>そういう意識がなければね。
>しかし私たちはいつでもそれをしているわけです。そんな意識をしながら、
>〈私は今、私がものを見ている〉〈私がものを聞いている〉というような
>ことを意識せずに、いつでもどこでも何をしておっても、
>それはきちんとそういうものと一体となっている状態というのは
>あるわけです。それを「今」とこう言っています。
>「今」からちょっとずれると、認識が起きて、ものを認める、
>ということになるわけです。ものを認めることが一番問題になるわけですね。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-567.htm
この方も、知覚を認識と表現していられますが、
科学的にプロセスを示す場合は感覚、知覚、
認識と定義づけした方が良いのでしょう。
原田雪渓氏も私と同じ事を述べていられます。
>原田: いや、聞くものと教えとの間に、
>自分というものを差し挟まなければ、直接耳に入る。
>直接ものが見えるということになります。自分というものの介在がなければ。
>いわゆる自分を立てて聞くとか、見るとかという、
>そういう意識がなければね。
この方の表現をある特徴に気をつけながら良く見て下さい。
「耳に入る」「見える」と「聞く」「見る」
「意志の関与」の有無が、悟りの特徴であるとお話していられるのです。
私が今まで述べてきた事をそのまま語っておられます。
今私は、言語化がスムースにいかない時期です。
168
:
名無しさん
:2018/11/04(日) 17:48:12
宝鏡三昧にある「木人まさに歌い、石女たって舞う」でしょうかね
169
:
慧空
:2018/11/04(日) 19:03:24
tkさん
どうしてそうやって、誰かの言葉に頼るのか。
いまは雪渓さんの言っていることなどどうでもいいのです。
(必要とあれば、雪渓のことはまた今度吟味させてもらいます)
問題なのは、tkさん、あなたの発言です。
知覚はあると仰るのに、認識はないと仰る、この発言です。
知覚を「感覚」という表現に変えると言われてますが、
私が散々指摘してその違和感にやっと気づくという、
その理解の曖昧さが問題なのです。
余りにも吟味が足りない。
どうしてそのような不正確な言葉が出てきてしまうのか。
それは、他人の言葉を鵜呑みにいして自分でしっかりと理解できていないからです。
まあ、この点も既に散々申し上げてますから、いまさらいいでしょう。
本当の問題は、ここからです。
「知覚」を「感覚」に置き換える、ここです。
心理学者や脳科学者、そして、その辺の一般的な覚者ならそれで納得するでしょう。
しかし、そう置き換えたところで、やはりまだ中途半端なのです。
上の言葉の置き換えをすると、tkさんは、
「感覚」はあるが、「認識」はない、ということを仰っている訳です。
しかし本当に、音等に対する「感覚」はあるが、その音等に関する「認識」が無いような状態というものが
あり得るでしょうか。
本当に、「感覚」と「認識」はそのように切り離せるものなのでしょうか。
よくよく吟味してみて頂きたいと思います。
私が言っている「認識」とは、一貫して究極的かつ本質的な意味でそう言っています。
私が「認識」や「意識」、あるいは「識」と言うときは、常にそのような意味で用いています。
五感に意を含めた六根という言葉があります(仏教用語は使いたくないのですが、しょうがないでしょう、笑)。
まずは五感について、
例えば聴覚が起こるとき、音に関する感覚が起こるとき、その感覚がどのように起こっているのかについて
徹底的に追求、吟味してもらいたいのです。
徹底的に追求、吟味すると、
五感の各感覚が起こるとき、否応なくその感覚は、その感覚の「認識」そのものとしてして起こってきていることが分かります。
意についても、どうようです。意が起こるとき、否応なくその意はそのその意の「認識」として起こってきていることが分かります。
こうして突き詰めていくと、
この世界は、六根の動きの連鎖として捉えることができることが分かってきます。
そして、その六根の各連鎖がすべてその「認識」そのものととして起こってきていることが分かってきます。
また、「認識」が無ければ六根からの起こりも無い、あるいは無いも同然とということが分かってきます。
つまり、「認識」が無い状態とは、何も起こらないし、何も無い状態となってしまうのです。
これは、自分で追求してみるしかありません。
170
:
武
:2018/11/04(日) 20:19:58
中田さん
>武さんにお尋ねします。
今は言語化があまりスムースではありませんが
その点はお許しいただいて。
>内面(とされるもの)の不眠不休の観察によって、内面が消滅する。
>といった理解でよろしいでしょうか?
慧解脱前の普通の方の思考と内面は通常セットで
思いを構成しています。
思考にも言葉にも行為にも内面の動きが付随します。
意識のある限り内面の動きを殺してしまうのが、
ヴィパッサナの本質です。
これは、この物質世界環境でしか可能では無い訓練方法です。
そのためには思考、言葉、行為に制限をかけることで、
それに付随する内面の動きを殺してしまう方法となります。
しかし、何も思わない様にしようと思って殺せるほど、
思いは簡単に死んでくれません。
そこでとられるのが、ある一定の方向に意図的に思いを
起動させる事を利用して、思いを殺す方法が
釈迦やイエスの教えの本質です。
ある一定の方向性に意図的に思いを起動させるのです。
よって達成した時には、意図的に思いを起動させるための意志が
欠落するので、これが出来なくなることで、
終了成就を確認することになります。
意志の空振り感覚とでも言うのでしょうか、
とにかく瞬間的にその場だけで消える思考があっても、
それに付随していた内面が無い、
今まで思いとしていたものが解体していて、
意図的に起動させる事が不能である事を知る事となります。
私にとっては狙ってなったものでは無く、予期せぬ出来事でした。
しかし、やめた方が良いですよ。
「自覚」のような逆ベクトルの訓練で、しっかりとエゴを強化して、
まずは幸せな生活を歩んだ方が良いと思います。
マハラジにしても、異なる実践法ではありますが、
3年で悟ったとされていて、命がけの水準のものとなります。
https://ameblo.jp/kenkoudoujou-20100119/entry-11772900363.html
>「師の教えを実現しなければ、死ぬしかないと思った」と言っていた。
私は1年少しで達成しましたが、
命と引き換えの水準になるよう工夫したものでやらなければ
達成できません。
EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
> 『即効性』のある体系とは、すなわち、
> どれだけ速く、その体系が人を
> 『生き地獄に送り込めるか』という一点に尽きる。
>
> 「仏道は、そんな無慈悲なものではない、
> そんなのは嘘だ」とまだ言い張るのならば、
>
> 一体、今までに何度、
> 地獄こそが、探求者たちを救って来たかを、
> じっくりと見てみることである。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html
アーチャン・チャー 手放す生き方より
>悲しいかな、真に仏道修行を志す人は、ほとんどいません。
>私は多くの人に修行をするように熱心に説いてきましたが、
>中には論理的な方法でしか学ばない人もいます。
>死を辞さず、そして再び自由となってよみがえるような人は稀です。
>私は残りの人たちを気の毒に思います。
>最初で最後の努力によって、
>やがて努力不要(より正確には努力ができなくなる)という
>在り方になる。
ただ(唯)やっているだけの唯作心と呼ばれていますが、
努力はありませんし、行為が在っても、行為ですらもありません。
さて、これでそろそろ失礼したいと思います。
171
:
武
:2018/11/04(日) 20:23:04
慧空さん。
原田雪渓氏の引用をされると、
あなたは説明が付けられないのでまずいのだと思いますよ。
何度も申しあげましたが、私はあなたに信じてもらう必要はありません。
あなたのお気に入りの表現方法を使う必要もありません。
感覚を知覚と表現したところで、
そのような定義づけも存在しているので
どの定義を使うか私の自由です。
あなたの定義ではないからと言って、
間違い呼ばわりさせるものではありません。
感覚 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E8%A6%9A
>1.生理学としては、分類された知覚にあたる。
あなたの真実は次の一言で、
全て丸裸にあなたの水準が見抜けてしまうのです。
>これは、自分で追求してみるしかありません。
あなたの最後のこの一言だけ見れば、
悟っていない人だと分かります。
あなたは、最初から最後まで私に知覚対象追求ベクトルと
表現されてきました。
分からないのですよね、悟っていないあなたにはその事の意味が。
追及や認識を捨て続けるベクトルで辿りつけるものが他にあることを。
あなたの嫌いな引用をしますが、EO氏も同じ事をお話してますよ。
(私の単なる自論では無いと言う意味です)
EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
>ところが、「なろう」「見付けよう」「在ろう」、このいずれもが、
>その行為に着手したその瞬間に、悟りの性質とは相入れないものなのだ。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html
今のあなたにお話ししても無駄のようです。
今度、私の引用した部分の原田雪渓氏の解説とか、
バーナーデッド・ロバーツの解説でもしてみて下さい。
その次元にいないあなたには、まともに解説出来ないはずです。
信じている方向のある、今のあなたに説明しても無駄ですね。
なのでこれで本当にこの件に関しては、終わりにしたいと考えます。
172
:
慧空
:2018/11/04(日) 20:48:22
tkさん
では、早速、雪渓の言っていることを見てみましょうか。
>「今」からちょっとずれると、認識が起きて、ものを認める、
この方の悟りの到達度が、この言葉に表れています。
おそらく小悟か、それ以下の階層です。
思考が減り、観照意識が立ち上がると、「今」というような表現をしたくなる
意識状態となります。
思考が減り、自我感覚も薄くなっているため、超越した感覚が生じます。
しかし、思考が無くなってはいません(本人が気づけないだけです)。
多くの覚者は、自らの思考に気づけず、そこで留まります。
もちろん悟りもまだ途中であり、複数の囚われがあります。
この悟り特有の囚われや特徴は、自分の悟りや意識状態について、「今」とか、「気づき」等の特定の言葉を使って表して
しまうところにあります。
173
:
慧空
:2018/11/04(日) 20:59:15
続きです。
バーナーデット・ロバーツは、彼女の代表的な本を読んだことがあるので、
それなりに知っています。
もう大分忘れてしまいましたし、その本はいま手元にないので、
ハッキリとしたことは言えないのですが、彼女の悟りはある程度分かります。
彼女が表現している沈黙という言葉から、思考が相当減っていることがうかがえます。
しかし、思考が完全に無くなることはありませんので、減っただけで無くなってはいません。
また、記載や表現の仕方は忘れましたが、「見るものは見られるもの」を体験している可能性があると
思います。
もし「見るものは見られるもの」を体験しているのなら、それなりの悟り階層に到達していることになります。
その場合、思考も相当減っているはずです。
観照意識はほぼ常に立ち上がっているかもしれません。
そういう彼女もまだ悟りの途中です。
彼女には、悟りの進展を阻む強い囚われ(執着と言ってもいいです)があるのです。
それは何か。
それは、神なのです。
彼女はまだ神を信じ、それを手放せないのです。
それと、彼女には、存在が消滅するとこへの激しい恐れがあります。
つまり、彼女は存在を続けたいのです。
存在することへの強い執着があるのです。
そのあたりが、彼女の悟りの進展を阻んでいるように思われます。
174
:
中田
:2018/11/04(日) 22:14:50
>>170
武さん
命懸け……となりましょうね。
ウム……。
終了成就の確認等々も含め
大変参考になりました。
ご丁寧にありがとうございました。
175
:
武
:2018/11/04(日) 22:25:11
慧空さん
全く外れています。
原田雪渓氏の話しする「今」があなたには分かりません。
そう、私にも分かりません。
ご本人にも分かりません。
しかし、この意味が知覚対象追求ベクトルしかないあなたには
分かりません。
それと、あなたの使い回す思考と、この方々の語る思考は、
同じ思考と言う表現でも既に違うものです。
全く的外れの答えです。
バーナーデッド・ロバーツの私の引用した部分の解説はいかがですか。
やめましょう。
>彼女はまだ神を信じ、それを手放せないのです。
バーナーデッド・ロバーツは神など信じていませんよ。
信じたいようなそぶりはしているかもしれませんが、
「信じる」と言う行為、これがどういうものかあなたには
分かっていません。
このあなたのコメントを見ただけで、
あなたは悟っていない人丸裸ですね。
あなたにしてみれば訳の分からない、勘違い人種の我々ですが、
我々にしてみれば、あなたは悟りを得ていない異次元の方です。
その異次元の方に、我々の事をこれ以上お話しする必要はありません。
しょせん、あなた自らの分かる範囲でむりやりこじつけて
自らを納得させるだけです。
そもそも、あなたの信じている「自覚」の教えと、
あなたの知覚対象追求ベクトルは同一方向のものです。
ですので、私はこれ以上信じているものがある方を
理解させようなどと思ってません。
176
:
武
:2018/11/04(日) 22:45:04
慧空さんは自信家ですね。
あなたから見たら我々は勘違い人種ですが、それでかまいません。
むしろその方が良いと思います。
今あなたの信じている教えが、順調に言っている事の証しですから。
「自覚」の教えは、欲を言えばもう一工夫欲しいですが、
まずくはないと思います。
頑張って下さい。
私はここで充分にパフォーマンスして勘違い人種としてでも良いので、
印象に残る事で目的は果たせました。
ご健闘をお祈りします。
177
:
武
:2018/11/05(月) 03:41:40
ヒントだけ置いていきます。
知覚対象追求ベクトルとは、常に状態として捉えようとしているのです。
しかし、悟りのベクトルは、これをしたら永遠に辿りつけません。
釈迦が悟れなくて七転八倒したトラップがこれだったのですから。
EO氏も口すっぱくこの点について、忠告しています。
EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
>ただし『それは知り得ない』が、『それで在り得るという事は可能だ』。
>これが、光明のすべてを物語る、世界一短い言葉だ。
>
> 『不可知、只在あるいは只不在』と。
>
>だから、それを痛感し尽くした彼らは「探すな、求めるな、見るな、知るな」と30年
>も40年も言い続けた。しかし『悟りは、絶対に知り得ない』、
>というその結論は、それを全身全霊で知ろうとした、
>彼らの苦しい地獄のような葛藤こそが割り出した結論なのである。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html
ちなみに原田雪渓氏はEO氏お墨付きの覚者です。
EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
>私が日本で唯一ただ一人、敬意を払っていた老師がいる。彼の名は原田雪渓(福井県の
>発心寺の住職)。ただし私と老師の間には、直接の面識はない。さて、老師は言う
>『今は認識できない。(今には、時間も距離も、場所もないからであります)
>認識できるのは、過去と未来のことだけです。』
>
>『坐禅が、明瞭でなくてもよろしいから、
> ただひたすら座布を「坐」で温めて「坐忘」をすることです』
>
>この二言だけで、彼が「どこにいるか」の、そのすべてを語っている。
>私は彼の事を日本のクリシュナムルティーと呼んでいた。
>私が、会ってみることを他人に勧める、ただ一人の日本の導師だ。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html
178
:
慧空
:2018/11/05(月) 08:31:38
>>「今」からちょっとずれると、認識が起きて、ものを認める、
馬鹿な(^o^)
しっかりと何度も何度も、彼らは「今」と主張してるでしょうに。
そこにその認識がないとは言わせません。
その辺の覚者どもは、まったく勘違い野郎ばかりで困ったものだ。(^o^)
179
:
慧空
:2018/11/05(月) 10:02:10
いい機会なので、ここに来られる方へのヒントとしてもう少し書いておきます。
tkさんはもういいです。
ワンパターンなので、もうすっかり飽きてきました。(^o^)
悟りには階層があり、順番があります。
どうしても順番にやっていくしかありません。
そして、各階層ごとに特徴があります。
その特徴とは、各階層ごとに意識の表面に現れてきやすい囚われや感覚があり、それによるものなのです。
覚者たちは、その自分が属する階層に応じた囚われや感覚を言葉にして表現します。
最初の階層では、愛や幸福、光、ワンネスなどそういう言葉が出てきやすいです。
中には、神という言葉を発する人もいるでしょう。
この階層は、まだ悟りには到達しておらず、未悟です。
まだまだ囚われも多く、思考も多いです。
しかし、本人は自分の思考に気づかず、自分の自我が消滅したなどと言いだします。
180
:
慧空
:2018/11/05(月) 10:11:12
続きです。
さらに囚われが減ると、それに伴って思考も減ってきます。
そうすると、雑念の雲が晴れるようにして、観照意識が表面に出てくるようになります。
その観照意識がしっかりと確立すると、小悟となります。
この階層は、観照意識が立ち上がることにより生じる感覚が特徴です。
この階層にいる覚者たちは、その感覚や状態を「今」とか、「ただ観ている」とか、
「気づき」とか、そのような言葉で表現しようとします。
「真我」という言葉を使う人も多いです。
この階層にいる有名な覚者としては、ラマナ、プンジャン等がいます。
他ににもいるでしょうが、私は悟り業界のことを余り知らないので、分かりません。
181
:
慧空
:2018/11/05(月) 10:21:02
小悟は囚われが減ったとは言え、まだまだ多くの囚われが残っています。
彼らには、まだ自分が「これだ」と掴んでいる囚われがあるのです。
そして、その掴んでいるものが言葉になって出てきます。
「これだ」と言って主張となる訳です。
上に挙げた、「今」、「だた観ている」、「気づき」等の言葉が、まさに彼らの囚われなのです。
彼らの囚われは、それだけではありません。
彼らには「こうあるべき」等の種々の囚われがまだまだあり、彼らの言動が注意深く観ていると、
囚われに関連した言葉や概念が必ず出てきます。
「こうだ」という強い口調とともに。
彼らには、まだ自分が握りしめている囚われに関連した、何らかの具体的な概念の主張があるのです。
その主張は、彼ら自身も気づかないし、ましてや普通の人は気づきません。
182
:
慧空
:2018/11/05(月) 10:38:16
どうして自らの囚われや主張に気づけないのか。
それは、彼らが余りにも当たり前のこととしてしまっているため、
それが盲点となり、気づけないのです。
囚われとは、そういうものなのです。
盲点となるのです。
別の言い方をすると、彼らは「今だ」などと認識し、主張しているその主張に対する吟味が足りないのです。
本当にそうなのかという吟味が足りないのです。
自らの主張に気づき、それに対して徹底的に検証し、吟味していくと、
一切のことがらに根拠がなく、また何も知り得ないという分かってきます。
また、一切のこと、この世界そのものである私という存在が意識(識と言ってもいいです)の連鎖的な展開である
ことが分かってきます。
これが大悟となります。
大悟まで来ると、私という存在を含めて一切に「これだ」ということが何も無いことが分かっていますから、
何か具体的な概念を主張することも無くなります。
軽はずみ「今」などと言うことも無くなります。
上で紹介した「観るものは観られるもの」は、小悟階層から大悟階層に到達する途中で体験するものなのです。
囚われがさらに減り、それに伴って思考が相当減ってくると、より深い観照意識が表面化するとともに、
「観ている」という視点の欠落(正確には、欠落感)や、自我感覚の欠落(正確には欠落感)が生じ、
主体が落ちて観ている対象だけになる意識状態が生じます。
それを「観るものは観られるもの」と言います。
183
:
慧空
:2018/11/05(月) 10:47:50
「観るものは観られるもの」を体験するところまで来ると、
自我感覚の喪失感が激しく、またその体験の日常感覚とのギャップの激しさもあり、
殆どの人は、自分の自我は消滅したと思ってしまうのだろうと思います。
ましてや、その先の大悟に至ると、自我感覚はさらに希薄になりますから、
自分の自我は完全に滅したと思ってしまうものだと思います。
それでも自我は残っています。
希薄になりながらも、残っているのです。
最後の悟りである解脱へ至るには、希薄になった私という自我をもう一度捉え直し、
「苦」に直面する必要があります。
そろそろ仕事に行く時間なので、取りあえず、このあたりで止めておきます。
184
:
箱
:2018/11/05(月) 14:54:37
慧空さん
ところで疑問なのですが、覚者といわれる方々がそのように考えを掴んでしまうのは何故なのでしょうか?
自分が考えを掴んでいるという違和感は、どう足掻いても消せないように思うので不思議に感じます。
185
:
七条
:2018/11/05(月) 18:08:14
彗空さん、武さん、また皆様にお伺いします。
生きることはズバリ、あなた方にとって
苦ですか?楽ですか?
186
:
慧空
:2018/11/05(月) 22:01:31
箱さん
自分が何かの考えを掴んでしまっていることは、普通の人同様、
覚者であっても、なかなか気づけないものなのですよ。
掴んでいる考えは、思考や感情が起こるときの前提部分として
言わば表層意識の水面下に隠れてしまっているのです。
187
:
慧空
:2018/11/05(月) 22:03:43
七条さん
お答えすることは簡単ですが、
人からそんなことを聞いても、どうなるものでもないですよ。
大切なのは、人がどうかより、自分がどうなのかというところです。
188
:
七条
:2018/11/05(月) 23:39:42
彗空さん
そう言われると身も蓋もないです( ´∀`)
189
:
武
:2018/11/06(火) 02:55:40
七条さん
私の名を呼んでくださる方を無視するわけにいきませんので、
出てまいりました。
>彗空さん、武さん、また皆様にお伺いします。
>生きることはズバリ、あなた方にとって
>苦ですか?楽ですか?
私は答えさせていただきますが、何も感じない事を楽とするなら、
苦と言うものも、そう言う種類の感覚でしかありません。
ただし苦と言う感覚は、生きている甲斐の要素があります。
私自身は感覚ではありませんので、苦ではありませんし、
そもそも生きてもおりません。
このパラドキシカルが悟りの特徴です。
慧空さんの悟りの説明には、
これを初めとする悟りの要素が一切現れていませんが、
それは、ご本人が悟りにいないからです。
しっかりと屁理屈を掴んでいられます。
そして私が覚者としている方々は、実は何も掴んでおりません。
悟っていない人の眼に何か掴んでいるように、見えるだけです。
分かろうとしないエゴイズムの方に何度言っても仕方ありませんが、
唯作心と言う特殊な意識で話しが出て来ているだけです。
これは悟った者にしかわからない事実です。
もうお呼びはかからないでしょうから失礼しますね。
190
:
七条
:2018/11/06(火) 04:31:54
>>189
武さん
> ただし苦と言う感覚は、生きている甲斐の要素があります。
なるほど。わかります。
> 私自身は感覚ではありませんので、苦ではありませんし、
> そもそも生きてもおりません。
盤珪禅師の説く不生の仏心を想起しました。
191
:
慧空
:2018/11/06(火) 08:52:52
こら、タケちゃん!!(^o^)
七条さんへの回答するのに、どうして私の悪口を書いてるの。
私に何か言いたいのなら、真っ直ぐに来なさいよ。
そういう屈折したところに、タケちゃんの囚われが潜でるんだよ。
192
:
箱
:2018/11/06(火) 19:37:36
慧空さん
返信ありがとうございます。
193
:
武
:2018/11/07(水) 03:59:15
>私に何か言いたいのなら、真っ直ぐに来なさいよ。
>そういう屈折したところに、タケちゃんの囚われが潜でるんだよ。
折角出てきたので、そのついでに真実を述べさせていただきました。
折角のお声かけですので、
それではEO氏お墨付きの原田雪渓氏の慧空さんの解説について
お話し申し上げましょう。
>「気づき(サティ)」と「今」が一緒にされるのは、悟っていない方々の
>特徴の一つです。
この様な方々がおられるのは事実ですが、
原田雪渓氏はこのような方々と異なります。
このような方々の特徴は「今を生きる」とか、
この手の表現を多用されるのが特徴です。
http://chino-sommelier.jp/wp/2016/08/24/nikon/
原田雪渓氏は同じ「今」の表現を使っていても異なります。
原田雪渓氏
>生きてもいないし、死んでもいない。"今"というのはそういう状態です。
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E6%88%91%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%95-%E3%83%BB%E7%A6%85-%E3%81%9D%E3%81%AE3-%E5%8E%9F%E7%94%B0-%E9%9B%AA%E6%B8%93/dp/493890201X
実際にこの方は生きているのに、にもかかわらず、
「生きてもいない」とこのようなパラドキシカルな表現が出てくる方は
相当の水準の方です。
慧空さんは「今」と言う言葉さえ使えば皆同じ水準の方だと
思ってしまわれていますが、
「今」と言う表現を使う方々でもこのように2種類おられますから、
慧空さんは前者の、「今を生きる」の表現を使い回す方々の事を
指しています。
確かに、原田雪渓氏の「今」に近いものを慧空さんが経験しているのは
真実ですが、それは慧空さんの考えているものではありません。
ずばり、時解脱涅槃がそれに一番近いものです。
それは、状態では無く、知覚できるものでもありません(不可知)、
この点が共通しており、異なる点は感覚の有無だけです。
知覚対象追求での終点が時解脱涅槃で唯一「状態」では無いものですが、
もう一つの終点の慧解脱も「状態」ではありません。
名称と形態、ナーマルーパ、この二つの異なるベクトルは
古来より存在していました。
(続きます)
194
:
武
:2018/11/07(水) 04:00:01
(続きです)
そして、慧解脱が悟りと表現されている所以は、
時解脱涅槃に対して不時解脱だからと思います。
ちなみに、自覚のような初心者に効果のあると思われる教えに捕まっている
内は、もう一つの終点の方の「状態」ではないものには辿りつけません。
この二つの終点の共通点は「状態」では無い点です。
自我は状態ですので慧空さん自身が「状態」である事は分かりますが、
我々は「状態」ではありません。
ですので、我々の事を「状態」として捉えようとしても
全て的外れとなります。
状態では無い者は、反対に唯作を利用し、
いかような囚われの状態も表せます。
慧空さんは「状態の者」であり、我々は「状態では無い者」で
異なる次元にいます。
慧空さんの前には私がいたとしても、
私には前が無いので慧空さんもおりません。
異次元に思えますでしょうが、これが我々にとっての当たり前です。
私が慧空さんに屁理屈を掴まえていると表現するのは、
私のここで発している理屈も理屈は全て私にとっては屁理屈です。
私は、唯作心を達成していますが、
唯作心とはバーナーデッド・ロバーツの私が引用した部分にありました
「沈黙の言葉」のことで、
屁理屈を掴まえずに屁理屈を表現できると言う意味です。
ですので、原田雪渓氏の語る屁理屈、慧空さんの語る屁理屈、
他の方の語る屁理屈、私の語る屁理屈、我々はそれを掴まえずに語ります。
慧空さんは、この技が出来ません。
慧解脱を得ていないからです。
しかし、私にしても、
これを実現するためには言葉に並々ならぬ厳重な制限をかけ、
その訓練の結果で言葉から思いをそげ落す、沈黙の言葉を可能としました。
言葉だけでは無く、思考にも、
行動にもこの厳重な制限をかけた訓練をほどこし、
その結果で初めて可能としているものです。
ですので、我々の思考は慧空さんの語る思考とは別物です。
思考から思いと言うものがそげ落された、
単なる必要なその瞬間だけ発生する感覚です。
これは、獲得した者にしかわかりません。
私にしても、これをする事が目的ではありませんでしたが、
結果としてこのような特徴を得る事となりました。
これが名称と形態の二つのベクトルの内の、名称の方の終点です。
釈迦の表現では慧解脱と心解脱ですが、折角古来より、
二つの異なるベクトルがあるのですから、
どちらも終点を経験してみる事には得がたい価値があります。
195
:
慧空
:2018/11/07(水) 09:18:11
tkさん
あなたは本当にごちゃごちゃと言葉が多すぎる。
言葉の多さは囚われの多さと関係しています。
それに、
何が「我々」ですか!
人に頼らず、一人で立ちなさいよ。
見苦しい。
人のことはどうでもいい、
あなたの体験をあなたの言葉で話しなさいと言ってるでしょに。
まあ、一人で立てない人に言ってもしょうがいないか。(^o^)
196
:
慧空
:2018/11/07(水) 09:26:02
「今」と、「今を生きる」は少し違います。
しかし、「今を生きる」にしたところで、特定の状態や形を表現した概念であることには
変わりはありません。
特定の概念ですから、そこには制限があるのです。
「生きる」ではなく、「今を生きる」とするところに制限あるのです。
「こうだ」という主張があるのです。
「沈黙の言葉」だってそうです。
特定の形や状態を表現していることに変わりはありません。
「言葉」ではなく、わざわざ「沈黙の言葉」と表現することろに、
まだ形があり、制限があり、そこに主張があります。
それに気づきなさい、私は言っています。
197
:
武
:2018/11/07(水) 22:16:26
慧空さん
私の内容では無く、
]論法にしか主に追及できない人の逃げの姿勢が見えますね。
必至に私から逃げてますね。
私には、よく分かります。
そんなに、ご自身が守りたいですか。
動物の時からの習性ですから致し方ないものなのでしょうが。
逃げか、保身か、人間というものはそういうものなのでしょうね。
あなたをみると、否定的な姿勢でその背後に、
「恐れ」の一文字だけが浮き上がって見えます。
これがあなたの事実です。
守りたいのですよね、ご自身を。
198
:
武
:2018/11/07(水) 22:23:12
保身が過度に働く人の特徴は、「否定語」が多くなります。
人間の特徴の一つですから、
別に私はその姿勢を慧空さんにやめるようにとは言いません。
私は慧空さんのように過度なエゴイズムのまねは、
私の場合は全て演出ですがする気がしませんね。
199
:
武
:2018/11/07(水) 22:31:08
慧空さん、あなたの信じている道を歩んでください。
あなたほどのエゴイズムなら、必ず素晴らしい結果が出ると思います。
私がここでした話は、その時のお楽しみです。
では、これで失礼します。
もう、きりが無いので質問もらっても返しませんので、ご容赦ください。
それでは、お達者で。
200
:
つよし
:2018/11/07(水) 22:55:16
tkさんに質問してみようと思います。
認識についてですが、
具体的には物を見ても記憶からその物に関する情報が起きないのでしょうか?
ただ色がそこにある、みたいな。
しかしそうだとすると、「色」も認識のひとつかと思いますがどうなのでしょう?
色を色と認識しないのならば、何が目の前にあるのでしょうか?
「目の前」という表現は正しくないのかもしれません。
自我があるからこそ距離が生まれる。
もし自我が完全に無くなったのならば、現象創造の最前線を見ているのかと思います。
しかし認識されるものそのものになってしまった場合、何も無くなってしまうのでは?と未悟の私は思うのです。
それこそ、気絶状態になってしまうのでは?と想像します。
もしくは、思考が空回りするという記述がありましたが、認識が起きたとしても自我の歯車に噛み合わず、空回りしたまますぐに流れてしまうということでしょうか?
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