われわれはここでひとつニーチェを紹介しておかなければならない。「距離のパトス」(Pathos der Distanz)。この概念である。われわれは「距離」の感情をもって関係し合うのである。そして「絶対的な隔たり」(デリダの「まったき他者」"tout autre")とはいつも錯覚であり、妄想であり、あるいは便宜であり、実用的のための道具である。
デリダの定式 "tout autre est tout autre" の源泉をなすであろうニーチェのアフォリズムを上げておく。
>"Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller Übrigen ausgeübt. Auch die Liebe zu Gott." (JGB, IV-67)
>「ひとりの者への愛は野蛮な行為である。なぜならひとりの者への愛はその他のすべての者の費用で営まれるからである。神への愛も同じである」(拙訳) (『善悪の彼岸』第四章67)
「費用」(Unkosten)という経済用語の方が、デリダの使う「犠牲」(sacrifice)という不器用な宗教用語よりも事柄を正しく説明するだろう。
長々と引用したが、こうした文章を読んでいると、神が私に直接「語る」ということはないかのごとくに思えてくるだろう。だが、創世記二十二章において神がアブラハムに、その愛する息子イサクを燔祭として捧げるように命じる時、「神は彼に向かって言った」(Deus dixit ad eum)と記されているのである。何の仲介者もなくである。これは神が直接人に語るということがあると考えられていたということではないか?
そしてデリダ自身も、おそらくそれに気づいていて、こっそりと「だが多くの場合」(mais le plus souvent)と断りを入れているのである。
デリダ自身は前回わたしが指摘した問題点、つまり「神が語る」と「天使が語る」との間の微妙ではあるが歴然とした差異を、どう考えるのだろうか。そして神の語ったことと相反することをいう天使の言葉を、アブラハムはどう考えたと考えるのだろう。「神が語る」と「天使が語る」の間には差異がないと考えたと考えるのだろうか? しかし「多くの場合」という逃げ道では、創世記の歴然とした記述の差異を完全にくぐり抜けることはできないであろう。
>>81
ニーチェを知り、かつ"Tout autre n'est pas tout autre"という主張を
デリダの"tout autre est tout autre"という定式に対抗させたいと思う者は
ぐらいのことです。
もっとくだけば、「絶対的な他者」という概念が空虚であると考え、そのことをどう表現できるかを考える者はと言い換えてもよいとおもいます。
>>87
原典を紹介しておきます。
Dieu est le nom de la possibilité pour moi de garder un secret qui est visible à l'intérieur mais non à l'extérieur. ("Donner la mort" p.147)
デリダの『死を与える』の中で最も重要な言葉だと思います。
>>108
ニーチェは貴族的社会について
"eine Geselschaft, welche an eine lange Leiter der Rangordnung und Werthverschiedenheit von Mensch und Mensch glaubt"(JGB 257)
と説明しています。人と人との隔たり、差異を、"Leiter"(梯子)と言い表わしていることにわたしは注目しています。
何段も何段もあるけど、そしてそれぞれの段の中での物事の感じ方は他の段それとまるっきり違っているのでしょうが、そかしそれにしてもそれらの段は、ひとつの尺度の中に置かれるのです。
眩学者さんはこれについてどう考えるのでしょう?
ツァラ・ゼミを再開する。こういう仕事もついでの時間がないとできないのだが、さいわい京都造形芸術大学で「ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読む」という授業をさせてもらえることになったので、これを機会に『ツァラトゥストラ』の読解を進めさせてもらう。授業は日本語訳を出発点にして読み進めてゆくのだが、それでも当然内容をきちんと検討するためにはドイツ語の原文に戻って点検しなければならない。このブログでは、前と同じように、論を進めてゆく。日本語がわかれば論旨は理解ができるようにするが、その論証の正しさを理解してもらうためにはところどころドイツ語の理解を必要とする、といったところだ。この授業を機会に、手塚富雄訳(中公クラシックスw17)を手に入れたので、叩き台にするものが増えた。しかし日本語訳の出発点にするのは、今回も同じく氷上英廣訳、岩波文庫の『ツァラトゥストラはこう言った』である。まずは「序説」を最後までやりたいと思っているが、いろいろな都合でどうなるかわからない。先のシリーズでは授業では説明したが、説明がかなりやっかいなところは幾つか飛ばした。今回はそういうところを補えればいいのだが。その余裕があるかどうかは、まあ、やってみなければわからないことだ。まずは4月15日の授業で考えた、巻頭の、"Also sprach Zarahtustra."というタイトルの下につけられた"Ein Buch für Alle und Keinen"という添辞について述べてみよう。
(つづき)
今やわたしの解釈を示さなければならない。わたしの解釈は氷上訳をさらに進めることによって導かれてくるものだが、それは、「この書を読むことによって、この書にふさわしい人が生まれてくる」ということを願って付けられた添辞だろう、ということだ。とすると読者はどこにいるのだろうか。まさにこの"und"(「と」、英語の"and"に相当)のところにである。ひとは、読者は、この「万人」("Alle")と「無人」("Keinen")の丁度中間にあり、同時に「万人」であり「無人」であるのである。ひとは生成の中に置かれる。
この拙論の読者はジル・ドゥルーズが純粋な生成を性格づけるために語る「同時に二方向」("deux sens à la fois")という定式を思い出すかもしれない。ニーチェの"für Alle und Keinen"という定式をきちんと考えようとすれば、ひとはこのドゥルーズの定式に達するのである(だから"und"を「、」で区切る訳は誤りなのだ)。
ニーチェの「添辞(副題)」を訳してみよう、「万人であり同時に何者でもない者のための書」。「生成する者のための書」と訳してもいいかもしれない。こう訳せば立派な副題である。『ツァラトゥストラ』を読む人は、この「生成する者のための書」という副題の主旨を最後まで忘れないでほしい。
ちなみにフランス語の方は以下である。
Dieu est le nom de la possibilité pour moi d'affirmer le pathos de la distanz qui est sensible à l'intérieur.
--- Masatsune Nakaji ---
"le nom de la possibilité"
a.「可能性の名前」(ブログ・現)
b.「可能にするものの名前」(ペルセポリス・哲学153)
この二つは当初は訳し方の違いと思っていたのですが、展開すれば別のことになるかもしれません。
ペルセポリスで議論するために、自分のブログであれば著作権上の問題もないので、原則べつのところを参照する必要はないようにしておきたい、というだけのことです。
議論がなければ打ち捨てるのも当然です。
ブログの方は修正が容易だという利点があります。必要な修正は随時行なっています。