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鬼和尚の経典解説まとめ

1避難民のマジレスさん:2024/06/10(月) 12:44:03 ID:v59RPKQA0
・鬼和尚の経典などの解説をまとめるスレです
・『金剛般若経』の解説はこちらにあります↓
"金剛般若経を読んで実践する"
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1701949889/99-133

20避難民のマジレスさん:2024/06/28(金) 12:21:24 ID:jrsIXXHY0
<解説・浄土三部経>

http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1639295737/
より抜粋


782 :鬼和尚 :2021/12/17(金) 21:56:52.44 ID:GBRRuT82.net

  今回は浄土三部経について話すのじゃ。
 浄土三部経とは「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三つの大乗経典を指していうのじゃ。
 三つとも阿弥陀如来と、その仏国土である安楽国、いわゆる極楽浄土の話であるから同じ教えとしてまとめるのじゃ。

 この三つの経典が浄土宗や浄土真宗では根本経典として奉じられているのじゃ。
 お釈迦様が西方の阿弥陀如来について説いたというのじゃ。
 しかし、実際には後世に作られた偽典なのじゃ。

 お釈迦様はこの三部経を説いていないのじゃ。
 お釈迦様の縁起の観察はないのじゃ。
 大乗仏典には大抵載っている空の法さえも説かれていないのじゃ。
 ただひたすらに阿弥陀如来と浄土の話だけなのじゃ。

 そうであるから法として使えないということもないのじゃ。
 極楽浄土と阿弥陀如来を観想する法として実用性があると言えるのじゃ。
 それは集中の役に立つのじゃ。

 密教で行われる神仏の観想と同じなのじゃ。
 ただひたすらに阿弥陀如来と浄土をイメージすることで集中し、サマーディに入るための法なのじゃ。
 密教に近い法なのじゃ。

 実際に日本でも覚鑁が密教に組み入れたりしたのじゃ。
 チベット密教でも阿弥陀如来の極楽浄土を観想する法が在るのじゃ。
 密教的な法の教えといえるのじゃ。

 特に「観無量寿経」では実際に観想する手順も説かれているのじゃ。
 最初は夕日を観想して、ありありと見えるようになったら浄土を観想するようにと、詳しく説明されているのじゃ。
 無量寿経、阿弥陀経もそのための解説といえるのじゃ。
 
 この三部経によって日々実践に勤めるならば、サマーディも訪れるじゃろう。
 それがこの三部経の存在理由であり、正しい使い方といえるのじゃ。

21避難民のマジレスさん:2024/06/29(土) 16:41:28 ID:ghx06BfQ0
824 :鬼和尚 :2021/12/18(土) 23:27:17.97 ID:I3f/KtXi.net[2/3]

 浄土三部経の最初は阿弥陀経についてなのじゃ。
 この経典では阿弥陀如来の由来が語られているのじゃ。
 阿弥陀如来は前世では法蔵菩薩といい、大乗仏教の修業をしていたというのじゃ。

 その時に有名な四十八の誓願を立てたというのじゃ。
 それには自分が極楽といえる仏国土を持つ他に、その地に生まれる衆生にさまざまな恩典が受けられるようにという誓願が在るのじゃ。
 その中で特に後世に大きな影響を与えたのが、自分の称号を十回念じたら、この極楽浄土に生まれ変われるようにするというものなのじゃ。

 この誓願のためにどこに生まれた者でも、阿弥陀如来の称号を十回念じたら、極楽浄土に生まれかわれるという信仰が生まれたのじゃ。
 お釈迦様が説いた法では嘘をついたら地獄行きなのじゃ。
 よい所に生まれるためには嘘をつかず、ひたすら善事を積まなくてはいかんのじゃ。
 これでは俗世間ではなかなか厳しい条件といえるのじゃ。

 それに比べてこの阿弥陀経ではただ十回念じるだけで極楽にいけるというのじゃ。
 かなり条件が緩和されているのじゃ。
 それがために浄土信仰がチベットから中国、日本にまで広まったのじゃ。

 しかし、この誓願には条件があったのじゃ。
 五逆の者と正法を誹謗した者は除くというのじゃ。

22避難民のマジレスさん:2024/06/30(日) 13:06:24 ID:Aku.bSOo0
825 :鬼和尚 :2021/12/18(土) 23:27:54.84 ID:I3f/KtXi.net[3/3]

 五逆とは、一、父を殺す、二、母を殺す、三、阿羅漢を殺す、四、仏陀の体を傷つける、五、僧の和合を壊す、という五つの罪なのじゃ。
 正しい法を誹謗するのは、お釈迦様の伝えた法や、大乗仏教の法等、人を悟りに向かわせる法を非難することなのじゃ。

 この二つの条件以外の者は、阿弥陀如来の名を十回も念じれば極楽浄土に生まれるというのじゃ。
 この条件があるために浄土宗や、浄土真宗も古くから非難されているのじゃ。
 阿弥陀如来の念仏一筋に特化して、他の教えを捨てるならば、それこそ正法の誹謗に当たるからなのじゃ。

 このような教義上の理論は別にしても、実際の法の選択でも他の法を全て捨ててしまうのはいかんのじゃ。
 なぜならばお釈迦様の説いたように、人には性質の違いにより、法の向きと不向きがあるからなのじゃ。
 誰にでも向いている法というものはないとさえいえるのじゃ。
 この法が向いているのは、阿弥陀如来に本当に心身を捧げることができる者だけなのじゃ。
 それは実際には難しいことじゃろう。

 念仏観想の法が向かない者は、別の法を実践するべきなのじゃ。
 その道を塞いでしまう、念仏専一の理論はやはり間違っているといわなければならないのじゃ。

23避難民のマジレスさん:2024/07/01(月) 11:05:31 ID:klQqA4QQ0
974 :鬼和尚 :2021/12/19(日) 22:04:02.00 ID:Mo2srYHF.net[1/2]

>>827 まだなのじゃ。
 もう少し在るのじゃ。

>>839 おぬしは本をあまりよんでいないようじゃのう。
 古人の呼称は最終経歴に統一するのが一般的なのじゃ。
 例えば大佐で退役した軍人は、吉田大佐は高卒で軍に入隊したとかかかれるのじゃ。
 大佐も入隊時には二等兵かもしれんが、煩雑をさけるために統一するのじゃ。
 法蔵菩薩は菩薩で最終経歴であるから菩薩に統一するのじゃ。

 わしは「極楽といえる」と書いているのじゃ。
 極楽という国名とはかいていないのじゃ。
 それが一般的な呼称である故にわかりやすいように書くのじゃ。

 本当は安楽国でさえないのじゃ。
 安楽国でさえも翻訳の一つに過ぎないのじゃ。
 
 それは概要であるから四十八全てに平等に言及するのじゃ。
 
>>841 それは善導の感想ですよね、なのじゃ。
 その文が違うならば他宗がどのように非難したのか資料で述べるべきなのじゃ。
 
>>845  それもまたおぬしの感想なのじゃ。
 おぬしはそれで正法の誹謗ではないとしたいのであるかもしれんが、捨閉閣抛を主張した時点で既に誹謗なのじゃ。
 なぜならば西方浄土は存在せず、念仏をして簡単にいけるということもありえないからなのじゃ。
 ただ集中のための難行であるのに、他の易行を避けさせる時点で正法の誹謗なのじゃ。
 
 わしはその無量寿仏経に念仏に特化しろと書いてあるとは書いていないのじゃ。
 むしろわしは無量寿仏経には念仏に特化するな、正法を捨ててはいかんと書いてあるという主張なのであるがのう。

 わしの書いた文をよく読むのじゃ。
 わからなければ聞けば善いのじゃ。


※捨閉閣抛
https://www.weblio.jp/content/%E6%8D%A8%E9%96%89%E9%96%A3%E6%8A%9B

24避難民のマジレスさん:2024/07/02(火) 11:53:50 ID:aad56Rlo0
993 :鬼和尚 :2021/12/19(日) 23:10:04.81 ID:Mo2srYHF.net[2/2]

 こんな話が在るのじゃ。
 昔、信仰熱心な商人が居たのじゃ。
 寺に度々お参りして、神仏を拝んでいたのじゃ。
 自分の心身の全てを捧げて帰依すると声に出して誓って礼拝していたのじゃ。
 
 すると身を屈しているものだから、財布が懐から転がり出たのじゃ。
 商人はあわてて拾って懐にしまったのじゃ。
 周りで見ていた者達は、
 「全てを捧げて帰依するのではなかったのか」
 と、商人に聞いたのじゃ。
 「お金は別だ」
 と、商人が答えるとみんな大笑いしたのじゃ。
 商人は顔を赤くして寺から去ったのじゃ。

 このような商人でなくとも皆、全てを捧げて帰依するといいながら、やはり別に捧げたく無いものがあるじゃろう。
 名声や権力や家族などを全て捧げるというものは極稀なのじゃ。
 神仏に帰依する道はこのようにたやすい方法に見えて、実は困難な道なのじゃ。

 旧約聖書にも神に子供を捧げたアブラハムの話が在るのじゃ。
 神が子供のイサクを捧げよと、告げたからイサクを焼いたのじゃ。
 まるで美談のように語られているが、現代でやれば狂信的な犯罪者なのじゃ。
 
 インドにも神に全てを捧げて生活も崩壊したというものの話が在るのじゃ。
 実際に全てを捧げれば、そのようになるしかないのじゃ。
 現代で家族と生活して仕事もある人間には、神仏への完全な帰依などできないことなのじゃ。

 できたとしてもサマーディで止まってしまうのじゃ。
 神仏を捨てることが出来ないから、囚われになるのじゃ。
 行き止まりで、困難な道なのじゃ。

 むしろただ座って呼吸を数えるほうが容易な行なのじゃ。
 何も捨てず、捧げなくてよいからのう。
 ただひたすらに座って集中すれば、サマーディも訪れるのじゃ。
 
 この無量寿仏経では華麗な極楽浄土の様子が描かれ、そこに僅か十念でいけるというから皆魅了されるが、それもまた法の一つであり至って困難な道であることをも、知っておかなければならんのじゃ。

25避難民のマジレスさん:2024/07/03(水) 11:43:23 ID:6O2r8ob.0
0171鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/20(月) 21:54:07.57 ID:xb+qmV8S

 次は観無量寿経なのじゃ。
 題名どおり無量寿仏の観想と、極楽浄土や菩薩の観想を教える経なのじゃ。
 観想とは今の言葉で言えば、イメージすることなのじゃ。
 
 阿弥陀如来や菩薩や極楽浄土をイメージすることでサマーディを目指すのじゃ。 

 最初は日輪のイメージを目の前にありありと見えるぐらいに思い浮かべるのじゃ。
 それから浄土の地面、川や池、宝樹をイメージするのじゃ。
 そして菩薩や阿弥陀如来をイメージするのじゃ。

 この順序で行うことでイメージもし易くなるのじゃ。
 それは他の修業の神仏のイメージと同じなのじゃ。
 先に神仏の周辺にある環境からイメージしていくのじゃ。

 そうすることで集中力も増してイメージができるようになるのじゃ。
 それはヨーガとかカバラのメルカバの技と同じ人類共通の知恵なのじゃ。

 このように観想を続けていけば、念仏三昧に入れるというのじゃ。
 それこそがこの経の目的なのじゃ。
 信仰を理由にしてサマーディに入らせる方便なのじゃ。

 サマーディへの道は長く困難なものじゃ。
 途中で飽きてしまうものが大半なのじゃ。
 このように阿弥陀如来への信仰と、極楽に生まれかわれるという褒美を示すことでサマーディへの道を全うさせるのじゃ。
 
 他に臨終の時に阿弥陀如来が迎えに来る情景を載せて在るのじゃ。
 それもまた観想してサマーディに入らせるために書いてあるだけなのじゃ。
 実際には居ない者は臨終にも来ないのじゃ。
 惑わされずにただひたすらサマーディを目指すのじゃ。

26避難民のマジレスさん:2024/07/04(木) 11:48:03 ID:t0Y0SkzE0
0266鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/21(火) 21:53:52.89 ID:/3Hbzzup

 最後は阿弥陀経なのじゃ。

 これには阿弥陀如来が西方の極楽にいることが説かれているのじゃ。
 阿弥陀如来は今も生存して極楽で法を説いているというのじゃ。
 阿弥陀如来の寿命は無量といえるほど長いから無量寿仏というのじゃ。

 極楽は理想の国として説かれているのじゃ。
 そこに行きたいものは阿弥陀如来の名号を保持して一心になればいけるというのじゃ。
 一日から七日までどれかの日数、一心になれば行けるというのじゃ。

 これがサマーディに到達するための行なのじゃ。
 わずか一日でも他のことを考えずに一心に名号を保持するのはかなり困難なものじゃ。
 それが出来ればサマーディに到達しているといえるのじゃ。
 
 むしろサマーディに到達していなければ不可能とも言えるのじゃ。
 試しにやって見れば修業していない者は五分も続かないじゃろう。
 長い修業が必要なのがこの名号によるサマーディなのじゃ。

 阿弥陀経にはその他、東方、西方、北方、南方、上方、下方にいる諸仏を紹介しているのじゃ。
 経には書いていないが、それらの諸仏の名号もまたサマーディのために使えるのじゃ。
 それがこの経の目的なのじゃ。

 極楽にいけるという餌でサマーディを体得せしめるのじゃ。
 浄土三部経は全てその目的のためにあるといえるのじゃ。
 困難な道であるが、興味の在る者は実践してみるとよいのじゃ。


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