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金剛般若経を読んで実践する
1
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/07(木) 20:51:29 ID:Dp/qMVVc0
金剛般若経
如是我聞。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。
與大比丘衆千二百五十人倶。
爾時世尊食時著衣持鉢入舍衞大城乞食。
於其城中次第乞已。還至本處飯食訖。
收衣鉢洗足已敷座而坐。
(一)
わたしはこのように聞きました。
ある時師は、千二百五十人の修行者たちと、シュラーヴァスティ市のジェータ林にある、祇園精舎に滞在していました。
ある日、師は朝早くに起き、簡素な衣を身につけて、食べ物を求めて街に出かけました。街の中を歩き回り、人々からの施しを受けた後、元の場所に戻り、食事を済ませてから、衣と食器をきちんと片付け、足を洗い、身体をまっすぐにして坐禅されました。
すると修行者たちは、師の周囲を敬って右回りに回った後、傍らに座りました。
---
中国語の原文を日本語に機械翻訳し、他の訳文も参考にしつつ内容を整えています。
日本語で著作権を気にせずに使えるものがなかったので、鬼和尚に協力していただき、
現代の修行者にも使いやすい訳を作りたいです。
もし、間違いや補足などがありましたらご指摘ください。
鬼和尚は前世で、コーサラ国の祇園精舎にいたことはありましたか?
お釈迦様の托鉢や、修行者とのやり取りの様子がわかればと思いまして。
118
:
避難民のマジレスさん
:2024/05/25(土) 12:38:21 ID:eZ5Zbv0I0
0099鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/14(金) 23:34:59.21 ID:/GDqYd9y
***
「それだから、スブーティよ、菩薩はあらゆる観念を取り除いて、無上の完全なる悟りを得る決意を持つべきである。形や音、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着して心を動かしてはならない。どこにも執着しない心を持たねばならない。それはなぜかというと、心が何かに執着するというということは、執着しないということだからだ。それだから如来は、『菩薩は、形や声、香り、触れられるもの、心の対象に執着することなく布施をしなければならない』と説かれたのだ。」
スブーティよ、菩薩はすべての生きとし生けるもののために、このように布施を行うべきである。なぜかというと、すべて諸々の観念は、実際には観念ではないからだ。また、すべての生きものは、実際には生きものではないからだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語る者、真理を語る者、正しい言葉を語る者、いつわりなく語る者、正しく語る者であるからだ。」
「スブーティよ、如来が得た法は、真理でもなければ虚妄でもない。」
「スブーティよ、もし菩薩が法に執着して布施を行うならば、それは暗闇に入るようなもので何も見えない。しかし、もし菩薩が法に執着せずに布施を行うならば、それは目のある人が日光の下で様々な色を明瞭に見るようなものだ。」
「スブーティよ、未来において、もし善き男や善き女がこの経を繰り返し唱え、念じて実践するならば、その人々は如来の智慧によって全て知られ、見られるであろう。彼らは計り知れない無数の功徳を成就するであろう。」
***
お釈迦様は更に一切の観念に囚われずに、悟りを求める心を起こすのじゃ、というのじゃ。
色にも囚われず、声香味触法の全てに囚われず発菩提心を起こすべきだというのじゃ。
なにものにも囚われずに心を起こすべきだといのじゃ。
なぜならば心に囚われがあるならば、それは囚われではないからというのじゃ。
そうであるから囚われというのじゃ。
一切の観念は夢幻である故に、囚われているという観念もまた無であるからなのじゃ。
それが真実であるから、そのように心を起こすべきなのじゃ。
そうであるから如来は、菩薩はなにものにも囚われずに布施をするべきというのじゃ。
それが真実の布施であり、布施の完成の行であるからなのじゃ。
心が何かに囚われて布施をするのは、闇の中に居るようなものというのじゃ。
なにものにも囚われない布施をするのは、日光で照らされた所でいろいろなものを見るようなものというのじゃ。
それが観念を廃絶した布施の完成なのじゃ。
119
:
避難民のマジレスさん
:2024/05/26(日) 13:04:28 ID:RYNZKubs0
0155鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/16(日) 00:29:21.43 ID:0O1J1evH
それからお釈迦様は長い宣伝に入るのじや。
この経を受持して他人にも説けば大きな功徳があるというのじゃ。
そのためにこの経は広く流布しているのじゃ。
なかなか侮れないのじゃ。
法華経も同じように受持して他人にも説けば大きな功徳があるというから、広まったのじゃ。
現世利益なのじゃ。
誰でもやはり来世よりも現世で利益が欲しいから広まるのじゃ。
それから今までのまとめに入るのじゃ。
0557鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/18(火) 00:06:00.63 ID:Id/CH6q0
***
(十七)
その時スブーティは尋ねました。
「師よ、善き男や善き女を問わず、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」
「善き男や善き女が菩薩の道に向かうには、このような決意を持たなければならない。すなわち、『私は全ての生きとし生けるものを救済し、ニルヴァーナに導くべきである。しかし、こうして永遠の平安に導こうとも、実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
それはなぜかと言うと、スブーティよ。もし菩薩が自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を生ずるなら、それは菩薩とは言えないからだ。
それはなぜかと言うと、スブーティよ。実際には、菩薩の道に進む人というようなものは何も存在しないからだ。」
***
須菩提長老は改めてお釈迦様にきいたのじゃ。
善男子善女子が悟りを求めようとするときどのようにすればよいのかと
これは最初の問いと同じなのじゃ。
ここからは今までの問答をまとめる要旨なのじゃ。
お釈迦様は改めて、答えるのじゃ。
無上正等正覚を求める者は、一切衆生を掬って悟りを得させようと意志を起こすのじゃ。
しかしそのようにしても一人の衆生も悟りをえるものではない」
と、念じるのじゃ。
なぜならばその時、自分という四つの観念があれば、菩薩ではないからというのじゃ。
四つの観念がない時には菩薩であるからというのじゃ。
120
:
避難民のマジレスさん
:2024/05/27(月) 12:45:09 ID:3Fqci5HI0
0577鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/18(火) 23:15:21.58 ID:Id/CH6q0
***
師は尋ねました。
「スブーティよ、どう思うか。如来は、ディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのだろうか?」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。わたしが師の教えを理解する限り、如来はディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのではありません。」
師は言いました。
「その通り。スブーティよ、その通りだ。実際には如来がこの上ない正しい覚りを得た方法は存在しない。スブーティよ、もしこの上ない正しい覚りを得る方法が存在したならば、ディーパンカラ如来はわたしに対して『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なさらなかっただろう。実際には、この上ない正しい覚りを得る方法はないので、ディーパンカラ如来は私に「将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう」と予言なされたのだ。
それはなぜかというと、如来とは、諸法の真の意味を説くが如きものだからだ。
もしも誰かが、『如来がこの上ない正しいさとりを得られた』と言うならば、それは誤りである。それはなぜかというと、スブーティよ、実際にはこの上ない正しいさとりによって得られることがらは存在しないからだ。スブーティよ、如来が得たこの上ない正しい覚りは、その中に真実も虚妄も無い。それゆえに、如来は『すべての法は目覚めた者の法である』と説くのだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、すべての法と言われるものは、実際にはすべての法では無い。それゆえにすべての法と言われるのだ。」
***
そして更に法として無上正等正覚というものはないというのじゃ。
過去の仏にそのような無上正等正覚を授かったことはないというのじゃ。
そうであるから、過去仏に無上正等正覚を得ると受記されたというのじゃ。
なぜならば無上正等正覚を得た如来とは真如の異名であるからというのじゃ。
悟りを得るとはいうが、無上正等正覚とは何かを得ることではなく、むしろ謬見を無くすことであるといえるのじゃ。
自分があるという謬見、認識したものが実在するという謬見を失い、本来の認識に回帰することなのじゃ。
それは実に何かを得るのではなく、謬見を無くすことであるからろ、法として得るものはないのじゃ。
そして悟りを得た如来とは、既に自己の概念も、観念も無いから語るべきことも無いのじゃ。
語るべきこともないが、衆生のためにあえて真理を語るのであるから真理を語るものの如しなのじゃ。
121
:
避難民のマジレスさん
:2024/05/28(火) 12:24:06 ID:JJhFpxAo0
0637鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/19(水) 23:23:53.63 ID:AEMpn1Ia
そして更にお釈迦様は、誰かが如来は無上正等正覚を得たというならば、誤りであるというのじゃ。
法として無上正等正覚を得るということはないからというのじゃ。
無上正等正覚には真実はなく、偽りも無いからというのじゃ。
真実も、偽りもまた観念であるからなのじゃ。
一切の観念を離れれば、真実もなく、偽りも無いのじゃ。
もともとそれはないものじゃ。
ただ人が世間で日常の観念として使うだけのものなのじゃ。
世間から離脱すれば、それもなくなるのじゃ。
それが出世間の法なのじゃ。
それ故に一切の法は、仏法であると言うのじゃ。
全ての法則であれ、方法であっても全ては真実とか、偽りを離れているのじゃ。
ただありのままにあるだけなのじゃ。
それに気付いたならば、それが目覚めるための法になるのじゃ。
全てが目覚めた者の証になるのじゃ。
それが一切の法が仏法であるということなのじゃ。
122
:
避難民のマジレスさん
:2024/05/29(水) 13:17:51 ID:ywIpiMIg0
0896鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/20(木) 23:35:29.86 ID:36+od2gP
***
「スブーティよ。例えば人の身体が大きいとしよう。」
スブーティは言いました。
「師よ、如来は言われました。『人の身体が大きいということは、実際には大きな身体ではない。それゆえに、大きな身体と呼ばれる』と。」
「スブーティよ、その通りだ。もし菩薩が『わたしは生きとし生けるものを涅槃に導く』と言うならば、それは菩薩とは言えない。それはなぜかというと、スブーティよ、そもそも菩薩と名付けられるものが何かあるのだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。菩薩と名付けられるものは何もありません。」
師は言われました。
「スブーティよ、『生きているもの、生きているものと言うのは、実際は生きているものではない』と如来は説いている。それだからこそ生きているものと言われるのだ。それだから如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには認識主体というものはない、すべてのものには個体というものはない、すべてのものには輪廻の主体というものはない』と言われるのだ。
スブーティよ、もし菩薩が『私は浄土を完成する』と言うならば、それは菩薩とは言えない。なぜかというと、スブーティよ、如来は『浄土の完成というのは、実際には完成ではない』と説いているからだ。それゆえに浄土の完成と言われるのだ。
スブーティよ、もし菩薩が『ものには自我がない、ものには自我がない』と信じ理解するならば、如来はその者を真の菩薩とであると言うのである。」
***
更にお釈迦様は一切の法とは一切の法ではないというのじゃ。
それ故に一切の法とよぶというのじゃ。
それは例えば体のでかい人のようなものじゃというのじゃ。
すると須菩提長老がそれをうけて、
如来の説いたところのでかいからだの人は、でかいからだの人ではないというのじゃ。
そうであるからでかいからだの人とよぶというのじゃ。
お釈迦様は続けて菩薩もまた同じであると言うのじゃ。
一切の衆生を滅度せしめるというのは菩薩ではないというのじゃ。
なぜならば法として菩薩という者はないからというのじゃ。
自我の四つの観念が無い者が菩薩であるからなのじゃ。
自分が無いのに他人を滅度せしめることができるはずもないのじゃ。
123
:
避難民のマジレスさん
:2024/05/30(木) 12:12:16 ID:q42kP/Lk0
【天空時】悟りをひらいた人のスレ634【鬼・和尚】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1642740724/
より以下抜粋
0476鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/22(土) 23:30:26.83 ID:i36ZTocU
***
(十八)
「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には天眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には智慧の眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には法の眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には仏眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には仏眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。ガンジス河にある全ての砂、その砂のことを如来は説いたであろうか。」
「師よ、その通りです。如来はその砂のことを説かれました。」
「スブーティよ、どう思うか。 一つのガンジス河にある全ての砂粒があるとし、そのような砂粒の数だけのガンジス河があり、その全てのガンジス河にある砂粒の数ほどの世界があるとすれば、それは多いと思うか?」
「非常に多いです、師よ。」
師はスブーティに告げました。
「これらの世界にいる全ての生きものの数々の心を、如来はすべて知っている。それはなぜかというと、如来はすべての心を心ではないと言っており、それゆえに心と説いているからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、過去の心は得ることができず、現在の心も得ることができず、未来の心も得ることができないからだ。」
***
そしてお釈迦様は須菩提長老に、如来は肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼があるかと問うのじゃ。
須菩提長老はあると答えるのじゃ。
肉眼はそのまま肉体の眼じゃな。
天眼は千里眼の通力の眼なのじゃ。
慧眼は智慧の眼なのじゃ。
法眼は法を見る眼なのじゃ。
仏眼は仏陀としての眼なのじゃ。
それらの眼によって衆生の心を悉く知るというのじゃ。
ガンジス川の砂と同じ数のガンジス川があり、その河の砂の数と同じ三千大千世界があるとして、それらの世界に住む衆生の心を全てしるというのじゃ。
どのようにして知るのかといえば、それは心ではないものとして知るというのじゃ。
現在の心も、過去の心も、未来の心も得られるものではないからというのじゃ。
心というものも又観念であるから、それはあるものではないのじゃ。
心は心では無いものとして知れば、全ての衆生の心を知ったことになるのじゃ。
124
:
避難民のマジレスさん
:2024/05/31(金) 12:29:20 ID:5N.S5Vww0
0638鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/24(月) 00:18:54.70 ID:NY6g/8Y8
***
(十九)
「スブーティよ、どう思うか?もし誰かがはてしなく広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人がその因縁によって得る福徳は多いだろうか?」
「その通りです、師よ。その人はその因縁によって非常に多くの福徳を得ます。」
「スブーティよ、もし福徳が実際に存在するならば、如来は多くの福徳を得るとは説かない。福徳が実際には存在しないから、如来は多くの福徳を得ると説くのだ。」
(二十)
「スブーティよ、どう思うか。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきだろうか?」
「いいえ、師よ。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。なぜかというと『端麗な身体を完成していると言われるものは、実際には端麗な身体を完成しているのではない。それゆえに端麗な身体を完成していると言われる』と如来が説かれているからです。
「スブーティよ、どう思うか。 如来は特徴をそなえたものと見るべきだろうか?」
「いいえ、師よ。如来は特徴をそなえたものと見るべきではありません。なぜかというと『特徴をそなえていると言われるものは、実際には特徴をそなえてはいない。それゆえに特徴をそなえていると言われる』と如来が説かれているからです。」
(二十一)
「スブーティよ、如来が『わたしは法を説いた』と考えるだろうか。」
「師よ、そのように考えることはありません。」
「スブーティよ、もし人が『如来は法を説いた』と語るならば、それは誤りを語ることになる。それは、真実でないことに執着して、わたしを謗ることになる。それはなぜかというと、スブーティよ、法を説く者には、説くべき法が無いからだ。それゆえに、法を説くと言われるのだ。」
このように言われた時に、スブーティは師に問いました。
「師よ、未来の世において、この法を聞き、信心を生じる者がいるでしょうか?」
師は言いました。
「スブーティよ、その者らは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。なぜならば、スブーティよ、『生きているもの』『生きているもの』と言われるものは、如来によって『生きているものではない』と言われているからだ。それゆえに、『生きているもの』と言われるのだ。」
***
更に又お釈迦様は福徳とか、色身とか、特徴とか、法を説く事とかについて否定してからそのように名づけると説いたのじゃ。
それぞれがあるものではなく、そうであるからそのように名づけられたというのじゃ。
そのようにして固定観念を滅して行くのじゃ。
それに対して須菩提長老が、それを聞いて信じる衆生が後の世にいるとかきくのじゃ。
するとお釈迦様はその衆生さえも衆生ではないと説いたのじゃ。
そうであるから衆生とよばれるのであるというのじゃ。
そのようにあらゆるものについて否定されるべき観念があると示したのじゃ。
そのようにして否定された観念が、正しい観念の滅といえるのじゃ。
125
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/01(土) 12:47:05 ID:GMPZ6gtE0
【天空時】悟りをひらいた人のスレ635【鬼・和尚】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1643032241/
より以下抜粋
195鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/25(火) 23:44:51.04ID:1qbD/h3V
***
(二十二)
スブーティは、師に尋ねました。
「師よ、如来がこの上ない正しいさとりを得た時、何も得なかったのでしょうか。」
「スブーティよ、その通り、その通りだ。私がこの上ない正しいさとりを得たとしても、実際には何も得たものは無い。それゆえに、この上ない正しいさとりと言われるのだ。」
「さらにまた、スブーティよ、この法は平等であり、そこに高低などの差別も無い。それだからこそ、この上ない正しいさとりと言われるのだ。自我が無く、認識主体が無く、個体が無く、生きているものが無く、輪廻の主体が無く、一切の善法を修行すれば、この上ない正しいさとりを得ることができる。スブーティよ、善法と呼ばれるものは、如来によって実際には善法ではないと説かれている。それゆえに善法と言われるのだ。」
***
>>197
お釈迦様は須菩提長老に、
わしが無上正等正覚を得たということがあるじゃろうか
と、聞いたのじゃ。
須菩提長老は、
無上正等正覚を得たのは、何も得ていない
と、答えたのじゃ。
お釈迦様は
そうじゃ、わしは無上正等正覚においてほんの少しの法も得ていないのじゃ、
それをこそ無上正等正覚というのじゃ。
と、答えたのじゃ。
続いて
この法は平等でなんの差別も無いのじゃ。
そうであるから無上正等正覚というのじゃ。
というのじゃ。
自己の四つの観念がなく、全ての善法を修めれば、無上正等正覚を得るというのじゃ。
その善法も善法ではないから、善法というのじゃ。
と、説いたのじゃ。
全ての観念がなくなれば、そこに何の差別もなく、一切が平等なのじゃ。
何かの観念を足して平等なのではなく、観念が無いことで平等なのじゃ。
そうであるから何も得ないことが無上正等正覚そのものなのじゃ。
更に善法とはこの金剛般若経による観念の破壊に他ならないのじゃ。
一切の観念を破壊するこの善法は、自らも破壊される観念であるから、善法ではないのじゃ。
それがこの善法とよばれるものなのじゃ。
126
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/02(日) 13:00:32 ID:yjDfwsxg0
274鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/26(水) 23:30:14.42ID:FZ5ktjQi
>>275
***
(二十五)
「スブーティよ、どう思うか。『わたしは生きものを救った』というような思いが如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならない。それはなぜかというと、実際には如来が救った生きものは何もないからだ。もし生きものがいて、如来がそれを救ったならば、如来には自我という観念に対する執着が、認識主体という観念に対する執着が、個体という観念に対する執着が、生きているものという観念に対する執着が、輪廻の主体という観念に対する執着があることになるだろう。スブーティよ、如来が『自我がある』と説いても、それは実際には『自我がある』わけではない。しかし、一般の人たちは、自分には『自我がある』と考えるのだ。スブーティよ、如来は一般の人は一般の人ではないと説いた。それゆえに一般の人と言われるのだ。」
***
更にお釈迦様は須菩提長老に、
如来が衆生を滅度させたというようなことを思ってはいかん、
というのじゃ。
なぜならば如来が滅度させた衆生はないから、というのじゃ。
もし如来が滅度させた衆生があるとするならば、自己の四つの観念を如来がもっていたといことになるからなのじゃ。
そのようなものがないから、如来が滅度させた衆生はいないのじゃ。
更に自己の四つの観念もまたない、というのじゃ。
それらはもともと幻想である故にないものなのじゃ。
しかし、凡夫はあると思っているのじゃ。
その凡夫さえも無いものというのじゃ。
もはやなにものも観念としてないのじゃ。
観念そのものさえもないというのじゃ。
このようにして段々と全てはないことが深化していくのじゃ。
始めは観念としての自己が無いということであったのじゃ。
ここではもはや観念そのものもないというのじゃ。
それがそのまま修業の段階を示していると言えるのじゃ。
127
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/03(月) 12:56:16 ID:j8lz7Juk0
295鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/27(木) 23:35:36.19ID:d1GOtp5D
***
(二十六)
「スブーティよ、どう思うか、如来を特徴をそなえたものであると観るべきだろうか?」
スブーティは答えました。
「そうではありません。如来を特徴をそなえたものであると観るべきではありません。」
師は言いました。
「スブーティよ、もし如来を特徴をそなえたものであると観る者がいるならば、転輪聖王もまた、如来であるということになるだろう。」
スブーティは言いました。
「師よ、私が師の説いた言葉の意味を理解する限り、如来を特徴をそなえたものとして観るべきではありません。」
その時、師は、次のような詩を歌われました。
形によってわたしを見、
声によって私を求める者は、
間違った努力を行っており、
わたしを見ることはできない。
***
次にはお釈迦様は須菩提長老に聞いたのじゃ。
三十二相をもって如来を見るべきかと、
須菩提長老は
そうではなく、如来の説いたところによれは、三十二相をもって如来を見るべきではないと、
と、答えたのじゃ。
お釈迦様は
そのとおりじゃ、三十二相をもって如来を見てはいかんのじゃ。
三十二相があるから如来と思うならば、転輪聖王も如来となってしまうからなのじゃ。
と、答えたのじゃ。
前にも書いたが、三十二相とはインド人が考えた高貴な人の相なのじゃ。
同じ相が転輪聖王にもあるというのじゃ。
そうであるから如来を三十二相によってみてはいかんというのじゃ。
お釈迦様はそれを詩にして吟詠したのじゃ。
肉体の特徴や、音声によって如来を見てはいかんのじゃ。
もしそのように見る者が在れば如来を見ていないのじゃ。
外道なのじゃ。
というのじゃ。
如来とは法を説いて衆生を導くものであるから、肉体の相や音声で見分けてはいかんの邪。
人を悟りに導き、福楽への道を示すのが如来なのであるからのう。
法によって如来を見るのが正しいのじゃ。
128
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/04(火) 12:28:15 ID:tzB6bB2U0
305鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/29(土) 00:15:25.82ID:kx9X2WUS
***
(二十七)
「スブーティよ、もしあなたが『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』と考えるならば、スブーティよ、そのように考えてはならない。それはなぜかというと、『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』ということはないからだ。さらにまた、スブーティよ、実に、誰かが『菩薩の道に向かう者には、すべての法が断滅する』と、そのように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかと言うと、菩薩の道に向かう者には、いかなる法も断滅しないからだ。」
***
それからお釈迦様は
如来は相を持つことで無上正等正覚を得たのではないというのじゃ。
そのようなことはないからというのじゃ。
なぜならば相は相ではないからなのじゃ。
そうであめから相とよばれるのじゃ。
無上正等正覚も無上正等正覚ではないからなのじゃ。
そうであるから無上正等正覚とよばれるのじゃ。
このようにして相とか無上正等正覚という観念をも滅して行くのじゃ。
更に悟りに向かう者達は、何かの法が断滅することもないというのじゃ。
煩悩とか、囚われが断滅することもないというのじゃ。
なぜならばそれらは煩悩ではなく、囚われでもないからなのじゃ。
そうであるから煩悩とか囚われといわれるのじゃ。
更に断滅も断滅ではないのじゃ。
そうであるから断滅とよばれるのじゃ。
そこには煩悩とか囚われがあり、それが断滅するという事実もないからなのじゃ。
ただ煩悩や囚われを原因から観察して、気付くことで自然に消えて行くのじゃ。
それを断滅という観念にしてはいかんのじゃ。
観念になればまたそれに執着することもあるからのう。
なにものにも囚われずに進むのじゃ。
129
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/05(水) 11:59:21 ID:sCrl/u8g0
324鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/30(日) 00:02:30.07ID:56BL9zOh
***
(二十八)
「スブーティよ、もし菩薩がガンジス河の沙の数ほどの世界を、七宝で満たして布施したとしても、もし他に菩薩がいて、一切のものを無であると観られたならば、この菩薩は前の菩薩が得たよりもさらに多くの福徳を受け取るだろう。けれどもスブーティよ、諸々の菩薩は福徳を受け取らない。」
スブーティは師に問いました。
「師よ、菩薩はどうして福徳を受け取らないのですか?」
師は答えました。
「スブーティよ、菩薩は福徳を受け取るが、それに執着すべきでない。それゆえに、福徳を受け取らないと言われるのだ。」
***
更にお釈迦様は
ガンジス川の砂の数の世界を宝で満たして供養するより、
無性法忍を得たほうが優れた功徳をえるというのじゃ。
それは功徳を受けないからであるというのじゃ。
なぜならば功徳とは功徳ではないからなのじゃ。
功徳では無いものを功徳というのじゃ。
観念の功徳を受けたとすれば、それは幻想なのじゃ。
幻想から離れたほうが大きな功徳であることは言うまでも無いのじゃ。
無性法忍を得れば幻想から離れている故に、功徳を受けず、大きな功徳を得たことになるのじゃ。
それをお釈迦様は次に、
菩薩は功徳に貪着しないから受けないというのじゃ。
貪欲も執着も無い境地なのじゃ。
130
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/06(木) 10:51:58 ID:U5n9iQq20
423鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 23:43:45.16ID:0qVp+4Vw
***
(三十)
「スブーティよ、もし善き男や善き女がこの果てしない世界を微塵に砕いたとして、どう思うか、その微塵の数は多いだろうか?」
スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、もしその微塵が実際に存在するならば、如来はその微塵の数を説かなかったであろうからです。それはなぜかというと、如来が説く微塵の数は、実際には微塵の数ではないからです。それゆえに微塵の数と言われるのです。
師よ、如来が説く果てしない世界も、実際の世界ではありません。それゆえに世界と言われるのです。それはなぜかというと、もし世界が実際に存在するならば、それは一つの塊として執着していることになるでしょう。
如来が一つの塊への執着を説くとき、それは実際には一つの塊への執着ではありません。それゆえに一つの塊への執着と言われるのです。」
「スブーティよ、一つの塊への執着は説くことができないものだ。それはものでもないし、ものでないものでもない。しかし一般の人たちはそのことに執着するのだ。」
***
続いてお釈迦様は須菩提長老に、
もし善男子善女子がこの三千大千世界を砕いて微塵衆にしてら、それは多いか。
と、聞いたのじゃ。
須菩提長老はそれは多いと、答えたのじゃ。
なぜならばその微塵衆が本当にあるならば、如来は微塵衆と説かなかったから
と、いうのじゃ。
なぜならば如来の説いた微塵衆は微塵衆ではない
それを微塵衆と名づけたからというのじゃ。
そして三千大千世界も三千大千世界ではないというのじゃ。
そうであるから三千大千世界というのじゃ。
なぜならば三千大千世界が本当にあるならば、全てである観念があるからなのじゃ。
全てであることは、全てであることではないと如来は説いたのじゃ。
それが全てであることなのじゃ。
しかし凡夫はそれに執着するものであるというのじゃ。
つまり全ては観念としてあると認識されるが、実体はないということなのじゃ。
実体はないとこに執着するのが凡夫であるというのじゃ。
131
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/07(金) 10:39:01 ID:VG/pkc6M0
460鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/01(火) 21:04:17.55ID:6MyWF6U0
***
(三十一)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を説く』と言った場合、どう思うか、その者は私が説いた意味を理解しているだろうか?」
スブーティは答えました。
「師よ、その人は如来が説いた意味を理解していません。それはなぜかというと、如来が説く自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は、実際には自我という観念ではなく、認識主体という観念ではなく、個体という観念ではなく、生きているものという観念ではなく、輪廻の主体という観念ではないからです。それゆえに自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念と呼ばれるのです。」
「スブーティよ、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩は、一切の法において、このように知り、このように見て、このように信じて理解し、ことがらの観念を生じさせないようにすべきだ。スブーティよ、如来が説くことがらの観念は、実際にはことがらの観念ではない。それゆえに、ことがらの観念と言われる。」
***
お釈迦様は更に須菩提長老に、
もし人が仏は自己の四つの観念に対する見解を説いたというならば、それは正しいか、
と、聞いたのじゃ。
長老は、
それは正しくない
なぜならば、それらの見解は見解ではない。
それを見解とよぶのじゃ。
と、答えたのじゃ。
お釈迦様は、
その通りじゃ。
無上正等正覚を得ようとする者は、そのように一切の法を知り、見て、信じ、理解して、
法という観念を持つべきではない、
と、答えたのじゃ。
なぜならば、法という観念は、法という観念ではない
そうであるから法という観念なのじゃ。
と、説いたのじゃ。
そもそもお釈迦様の教える法とは、全ての観念を離脱し、破壊する方法なのじゃ。
それなのに法そのものに何かの見解や観念を持ってしまってはいかんのじゃ。
そうであるから、法をも否定して、否定された法を認めるべきなのじゃ。
132
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/08(土) 11:16:16 ID:ABGgMtuA0
488鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 00:00:30.43ID:6i90X4wU
***
(三十二)
「スブーティよ、もし計り知れない数の世界を満たすほどの七宝を持ち、それを布施する人がいたとしても、善き男や善き女が菩薩の強い決意を持ち、この経から四行詩ひとつでも心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人に説いて聞かせるならば、その功徳は前者を上回るだろう。
それではどのように説いて聞かせるのだろうか。説いて聞かせないようにすればよい。それゆえに、説いて聞かせると言われるのだ。
世界の一切のものごとは
夢や幻、泡や影、
露や稲妻のよう、
そのように観るがよい。」
師がこの経を説いた後、スブーティや修行者たち、在家の信者、そして天人、神々を含む世界のものたちは、師の説いたことを聞いて大いに喜び、金剛般若波羅蜜経を信じて受け入れ、これを修めました。
***
>>489
長く続いた金剛経も終わりなのじゃ。
最後にお釈迦様は宣伝も入れて、
もし人が無量阿僧祁世界を満たして供養しても、この経の四句を保持して、
人のために説いた方がより大きな福を得る
といったのじゃ。
どのようにして人のために説くのかといえば、説かないようにするのじゃ、
それが人のために説くということなのじゃ。
というのじゃ。
つまり観念を持たないで゜説くようにするのじゃ。
自ら観念を持たずに説けば、動揺せず不動の心で説き明かすことが実現できるからというのじゃ。
そして詩句を示すのじゃ。
一切の有為法は夢幻泡影の如きであり、露や雷の如くであるという観想をするのじゃ、
と、説いたのじゃ。
つまり観念とは全て、夢幻の如くであるというようにイメージするということじゃな。
今まで述べてきた法とは違う一切の観念を滅するための観念なのじゃ。
直接的に観念に対して夢幻であると念じる法なのじゃ。
それもまた金剛般若経の法なのじゃ。
この後、弟子達は歓喜して教えを受けたという大乗経の決まり文句で終わりなのじゃ。
次は総評なのじゃ。
133
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/09(日) 11:03:48 ID:2FR8Sx8o0
500鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 23:51:41.90ID:6i90X4wU
金剛般若経も終わったのじゃ。
全体で見れば、先ずは悟りとか、衆生とか、法までも無いものとして、観想するべきだという主張が目立つのじゃ。
仏教徒が目指すべき目標である悟りも、悟りを得るべき衆生も、導く法さえも無いものとするのじゃ。
それが正しい悟りであり、衆生であり、法であるというのじゃ。
もとよりそれはもはや悟りに向かって全ての観念を捨てる、最終段階の修行者に向けての教えなのじゃ。
そうであるから須菩提長老に向けて説法をした構成になっているのじゃ。
阿羅漢となる須菩提長老に説法することで、最終段階の教えを示しているのじゃ。
全てのものごとを一度否定して、そうであるからそのものごとを名告げるという逆説の法によって、名称の断絶を図ったのじゃ。
そして最後には、全てを夢幻泡影であるとして、形態、イメージの断絶をも説いているのじゃ。
その両方によって観念は完全に断ち切られるのじゃ。
それが金剛石のように能く断つことができる叡智の教えという経の意味なのじゃ。
観念に囚われているものには、役に立つ教えなのじゃ。
しかし、他の教えと同じように、全ての人に効果がある訳ではないのじゃ。
それが向いている者には効果がある法なのじゃ。
自分に向いている法なのか、よく吟味して実践すると善いのじゃ。
134
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/27(金) 11:26:14 ID:3mnA./cI0
※抜けがありました。追加いたします。
___
0353 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 00:01:39.41
***
(二十九)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は来ることも去ることも、坐ることも臥(ね)ることもある』と言うならば、その者はわたしが説いた言葉の意味を理解していない。それはなぜかというと、如来はどこから来ることも、どこへ去ることもないからだ。それゆえに「如来」と言われるのだ。」
***
それからお釈迦様は、
もし人が居て如来は去り、来たり、座したり、臥したりする
と、言う者が居れば理解していないというのじゃ。
なぜならば来たり去ったりしないのが、如来であるからというのじゃ。
如来とは来るが如しという意味なのじゃ。
来ることも去ることもないものなのじゃ。
既に死を超越したからなのじゃ。
死の世界へ去ることはなく、生まれてきたものでもないのじゃ。
一切の観念から離れた故に、生死も滅したのじゃ。
死を超える事は生をも超えることなのじゃ。
生きるということの停止が死ぬことなのであるからのう。
生死の観念を超えたものが如来なのじゃ。
そうであるから来ることも去ることもなく、来るが如しなのじゃ。
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