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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
102
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/06(水) 21:22:10 ID:Dp/qMVVc0
この屈辱から身を守るには、二つの方法がある。動物が消えてしまうか、動物のことを忘れてしまうかだ。動物が消えるためには、サーダナ、つまり修行を通さなければならない。しかし、動物を忘れるのはとても簡単だ。それはとても簡単なことだ。想像力だけでトリックを行うことができる。私たちは自分自身の偽りのイメージを作り、そのイメージの助けを借りて動物を抑圧する。しかし、動物は消えない。このイメージの背後で活動的になるのだ。イメージの背後には動物があるので、このイメージは外見だけだ。現実の生活の中で、このイメージが失われ、毎日打ち負かされているのに気づかないだろうか?これは当然のことだ。内側の動物は本物なので、私たちの努力すべてを打ち負かしてしまう。毎日、想像上のイメージが打ち負かされているのだ。
にもかかわらず、あなたは自分のイメージを生かしつづけ、大切にしている。慈善活動や犠牲、思いやりや奉仕の行為、いわゆる道徳的な行動のすべてを通して、他人や自分自身にそれが本物であることを証明する方法を見つけようと、いつも忙しくしているのだ。これらのすべては、ただ証拠を探しているだけではないだろうか? イメージが本物であることを証明しようとしているだけではないだろうか? しかし、これらはすべて無駄なのだ。あなたが作り上げた自分自身のイメージは、まだ死んだままだ。それは命を持たないままであり、そこに命が入る可能性はない。
この死んだ重荷からあなた自身を解放してもらいたい。この偽りの、死んだ仲間を解放して、本当のものを知り、理解しなさい。偽りのイメージを植え付けることは道を塞ぐことになるが、自分の中の動物を観察し、この欺瞞から解放することが道を示してくれるだろう。
昨晩私は畑を通ったが、そこでかかしを見た。棒が立てられ、シャツを着ていた。てっぺんには頭として、土の壺が置かれていた。暗闇の中で鳥や動物たちは、それを見張り番と見なして怖がって逃げていった。私はかかしを見て、また私と一緒にいる人々を見た。私は言った、「私たちもかかしではないかと、自分の中を見てみよう」と。すると、仲間たちが笑い出した。しかし、私は彼らの笑い声が完全に偽物であることを見た。
―
抑制と抑圧についてお教えください。抑制は意識して抑えること、抑圧は無意識で抑えることと解釈していますが、英語では両方とも suppress です。社会的場面では、抑制が必要になることがあり、お釈迦様も怒りを抑えよと説いています。オショーは surpressを説かず、自分の真正な感情の表現を勧めることもあるように思います。 私は自分で本心が分かってさえいれば、場面によって、抑制は問題ないと思っているのですが、お釈迦様とオショーの違いは、対機説法のためなのでしょうか?
103
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/06(水) 23:25:16 ID:1d4drIFg0
怒りは日常においては常に抑えるべきものじゃ。
怒りのために自他を傷付けたりすることもあるからのう。
修業ではありのままに観察するべきなのじゃ。
ありのままに観ることができればそれが起こっては消えることがわかるのじゃ。
そして囚われなくなるのじゃ。
104
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/07(木) 20:39:58 ID:Dp/qMVVc0
私たちについてのすべてが偽物になっている - 私たちの生活全体、取引、笑い、涙。すべてが偽物になっているのだ。私たちは、この偽のかぶり物の重さに疲れ果てている。そして、この偽のかぶり物はとても重いのだが、私たちは偽りの背後にあるものをさらに恐れているので、それを投げ捨てることはない。そこに入るのを恐れている。それどころか、私たちがいつも他人の中に軽蔑してきた存在が、そこに満開の花を咲かせているのだ。私たちの恐れは、自分自身を発見することを許さない。
自分のサーダナのために、自己実現のためには、恐れないことがまず第一だ。勇気を出せない人は、自分自身の中に入ることさえできない。自分自身に入るためには、暗い夜に孤独な岩場の道を歩くために必要な勇気よりも、はるかに大きな勇気が必要だ。なぜならば、人が自分の中に入るとすぐに、長い間大切にしてきた自分自身についてのすべての甘い夢が打ち砕かれ、自分自身が、最も醜く、最も不潔な罪に直面していることに気づくからだ。その罪から、自分は完全に自由だと思っていたのに。
しかし、自分を発見する勇気を持った者が、自分の中の暗い路地や谷間、長い間見捨てられていた場所に移動したとき、自分が新しい生に乗り出したことに気づく。闇の中に勇敢に飛び込んだ者は、最終的に光を得られる旅に出る。それは多くの生で求めてきた目標であり、これまであえて暗闇に足を踏み入れなかったために、常に避けられてきた目標なのだ。
闇は、灰の山が火の粉を隠すように、光を包み込み、隠している。闇の中に入るとすぐに光が見えてくる。だから私はあなたに言う:もしも光を望むならば、暗闇を恐れてはならない。暗闇を恐れる者は光を見つけることはできない。光への道は闇の中を通る。実際のところ、この勇敢な暗闇への侵入により、それ自体が内なる光へと変容するのだ。この勇敢さのおかげで、今まで眠っていた者が目を覚ますのだ。
あなたは自己認識を得たいのではなく、ありのままの自分を恐れているのではないだろうか。あなたは「サット・チット・アーナンダ-存在・意識・至福」のような言葉を聞くのが好きだ。「永遠」や「純粋」のような言葉を聞くのが好きだ。しかし、その理由はそれらの言葉があなたが本当に何であるかを忘れてしまうのを助けるからなのだ。サット・チット・アーナンダの完全な正反対だ。
―
細かく観察すると、本心も矛盾する二つがあったりします。例えば自我を解体して重荷を下ろしたいという心と、消えるのは怖いという心です。その上に、さらに人に良く見られたいという心があり、そのために自分の本当の気持ちとは違う態度を表現するというような心があります。時々、自分の本心が何なのかと迷う時がありますが、いずれにしてもイメージされるものは全て偽物なので、徹底的に観察して、何もなくなるまで、一つ一つ覆いを取っていくということで良いのでしょうか?
105
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/07(木) 22:01:26 ID:1d4drIFg0
感情も思考も対象によって変るものであるから、本心も次々に変るものじゃ。
恐れずに観ていければ全て無くなるのじゃ。
ただの反応であったと気付くからのう。
何も無くなるまで観察し続けると善いのじや。
106
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/08(金) 21:00:26 ID:Dp/qMVVc0
しかし、あなたは自分の自我を養いたいのだ。そしてそれが、罪人がサドゥーの周りに群がる理由だ。なぜならば、そこに聞く話は魂の純粋さについてであり、ブラフマンと一体であることについてであり、それはその人たちにとって非常に喜ばしいからだ。説教を聞いたとき、その人たちは申し訳ないと感じて、劣等感を抑圧し、その後、再び自分自身の前に真っ直ぐに立つことができるのだ。魂は純粋であり、その影響を受けないので、罪を犯すのはとても簡単で無害であると感じ始める。自分の魂が純粋で、その影響を受けていないと信じることは、罪を終わらせることにはならない。それは非常に深い自己欺瞞でしかない。それは人間の心の最後のトリックだ。ただ闇がないと信じているだけでは、光はない。
罪は存在しない、魂は罪に関与していないと信じるように教えるイデオロギーは非常に危険だ。それは、自分の罪深い状態を忘れるための手段に過ぎない。それは、罪を消滅させることではなく、罪を忘れることにつながる。そして、罪を忘れることは、罪が存在することよりも悪いことなのだ。あなたは自分の罪を見ることができるだろうか? 罪に気づくことは良いことで、有益なことだが、それらを見ることができず、無知であることは有害なのだ。なぜならば、それらが見られるようになると、私たちを追い立て始め、私たち自身を変容させようと突き刺すからだ。罪を意識することは変化をもたらし、罪を完全に意識することは瞬間的な変容をもたらす。
それゆえに、どうか魂の純粋さや悟りなどの話に巻き込まれないようにしてほしい。魂は信念とは何の関係もない。それは、罪にまみれた人格が投げ出され、暗闇の層を突破して、求道者が自分の秘密の、心の奥の、光の中心に入るときに、直接実現されるものなのだ。それは直接の実現だ。それは想像できるものではない。
どんな想像上の概念でも、おそらくは大きな害になるだろう。それは邪魔者になり、光を得るための妨げとなりうる。なぜならば、もし闇は存在しないと信じているならば、存在するとは思わないものを取り除けるはずはないからだ。そしてもし、魂が善も悪も犯していないならば、その上に立つ意味は何なのだろうか? 私たちのいわゆる哲学者たちのこのような無意味な発言や疑問は、多くの人々を妄想の世界に投げ込んできた。この毒は広範囲に広がっており、そのせいで私たちは自分たちを神だと思っている。そして同時に、この地球上では、私たちよりも大きな罪人を見つけるのは難しいだろう!
―
私自身も、苦滅ができる自分や善行に励む自分のイメージによって、自我を養ったことがあります。最近は自我の拡大を感じられるようになったので、気づけるようになってきましたが、油断せずに正しい観察に励みます。
107
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/08(金) 23:33:29 ID:1d4drIFg0
宗教的な観念はむしろ有害になるというのじゃ。
宗教に拠って自分はもはや無罪であるとか、浄化されたなどという概念は有害なのじゃ。
ありのままの自分を観る妨げになるからのう。
何の観念も無く今ここにある己を観るのじゃ。
108
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/09(土) 21:01:10 ID:Dp/qMVVc0
また、このような自己賛美や魂の純粋さについての話は、本当は罪の存在を無視することに向けられていることも忘れてはならない。この話の罠にはまってしまった人が、後になってそこから抜け出すのはとても難しい。罪から自由になることは簡単だが、このような種類の危険な哲学の魔手から逃れることは非常に難しいのだ。
魂が純粋であるという事実は、理論でも原理でもなく、直接の実現だ。そして、それについて議論しても何の役にも立たない。それは、病気の人の心の中に、自分の病気が存在しないという幻想を作り出すようなものだ。もしその病人が福音としてこれを受け入れた場合、結果は回復ではなく、確かな死となるだろう。
知っている人は、実現、悟りを議論しない。彼らは修行、悟りにつながる道について話す。考慮されるべきなのは悟りではなく、修行なのだ。悟りは修行に従うように結びつけられている。悟りについて考えることは無意味だ。そして誰もが当たり前のように悟りを取るとしたら、そのような人の修行は不可能になる。
それなのに、修行のない悟りを当たり前のように受け止めてしまうのは、どれほど簡単なことなのだろうか! このようにして、人は喜びを感じるようになる。このようにして、実際にそれを取り除くことなく、罪からの自由の喜びを感じ始め、幻想の深い呪文の中で、乞食は皇帝の喜びを感じ始める。乞食が自分は皇帝だと言われるのは、何と嬉しいことだろう。そう告げる者が尊敬され、その足元にひれ伏して崇拝されるのも不思議ではない。貧しさと罪からの解放には、これほど簡単で安上がりなものはない。このインチキ哲学はあなたに非常に簡単な自由を与えるが、修行はあなたの側で多大な努力を必要とする。
私はあなたがどんな哲学や哲学者の罠にもかからないことを願っている。私はあなたがそのような早道に頼らないことを願っている。最も簡単で安あがりな方法は、魂が純粋で悟りを開いていること、魂はブラフマンそのものであり、あなたがするべきことは何もないと信じることだ - そしてもちろん、あなたがその時にたまたまやっていることは何であれ、あきらめるべきことは何もないので、最高のものであると信じることだ。
―
修行者がこのような観念の罠を避けるためにはどうしたら良いのでしょうか? 私の場合は正しい観察ができているか、すなわち新しい発見、心の変化があるかどうかを確認することと、本当に悟りを求めているのかを自分自身に真摯に尋ねることをしています。
109
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/09(土) 23:58:53 ID:1d4drIFg0
はっきり言ってしまえば全ての者がこのような罠を避けられるような方法や術はないのじゃ。
本当は悟りを求めていない者はこのような罠に引っかかってしまうじゃろう。
霊的に浄化されたとかアセンションにはいったとか、奇跡のコースを修了したとか言われてもはや修業もやめてしまうのじゃ。
そのような者は本当はそのような安っぽい金で買える権威とか名前を求めていただけであるからそれを手に入れて満足するのじゃ。
真摯に悟りを求める者は老病死の苦を超えない限り修業し続けるべきなのじゃ。
110
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/10(日) 21:03:46 ID:Dp/qMVVc0
真実でさえも悪用されることがあり、最も高貴な真実でさえも下劣なものを隠すために使われることがあることを忘れてはならない。これは過去にも起きたし、今も毎日のように起きていることだ。臆病は非暴力によって隠すことができ、罪は魂の純粋さと悟りの哲学の下で隠すことができ、無行為はサニヤスの衣の下で隠すことができる。
私はこれらの危険に対して警告したい。もしあなたがこれらの危険を警戒していなければ、自己の方向に大きく前進することはできない。あなたを包み込んでいる罪と闇から逃れようとして、哲学的な安住の地を求めてはならない。それらを知りなさい。精通しなさい。それらはそこにある。その存在を忘れてはならない。それらは夢のようであっても、まだそこにある。そして、夢は存在しないと思ってはならない。夢にも存在があるのだ。それはまた、私たちを圧倒し、邪魔することができる。「それはただの夢だった 」と言っても、どこにもつながらない。目覚める以外に解決策はない。しかし、もし望むならば、人は目覚めた夢をさえ見ることができる。偽りの哲学、修行のない哲学は全く同じことをする。それはあなたを覚醒させない、それは単に覚醒の夢を引き起こす。それは夢の中の夢だ。自分が起きているように見える夢を見たことはないだろうか?
単に信じて、そこに罪は無い、闇は無いと言っても、何の意味もない。それはあなたの願望の表現に過ぎず、真実ではない。罪がないこと、闇がないことは私たちの願望だが、願望だけでは十分ではない。このことは重要だ。そして、これらの哲学者たちは、王になりたいと願う乞食が最終的に王になった夢を見始めるように、次第に達成の夢を信じ始めるのだ。その人たちは常にそれを望んでいて、最終的には自分が望んでいたことを達成したと想像するが、実際には何も達成していないのだ。だから、敗北を忘れるのは簡単だ。そして、現実にはできなかったことを夢の中で達成したので、眠りの中で満足のため息をつくのだ。
あなたがそのような満足感をここに求めていないことを願っている。もしそうなら、あなたは間違った人のところに来てしまった。私はあなたに夢を与えることはできない。私はあなたに自己欺瞞の根拠を与えることはできない。私は夢破りであり、あなたを眠りから目覚めさせたいのだ。
―
苦を逃れようとして修行をはじめたのに、苦が無い夢を本物と信じて、死ぬ時に偽りに気づくなら、それ以上恐ろしいことはないと思いました。気をつけて観察に励みます。
111
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/10(日) 21:48:18 ID:1d4drIFg0
聖典の教えも本当は悟りを求めていない者には利用されるだけなのじゃ。
夢幻を追いかけて時間を費やしてはいかんとオショーは言うのじゃ。
現実に今ここにある心を観るために励まなければいかんのじゃ。
それができれば進んでいくことが出来るのじゃ。
112
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/11(月) 20:40:11 ID:Dp/qMVVc0
目覚めは間違いなく痛みを伴うが、それが唯一の苦行だ。この苦行、この痛みは、あなたの実際の罪深い状態、自己のろくでもない状態の現実に気づくことから始まる。あなたはこれ以上の幻想を抱くことができなくなる。現実が何であるかを、ありのままに知るのだ。それはあなたが皇帝として自分自身を見ている甘い夢を破壊するので、不幸を引き起こすだろうし、痛みを引き起こすだろう。皇帝は消え、乞食は光の中に立ち、美は消え、醜いものが現れ、善は蒸発し、悪が現れ、あなたの中の動物は裸になって目の前に立つだろう。
これはすべて必要なことだ。とても必要なことだ。この苦しみを乗り越えることは不可欠なのだ。それは出産の苦しみであるため、避けられない。そしてこの後でなければ、動物を直視した後でなければ、動物ではない者をはっきりと知ることはできない。
この動物を目の前で見る人は、動物とは違う存在になる。内なる動物を認識することで、動物との同一性が破られるのだ。観察は観察者と観察された者を分離させる。すると、覚醒の種が蒔かれ、それが完全に発達すると、自己実現へと花を咲かせるのだ。
罪から逃げること、闇から逃げること、動物から逃げることは、修行ではなく、修行からの逃避だ。それは現実からの逃避だ。それは砂の中に頭を隠し、敵を見ることができないので、敵は存在しないという考えに安心を感じているダチョウのようなものだ。これが本当なら、どんなに素晴らしいだろう! しかし、そうではない。敵が見えないからといって、敵が存在しないわけではない。それどころか、その方がもっと危険になる。目を閉じていれば獲物になりやすい。 敵の存在下では、敵について知ることは私たちの利益になるので、私たちの目はすべて広く開かれているべきだ。
無知は弊害以外の何物でもない。 このような理由から、私はあなたに自分の暗黒面を完全に見つけ出し、それを観察してほしい。すべての服を脱ぎ捨て、自分が何者であるかを見なさい。すべての原則や理論を脇に置いて、自分が何者であるかを見なさい。砂から頭を上げて、見なさい。
―
観察により自分を観て様々な苦を滅しているにも関わらず、自己観察を日に何度も忘れてしまいます。恐らく逃避もあることでしょう。めげずに気づいた時には観察に戻り、観察の時間を増やしていきます。
113
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/11(月) 23:38:07 ID:1d4drIFg0
自分を観ることは間違いなく痛みを伴うとオショーは言うのじゃ。
今まで恐ろしく、不安であるから逃避してきた自分の心を見直すのであるから苦しいのは当然なのじゃ。
自分を飾ってきた幻想のイメージを捨てて、ありのままの自分をみることが必要なのじゃ。
敵が怖いから観ないようにすれば、むしろ危険は増すように逃避してきた自分を観ないでいるのは、いずれは老病死の苦が来た時に苦を増すことになるのじゃ。
自分の暗黒面を見つけ出して、観察すればそれはもはや暗黒ではなくなるのじゃ。
114
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/12(火) 20:52:47 ID:Dp/qMVVc0
まさにあなたの目を開くこと、この見ることこそが変容であり、新しい生の始まりだ。目を開くと変化が始まり、その後の行動は何をするにしても、あなたを真理へと導く。闇の層を突き破り、光の中へと歩を進め、罪の網を一掃して神を得る、無知に致命的な打撃を与えて、魂に到達するのだ。
これは、自己実現への旅のための、修行のための正しい道だ。そして、その前に夢を見る必要はない - 魂と神についての夢、サット・チット・アーナンダとブラフマンについての夢を見る必要は無いのだ。これは本当の楽園が失われている間、愚か者の楽園に住んでいるようなものだ。あなたもまた、行為の道によって、カルマによって、無知と闇を払拭することによって、完全な状態、サット・チット・アーナンダに到達することができる。
昨夜、ある人にサットサンガとは何かと聞かれた。私は答えた。サットサンガとは、自己の仲間、真理の仲間を意味する、そして真理は外では見つけられない。グルも、先生も、シャスターラも、あなたにそれを与えることはできない。それはあなたの中にあり、もしそれを得たいのなら、あなた自身の仲間を求めなさい。自分自身と一緒にいなさい。しかし、私たちは常に誰か他の人と一緒にいるのであって、決して自分一人ではない。
エックハルトは、かつて孤独な野原の木立の下に一人で座っていた。通りすがりの友人が彼がそこに座っているのを見た。その友人は近づいて言った。 「私はあなたが一人で座っているのを見て、一緒にいてあげようと思ったので、あなたに加わるためにやってきました。」 あなたはエックハルトが何と答えたか知っているだろうか? 彼は言った。「私は自分自身といたが、あなたが来てくれたので、今私は完全に独りになった。」
こんなふうに独りでいたことがあるだろうか? これがサットサンガだ。 これが祈りだ。 これが瞑想だ。私は自分の中に独りでいて、何の考えも、誰についての考えもないとき、私は自分自身の仲間の中にいる。外の世界が不在の時、内には自己の仲間がいる。その同伴者のない孤独の中で、あなたの純粋な存在の中で、真理が実現される。
―
「カルマによって」とありますが、意味がよくわかりませんでした。行為の道(the path of action)→(良い)カルマ→無知と闇を払拭でしょうか? カルマと関係なく、正しく観察すれば気づきがあるのかと思っていました。
また、エックハルトの答えについても教えてください。自分の思考に気づいたということかと思ったのですが、もし完全に独りになったのなら、友人と会話できないのではないでしょうか。
115
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/12(火) 21:47:38 ID:1d4drIFg0
カルマとはもともと行いの報いを解釈するために作られた概念なのじゃ。
そうであるから実践の成果とか、因果とか、結果でよいのじゃ。
行いとその成果で無知と闇を払拭するのじゃな。
悟っても会話はできるのじゃ。
友人の訪問によって自分を観ている自分に気付いたのじゃ。
そして独りになったのじゃ。
それがアートマンの独存なのじゃ。
実践に拠ってのみ理解できるのじゃ。
116
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/13(水) 21:05:00 ID:Dp/qMVVc0
それゆえに、これは宗教的であることの問題であって、宗教的に見えることの問題ではない。誰かが宗教的であることについて尋ねてきたとき、私が最初に尋ねるのは、「あなたは宗教的に見えたいのか、それとも宗教的になりたいのか?」ということだ。この二つの道は全く違う。宗教的であることは修行であり、自己実現の過程だ。サドゥーや聖人の服装、ステレオタイプのありきたりなローブ、本、額や体にある印など、これらはすべて宗教的に見えるためのものだ。もしあなたもこのように宗教的に見えるようになりたいなら、それはとても簡単だ。
しかし、覚えておきなさい。見えることは他人のためであり、なることは自分のためであるということを。私は、他人が外から知っているような私ではない。私は内側から自分自身が知っているような存在なのだ。もし私が自分自身と調和して、落ち着いてあなたの前に現れたとして、それはあなたにとって何か価値があるだろうか? 実際には、その価値は私自身の存在としか関係がない。
宗教的な資質は、宗教的な服のように着用することもできる。人々はそれを飾り用の装飾品のように身につける。そして、これはさらに危険だ。人間の行動には、本物の花のようなものと、紙の花のようなものの二種類がある。前者は、植物の生命そのものと活力から生まれたもので、後者は生命を持たない。花は咲かず、花びらを貼り合わせなければならない。
私たちに熱があり、体が温度を上げているとき、私たちは体温を下げて熱を取り除こうとはしない。熱を下げることで体温を正常に戻すのだ。体温は熱の症状に過ぎず、それ自体が病気ではない。あくまでも指標であって、敵ではない。体温との戦いを始めた医師を何と呼ぶだろうか?
―
結局悟りの境地の説明は、実践により悟りを得ないと理解できないので、それらには囚われずにひたすら自分を観ることに励みます。オショーの説法が魅力的で、油断すると習慣によって思考で解釈しようとしていました。
117
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/13(水) 23:30:55 ID:1d4drIFg0
宗教的な装飾は危険だというのじゃ。
坊主の飾り立てた袈裟や大きな寺等は悟りとは関係ないものじゃ。
むしろ悟りから遠ざかるものであるから危険なのじゃ。
紛い物の宗教からは遠ざかり、真摯に自己の本心を観るのじゃ。
118
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/14(木) 20:56:44 ID:Dp/qMVVc0
このような正気の欠如は、宗教生活にも見られる。外面的な現れを敵と勘違いし、その症状を病気と受け止めて戦い始める。これでは、病気を取り除くことはできない。それどころか、確実に取り除かれるのは患者、病気の患者なのだ。
エゴイズム、不誠実、暴力、欲望、貪欲、情熱は、すべて現れであり、すべて症状だ。それらは温度だ。病気ではない。私たちの戦いはそれらに向けられるべきではなく、それらを通して、内に犯人がいることを学ぶ必要があるだけだ。この犯人とは、自己の無知だ。それは、エゴイズム、欲望、恐怖、怒り、暴力、嘘などのように、様々な方法で表現されている、自己の無知なのだ。そして、それらは単なる現れであり、表現に過ぎないので、叩くことによって取り除くことはできない。
では、私たちは何をしなければならないだろうか? 真実、非暴力、博愛、勇気の造花を展示することによって、それらを隠そうとしなければならないのだろうか? あなたもまた、いつであったか、そのような花で自分自身を飾ったに違いない。気をつけなさい。たとえ他人を惑わすことに成功したとしても、あなたはそれらにだまされないように注意しなさい。
問題は、不誠実、暴力、恐怖を取り除くことではなく、自己のこの無知の上に上昇することだ。それらはすべて、この無知のために存在している。無知がなければ、存在することができない。もし自己の無知がなければ、それらすべては独りでに消え、その場所は独りでに真実、謙虚さ、無欲、怒りからの自由、非暴力、非独占性に取って代わられる。それらもまた現れだ。それらは自己の知を示すものなのだ。
―
第5章はここまでです。ここまでで何かおかしなところなどがありましたら、ご指摘ください。
オショーが、「ブッダは常に誤解される」(
https://www.youtube.com/watch?v=-nSMi0whFEA
) と言っていますが、自分自身を観て、私自身を含めた衆生も、恐れから誤解したがり、誤解することがわかりました。日頃から恐れや怒りや逃避に注意して、観察を続けます。
119
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/14(木) 21:59:50 ID:1d4drIFg0
おかしなところはないのじゃ。
ご苦労さんなのじゃ。
120
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/14(木) 22:02:00 ID:1d4drIFg0
エゴイズムや不誠実、暴力等は不安や恐れからの逃避でしかないのじゃ。
それもまたただの反応なのじゃ。
戦ってそれらを無くそうとする努力は無意味なのじゃ。
反応を観察して滅することが出来ればそれが自己への理解であり、真実の知恵なのじゃ。
121
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/15(金) 20:38:33 ID:Dp/qMVVc0
第6章 3日目の朝 1964年6月6日 午前
私はあなたに真理を与えることはできない。もし誰かが、あなたに真理を与える能力があると言うならば、その人はあなたに虚偽を与えることにより始めていることは間違いない。誰も真実を与える能力を持っていない。これは与える者の能力についての批評ではなく、真実が生きているものであることを示しているだけだ。それは、与えることも奪うこともできる無生物ではない。それは生きた経験であり、自分自身で獲得しなければならない。
死んだものは人から人へ移すことができるが、経験は移せない。私が持っていた愛、愛の経験をあなたに移すことができるだろうか? 私が出会った美しさや音楽をあなたに与えることができるだろうか? このありふれた身体で、私がこのような並外れた経験をした喜びを、あなたに与えられるならどんなによいだろうか! しかし、そうする方法はない。落ち着かないし、苦しいが、何もできない。なんと無力なことか!
私の友人は生まれつき目が見えない。私は彼に視力を移すことができたらと願ったが、それは不可能だった。もしかしたら、目は体の一部であり、移植できる日が来るかもしれない。しかし、真理を見る視力は、どんなに強く願ったとしても、決して移すことはできない。それは魂のものであって、肉体のものではないのだ。
自己の世界で達成されるものは何でも、自己の努力によってのみ達成される。魂の世界では、借金も、借物も、他人に頼ることもできない。誰も借りた足でそこを歩くことはできない。そこには自己から離れて避難する場所はない。真理に到達するためには、あなた自身が自分自身の避難所にならなければならない。これは避けられない条件だ。
私はあなたに真理を与えることができないと言ったのは、これが理由だ。言葉だけが伝えることができる、言葉は命がなく、死んでいる-そして真理はいつも後ろに残っている。そして、この言葉の伝達は、全く本当の伝達ではない。生きているもの-その意味、その魂、その本質である経験-は、言葉と一緒に行くことはない。言葉は空の薬莢のようなものであり、火薬のない弾丸のようなものだ。それは死体、死人のようなものだ。あなたにとって重荷となるだけで、決してあなたを解放することはできない。言葉によって、あなたは真理の死体を運ぶだけだ。死体には真実の鼓動はない。
―
欲望や情熱もまた、不安や恐れからの逃避でしかないと頭では分かります。が、直接不快をもたらすことと違って、一時的な快をもたらす心の働きを厭離するのは、特に難しいと感じます。そのような快をもたらす心身の働きの連鎖も、気をつけて粘り強く観察します。
122
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/15(金) 21:55:48 ID:1d4drIFg0
真理は誰もが自分で見出さなければならないのじゃ。
言葉として伝えることは出来ないのじゃ。
オショーは言葉は命が無く、死んでいるというのじゃ。
言葉ではわからないことを自らの心を観察して気付くのじゃ。
123
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/16(土) 20:50:01 ID:Dp/qMVVc0
私が話したように、真理は与えられない。しかし、私はあなたが背中に背負っているこの重荷を下ろす手伝いはできる。それはあなたが何年も背負ってきた重荷であり、それは非常に重く、耐え難いものになっている。あなたはこの言葉の重荷から解放されなければならない。旅人が道を歩いているうちに埃をかぶってしまうのと同じように、人生の旅の中で、言葉や考えの埃が人の上に集まるのは当然のことだ。しかし、この埃を払わなければならない。
言葉は死んだものであり、真理ではない。誰の言葉も真理ではない。集めてはならない。それらを集めることは有害だ。真理への巡礼は、この重さを背負って行うことはできない。登山家が高みを求めるために、山を登る前に荷物を捨てなければならないのと同じように、真理への旅に乗り出した人は、言葉の重荷を捨てるべきだ。言葉から解放された意識だけが、真理の高みに到達することができる。
私が教えるのは、ただ一種の非所有、言葉と思考の非所有だけだ。その重荷はあなたの旅を非常に困難にしている。荘子は「網は魚を捕るためのものである。魚を捕まえて網を捨てよ」と言った。しかし、私たちはとても悪い漁師なので、網に巻き込まれ、魚のことを忘れてしまった。自分の頭の上を見なさい。あなたは頭の上に船を乗せているが、それに乗って航海することを忘れている。
言葉は記号だ。 それは標識・指し示すものだ。それ自体が真実ではない。標識の意味を理解してから捨てなさい。標識を集めることは、死体を集めることと何ら変わらない。
言葉は月を指す指のようなものだ。指にすべての注意を集中する人は、月を逃してしまう。もし指があなたを指から引き離すなら、指は目的を果たす。しかし、逆に、指があなたを指自身に引き寄せてしまうと、指は役に立たないばかりか、本当に有害なものになってしまう。
あなたが学んだ真理についての言葉は、すでにあなたにとって不幸のもとになっていなかっただろうか? それはあなたがたを互いに、人と人とを隔ててしまったのではないか? 宗教の名の下に行われているすべての愚かさと残酷さは、言葉のためではないのか? 様々な宗教として知られているそれらの宗派は、言葉の違いだけに基づいているのではないのか?
―
思考中に厭離が起こることもあるのだから、思考より観察が常に良いわけではないのではないかと、自分自身への言い訳が起こり、それが逃避であることに気づきました。焦らずに一歩一歩励みます。
124
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/17(日) 00:22:47 ID:1d4drIFg0
言葉は悟りへの障害となる重荷であるというのじゃ。
言葉を集めるのは有害であるとまで言うのじゃ。
知識や言葉ばかり集めて自分の心を観察する実践を忘れてしまうならば、確かに言葉は有害じゃろう。
言葉は人と人を隔て、宗教を残酷なものにして、宗派をも作り上げて争いを起こしているというのじゃ。
言葉を捨てて心を観る実践をすべきなのじゃ。
125
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/17(日) 20:51:50 ID:Dp/qMVVc0
真理は一つであり、一つでしかありえないが、言葉は多くある。月が一つであるのに対して、それを指し示す指は千と一つあるかもしれないように。真理を指し示す無数の言葉のうちの一つ以上にしがみついている人たちが、多くの宗教宗派の責任者たちだ。これらの宗教は真理からではなく、言葉から生まれたものだ。真理は一つ。宗教もまた一つだ。言葉を捨てる者は、この宗教だけに、そしてこの真理だけに到達する。それは比類のないものだ。
それゆえに、私はこれ以上の話をすることで、あなたの言葉の重荷を増やしたくはない。あなたはすでにこの言葉の重い荷の下で壊れている。あなたの首がその重さで曲がっているのがよくわかる。
真理を知った者は口を開かない。唇はしっかりと閉ざされている。そこからは何も聞こえない。このやり方で十分話してはいないだろうか? その者は真理が沈黙の中にあることを示唆しているのではないだろうか? 沈黙自体が真理であることを。しかし、私たちはその者の言葉を理解することができない。言葉なしでは何も理解できない。私たちの理解は言葉に限られているので、真理を知った者は言葉という媒体を通して私たちに語りかけてくるのだ。言葉では伝えられないことを言葉で教えてくれる。この不可能な偉業を成し遂げようとするのはその者の思いやりであり、私たちは無知であるがゆえに、その言葉の一つ一つを聞き取ろうとするのだ。言葉と無知が結びついて宗派を形成し、再び私たちは真理を奪われ、真の宗教はこれまでと同様に私たちから遠く離れている。
あなたは言葉の上に立ち上がらなければならない。そうして初めて、言葉の背後に何があるのかを知ることができる。言葉は私たちの記憶を埋めるだけだ。知はそこからは得られない。そして、どうか記憶を知と勘違いしないで欲しい。記憶とは過去の記録にすぎないことを、きっぱりと認識しなさい。それは学習であり、知ではない。
ある人がラマナ・マハルシに真理を知るために何をすべきかと尋ねた。彼は答えた。「あなたが知っていることをすべて忘れなさい」。あなたが知っていることをすべて忘れることができれば! この忘却の中から、真理と自己が知られる無邪気さと単純さが現れてくるだろう。
―
言葉の一つ一つを聞き取ろうとする。まさに、私も陥りがちなことでした。覚者の言葉を読んで、実践し、観察が自分の心に向かえば良い方向で、覚者の言葉の解釈や、違いの比較などに囚われるのが間違った方向ですね。気をつけて実践を続けます。
126
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/17(日) 21:58:51 ID:1d4drIFg0
真理は一つとオショーは言うのじゃ。
それは言葉には出来無いものなのじゃ。
言葉で真理を伝えるというのはにせものの宗教なのじゃ。
今まで集めてきた知識を捨てて自分を観るとよいのじゃ。
127
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/18(月) 20:36:23 ID:Dp/qMVVc0
言葉や言葉から形成された思考があなたの意識を混雑させないとき、光はその自由な瞬間を見つけて入る。それは輝きわたり、あなたは知に到達する。あなたは意識の窓とドアを開かなければならない。そして今意識を取り囲んでいる壁も、同様に取り除かなければならない。そうすれば、あなたの本性である光に出会うだろう。実のところ、空(そら)に出会うには、空のようにならなければならない - 空(くう)、自由、無限に。思考はこれを許さない。雲のようにあなたを取り囲んでいる。これらの雲は散らされなければならない。それならばいったいどうして、私はこれ以上あなたの心の上に思考の雲を広げることができるだろうか?
私があなたに伝えていること、あなたに伝えたいが、できないことは、そのような思考やアイデアではない - それは経験、直接の実現だ。それが単に私が伝えたいと思っていた思考であったならば、私はあなたに伝えることができただろう - そして、その経験が外の世界のものであったならば、何らかの言葉がそれを伝えていただろう。しかし、この経験は外の世界のものではない。それはすべてを経験する者の経験だ。それは知る者の知だ。そして、そこに困難がある。
受け入れられた知識では、知るものと知られるものは別々であり、見ているものと見られているものは区別されるが、自己の実現においては、それらは別々ではない。そこでは、知るもの、知られるものと知はすべてひとつだ。そしてここでは、言葉は全く役に立たない。言葉はこの文脈で使われることを意図していない。そのように使うことは、言葉の能力を超えて、その可能性を超えて、それを引き伸ばすことだ。この綱引きの中で、言葉が不具になったり、命を失ったりするのも不思議ではない。そして、それらは真理の身体、外面的な形を示すが、真理の心に触れることはできない。真理は、言葉が存在しないときにのみ知ることができる。
言葉はいったいどのようにして真理を表現することができるのだろうか? 思考のない状態で得られるものは、思考によって地縛りにすることはできない。空(そら)を縛る方法はあるのだろうか? そして空を縛ることができれば、それを空と呼ぶことができるのだろうか? しかし、なぜ私たちは真理をこのように考えないのだろうか? 真理は空よりも限りなく、無限ではないのか?
―
ここまで訳を書き終わったあと、思考が心に浮かびませんでした。観察あるのみ。
128
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/18(月) 23:20:48 ID:1d4drIFg0
言葉や言葉から生成された思考は悟りの邪魔になるというのじゃ。
思考が無い時に気づきも起こるのじゃ。
そして言葉に拠って表現できない真理を体現できるのじゃ。
難しいことではあるがのう。
129
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/19(火) 21:01:51 ID:Dp/qMVVc0
もし空が束になって市場で売られていたら、誰も買おうとはしないだろう。しかし、私たちは真理を買おうとしている。真理、神、そして解脱はすべて市場で売られている。そして、売り手は非難されるべきではない。その人たちは買い手の需要を満たしているだけなのだ。そして、買い手がいる限り、真理を求める顧客がいる限り、既製の真理を提供する店を閉鎖することはできない。宗教の名の下に運営されているすべての組織とすべての宗派が店になっている。その中であなたは既製の真理を買うのだ。既製服だけでなく、既製真理もそこで売っている。私はあなたに既製の真理を与えることはできない。既製の真理は単に存在しないのだ。
ある話を思い出した。 グル、教師はかつて弟子に真理についての質問をした。弟子は答え、そしてグルは言った、「そう、その通りだ。」 次の日、グルは同じ質問をした。弟子は前日にすでに答えたと言った。グルは彼にもう一度答えるように頼んだ。弟子は前日に言ったことを繰り返した、するとすぐにグルは「違う!違う!」と言った。弟子は驚いてグルに言った。「昨日、あなたは『そう、その通りだ』と言いましたが、今日はいったいどうして『違う』と言ったのですか。」グルは言った。「昨日は『その通り』だったが、今日は『違う』だ。」
この話の要点は何だろうか? わかっただろうか? それは弟子の答えが紋切型になり、固定されたパターンに幽閉されたということだ。それは命を失い、死んでいたのだ。それは記憶の一部となり、知ではなかった。私たちの記憶は、そのような死んだ答えでいっぱいで、生きているものは、そのすべての死体のために浮かび上がることができない。
友よ、記憶ではなく、経験を呼び覚まさなければならない。記憶は死んだ重荷であり、経験は生きた解放なのだ。真理の経験を事前に想像することは不可能だ。真理は、いかなる専門用語によっても、また何らかの哲学、宗教、理念によって仕立てられたいかなる厳格な定義によっても、幽閉されることはできない。私たちは、真理がいかなる理念にも、いかなる思想の流派にも適合することを期待してはならない。それを任意のパターンに限定するためのあらゆる努力は無駄になる。
―-
昨日鬼和尚が難しいと答えられたのは、思考なく、ただ在ることで悟りを得るということでしょうか。多くの人にとっては、縁起を観るのがより易しい方法なのですか?
130
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/19(火) 22:38:51 ID:1d4drIFg0
難しいのは言葉に拠らない学びなのじゃ。
子供の頃から教えられてきた学びとは、全てを言葉や数字や記号として記憶することだったのじゃ。
しかし悟りの道はそれらを全て否定し、言葉ではなくありのままに見て記憶しない方法なのじゃ。
今までと全く反対の学びであるから、非常に困難なのじゃ。
今回のオショーの話のように、昨日と今日ではもはや今ここにあるものが違っているから答えも刹那毎に違うのじゃ。
次々に移り変わる心のありようを、今ここで観ることが大事なのじゃ。
131
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/20(水) 21:14:33 ID:Dp/qMVVc0
真理を幽閉するのではなく、逆に、自分自身を解放しなければならない。真理への道は、それを閉じ込めることではなく、その道は自分自身を発見することだ。真理を幽閉するのではなく、自分自身の束縛を解きなさい。これが到達するための唯一の方法だ。真理の実現は、経験を通してのみ可能だ。自己実現や自己体験以外の手段では知ることはできない。ただ唯一、経験だけが決め手となる。
かつて私は滝のそばにいた。私はその水を飲んで、それが甘いものであることを知った。これは真理にも当てはまる。飲んで知る。飲んでみなければわからない、味のようなものがある。
真理はあなたの知識の産物ではない。あなたの創造物でもない。あなたはそれを作り出していない。誰もしないし、誰にもできない。それはすでに存在している。どこでも買うことはできないが、すでにそこにあるのだ。目を開けた瞬間に見えるようになり、目を閉じた瞬間に見えなくなる。光のようなものだ。それを買う必要はない。ただ目を開くだけで、真理がそのすべての純真さ、完全な純粋さ、存在の充実した状態で現れ、あなたを一変させる。これを可能にするためには、使い古されたものや借り物の思考で自分を歪めたり、他者の残飯を受け入れたりしないことが不可欠だ。生には古臭いものや死んだものを受け入れる余地がないことを知らなければならない。
では、私はあなたに何を言わなければならないのだろうか? 私は真理について話さない。では、何について話そうか? 私はあなたに真理を知る方法について話す。光について話すのではなく、どのようにしてあなたの目を開いて光を見ることができるかについて話す。私は何を見ているかは言わないが、どのように見ているかは言うだろう。そのことのみが語られ得る。 そして、少なくともそれだけは有害な影響なしに話せると言うことは、あなたの大いなる幸運のおかげだ。
宗教、真の宗教は、真理の教義に関心を持つのではなく、むしろ真理を知る方法に関心を持つ。したがって、私は真理については何も言わないことにしよう。あなたが自分で見る前に、私はそれを明らかにしたくないのだ。私は、あなた自身がそれを知ることができる場所に、あなた自身がそれを見ることができる場所に、あなたの無知が蒸発し、あなた自身である燃え上がる火に出会う沸騰点に、あなたを連れて行きたいと思っている。
―
言葉に拠らない学びは、難しいですが、悟りを得るためには避けられず、そのために日々正しく止観につとめ励む必要があるということでしょうか。
自分の経験では、今のところ観察ができて気づきが得られることがあったとしても、それを記憶しないことはできないように思います。
132
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/20(水) 22:35:28 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、日々の精進で難しいことも出来るようになるのじゃ。
記憶士はしても善いのじゃ。
ただそれに囚われないことが大事なのじゃ。
気付いたことを記憶して再び心の中に探そうとしたり、記憶した体験を再現しようとしてはいかんのじゃ。
気付いた知識も体験も捨てて日々心の中に新しい知見を求めるのじゃ。
そうすれば己も見えるのじゃ。
133
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/20(水) 22:37:24 ID:1d4drIFg0
真理への道とは自分自身を発見することにあると言うのじゃ。
それも知識に拠って知るのではなく、直接に観ることが大事なのじゃ。
水を飲んでその味を知るように、自分の性質を直接に味わうのじゃ。
真の宗教とは真理を知る方法を教えるものなのじゃ。
134
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/21(木) 21:12:25 ID:Dp/qMVVc0
では、その過程について話そう。真理への道を歩もうとする人は、二つの扉が開かれているのを見つける。ひとつは真理について考えること、もう一つは真理に到達するための修行に従うことだ。一つは論理の道であり、もう一つはヨーガの道だ。一つは真理を熟考する道であり、もう一つは真理の達成につながる規律の道だ。しかし、私の見たところ、扉は一つしかない。私にとってもう一つの扉は存在せず、単に存在しているように見えるだけだ。このもう一つの扉はただの幻想だ。
真理を考える道は、本当の道ではない。それは偽りの幻想の扉であり、そのために多くの人が迷子になってしまう。思考の扉を通って、真理について考えることによって、あなたはどこにも到達することはない。この道は疑いもなくあなたを迷わせるが、それはあなたをどこにも連れて行ってはくれない。非常に長い間この道を歩いた後でさえ、あなたが始めた場所とまさに同じ場所に立っていることに気づくだろう。それは始まりに過ぎず、終わりはない。そして、終わりのない歩き始めは夢でしかあり得ない。
真理について考えるとして、あなたは何をするのだろう? あなたはどのように真理を考えるのだろうか? 知られていないことを考えることはできない。いったいどうやって未知のものを考えるのか? その範囲は既知の領域にしかない。思考は問題を提起することはできるが、問題を解決することはできない。思考を追求する者は誰でも混沌の中に迷い込み、その心はある種の狂気の中で終わるだろう。多くの思想家が狂ったのは偶然ではない。これが思考の集大成であり、究極の目的地だ。思考の道は、全く真理を達成するための道ではないのだ。
ひとつ話をしよう。素晴らしい話を。
むかしむかし、一人の男が世界の終わりを求めて旅に出た。長い旅の後、ほとんど終わりのない巡礼の後、彼は「これが世界の終わりである」という言葉が書かれた寺院に到着した。彼は非常に驚き、そこで見たものを信じることができなかった。彼は旅を続けるとすぐに、世界が終わる場所にたどり着いた。深い深淵が目の前に横たわっていた。彼はその深淵を見下ろした。そこには全く何もなかった。彼の息はあっという間に上がり、頭が回り始めた。彼は振り返って走った。 そして二度と深淵を見るために戻ってくることはなかった。
―
全く何もない深淵に消えていきたいと思う心と、それに抵抗する心が、長い間せめぎ合っているように思います。ひたすら観察に励みます。
135
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/21(木) 23:31:11 ID:1d4drIFg0
真理について考えることは悟りへの道ではないというのじゃ。
実践することだけがただ一つの道だというのじゃ。
真理について考えてもどこへも行けないのじゃ。
終いには考えすぎて発狂したりもする罠の道なのじゃ。
136
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/22(金) 20:55:34 ID:Dp/qMVVc0
これは、思考の終わりの話だ。真理について考えれば、私たちは考え続け、考え続け、考え続け、考え続け、それ以上の思考が不可能になる地点に到達する。これが思考の終わりだ。目の前には底知れぬほど深い空虚な空間があり、私たちの心はもう一歩を踏み出すことを拒むだろう。
思考を最後まで続けていれば、思考の過程でそのような瞬間が訪れる。それは避けられない。もしそれでもまだ考えるべきことがあると感じたら、まだ最後まで到達していないということを私から受け止めて欲しい。考えるべきことがもう何もなく、完全に何もなく、それ以上のことができなくなったとき、終わりが現実であること、世界の終わりの寺院に到着したことを知りなさい。
もし世界の終わりに到達した人が私に何をすべきかと尋ねてきたとしたら、どんなアドバイスをしたか想像できるだろうか? 逃げろとは言わなかっただろう。 せっかく旅をしてきたのだから、もう一歩、最後の、そして最も大事な一歩を踏み出しなさい、と言っただろう。奈落の底へ、空っぽな空間へ、目の前の空虚な空間へ、大胆に飛び込むように頼んだだろう。私はその人に、この最後の一歩だけが必要であることを伝え、世界が終わるところから神の王国が始まることを心に留めておいてほしいと頼んだだろう。
世界が終わる地点ほど重要な地点はない、なぜならそれは神の領域が始まる地点だからだ。神の視座は、思考が終わるところから始まる。思考が終わるところで真理が実現する。思考を手放して、無思考に飛び込まなければならない。言葉から、空に、空虚に飛び込まなければならない。これが道だ。これが勇気だ。これが苦行だ。これが修行だ。
―
昨日、a wonderful story を「素晴らしい話」と訳しましたが、「不思議な話」の方が良いように思いました。
空を目の前にした時、恐れで体に緊張を感じましたが、飛び込もうと意志をふるい起こそうとすると、その意志に自我が投射されて、空が無くなってしまいました。結局その恐れを観察して厭離しない限りは、飛び込めないように思うのですが、どうなのでしょうか?
137
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/22(金) 23:06:19 ID:1d4drIFg0
その恐れは自我が自分であるということから来ているのじゃ。
自我が無くなれば自分が無くなるという謬見があればその恐れが起こるのじゃ。
それが観られるならば恐れも消えるじゃろう。
その時には自然に一歩踏み出せるようになるじゃろう。
138
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/23(土) 20:50:30 ID:Dp/qMVVc0
もしこの時点であなたがブラフマー、ヴィシュヌやマへーシャのビジョンを見た場合、あなたはまだ考えているということを自覚しなさい。もしマハヴィーラ、仏陀やクリシュナを見た場合は、まだ夢を見ているということを自覚しなさい。その時、あなたは本当の終わりには到達していない。真の終わりは、何も考えられず、何も見られず、何も知られないところにあるのだ。唯一、あなたの空(くう)が残っている。実際には、あなたもそこにはいない。そこにあるのは、空虚、無だけだ。
あなたは世界の果てに立っている。あなたの心は戻りたいと思うだろう。この瞬間に勇気が必要で、もう一歩踏み出さなければならない。もう一歩、一回のジャンプで十分だ。そうすれば、すべてが変容する。そうすれば、そこにはもう何の思考もない。そうすれば、実現がある。そうすれば、あなたは知る。
知ることをすべて捨てたとき、見ることをすべて放棄したとき、あなたは知る。そして、あなたがどの点から見ても存在しなくなった時、初めてあなたは本当に存在しているのだ。修行とは死の谷に飛び込むことだ。しかし、それは不死を実現する唯一の方法だ。必要なのは、考えることではなく、考えることから飛び出すことだ。そして、その考えることからの飛び出しが、瞑想だ。私は毎日、まさにこのことを言っている。思考は意識の海の波だ。それらは儚い泡のようなものだ。形づくられる前にほとんどが消えてゆく。思考は問題を抱えて揺れ動く表面を示している、しかしその中に見られるものは、その下の深さには見られない。泡や波と共にいることは、浅い水の中にとどまることだ。すべての思考は浅い。深い思考というものはあり得ない。海の深さに波がありえないのと同じように。波は表面だけで可能であり、思考もまた意識の表面の遊びに過ぎない。海は波の中にはなく、波は海の中にあるのだ。海のない波はありえないが、波のない海はあり得る。意識のない思考はありえないが、思考のない意識はあり得る。
意識は源であり、泉である。もしそれを知りたければ、あなたは波を超えなければならない。波を超越しなければならない。海岸に座っているだけではいけない。カビールは「私は探求しに行ったが、愚かにも岸辺に座り続けた」とかつて言った。どうかカビールのように岸辺に座らないでほしい。岸を越えなければならない。岸はあなたが海に飛び込むためにあるだけだ。
―
勇気づけられます。心の観察に励みます。
139
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/23(土) 23:58:56 ID:1d4drIFg0
瞑想中にはいろいろなことが起こるものじゃ。
神や仏が目の前に出てきてもはや悟ったとかいうこともあるじゃろう。
それは幻想に過ぎないのじゃ。
それらも雑念として乗り越えて何も無いところにまで行かなければならんのじゃ。
140
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/24(日) 20:49:48 ID:Dp/qMVVc0
また、人は岸に立ったままではなく、波に浮いたままということもあるだろう。私からしてみれば、これもまた岸辺だ。飛び込んで溺れるのを止めるものが岸辺なのだ。思考の中で泳いでいる人は、このようなものだ。岸を離れたような錯覚に陥っているが、実際には離れていない。海を知るためには、その人もまた、波を後にして離れなければならない。
マハヴィーラが亡くなる時、その時不在だった最愛の弟子ゴータマにメッセージを残した。彼は、「ゴータマに、あなたは川をとてもうまく渡った。が、なぜ今、岸にしっかりとつかまっているのかと聞きなさい。そして、それも手離すように言いなさい。」と言った。マハヴィーラはどの岸のことを言っていたのか? 私も同じ岸のことを言っている。それは思考の岸であり、思考の中で泳いでいる人の岸だ。
真理は泳ぐことによってではなく、潜ることによって達成される。水泳は表面で行われるが、ダイビングは、あなたを計り知れない深さに連れて行く。あなたは思考の岸から空の深さに飛び込まなければならない。ビハールの美しい二行連句がある: 「半分溺れたものたちは完全に溺れてしまった。完全に溺れたものたちは海を渡った。」
その時、あなたはどうするつもりなのだろうか? 海を渡りたいのであれば、自分を溺れさせる勇気は絶対に必要だ。私は、あなたが海を渡ることができるように、あなたが本当の自分になれるように、まさに自分を溺れさせる行為を教えている。
―
第6章はここまでです。もし何かありましたら、ご指摘ください。
また、マハヴィーラの話で、川を渡った後に思考の岸につかまっているというのは、どういうことなのでしょうか?
141
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/24(日) 23:16:17 ID:1d4drIFg0
無我になった境地でとまっている者が、岸辺に掴まっている者なのじゃ。
自我という川は渡ったが、無我の境地という岸辺からは離れられないのじゃ。
それだけではまた観念があり、観念による思考も起こるのじゃ。
更に認識をも離れて観念が無くなり、思考も起こらなくなるのじゃ。
142
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/25(月) 20:59:12 ID:Dp/qMVVc0
第7章 3日目の夜 1964年6月6日 午後
最初の質問:あなたによれば、誰も真理を伝えることはできません。それではあなたが言っていることは真理ではないと言うことですか?
私があなたに言っていることは、単なる指標であり、それ自体が真理とみなされるべきではない。真理は、指標とはかけ離れている。真理は、あなたが見なければならない道標ではなく、あなたを導く道標の先だ。その導く方向を見ていると、あなたが知覚するものが真理だ。その真理を語る方法はない。口にされるとすぐに、それは偽りになる。真理は決して表現することはできない、しかしそれは自分の経験となることはできる。
第二の質問: あなたは私たちが完全に融合され、溺れることを提案していますね。どうすればいいのでしょうか?
私は自分自身の経験から、自分自身と融合することほど簡単な道はないと話す。人がしなければならない唯一のことは、心の表面でいかなる支えを求めるのもやめることだ。思考を捕らえ掴むことで、溺れることはできず、その支えのために、あなたは表面にとどまる。
私たちは思考を捕らえ掴む習慣がある。一つの思考が過ぎ去るとすぐに、私たちは別の思考を掴む。しかし、連続する二つの思考の間の隙間に入ることはない。この隙間自体が、深みの中で溺れることへの道筋なのだ。連なる思考の中で動いてはいけない - 隙間の中でそれらの間に深く潜っていきなさい。
どのようにしてこれを行うことができるだろうか? それは、思考の流れを観察することによって、気づいていることによって行うことができる。道路の側に立っている人が通り過ぎる人々を見ているのと同じように、あなたはあなたの思考を観察する必要がある。思考は単なる歩行者であり、あなたの中の心の道を通り過ぎているだけだ。ただ見ていればいい。そのいずれについても、判断を下してはならない。もしあなたが思考を無関心で観察することができれば、それを掴んでいた拳は自動的に開き、あなたは思考の中ではなく、その隙間に立っている自分に気づくだろう。しかし、その隙間には土台がないので、ただそこに立つことはできない。そこにいるだけであなたは溺れる。
そして、この溺れること自体が本当の支えとなる。なぜならば、これを通してあなたは本当の存在に到達するからだ。思考の領域で支えを求める者は、本当は支えなしで宙に浮いているが、すべての松葉杖を捨てた者は、自分自身の支えを得るのだ。
―
ふと、眠りに落ちるときは怖くないのに、自我が消えてゆくのを観るのが怖いというのも変だと思いました。今日は眠りに落ちるときにも、できるだけ観察してみようと思います。
143
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/25(月) 23:00:32 ID:1d4drIFg0
言葉では真理を示すことが出来ないから、ただ道標として自ら進む以外に無いのじゃ。
そうすれば真理を見出すことは出来るのじゃ。
集中する瞑想では数息観でも思考が止まる時を持つことが出来るのじゃ。
思考が止まってもそれを認識することが出来るのじゃ。
思考が止まっても存在する意識に没入するのじゃ。
144
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/26(火) 21:00:10 ID:Dp/qMVVc0
第三の質問:私は自分の心を征服したいのですが、それは不可能だと思われます。しかし、あなたはそれがとても簡単だと言います。どうやるのですか?
まさに征服という考えの中に、私は征服は不可能であることの種を見る。そしてそれは、人間が征服することを全く許さない、まさにそのようなものだ。もしあなたが自分の影を征服したいと思ったら、征服することができるだろうか? 影が影であることを知った時点で、あなたは影の真実を自覚したことになる。影は征服すべきものではなく、知られるべきものなのだ。そして、影の真実はまた、心の真実でもある。私はあなたに心を知ることを求めているのであって、それを征服することではない。
ある人がブッダに「私の心はとても落ち着きがありません。それを落ち着かせる方法を教えてくださいませんか。」と言った。ブッダは質問によって答えた。「あなたの心はどこにありますか? それを持ってきなさい、そうしたら私は落ち着かせるでしょう。」その人は言った。「それが難しいのです。それを捕まえようとしましたが、どうしてもできませんでした。」
もし私がブッダのところにいたならば、言っただろう、「それを捕まえようとしないで、そのままにしておきなさい。それを捕まえようとするあなたの願望が、まさにその落ち着きのなさなのだ。あなたは影を捕まえることができるだろうか?」
ブッダが他に何と言ったか知っているだろうか? 彼は言った、「私を見てください。私はそれを落ち着かせたのではないですか?」と。
もしあなたが自分の心を観察できて、それを捕まえようとしたり、征服しようとしないならば、それがもう見つからないことに気づくだろう。昔の人はよく馬の鞍替えをしようとするときに、馬を疲れさせた方がいいのか、それとも手綱を締めた方がいいのか、と尋ねたものだ。また、心を征服するために、心を支配するために、この二つの方法があった。しかし、私はこの二つの方法のどちらも処方しない。
まず第一に、本当に馬がいるのかどうかを確認してほしい。あなたは疲れ果てている、全く存在しないものに馬具や鞍をつけようとして。馬がいないのだから、どちらの努力も役に立たない。馬はあなたの無知の影なのだ。目覚めた時、 征服すべき馬も心もないし、支配すべき馬も心もない。
―
オショーの文も読むと心が静かになり、注意が内側に向きます。
145
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/26(火) 23:17:14 ID:1d4drIFg0
個人の心は観察すれば消えて行くものなのじゃ。
個体であるものの心は存在しない故に征服も出来ないのじゃ。
在ると言えるのは意識だけなのじゃ。
ただひたすらに観察する事でそれに到達できるのじゃ。
146
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/27(水) 21:00:00 ID:Dp/qMVVc0
第四の質問:あなたはまた、思考にしがみつかないように私たちに求めています。これは良い考えにも当てはまりますか?
もしあなたの本当の存在を知りたいなら、善と悪の両方の自分自身を取り除き、中身なしで、空になる必要がある。思考は、善と悪の両方とも、すべて後天的なものだ。それらは外から入ってくるものだ。あなたの本当の存在は、この鎖の重荷の下に隠されている。これらの鎖を解く必要がある。鎖が鉄であろうと金であろうと違いはない。
外から入ってくるものは何であれ、後天的なもの、獲得されたものだ - しかし、私たちの内側には、外部からの印象が入ることのできない純粋な意識の状態がある。魂は、自分の外面的な装飾や外面的な条件がすべてない状態でのみ、自分自身となる。自分の魂を発見するためには、条件づけられていない心を持っていなければならない。しかし私たちは思考でいっぱいであり、そして宗教的な人たちはさらにいっぱいで、常に宗教についての思考の山を増やしている。そして、これが「宗教的であること」として理解されていることなのだ! 聖典に満ちていることは、宗教的であると考えられている。これは完全に間違いだ。
ある師がある時、弟子に言ったことがある。「他のことはすべて問題ないが、あなたにはまだ一つの欠点がある。」と。その弟子は長い間考えたが、自分の行動の欠点を見つけることができなかったので、師に尋ねた。師は答えた「あなたの中は宗教でいっぱい過ぎる。これはあなたの中に残っている唯一の欠点だが、それは決して取るに足らないものではない。」
どうして宗教でいっぱい過ぎるのだろう? 宗教の聖典が多すぎて、宗教的な思考が多すぎて、心が重荷になって、真理の空に飛び立つことができなくなることがある。
私はあなたに空であることを求める。すべての思考、すべての印象を完全に取り除き、その空虚さの中で何が起こるかを見なさい。人生の最大の奇跡は、その空虚さの中で、その空の中で起こる。その空虚さは、あなたを自己と対面させる。これ以上に素晴らしい奇跡はない! あなたが自分自身と対面するとすぐに、あなたは神と対面するのだ。
―
心を観察しようとすると目に自我が投射されることがあります。習慣とは興味深いものです。そのような時、私は頭の下部の後ろあたりに意識を置いたほうが、心の観察がし易いです。
147
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/27(水) 23:22:02 ID:1d4drIFg0
善いものでも悪いものでも思考は全て止めると善いのじゃ。
思考では辿りつけない領域まで行かなくてはならないのじゃ。
全ては思考では把握できないからなのじゃ。
自分も思考では把握できないから思考をとめて観るしかないのじゃ。
148
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/28(木) 20:48:59 ID:Dp/qMVVc0
第五の質問: 私は偶像崇拝者ですが、あなたの視点から見ると、偶像の必要性がないように思えます。あなたはそれを諦めるように私に助言しますか?
私は何も諦めなさいとは頼んでいないし、引き受けなさいとも頼んでいない。目覚めなさいと呼びかけているだけだ。あなたが目を覚ますとき、あなたの夢が終わっているときには、それは別の話になる。行動は意識のレベルに応じて変化する。子供は大人になると自動的に人形遊びをしなくなる。それを手放すための努力をせず、それは自動的に止まる。
昔、村のはずれに一人のサドゥーが住んでいた。彼は扉のない小屋で一人で暮らしていた。家の中には扉を必要とするものは何もなかった。ある日、何人かの兵士が通りがかった。彼らは小屋に入り、水を求めた。そのうちの一人が、なぜサドゥーなのに、小屋のどこにも神の偶像がないのかと尋ねた。サドゥーは答えた。「この小屋はとても小さい。二人分の場所があるでしょうか?」と。
兵士たちはサドゥーの言葉を面白がって、次の日には神の像をプレゼントした。しかし、サドゥーは「神自身が長い間ここに住んでいるので、どんな神のイメージも必要ありません。そして『私』は無くなってしまった。ここには二人分の場所がないのがわかりませんか?」と言いました。兵士たちは、彼が自分の心を指し示しているのを見た。それが彼の小屋だった。
神には形がない。そしてそれゆえに、その存在は無定型で、形がない。意識も形を持つことはできない。それは無限なのだ。それは始まりも終わりもなく、ただ存在し、始まるということも終わるということもない。
これらの像を作る私たちは何と愚かなのだろう。私たちは自分で作った偶像を崇拝しているのだ。人間は自分の形に基づいて神の像を作ったので、このようにして、自分自身を崇拝することになってしまう。これは、自己欺瞞、エゴイズム、無知の極みだ。
―
私もイメージに惹かれる自分が愚かだとよく思いますが、結局は自我を滅しない限りは解決しません。イメージに惹かれる心も詳しく観察し続けます。
149
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/28(木) 22:52:24 ID:1d4drIFg0
偶像崇拝は無意味だというのじゃ。
神と呼べるものが自らの心の中にあるのに、外にあるという概念設定の神の似姿を作って拝む必要は無いのじゃ。
それは自己観念の崇拝なのじゃ。
不安からの逃避に過ぎないのじゃ。
150
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/29(金) 21:15:17 ID:Dp/qMVVc0
神は崇拝されるべきものではない。神は生きるべきものだ。神殿ではなく、自分の生の中に神を据えなければならない。あなたは、神が心の中に入ってきて、あなたの息の一つ一つの中にいることができるように、あらゆる努力をしなければならない。そのためには、「私」の消失が不可欠なのだ。現在、その「私」があなたの心を占め、人生のあらゆる瞬間に浸透している。そして、その「私」があなたの中にある限り、神が入ることは不可能だ。カビールの歌の中で、愛の道は非常に狭く、二人が同時にその道を歩くことはあり得ないと言っている。
ある夜、私はランプの灯りのそばで、とても遅くまで読書をしていた。ランプを消したとき、私は驚いた。満月が外を照らしていたが、私の小さなランプの灯りが、月明かりが部屋に入るのを妨げていたのだ。ランプが消えた途端、月の甘露が部屋に浸透してきた。その日、私は「私」の光が中で輝いている限り、神の光は外で待たなければならないと悟った。
「私」の消滅、涅槃、サマーディは、すべて神の到来を意味する言葉だ。それらは同義語だ。それゆえにどうか、どのような神のイメージも作らず、ただ「私」のイメージを破壊してほしい。その不在そのものが神の存在となる。
そうすれば、真理を悟るのは何と簡単なことだろうか。しかし、簡単で単純に見えるものは、常に難しいものであることがわかる。それは、簡単で単純なものは、同じ理由ですぐに忘れ去られてしまうからだ。私たちは、遠くにあるものに夢中になり、近くにあるものを見失う。私たちは、他のものに占領されたままで、自己であるものを忘れてしまう。
観客が目の前の芝居に夢中になって、自分自身を忘れてしまうことは、劇場ではよくあることではないだろうか? 人生でも同じことが起こる。人生もまた巨大な舞台であり、私たちは舞台で演じられていることに夢中になり、観客、見者、自己を忘れてしまっているのだ。真理を得るために、自分自身を得るために、あなたはただ一つのことをしなければならない - ただ目を覚まし、自分が演劇の中にいることに気づくだけだ、他には何もない。
―
今日も何回も観客を忘れました。ただ、以前よりは確実に、舞台と観客を観られるようになって来ました。目を覚ますまで続けます。
151
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/29(金) 23:33:17 ID:1d4drIFg0
神は崇拝されるべきものではく、生きるべきものだと、オショーは言うのじゃ。
神として在る事が本来の意識なのじゃ。
それには自我を完全に観てその無存在を理解しなければならないのじゃ。
自我がある限り本来の意識は気付けないのじゃ。
ランプの光で月の光に気付けなかったようにのう。
152
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/30(土) 20:57:42 ID:Dp/qMVVc0
私は、あなたが座っていても、立っていても、歩いていても、寝ていても、行動に表れる一種の落ち着きのなさに常に囲まれているのを見る。それは偉大なものであれ、小さなものであれ、すべての行動の中にある。あなた自身もそれを感じないだろうか? 何をするにしても、あなたは落ち着きのない心でそれを行うことに気づいたことはないだろうか?
あなたは、この落ち着きのなさの弾幕に歯止めをかけ、沈黙の領域を作る必要がある。沈黙を背景にしてのみ、あなたの中に常に存在する喜びと音楽を経験することができる - しかし、あなたはそれを聞くことができず、自身の中の騒動と混乱のために、それを生きることができない。友よ、外の騒動はまったく邪魔ではない。もしあなたが自分の中で平穏であれば、外の騒動はないのと同じだ。しかし、私たちは自分自身の中で落ち着きがないのだ。そして、これが唯一の困難だ。
今朝、ある人が私に尋ねてきた。「内なる安らぎを手に入れるにはどうすればいいのですか?」と。私は言った、「花を見なさい。それがどのように開くかを見なさい。流れを見なさい。それがどのように流れるのかを見るのだ。」 そこにどんな落ち着きのなさを見るだろうか? 何と安らかにすべてが続いているのか!人間以外にはどこにも落ち着きのなさはない。
あなたも花のように生きることができる。そのように生きて、自然の一部としての自分を体験してみなさい。「私」が分離しているという信念が、このような落ち着きのなさと緊張感を生み出しているのだ。何か行動をする前に、どんなことでも何かをする前に、「私」を完全に取り除きなさい。そうすれば、神聖な安らぎがあなた全体に広がるのに気づくだろう。
風が吹いているときは、風であるかのようにいなさい、雨が降っているときは、あなたも雨であると感じなさい。そうして、安らぎが徐々に深まるのを見なさい。空とともにある時は空であり、闇とともにある時は闇であり、光とともにある時は光である。離れてはいけない。あなたという一滴を海に落としなさい。そうすれば、美であり、音楽であり、真理であることを知るだろう。
もし私が歩くならば、歩いていることを意識しなければならず、もし立ち上がるならば、立ち上がっていることを意識しなければならない。身体や心の行為は、無意識のうちに、半分眠っている間に起こってはならない。このようにして目覚め、意識して生活すれば、あなたの心は、純粋で、完全な、透明なものになる。
―
己を空しくして自然の一部としての自分を体験することと、目覚め、意識して生活することは、私としては両立が難しく感じられます。前者は主に集中によってもたらされ、後者は観察によって得られるように思います。何かコメントをいただけますでしょうか。
153
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/31(日) 00:06:15 ID:1d4drIFg0
それは言わば表層の意識でできることではないのじゃ。
もっと深い意識に到達すれば、同時にできるのじゃ。
そのように想うのもそれを観る意識が在るからなのじゃ。
更に深く心の中に没入して、その観る意識と同調するのじゃ。
そうすれば全てであることと、目覚めて意識していることが同時に出来るのじゃ。
それに到達することが集中の瞑想の目的でも在るのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。
154
:
避難民のマジレスさん
:2021/01/31(日) 20:48:36 ID:Dp/qMVVc0
このような意識した生活と行動を通して、瞑想は生の各活動に浸透していく。その内なる流れは、夜も昼も私たちに寄り添う。それは私たちを落ち着かせてくれる。瞑想は私たちの行動を浄化し、私たちを徳のある人間にしてくれる。目を覚まし、物理的にせよ精神的せよ、全ての行動を意識している人は、他の人に間違ったことができないことを覚えておきなさい。悪行は、妄想の状態で、無意識のうちにのみ犯すことができる。それらは、覚醒して意識した状態では、とても簡単に避けることができる。
私は瞑想の集大成である 「偉大な死」を、サマーディと呼ぶ、そして実際のところ、それはまさにそれだ。普通の死を経て、あなたは死ぬだろう - しかし、あなたは生まれ変わるだろう。なぜならば、その死であなたの自己がなくなることはないからだ。自己は新たに生まれ変わり、また別の死を通過するのだ。普通の死は本当の死ではない。なぜならば、普通の死の後には生まれ変わり、また死が続くからだ。そして、このサイクルはサマーディまで続き、大いなる死が来て、誕生と死のサイクルから解放されるまで続く。
サマーディとは大いなる死のことであり、サマーディの中では「私」が消滅し、それに伴って誕生と死のサイクルも消滅する。そうして残るのが生だ。サマーディの大いなる死を経て、人は誕生も死もない不滅の生に到達する。不死には始まりも終わりもない。私たちがモクシャ、解放、涅槃、ブラフマンと呼ぶこの大いなる死こそが、それなのだ。
私はまた、ディヤーナ、瞑想を活動としてではなく、休息としてみなすようにと頼む。「無活動 」とは、まさにこのことを意味する。それは完全な休息であり、すべての行為を完全に停止することだ。そして、すべての行為が無に還元され、心の脈動が静止したとき、その安らかな状態では、世界のすべての宗教が一緒になっても教えられない何かが現れ始める。行為がないときにのみ、無行為であること、つまりすべての行為の中心であり生命であることを見ることができる。そのときにのみ、行為者を見ることができる。
サラハパーダは、「心よ、行って休め - どこか太陽と月が届かない所、空気さえも敢えて入らぬ所で 」と述べている。そのような場所はあなたの中にあり、他の誰も入ることはできない。それがアートマン、あなたの魂だ。
―
延髄の上あたりに感じられる、観る意識と同調しても、自我がその観る意識に投射されており、全てであることを感じることはできていません。同調が不十分なのでしょうか?
155
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/01/31(日) 23:48:52 ID:1d4drIFg0
オショーは偉大な死をサマーディと呼ぶのじゃ。
それは肉体の活動をも超越しているからなのじゃ。
意識はその時、肉体の外にも感じられるじゃろう。
肉体のどこかで止まっているならば、それはまだ恐れや常識、観念の範囲から抜け出して居ないのじゃ。
意識が肉体の外にも感じられることはヨーガでは脱身といい、仏教でも意生身とか識無辺定というのじゃ。
全てである意識の片鱗を味わっているだけなのじゃ。
肉体の活動を全て休息させてそこに至るのじゃ。
思考する脳が止まっていることさえ感じられるのじゃ。
意識は思考ではないからなのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。
156
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/01(月) 20:34:45 ID:Dp/qMVVc0
一方、あなたの身体は、他者が接触できるところまで伸びている。世界があなたの中に入ることができる限界は、あなたの身体の境界だ。世界はそこに入ることができる、なぜならばそれは輪廻の世界の一部だからだ。感覚は世界が入る扉だ。心は、このようにあなたの中に入ってきた印象の寄せ集めなのだ。
肉体を超え、心や感覚を超えたものが魂であり、アートマンだ。その魂を得ない限り、生は無意味だ。なぜならば、それを知り、それを達成しなければ、すべての知識や成果は無価値だからだ。
私は、輪廻と涅槃、世界と解放を二つの異なるものとはみなしていない。それらの間に存在する区別は、その性質とは何の関係もない。それは客観的な区別ではない。区別はそれらの間にあるのではなく、それらを見るあなたの見方にあるのだ。輪廻と涅槃は二つの異なる存在ではない。輪廻と涅槃は、一つの現実を見るあなたの二つの見方だ。現実はただ一つだが、その見方は二つだ。知の観点から見ると、それは一つのものに見え、無知の観点から見ると別のものに見える。無知では輪廻として見えるものが、知では涅槃になる。この世では無知であるものが、神の中では知となる。したがって、問題は、外部の世界ではなく、内部の世界をどのように変えるかということだ。あなたが変われば、他のすべてが変わる。あなたは輪廻であり、涅槃でもあるのだ。
真理はどんな代償を払っても手に入れることはできない。それは何かと引き換えに他人から得ることはできない。それは自己啓発の賜物だ。
―
大きな心配事や痛みなどがある時には、それがない時よりも体験上、厭離が難しいのですが、これはその大きさにより観察が疎かになるからなのでしょうか?
157
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/01(月) 23:34:44 ID:1d4drIFg0
苦が大きかったりすると逃避したり、それが起こす感情に巻き込まれたりするからなのじゃ。
止による集中力が十分でないと、そのようなこともおこるのじゃ。
心が止まらず動いてしまうのじゃ。
その感情と同一化したり、逆に逃避する動きに同一化してしまうのじゃ。
強く集中して肉体をも客観的に観られるようになれば、それも回避できるのじゃ。
158
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/01(月) 23:41:04 ID:1d4drIFg0
オショーは輪廻と涅槃は一つであると言うのじゃ。
それは人の見方による区別でしかないからなのじゃ。
全ての世界は一つであるからなのじゃ。
それは自らの進歩に拠ってのみ気付く事が出来るのじゃ。
159
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/02(火) 21:04:58 ID:Dp/qMVVc0
ビンビサーラ皇帝はかつてマハヴィーラのもとに行き、「私は真理を得たい。私は自分が持っているものは何でも喜んで与えるが、人のすべての悲しみを取り除く真理を持たなければならない。」と言った。マハヴィーラは、支配者が世界を征服したのと同じ方法で真実を征服したいと思っていること、さらには真実を買いたいと思っていることを見た。それで、マハヴィーラはエゴが話されたことを理解して、ビンビサーラに言った、 「閣下、最初にあなたの帝国の市民である、プンヤ・シュラヴァクのところに行き、彼から瞑想の果実を手に入れてください。それは解放と真理へのあなたの旅をより簡単にするでしょう。」
ビンビサーラはプンヤ・シュラヴァクのところに行って言った、「私はお願いしに来た。あなたの瞑想の果実を買いたいのだ。幾らでも支払おう。」
皇帝の要求を聞いて、プンヤ・シュラヴァクは答えた。「閣下、瞑想は静けさを意味します。それは心を誘惑や憎しみから解放し、自分自身の中で安定した状態を保つことを意味します。これが、どのようにして、ある人から別の人に与えられるのでしょうか? あなたはそれを買いたいと思っていますが、それは不可能です。自分で手に入れなければなりません。」
他に方法はない。真理は買うことができない。贈り物としても、物乞いによっても得ることはできない。そして、攻撃によって征服することはできない。真理を攻撃することは、それを達成する方法ではない。暴力は自我の表現であり、自我があるところに真理は存在できない。真理を達成するためには、自分自身をゼロにしなければならない。真理は空虚、空の扉を通って来る。それは自我の攻撃ではなく、感受性と空の受容を通してやって来るのだ。真理を攻撃してはならない - それが入ってくるために自分自身を開いて準備しなさい。
―
少し油断すると、すぐに自我によって振りまわされてしまいます。忍耐強く観察に励みます。
160
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/02(火) 22:35:09 ID:1d4drIFg0
悟りはどれほど金を積んでも得られないのじゃ。
権力に拠っても得られず、他人から強奪することも出来ないのじゃ。
それは自ら実践することでのみやってくるものじゃ。
ただひたすらに実践し、己の心を開いて待つのみなのじゃ。
161
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/03(水) 20:55:28 ID:Dp/qMVVc0
慧能は、真理に到達する方法があると言った:無修行による修行。修行に力を使うのを避けるため、無修行を条件としている。これは無行為であり、無修行だ。それは達成ではなく、空になることだが、それが真理を達成する道だ。あなたが自分を空にする分だけ、あなたは達成する。
雨水はどこへ行くのだろうか? それは丘の上にとどまるのではなく、空っぽの溝に流れていく。真理の性質は水の性質に似ている。もしあなたが真理を達成したいなら、自分自身を完全に空にしなさい。空になるとすぐに、真理はその空の場所をそれ自体で満たすだろう。
真理はあなたの中にある。それは私の中にある。探すために他のどこかに行く必要はない。水のために井戸を掘るように、それを自分の中から掘り出さなければならない。魂の井戸を掘らなければならない。そして瞑想は、その井戸を掘るための鋤なのだ。瞑想の鋤を使って、私たちの本質を覆っている外界の土を掘り出さなければならない - そうすれば、私たちが求めているものは近くにある。それは求道者自身の中に隠されているのだ。
―
第7章はここまでです。もし何かございましたら、ご指摘ください。
掘っても掘っても自分が出てきますが、励み続けます。
162
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/03(水) 21:19:48 ID:1d4drIFg0
慧能の法は法ではなく、むしろ法をも放棄した法といえるじゃろう。
何もしないことで悟りを迎え入れるのじゃ。
それは無為の法なのじゃ。
自ら無になって無我になるのじゃ。
特にないのじゃ。
ご苦労さんなのじゃ。
163
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/04(木) 21:08:04 ID:Dp/qMVVc0
第8章 4日目の朝 1964年6月7日 午前
あなた方に会うことができて本当に嬉しい!あなたの真理を知りたいというあこがれの深さ、渇きの深さを感じる。私はあなたの目にそれを見て、あなたが呼吸するたびにそれを感じる。そして、あなたの胸が真理の達成を求めて高鳴っているように、私の胸もまた高鳴っている。私はあなたの知への渇きに深く感動している。こんなに嬉しいことはない! それはとても美しい!この世には真理を知りたいという願いほど甘美で美しいものはない。
この喜びの瞬間に...何と言おうか? 私の言葉を待つあなたの探求のこの瞬間に、何を言おうか?このような瞬間にこそ、私たちは、言葉がいかに取るに足らないものであり、無意味で無力なものであるかに気づくのだ。特に言う価値のあることが何もないときには、言葉はそれを伝えることができるが、何か深いことを言うべきときには、言葉は惨めなほど不十分だ。真理の実現、至福の経験、そして美の洞察は、地上の形に帰することができないほどに繊細で霊妙なので、これは当然のことだ。そして、それらに形を与えようとするとすぐに、それらの経験は死んで無意味となり、生きている経験は生きたまま私たちの手の中に入ってくるのではなく、その死体となって現れる。霊は取り残され、言葉が言及するものは何であれ、もはや真理ではない。
では、私は何を言えばいいのだろうか。何も言わない方が良かったのだろうか、何も聞かない方が良かったのだろうか。私たちが静かに穏やかに、言葉もなく黙ったままでいられたら、どんなにすばらしかっただろうか。あなたは目を覚まして、その沈黙の中にある何か、本当にある何かを見ることができたかもしれない。その場合、私は話さずに済んだし、あなたは聞かずに済んだが、それでも真理は伝わっただろう。なぜならば、永遠の真理はすべての人の中にあるのだから。あなたが探し求めている音楽は、すべての瞬間にあなたの存在の奥底で響いている、そして真理を求めている瞬間は、たとえそれが沈黙であっても、祈りへと変わっていく。神を渇望することも、静かに待つことも、どちらも祈りなのだ。
―
私の経験では、渇望と同時には自然な観察ができません。渇望により、修行の動機を得て、修行の実践により、観察に熟達していくというような過程で良いのでしょうか?
164
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/04(木) 23:14:28 ID:1d4drIFg0
↑それでよいのじゃ。
渇望は最後に捨てれば善いのじゃ。
そうすれば全ての重荷を下ろした安らぎがあるじゃろう。
もはやなすべきことも無い安らぎなのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。
165
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/04(木) 23:26:03 ID:1d4drIFg0
オショーは言葉として教えを説くことに限界があるというのじゃ。
沈黙こそが最大最高の教えなのじゃ。
師と共に沈黙を味わうことができる者には速やかに悟りに導けるのじゃ。
それがまだ出来ない者のために言葉としての法も説かなければならないのじゃ。
166
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/05(金) 20:52:28 ID:Dp/qMVVc0
人が求めているものは、自分自身の中にある。あなた方がここに集まってきて、私に問いかけ知るためのものは、常にあなた方の中にある。あなたはそれを失ったことはない。また、決してそれを失うことはできない。それはあなたの存在であり、あなたの本質だ。それは、決して失われることのない唯一の宝だ、なぜならばあなた自身がその宝だからだ。しかし私たちは皆、それを探している。失われることのない、まさにそのものを探しているのだ。なんという矛盾なのだろうか!
私は素晴らしい説法を覚えているが、それがいつ、誰によってなされたのかは覚えていない。
ある晩、お寺でとても大きな集会が行われることになっていたので、多くの僧侶が集まっていた。長い待ち時間の後、話者が到着した。彼が話をするために立ち上がると、聴衆の誰かが質問をした、「真理とは何ですか?」と。 警戒と期待の沈黙が部屋を満たした。話者が答えを知っていることが知られていたので、言葉の一つ一つが重要であると考えられていた。しかし、あなたは彼が何を言ったかわかるだろうか? 彼は非常に大きな声で言った、「おお、僧侶たちよ!」 静寂がこの二つの言葉で響きわたり、すべての目が彼を見ていた。全員が沈黙し、注意していた。 しかし、話者はそれ以上話すことはなかった。彼は説法を終えたのだ。
あなたは彼が言ったことを理解しただろうか? 彼は何かを言ったのか? 私からしてみれば、彼はすべてを言っていた。話す価値のあるものは何でも、彼の二つの言葉で足りていた。私も同じことを言いたい。私も同じことを語る。それは言葉では伝えられない何かを語るに値する、唯一のものなのだ。
では、彼は何を言ったのだろうか。彼は、「外のどこにも真理を求めてはいけない。誰にも聞いてはいけない。それが全く存在するならば、それはあなたの中に存在する。」と言った。だから、彼は真理について尋ねられたとき、それについて全く何も言わなかった。彼は単に会衆に呼びかけた。あなたが眠りから誰かを目覚めさせるように、彼は会衆に呼びかけた。これが真理についての質問への唯一の答えなのだ。
―
寝ていても、死んでいても、この中に変わらずにあるもの。それに気づけるように、心を静めて観察を続けます。
167
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/05(金) 23:51:14 ID:1d4drIFg0
悟った者が言葉として言えるのは、ただ悟りが人の中にあるということだけなのじゃ。
真理は言葉では表せないのじゃ。
表そうとすれば沈黙になるのじゃ。
言葉ではなく体現するしかないのじゃ。
真理そのものの姿を自らあらわして見せるのみなのじゃ。
168
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/06(土) 20:54:14 ID:Dp/qMVVc0
目覚めることは、真理を達成することだ。他の方法はない。あなたは眠っているので、側に立っているものを見ることができない、あなたが本当は何であるかを見ることができない。そして、夢の中であなたは、広く遠くさまよう。あなたの中、探求者の中にすでにある何かを求めて。あなたは麝香を求めてさまよう麝香鹿のようなものだ。
しかし、あなたがどんなに頑張って自分の中にあるものを見つけようとしても、それを見つけることはできない。それは探して得ることはできない。外のものは探して得ることができるが、人はこのような探求で自分自身を達成することはできない。真理は探し求めることによってではなく、目を覚ますことによって発見されるのだ。そして、それが話者が会衆に呼びかけて、それ以上話さなかった理由だ。そして、この同じ理由で、マハヴィーラ、ブッダ、クリシュナ、キリストは皆、あなたに呼びかけている。それは話しているのではなく、呼びかけているのだ。これは説教ではなく、話しかけ、呼びかけだ。
私も話すつもりはなく、呼びかけるつもりだ。聞こえるだろうか? 睡眠を邪魔して夢を壊すのを許してくれるだろうか? あなたの夢は甘く満足のいくものかもしれない。しかし、甘くて満足している夢は有害なのだ、なぜならば、その夢はあなたを目覚めさせず、睡眠中毒をさらに酷くするからだ。
私が目覚めた結果として経験している喜びを、あなたにも目撃してもらいたいのだ。それで、私はあなたに呼びかけることにした。話すつもりはない、ただ呼びかけるだけだ。もし私の呼びかけがあなたの眠りを妨げ、夢の霧を消してしまったら、許して欲しい。私は無力だ。あなたの夢を打ち砕かなければ、真理について何も語ることはできない。私たちは眠りに包まれている。この眠りが続く限り、私たちの行動は何の役にも立たない。あなたが眠っている限り、あなたが知っていることは何でも、夢に過ぎない。
―
夢から覚めるよう、気をつけて観察します。
169
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/07(日) 00:06:43 ID:1d4drIFg0
オショーは自分を探求する者を麝香を求めるジャコウジカのようだというのじゃ。
なかなか上手いことを言うのじゃ。
正に悟りを求める者は、悟りを求めている自分そのものを見つけなければならないのじゃ。
探し当てるべき者は自分なのじゃ。
それを教えるためには言葉による話ではなく、呼びかけが必要だというのじゃ。
探す物は探している者の中にあると悟りを得たものは呼びかけるのじゃ。
170
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/07(日) 20:59:51 ID:Dp/qMVVc0
まずはこの眠りから覚めることだ。他のことは後からやってくる。その前には何もしてはならない。この眠りの中での思考や行動を全く重要視しないように。ただ夢の中の出来事としてそれらを見なさい。あなたが自分自身を知らない間は、本当の意味でどんな正しいことをすることも不可能だ。あなたの知識、行動、すべてが偽りに縛られている。そして、あなたの信条も、信仰も、信念も、すべて盲目になるだろう。あなたがどのような道をたどっても、それは真理につながることはない。しかし、現時点では道を歩くことに疑問はない。あなたは眠りながら道を歩いているのだろうか? それは歩いているという夢でしかないのだ。
自己の無知とは、私があなたに話している眠りのことだ。そこから目覚める必要がある。この眠りから覚めるためには、今のままのあなたと、この目覚めの間に立ちはだかる要因を理解することも必要だ。宗教を知る前に、まず宗教が何ではないのかを知り、自分が宗教として何にしがみついているのかを理解しなければならない。この宗教はあなたを覚醒させるどころか、睡眠薬のようなものである可能性が高いのだ。
カール・マルクスは、宗教をアヘンを含む麻薬であり、あなたを眠らせるためのものだと言った。宗教は断じてアヘンではないが、一般的に宗教と勘違いされているものはアヘンだ。マルクスが宗教をアヘンだと決めつけたのは間違っていたし、あなたもまた、間違っている。あなたがしたことは、アヘンを宗教と勘違いしたことだ。それゆえに、どちらが宗教で、どちらがアヘンなのかを知ることが不可欠だ。
まず、宗教とは何でないかを考えてから、宗教とは何かを体験してみよう。無宗教について考えるだけで、宗教が何でないかを知ることができるが、宗教について考えるだけでは十分ではない。宗教を達成するためには、サーダナ、修行を経験しなければならない。
―
最近新しい気づきが減っていることに気づきました。初心にかえって観察します。
171
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/07(日) 23:53:19 ID:1d4drIFg0
オショーは「あなたが自分自身を知らない間は、本当の意味でどんな正しいことをすることも不可能だ。」というのじゃ。
自分の心を知らなければ、善事でさえ悪事であることさえあるのじゃ。
それは善事でも実は悪しき動機からしているのかもしれんからなのじゃ。
例えば人に金を与えるのは実は人を何でも言いなりになる奴隷にしようとしているのかもしれんからのう。
自分を知り、目覚めなければ何も出来ずどこにも行けないのじゃ。
172
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/08(月) 21:18:11 ID:Dp/qMVVc0
まず最初に、一つのことを言っておきたい。もしあなたが本当に宗教や宗教的な生活の中である程度のレベルに到達したいと思うならば、どんな信念や考えも当然のこととして受け止めないことから始めなければならない。真理を知りたいのであれば、それに関するどんな先入観にとらわれてもいけない。あなたは、完全な冷静さと空虚さの中で、どんな教義にもとらわれずに、真理に近づかなければならない。先入観や偏見は、あなたの視覚をぼんやりと歪める。その時、あなたが知るのは真理ではなく、あなた自身の思考の投影だ。そうすれば、真理はあなたの中に降りてこない。それどころか、あなたは自分自身を真理に押し付ける。
真理についての理論や特定の見解を持たないこと。自分自身で判断しなさい。そうして初めて、何が真理であるかがわかる。そうでなければ、心の網から抜け出すことはできない。あなたが知るのは知ではなく、想像になる。
人間の想像というものは際限のない力を持っており、この想像があなたと真理との間の壁となっている。もし、神と真理と魂について事前に心が決まっていれば、心はその決めたことに固執し、あなたが本当に何かを知っていたと信じるように導くだろう。しかし、実際のところ、あなたは何も知らず、想像の領域をさまよっているのだ。これは真理の洞察ではなく、夢なのだ。
あなたは、心が夢を見るための果てしない能力を持っていることをよく知っている。私たちの欲望は、全く存在しないものを私たちに見せる。それは蜃気楼を作り出し、そうすると、本当にあるものは隠され、そうでないものが明らかになる。
しかし、あなたは夢を見ることは眠りの中にしか起こらないと言うだろう。確かに夢は眠りの中で起こるが、眠りは誘発されることもあるし、ある意味では起きている間に眠っていることもある。あなたは白昼夢を見ないだろうか?
―
気をつけて観察していると、自分のイメージに関する否定的なことと、それを嫌悪する感情に気づきました。いつの間にか、観ないようになっていました。毎日できるだけ全てを観察するようにしていたのですが、知らないうちに避けていたようです。恐ろしいことです。
173
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/08(月) 22:01:14 ID:1d4drIFg0
悟りへの道に最初に必要なのはどんな先入観にも囚われてはいかんということだというのじゃ。
先入観があればそれに応じた幻想を自ら作り出ししまうからなのじゃ。
例えば白ひげの神がいると思っていれば、それを瞑想中に見たりするじゃろう。
自分が作り出した幻想とはわからずに囚われてしまうじゃろう。
難しいことではあるが何の先入観もなしで観察を始めるのじゃ。
174
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/09(火) 20:43:32 ID:Dp/qMVVc0
それで、もし人が神についての特定の観念を持ち続けていて、目が覚めていても眠っていても、そのイメージで自分自身を満たしているならば、ほとんど間違いなくそのイメージを投影して、それの直覚を得ることになる。それは強化された白昼夢だ。実際には目の前には何もないが、目の後ろで養われ、育まれてきたものが目の前に現れる。これは投影であり、このようにして夢は見られる。
そして、先入観に基づく真理の洞察も同様に可能となる。キリストの帰依者はキリストのビジョンを見、クリシュナの信奉者はクリシュナを見、他の誰かの弟子は他の誰かを見る。これは決して神や真理の洞察や実現ではない。二つの真理、二つの神が存在することはあり得ないので、これは自分の想像の投影だ。真理は一つであり、実現は一つであり、真理を知ろうとする者は、自分の無数の観念や想像を手放さなければならない。私は、ある特定の観念のために他の観念を手放せと言っているのではなく、すべての観念を手放せと言っているのだ。これらの観念こそが多くの信条や教義を生み出し、そのために無数の信条が存在しているが、宗教は存在しない。
真理を知るためには、それに関するすべての理論を捨てなければならない。すべての偏見や部分性を超えた、完全無垢で独立した状態にある者だけが真理を知ることができる。観念も概念も期待もないところにこそ、真理が実現できるのだ。本当のところ、真理を実現するための努力とは、真理を実現するための努力ではなく、夢を見ている状態から脱却するための努力なのだ。
真理の実現とは何だろうか。それは、簡単に言えば、幻覚からの自由だ。この自由こそが真理の実現なのだ。私たちは夢の中で失われているので、常に存在しているものは、その継続的な存在にもかかわらず、不在であるように見える。
―
幻覚からの自由に、強いあこがれを感じています。しかし、それは期待もないところにあるので、一つ一つ自分の観念を厭離していきます。
175
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/09(火) 23:38:52 ID:1d4drIFg0
幻覚からの自由、その自由こそが真理の実現とオショーは言うのじゃ。
それは人に教えられ、自らも信じている観念の夢から覚めることなのじゃ。
修業に入るのに観念を信じる者にはその観念が見えてしまうじゃろう。
全ての偏見や先入観を捨ててこそ真理を知り、実現できるのじゃ。
176
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/10(水) 20:58:47 ID:Dp/qMVVc0
真理が存在するのは、真理が常に存在しているからだ。それはどこからももたらされる必要はない。それは常に存在している。しかし、私たちは存在していない。私たちは夢の荒野で迷子になっているのだ。いや、真理を自分自身に持ってこなければならないのではなく、真理に自分自身を持ってこなければならない。それは、神についての夢や幻を見ることによってではなく、すべての夢や幻を取り除き、目覚めることで可能だ。
それゆえに、私は真理には想像は必要なく、実現が必要だと言う。すべての想像から解放された心の実現とは、真理の状態にある心の実現だ。私たちは、心が分かれているとき、二元性の状態にあるときに世界を見る。心が分かれていない存在、単一性であるとき、私たちは真理を見る。
すべての観念や信念は思い込みであり、真理への入り口ではない。それらは障害物であり、どこにも導びかない。それどころか、あなたの道を塞いでしまう。真理の道は、それらを通るのではなく、それらを超えた先にあるのだ。
どうか、いかなる考えや概念を採用したり、真理についての信条や信念を身につけたりしないでもらいたい。なぜならば、あなたが身につけた信念は経験となるからだ。そして、その経験は現実ではなく、精神、想像上のものだ。その経験は霊的なものではない。無知のうちに形成された真理に関する信念はすべて偽りだ。真理とは何か、それがどのようなものであるかについて考えてはならない。そのような考えはすべて盲目だ。それは盲人が光を想像しようとしているようなものだ。かわいそうに! 光が何であるかをどのように想像することができるのか!視力がなければ、その人は光について何も想像することができない。何を考えても根本的に間違っているだろう。光はおろか、暗闇を正確に想像することさえできない。暗闇を見るにも目が必要だ。
―
何度も何度も観察を忘れますが、気づいたときには忍耐強く観察に戻ります。
177
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/10(水) 21:57:55 ID:1d4drIFg0
全ての観念や信念は思い込みであるとオショーは言うのじゃ。
それは真理の入り口ではなく障害物だともいうのじゃ。
ただ悟りへと導く観念のみが法として実践されるべきなのじゃ。
そうでなければ全ての観念は捨てるべきなのじゃ。
法さえも最後には捨てるべきなのじゃ。
178
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/11(木) 20:56:52 ID:Dp/qMVVc0
視力のない人はその時何ができるのだろうか? 私はその人に言いたい、「光のことは考えないで、目を治療しなさい」と。 考えることではなく、治療をすることが助けになるのだ。しかし、私は何を見るだろうか? その人が説教されているのを見て、光の哲学を説明されているのを見る。しかし、誰も目の治療には関心がない。
そして、より驚くべきことは、光を主題として説教している人たちは、自分自身が光を見たことがないということだ!その人たちも光については知っているが、光を知らないのだ。私がこう言うのは、もしその人たちが光を知っていたならば、説教の無益さに気づき、失明の治療に関心と同情を集中させただろうからだ。視力が治れば、光は自動的に経験される。視覚に必要なものは常に存在している。視覚があるならば、光がある。
「視覚」と「光」は、全く異なる方向に導く言葉だ。光を考えることは哲学につながる。それは、考えることだけに向かう方向性だ。それは経験にはつながらず、単なる思考にすぎない。たくさんの歩みがあるが、目的地にたどり着くことはない。結論はたくさんあるが、私たちの問題を解決できるものはない。これは当然のことだ。水についての最も完璧な考えでも、喉の渇きを少しも癒すことはできない。喉の渇きを癒す方法は全く異なる。
道、修行はものの考え方ではなく、視覚の治療だ。私は光について考えることが哲学であると言ったが、今、視覚によって洞察することが宗教であると言いたい。考えることで知的な結論に達することができるが、一方で修行は霊的な洞察、霊的な経験を与えてくれる。前者は水について考えるようなもので、後者は喉の渇きを癒すようなものだ。前者は問題であり、後者は解決策だ。
―
自我が自由を妨げているので厭離したいという思いと、自我を失くしたくないという思いの、両方で引っ張られている感覚です。そのような思いと感覚も気をつけて観察します。
179
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/11(木) 22:00:46 ID:1d4drIFg0
盲人に光の説明をしても無意味だとオショーはいうのじゃ。
光に導く治療が必要なのじゃ。
考えることは光に導かないのじゃ。
視覚を取り戻させることが光に導く事なのじゃ。
180
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/12(金) 20:51:25 ID:Dp/qMVVc0
私は皆にこの質問をする。「あなたは光を知りたいのか、それとも光について知りたいのか?」と、そしてあなたは-あなたは真理を知りたいのか、それとも真理について知りたいのか? 水について知りたいのか、それとも渇きを癒やしたいのか? これらの質問に対する答えによって、あなたが知に渇いているのか、それともただ情報を集めたいだけなのかが決まる。
そして、これらは正反対の方向であることを忘れてはならない。一つは自我の根本的な消滅につながり、もう一つは自我の絶頂につながる。一方では無邪気になり、他方では複雑になる。知は自我を破壊する一方で、情報は自我を強め、さらに膨らませる。すべての収集、すべての獲得は自我を満たし、このような理由から、自我は常により多くのものを求める。
思考もまた、かなり微妙なものではあるが、獲得だ。思考もまた自我を養う。あなたが学者の間で見かける偽善は、自然発生的でも偶然でもなく、思考の自然な結果なのだ。
思考は後天的なものだ。それらは外界から押し寄せてくるものであり、内に生まれたものではない。それらは魂のものではないが、魂の壁であり、ある意味では罪なのだ。外界からは光に関する情報を盲人に与えることができるが、光の感覚は、内から盲人の中に生み出されなければならない。獲得とエネルギーの違いは、情報と知の違いだ。獲得は外に由来し、エネルギーは内に由来する。
しかし、獲得はエネルギーの錯覚を与える。この錯覚はかなり強く、自我を養う。エゴイズムはエネルギーではなく、エネルギーの錯覚だ。真実のほんの小さな閃きがそれを破壊し、蒸発させることができるので、エゴイズムは実際には非エネルギーだ。このような理由から、自分の真のエネルギーは全くエゴイズムが無いのだ。
―
私も思考によって自我が養われるのを感じる事があります。気をつけて観察していると、時に、思考によって何かを得たその瞬間に、自分のイメージが自分の身体を超えて拡がるのが分かります。油断せずに精進します。
181
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/12(金) 23:39:25 ID:1d4drIFg0
思考も自我を養うとオショーは言うのじゃ。
思考している自分が常に起こるからなのじゃ。
自我が起これば自我を守る働きも生じるのじゃ。
そのために攻撃や偽善が起こるのじゃ。
182
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/13(土) 21:06:03 ID:Dp/qMVVc0
学習と智慧の区別を理解してもらえただろうか。それを理解することは必要不可欠だ。誤った知は、無知よりも自己実現の道でさらに大きな障害となる。誤った知とは、あなたが本当には知らないときに 「私は知っている 」という印象だ。このような誤った印象は、学習や学校教育による他者の考えから簡単に成長し得る。その誤った印象は、聖典の知識、言葉の知識からも生じる。そして、このような言葉の知識のために、人は自分が真理を悟ったと思っているようだ。
言葉は記憶の一部となる。言葉は質問の形になり、それぞれの質問には自動的に答えが返ってくる。人の区別の感覚は、借用された考えの中で失われ、支配される。そして人が自分の中から答えを探す前に、借用された言葉と考えの厚い層により、既成の答えが飛び出してくる。このようにして、私たちは問題を解決することができず、その答えを奪われている。もし問題が自分のものならば、それは自分の答えだけが必要とされる。借り物や中古の答えは何の役にも立たない。
人は生を借りることも、問題の答えを借りることもできない。問題の答えは外から来るものではない。それは問題の中に内在しているのだ。答えは問題の中から発展する。もし問題が内にあるならば、真理は外にはありえない。そして、真理はそれゆえに学ぶことができない。それはむき出しにされなければならない。あなたはそれを発見しなければならない。真理は訓練によってではなく、実現によってのみ知ることができる。そしてこれが、聖典を学んだ者と、魂を実現した者との根本的な違いだ。この世界では、聖典に精通していれば十分だが、霊の領域ではそうではない。聖典に精通している範囲にいるならば、それは出発点よりもはるかに劣っている。
―
思考している自分が常に起こるから、思考も自我を養うのでしたら、思考の他にも感情や感覚、意志など、自我が投射されるものは全て自我を養うと言えるのでしょうか?
183
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/13(土) 22:26:45 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、全て自我を養っているのじゃ。
それらが起こる度に自我も想起されるのじゃ。
そして自分があるという確固とした認識をもってしまうのじゃ。
全てを捨てて進むのじゃ。
184
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/13(土) 22:29:15 ID:1d4drIFg0
知識は人に誤まった達成感を与えてしまうのじゃ。
例えば水泳の知識があれば自分は泳げると想ってしまうようなものじゃ。
知識と実際の体験は全く違うものじゃ。
知識を信奉して実践をおろそかにしてしまえば、初心の者よりも後退してしまったことになるのじゃ。
185
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/14(日) 21:07:32 ID:Dp/qMVVc0
あなたは、あなたではないもの、世界について、物質の世界についての情報しか持つことができない。あなたでないものについては、あなたは知を持つことができない。外側に関係するものは何でも、外側からしか知ることができない。あなたはそれに非常に近いかもしれないが、それはまだ遠くにあるだろう。私たちとの距離がどんなに小さくても、それがなくなることはない。それは常にあるのだ。だから、私たちは自分以外のものには親しむことができるだけで、それの知を持つことはできない。私たちは何かについて知ることはできるが、その何か自体を知ることはできない。
距離を完全に無くすことが、すべての知の前提条件だ。そうして初めて、自分の内なる存在に入ることができるのだ。しかし、距離のあるものは、決して距離のあるもの以外の何物でもあり得ない。現実に距離がないならば、その場合にのみ、そうでないことはあり得る。距離は、それが幻想である場合にのみ無くすことができる。それが現実であるならば、その排除は不可能だ。
私から離れていない存在はひとつ、ただひとつある。この存在が私から離れていることは不可能だ。私がその存在だ。そう、それは私自身なのだ。その存在だけで、本当の知が可能なのだ。この存在からの距離は幻想に過ぎない、なぜならばどうやって自分自身からの距離があり得るのだろうか。私だけが自己の中心であり、ここに私の内側の入り口、私の内側の住まい、そして完璧さの玉座がある。このことだけを知ることができる。
もう一つの事実を思い出してほしい。私たちは世界を知ることはできない。世界と交わり、情報を集めることができるだけだ。しかし、自己については、唯一の知が可能だ。だから、自己についての情報は無いし、アートマンについての情報も無い - 魂の知のみが可能だ。だからこそ、物体の場合は、物質的なものの場合は、私たち以外のものの場合は、経典や聖典の専門家であれば十分だが、自己の場合はそれだけでは十分ではないのだ。
―
わかるようでわからない話でした。特に三番目の段落の「私」が、自我の意味で使われているのか、記憶では認識できない存在の意味で使われているのか、よく分かりません。ただ、自分の内側に注意が向くのを感じました。
186
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/14(日) 23:19:58 ID:1d4drIFg0
それは自我なのじゃ。
自我とも存在は離れていないのじゃ。
187
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/14(日) 23:22:10 ID:1d4drIFg0
外側の世界について知ることは出来ないというのじゃ。
ただ情報を持つことができるだけなのじゃ。
自己についてのみ知ることが出来るというのじゃ。
それは存在と自己が同一であるからなのじゃ。
そこに距離の無い知である、気づきが起こる可能性があるのじゃ。
188
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/15(月) 20:50:17 ID:Dp/qMVVc0
科学は聖典であるが、宗教はそうではない。科学は対象物に関する情報であり、宗教は自己の知だ。科学は聖典、経典だ。宗教は修行、実現への道だ。
私は説教をしているのではない。そのアプローチは全く実りのないものだ。必要なのは説教ではなく、治療だ。私は真理に関連する教義を解説するつもりはない。それは全く役に立たない。だが、価値があるのは、真理を見ることができる方法だ。この方法は病気の治療法として機能し、それゆえに目は開く。そうすれば、光について考える必要はない。あなたはすぐにそれを見る。視力がないときは考えなければならないが、視力があれば考えることは問題外となる。失明しているときは、考えることが目の働きをしているが、視力が回復するとすぐに、考えることは不要になる。
私が見るに、思考は知ではなく無知の証だ。知とは、思考がない状態のことだ。それは思考ではなく、洞察なのだ。そして、この洞察は、真理に関するいかなる教義によっても不可能だ。教義は単に物事を知的な獲得に還元し、それらは記憶の一部になる。教義は決して知の一部になることはできない。
教義は教えることはできても、人の本当の人格を変えることはできない。衣服のように、外側のレベルでは変化をもたらすが、内側の存在は以前のままだ。精神は教義に影響されず、そしてベール、カバーが新しい形と新しい色をしている。あなたがこのようであれば、智慧はあなたの上に降りることはできない。それどころか、偽善の溝に落ちてしまう。
―
自分という感覚を観ようとしていて、かえって自我に囚われていることに気づきました。対象を決めずに観察に励みます。
189
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/15(月) 21:49:32 ID:1d4drIFg0
オショーは思考や知識は知ではないとさえ言うのじゃ。
それは記憶に過ぎないからなのじゃ。
記憶は過去と同じことを繰り返すのみであるから変容をもたらさないのじゃ。
洞察することこそ知であり、変容をもたらすものなのじゃ。
190
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/16(火) 20:47:35 ID:Dp/qMVVc0
人の存在と、知識の間には大きな溝がある。人は一つのものであり、その人が知っていることは全く別のものだ。人格は二つに分かれている。その人の内なる存在と外なる殻の間には葛藤と二元性がある。そして、その自然な結果が偽善なのだ。そのような人は、自分の中に実際には存在しない誰かとして自分自身を見せ始め、存在する人を隠し始める。この行為は無宗教だ。他人の生を台無しにするだけでなく、自分の生も台無しにしてしまう。これは自己欺瞞だが、それは宗教的だとして通用する。
教理や教義の知的な教えは、これだけしかできない:外側の包みを変えること。しかし、精神的な革命のためには、それ以外の取り組み方が必要だ。その取り組みは、教義ではなく、自己実現の道を歩くこと、修行であるべきだ。それは説教の取り組み方ではなく、治療の取り組み方だ。真理について考えるのではなく、真理に目を開くことだ。
宗教とは、目を開く方法だ。目が開かれれば、神の視覚は簡単に実現する。しかし、教義はあなたの目を開かないだろう。それどころか、それに惑わされている人たちは、自分の目が閉じていることを忘れ、論じる真理は、自分の目で見たのではなく、他人の目で見たものであることを忘れてしまう。他者によって見られる真理は、他者によって食べられる食事のようなものだ。それは他の誰の何の役にも立たない。
真理の実現は、完全に私的で個人的なものであり、決して譲渡可能なものではない。それは受け取ることも与えることもできない。それは自分自身で得なければならない。それは盗まれたり、施しで受け入れられたりすることはできない。それは財産の一部ではなく、自分自身そのものだ。真理は財産ではなく、自分自身そのものであり、それゆえに譲渡することはできない。これまでのところ、誰もそれを誰かに与えたことはない。また、未来の誰もがそれを誰かに与えることはできないだろう。なぜならば、与えられた瞬間、それは真理であることをやめて、物になるからだ。物は与えることも、奪うこともできる。真理は、自分自身の中で、自分自身によって達成されなければならない。それは主観的だ。実際には、それは本当は達成されるものではない - 人はそれにならなければならない。それはあなた自身あること、あなた自身の実存なのだ。
―
特に何も思い浮かびません。ただ観察します。
191
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/16(火) 23:06:30 ID:1d4drIFg0
知識は自他の人生を台無しにしてしまうとまでオショーは言うのじゃ。
実際に多くの知識を集めても、自分について知らなかったばかりに破滅する者は多いのじゃ。
不要な知識に囚われて自己の探求を怠れば、破滅が待っているのじゃ。
自らの実践によって自己の探求をすることができるのは自分だけなのじゃ。
192
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/17(水) 21:09:20 ID:Dp/qMVVc0
では、真理を学ぶという問題はどこから来るのだろうか? それは発見されなければならない。学ぶことは、自己の上に層を形成するだけだ。すべての外部の教えは、真理を覆うだけだ。外から来るものは全て、覆うことしかできない。覆うことは、外からできるただ一つのことだ。そして、思考の衣はますます自己を覆い続ける。これらの衣を脱ぎ捨て、裸になりなさい。これらの衣服をすべて捨てなさい。自己を知るためには、学ぶのではなく、学びを放棄しなければならない。すべての外部の客が去ったとき、あなたは客ではなく、主人であるものを知ることになる。
真理は教えることができないが、真理を知る方法は教えることができる。今日では、この方法を語る人はいない。真理についての多くの話があるが、真理を実現する方法についての話はない。これほど大きな間違いはない。肉体にしがみつき、生を見失っているのだ。その結果、無数の宗教(religions)が存在するが、大文字Rの(世界に一つしかない)宗教は存在しない。
宗教という名の下に仮装している多数の宗派は、全く宗教ではない。宗教は一つしかない。それを説明する形容詞はない。それは何の修飾語もない。ダルマはダルマを意味し、宗教は宗教を意味する。私の言葉では「このダルマ」「あのダルマ」とは言えない。「これ」と「あれ」があるところには宗教はない。
これらの宗派は真理についての多くの教義や理論のために生まれてきたし、人々が理論や教義を要求する限り存在し続けるだろう。教義は言葉で構成されており、宗派はまさにその言葉を中心に形成されている。言葉は恨みや狭量な憎しみを助長し、争いの原因となる。これらの言葉は人と人を分断する。そしてなんと不思議なことだろうか! 人々は、人と人を分断する言葉そのものが、人と神を結びつけると信じているのだ! 人と人を分断するものは、人を神、真理、また自己と結びつけることはできない。
―
「学びを放棄しなければならない」という部分で心に抵抗を感じました。もう悟りを得る方法は分かっているのだから、悟りを得るためにはこれ以上外から学ぶ必要はないはずです。それでも外からの言葉を求めるのは、勇気を得るためと思いつつ、逃避もあるのでしょう。また、自我を養っている面もあると気づきました。オショーが述べて、鬼和尚が解説してくださっている側から自我を養っているとは、恐ろしいことです。
さらに自己観察に励みます。
193
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/18(木) 00:24:41 ID:1d4drIFg0
世間に言う学びとは知識を多く記憶していくことなのじや。
記憶する知識が多くなるほど自分について知る機会は減ってしまうじゃろう。
知識や教義を増やす宗教は悟りに導く宗教ではないのじゃ。
言葉や知識を捨てて自分を明らかにすることこそ悟りに導く実践なのじゃ。
194
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/18(木) 21:20:51 ID:Dp/qMVVc0
このような宗教の宗派への分裂は、様々な教義、言葉、信念、意見にまで及んでいる。これらはすべて無知に基づくものであり、知に基づくものではない。真理に宗派は無い。すべての宗派は教義から発展する。人は真理を知るとすぐに宗派から解放され、その瞬間に宗教に入る。宗教とは、ヒンドゥー教でもジャイナ教でもなく、キリスト教でもイスラム教でもなく、ただの宗教であり、それは修飾されていない、光以外の何物でもなく、意識以外の何物でもない。宗教とは、真に自己の実現なのだ。
宗派は宗教ではない。組織は宗教と何の関係があるのだろうか? すべての組織は政治的または社会的なものであり、すべて世俗的なものだ。組織はお互いへの恐れに基づいており、恐れがあるところには憎しみがある。組織は、真実からではなく、安全のために存在している。国であれ、社会であれ、宗派であれ、すべてのものは恐怖から生まれ、恐怖から生まれたものによる満足は、他者に恐怖を引き起こすことにある。
すべての宗派はまさにこれに似ている。それらは誰かを宗教的にする意図はなく、自分たちの数を増やしたいのだ。数は力であり、安全性の保証だ。それらは自己防衛であり、攻撃する能力でもある。宗派はずっとこのようなものだった。今もそうだし、これからも同じだ。それらは人間と宗教を一つにしたのではなく、宗教から引き離したのだ。
ダルマ、宗教は社会現象ではなく、純粋に、そして単純に、最も個人的な変容だ。それは他者とは何の関わりもなく、自分自身だけに関わる。他の人と何をするかではなく、自分自身と何をするかに関わる。ダルマは、完全な孤立と孤独の中で、自分自身とどのように振る舞うかに関わるのだ。
―
普段落ち着いている時には、自我の感覚が弱まることを観察することもあります。ところが大きな痛みや心理的なショックを受けると、そこに強く自我が投射され、巻き込まれて、一旦無理やり他の場所に集中しないとうまく観察ができなくなります。引き続き観察に励みます。
195
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/19(金) 00:15:58 ID:1d4drIFg0
派閥や組織は常に腐敗するものじゃ。
お釈迦様のサンガでさえ分裂したりしたのじゃ。
悟りとは関係ないものじゃ。
ただひたすらに自己の内面を追求した者だけが悟りを得るのじゃ。
196
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/19(金) 20:44:46 ID:Dp/qMVVc0
完全に独りある中で、あなたは何なのだろうか? それが知らなければならないことだ。あなたとは何か。あなたの存在を知ることだけが、宗教に導く。誰かを宗教に導く方法は他には無い。どんなお寺も、どんなモスクも、どんな教会も、私を自分のいる場所に連れて行ってはくれない。そこに行くために外の階段を登る必要はない。すべての寺院は外にある。すべての寺院は輪廻の一部であり、世界の一部であり、その扉を通って自己に到達することはできない。外の世界での旅は、真理への巡礼、聖なる場所への巡礼にはならない。その場所は内にあり、そこでは宗教の経験があり、人生の神秘、喜び、美しさが見つかる。これらがなければ、すべてのものは悲惨なものであり、すべてのものは役に立たず、無意味なものだ。
自己を知るためには、外ではなく内に入らなければならない。しかし、すべての人間の感覚は、外に連れて行く。すべての感覚は外に向かっていく。目は外を見、手は外向きに広がり、足は外向きに動き、心さえも外の現象を反映し、反響させる。そして、そのために人は偶像、神の像を建立し、真理のための神殿を作った。それは、その目が神を見ることができ、その足が真理への巡礼をすることができるようにするためだ。 私たちはこの自己欺瞞を自分たちで作り出してしまった。この毒を自分の手で飲んでしまった。そして今、私たちは自分の生を浪費し、この毒と自己欺瞞によってもたらされた昏睡の中で過ごしている。
自分の感覚の都合に合わせて、私たちは宗教を自分の外にあるものとして視覚化し、そのために自分の視界を外に向けてきた。しかし、ダルマを知るためには、宗教を知るためには舞台裏に行かなければならない。世界に対するあなたの知識と意識は、感覚を媒介にしてもたらされる。同じ道筋で自己を知ることはできない。知る者を知ることはできない。他の人や物を知るように、知自身を知ることはできない。見る力である見者は、普通の物体のように見ることはできない。知は、物体に移すことも、劣化させることもできない。そして、すべての問題の理由は、この単純な事実が理解されていないことだ。人々は、神が外的なものであるかのように、神を探し求める。これは何と愚かなことだろうか! 神は探されるべきものではなく、求める者自身の中に隠されているのだ。
―
瞑想が深まり、意識を保ったまま落ちていく感じになると、それを引き止める力が生じます。これが自我の厭離を妨げているものなので、気をつけて観察して正体を見極めたいです。
197
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/20(土) 00:10:47 ID:1d4drIFg0
自分とはなにであるか知ることだけが真の宗教たどオショーは言うのじゃ。
それがなければどんな寺や神殿も無意味というのじゃ。
自分を知るためには注意を内側に向けなければ成らんのじゃ。
神でさえ求める者の中に隠されているというのじゃ。
198
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/20(土) 20:35:00 ID:Dp/qMVVc0
真理はあなたの中にある。それは私の中にある。それは明日あなたの中にあるのではなく、今ここで、この瞬間に、あなたの中にあるのだ。私はある。私の存在自体が私の真理だ。私が見たものは真理ではないかもしれないし、それはすべて夢かもしれない。私も夢を見ていて、その間に見ているものは真実のように見える。あなたは私にとって夢なのかもしれない。私が夢の中にいて、あなたはここにまったくいないのかもしれない。しかし、見者は偽りではありえない。見者は夢の中にいることができない、なぜならばもし、いたとしたら、それが夢であることがわからないからだ。夢は夢を見ることがでない。真理でないものは真理でないものを知ることができない。夢を見るためには、自分自身が夢ではない者が必要だ。真理でないものを見るためにさえも、真の見者が必要だ。したがって私は、私が真理であると言う。真理は私の存在だ。私はそれを求めてどこかに行く必要はない。
自分の中から真理を掘り出すだけでいい。井戸を掘るのと同じように、真理を掘り出さなければならない。水の泉を覆う石や土の層が常にいくつかあるが、それらの層を取り除くとすぐに泉は解放される。同じように、あなたの自己も他のもの、非自己に属するものの層によって圧迫されている。あなたはこれらの層を突破するだけで、数え切れないほどの過去世を通して探し求めてきたものが達成される。
これまでのところ、あなたは真理に到達することができなかったが、それは、あなたが遠く離れたところでそれを探していたからだ、実際のところ、それはいつもとても近くにいる。本当に探しているのはそれ自身なのだ。あなたの魂の井戸を掘り出さなければならない。瞑想はそのための手段だ。瞑想の鋤を使って、自己の上に積み重なった土の層、他者性の層を取り除かなければならない。それが唯一の救済策であり、唯一の治療法だ。これが私が話したいことだ。
―
静まった心を観察します。
199
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/20(土) 23:24:56 ID:1d4drIFg0
真理とは今ここに自分の中にあるものだとオショーは言うのじゃ。
それは一度も自分から離れたことは無いのじゃ。
それが見出せなかったのはどこか外にあると思って知識を求めていたからなのじゃ。
井戸を掘るように自分ではない知識をどこまでも掘り下げて観ていくことでそれは現われるのじゃ。
200
:
避難民のマジレスさん
:2021/02/21(日) 21:11:44 ID:Dp/qMVVc0
まず第一に、あなた自身の存在、あなたの本質を覆い隠しているものが何であるかを知る必要がある。あなた自身からあなたを隠しているものは何だろうか? 見えないだろうか? 覆い隠しているものが見えないだろうか? 中に入ってみると、何が見つかるだろうか?
ヒュームは言った 「中に入っても、思考以外のものは見つからない」と。 ヒュームはどんな魂も見つけられなかったし、あなたもこのようにして自分の魂を見つけることはできない。ヒュームは覆っている層だけを見て戻ってきたのであって、ただ殻のところまで行って戻ってきたのだ。あなたが中に何があるのかを見るのは、殻を破った時だけだ。これは、湖に行って苔と葉で覆われた湖面を見て、湖は全くないと言って戻ってくる人のようなものだ。一般的には、このようなことが起こる。私たちは毎日中に入り、思考の覆いを見て戻ってくる。思考は常に自己を取り囲み、あなたは思考以外は何も知らない。思考はあなたの世界であり、思考だけで生きている者は世俗的な人間だ。思考を超えた何かを知ることは、宗教的になることの始まりだ。思考のない状態を知ること、思考の先にあるものを知ることは、宗教の領域に入ることだ。
もしかしたら、あなたの思考はこの世のことではなく、魂のこと、神のことを考えているのかもしれないし、自分が宗教的であるという幻想を抱いているのかもしれない。私はあなたのこの幻想を打ち砕きたい。すべての思考は覆い、外殻だ。それらはすべて欲望、情熱であり、外に向けられた外面的なものだからだ。自己についての思考はありえない。知はあるが、自己についての思考はない。思考は覆い、殻だ。
―
今日は自我の拡大を感じて、その心地良さを感じています。観察はするのですが、本心から厭離しようと思っていないのか、変化がみられません。偽物の殻に騙されていますね。粘り強く観察します。
201
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/02/22(月) 00:04:24 ID:1d4drIFg0
本質を覆い隠しているものを知ることが修業には必要だとオショーは説くのじゃ。
それは思考に囚われているものには思考じゃろう。
金とか、名声とか、権力に囚われている者にはそれらが覆いじゃろう。
外面的なものに囚われていれば、自分を知るための道に入ることは出来ないのじゃ。
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