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鬼和尚に聞いてみるスレ part9
751
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/12(木) 19:03:22 ID:czRftzgI0
和尚さんは無我・サマーディに至るには苦をすべて取る必要はないとおっしゃいました。では、執着もすべて取る必要はないのですか?
752
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/12(木) 20:55:56 ID:1d4drIFg0
>>748
おぬしには負けるがのう。
わっはっは。
>>749
そうじゃ、まさに鬼じゃ。
医者が他の医者の言葉が直ぐにわかるように、悟った者同士もわかるのじゃ。
特に難しいことは言っていないのじゃ。
>>750
マハリシは質問する者が観念に陥らないように常に心臓の真我に実際に集中するようにと答えているのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
悟った者は常に実践を説くのじゃ。
悟らない者は知識を説くのじゃ。
それが悟ったものと悟らない者の違いなのじゃ。
マハリシも自ら悟り、不死の境地を知っているから皆をそこに導こうとしているのじゃ。
それもまた実践によって真の幸福を実現するための言葉なのじゃ。
全ての幻想を滅し、心の中にある真実を実現した者だけがそのように語りかけることもできるのじゃ。
>>751
そうじゃ、全ての執着を滅しなくて善いのじゃ。
執着は心の働きによって次々に作られてしまうものであるからのう。
全て滅しようとしてもきりがないのじゃ。
修業の邪魔になる執着だけを取れば良いのじゃ。
753
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/12(木) 22:27:44 ID:czRftzgI0
>751
はい、そのように修行したいと思います
754
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 07:21:55 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、
>>738
の書き込みの中の9項目目に
「もし身体のなか
のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
ある。」
と書かれていますが、それは人は一般的に言って心臓のあたりに自分という感覚を強く
感じやすいということでしょうか?
そして、そうであるなら心臓らへんに対する観察は自我の正体を見るうえで効果的である、
ということなんでしょうか。
755
:
541
:2017/10/13(金) 10:46:36 ID:o7TfOr0I0
これだけの人間が真我探求して見付からないと言うのはどう言うことなのだろう。
心臓の辺りに真我があるならば、心臓の辺りを意識したら見付かるはずである。
何でそんなに難しい話になるのだ?
真我があるならば、もう見付かってもいいだろう
何年も探求して見付からないとしたら、それが幻想だからではないでしょうか?
756
:
541
:2017/10/13(金) 11:01:24 ID:o7TfOr0I0
確かなことは、意識と特定の肉体が何故か結び付いている事だよね。
それは、意識が肉体から生じているからなのか、或いは、意識が特定の対象(個別の肉体)を現象化し続けているかどっちかだろうね
この肉体は昨日と今日では別の性質を持つが、知性が、同一のものと見なしているから、昨日と同じ自分の肉体と判断している。
だから、全て幻想とは言えるのだが、それでも特定の肉体と言う認識システムと意識が関連していることは否定できない
757
:
541
:2017/10/13(金) 11:06:30 ID:o7TfOr0I0
つまり、どうして、意識は、この眼球(視角システム)やこの脳(認識システム)を通して、世界を眺め見るのか?
それは、「そう言うものだから」としか言いようがない。
つまり、意識は、この肉体を通して世界を経験しようとしており、それに「私」が異議申し立てをしても、意に関しないのである。
俺様は、そうしたいのだ、文句あるか?と言わんばかりである。
758
:
541
:2017/10/13(金) 11:11:18 ID:o7TfOr0I0
その時の私ってなんなの?この今、文字を打とうとして打っているものよ
まあ、あえて言うなら、この「世界を考え、語るもの」に、私は、自我意識を感じている訳だ。
鬼和尚の理論からすると、この世界を考えて語っているものを観察するときに、観照が起きることになる。
759
:
541
:2017/10/13(金) 12:44:02 ID:o7TfOr0I0
観察しようと思うと思考は消える。
と言うより「誰かに語ろう」とした瞬間に思考は生まれる。ほら、この通り。
私は、この語りや思考にidentityを感じており、自覚もあるし、観察してもいるが、観察されたからと言ってこれが滅却される事もなければ、永遠に触れているとも言えない。
760
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 12:57:15 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚としては
相当の覚悟、己を捨てられる、という強い意志があれば人はたった一日であっても観察
しまくって大悟に至れることは現実的に可能であると思われますか?
761
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 18:21:43 ID:DAY232aw0
>>744
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分を探求すれば良いのでしょうか?
762
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 20:01:12 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、解説ありがとうございます。
ラマナ・マハルシの教えの実践としては「心臓に集中して、私という思いの生起を見る。」で良いでしょうか?
鬼和尚的には、心臓でなく他の部位に集中してもOKで、自我の観察が出来れば効果は同じということですか?
763
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/13(金) 21:28:21 ID:1d4drIFg0
>>753
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>754
違うのじゃ。
強く集中していると集中の対象と同一化が起こるのじゃ。
そのために心臓に自分があると感じられるのじゃ。
集中の対象は何でもよいのじゃ。
集中力によって自我を観やすくなるだけなのじゃ。
>>755
真我などないのじゃ。
ただ集中のための対象に過ぎないのじゃ。
何も無いのが真我なのじゃ。
>>760
できるじゃろう。
マハリシも一日で悟ったのであるからのう。
今日にも死ぬというようなほどに強い動機が無ければ難しいかも知れんがのう。
>>761
そうじゃ、自分を探求すればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>762
そのような理解でよいのじゃ。
どこにでも自分の生起は観られるじゃろう。
大事なのは集中力と観察力なのじゃ。
764
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 22:00:25 ID:ntpTPdXY0
>真我などないのじゃ。
バッサリw
真我も観念であることを見破らなければいけませんね。
私も真我に囚われていましたが、ようやくそれも自分の考えであることが見えてきました。
765
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 08:30:43 ID:aIZyr5vQ0
>>763
鬼和尚さま
「強く集中していると集中の対象と同一化が起こる」とありますが、ああいうのは何がどうなっている状態なのでしょうか?
例えば虫を観ていて、虫と自分とどちらが自分かわからなくなるとか、自分が虫になったとか、言いますが、
ああいうのは自分の側の分別がなくなるとか、認識の仕方が変わっただけのことなのでしょうか?
例えばこの場合、自分の側ではなく、虫の側に何か影響はあるのでしょうか?
例えば誰かが鬼和尚さまに集中して、鬼和尚さまと同一化した場合、
鬼和尚さま側は何か感じたり変化があったりするのでしょうか?
766
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 10:41:47 ID:czRftzgI0
スピ系の精神性の高い人は、神仏や高次の宇宙人の訪問を受けたり、UFOに招待されるそうですが、和尚さんにそういうことはありますか?
また、見知らぬ普通の人からあなたはオーラがすごいですねえとかあなた只者じゃないですねえとか言われたことがありますか?
767
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 16:50:27 ID:5b5rHLEE0
悟るとモテますか?
768
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/14(土) 20:07:27 ID:1d4drIFg0
>>764
そうじゃ、全て捨てて進むのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>765
自分という観念が集中の対象に投射されているだけなのじゃ。
それは観念である故にどこにでも投射されるのじゃ。
自分がそう感じるだけなのじゃ。
虫とかわしには影響はないのじゃ。
>>766
そのようなことはないのじゃ。
妄想なのじゃ。
そのような者もいないのじゃ。
全て幻想なのじゃ。
>>767
もてもてなのじゃ。
わしもおぬしにもてもてなのじゃ。
769
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 22:16:01 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
本心を観るのは何故でしょうか?
770
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 22:21:26 ID:czRftzgI0
>766
はあー、和尚さんにかかるとそれらは全部幻になるんですね。ひやー
771
:
765
:2017/10/15(日) 03:05:14 ID:aIZyr5vQ0
>>768
単に自分の観念、自分にとってのことなんですね。
ありがとうございます。
ところで、ただ意識だけがあり、個々の分別が錯覚であっても、
個々の境界に関係なく影響し合うものというのはないのですか?
同一化はその人の観念ということですが、シンクロニシティだとか虫の知らせとか双子が同じことを考えているとか、
個々の垣根を超えて影響し合うように見える状態は、何ですか?
ああいうものも偶然や錯覚なのでしょうか?
ただ意識だけが在るという悟りの境地からすると現象は全て幻なのでしょうが、
個々が存在してるとする現象レベルにも意識だけが在ることの片鱗や現れが見えるのかなと思ったのですが。
772
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 05:10:57 ID:04sFW9n.0
>>743
ご教授ありがとうございました。そのように観察を続けます。
別の質問があります。
他者のために生きなさい、という教えと、自分のやりたいように生きなさい、
という教えがありますが、両立しない場合もあると思います。
例えば、仕事をすれば資本家のためや、納税を通じて社会のためになると思いますが、
自分のやりたいことをやる時間はなくなります。
このような場合、どのような判断基準が正しいといえるのでしょうか?
773
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 07:04:18 ID:ydE4b1w.0
身体部位を厭離できた際に想念のエネルギーのようなものが放出することはその身体部位を厭離できたか
どうかに関係ありますか?
身体部位に対する自我の観念(=体への自己同一化の観念)ではない、善悪の観念のような自分を
しばりつけるような類の観念を手放せたとき、その観念にひっついていた感情のエネルギーのようなものが
放出するのを感じる時がよくあるんです。
しかし、身体部位に対する自己同一化の観念を厭離できた際は上記のようなエネルギーの放出が起こるときもあるんですが、ないときの方が多いんです、
身体部位を観察してじっと見つめ続けていたら、気づいたらいつのまにか自分とは思えないような感覚になっていた
とか、そんな感じのケースの方が多いんですが、それって厭離できているんでしょうか?
想念のエネルギーのようなものが放出されないと厭離できた感が薄いんですが、想念エネルギーが放出
される感覚と身体部位に対する自己同一化の観念を厭離できたかどうかには関連性はないんでしょうか?
また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではない
というような考えるプロセスさえも省いてただ見続けて)ずっとその部位を見てたら気づいていたらどうもその身体部位が自分とは
思えなくなった、というようなぼんやりと薄い手ごたえでもきちんと厭離されているんでしょうか?
774
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 07:18:05 ID:ydE4b1w.0
訂正です
× また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではない
というような考えるプロセスさえも省いてただ見続けて)ずっとその部位を見てたら気づいていたらどうもその身体部位が自分とは
思えなくなった、というようなぼんやりと薄い手ごたえでもきちんと厭離されているんでしょうか?
○ また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではないというような考えるプロセスさえも省いてただ対象を見続けて)
ずっとその部位を見ていて気づいたらその身体部位が自分、または自分のものであるとは思えない感覚で対象の身体部位を見ていた、というようなぼんやりと薄い手ごたえでも
「それが自分、または自分のものだとは思えない感覚」になればきちんと厭離された、と判断していいのでしょうか?
775
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 12:34:27 ID:czRftzgI0
分別と認識についてお聞きします。
鳥の声がしているのに気付いた時、小鳥の声だと思ったなら、どんな小鳥か分からなくても小鳥の声という記憶と照合したことになるから、認識でいいですか?
聞いたことのない鳥の声でなんだろうと思っているときは、分別なのか、それともとりあえず記憶から鳥の声ということがわかっているから認識になるのどちらですか?
と、ここまで書いたら記憶と照合しないで分けることができるのか、分別とは何なのかわからなくなりました。認識との違いは名前や性質などの知識情報がついているかいないかでしょうか。
776
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 18:37:19 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、「自分」という観念から生じる根源的な不足感を埋めようとして快楽に
執着したままでも無我に至る観照は起こりえますか?
もし起こらないならどの程度執着心を落とせば観照は起きますか?自分で内観してリストアップ
した限りでも数えきれないくらいの対象に対する個別の執着が見つかったんですが、それら全部ですか?
そうでなければどれくらいの執着を落とせば観照は起こりますか?助けてください。
777
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 19:58:26 ID:ydE4b1w.0
ごめんなさい、何度も尋ねてしまって、
非二元の本とかでよく目にする「悟りを求める探求心が落ちない限り悟りはない」
というのは
「悟りを得ようとして観察をしようとする心の働き、言い換えれば悟りへの探求心が止まない限りは鬼和尚のおっしゃる「観照」はおこらない」
という意味ですか?
自分の今の現状が「自分はこの体だ」という思い込みから自分は死に得る存在であるという死の恐怖に震えていて、
解決の道は観照が起こることだとも思っているんですが、観照が起こらない限り肉体が自分であるという観念も落ちず、したがってその観念が生じさせる死の恐怖も存続し続ける、
しかし、探求心が落ちない限り非二元で言われる悟り(鬼和尚のおっしゃる観照)は起きない、しかしどう頑張っても、どう他の色々な要素を手放そうとしても悟りへの探求心が落ちず
それゆえに、自分は今どうすれば、、、と感じているんですが、
そんなこと言ったって、自分のやれることは観察しかもはやないと思っているので観察をつづけているんですが悟りを得ようとするエゴエゴの
探求心を残したまま観照を目指しても観照は起きますか?
778
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/15(日) 22:28:56 ID:1d4drIFg0
>>769
本心でなければ嘘の心なのじゃ。
嘘を見ても何も起こらないのじゃ。
おぬしの金を二倍にしてやると言って金を預けても嘘ならば二倍にならず金も返ってこないのじゃ。
そのように嘘を信じても損をするばかりなのじゃ。
>>770
わしでなくとも幻なのじゃ。
>>771
全てが観念の世界であれば影響も観念なのじゃ。
そのようなこともあるじゃろう。
しかし人が機械を使い通信しあうのと同じなのじゃ。
囚われれば妨げになるものじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
>>772
自分のやりたいことが他者のためにならないならばそれは違うことじゃろう。
しかしそれほど違うことも無いものじゃ。
絵を描きたいとか劇をしたいとかも他者のためになる作を創る事が出来るじゃろう。
そうでなければ誰にも注目される事の無い無名で終わるからのう。
自分のやりたいことで他者のためになる道を探すと善いのじゃ。
>>773
それはエネルギーというより感情的な開放感じゃろう。
今までストレスを与えられる囚われなどを持っていたものが、それを解放したときに感じたりするものじゃ。
身体などの特に囚われのない部位を厭離しても起こらないのは当然なのじゃ。
例えば今まで自分を苦しめてきた観念が要らないものと気付いた時に重荷を下ろしたように感じるのじゃ。
その感覚が無くとも自分と感じなければもはや厭離は出来ているのじゃ。
>>775
そうじゃ、認識できているのじゃ。
何かの鳥の声と言う認識なのじゃ。
知識情報がなくとも類似や推測などが働いているのじゃ。
それも記憶からの分別の一部なのじゃ。
779
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/15(日) 22:47:05 ID:1d4drIFg0
>>776
それが障害にならないならば起こるじゃろう。
障害になるならば起こらないのじゃ。
悟りを最も求めていたならば何も障害にならないのじゃ。
>>777
それが強い囚われとなり、障害になるならば起こらないのじゃ。
そうでなければ起こるじゃろう。
他人の言葉はあてにはならいなものじゃ。
そうであるから仏陀達はただ道標になるだけなのじゃ。
なにものも信じずただ鬼のように探求し続けるがよいのじゃ。
それがおぬしの道なのじゃ。
それがあっても心身を完全に観察し尽くせば必然的に観照は起こるじゃろう。
780
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 22:51:05 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さんは不死の探求の最中に観照が起こったそうですが、不死の探求とはどのような内容だったのでしょうか?
ここで我々に勧めている方法(心身を完全に観察する?)との違いはあるのでしょうか?
781
:
771
:2017/10/16(月) 00:11:58 ID:6WTCjnEc0
>>778
ありがとうございます。
悟った見地からすると全ては観念でどうでもいいことなのでしょうね。
そのレベルからすると、現象のひとつひとつをいちいち取り出してあれこれ言っても何の意味もないことだ、
というのはわかります。
そういう見聞きするひとつひとつの事象を囚われにせず、
修行していくのが大切ですね。
ありがとうございました。
782
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/16(月) 07:45:17 ID:czRftzgI0
>775
未だ両者の違いが理解できたわけではありませんが、現時点ではそんなに厳密に区別する必要はないかなと思っております。
ありがとうございました
783
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/16(月) 08:11:16 ID:ydE4b1w.0
>>779
ありがとうございます。探求心が自然と落ちるためには自分が完成させた観念の資料を見ながら
観念を一通り手放せれば徐々に探求心も落ちていくと思うので、それらを手放す作業をとりあえず
やり抜こうと思います。
観察について質問させてください。
脳みそや心臓、後頭部や背中、顔の形体などの目に見えないところはどう観察すればいいですか?
784
:
541
:2017/10/16(月) 11:37:52 ID:uckpFOu60
全て幻ならば嘘も幻ですよね
785
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/16(月) 20:25:44 ID:1d4drIFg0
>>780
ただひたすら経典を読み、瞑想していたのじゃ。
全く違うのじゃ。
自分が何をしているのかもわからんかったのじゃ。
経典を読むことが自然に観察に繋がっていたと後で知れたのじゃ。
止観ができる者は幸せなのじゃ。
>>781
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>782
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>783
それらもまた注意を向ければ感覚があるじゃろう。
心臓は動いているとか、触感があるとか熱があるとかわかるものじゃ。
そのような感覚を観察するのじゃ。
それもまた五感のうちであるのじゃ。
>>784
その考えも幻なのじゃ。
786
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 05:29:05 ID:ydE4b1w.0
>>785
783です、ということは頭だったり心臓、背中、顔のように目に見えないところの観察は
実際に目に見える状態で観察する必要はなく、その部位がある場所の「感覚」を見て(感じて?)
その感覚にひっついている自己同一化を観察する、そういう理解でいいですか?
また質問なんですが、日常で生活を送っているとエゴからの欲が沸いてくる時が多々あります。
例えば美味しいものが食べたいとか、タバコを吸いたいとか、めんどくさいから風呂に入りたくない、とかの
快楽に対する執着と不快に対しての拒否心です。
それらの欲や執着心が沸いたまさにその時、私は下記のうちのどのような対処を行うべきでしょうか?
①「〜したい、〜したくない」という執着心や拒否感が沸いたとき、その執着心や拒否心を観察によって手放す
②「〜したい、〜したくない」という執着心や拒否感が沸いたとき、その欲に従ってその欲望を満たす行動をする(美味しいものが食べたいなら食べるという行動に移す)
しかし、②の行動を行うと、「自分は今、エゴからの欲を行動に移している、悟りの道とは正反対の方向に向かっている」という感じがして大きな違和感を感じます、
さらに罪悪感も感じます、その罪悪感は「悟りを目指しているものはエゴの差し出す快楽に向かうべきではない」
という観念からのものなのですが、その観念が正しくない、間違っている、とはどうしても思えなくて、したがって
その観念は外れないまま残存しています。
また①の行動を移した場合、それは以前もやったことがあるんですが、沸くたびにこの執着はどこから沸くのだろう
とかその場で色々やって手放そうとして生活できないくらいに身動きが取れなくなり、沸くたびに手放そう手放そう
というのが忙しすぎてほかのことがほとんどできなくなる、最終的にその執着心は弱まるんですが、自分の理解だと
「私」という観念が生じさせる根本的不足感を何とかしないと執着心はそこからまたどんどんとわいてくる、と思うと
「自分の手放そう手放そうとやってることって結局うわずみをすくってるだけだよなぁ」と思えてきます。
それゆえ、別にそういう欲が沸いてもその場では放っておいてもいいんじゃないか?
どっちにしろこれから私が行っていくワークによって「私」という観念が消えれば不足感も消え、それに
伴い欲も消えるのであれば別に今そうした執着心をなんとかしようとしなくてもいいのでは?
とも思っています。
だからと言ってそうした欲が沸いたときに欲望を満たす方向に向かうというのも大きな違和感があり、
「これじゃまずいよなぁ」と思えてしまうので結局のところ自分はその時どうしたらいいんだという
感覚になります。どうしたらいいのでしょうか?
その欲望が沸いたということに気づいたらただそれに気づいていさえすれば美味しいものを食べてもいいんでしょうか?
787
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 06:12:27 ID:04sFW9n.0
>>778
ご教授いただきありがとうございました。
同じような質問で恐縮ですが、またお願いいたします。
例えば、一人で穏やかに静かに暮らしたい、という本心があったとします。
周囲はそれを望んでいないとします。
この場合、自分のために、自由に、やりたいように振る舞うべきでしょうか。
それとも本心を抑圧し、周囲の期待に応えるべきなのでしょうか?
788
:
541
:2017/10/17(火) 07:30:41 ID:ixanSuLQ0
>その考えも幻なのじゃ
でもその考えも幻ですね。ループですが。
789
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 11:45:43 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、
>>779
のレスの中の
「心身を完全に観察し尽くせば必然的に観照は起こるじゃろう。」という鬼和尚の言葉は
例えば手という一部分を厭離までもっていくことが可能であるなら、体全体を部分的にどんどん
厭離させていけば、最終的には体全体に対する同一化がはがれて、肉体が自分であるという観念も
消える=観照まで自力で持っていける、ということですか?
自分は「自力で悟りを起こすことはできない」、といろんな本に書いてある通りに信じ込んでいたんですが、
自力で体全体を部分的に観察→厭離させれば最終的には観照に至る、ということが可能ということですか?
790
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:24:25 ID:czRftzgI0
身体の同一化は、肉体を自分だと思うのか肉体を自分の物だと思うのかどちらですか?
791
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:26:44 ID:DAY232aw0
>>763
>>768
この前はお礼を言い忘れてすいません。
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、観察者であれば良いのでしょうか?
792
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:48:54 ID:czRftzgI0
すいません、これもお願いします
思考の同一化は、思考を自分だと思うのか思考を自分の物だと思うのかどちらですか?
793
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:54:12 ID:Y5LPInQE0
>>778
鬼和尚さん、ご回答ありがとうございます。
>経典を読むことが自然に観察に繋がっていたと後で知れたのじゃ。
とは、どういう事でしょうか?
経典を読んでいる最中に雑念が浮かんできて、それを観察していた、ということですか?
794
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/17(火) 22:34:50 ID:1d4drIFg0
>>786
そのような理解でよいのじゃ。
どのような対処も行わなくて善いのじゃ。
観察だけをするのじゃ。
食べなかったならば食べなかったと観察するのじゃ。
食べたならば食べたことを観察するのじゃ。
観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると観察するのじゃ。
欲を満たしたならば欲を満たしたと観察するのじゃ。
観察によって何かをしようとも思わなくてよいのじゃ。
ただひたすらに観察してみるのじゃ。
>>787
それはおぬし次第なのじゃ。
自分のしたいようにしたいと思えばそうするのじゃ。
周囲の期待にこたえたいと思うならばそうするのじゃ。
自由なのじゃ。
死と言う限界の在る身で自ら願う道を行くのじゃ。
>>788
その考えも幻なのじゃ。
>>789
そうじゃ、できるじゃろう。
お釈迦様もマハリシも自らの意志で観照を起こしたのじゃ。
死も超える強い意志があれば可能なのじゃ。
そのような意志の無い者は自らを手放す時を待つ以外にないのじゃ。
795
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/17(火) 22:41:08 ID:1d4drIFg0
>>790
>>792
それはおぬしの認識している通りなのじゃ。
おぬしが肉体を自分だと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
おぬしが肉体を自分のものと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
おぬしが思考を自分だと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
おぬしが思考を自分のものと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
>>791
そうじゃ、観察者でいるのじゃ。
ただひたすらに観察するのじゃ。
死の恐れも超えて観察できれば悟りも訪れるのじゃ。
>>793
例えば般若心経ならば肉体を空とか読むとおりに肉体は空じゃな、と観想するのじゃ。
そのように読んでいれば経を読むことが自然に修行になるのじゃ。
お釈迦様がいま自分に説いているかのように読んでみるのじゃ。
796
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/18(水) 06:51:20 ID:czRftzgI0
>790
自分がどちらなのかわからなくなりまして、観察してみます
797
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/18(水) 10:53:25 ID:ydE4b1w.0
>>794
786です、二つの質問への回答ありがとうございます。
「食べなかったならば食べなかったと観察するのじゃ。
食べたならば食べたことを観察するのじゃ。
観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると観察するのじゃ。
欲を満たしたならば欲を満たしたと観察するのじゃ。」
という文の「観察する」とは、その原因を分析したり、思考を挟んだりせずただその行為や思いに気付いていること。
という意味で置き換えて理解していいですか?
すなわち
欲を満たしたならば欲を満たしたと(その原因を分析したり、思考を挟んだりせず)ただその行為や思いに気付いていること
観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると(その原因を分析したり、思考を挟んだりせず)ただその思いに気付いていること
というような意味で「観察する」という言葉を理解していいですか?
そして、障害になりえるエゴのパターンに阻まれた際はただ気づくだけではなく、しっかり原因を分析し、突き詰めていってそれを解放し、それ以外の時は
自分の一挙手一投足を分析も何もせずにただ気づいている状態でいる(=観察する、ただ気づく)ということでいいでしょうか?
798
:
541
:2017/10/18(水) 18:41:38 ID:mmf5Fyts0
鬼和尚。その考えも幻ですよ。
799
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/18(水) 21:47:39 ID:1d4drIFg0
>>796
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>797
そのような理解でよいのじゃ。
注意深く気付いているようにするのじゃ。
どのような特徴も見逃さないように観るのじゃ。
そうすれば気付くことも多くなるのじゃ。
障害になりえる苦には原因を探すと善いのじゃ。
それから自分を追及するのもよいのじゃ。
障害になりえるものへの強い囚われが自分というものの認識を強くしている場合も多いからのう。
>>798
その考えも幻なのじゃ。
昔のインド人はそのようにループになりえる考えはそれ自体が矛盾しているゆえに成り立たないと考えたのじゃ。
800
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/18(水) 22:53:48 ID:WybGUs/o0
>>799
インドの話、納得しました。
さすが和尚ですね。
鬼和尚、最近ハートの辺りがモヤモヤと苦しいです。
以前は観察でこのモヤモヤが開放される感覚があったのですが、最近どうもうまく行かない。
これは最近慣れない環境に生活が変わり、自我を強烈に感じているからかもしれません。
鬼和尚のように悟るとこのハートのモヤモヤは無くなるものなのでしょうか。
またこれを無くすには、やはり観察なのでしょうか。
801
:
541
:2017/10/19(木) 04:07:42 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。では、全てを幻だとする鬼和尚の考えは成り立ってないではありませんか。
802
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/19(木) 05:39:22 ID:04sFW9n.0
>>794
ご教授ありがとうございました。
確かに私は自由のようです。本心を偽らずに行動したいと思います。
問題は、私の場合、それが本当に本心なのか確信が得られず、
時間ばかりが経過してしまうことのようです。
803
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/19(木) 20:28:01 ID:ydE4b1w.0
>>799
ご回答ありがとうございました。
804
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/19(木) 21:10:48 ID:1d4drIFg0
>>800
無くなるじゃろう。
そうじゃ、観察してそれが何か見極めるのじゃ。
そうすれば消えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>801
その考えも成り立っていないのじゃ。
>>802
そのように迷うのはどちらも自分のやりたいことだからなのじゃ。
周囲の期待にこたえたいのもやりたいことなのじゃ。
むしろ何がやりたくないことなのか観察して見極めたらよいのじゃ。
その反対が本当にやりたいことなのじゃ。
>>803
どういたしまして、またおいでなさい。
805
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/19(木) 23:38:20 ID:DAY232aw0
>>795
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我を滅するとは自分を滅するという事なのでしょうか?
806
:
蓮恵
:2017/10/19(木) 23:54:00 ID:ETmMy/0M0
鬼和尚さま
瞑想の研究が効を奏して、条件によりますが日常においても、雑念の起きない妙な時間が起きるようになりました。
少しだけですが、上のような力を得たようです。
この力なら、この力だけが真に人を救えるのでは、密かに愚考しています。
807
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/20(金) 00:26:39 ID:Wz03wK1Y0
>>804
鬼和尚、
ハートのモヤモヤが起こるようになり、より悟りたいという気持ちが大きくなりました。
観察を続けてみようと思います。
ありがとうございました。
808
:
541
:2017/10/20(金) 04:47:53 ID:o7TfOr0I0
全て幻であるならば、真実は「全て幻である」ではありませんか?それともただの方便です?
809
:
541
:2017/10/20(金) 04:58:43 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。この娑婆世界は観念で成り立っています。例えば、「一万円札が落ちている」とか「田中さんが山で熊に教われた」と言う出来事すら、ある意味では虚構です。
そして、それらの虚構が生まれる原因の大部分は「私は人間である」と言う観念です。
我々は無意識に人間らしく世界を解釈しています。存在を一万円札とか熊とか山とか田中さんと解釈しますね。
私は人間であると言う観念を捨てるならば、そこにあるのは存在です。
マハリシ等が言うように、私は存在すると言う観念すら捨てるならば、あらゆる存在を成立させる無の境地に至るでしょう。
810
:
541
:2017/10/20(金) 05:14:42 ID:o7TfOr0I0
人間と言う観念世界は人間と言う喜びをもたらしますが、苦しみももたらします。
現代人が無意識に取り込んでいる人間と言う観念は高々200年から300年前に西洋で生まれた人間概念に影響されています。その人間概念の特徴としては、独立性、自由性、完全性等が上げられますが、これらは元々西洋人が抱く神の属性であり、その自己投影でした。それゆえに、老いて、病んで、運命に翻弄されて死ぬと言う目の前の自然現象としての人間の現実に基本的に我慢がなら無い面がある。その事が文明の発展をもたらした面もあるでしょうが、第一次大戦や第二次大戦のような、情け容赦の無い神々の戦いをもたらした面もあるでしょう。
811
:
541
:2017/10/20(金) 05:20:34 ID:o7TfOr0I0
また、世界から切り離されて存在する人間と言うイメージは、そう信じる者に根源的な不安感や孤独感をもたらします。人間が酒を飲んで憂さ晴らししたり、ひたすら集団に同調したりするのは、この観念がもたらす根源的な不安感や孤独感に起因するように思います。
812
:
541
:2017/10/20(金) 05:36:47 ID:o7TfOr0I0
さて、我々は、このような人間観念を前提とした観念世界を生きている。自己の無謬性を信じるならば対立する他者を片っ端から葬り去らねばならない。それと同時に、人間には所詮人間みたいな卑小なイメージも持っているわけで、我々の生活の喜怒哀楽は、この自己イメージと言う私小説をあらゆる機会に読み上げているだけとも言えるでしょう。人間の人生の起伏は人間と言うイメージの起伏に過ぎない。人間としての喜びも悲しみも、自己演出して自分で勝手に苦しんだり喜んだり怒ったりしているわけです。
813
:
541
:2017/10/20(金) 05:42:24 ID:o7TfOr0I0
勿論、このような私の分析も観念でありましょう。
これは人間が生きる世界を解体する為の観念です。根本的な世界観を解体してしまえば、もはや一万円と千円札の違いもなく、それが失われることも得られることも無いでしょう。
814
:
541
:2017/10/20(金) 09:49:52 ID:o7TfOr0I0
現代の虚構性、価値観の中でその虚構の価値をもって虚構に対するのはその価値を強める事になってしまう。
例えば、「鬼和尚くん。残業頼むよ」と言われたとき、現代人は「ちょっと妻の体調が」とか「子供が風邪を引いて」と言った断り方でないと角がたつ。それは現代の価値観を利用して、或いは逆手にとって、構造上否定できない上司の命令をひっくり返した訳だ。例えば、鬼和尚は、大地震が起きたとき「別に大したことではないのじゃ」と言った。「人が無数に死のうと富士山が噴火しようとなにも起きていないから、淡々と座れば良いのじゃ」みたいなニュアンスの発言もあったと思う。本当の本質的な救済とはそう言うことであろうと思う。
自然災害で死んだ人は返ってこないし壊れた家も元通りではない。
だから、それが「何でもないこと」でなければ、本当の意味での救済は無いのである。
ヒューマニズムの観点から人を救うことは悪いことではないが、いきすぎると、無限に国の責任が問われたり、目の前の人間を助けられなかった事で己を苛む。
これらのことが本当の意味で解決すると言うことは「元々なにも起きていなかったのだ」と言う基盤に立たなくてはならない。
その基盤に立ったとき、人々は真の意味で許し合い、助け合い、悼みあうことができる。
人間と言う枠組みではなく、無と言う共通基盤に立ったときに、それは可能となる。
この掲示板で修業をしている人達はまさに、人間と言う枠組みを捨てて、無の境地に立とうとしている。そしてそれはこの掲示板を越えて、まだ少ないが、沸き上がりつつある運動だと思う。
だから、頼むぞ、君達が目覚めた分、私の修業も進むし、世の中が明るくなるだろう
815
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/20(金) 18:13:34 ID:ydE4b1w.0
仏陀は菩提樹のもとに至る前、苦行をしていたと言われている期間は鬼和尚の言う「観察」
は行っていたんでしょうか?
また、菩提樹の下に来て、悟りを得るまでここを動かない、と言っておよそ一週間の間その菩提樹の下
にいた間(他所から聞いた話です、しかもうろ覚えなので間違ってたらすいません)は鬼和尚の言う「観察」を常に行っていたんでしょうか?
それとも悟りを得る直前しか「観察」を行わなかった、と思われますか?
816
:
541
:2017/10/20(金) 18:51:57 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。良寛さんは悟っていたんですかね。
イメージですが、人間関係のいざこざやもつれなどを、ニコニコ笑いおどけながら「無」に帰させ、解消させてしまうような力のあるイメージです。
法然とか日蓮や弘法大師のような生真面目で威厳がありすぎるタイプとは正反対ですが「現実」生活の中では良寛的な柔和さの方が威力を発揮するような気がします。
たとえ、悟りのレベルは低くても、問題解決能力は高い。
それとも、悟りのレベルが高まれば、おのずと、問題解決能力も高まるものでしょうか?
817
:
541
:2017/10/20(金) 18:57:40 ID:o7TfOr0I0
バッと相手の懐に入ってしまって、場や集団の雰囲気を変えてしまう。
そのような存在になりたい訳です。
と言うのも、ちょっと交渉ごとがあって、私は割と胆力はあるので、相手の理屈を粉砕しようかと思ったのですが
それだと、相手をやっつけたとしても、非常に恨みを残すことになる。
という訳で、柔軟路線に変更しようと思うのです。
818
:
541
:2017/10/20(金) 19:04:27 ID:o7TfOr0I0
不思議なものです。強硬路線で、集団のリーダー2、3人を粉砕する論理を探っていたのですが、
観念的に論破できてしまえると(勝てるとわかっていると)知った時点で、「だったら柔軟路線でも良いな」と戦略が大いに転換してしまった。
戦略が転換すると、存在の性質も変る。元々観念の相手を恐れ、観念の相手に備えている訳ですからね。思考と言うものは面白いものです。
思考によって生み出された「敵」が思考によって「味方」に転じることもある訳です。
しかし、もし、思考を書いていたら、敵から味方と言う弁証法的展開は無い。
この世は思考によって作られており、だからこそ、それを思考によって変えられるのかもしれません。
もっとも、このレベルの思考になると、思考と言うよりは瞑想に近いものになっていますが
819
:
541
:2017/10/20(金) 19:05:33 ID:o7TfOr0I0
↑ ×思考を書いていたら←○思考を欠いていたら
820
:
541
:2017/10/20(金) 20:55:43 ID:RnFr4kXY0
柔軟路線が行けるなと思ったとたん、柔軟ろせんというか、別に交渉する必要性すら感じなくなってしまったw
存在が無に転じた瞬間である。
821
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/20(金) 21:37:30 ID:1d4drIFg0
>>805
自分は滅しないのじゃ。
ないものは滅することもないのじゃ。
それを観察してみるのじゃ。
>>806
善かったのじゃ。
そのような時に自分を観察してみるのじゃ。
気付くこともあるじゃろう。
>>807
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>808
その考えも幻なのじゃ。
>>815
苦行をしている間はしていなかったのじゃ。
七日間瞑想している時に時々できていたじゃろう。
悟りを得る寸前に完全に観察したのじゃ。
>>816
悟っていたじゃろう。
次はおぬしの番なのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
822
:
541
:2017/10/20(金) 21:41:24 ID:RnFr4kXY0
ええ?以前聞いたら、悟って無いのじゃと言ってたぞ。鬼和尚、てきとー過ぎ(笑)!
823
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/20(金) 23:37:01 ID:DAY232aw0
>>821
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分を厭離して、認識を厭離するのが悟りなのでしょうか?
824
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 05:38:44 ID:6RllZ6Zk0
>>804
ご教授ありがとうございました。そのように観察してみます。
ところで、相手をやっつけると結局は自分がやっつけられることになると聞いています。
しかし、それを知っていても、相手をやっつけたくなります。
そして実際やっつけてみると、やはり気分がすっきりします。結果については夢想だにしません。
このような衝動は、本当に自分がやりたいからやっていることなのでしょうか?
825
:
香雪
:2017/10/21(土) 19:00:55 ID:V.gQOPRg0
鬼和尚様 こんばんは。
お久しぶりでございます。ご質問させていただきたいのですが。
無我とは自我が、自分を示す言葉とイメージがなくなっただけの状態で、
間違った認識による記憶との照合、そこから起こる自他を区別する分別、
記憶から起こる思考とイメージ、観念による身体の作用、感情的な反応、
などの自我を自分と思い続けている状態の時とそれほど変わらないのですか?
無我とは単に自己同一化が解消されただけの状態なのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
826
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 19:09:35 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、観察している時は、思考は使わないのでしょうか?
827
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/21(土) 20:16:29 ID:1d4drIFg0
>>822
おぬしに自分で判断させるためなのじゃ。
それも幻なのじゃ。
>>823
自分はないから厭離できないのじゃ。
認識は厭離されるじゃろう。
それが出来れば大悟徹底なのじゃ。
先ずは自我を厭離するのじゃ。
>>824
それも親などからの条件付けからくるものじゃ。
やられたらやりかえせとか教えられるとそのように感じるのじゃ。
それも自分がやりたいからではなく、そうすれば親から褒められると言う記憶からのものなのじゃ。
やらないと親から責められるという感情から解放されるのじゃ。
本心を観察してみるのじゃ。
>>825
記憶との照合は在るのじゃ。
その他はかなり変るのじゃ。
全てが自分に見えたりするのじゃ。
身体は自然に動くのじゃ。
感情もかなり変るのじゃ。
自分を侮辱されたからと怒ったりしないのじゃ。
もはや自分はないと気付いているからのう。
828
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/21(土) 20:18:12 ID:1d4drIFg0
>>826
本当は思考を使わないで行うべきなのじゃ。
しかし思考が起こってしまっても失敗とか思わないでよいのじゃ。
思考したときは思考したと観察すればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
829
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 21:22:29 ID:DAY232aw0
>>827
>>828
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、思考を使わずに観察すれば良いと言う事なのでしょうか?
もう一つ質問申し訳無いのですが、自我を滅して、認識を滅するのが悟りなのでしょうか?それとも自我を厭離して、認識を厭離するのが悟りなのでしょうか?
830
:
香雪
:2017/10/21(土) 21:29:51 ID:V.gQOPRg0
鬼和尚様 ありがとうございました!
やっぱり苦滅ともかなり大きな違いがあるんですね。
改めて無我を目指していこうと思います。
また何か聞きたくなったらお邪魔しますので、よろしくお願いします。
失礼します。
831
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 23:16:04 ID:ydE4b1w.0
815です、
そうですか、しかし七日間しか観察していなかったかもしれないのにあそこまで仏教
の教えというか理論体系を築き上げたのってすごいですよね、釈迦は悟った後に色々考えて
そういう細かい数々の概念を作っていったんでしょうか?
108の煩悩の区別とかも釈迦が考えたんでしょうかね、そうだとしたらよく七日間しか観察
してないかもしれないのに考え付いたな、と感心します。
832
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 04:22:02 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、なるようにしかならないのでしょうか?
833
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 04:51:06 ID:DAY232aw0
>>832
追記です。
お釈迦様の言葉で
思いわずらうな。
なるようにしかならんから、
今をせつに生きよ。
と書かれてあったのですが、本当なのでしょうか?
834
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 12:36:55 ID:czRftzgI0
阿部敏郎のブログから
多くの人が勘違いしていることの中に「修行」があります。
修業とは、いまよりもっと上等な自分になるためとか、悟るためとか、何かになるために行うことだと思っているのです。これは人のマインド(自我)が時間の中に存在しているから起きる発想です。
しかし実際には時間は存在せず、ただいつも「いま」だけが展開しています。その「いま」を生きる態度を「修行」と呼ぶのです。
マインド(自我)の引力は強力で、うっかりするとすぐに頭の中の物語に吸いこまれてしまいます。いつも頭の中を生きている人には、このことさえもピンときません。思考が湧いたときに、それを思考だと見抜き、思考が作りだす物語に埋没することなく、いまここを生きることを「修行」と言うのです。
したがって幾多の禅師が言うように、修行そのものが悟りなのです。
修行そのものが悟りというのは本当ですか?
835
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 16:22:27 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん
本心を見れば何が起こるのでしょうか?
836
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 16:28:46 ID:Y5LPInQE0
>>795
ご回答ありがとうございました
肉体が空ということのイメージがよく掴めないのですが
空とはどういうことなのでしょうか?
科学で言うところの原子核の周りを電子が回っていて
肉体としてあるように見えている物は、実はほとんどがスカスカの
空間だとかそういう話でしょうか?
837
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/22(日) 19:52:24 ID:1d4drIFg0
>>829
そうじゃ、思考を使わない観察が理想的なのじゃ。
自我も認識も厭離すれば滅するじゃろう。
もはや自己同一化がなくなるからのう。
実践によって確めるのじゃ。
>>830
どういたしまして、またおいでなさい。
>>831
そうじゃ、悟った後にさまざまな法や戒や律を作っていったのじゃ。
何も考えていなかった悟った直後の説法は失敗したりしているのじゃ。
煩悩は三毒だけなのじゃ。
増えたのは後の者が付け足していったからなのじゃ。
>>832
>>833
そのようなことはないのじゃ。
お釈迦様は常に修業に励むようにと説いたのじゃ。
ダンマパダにも励むようにと言葉が遺されているのじゃ。
>>834
嘘なのじゃ。
悟りが何か知らない者がそのように書くのじゃ。
修業と悟りが違うのは登山することと山の頂上とが違うようなものじゃ。
登山すれば頂上にも至れるが、登山そのものを頂上とは言わないのじゃ。
修業も日々続ければ悟りに至れるが、修業そのものは悟りではないのじゃ。
このような明白な違いがあるのじゃ。
838
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/22(日) 19:57:17 ID:1d4drIFg0
>>835
変容が起こるじゃろう。
真の変容は常に何らかの形で自己の本心を観ることで起こるものじゃ。
師匠とか他人の指摘で本心がわかることもあるがそれも自ら本心を観ているのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>836
ただ無いと言うことなのじゃ。
そのようにイメージすることなのじゃ。
原子とかは関係ないのじゃ。
肉体も食べることとか水を飲み空気を吸うという条件にょってあるものじゃ。
条件が無ければ直ぐに消えるものじゃ。
或いは時とともに衰えて消えたり、事故とか病でもなくなる性質のものじゃ。
そのように幻と同然と観想することで肉体への執着と自己同一化を無くす方法なのじゃ。
839
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 20:23:27 ID:czRftzgI0
>834
はっきり嘘と言い切るところが和尚さんらしい。やっぱり悟りは必要ということですね。
840
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 20:29:08 ID:czRftzgI0
>834
と思ったら、彼のいう悟りの説明がありました。
そもそも悟っている人など誰もいないのですから。逆の言い方をすれば、全ての人は最初から悟っています。
その人が内側から消えた時、そこに悟りがあります。
悟りとは、個人の精神レベルのことではないのです。個人という錯覚が消えた時、もともとあったありのままのリアリティーを悟りと言います。
引用元
http://abetoshiro.jp/archives/4497230.html
これは合っているでしょうか?
841
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 23:12:00 ID:uhL2Zu5U0
鬼和尚、
私は意識に思考が起こり、五感が起こると観察しました。
それらを連結させて私と言う自我が幽霊のように立ち上っている。
この意識に気づいたことが悟りであるとしばらく思っていましたが、鬼和尚の心の模式図を見ていて、この意識は阿頼耶識なのではないかと考えました。
そこで質問なのですが、
この意識上で、記憶との照合である認識作用が起きている様を観察すれば良いのでしょうか。
842
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/23(月) 14:00:07 ID:ZcjPAbko0
少し内容がわかりづらかったかもしれません。
阿頼耶識というスクリーンみたいな意識に私を生起させていると言いましょうか…。
そして生起させている原因は五感と思考による刺激である、と感じます。
この先に進むには、この阿頼耶識を「これが阿頼耶識である」とレッテル付けしている作用に気づくことかなと思いました。
いかがでしょうか。
843
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/23(月) 16:13:43 ID:ydE4b1w.0
>>837
ありがとうございました。
844
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/23(月) 20:29:46 ID:Y5LPInQE0
>>838
ご回答ありがとうございます。
どういった場合、本心を見る事は有益なのでしょうか?
例えば、修行なんてやらないでナンパでもしたいけれど、
修行やらなければならない気がしてナンパやっていても
何か罪悪感を感じ気が引けるというような場合、本心を見れば、
ナンパに打ち込めるようになったりするのでしょうか?
空の観想、やってみようと思います。
845
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/23(月) 22:19:28 ID:1d4drIFg0
>>839
そうじゃ、悟りなくしては老病死の苦を滅することも出来ないのじゃ。
観念遊戯に陥る事無く修行するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>840
悟っているものがいないのに全ての人が悟っているとは一体どういうことじゃ?
全ての人が悟っているならば悟っている人が誰もいないというのはおかしいのじゃ。
そのような完全に狂った論理を受け容れる側もおかしいのじゃ。
奇を衒ったことを言えばよいというものではないのじゃ。
個人が消えただけでは小悟なのじゃ。
そこまで至っていない者が観念によって考えた幻想なのじゃ。
>>841
>>842
それはまだ自我が完全に観えていないのじゃ。
自我が完全に観られれば無我になるのじゃ。
阿頼耶識が観られるのはそれからなのじゃ。
自我を完全に観察するのを目標にするのじゃ。
>>843
どういたしまして、またおいでなさい。
>>844
おぬしがこれから生きる上で全てにおいて有益なのじゃ。
行き先がわからない者がどこにも行けないように、自分の本心がわからなければどこにもいけないのじゃ。
ナンパがしたいというのが本心ならばナンパをすればよいのじゃ。
罪悪感があるならば本当はナンパなどしたくないということなのじゃ。
そのように本心がわかれば自分の本当にしたいことがわかるのじゃ。
それがなくてはどこにもいけないのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
846
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/24(火) 04:10:49 ID:ZcjPAbko0
鬼和尚、
「肉体も思考も私ではなく、私はこの意識である」などと悟ったつもりでいる者、「この意識が本質であり私個人はいない」と記憶を基に認識している者こそが自我であると観察したのですが、自我はもっと気づきにくいものなのでしょうか。
それとも灯台もと暗しのように近すぎて気づいていないのでしょうか。
847
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/24(火) 06:14:05 ID:6RllZ6Zk0
>>827
ご教授ありがとうございました。本心が観察できるように努力します。
別の質問なのですが、私は他人がくちゃくちゃ音を立てて食べていると苦を感じます。
その原因は親からそのような行為を強く戒められたからだ、と知っています。
しかし苦はなくなりません。
なぜなのでしょうか?
親からそのような指導がなければ苦が生じない、
ということを観察できていないからでしょうか?
848
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/24(火) 18:24:29 ID:czRftzgI0
>840
もうこの人のブログは読まないようにします
849
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/24(火) 23:12:36 ID:1d4drIFg0
>>846
そのように言葉に出来るようなもならば未だ気付いていないのじゃ。
いま自分の名前を呼ばれればおぬしはそれは自分だと認識するじゃろう。
そのよう名前と姿かたちのイメージを持つものが自我なのじゃ。
それを観察してみるのじゃ。
>>847
完全に観察していないからなのじゃ。
それは両親に対しての怒りを投射しているのかもしれん。
自分は怒られたのになぜ今の他人は怒られないのかと思うからかもしれん。
そのような真の原因をもっと詳しく観察してみるのじゃ。
>>848
そうじゃ、読まなくて善いのじゃ。
真の目覚めた者は常に自分の心を観るようにと勧めているのじゃ。
ただ知識を押し付けているのは目覚めていない者なのじゃ。
おぬしも心を観ればそこに真の悟りを見出すじゃろう。
850
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 00:14:09 ID:v0wSFOKY0
>>849
鬼和尚、何度もありがとうございます。
今この瞬間をあるがままに観てみます。
あえて言葉にすると、映像と背中の圧迫感と手の感覚だけがあります。
そこをイメージで補完し、「横になってスマホを見ている私」になります。
鬼和尚のおっしゃる自我とはこのイメージとは違うのでしょうか?
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