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鬼和尚に聞いてみるスレ part9

651そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/09/26(火) 03:13:21 ID:HSM21ZvE0
鬼和尚
ブログにも書いてありますが苦の観察はとても難しいです。
まずそれが苦なのかそれとも苦ではないのか、単なる思考とか雑念なのか、
それがわかることが難しい。
本当にメクラです。
また、それが苦であるとわかっても、
それがどの様な苦なのかそれがわかることもとても難しいです。
それがわからないとどこに原因を探していいのかもわかりません。

652避難民のマジレスさん:2017/09/26(火) 15:14:38 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、手を観察した場合、それが自己ではないという気づきが起こり厭離が起こる。

言ってみれば手からの厭離は簡単に起こるんですけど、
「目の裏のあたりに私がいる」という感覚がなかなか落ちません、目の裏あたりに私という感覚を
強く感じていて、そこから外界を見ているのが「私」であるという感覚が根強くあるんですが、もしかしてそれは観照が起こらないと落ちないんでしょうか?

653避難民のマジレスさん:2017/09/26(火) 19:57:57 ID:uCTaZ5cc0
>>647
鬼和尚さん、ありがとうございます。
不安の原因をじっくり探してみようと思います。
自分の子供時代は自分にとっては当たり前のものだったので、それらが不安の原因になっていると、ちゃんと考えてみたことは今まであまりなかった気がします。
気づかずに抱えていた不安も整理できそうです。
ありがとうございます。

また別に質問なのですが、心の中にある自分のイメージというのは、なくすことはできるのですか?

654避難民のマジレスさん:2017/09/26(火) 21:20:26 ID:czRftzgI0
和尚さんがただ観察しろというのは、原因を考えながら見るより観察しているうちに原因に気付く方がいいからですよね?
どちらにせよ苦も自我も原因に気づかないことには乖離しないのに違いがないですよね

655鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/26(火) 22:08:49 ID:1d4drIFg0
>>648 それは原因ではないのじゃ。
 真の原因は本心の中にあるじゃろう。
 本心を受け入れるのじゃ。

>>649 できないのじゃ。
 人間だけがそれをできるのじゃ。
 この幸運を活かすのじゃ。
 
>>650 それが完全に観察されて厭離されなければ苦はあるじゃろう。
 本心は観察の基礎となるものじゃ。
 本心を観なければ意味は無いが、本心を受け入れただけでも苦はあるのじゃ。

>>651 苦であるか苦ではないか見分ける必要は無いのじゃ。
 ただ本心をありのままに観察すればよいのじゃ。
 心の働きが観察できれば厭離は起こるのじゃ。
 観察は分別とは違うものじゃ。
 ただありのままに認め、観察し続けるがよいのじゃ。

656鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/26(火) 22:17:45 ID:1d4drIFg0
>>652 それが自我の感覚をもたらしているならばそれを観察できた時に観照は起こるじゃろう。
 そしてなくなるじゃろう。
 その感覚に自分の名前やイメージが投射されているのか観察して観るのじゃ。
 目の奥が自分であり、自分の名前であるのか観察してみるのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

>>653 無くすことができるのじゃ。
 どんなイメージも無くすことができるのじゃ。
 消えるのではなく自己同一化がなくなるのであるがのう。

>>654 そうじゃ、自然に気付くほうがよいのじゃ。
 推測や思考からわかっても観察にはならないからのう。
 改めて観察するより、自然に気付くほうが一瞬で厭離は起こるのじゃ。
 違いないのじゃ。

657541:2017/09/26(火) 23:12:11 ID:o7TfOr0I0
本心とはしょうもないものだと思う原因が本心にあると?
なるほど、本心のパワーを開放して大成功をおさめたいと言う本心があるわけですが、
本心では自分の事をしょうもないと思っているのかもしれませんね。だから、本心の力で一発逆転とか思うわけですからね。

658避難民のマジレスさん:2017/09/27(水) 06:56:54 ID:czRftzgI0
>654
あ!そうかという腑に落ちる経験が大事なんですね。ありがとうがございました

659避難民のマジレスさん:2017/09/27(水) 11:57:40 ID:ydE4b1w.0
652です。
そうですか、目の奥から見ている自己感覚を観察すると一時的に
「ああ、目の裏あたりに自分という感覚があるが、その感覚に今気付いているということは目の奥の自己感覚は自分自身ではないのだ」
という感じになり、一時的にその目の裏あたりの自己感覚との非同一化というか乖離が起こるんですが、
気を緩めて何かしようとパッと動いて観察をやめるとまたその目の奥の自己感覚が自分だと思ってしまい、一体になってしまいます。

これはその自己感覚を維持させる何かがあり、それがまだ観察されていないという質的な問題でしょうか?
それとも目の裏の自己感覚は根強い習慣的なものであり、それゆえに何回も観察をしないと厭離し切れないという量的な問題でしょうか?

660541:2017/09/27(水) 17:57:50 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚の普段の精神状態ってどんな感じなんですか?
①いつもウキウキ、ハッピー
②退屈だなあ
③しーん・・
④それ以外だとすると、どんな感じでしょうか?

661そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/09/27(水) 18:45:47 ID:cZ2RhCWA0
鬼和尚
今ここ、であればそれは本心ですか?

662避難民のマジレスさん:2017/09/27(水) 20:37:21 ID:dpLRfrSw0
>>656
鬼和尚さん、ありがとうございます。
自分とか自分の不安が見えてきた気がします。
今まで当たり前過ぎて見えていなかったのですが、見通しがよくなったというか、見えてきました。
自分のイメージも見えたら不安がなくなることも、何となくわかる気がしてきました。
観察を続けてみます。
また質問させてください。
ありがとうございました。

663鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/27(水) 21:42:58 ID:1d4drIFg0
>>657 そうじゃろう。
 更に本心を受け入れるがよいのじゃ。

>>658 どういたしまして、またおいでなさい。

>>659 ただひたすらに観察を続けるのじゃ。
 そのうちに原因もわかり、習慣も途切れるのじゃ。
 日々続けることが大事なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>660 三ぐらいじゃな。

>>661 そうじゃ、瞬時もなく認識されたならばそれが本心なのじゃ。
 少しでも経てば思考や感情による解釈が起こってしまうのじゃ。
 今ここにある心をありのままに見続けるのじゃ。

>>662 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

664541:2017/09/27(水) 22:16:52 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、しーん・・ですか?
その境地を目指すために頑張る意味があるのでしょうか?

665541:2017/09/28(木) 00:25:58 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚は退屈を感じませんか?
その世界には楽しみとかは在るのでしょいか?

666避難民のマジレスさん:2017/09/28(木) 05:51:37 ID:fpGbb5P20
>>582
活動量計による瞑想時の心拍数ですが、
安静に座っている時、60回/分
横になっての睡眠時、50回/分
のところ、瞑想時、70回/分
と現在ざっくりとこんな感じです。
姿勢の維持に余計な筋力を使っているのかもしれません。
さらに続けてみます。ありがとうございました。

667鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/28(木) 19:58:08 ID:1d4drIFg0
>>664>>665 頑張らないでよいのじゃ。
 何もしなければ自然に没入するのじゃ。
 退屈するものも無いのじゃ。
 全てが楽しいのじゃ。

>>666 そうじゃ、続けるとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

668避難民のマジレスさん:2017/09/28(木) 20:25:26 ID:IOMLtO8.0
鬼和尚さん質問ですが、
注意深く観察すれば良いのでしょうか?

669避難民のマジレスさん:2017/09/29(金) 13:00:25 ID:ydE4b1w.0
>>659

そうですか、ちなみに鬼和尚には目の裏あたりに自分がいて、そこから外界を見てる
という感覚もないんですよね?

670避難民のマジレスさん:2017/09/29(金) 13:01:50 ID:ydE4b1w.0
間違えました。

>>663です。

671避難民のマジレスさん:2017/09/29(金) 21:13:35 ID:czRftzgI0
体が勝手に動いているとは、例えば本を読む時、意識は本を読むと考えるだけで、手を動かして本を取ってもう一方の手でページを捲ってなどといちいち動作を考えていないで行動していることですか?
そして、身体の乖離は、思考は目的を考えるだけで体は無意識に動いていることに気づくことですか?

672鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/29(金) 22:39:27 ID:1d4drIFg0
>>668 そうじゃ、注意深く観察するのじゃ。
 何も見落とさないように、些細な事こそ大事に観察するのじゃ。
 そうすれば気付くことも多くなるものじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>669 そのような感覚は無いのじゃ。
 おぬしは見るものが自分であると言う観念が強いのかもしれん。
 それをよく観察してみるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>671 そのようなものじゃ。
 気付くことができれば厭離は自然にできるのじゃ。
 それが自分ではないと気付くのであるからのう。
 実践あるのみなのじゃ。

673避難民のマジレスさん:2017/09/30(土) 05:56:02 ID:czRftzgI0
>>671
おおそうですか。何かもっと難しいことをしなければならないのかと勘違いしておりました
ありがとうございました

674避難民のマジレスさん:2017/09/30(土) 12:46:53 ID:DAY232aw0
>>672ご回答ありがとうございます。
質問ですが、大いに楽しく生きたら良いのでしょうか?

675避難民のマジレスさん:2017/09/30(土) 13:21:00 ID:ydE4b1w.0
>>672

ありがとうございます。
それから一応確認なんですが「観察する」っていうのは
「思考を挟まずに対象をただ見る」
ってだけでいいんでしょうか?対象をただ見れれば
それが自己ではないという気づきとそれによる厭離は後からおのずとついてくるからという理由で。

また、ただ見ててもすぐ気づきが起こらない場合でも、ずっと見てればいつかは対象が自己ではないという
気づきが起こるはずであるから、すぐ気づきが起こらなくても焦らずにもっと対象をただ見続けていれば
いつかは気づきが起き厭離される、そしてそれが「観察」であるという理解でいいでしょうか、、

676鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/30(土) 22:28:54 ID:1d4drIFg0
>>673 どういたしまして、またおいでなさい。

>>674 それは自由なのじゃ。
 おぬしが大いに楽しく生きていたいと思えばそうしたらよいのじゃ。
 鬼のように修行して悟りを得た後も鬼のように学びたいと思えばそうしたらよいのじゃ。
 おぬし次第なのじゃ。

>>675 そのような理解でよいのじゃ。
 ただ観察するだけと言うのも難しいのであるがのう。
 ただひたすら実践あるのみなのじゃ。

677避難民のマジレスさん:2017/10/01(日) 06:49:40 ID:YWyUsy120
いつも教えていただきありがとうございます。
試験勉強のため、コーヒーを使って眠らずに無理していたら躁鬱病を発症した人がいます。
今は、睡眠薬を含む向精神薬で、副作用は多々あるものの症状そのものは抑えられています。
しかし、睡眠薬がないと眠れない体になっています。
私は向精神薬は、このように依存性があり、毒でもあるため、将来認知症などを招くと危惧しています。
また、睡眠薬による眠りはニセの眠りであるとも考えています。
以下のことを教えてください。
1.向精神薬は減薬していくべきでしょうか?
2.人にはなぜ眠りが必要なのでしょうか?

678避難民のマジレスさん:2017/10/01(日) 14:03:22 ID:DAY232aw0
>>676ご回答ありがとうございます。
質問ですが、注意深くなれば良いのでしょうか?
何度も同じ様な質問申し訳ないです。

679541:2017/10/01(日) 19:42:45 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。実はいつも通っている牛丼屋のバイトの男が昔の会社の上司の息子で、しかも中学の同級生だったのですが、こう言う不思議な偶然はなぜ起きるのでしょうか?
しかも、私は長年その男と会いたいと思っていたのですが、不幸な別れ方をしたので長年連絡を取れなかったのに、そうとは知らずその親と長年交流していたのです!!
どうみても、自分の心の状態が現象世界と関連している。まあ、現象世界と言うのは元々心の世界と言う意味ですが、そうは言ってもこのような偶然が重なると驚きます。
実は一週間くらい前も、五年間会わなかった人と二日連続で離れた場所で出会ったりしているのです。そのようなことがあるのは、何か精神に根元的な変化があるときに限られます。
鬼和尚も、瞑想を深めると、それに連動して不思議なことが起きたりしませんでしたか?

680541:2017/10/01(日) 19:50:33 ID:o7TfOr0I0
これは瞑想になっているか分かりませんが、最近私は、現象としての自分の背後にあるものを感じようとしています。
その過程において、現象世界への自我の執着が緩んできて、自我がストップをかけてきた出来事がどんどん現象化するのかなと思っています。
要するに、私は、その友人が嫌いではなかったが、嫌な思い出があったので、会いたくないと思っており、本心は会いたいと思っているが、自我がストップをかけていたのかと思います。
しかし、現象の背後にあるものに意識を移していくと、自我が弱まり、抑圧が消えて、無意識が解放され、友人と再会したりするのかなと思います。

681鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/01(日) 21:45:16 ID:1d4drIFg0
>>677 1 そうじゃ、減らしたほうがよいのじゃ。
      肝臓もおかしくなるからのう。

    2 休めることで肉体も成長したり、修復したりできるのじゃ。
      細胞の修復は微小の働きであるから身動きを最小にする時間が必要なのじゃ。

>>678 そうじゃ、注意深く観察するのじゃ。
     今そのように何度も聞いているようにのう。
     わからないことがあればわかるまで何度も聞くように、自分の心もわかるまで何度も注意深く観察するのじゃ。

>>679>>680 そのようなことは留意していなかったからわからんのじゃ。
 外の世界は何も感知しないようにしていたからのう。
 自分の本心だけを観るがよいのじゃ。

682避難民のマジレスさん:2017/10/01(日) 22:37:39 ID:DAY232aw0
>>681ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我は自分なのでしょうか?

683避難民のマジレスさん:2017/10/02(月) 00:22:56 ID:ydE4b1w.0
>>676

わかりました、ありがとうございます。

あと、間違ってたらすいませんが、以前、鬼和尚は「観察」という修行法を知ったのは悟った後だ、というようなことを
おっしゃっていたと思うのですが(記憶違いでしたらすいません)、悟った後にはもちろん観察されるべき自我はもういない状態ですよね、
つまり観察する対象がもうすでにないなら、鬼和尚は実際に何かを観察して厭離したという経験はないんですか?

また、それにもかかわらずなぜここまで「観察」について実践的な指導やアドバイスをできるくらい観察に対する理解が深いんですか?

何度も質問して申し訳ないです。

684541:2017/10/02(月) 02:19:33 ID:o7TfOr0I0
!鬼和尚。

「外の世界」などあるのですか?
人間は自分の心の純粋な外側の世界を見ることは出来ないと思いますが。

685541:2017/10/02(月) 02:28:21 ID:o7TfOr0I0
言語を使ってコミュニケーションしているので、お互いに話の焦点があっていない気がしますね。
単語に対する理解が人それぞれ違うので、同じことを話していても話が見えなくなってしまう。

686避難民のマジレスさん:2017/10/02(月) 02:47:21 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さんは、確か、お経を読んでいたとき、観照が起こったと書かれていたと思うのですが
どうしてそうなったと思いますか?

また、他の人にそれを勧めないのは、どうしてですか?

687避難民のマジレスさん:2017/10/02(月) 07:00:28 ID:DAY232aw0
連投すいません。質問ですが、厭離が起きるまで観察し続ければ良いのでしょうか?

688避難民のマジレスさん:2017/10/02(月) 12:06:16 ID:DAY232aw0
>>687厭離できるまででお願いします。すいません。

689鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/02(月) 22:15:42 ID:1d4drIFg0
>>682 違うのじゃ。
 自分があるという観念も誤謬なのじゃ。
 自分はなく、自我も無い自分に投射された名前とイメージなのじゃ。

>>683 観照は自我を観察して起こるものなのじゃ。
 わしも観察によって自我を厭離したのじゃ。
 それが観察による厭離であると言葉によって表すことができたのは悟った後なのじゃ。

 全ての悟りは何らかの形で自我が観察され、厭離されて起こるものじゃ。
 そうであるから指導するには実践と智慧によって観察を知るべきであり、そうしたのじゃ。
 
>>684 おぬしのために仮にそう語るのじゃ。
 
>>685 わからなくてよいのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

690鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/02(月) 22:21:02 ID:1d4drIFg0
>>686 それは何度も多くの経を読み、追求していたからじゃろう。
 他人はそんなに多くの経を何度も読めないじゃろう。
 面白いものではないからのう。
 
>>687 そうじゃ、何度も観察すればそれは自然に起こるじゃろう。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

691避難民のマジレスさん:2017/10/02(月) 23:05:34 ID:DAY232aw0
>>682ご回答ありがとうございます。
自分はなく、自我も無い自分とは何なのでしょうか?

692避難民のマジレスさん:2017/10/03(火) 01:57:39 ID:Y5LPInQE0
>>690
ご回答ありがとうございます。
お経を読むことで何を追求されていたのでしょうか?

693避難民のマジレスさん:2017/10/03(火) 05:48:22 ID:YWyUsy120
>>681
ご教授ありがとうございました。
私は精神科医を信用できません。薬漬けにするだけだからです。
一生なおらない、といいますが、一生なおさせない療法と思います。
しかし、自己診断で減薬するのも危険に思います。
どうしたらよいのでしょうか?

694避難民のマジレスさん:2017/10/03(火) 19:28:19 ID:ydE4b1w.0
683です。
ありがとうございます。私が誤解していたようです。申し訳ございません。

悟るときは何らかの形で観察が行われる、とおっしゃっていますが、常に能動的な観察の際中
でなくても悟りが起こることはありますか?

例えば四六時中観察をしている人が、さて今日は疲れたから寝よう思って、寝室に向かう途中のふとした瞬間に自分という感覚が消えて
いわゆる観照が起こる、ということはあるんでしょうか?

695鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/03(火) 20:52:08 ID:1d4drIFg0
>>691 謬見なのじゃ。
 誤ってあるものと認識されたものなのじゃ。
 本来無いものをあると認識してしまっている妄想とも言えるのじゃ。

>>692 不死の境地なのじゃ。
 わしもお釈迦様と同じく昔は死を恐れていたものじゃ。
 不死の境地への道がないかと追求していたのじゃ。
 そしてそれを見つけることが出来たのじゃ。
 おぬしも精進あるのみなのじゃ。

>>693 西式健康法などを学び実践して腸の大掃除をすると善いのじゃ。
 脳の不調は腸の故障によるものなのじゃ。
 腸によって各種のホルモンや免疫物質などが作られるから腸が弱ると脳もおかしくなるのじゃ。
 それを腸脳相関と呼ぶのじゃ。
 腸を大掃除して不調を直せば脳も大抵よくなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>694 そのようなこともあるじゃろう。
 マハリシは寝ていたときに起きたのじゃ。
 常に自分を追求していればどこでも頓悟が起こる可能性はあるものじゃ。
 精進在るのみなのじゃ。

696避難民のマジレスさん:2017/10/04(水) 15:17:08 ID:DAY232aw0
>>695ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分を追求した方が良いのでしょうか?
それとも、自分とは何か追求した方が良いのでしょうか?

697鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/04(水) 20:50:31 ID:1d4drIFg0
>>696 それはおぬし自身が興味を持てるほうでよいのじゃ。
 自分に興味があるならば自分を追及するとよいのじゃ。
 自分とは何かに興味があるならばそれを追求するとよいのじゃ。
 おぬし次第なのじゃ。

698避難民のマジレスさん:2017/10/04(水) 21:34:31 ID:DAY232aw0
>>697
ありがとうございます。
質問ですが、自我に気付くとはどう言う事なのでしょうか?

699避難民のマジレスさん:2017/10/04(水) 23:16:11 ID:DAY232aw0
>>698スルーしてください。すいません。
質問ですが自分を追求したり、自分とは何か追求したりするのは、自我に気付く為でしょうか?それとも自分に気付く為でしょうか?

700避難民のマジレスさん:2017/10/05(木) 00:30:39 ID:ydE4b1w.0
>>695

なるほど、必ずしも能動的に観察の作業を行っている時じゃなくても観照が起こる可能性は
ある、ということでしょうか?

それから、認識を観察することについてはっきりさせたいというか、確認させていただきたいんですが、
認識(阿頼耶識)を観察するっていうのは、
「認識(阿頼耶識)が目の前の対象物に膨大な記憶の中からその対象物に適したラベルやイメージを投影し、
そのラベルやイメージを対象物に当てはめて認識している過程」
を捉えてただ見ることが認識を観察するということなんですか?

わかりやすく言うと、目の前の名もないありのままの「それ」に対し過去の記憶から勝手に「観念A」を投影して
「名もないそれ」を「観念A」であると認識する[過程]を捉えてその過程をただ見るということが「認識を観察する」ということなのか、ということです。

そして、その過程を捉えてただ見ることができれば、それは過去の記憶を見ているだけでありありのままを見ていなかったんだ、
と気づけばそれによって厭離が起こる そんな感じでしょうか?

少しでも違っていたら指摘していただけると助かります。

701避難民のマジレスさん:2017/10/05(木) 18:41:43 ID:czRftzgI0
「何かものを見ればそれがりんごだとか石だとか分類し別けるのが分別なのじゃ。そしてそれがりんごであると認め、知るという働きが認識なのじゃ。」について質問します。

Q1.分類と認めるの違いがわかりません。記憶と照合してりんごと分類している時点で認め、知ることになっていませんか?それとも赤くて丸い物と記憶抜きで分類し、その後記憶を元にりんごと認めるという意味ですか?

Q2.2行目はりんごが既知であればりんごと認め、未知であれば知るのが認識という意味ですか?

702鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/05(木) 20:47:39 ID:1d4drIFg0
>>698 それが何であるかに気付くのじゃ。
 それが物としてあるものなのか。
 あるいは物としてはないものなのか。
 寝ていてもあるものなのか。
 寝ているときは無いものなのか。
 などに気付くことなのじゃ。

>>699 どちらでもないのじゃ。
 自我が何であるかに気付くためなのじゃ。
 自分とは何であるかに気付くためなのじゃ。

>>700 そうじゃ。

 そうじゃ。

 そうではないのじゃ。
 ただそれが記憶に依存した認識であると気付くのじゃ。

>>701 1 それは分類される前にはりんごとしては認められず、知られていないのじゃ。
 りんごを認めるとは第三者の視点であるからそのようにいうのじゃ。
 分類され、記憶と照合される前にはあかくてまるい物体なのじゃ。

 2 分類されて記憶と照合されてりんごとして認め知るといことなのじゃ。

703避難民のマジレスさん:2017/10/05(木) 21:39:36 ID:czRftzgI0
>701
分別認識は速すぎて観察しづらいですが、頑張って観察しようと思います
ありがとうございました

704避難民のマジレスさん:2017/10/05(木) 22:02:47 ID:DAY232aw0
>>702両方共答えて抱きありがとうございます。
質問ですが、自我が何であるかに気付いたら観照が起こるのでしょうか?
それとも自分とは何であるかに気付いたら観照起こるのでしょうか?
それとも両方に気付かなければ観照は起こらないのでしょうか?
気付く時は両方同時に気付くものなのでしょうか?
質問が沢山になってしまい申し訳ありません。

705避難民のマジレスさん:2017/10/05(木) 22:02:48 ID:ydE4b1w.0
>>702

700です。鬼和尚の私に対する返答の三行目の
「そうではないのじゃ。
ただそれが記憶に依存した認識であると気付くのじゃ。」

というのは
700レス目の中の私の最後の質問↓
「そして、その過程を捉えてただ見ることができれば、それは過去の記憶を見ているだけであり、ありのままを見ていなかったんだ、
と気づけばそれによって厭離が起こる そんな感じでしょうか?」

という質問に対する答えとして「そうではないのじゃ。」ということでしょうか?

そうであれば、認識の厭離が起こるためには私の上記の文にあるように
「その過程を捉えてただ見ることができれば、それは過去の記憶を見ているだけであり、ありのままを見ていなかったんだ、
と気づけばそれによって厭離が起こる」
というのではなく、もっとシンプルにもっと単純に、認識が観念を投影する働きを見て、ただそれが記憶に依存した認識であると単純に気付くだけで厭離が起こる、
ということですか?

706避難民のマジレスさん:2017/10/06(金) 00:17:08 ID:5b5rHLEE0
鬼和尚まだみんなの難しそうな質問に答えてたんですね
めんどくさくなったりしないんですか?

707旅の客人:2017/10/06(金) 09:59:10 ID:kcjko4As0
鬼和尚 様、質問させていただきます。
寝ている自分に気付いたときは、気付いているままで良いの
でしょうか?(恐怖を感じて無理やり起きてしまうのですが)。

708鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/06(金) 21:49:53 ID:1d4drIFg0
>>703 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>704 どちらでも起こるのじゃ。
 自我とは自分という観念であるからのう。
 自我と自分の二つがあるのではないのじゃ。
 ただ言葉のみの違いなのじゃ。

>>705 そうじゃ。
 それを観るのは無我になった後であるがのう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>706 わしは何も思わないのじゃ。
 ノー思惑なのじゃ。

>>707 そうじゃ、それでよいのじゃ。
 ついでにいろいろ観察すると善いのじゃ。
 それが自分ではないと気付くじゃろう。

709避難民のマジレスさん:2017/10/07(土) 01:27:31 ID:ydE4b1w.0
>>708

705です、すいません、「そうじゃ」というのが何に対する返答なのかがはっきり
汲み取れなかったんですが、要するに結論から言うと
無我に至った後に認識(阿頼耶識)の働く過程をとらえることができれば、そこから更なる過程を経ることなく
認識の働く様に気付いたのと同じ瞬間に認識(阿頼耶識)が厭離され無認識へ至る、という理解でいいですか?

710旅の客人:2017/10/07(土) 03:36:29 ID:XGGScHBs0
有難う御座います。
勇気を出して観察してみます。

711鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/07(土) 22:17:10 ID:1d4drIFg0
>>709 それでよいのじゃ。
 しかし言葉通りになるのではないのじゃ。
 それは最初何が起きたのかすらわからんじゃろう。
 知る必要も無いのじゃ。
 言葉も観念もないからのう。

 ただ悟りを伝えるためだけに言葉としてそのような気付きがあったと言えるだけなのじゃ。
 
>>710 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

712避難民のマジレスさん:2017/10/08(日) 20:06:20 ID:DAY232aw0
>>708ご回答ありがとうございます。
質問ですが、プッタタートと言う人は悟っていますか?

713避難民のマジレスさん:2017/10/08(日) 20:35:04 ID:DAY232aw0
連投すいません。
プッダヴァチャナはお釈迦様の本当の教えなのでしょうか?

714避難民のマジレスさん:2017/10/08(日) 20:51:52 ID:ydE4b1w.0
>>711

ありがとうございました。

715鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/08(日) 21:10:05 ID:1d4drIFg0
>>712 悟っていないのじゃ。
 何も知らないのじゃ。

>>713 違うのじゃ。
 全体から切り取られて編集された言葉はもはやお釈迦様の教えとは言われないのじゃ。
 人を殺してはいかんとかいうのを、人を殺すということをお釈迦様は教えたというように変えることもできるからのう。
 止観が理解できない者たちが編集した故に、自説を補強するだけのものになっているのじゃ。

>>714 どういたしまして、またおいでなさい。

716避難民のマジレスさん:2017/10/08(日) 22:31:41 ID:DAY232aw0
>>715大変勉強になります。ありがとうございます。
質問ですが、観察し続ける事が難しいのですが、何か良い方法は無いのでしょうか?

717541:2017/10/09(月) 06:24:10 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、時間や空間は心の中にありますか?心の外にありますか?

718避難民のマジレスさん:2017/10/09(月) 17:09:58 ID:czRftzgI0
夢を分析したところ、その中の自分には思考、感情、分別もちろん自我もと覚醒時にあるものの全てがあると気付きました。
この結果をどう活かせばいいですか?

719541:2017/10/09(月) 18:08:26 ID:irpWTyyc0
鬼和尚、私の前世は何でしょうか?
ちなみに、輪廻転生は現代人が来世に江戸時代に転生することはなく、歴史学的な時間秩序に基づいているのでしょうか?

720鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/09(月) 21:14:34 ID:1d4drIFg0
>>716 そのような時は集中し続けるのじゃ。
 集中することで我を忘れて、観察し続けられるのじゃ。
 自我の好悪とかがないからのう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>717 時間も空間も心の外も中も無いのじゃ。
 ただ実践あるのみなのじゃ。

>>718 観察に活かせばよいのじゃ。
 夢の中でもなくならないそれらがどのように生起するのか観察してみるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>719 今の環境を反映したものじゃろう。
 環境が最悪ならば最悪なことをした者じゃろう。
 最高ならば最高なことをした者じゃろう。
 それらも観念分別在るのみなのじゃ。
 わしは江戸時代に生きていると思っていた者など一人もいないからのう。

721541:2017/10/09(月) 22:49:05 ID:o7TfOr0I0
答えが意味わからんです(笑)

722避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 01:22:18 ID:5b5rHLEE0
鬼和尚くらい修行が進むと、目の前で知り合いや家族が死んでも悲しんだりショック受けたりはしなくなるのですか?

723避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 05:50:59 ID:czRftzgI0
>718
「夢の中でもなくならないそれらがどのように生起するのか観察してみるのじゃ。」は「夢の中でもなくならないそれらが覚醒時にどのように生起するのか観察してみるのじゃ。」の意味ですか?

724避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 10:56:14 ID:GijSlBiA0
和尚さま。
気になるコメントを見かけたので便乗させてください。

ブッタタートが悟っていないとのことですが、
どのように判断されたのでしょうか。

今後、いろんな方の法話を読むときの参考にしたいので
教えて頂けないでしょうか。

725蓮恵:2017/10/10(火) 20:36:58 ID:/840N4pM0
鬼和尚さま
思考を黙らせるのに必要なのは、思考によって思考を止めることではなく、無分別に近づくことのみだと愚考しました。

当然未だ無分別に到っておりませんが、分別から離れつつある見地とは、例えるなら足場が不安定でグラグラとなるような、もしくはめまいのようなクラクラする感覚に近いのではないでしょうか(頓珍漢な表現で申し訳ありませんが)

逆に言えば、日頃我々の分別による見地は固定化されすぎて、安定しすぎているようです。

今の私では、先の不安定な感覚であるグラグラ、クラクラを追求していくしか無さそうです。

726避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 21:00:03 ID:czRftzgI0
「人の運命、人類社会の発展、そのすべては神佛によって制御されている。1人の人間が生まれてから死ぬまで、その一生の運命はすべて定められており、例え髪1本が抜け落ちることも、すべて塩梅されたこと。」というのは本当ですか?
また、自殺というこの世の修行を放棄する行為もまた神佛によって制御されているのかそれとも人間の自由意志によるものですか?

727避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 21:51:41 ID:x/6oSfDM0
プラユキ・ナランボー、ネルケ無方、藤田一照
この三人は修行者としてはどのくらいのレベルの人達なのでしょうか?

728鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/10(火) 22:11:16 ID:1d4drIFg0
>>721 わからないでよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>722 そうじゃ、それは滅びる性質のものであるからのう。
 それによって何かがなくなったり、生じたりすることもないとわかっているのじゃ。
 全てが足されることも引かれることも無い一つなのじゃ。

>>723 それが夢の中で起こるのならば夢の中で観察するしかないのじゃ。
 今ここでしか観察は出来ないからのう。
 観察が無意識にもできるようになれば夢の中でも観察できるのじゃ。
 自分は夢を見ていると観察する事もできるのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

>>724 何も知らないのじゃ。
 法を知識と思っているのじゃ。
 南方仏教のものならば観察を主としている筈なのに四諦も厭離も知識として捉え、行うものと思っているのじゃ。
 悟っているならばそれほど無知なはずは無いのじゃ。
 クリシュナムルティも知っていたというからのう。

729鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/10(火) 22:31:46 ID:1d4drIFg0
>>725 集中していればいずれ思考は止まるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>726 嘘なのじゃ。
 自分の意志で行うことが全てなのじゃ。
 自分の意志で死ぬから自殺なのじゃ。
 全て決められていたならば自殺ではないのじゃ。
 神が他殺の真犯人なのじゃ。
 
>>727 おぬしと同じぐらいじゃな。
 精進して遥かに遠くへ行くがよいのじゃ。

730避難民のマジレスさん:2017/10/10(火) 22:43:09 ID:czRftzgI0
>723>726
なるほど、夢でも観察できるよう精進したいと思います
自殺は意志、考えてみれば当然のことです。これに関しては改めて明日質問します。
今回も丁寧な指導ありがとうございました

731避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 03:05:20 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚がお経を読んでいる際に観照が起きたっていうのは、その時が初めての
観察体験だったんですよね、

しかもそこからの流れで一気に無認識まで至ったということは
ほとんどの人が通るであろう、
①見性体験が起こる→②自我が戻ってくる→③悟りの探求をさらに進める→④ある程度のところに落ち着く(無我の段階でしょうか)
→(⑤無認識へ至る(至る人は少ないであろう段階))という順序の②と③と④を一気にすっとばしていきなり⑤まで行ったみたいな感じですよね(正確には鬼和尚の場合の①は見性体験が起きたというか観察の結果として無我に至ったんでしたか)、

ほとんどの人は何年もかけてある程度のところに至るというのを聞くと鬼和尚って豪運すぎますよね、
たとえて言うなら初めての宝くじで一千万当たってその軍資金を株にあてすぐ成功して億万長者になり、それにより一生不労所得での生活に
すみやかに安住した、みたいな(下世話なたとえですいませんが)

732避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 05:45:59 ID:04sFW9n.0
いつも教えていただきありがとうございます。
悲しいという感情が起ったので、せっかくの機会なので観察をしてみました。
最初は「悲しみが起こっている」などと思考していたのですが、
そのうち「心臓がどきどきしている」とか「みぞおちあたりか強く脈打っている」とかになり、
悲しみを観察しているのではなく、肉体におこっている変化の観察になりました。
脈絡がないためか、結局どのような観察結果になったのかはおぼろにしか思い出せません。
何かを獲得できたような感覚もありません。
観察とはこのような感じでよいのでしょうか?

733541:2017/10/11(水) 06:44:50 ID:o7TfOr0I0
実践が全てと言いますが、何を実践すればよいので?

734避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 09:33:39 ID:GijSlBiA0
>>728
ありがとうございます。
今後の参考にさせて頂きます。

735避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 18:14:54 ID:DAY232aw0
>>720ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分と思っているものは何か観察すれば、自分とは何であるかに気付きますか?

736避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 18:40:51 ID:czRftzgI0
無我やサマーディに至るには、または無我やサマーディの修行を始める前には、苦を一つ残らず完全に滅さなければならないのですか?
人間なんだから苦の一つや2つくらい残ってもしょうがないと思うのですが、それらもやはり完全に消し去らねばならないのでしょうか

737避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:11:07 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、ラマナ・マハルシの問答集「私は誰か?」の解説をしていただけませんか?
一応貼っておきますので、もしよろしければ、是非お願いいたします。

738避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:12:59 ID:jfWCoXjM0
私は誰か?

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないこ
とを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られ
る。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性であ
る幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、
人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は誰か?」という問
いで探究する知識の道が最も重要な方法である。

1 私とは誰でしょうか?

七つの要素*1 から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、
聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である音、感触、色、
味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である
言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこ
と、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをす
るが、私はそれらではない。五つの生気*2、すなわちプラーナなどは、吸
気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心で
さえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働
きもない無知も、私ではない。


*1 七つの要素: 栄養液、血液、肉、脂肪、骨、髄、精子。

*2 五つの生気 : パンチャ・プラーナ。 身体で働いている五つのプラーナ(気)。アパーナ、
下降する気。プラーナ、上昇する気。サマーナ、食べ物をアパーナに運ぶ気(消化)。ヴィ
ヤーナ、プラーナとアパーナをとらえる気。ウダーナ、食べ物や飲み物を上下に運ぶ気。

2 もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?

今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定してい
ったあとに、ただひとつ残る覚醒――それが私である。

3 覚醒の本性は何でしょうか?

覚醒の本性は、存在-意識-至福である。

4 真我の実現はいつ得られるのでしょうか?

「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我
は実現されるだろう。

5 世界が(実在として)存在しているときでさえ、真我が実現されるとい
うことはないのでしょうか?

ないだろう。

6 なぜでしょうか?

見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。錯覚で
ある蛇という知識がなくならないかぎり、実体であるロープという知識は
得られない。同じように、世界が実在であるという確信がなくならないか
ぎり、実在である真我の実現は得られないだろう。

7 対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?

すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かにな
ったとき、世界は消え去るだろう。

8 心の本性とは何でしょうか?

「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。心はす
べての想念を起こさせる源である。想念を離れて心のようなものは存在し
ない。それゆえ、想念が心の本性である。想念を離れて、世界と呼ばれる
独立した実体があるわけではない。深い眠りのなかに想念はなく、世界も

ない。クモが自分のなかから糸を出し、それをまた自分のなかに引き入れ
るのと同じように、心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身のなか
へ還元させる。真我のなかから心が外に出るとき、世界が現れる。それゆ
え、世界が(実在として)現れているとき、真我は現れない。真我が輝い
て現れるとき、世界は現れない。人が絶え間なく心の本性を探究しつづけ
るならば、心は真我をあとに残して死滅するだろう。「真我」と呼ばれてい
るものは、アートマンである。心はつねに何か粗大なものに依存すること
によってのみ存在する。それはひとりであることができない。微細身ある
いは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。

9 心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?

身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなか
のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
ある。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろ
う。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」と
いう想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。二人
称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。

10 どうすれば心は静かになるのでしょうか?

「私は誰か?」と尋ねることによってである。「私は誰か?」という想念
は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき
混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅
ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。

739避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:16:54 ID:jfWCoXjM0

11 「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょ
うか?

他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に
起こったのか?」と尋ねるべきである。どんなに多くの想念が起ころうと

かまわない。想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」
と入念に探究すべきである。それに対して現れる答えは「私に」だろう。
そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こ
った想念は静まるだろう。このように修練を繰り返せば、心は源にとどま
ることに熟達するだろう。微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、
粗大な名前や形が現れる。心がハートのなかにとどまっていれば、名前と
形は消え去る。心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内
にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。心をハートから外へ出させ
ることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。このよ
うに、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源である
「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。人は何をするときに
も、「私」という自我性なしにそれをすべきである。もしそのように行動す
れば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。

12 心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

探究以外に適切な方法はない。他の方法で心を静めても、心は制御され
たように見えるだけで、再び勢いを増して現れるだろう。呼吸の制御によ
っても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであ
り、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆りたてられ
てさ迷いだすだろう。心も呼吸も、その源は同じである。想念とは、実は
心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性
である。自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。そのため、心が
静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も静かになる。けれ
ども深い眠りのなかでは、心は静かでありながら、呼吸は止まっていない。
これは、身体が維持されるように、そして死んでしまったと他の人びとが
思わないようにとの神の意志によるものである。目覚めの状態とサマーデ
ィにあっては、心が静まっていれば呼吸は制御されている。呼吸は心の粗
大な姿である。死の時までは、心は身体のなかに呼吸を保っている。身体
が死ぬと、心は呼吸とともに出ていく。それゆえ、呼吸を制御する修練は
心を静める(マノニグラハ)助けにすぎず、心の消滅(マノナーシャ)を

もたらすことはない。
呼吸を制御する修練と同じように、神の姿に瞑想することや、マントラ
の復唱、断食などの修練も、心を静める助けにすぎない。
神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通して、心は一点に集中さ
れる。心はつねにさ迷いつづけるだろう。鼻を鎖でつながれた象が、他の
何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他
の対象をとらえることはないだろう。心が無数の想念へと拡散していると
き、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。だが、想念が決意を固め
て一点に集中すれば、強いものとなる。そのような心にとって、真我を探
究することは容易になるだろう。すべての規則制限のなかでも、適度な量
の清らか(サートヴィック)な食事を取るという方法が最上のものである。
これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我の探究の助けとなる
だろう。

13 心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現れてきます。
いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。

740避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:18:09 ID:jfWCoXjM0
14 数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象
が取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

可能か、可能でないかという疑問に屈することなく、真我への瞑想を続
けるべきである。たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は罪人だ。
どうすれば救われるだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。「私
は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中する
べきである。そうすれば、確実にうまくいくだろう。ひとつは善く、もう
ひとつは悪いという二つの心があるのではない。心はただひとつだ。幸運
と不運の二種類があるのは、心ではなく、心に刻まれる印象である。心が
幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ、不運な印象の影響を
受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人びとに関することへとさ迷いでぬよう、戒

められなければならない。他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみ
を抱かぬようにしなければならない。欲望と憎しみは、どちらも避けなけ
ればならない。人が他の人びとに与えるすべては、実は自分自身に与えて
いるのだ。もしこの真理が理解されるなら、人びとに施しをしないでいら
れようか。自己が現れると、すべてが立ち現れ、自己が静まればすべては
静まる。謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現れるだろう。
心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。

15 探究はどのくらいの期間修練されるべきでしょうか?

心のなかにものごとの印象があるかぎり、「私は誰か?」と尋ねなければ
ならない。想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で
問うことによって、破壊されるべきである。もし真我に到達されるまで、
不断に真我への黙想に打ちこめば、それだけで想念は消滅するだろう。要
塞のなかに敵がいるかぎり、敵は反撃を続けるだろう。もし敵が姿を現す
たびに滅ぼしていけば、要塞はわれわれの手中に落ちるだろう。

16 真我の本性とは何でしょうか?

真実、存在するのは真我だけである。世界、個我、神は真珠貝のなかの
銀色の輝きのように、真我の内に現れるものである。これら三つは同時に
現れ、同時に消え去る。
「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。それは沈黙
と呼ばれる。真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、
真我そのものが神である。すべてはシヴァ、真我である。

17 すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。太陽がただそこに存在するだけ
で、日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。磁力が存在す
ることによって磁石の針が動くように、人びとが三つの宇宙的機能*3 や五
つの神聖な活動*4 に支配され、それぞれのカルマにしたがって行為し、そ
して休息するのは、ただ神が存在するという美徳によるものである。神は

何の意志も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。それは、世間の行為
が太陽に影響をあたえず、すべてに遍在するエーテルが他の四元素の長所
や短所に影響されないのと同じである。

*3 三つの宇宙的機能 : 創造、維持、破壊。

*4 五つの神聖な活動 : パンチャ・ヤジュニャ。『ヴェーダ』の学習、祖霊への食物の供養、ホ
ーマの献火、すべての生き物への食物の供養、人間への供養などを示すヒンドゥー教徒の義
務。

18 帰依者のなかで最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者であ
る。自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も
起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべ
てのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をま
かせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろう
か? われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこ
にあろう。荷物をおろして安心しなさい。

19 無執着とはどういうことでしょうか?

想念が起こるとともに、その起こったまさにその場で、あますところな
く完全に消滅させること、それが無執着である。真珠採りが自分の腰に石
をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように、誰もが無執着ととも
に自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。

741避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:19:04 ID:jfWCoXjM0
20 神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

神やグルは解放への道を示すだけだろう。神やグルが人を解脱の状態に
連れていくわけではない。
実際は、神とグルは異なるものではない。トラの顎にくわえられた獲物
に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、
グルによって救われ、見棄てられることはないだろう。けれどもひとりひ
とりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め、解
脱に達しなければならない。人はただ自分の知識の目によってのみ、自分
自身を知ることができる。ラーマ神がラーマ神であることを知るために、

鏡の助けが必要だろうか?

21 解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を
探究する必要があるでしょうか?

ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それ
が何であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人に
とっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする
必要はない。彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを
払いのけることである。世界はひとつの夢のようなものと見なされなけれ
ばならない。

22 目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

目覚めている間は長く、夢を見ている間は短い。これより他に何の違い
もない。目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こる
ことも夢のなかでは真実に見える。夢の中では心はもうひとつの身体をと
っている。目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想いや、名前と形は同時
に現れるのである。

23 解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょ
うか?

すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならない
と述べている。それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最
終的な教えである。ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必
要はない。心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問
いつづけるべきである。この探究がどうして書物のなかでできるだろう
か? 人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。真我は
五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去
っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求め
るのは無駄なことである。いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくては
ならないときが来るだろう。


*5 五つの鞘 : パンチャ・コーシャ。 真我を覆い隠す五つの身体の鞘。アンナー・マヤ・コ
ーシャ、身体の鞘。プラーナ・マヤ・コーシャ、生気の鞘。マノ・マヤ・コーシャ、心の鞘。
ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ、知性の鞘。アーナンダ・マヤ・コーシャ、至福の鞘。


24 幸福とは何でしょうか?

幸福とは真我の本性そのものである。幸福と真我は別のものではない。
世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。われわれは無知ゆえに、
ものごとから幸福を得るものだと思っている。心が外へ出ていくと、不幸
を体験する。心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻
っており、真我である幸福を楽しむのである。同じように、眠りの状態、
サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと願っていたものが得られたり、
嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な
真我-幸福を楽しむのである。このように心は休むことなく動きまわり、
真我からさ迷いでては、また戻ってくるということを繰り返している。木
陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。灼熱の太陽のなかを歩
いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。木陰からわざわざ出て
猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。
賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。同じように、真理を知る人
の心は、ブラフマンを離れることはない。その反対に、無知な人の心は、
悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つかの間の幸福を味わうためにブ
ラフマンに戻ってくる。実際には、世界と呼ばれているものはただの想念
にすぎない。世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は
幸福を体験する。世界が現れると、不幸を味わうのである。

25 洞察力(ジニャーナ-ドリシュティ)とは何でしょうか?

静寂にあることが洞察力と呼ばれている。静寂にあるということは、真
我のなかに心を帰り着かせることである。過去、現在、未来の出来事を知
るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。

742避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 20:19:57 ID:jfWCoXjM0
26 無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?

無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。無欲
とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。智慧と
は、何の対象物も現れないことを意味している。言い換えれば、真我以外

の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、真我をけっして離
れないことが智慧である。

27 探究と瞑想の違いは何でしょうか?

探究とは、真我のなかに心をとどめておくことである。瞑想とは、自己
をブラフマン、つまり存在-意識-至福であると思いなすことである。

28 解脱とは何でしょうか?

束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが
解脱である。

743鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/11(水) 21:02:14 ID:1d4drIFg0
>>730 どういたしまして、またおいでなさい。

>>731 見性は自我を見ることではないのじゃ。
 本性が見られただけなのじゃ。
 そうであるから見性なのじゃ。
 一部の禅の者が無我とか悟りの意味で使っているが間違いなのじゃ。
 それも本心を見るには役に立つものであるがのう。

 自我を観るのは観照なのじゃ。
 大抵の者はそこから無我となり、大悟に至るのじゃ。
 白陰も大悟二度とか言っているのじゃ。
 真摯に求めていればやがて誰もがそこに至るのじゃ。
 それは大地のように永遠普遍のものであるからのう。

>>732 それでよいのじゃ。
 感情が肉体の反応を起こすことが見えたのじゃ。
 今ここに起こることをありのままに観ればよいのじゃ。
 やがて自我が自分という概念とは無関係であることさえ観えてくるがそれもありのままに受け容れればよいのじゃ。

>>733 止観を実践すればよいのじゃ。
 集中と観察なのじゃ。
 わしのブログなどを参考にするのじゃ。

744鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/11(水) 21:23:51 ID:1d4drIFg0
>>734 どういたしまして、またおいでなさい。

>>735 真摯に探求すれば気付くじゃろう。
 恐れや逃避があれば気付かないこともあるじゃろう。
 おぬし次第なのじゃ。

>>736 滅さなくてよいのじゃ。
 修業の邪魔になるものだけを滅するとよいのじゃ。
 サマーディには一つの苦も滅さなくても至れるのじゃ。
 ただ姿勢をよくして座るだけでよいのじゃ。
 
>>737>>738 1は仏教でもよく使われる五感や身体が自分ではないと気付くための教えなのじゃ。
 それらはよく観察する事で自分ではないと気付くじゃろう。
 五蘊を観察する仏教の法とは少し違うがのう。
 心身の要素を観察して厭離する意図は同じなのじゃ。

 2 それらの心身の要素を観察して行き、全てが厭離されて残るのが覚醒なのじゃ。
 それを私と言っているがもはや私も無いものじゃ。
 言葉の便法によって私と言うのじゃ。

 3 その覚醒の本性とは存在であり、意識であり、至福と言うのじゃ。
  お釈迦様が不死の境地とか言ったものと同じなのじゃ。
  死もない永遠の意識こそ覚醒の本性なのじゃ。

 4 真我とはそれ自体が認識するものでありながら、認識はされないものなのじゃ。
  認識できたならばそれは真我ではないのじゃ。
  全てが見る者となる時、真我は実現したと言えるのじゃ。


  5 そこにはもはや世界とかの概念設定されるものは存在しないのじゃ。
  世界があったならばまだ真我は実現したと言えないのじゃ。

       
 6 全ての概念設定を離れて認識が実現すれば真我も実現すると言えるのじゃ。
  虚妄の世界と真実である真我は両立しないのじゃ。

745鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/11(水) 21:38:28 ID:1d4drIFg0
>>738>>739 7 認識が記憶に依存していれば概念は起こり続けるのじゃ。
  認識作用が記憶への依存を止めた時に心は止まり、虚妄の世界も消え去るのじゃ。
 
 8 ここで心と呼ばれるのは観念を投射する記憶に依存した認識なのじゃ。
  それは今ここでも絶え間なく悟りを得ない者の心にさまざまな観念を作り出しているじゃろう。
  それが個我の観念をも生み出すのじゃ。
  その作用がなくなり、虚妄の世界゛消えて真我は表れるというのじゃ。

 9 個我を起こす認識の働きは心臓への集中によって見出されるというのじゃ。
  それは心臓に限ったことではないがのう。
   一度、その働きが観られたならば自我は消えさるのじゃ。

 10 常に自己を探求することで心は鎮まると言うのじゃ。
   それが完全に観察された時に、個我は滅し、真我が実現されるのじゃ。

 11 雑念が起こればその都度、それが自分から起こる事を観察するように言うのじゃ。
   常に全ての注意を自己の探求に向ければ悟りも自ずから訪れるのじゃ。

 12 呼吸の制御も神を瞑想することもマントラも断食も心を鎮める助けになるだけなのじゃ。
   自分とは何かを観ることが真の悟りへの道なのじゃ。
   
 13 雑念がどれほど浮かび上がってきても日々の実践によって消えていくのじゃ。

746鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/11(水) 22:20:32 ID:1d4drIFg0
>>740 14 長年の執着も一つの気付きで消え去るように、観念の蓄積も認識を観れば消え去るじゃろう。
 それらは妄想に過ぎないからのう。
 妄想を妄想とわかってしがみつく者はいないのじゃ。

 15 観念があり続ける限り探求は終わらないのじゃ。
   それがどのくらいで終わるかは本人次第なのじゃ。
   日々の実践だけがその道を近ずけてくれるのじゃ。

 16 真我とは唯一つの実在であり、永遠の意識なのじゃ。
   全ての者の全てなのじゃ。
   神仏などの観念さえそこに含まれるのじゃ。
   ただ妄想としてであるがのう。

 17 神が意識であればそれは人に何かをさせるものではないのじゃ。
   ただ在るがままにあるのみなのじゃ。
   人はただ自ら実践してその意識の至福に至ることができるだけなのじゃ。
   それこそが恩寵と呼ぶべきなのじゃ。

 18 金や物を捧げるより、自らを真我にゆだねきった者こそ最も優れた帰依者であるというのじゃ。
   帰依とは神仏に回帰することであるが自らの心身をささげつくす者は少ないものじゃ。
   自分自身にさえ自らをささげ尽くすことは難しいのであるからのう。

 19 無執着とは今ここにのみ在ることなのじゃ。
   過去を想い、未来を臨んでいれば今ここにはいないのじゃ。
   心に浮かんでは消える雑念をその場で手放して真我を得るのじゃ。

>>741 20 どれほど優れた師匠や神も人に悟りを得させることはできないのじゃ。
  お釈迦様でさえ道標になるだけと言ったのじゃ。
  人は自ら悟りへの道を歩まなければいかんのじゃ。

  21 知識は塵芥であり、糟糠であると空海も言ったのじゃ。
    実践こそ真の悟りへの道なのじゃ。

  22 目覚めと夢は同じ意識の現われなのじゃ。
    夢の中でも観念はありつづけるものじゃ。
   
  23 聖典を読めば実践すべきことが書かれているのじゃ。
    実践が全てなのじゃ。
    知識を集めれば知識に執着し、妨げになることもあるじゃろう。
    実践あるのみなのじゃ。

  24 真の幸福は真我の実現によってのみ達成できると言うのじゃ。
    その他の幸福は幻想であり、一時の気休めに過ぎないのじゃ。
 
  25 心を鎮め、心臓に真我を求める力こそ洞察力なのじゃ。 
    超能力ではないのじゃ。

747鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/10/11(水) 22:27:29 ID:1d4drIFg0
>>742 26 無欲とはなにものにも囚われない心なのじゃ。
    智慧とはそのような心そのもの働きなのじゃ。
    欲があれば智慧は無く、智慧があれば欲は無いのじゃ。
    欲が無く智慧のある状態が真我実現なのじゃ。
    
   27 探求と瞑想との違いは真我を求めることと、ブラフマンの法との違いと言うのじゃ。
     真我探求の法は心臓にひたすら集中し、真我を求めることなのじゃ。
     ブラフマンの瞑想は心身をどこまでも広げてブラフマンと一体化する法なのじゃ。
     悟りを得ればそれらも一つの法と知れるのじゃ。

   28 解脱とは自己の本性を探求し、悟ることなのじゃ。
     それが存在しないと気付いた時に人は無我になり、無認識にも至るのじゃ。
     それこそ解脱なのじゃ。

748避難民のマジレスさん:2017/10/11(水) 22:35:19 ID:OYxDwooY0
鬼和尚すげーwww
脱帽です…。

749避難民のマジレスさん:2017/10/12(木) 17:23:19 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、解説ありがとうございます!
一瞬で片付けてしまうとは、まさに鬼ですねw
悟った人同士ですと、言わんとしている事もツーカーなのでしょうか?

750避難民のマジレスさん:2017/10/12(木) 17:40:04 ID:jfWCoXjM0
この「私は誰か?」という問答集の総評を聞かせてください。
それと↓もラマナ・マハルシの言葉なので、コメントをお願いします。

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないこ
とを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られ
る。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性であ
る幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、
人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は誰か?」という問
いで探究する知識の道が最も重要な方法である。


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