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鬼和尚に聞いてみるスレ part9
851
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 00:22:25 ID:v0wSFOKY0
もちろん映像と背中の圧迫感と手の感覚というのも過去との照合でそのように認識したものだと思います。
これらすべての認識が外れたところに悟りがあるのかなと思っていますが、どうなのでしょうか。
852
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 07:29:39 ID:DAY232aw0
>>837
ご回答ありがとうございます。
厭離に対して質問ですが、完全に観察すれば厭離は起こるのでしょうか?
853
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 12:27:32 ID:DAY232aw0
>>852
スルーした下さい。すいません。
質問ですが、観察に思考は必要無いのでしょうか?
854
:
進路探訪者
:2017/10/25(水) 19:58:06 ID:DIiPmWc60
鬼和尚さんご無沙汰しております。
ひょっとしたら悟りの入り口に立てたかもしれません。
最近、自分は煮ても焼いても自分であることに気づきました。
物心つく前の自分の顔や動きを思い出せば、そのころの自分の感覚を
思い出しました。そして、その感覚を通して、自分はその頃から今まで
全く変わっていないことにも気づきました。その感覚は物心つく前だから
周りの目なんて存在しないし関係ありません。単に生物的に生まれて成長
してそのような感覚を持つに至ったという事実があるだけにすぎません。
変わったとすると学校や社会で勉強や仕事を通じて能力が図られ、それにより
能力のある自分という理想像が生まれ、そのギャップに苦しんでいる点です。
しかし、自分は良い悪い関係なく絶対的な存在です。
物心つく前の自分が根源であるとすれば、それが過不足なく自分の全てであり、
それが全てであるから当然理想像とのギャップといった悩みもまたありません。
今までの自分は周りの目を気にしていましたが、それは自分の頭にあった理想像
が壊されたときに、自分の中で起きた喪失感にすぎず、それは私が自分の理想像
を自分であると思い込んでいた自我が感じている感情にすぎません。したがって、
自我以外の私にとってはそのような喪失感は無縁で、理想像という学校や社会が
生み出した幻想に、根源的に存在する子供のころの感覚が囚われることも当然
ありません。
恋愛、友人や家族兄弟などの人間関係についての悩みも、根源的には存在しないものであり、
自分の根源を思えばどうでもよくなりました。
また、前世は見えませんが、もしあるのであると仮定すれば、私の前世はADHDや
ダウン症なんだろうなと何となく直感しました。
私は悟ったのでしょうか?
855
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/25(水) 21:27:19 ID:1d4drIFg0
>>850
>>851
違うのじゃ。
感覚だけを観察するのじゃ。
ただひたすらに観察し続けるのじゃ。
>>853
必要ないのじゃ。
思考は無くても観察できるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>854
まだなのじゃ。
その自分がどのようなものであるのか観察するのじゃ。
完全に観察できれば厭離が起こるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
856
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 21:42:14 ID:v0wSFOKY0
>>855
鬼和尚、ご回答ありがとうございます。
感覚だけをただひたすら観察すると、鬼和尚の仰る自我が見えてくると言うことでしょうか?
何度も質問してしまい申し訳ございません。
857
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/26(木) 00:07:53 ID:DAY232aw0
>>855
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、観察は目的ではなく手段なのでしょうか?
858
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/26(木) 06:47:19 ID:DAY232aw0
>>857
スルーした下さい。すいませんでした。
859
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/26(木) 13:08:59 ID:fuOAkotI0
鬼和尚、
主体の観察についてお教えください。
自我の観察のうち、主体が現れた後で自分が思考しているイメージが現れるところまでは観えるようになってきました。しかし、主体はイメージというより、「自分が行なっている」というリアルな実感として現れていて、それがイメージだとは思えません。
むしろ自我が投射されていない場合のほうが、遠くで勝手に起こっていてリアリティを感じられないという状況です。
実感を伴うことが本当のことだと認識しているようですが、その認識には介入せず、ただ主体をより詳しく観察し続ければよいのでしょうか?
あと、詳しく観察しようとすると集中のために心身に緊張が生じます。一方でリラックスして全体を眺めるようにすると、詳細を見落としているように思います。観察に習熟すれば、全体を詳しく観察できるようになるのでしょうか?
860
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/26(木) 21:19:59 ID:1d4drIFg0
>>856
感覚を観察するならば感覚だけを観察するのじゃ。
それによって自我の起こることも気付くのじゃ。
そこに自我がある筈だとか思っていると観念を観てしまうのじゃ。
観念は自らの思うとおりに働くのであるからのう。
観たいと思うものを作り出し、観てしまうのじゃ。
それによって観念遊戯に陥ってしまうのじゃ。
ただひたすらに今ここにあるものにのみ集中し、観察していると本当に自我か起こることも見える瞬間がやってくるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>857
そうじゃ、悟りを得る手段なのじゃ。
修行はみんなそうなのじゃ。
悟った後には衆生を導く手段になるのじゃ。
>>859
そうじゃ、どんどん観察すると善いのじゃ。
悟りも向こうからやってくるじゃろう。
慣れれば上手くできるようになるじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
861
:
進路探訪者
:2017/10/27(金) 00:26:30 ID:DIiPmWc60
>>855
ご返信ありがとうございます。
私は、自分の子供のころを思い出すときは、自分が小学1年であった
ときのころをイメージしております。
そのときの感覚が一番思い出しやすく、その時の感覚をつかむのが容易
であるからです。
しかし、物心つく前の記憶については難しいです。
小学一年の物心ついたころの感覚をつかみ取るのでよいのでしょうか。
862
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 03:21:21 ID:v0wSFOKY0
>>860
鬼和尚、再度ご回答頂きありがとうございます。
見たいものを見てしまう観念遊戯に陥るとは今までも身に覚えがあり、深く納得しました。
心を横に置き、今ここにあるものそのままを観察することが大事なのですね。
糸口が掴めたように思います。
実践してみます!
863
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 06:31:48 ID:DAY232aw0
>>860
ご回答どうもありがとうございます。
質問ですが、無意識の観察ができる様になれば良いのでしょうか?
864
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 19:15:20 ID:LC3de7YgO
鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2 [自己啓発]
長文連騰でつぶしてしまったであります。
ごめんなさい。
明日、新規に建てるでありますが、長文にならないように気を付けるであります。
γ⌒:"-ヽ〟
(∪( )
∪∪∨-∨
865
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 19:59:30 ID:VrFZalN.0
鬼和尚、
再度ご質問なのですが、観察の際に「注意」「焦点」があると思います。
「椅子に座りつつも注意を足に向ける」などの注意です。
足に注意を向けると、足のイメージが湧きます。
また私というイメージから、足への注意の矢印のようなイメージと、距離感のイメージが湧きます。
それらはイメージにより認識したからそのように感じたのだと思います。
イメージはイメージとして横に置き、今ここで起こっていること素直にそのまま観ることが観察でしょうか?
866
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/27(金) 22:38:29 ID:1d4drIFg0
>>861
それによって起こる今の感覚を観察するならば善いじゃろう。
今ここにあるものごとを観察するのじゃ。
記憶を観てしまってはいかんのじゃ。
それは既に無いものであるからのう。
気をつけて進むのじゃ。
>>862
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>863
そうじゃ、日々続けていればできるようになるじゃろう。
毎日の修行ができないこともできるようにしてくれるのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
>>862
ゆるすのじゃ。
どんどんやるとよいのじゃ。
>>865
それもまたイメージがわいたと観察してよいのじゃ。
横に置いたりしなくてよいのじゃ。
心の働きを全て余さずありのままに観るのじゃ。
なにも操作せずありのままに観察を続けるのじゃ。
それを続けていれば更に深く観察できるようになるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
867
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 08:04:48 ID:DAY232aw0
>>866
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、悟りを得る事が目的なのでしょうか?それとも死を超える事が目的なのでしょうか?
868
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 11:50:17 ID:czRftzgI0
誰かがおしゃべりをしているのを聞いた時、はじめは聞き流していたのに、「あ、自分のこと!」ど話の内容が自分の悪口だと知ったとします。その瞬間嫌な感情が起きます。
この場合、はじめは自我はなくて「自分のこと!」と気付いた瞬間に起きるのが自我でしょうか?
とすると、自分の何かの事柄の記憶と聞いた言葉を照合したとき自我が生じていることになります。
869
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 19:51:29 ID:WRAz50E60
>>866
鬼和尚、度々ありがとうございます。
とにかく見に起こる現象全てを観察し尽くすのですね。
やってみようと思います。
870
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 19:52:55 ID:WRAz50E60
身に起こるの間違いです。
失礼しました。
871
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/28(土) 22:01:51 ID:1d4drIFg0
>>867
それはおぬし自身が決める事なのじゃ。
おぬしは死を超えたいと思うのじゃろうか?
それともなにやらすごい悟りというものがあるらしいから得たいと思うのじゃろうか?
自らの本心が求めるままに道を進むのじゃ。
>>868
それは既に自我は起こっているのじゃ。
自分の名に反応しただけなのじゃ。
忘我の状態から名に反応して自我が起こることもあるじゃろう。
そのような時こそ自我が起こる事を観察する好機といえるじゃろう。
>>869
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
872
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 06:20:37 ID:czRftzgI0
対象を認識している時点で既に自我があるということですか?
自分の名に反応したのではなく、過去に自分のやったことで思い当たることが話しの中に出てきたのです。
873
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 10:05:58 ID:DAY232aw0
>>871
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心が求めるままに目的を決めたら良いと言う事なのでしょうか?
もう一つ質問申し訳無いのですが、悟りを得れば、苦は全て滅するのでしょうか?
874
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 10:43:25 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、自分の本心が求めるままに道を進めば、何の目的も無くても悟りは得れるものなのでしょうか?
875
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 13:43:42 ID:DAY232aw0
>>874
追加です。
質問ですが、自分の本心が求めるままに道を進むと仰ってますが、心の主人にならなくてもいいのでしょうか?
876
:
蓮恵
:2017/10/29(日) 17:23:32 ID:QZjWADYU0
鬼和尚さま
力の抜き方が下手で、どうしても姿勢が定まりません
前後に倒れます
方法的には、力みで体を固定せず重心が不安定なまま、上から吊るされたような揺れない点を見つけるというのであっているのでしょうか
877
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/29(日) 20:52:35 ID:1d4drIFg0
>>872
日常では殆ど自我があるのじゃ。
我を忘れている時を除いてのう。
自分に思い当たることや自分にまつわることがらや自分のものについて気がつくのも自我があるからなのじゃ。
我を忘れていれば思い当たることもないじゃろう。
思い当たる自分が忘れられているからのう。
>>873
そうじゃ、自らの本心の求める道を行くのじゃ。
悟りを得れば全ての苦は滅するじゃろう。
精進在るのみなのじゃ。
>>874
本心が求めているのが悟りならば悟りは得られるじゃろう。
本心が金を求めているならば金が得られるじゃろう。
おぬしの本心次第なのじゃ。
>>875
心の主人になるとは無理にでも強制して悟りを求めることではないのじゃ。
本心から悟りを求めているのではない限り、悟りは得られないじゃろう。
本心では金とか名声とか権力などを求めているならばそれらを得て修業を終えてしまうからのう。
老病死の苦を超える手段が悟りしかないと見極めて本心から悟りを求めるのが本当に心の主となることなのじゃ。
>>876
少し違うようじゃ。
下腹と腰に力を入れて安定させるのじゃ。
上半身からは力を抜くのじゃ。
背骨や頭が垂直になるようにバランスを保つのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
878
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 21:21:36 ID:DAY232aw0
>>877
沢山の質問に答えていただきありがとうございます。自分の本心の求める道を行こうと思います。
879
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 21:55:40 ID:czRftzgI0
>872
おーなるほど、自分のものについて気がつくのも自我があるから、納得です。
毎回目から鱗の落ちる返答をありがとうございます。
880
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/30(月) 21:47:08 ID:1d4drIFg0
>>878
そうじゃ、前進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>879
どういたしまして、またおいでなさい。
881
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 12:16:33 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
考えない観察をすれば良いのでしょうか?
882
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 18:47:08 ID:czRftzgI0
視覚の観察をしています。
Q1.襖を観察して、白い物が目の前にあると感じるのは認識で、目の前に白い襖があると感じるのも認識で、襖に描かれた木を見て木と感じるのも認識でいいですか?
この例の場合、分別はどのようなことを言うのですか?
触覚の観察をしています。
Q2.皮膚の感覚の観察で、金属を額に当ててヒヤッとした時、冷たい感覚を認識した(分別でも思考でもなく)という理解でいいですか?
883
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 19:30:30 ID:DAY232aw0
>>881
スルーして下さい。すいませんでした。
884
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 20:12:27 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、「無我から無認識に至る過程」に関して質問させてください。
私の頭だけの理解では、
無我に至ったら主体と客体という感覚が消え、あえて言葉にするなら「見るものすべてが
自分である」、というそんな感じの感覚になる、と私は理解しています。
それを踏まえて話を進めます。
ある人が無我に至り、それゆえに個人感覚が消え、すべてが「いつなるもの」である、という体感を得た後に、
観照に至る前の修行中の段階において見ることのなかった強い観念、例えば「怒るのはダメだ」という観念がその人が無我に
至った後にその人のマインドにあまりにも強固な思考パターンとして沸いてきたとします。
そこで、 質問1
その場合、その人は無我に至ることで得られる「主体と客体というのがないという感覚」、すべてが「いつなる
もの」である、という感覚をそれによって失うことなくその沸いてきた思考パターンに対処することは可能でしょうか?
それともそのような強固なエゴ的思考パターンにとらわれることによって主体と客体という感覚がある、という
ところまで逆戻りしてしまうんでしょうか?そしてすべてが「いつなるもの」である、という感覚も消えて無我に至る前の状態に
逆戻りするんでしょうか?
質問2
無我に至ることで得られる「主体と客体というのがないという感覚」、すべてが「いつなるもの」である、という感覚を失うことなくその沸いてきた思考パターンに対処することが可能であった場合、
一度、無我に至ってしまえば、どのような残存しているエゴ的思考パターン(観念)が沸いてきて再びそれらにとらわれても
常に無認識に至るために認識の作用を観察し、認識を厭離させるということは常に可能な状態でい続けられるんでしょうか?
わかりやすく言うと、無我に至る前の段階では無認識に至るために認識の作用を観察し、認識を厭離させるということが常に不可能であるのなら、逆に無我に至った
場合なら、どのようなエゴ的思考が沸いてきても認識を厭離できる可能性は24時間常にあるのか?
というところが疑問に感じたので質問させていただきました。
質問3
ある人が無我に至った後に上記のようにエゴ的思考パターンが沸いてきてその思考に完全に
飲み込まれ同一化してエゴまみれな状態になっている最中に認識を観察→厭離させる、ということは可能でしょうか?
質問4
ある人が無我に至った後に上記のようなエゴ的思考パターンが沸いてきてもそれと一体化せず、
「ああ、これはまだ自分の中に残存していた観念だ」というように俯瞰的に観察できている状態から
認識を観察→厭離させる、ということは可能でしょうか?
質問は以上です、よろしくお願いいたします。
885
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/31(火) 21:56:45 ID:1d4drIFg0
>>881
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
>>882
① そうじゃ、白いと言うのもすでに分別なのじゃ。
分別しなければ色も無いのじゃ。
② そのような理解でよいのじゃ。
>>884
1 いかなる思考であろうと囚われて無我であることを失うことは無いじゃろう。
2 常に可能なのじゃ。
3 本当に無我になっているならばエゴまみれになることはないのじゃ。
常に可能なのじゃ。
4 常に可能なのじゃ。
886
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 06:41:50 ID:czRftzgI0
>882
白い物が目の前にあると感じるのは分別をしていて、かつ認識もしている状態という理解でいいですか?
887
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 07:13:48 ID:czRftzgI0
執着する物はいずれ朽ちてなくなるから空と考えるのが一般的な空の法ですが、社会的地位に執着している場合、自分がいずれ死ねばそんな物を持てなくなるからその社会的地位は空であると考えるのも空の法ですよね?
888
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 11:41:43 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
縁起の法は何の為にあるのでしょうか?
889
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 16:52:52 ID:ydE4b1w.0
>>885
そうなんですね、わかりました、ありがとうございます。
それから、申し訳ないですがまた長文で質問させてください。
質問1
私は鬼和尚がいつだったか、「無我のままでは生活ができない」とおっしゃられたのを見たと思います(間違ってたらすいません)
しかし、無我に至ったと思われる先人たちが現に生きて生活していらっしゃることを考えると、彼らは少なくとも「無我のままでは生活ができない」
という状態ではない、と自分は推測します。
そこで質問は、そのような完全な無我の状態ではなく、無我に至った後、支障なく日常生活を
送れている状態であっても認識を観察して厭離させることは可能ですか?
質問2
日常生活が送れないほどの完全な無我の状態のさなかに認識を観察→厭離させることは可能ですか?
質問3
日常生活すら送れない無我の状態というのは観照が起こって無我に至った直後に誰しもが一瞬なるもの、そんな感じのものなんでしょうか?
そうでないなら、観照が起こる→無我 という流れの中のどの辺で「日常生活すら送れないほどの無我の状態」になるのですか?
質問4
日常生活すら送れないほどの無我の状態から日常生活が送れる無我の状態に移行するためにはどのようなきっかけが
必要とされるんですか?
890
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/01(水) 21:55:26 ID:1d4drIFg0
>>886
そうじゃ、それでよいのじゃ。
白とか認識しているのは既に分別したからなのじゃ。
分別しなければ色も無いのじゃ。
>>887
そうじゃ、なくなってしまうものというのも空の性質なのじゃ。
それも執着をなくすためのものなのじゃ。
>>888
苦を滅し、自我をも厭離するためなのじゃ。
苦から根本の原因である自分があるという無明にまで観察が及べば無我にもなれるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>889
1 できるのじゃ。
いつでもできるじゃろう。
2 できるのじゃ。
3 悟った後に一時的になるのじゃ。
もはや自分が無く認識も無いからこの世の価値観や常識を無と知るのじゃ。
4 人に教えを説くために無意味な価値観や常識に従う意志が必要となるのじゃ。
45
891
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 03:14:56 ID:ydE4b1w.0
>>890
889です、そうなんですか、ということは鬼和尚のおっしゃる「日常生活も送れないほどの無我の状態」
というのは認識を厭離し無認識になった直後になる状態であって、観照が起き無我に至っただけでは
「日常生活も送れないほどの無我の状態」にはならない、ということですか?
892
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 06:50:50 ID:czRftzgI0
>887
これを観察に活かそうと思います。ありがとうございました
893
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 13:19:41 ID:DAY232aw0
>>890
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、どうやって観察するのでしょうか?
もう一つ質問申し訳ですが、どうやって追求するのでしょうか?
894
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 16:25:57 ID:ydE4b1w.0
追加で質問すいません、釈迦は菩提樹の下で悟る直前、国と家族をほったらかして悟りの道
を歩んだ、ということに強い罪悪感を感じた、という話は鬼和尚は聞いたことはありますか?また、それは本当の話なんでしょうか?
895
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/02(木) 21:39:56 ID:1d4drIFg0
>>891
そうじゃろう。
まだ認識は残っているからのう。
慣れた日常生活はおくれるのじゃ。
>>897
どういたしまして、またおいでなさい。
>>893
今まで通り観察するのじゃ。
観るものを追求するのじゃ。
そのように思えるのも自分が主体であり、主体から観察や全ての働きが起こっていると感じるからなのじゃ。
実際には全ての心身の働きは主体なくして起こるものじゃ。
主体はあとから投射される観念に過ぎないものなのじゃ。
>>894
そのようなことはないじゃろう。
身を捨てても悟りを得たいと思っていたのであるからのう。
お釈迦様が悟る前に魔が家族の姿で迫ってきたことをそのように心理的に解釈する者がいたのじゃろう。
896
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 22:59:53 ID:1yJIgtKg0
鬼和尚、
主体や客体というのは、時間差による錯覚。
実際は主体も客体もイメージであり、起こる現象が今ここにただ起こっているだけであると観察しました。
しかしこの先は何をどのように観察すれば良いのでしょうか?
阿頼耶識を観察したいと思っています。
897
:
541
:2017/11/02(木) 23:17:57 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、一休さんは悟っていたとおしゃっていましたが
一休の師匠の華叟宗曇や兄弟子の養叟(ようそう)は悟っていたのでしょうか?
898
:
541
:2017/11/02(木) 23:20:28 ID:o7TfOr0I0
ところで、私は、権力や女や名誉が大好きなのですが、苦の元だからこれらへの執着は捨てたほうが良いのでしょうか?
899
:
541
:2017/11/03(金) 06:29:57 ID:o7TfOr0I0
人間関係にも恵まれ、立ち上げた商売も成功しつつあります。
しかし、成功のなかにも、「信頼を失わないようにしなくては」など、気を回す事が多く、新たなストレスの元になりそうです。
例えば、商品に傷がついていたりしないかとか、健康上問題はないだろうかとか、誠実であろうと思うほど、心配が増えてくる。
これは、客観的には商品の質の向上に繋がるし、勿論、悪いことではないが、精神を疲弊させる面もある。結果に一喜一憂することなく、顧客にも職員にも振り回されることなく、淡々と製品や運営システムを向上させていくことは可能ですか?
900
:
541
:2017/11/03(金) 06:42:46 ID:o7TfOr0I0
和尚。食欲や性欲などは、観念だけではなく、肉体に由来する面もあると思いますが、それらも厭離可能ですか?
901
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 11:57:59 ID:DAY232aw0
>>895
ご回答ありがとうございます。
観るものを追求すると仰ってますが、やっぱり追求の仕方がわかりません。自分とは何か追求するのと原因を追求するのでは追求の仕方は一緒なのでしょうか?
自分と感じるものは何か観察していれば追求していることになると仰ってましたが、観察すれば追求していることになるのでしょうか?
観るものを追求するとは追求して観るを追求するのでしょうか?それとも観察して観るものを追求するのでしょうか?
追求がいまいち分からずしつこいようですが質問させて頂きます。すいません
902
:
541
:2017/11/03(金) 12:31:18 ID:28Zc32Jo0
いつもながら沢山質問してすみません。
以前鬼和尚は鈴木大拙を「悟っていたのじゃ」と言っており、親鸞や法然などは「悟って居なかったのじゃ」とおっしゃっていましたが、
鈴木大拙自身は『日本的霊性』のなかで、法然、親鸞を高く評価し、「南無阿彌陀仏」にこそ日本精神の真髄があるとし、学識も修行もしていないが、ひたすら念仏を唱えて、日々の生活に自足している妙好人のような人々を称賛していましたが、大拙は、人々が、釈迦のような真のさとりを得ることは無理だと思っていたのでしょうか?
或は、禅の悟りよりも浄土真宗の信仰の方が、真の悟りに近いと考えていたのでしょうか
903
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 15:33:09 ID:ydE4b1w.0
>>895
わかりました、ありがとうございました。
それから、また質問させてもらいます。
質問1
以前、鬼和尚は「すべての観念は主体を想起させる」というようなことをおっしゃっておられましたが、
無我に至った人の場合その段階ではまだ観念は残っているから、それらの残っている観念が認識された際に主体という感覚を起こす、ということが
無我に至った後でもありうるんですか?
でも主体の感覚があるならそれは無我と言えるんでしょうか?
質問2
観念が想起させる主体の感覚、というのは自我とはまた違うものですか?
904
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 15:46:57 ID:rVd9uqEE0
鬼和尚さん、腰痛になってしまいました。
軽いぎっくり腰のような症状です。
何をしたら改善できますか?
ストレッチなどはやっていますが、ここ数週間なかなか治りません…。
905
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 17:16:31 ID:czRftzgI0
過去にどぶにはまって友人に笑われた嫌な記憶があるとします。この場合、どぶにはまった自分を自分だと思うから恥ずかしいのであり、どぶにはまった自分は自我といえます。
そして、どぶにはまる行為を自分の行為だと思うから、どぶにはまった自分を自分だと思って苦が生じます。さらに、どうしてその行為を自分の行為と思うかは、自分の体を自分だと思っていて、その自分の体の行為も自分のものだと思っているからです。
だからこうした過去の行為の苦を乖離するには、行為を生じさせる自分の体を自分のものだと思わないように乖離する必要があると考えました。行為に基づくすべての自我は身体の乖離により解体されるというのが結論です。
まとめると
自分の体を自分のものだと思う→自分の体の行為を自分の行為だと思う→どぶにはまった自分を自分だと思う→苦
この見解は正しいでしょうか?
906
:
糞和尚
:2017/11/03(金) 21:28:01 ID:YUVcWBgU0
>>902
それはあくまでも「日本的」霊性なのじゃ。
鈴木大拙は禅をやっていたのじゃ。
仏教の日本独特のものを取り上げただけなのじゃ。
907
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 22:26:09 ID:XZhaK0vE0
>>899
鬼和尚じゃないけど,品質課を作ればいいんじゃないの?
品質課に人員を割けなければ,受け入れ検査,出荷検査など,商品を検査することにして
検査項目,検査方法を決めて,チェックシートを作って,結果を記入して,記録に残すとか
908
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/03(金) 22:34:23 ID:1d4drIFg0
>>896
自分を観察するのじゃ。
自分を観察して厭離しない限り阿頼耶識も観察できないものじゃ。
恐れとか何かの理由で自分が観察できないのかもしれん。
そのような逃避をも観察してみるのじゃ。
>>897
悟っていたじゃろう。
>>898
執着は捨てたほうがよいのじゃ。
苦になるからのう。
どんどん捨てるのじゃ。
>>899
出来るじゃろう。
自分には出来ると唱えているとできるようになるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>900
しようと思えばできるのじゃ。
しなくてよいのじゃ。
>>901
自分という観念を起こす原因を追求するのじゃ。
どんどんやればそうなるじゃろう。
やらなければならないのじゃ。
自我がある限り観るものはあるとおもえるじゃろう。
まずは自分を観察するのじゃ。
それが観るものなのじゃ。
恐れがあるから観られないならばその恐れも観察するのじゃ。
>>902
大拙はスゥエデンボルグなども賞賛していたのじゃ。
オショーと同じく、全ての宗派を包摂しようとしていただけなのじゃ。
悟ったとは言っていないのじゃ。
ただ真宗の者を取り入れるためにゴマをすっていたのじゃ。
909
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/03(金) 22:40:39 ID:1d4drIFg0
>>903
1 真に無我になったならばないじゃろう。
既にそれが観念とわかってしまったのであるからのう。
忘我ならばあるかもしれんのじゃ。
観念は全て刹那に起こるものじゃ。
忘れていたものも刹那に思い出したりするのじゃ。
2 違うものなのじゃ。
それに自我が投射されているのじゃ。
自我は名前とイメージによる観念であり、分別された認識とは違うものなのじゃ。
客体と主体を分別された後に自我の観念は投射されるのじゃ。
>>904
痛むところよりずうっと腰の上とか尻等に硬いところや痛む所を探すのじゃ。
そこを揉み解すのじゃ。
心臓に向けてさするのじゃ。
そこが治れば治るのじゃ。
>>905
そのような理解でよいのじゃ。
後は実践あるのみなのじゃ。
910
:
541
:2017/11/03(金) 22:53:23 ID:o7TfOr0I0
>>897
悟っていたじゃろう。
一休の兄弟子の養叟(ようそう)と一休は確執があり、喧嘩別れしたとの話ですが
それは周囲の凡人の解釈で、実際は、どっちも悟っていたので「喧嘩」などはしていなかったのですかね。
悟った人同士でも、意見の相違や感情のぶつけ合いはあるのでしょうか?
>>900
しようと思えばできるのじゃ。
しなくてよいのじゃ。
しなくてよい。つまり性欲や食欲は放置プレイでよいのでしょうか?
結構、こいつらの力は強いですよね。
>ただ真宗の者を取り入れるためにゴマをすっていたのじゃ。
www予想外の斬新過ぎる解釈
それは本当に、大拙の真意なのでしょうか?鬼和尚の主観と言うことはないのですか?
911
:
541
:2017/11/03(金) 22:57:31 ID:o7TfOr0I0
大拙の代表的な書物である『日本的霊性』だけを読むと(多くの人はこれしか読んでいない場合もある)、真宗を取り入れるどころか、
なむあみだぶつと唱えていればいいんだと真宗の信仰に自信を持って、むしろ、禅者のうちに真宗に転向するものが出そうな勢いかと思います。
912
:
541
:2017/11/03(金) 23:06:00 ID:o7TfOr0I0
でも、鬼和尚の解釈は面白いと思います。
我々は内心小馬鹿にしているものをあえて賞賛することはありますからね。
歴史上の人物とかの手紙や発言を、そのまんま受け取る学者とかは、人間と言うものが全く分かってないなと感じる事はあります。
913
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 23:49:55 ID:ltsvCJfk0
>>908
鬼和尚、
厭離とは、主体だと思っていたものを客体視した時に起こると考えます。
思考や肉体から厭離し、それらをただ観ている視点に立ち、苦から離れることと理解し、また経験しています。
しかし今回私が観察したのは、思考が現れている瞬間は、それを離れて観ている主体など実はいないということでした。
思考の直後に、それを観ている主体という観念が起こっています。
思考→それを観ている者→「思考から離れているぞ」…
という一連の流れが意識に起こっていました。
これは思考に限ったことではなく、五感もそうでした。
何かを触った瞬間は、それを感じている主体はなく、その直後に感じている主体を作りだしていると言いましょうか。
これは何か別の方向に行ってしまってるのでしょうか。
914
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 02:31:51 ID:ydE4b1w.0
903です。
鬼和尚の主体という概念、難しいです、、、
また、分けて質問します。
質問1
鬼和尚の
「真に無我になったならばないじゃろう。」
という私への返答の中の「真に無我になったならば」という言葉は、
「認識を厭離して無認識に至ったときになる完全な無我の状態になったならば」という意味ですか?
それとも
「本当に無我に至ったのなら(まだ無認識まで至ってはいないが観照が起こって無我に至った)」という意味ですか?
質問2
>>909
の文章の中で鬼和尚のおっしゃられたことをまとめると
「すべての観念は主体を想起させるが、無我に至った後はすべての観念が主体を想起させることがなくなる」
ということですか?
質問3
私は目の裏に自己感覚というか主体の感覚があるんですが、上記で言われている「すべての観念が想起させる主体」
と私のこの主体の感覚とはまた別物ですか?
質問4
「すべての観念が想起させる主体」というのを実感としてどんなものか認識してみたいのですが、
そこを意識してそれがその主体だ、というようにわかるものでしたらどうすれば「すべての観念が想起させる主体」
というのを意識の上で捉えられるか教えてくれると助かります。
それとも、それはかなり微細な感覚で人間には到底認識できないようなものなのでしょうか?
915
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 05:52:59 ID:czRftzgI0
>905
身体の観察という膨大な作業を前に呆然となりますが、実践したいと思います。
916
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 09:50:04 ID:DAY232aw0
>>908
ご回答ありがとうございます。
まずは自分を観察すると仰ってますが、自分の本心を観察して、自分を観察するのでしょうか?それとも自分を観察して自分の本心を観察するのでしょうか?
917
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 16:18:49 ID:czRftzgI0
顔を観察する時、和尚さんは実際にどのようにされたのですか?鏡を前に置いてじっくり眺めたのか、顔を触って触覚を使って観察したのですか?
918
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/04(土) 21:55:09 ID:1d4drIFg0
>>910
>>912
ただ単にお互いを必要としていなかったのじゃろう。
修業の邪魔になる執着を滅するとよいのじゃ。
大拙は何でも褒めていたのじゃ。
騙されてはいかんのじゃ。
>>913
それでよいのじゃ。
何度でも観るのじゃ。
完全に観察されれば厭離されるのじゃ。
>>914
1 無認識ではない無我なのじゃ。
2 そのような解釈でよいのじゃ。
無我でも主体の無い観念は未だ起こるのじゃ。
3 それが別かどうか自ら観察してみるのじゃ。
おぬし以外には誰にもわからないのじゃ。
4 おぬしが目玉の裏に感じているものかもしれん。
おぬし以外には誰にもわからないのじゃ。
ただひたすらに観察するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>915
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
919
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/04(土) 22:02:38 ID:1d4drIFg0
>>916
どちらでもないのじゃ。
自分の本心だけを観察するのじゃ。
>>917
何もしていないのじゃ。
わしは体が自分とは思っていなかったのじゃ。
920
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 22:38:23 ID:DAY232aw0
>>919
ご回答ありがとうございます。
質問ですが自分の本心だけを観察して、自分という観念が起こす原因を追求すれば良いのでしょうか?
921
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 00:20:47 ID:vrNcXKcg0
>>918
鬼和尚、ご回答頂きありがとうございます。今まで思考や肉体を観ることにより「それは私ではない」という距離を取る観察でしたが、転じて思考や肉体の感覚に成り切ることも苦を滅するものだと気づきました。
痛みの後に「私」が起こり、「私が痛みを感じている」という錯覚が苦の原因でした。
痛みそのものになってしまえば痛みは苦ではなく、ただの痛み。と認識しています。
このまま観察を続け、完全に悟ってみたいと思います。
922
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 04:15:41 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん
主体と意識には、どのような違いがありますか?
923
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 05:07:29 ID:ydE4b1w.0
>>918
わかりました、ありがとうございました。
924
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 05:48:06 ID:czRftzgI0
>917
子供の頃から体が自分とは思っていなかったのですか?それとも何かのきっかけで修行を始める頃には体が自分とは思っていなかったのですか?
925
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 12:50:13 ID:DAY232aw0
>>920
追記です。
それとも自分の本心だけを観察していればいいのでしょうか?
926
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 15:38:31 ID:Tu1eESLY0
>>909
鬼和尚さんありがとうございます。
腰痛はここ2日でかなり良くなりました。
鬼和尚さんのおかげですm(__)m
927
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/05(日) 21:12:51 ID:1d4drIFg0
>>920
自分の本心を観て自分と言う観念が起こることを観察するのじゃ。
そして原因も追究するとよいのじゃ。
自分と言う観念が見えなければ原因を追究することもできないのじゃ。
>>921
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>922
主体は観念なのじゃ。
本来無いものじゃ。
意識は観念ではないのじゃ。
本来存在するものであり、全てなのじゃ。
観念も主体も意識とは言えるが、謬見によるものなのじゃ。
>>923
どういたしまして、またおいでなさい。
928
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/05(日) 21:22:05 ID:1d4drIFg0
>>924
最初からなのじゃ。
何を自分と思っているかは人によって違うのじゃ。
わしは記憶を持つものが自分と思っていたのじゃ。
>>925
本心をどこまでも追求していけば自分に突き当たるじゃろう。
自分がある人間はなにを観ても最後には自分にいきつくのじゃ。
恐れずにそれを観るがよいのじゃ。
>>926
よかったのじゃ。
またおいでなさい。
929
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 22:07:45 ID:bP6oxyAs0
記憶を持つものって誰なんですか?
930
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 23:51:49 ID:ydE4b1w.0
>>928
横レス失礼しますが、「肉体が自分だ」という観念が外れるのは観照が起きたと同時にやっと外れる
ものではないんですか?それによって死の恐怖も消え去る、そういう流れだと思ってるんですが、
子供のころから肉体への同一化がないってかなり特殊では?と感じまして、、
931
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 06:26:45 ID:DAY232aw0
>>927
>>928
ありがとうございます。実践していきます。
932
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 07:00:31 ID:czRftzgI0
>924
和尚さんのような人でも10年かかったのなら、体を自分と思っている私は悟りにどれだけかかるか不安になります。
一方、執着と人との比較と人目を気にすることが全て自分があることから来ると気付きました。自我乖離に向けたいい兆候だと思います。
933
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 15:58:58 ID:FnHdG3lo0
鬼和尚
最近坐禅をしていると、座禅中のほとんどの時間は忘我の状態だったと気が付きました、
時々、それを眺めている自分がいるんですが、ほとんどの時間は忘我になっているんですね、
実際の普段の生活においても同じような状態だなと、ここ数日、そのような理解が起きたのですが
この理解は正しいでしょうか。
934
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 16:17:29 ID:U6SatYxg0
鬼和尚、ブログの
> 何にも気付かないで変ることもないならば、それは観察ではなく観念遊戯をしている事になるのじゃ。
について二つ質問があります。
1."何にも気付かないで変ることもない"以外の観察と観念遊戯の違いを見分けるすべはないのでしょうか?
2.また、観念遊戯とはどういう状態のことなのかも詳しくお聞かせください。
935
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 17:16:11 ID:DAY232aw0
>>931
お礼に続けて質問申し訳です。
質問ですが、自分と言う観念が起こることを観察して、その原因を追求すると言う事なのでしょうか?
936
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/06(月) 20:48:08 ID:1d4drIFg0
>>929
誰もいないのじゃ。
誰かが持っているのでもないのじゃ。
ただ行雲流水の如く主体無くしてあるだけのものなのじゃ。
>>930
無我になる前からなのじゃ。
自分が肉体ではないと思うものは普通にいるのじゃ。
思考とか感情が自分と思う者も多いじゃろう。
肉体は自分のものではあるが、自分そのものではないと思うのじゃ。
>>931
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>932
日々実践すれば悟りも近いのじゃ。
よい気付きなのじゃ。
自我も見えてきたのじゃろう。
自我乖離も近いのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
>>933
それでよいのじゃ。
よい瞑想なのじゃ。
忘我と気付きが多くなれば無我も近いのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
937
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/06(月) 20:59:58 ID:1d4drIFg0
>>934
1 今ここにないものごとを空想しているならば観念遊戯なのじゃ。
今ここにあるものごとを観ているならばそうではないのじゃ。
2 思考している時とか過去を思い出している時とか未来のことを考えているならば観念遊戯なのじゃ。
>>935
それでよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
938
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 21:18:32 ID:czRftzgI0
>>932
その言葉を励みにがんばります。ありがとうございました
939
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/07(火) 14:24:08 ID:U6SatYxg0
>>937
お教えありがとうございます
例えば心が動揺したときに
"同じシチュエーションでも動揺するときとしないときがある"と発見したとします。
それにより何ら変わることはできなくても"するときとしないとき"という発見があったので観察してることになりますか?
それとも過去(記憶)と比較するという思考が入っているので遊戯になってしまいますか?
940
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/07(火) 16:06:53 ID:ydE4b1w.0
>>936
そうですか、でも鬼和尚は悟る前に死を恐れてはいたんですよね、
肉体が自分だ、という観念がなくてもいまだどこかに自分という感覚があって、それが
死ぬことで消えることが怖かった、そんな感じなんですか
941
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/07(火) 17:08:18 ID:DAY232aw0
>>937
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我を厭離させれば、無我なのでしょうか?
942
:
541
:2017/11/07(火) 18:16:18 ID:nhEvgxNI0
鬼和尚は因果律は自己を離れて客観的に実在すると思いますか?
943
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/07(火) 22:19:55 ID:1d4drIFg0
>>938
どういたしまして、またおいでなさい。
>>939
そうじゃ、それが観察なのじゃ。
記憶された観念をも観察して比較しているのじゃ。
記憶された観念をあれこれと操作するのが思考であり、観念遊戯になるのじゃ。
それぞれについてなぜ動揺したり、動揺しないのか条件を観察してみるのじゃ。
>>940
そのようなものじゃ。
感情が自分ではないと思うから恐れもないわけではないのじゃ。
何を自分と思っていても恐れや不安はあるのじゃ。
>>941
そうじゃ、無我になるじゃろう。
無我を目指すのではなく、自我を完全に観察して厭離が起こり無我になるのじゃ。
自我を観ることを目指すのじゃ。
>>942
おぬしがそう思えばあるのじゃ。
思わなければ無いのじゃ。
944
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 02:25:50 ID:ydE4b1w.0
ラマナとかニサルガダッタは悟りの完成には無我に至るだけじゃなく認識を厭離させる
必要がある、ということを明確に認識しているんでしょうか?
私が無認識について言及しているところを単に見逃しているだけかもしれませんが彼らが
認識を厭離させる必要性やその具体的手順について説明しているところを聞いたことがありません。
945
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 02:32:51 ID:ydE4b1w.0
それとも色々なものを厭離させていった中で知らず知らずのうちに認識も厭離していたが
それを特別重要なこととしてみていなかったが故に別に概念化して提示するほどのものでもないだろう
的な心境だったんでしょうか
946
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 10:22:08 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん、心を観察するとは、こういう感じですか?
イライラしている場合、イライラしていることに気づく
混乱している場合、混乱している事に気づく
絶望している場合、絶望している事に気づく
>>927
ご回答ありがとうございます
947
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 10:51:59 ID:DAY232aw0
>>943
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、何を指針にすれば良いのでしょうか?
948
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 17:05:47 ID:U6SatYxg0
>>943
わかりました。そのように取り組んでみます。ご指導ありがとうございました。
あとですね、もともと自律神経失調症なんですが
最近になって、ほぼ一日中動悸が止まなくなりました。就寝時は特に激しくなります。
痛みや不安感は無いので昼間は気にしないでいられるのですが
就寝時の煩さが酷すぎて薬を飲まないと眠れなくなりました。
このような状態を改善するマッサージ等あったら教えていただけないでしょうか。
949
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 20:33:28 ID:FCZrbmx.0
鬼和尚、
意識が世界を作っていると言います。
「何か」を蛇と認識した時、本当にそれは蛇なのだと思います。
実はそれは縄だった!と気づいた時に縄になるのだと思います。
実相は蛇にも縄にもなるのだと思っていますが、鬼和尚はどのようにお考えですか?
なぜそのような質問をするかと言うと、どう思い返しみてもこれは蛇だったのに、今見ると縄になっている、と言うことが多いのです。
950
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/08(水) 20:35:00 ID:1d4drIFg0
>>944
>>945
知らんじゃろう。
知識として記憶している訳ではないのじゃ。
それを語ったのは禅の者とオショー位なのじゃ。
優れた運動選手が自分の動きを全て言葉やイメージで認識し、伝えられるのではないように、
大悟した者も自分に起きたことを全て知識として記憶し、伝えられるのではないのじゃ。
>>946
それでよいのじゃ。
今ここで起きている心の働きをありのままに認め、気付くのじゃ。
それが本心を観察する事なのじゃ。
>>947
自らの本心を指針とするのじゃ。
本心は何を欲しているのか。
本心は何をしたがっているのか。
本心はどうしたいのか。
全て知るがよいのじゃ。
そのために本心を観るのじゃ。
>>948
もともと人間は心臓が動悸しているものじゃ。
それを気にしてはいかんのじゃ。
気にすることが心の病になるのじゃ。
気にして集中すると動悸が激しくなるのじゃ。
自分で心臓に集中して動悸を激しくしているのじゃ。
それによって眠れないのじゃ。
人の体は集中する処に血液を送り込んで激しく活動するのじゃ。
走る者は足に集中し、手を使うものは手に集中して激しく動かす準備とするのじゃ。
寝るときは足の先に集中するとよいのじゃ。
よく眠れるじゃろう。
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