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鬼和尚に聞いてみるスレ part8

299熱狂的鬼ファン:2017/02/11(土) 23:08:01 ID:u3B5BON.0
>>295
乙です

300蓮恵:2017/02/11(土) 23:50:05 ID:Bfk7ET5s0
>>295
和尚様、お帰りなさいませ

301避難民のマジレスさん:2017/02/11(土) 23:57:40 ID:Jg0hNPyA0
鬼和尚さん、こんにちは。

さっき、質問しようとスレを覗いたら、しばらくはいらっしゃらないとの事でしたが、
今、再び覗いたら、戻ってきておられるようで、丁度、タイミングがよかったです。

よく、本来の自分を取り戻すといいます。この本来の自分を取り戻した場合、
皆、慈悲というか、仁というか、そのような方向に向かうのでしょうか?
それとも、人によっては、経営者や格闘家・軍人などに向いている事もあるのでしょうか?

よく、ハイアーセルフ・高次の自我などと呼ばれるものがありますが、
これが本来の自分の事なのでしょうか?
シュタイナーが風の試練と呼ばれるものを通過すれば、
高次の自我で生きれるというような事を書いていますが、
これは本来の自分で生きるという事を意味するのでしょうか?
もし、分かる事がありましたら、お教えください。

もう一つですが、我を放棄するという事が本当にできれば、
どんな人間とも上手くいくのでしょうか?
我がない人ほど、対人関係が上手くい事は、現実を見ればなんとなく分かります。
ただ、これを高度にできた人でも、相手によっては、上手くいかないものなのでしょうか?

302としぼっくり:2017/02/12(日) 02:06:51 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん、引っ越しお疲れ様です。
お帰りなさいませ。心よりお待ちしていました。
引っ越しでお疲れの所申し訳ありませんが、質問ですが、数息観をして、本心を観察観察し続けると自我に気づきますか?
引っ越し終わって、すぐに質問申し訳ないです。

303としぼっくり:2017/02/12(日) 02:09:55 ID:DAY232aw0
↑観察観察×
観察○
です。

304避難民のマジレスさん:2017/02/12(日) 10:14:01 ID:czRftzgI0
おかえりなさい、早速質問です。

1.マハルシの「あるがままに」で「何であれこの身体がすること、何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が正体を現した時既に決定されている。」「現状における困難は人が自分を行為者だと考えていることにある。全てをなすのは高次の力であり、人は単なる道具にすぎない」と言うのは本当ですか?
自分の行動と考えは自分で起こしているのではないのですか?勝手に動いているのですか?和尚さんはどうお考えですか?

2.「あるがままに」で「想念が起こる度にこの想念は誰に起きたのかを探求しなさい。その答えは私にだろう。そこで私は誰か?と問えば想念は静まるだろう。」とあります。
これは「例えば、自分は臆病だという考えが浮かんだとする。そして、この想念は誰に起きたのかを問うことで臆病な自分という想念を対象として現れた自我に起きたとまず知る。次に私は誰か?と問うことで真我と臆病な自分は同一でないと見破り、その結果臆病な自分を対象としてしか存在しえない自我は消滅する。」という理解でいいですか?

3.仏教勉強会で手を観察すれば手を乖離できるとあります。では、目の届かない背中や頭などはどうやって乖離されたのですか?

305避難民のマジレスさん:2017/02/12(日) 10:31:55 ID:czRftzgI0
2.はわかりにくいので例を変えて質問します。

2.「例えば、自分の大切な宝石という執着があるとします。そして、この想念は誰に起きたのかを問うことで宝石を対象として現れた自我に起きたとまず知る。次に私は誰か?と問うことで自分と宝石の同一化に気づき、宝石という対象なくして存在しえない自我は消滅する。」という理解でいいですか?

306:2017/02/12(日) 18:53:10 ID:t5Zgrb8A0
>>292

その時に全うすべく、行に励みます。

307鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/12(日) 22:05:35 ID:1d4drIFg0
>>296>>297>>298>>299>>300 ただいまなのじゃ。

>>301 本来の自分などないのじゃ。
 それも今の自分を手放す恐れを無くすための方便なのじゃ。
 自他の観念が無ければ他人の苦は自分の苦であり、他人の喜びは自分の喜びであるのじゃ。
 それが慈悲と呼ばれるのじゃ。

 ハイアーセルフなどもないのじゃ。
 それは大抵他人と共有する意識なのじゃ。
 本来の自己とは違う観念なのじゃ。

 我がなければもはや他人も無いのじゃ。
 社交術だけで付き合えば誰とも上手く行くのじゃ。
 他人との付き合いは感情におぼれず技だけで上手く行くからのう。
 その技術を親などから学べなかった者は難しく思うのじゃ。
 テレビのお笑いの人などは社交の達人であるから学べばよいのじゃ。

308鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/12(日) 22:18:11 ID:1d4drIFg0
>>302 どんどん観察していけばいずれ気付くじゃろう。
 自分を追及すれば早く気付くじゃろう。
 実践によって確かめるのじゃ。

>>304>>805 1 本当なのじゃ。
     人が何かやろうとしても自分の力で達成できないのはそのためなのじゃ。
     イメージの力であったり、過去の記憶であったり、さまざまな原因が自我を超えたところで働いているからなのじゃ。
    瞑想をしていればそれが如実にわかるじゃろう。

   2 そのようなものじゃ。
    観察されたものは主体ではなく観察対象である客体と認識するからのう。
    自分という観念がそれによって客体であったと気付くのじゃ。

   3 それらも感覚によってわかるじゃろう。
    目というものから起こる視覚だでなく、皮膚の触感なども観察の道具となるのじゃ。
    五感を使って観察し、その五感をも観察して厭離していくのじゃ。
    実践あるのみなのじゃ。

>>806 そうじゃ、励むのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

309としぼっくり:2017/02/12(日) 22:32:52 ID:DAY232aw0
>>308
ありがとうございます。
質問ですが、本心を観察しながら、自分を追求すると言うことでしょうか?

310避難民のマジレスさん:2017/02/12(日) 22:51:01 ID:Jg0hNPyA0
301です。

なるほど。
今の自分を手放したくないだけというわけですか。何となく分かります。
自他の観念が無いってのは、字面では分かりますが、
今の自分では、追い求める事ができない領域なので、
自分にできる事をやっていこうと思います。

社交術は親から学べなかったから、難しく感じるだけなのですね。
これも勉強していきます。

ありがとうございました。

311蓮恵:2017/02/12(日) 23:05:25 ID:Bfk7ET5s0
和尚様
仮説の正しさを検証して頂きたいのです。
心とは対象への注意力を生み出し、対象から印象を受けとる器官ではないでしょうか。
このように定義しますと、心が対象から受け取ったありのままの印象を歪めるのが、自我とか自己イメージであり、自我自体は心(対象から印象を受けとる器官) ではないのが理解できます。

となると、自我は心に付着したただのイメージです。また、無我になっても心はあると考えられます。

最近気づいたのですが、私は言葉を用いた思考をするときに眼が僅かですが、必ず左右に動きます。
和尚さまはどうでしょうか。
テクニックとして眼を動かさなければ、思考を止めることは容易になるかと思います。

312避難民のマジレスさん:2017/02/12(日) 23:36:45 ID:GXTFMGi.0
お久しぶりです。
鬼和尚、おかえりなさい。

313避難民のマジレスさん:2017/02/13(月) 02:18:05 ID:yU21UsjE0
鬼和尚、おかえりなさい。

私はある気づきを得てから、すべてを凌駕する存在というものを信じていました。
しかしそれも自我の認識だった。

「悟りや気づきを得た」
「真我が現れた」
それも自我の認識であり、そのようなストーリーを起していただけでした。

私の本体は神であると思っていましたが、
しかしそれはあえて言うならただの空間、場、ただのスクリーンだった。
ただ自我が現れる場なだけ。
それ以上でも以下でもないと思います。

ではこの世界、
何かを叶えたり、起こしたりしてるのは何なのか。
それは自我だと気づきました。
スクリーンではなく、映像の方です。
映像が映像を認識し、ストーリーがストーリーを創っている。
この映像はスクリーンに一時貯蔵され、また新たな映像となって顕れる。
そうであるからこの世は全部認識次第である。

そんなことを私は今「こうだ!」と断定し、認識していますが、
結局私はこのレスで断定し認識した世界が現れるだけでちっとも真理に届いてない。
ただ、現れるということは、現れる場があるというこを伺い知ることはできます。
というかそれしかできないし、映像として生きていくことしかできないと認識しています。
私とは無であるからこそ有が現れ、有であるからこそ無を知ることができる存在。
そんなことを今認識しています。

314避難民のマジレスさん:2017/02/13(月) 04:31:27 ID:czRftzgI0
>>304
大変参考になりました。マハルシに聞くわけには行かないので助かります。
ありがとうございました

315避難民のマジレスさん:2017/02/13(月) 04:49:51 ID:czRftzgI0
>>304
背中は皮膚の感触で観察できるに関して、どういう風にするのかが自分には分からないので、
具体的にどういう風に背中を乖離するのか教えていただけませんか?

316そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/02/13(月) 18:50:46 ID:wNz1vIpA0
鬼和尚
日々平穏で暇が多いです。
暇を埋めるために何かをする気にもなりません。
こんなんでいいのでしょうか。

317鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/13(月) 21:27:27 ID:1d4drIFg0
>>309 そうじゃ、その方が近道なのじゃ。
 全ての本心を観察していればきりがないからのう。
 自分を追及すれば観られるのじゃ。

>>310 どういたしまして、またおいでなさい。

>>311 そうじゃ、そのような理解で゜よいのじゃ。
 自我は名称とイメージによる観念なのじゃ。

 わしは動かないのじゃ。
 心が動かなければ目も動かないのじゃ。
 ヨーガでもトラータカという目を一点にすえて動かさない法があるのじゃ。
 試してみると善いのじゃ。

>>312 ただいまなのじゃ。

318としぼっくり:2017/02/13(月) 21:40:58 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。自分を追求すれば観られるとは、自我が観られると言うことでしょうか?それとも本心が観られると言うことでしょうか?

319鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/13(月) 21:43:06 ID:1d4drIFg0
>>313  善い観察なのじゃ。
 かなり進んでいるのじゃ。
 観察を続ければ更に多くの気付きがあるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>314 どういたしまして、またおいでなさい。

>>315 例えば服を着ているならば背中に接触する感覚がわかるじゃろう。
 それを感じていることを観察するのじゃ。
 尻とか足とかも床についているのが感じられるじゃろう。
 それらもそのままに観察するのじゃ。
 続ければそれらが対象となり自分ではないと気付くのじゃ。 
 実践あるのみなのじゃ。

>>316 そのような時こそ瞑想と観察に励むのじゃ。
 時間のあるときに精進していれば後に嘆くことも無いのじゃ。
 不死の境地に至るまで精進あるのみなのじゃ。

320としぼっくり:2017/02/13(月) 21:50:35 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん、書いてる途中にすいません。318の質問もまたよろしくお願いします。

321避難民のマジレスさん:2017/02/14(火) 08:21:10 ID:WaXk.48k0
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170126-00348696-davinci-sci&p=2
ニセの記憶は簡単に植えつけられる!全米で話題の「記憶ハッカー」が明らかにした、
あいまいな人間の記憶の実態とは?

上記の記事の中では人の記憶は私たちが思うよりかなりいい加減なもののようですが
逆にこれを利用し自我が記憶を参照する時に自己の卑小な否定的なイメージを消し
幸福に向かうよう仕向けることも可能ですか?

以前どこかで和尚が書いていたと思いますがいやな記憶に振り回されるならその記憶を
漫画やアニメの主人公のことだと思うなどの方法でいいのでしょうか?
それともそれに負けないくらい幸福なイメージを常に抱くほうが早いですか?

自己のイメージを回復するのにもっといい方法があれば教えてくださいませ

322素人A:2017/02/14(火) 08:41:28 ID:gOqWUDAs0
ミストラル https://www.youtube.com/watch?v=gOHUzpoYSlQ
灼けつく太陽が 歩道を焦がしている さまよう二人を さえぎるように 出会いの海が今 静かにざわめいてる
あの日の想いを くすぐるように もう一度夢を 輝いていた日々を このまま二人 引き返したくはない
今はまだ眠ってる 未来にめぐりあいたい 涙があふれるときも この手をはなさずにいてね
はしゃいだ毎日を 不安を操り返して 二人はさすらう 運命の海 哀しい夜ならば 私をそばにおいて
つないだ指先 願いをこめて すべてを受けて 駆けぬける風になる こぼれた愛を そっと運ぶように
今はまだ眠ってる 未来にめぐりあうたび 心を閉ざさないでね この手のぬくもりのままに
すべてを受けて 駆けぬける風になる こぼれた愛を そっと運ぶように
今はまだ眠ってる 未来にめぐりあうたび 心を閉ざさないでね この手のぬくもりのままに
今はまだ眠ってる 未来にめぐりあいたい 涙があふれるときも この手をはなさずにいてね

323蓮恵:2017/02/14(火) 10:47:45 ID:Bfk7ET5s0
>>317
ありがとうございます。
瞑想以外でも、眼の動きを制御することは日常でもできる工夫ですね
眼が動きすぎることで思考の暴走状態になる癖が抑えられ、集中力が上がるようです。

今日お聞きしたいのは、イメージでしかない自我にたいしてどう向き合うかをお聞きしたいのですが
仏教徒ならば、自我を敵のように見て、その幻想を脱却するのが正しい道です
しかしながら、自我を親の仇のように恨めば、新しい問題を生みそうです
たとえ自我は諸悪の根元でもあり、
実態のない幻想ですがどのような態度をとるべきでしょうか
世間では慈悲の瞑想などありますが、仇というより、慈悲の対象とするべきでしょうか

324避難民のマジレスさん:2017/02/14(火) 15:21:36 ID:Jg0hNPyA0
鬼和尚様、質問があります。

思いこみの認知パターンってありますよね。
自分がどうゆう性格だとか、
あの人はあの性格だとか、
アメリカ人がいたら、自己主張が激しそうだとか、
これは幸せ・これは不幸とか、
そのような思いこみの認知パターンを解体していく事が
自我の解体、そして、悟りなのでしょうか?

雑念を排除していくってありますよね?
止観の止の方です。
これは重要ではあるが、最終到達地点である悟りではない。
このような解釈でいいのでしょうか?

鬼和尚様のブログの自己否定と自己観察の所で、

ただ黙々と己の心を観察すると、自我の観照が起こる。
見るものである筈の自我を、見ることが観照と呼ばれる現象じゃ。
見られた自我は、認識による自己同一性を失い、解体する。
そして、認識をも解体した時、人は目覚めた者となるのじゃ。

とありますが、これが自分はよく分かりません。
もっと分かりやすく説明していただけないでしょうか。

325避難民のマジレスさん:2017/02/14(火) 16:48:47 ID:2yQs4YkA0
鬼和尚、だいぶ前に鬼和尚に前世を見てもらったにもかかわらず
最近、前世なんて本当にあるのかな、あるってことにしたほうが死への恐怖がやわらぐから
鬼和尚も慈悲心でそういうことにしてるんじゃないかなって、懐疑的になってます。
超意識とかそういうものも本当は残らなくて消滅しちゃうんじゃないかな…って。
あるとないとでは大きく違います。本当のことを教えてください。
ぶっちゃけ、悟っていないものの生まれ変わりはありますか?
悟ったもののでも消えずに残るものはありますか?

326避難民のマジレスさん:2017/02/14(火) 18:48:20 ID:czRftzgI0
>>315
棒を背中に当てた時背中の皮膚が棒を感じるとともに背中のどこを刺激されているかが分かる。
それは背中を客体として感じていることだという理解でいいですか?

327避難民のマジレスさん:2017/02/14(火) 19:01:11 ID:2yQs4YkA0
>>325です。
鬼和尚のブログの更新を確認する前に書き込んじゃいました。
ブログの新記事読んだらなんとなく>>325の答えが要らなくなりました。
お騒がせしてごめんなさい。
肉体は無くなるとはいえ鬼和尚は長生きしてくださいね。
鬼和尚はかけがえのない師であり、
また、一人のおっさんとしてもいないと超絶寂しい存在だから。
で、唐突なんですが私にも名前を付けていただけないでしょうか。
あんまり勇ましくない名前が希望です。よかったらお願いします。

328避難民のマジレスさん:2017/02/14(火) 20:27:15 ID:ZRsvX/Gk0
鬼和尚さん、こんばんは。
夜、横になって寝るとき、数息観に最適な姿勢をとって、寝る前にちょっとずつ数息観をやってみたいと思います。
鬼和尚は畳の上で寝ておられるとのことで
自分もそうしてみているのですが、鬼和尚さんは寝るときに枕などを使われていますか?
それとも畳の上に直にして寝ておられますか?
また仰臥位、仰向けの姿勢は背中がまっすぐになるからなかなか数息観に向いているのですが、どうでしょうか?
仰向けで数息観するとき、どのようにしたらよい姿勢を作り、保てるでしょうか?
よろしくお願いします。

329鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/14(火) 21:53:23 ID:1d4drIFg0
>>318>>320 自我が観られるのじゃ。
 そしてそれは観念でしかなかったと気付くのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>321 それも可能じゃろう。
 催眠術や暗示やアファメーションとかでもできるのじゃ。
 
 その方法でもよいのじゃ。
 人によって方法の効果は違うのじゃ。
 自分でいろいろ試してみて最適な法法を選ぶとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>323 自我をどうしようかと考えなくてよいのじゃ。
 ただありのままに観るだけでよいのじゃ。
 それだけで厭離は起こるのじゃ。
 肉体を観察するときに手をどうしようとか、足をどうしようとか思わないようにのう。
 ただありのままに観ることが真の観察なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

330鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/14(火) 22:03:24 ID:1d4drIFg0
>>324 違うのじゃ。
 解体しなくても自我が観られたならば厭離はされるのじゃ。
 
 そうじゃ、集中は悟りではないのじゃ。

 自我は観念であるから完全に観察されればそれは観察対象として自己同一化がなくなるのじゃ。
 しかしそれはまだ無我の小悟なのじゃ。
 そして認識をも厭離すれば大悟徹底なのじゃ。

>>325>>327 おぬしの名は蓮華の如く吉祥なる蓮祥なのじゃ。
 蓮祥よ、修業に励むのじゃ。

331鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/14(火) 22:08:24 ID:1d4drIFg0
>>326 そのような理解でよいのじゃ。
 厭離が起こるまで実践あるのみなのじゃ。

>>328 枕は使わないのじゃ。
 しかしおぬしが使わないと寝られないというならば使うとよいのじゃ。
 それがおぬしに合っているならば向いているのじゃ。
 全ておぬし自身の最適なやり方にあわせるのじゃ。
 自分がやり易い方法が一番なのじゃ。
 そのようにして方法を選ぶのも修業のうちなのじゃ。
 いろいろ試してみると善いのじゃ。

332313:2017/02/14(火) 22:09:28 ID:VPC5Ct.Y0
鬼和尚、ご返信ありがとうございます。

けっこう進んでいるのですね。
意識を一点に留めているつもりでも、よく観察すると音や身体の感覚や思考など、あちらこちらに意識が対象に忙しなく向いています。

「向いている」というのは思い込みで、実は意識を向けている者などいなく、対象自体がただこの「場」に起こっていた。
そしてその対象が本当の自我だったと気づいた次第です。

しかしこれ以上何を観察すれば良いのかわからないのが正直なところです。
認識も消えるという境地とは一体何なのか…非常に興味深いです。

333としぼっくり:2017/02/14(火) 22:10:29 ID:DAY232aw0
細かい所まで聞いてすいません。大変申し訳ないです。ありがとうございます。これからどんどん実践していこうと思います。またわからない事があれば、よろしくお願いします。

334避難民のマジレスさん:2017/02/14(火) 22:52:05 ID:GXTFMGi.0
鬼和尚、だいぶ前の書き込みですが、≫278と≫279もお願いします。

335324:2017/02/14(火) 23:18:35 ID:Jg0hNPyA0
>解体しなくても自我が観られたならば厭離はされるのじゃ。

厭離の意味がよく分からないのですが、
文全体の意味として、自我を自分で認識できたらならば、
その影響を受ける事はなくなるという事でしょうか?


>自我は観念であるから完全に観察されれば
>それは観察対象として自己同一化がなくなるのじゃ。

これも、自我と同一化していれば、
その自我によって感情などが起こるが、
その自我を見つめる事ができたならば、
自我が観察対象となり、
その自我に影響される事はなくなるという事でしょうか?


>認識をも厭離すれば大悟徹底なのじゃ

これは自我が自己イメージ・プライドなどの感情を発露させる
とらわれのようなものに対して、
認識が、例えば、みかんがあるとすれば、みかんをオレンジ色・果物である
などの特色をパターンとして捉えますが、
そのパターンとして認知するものが認識でよろしいのでしょうか?

336324:2017/02/15(水) 00:03:06 ID:Jg0hNPyA0
それとも、認識とは、もっと単純なもので、
あの人はああゆう性格だという決めつけのようなものでしょうか?

自我が自分に対するもので、認識が周囲に対するもの、
これでいいのでしょうか?

337313:2017/02/15(水) 00:50:59 ID:7BINeFUs0
鬼和尚、313です。
連投ですみません。

もしかして私は、認識を観察しているのでしょうか。

意識を私の一点に向けている時は私があります(目の奥の肉体感覚を「私」としていることがわかります)
その最中、不意に車のエンジンの音を認識した時、意識がエンジン音になります。
その時先程の「私」はなく、音に成っています。
次に「音を認識したぞ」という思考に意識は成っています。

認識と現象は同じであり、それを認識していると思っている「私」も、認識される方だった…と理解します。
これは認識の観察ができていると言えるのでしょうか。

338324:2017/02/15(水) 01:06:41 ID:Jg0hNPyA0
認識についてですが、
周囲に起こる事に対する評価というものを
自分が決めているという事なのでしょうか。

小林正観さんが、
コップに水が半分入っているとして、
半分も入っていると考えるか、半分しか入っていないと考えるかは
その人次第だが、
コップに半分水が入っているという事実しかない
というような事を書いていますが、
まさにその事が認識なのでしょうか?

色々と考えてしまって、すみません。

339避難民のマジレスさん:2017/02/15(水) 15:42:29 ID:Daf3Ag0M0
鬼和尚さん、自己イメージを厭離する方法について教えてください。

私は自分を自己イメージだと思っていることが多く、とくに過去に誰かが自分の自己イメージを傷つけようとしたという記憶が、いつも怒りの苦になっています。
だから、手を観察していればそれが自分のものではないと厭離されるように、自分の過去の自己イメージも観察して厭離できれば、苦をなくせると思うのですが、どう観察すれば良いでしょうか?
手を観察するのと違って、イメージの観察というのが掴みどころがないです。

とりあえず、自分はその時こういう存在だったのというのを言葉にしてみています。
それは効果はあると思うのですが、でも、言葉が自分だと思っているのかというと違う気もします。
そうではなくて、言葉と一体化したぼんやりとしたイメージが自分なので、はっきりと厭離できた気がしません。
どうすれば自己イメージを観察できるのでしょうか?

鬼和尚さん、何か観察のコツなどがあったら教えてください。

340蓮祥:2017/02/15(水) 16:49:33 ID:2yQs4YkA0
>>330
鬼和尚、ありがとうございます!
まっさらな何かに生まれ変わった心地です。
今までの自分がなんか他人のように、記憶も心なしか他人事のように感じられます。
鬼和尚の"名前とイメージ"のお話を少しだけ理解できたような気がします。
字面もラクシュミっぽい艶があっていいですわ〜。読みはレンショウでいいんですよね。
本当にありがとうございました。大事にします!!

341避難民のマジレスさん:2017/02/15(水) 18:46:57 ID:nWzXHqEc0
鬼和尚さんおかえりなさい。引っ越しお疲れ様でした。

瞑想、座禅、数息観の違いとは、数息観は座禅に含まれ、座禅は瞑想に含まれるという解釈で合ってますか?

数息観をするとすぐにまどろみ、言葉やイメージが浮かんでは消える様になりました。
次第に何も浮かばなくなり、またイメージが突然湧いたり消えたりを繰り返しています。
目を開けて、夢の中のようなイメージを言語化すると、困り事の解決に直結することでした。
これは集中しながら観察していたのでしょうか?観察してる意識はありませんでした。これは瞑想ですか?

今日は数息観の後、頭がぼうっとするような、夢の中にいるような感覚がしばらく続き、少し困りました。
意識や視覚はいつも以上にクリアなのですが、
巨大ロボの頭に乗っているような...
家事をしようと思い、家事をする自分を外から「家事をしようと思ってしている自分」を見ているような、奇妙な感覚でした。
このまま車を運転すると事故を起こしそうで買い物に出るのはやめ、昼寝をして起きたら元にもどってました。
なぜこうなったのでしょうか?すぐに我に返る方法はありますか?

342避難民のマジレスさん:2017/02/15(水) 18:56:42 ID:czRftzgI0
>>326
ありがとうございました

343鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/15(水) 21:06:31 ID:1d4drIFg0
>>332 そのように自我と思っているものは何か観察してみるのじゃ。
 永続する主体と認識しているものを観察してみるのじゃ。
 いかなる見解にも囚われず常に新しいことを見つけようと注意するのが観察なのじゃ。

>>333 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。


>>334 >>278>>279 観照とは自我を見ることなのじゃ。
 観察によって自我に気付くことを特に観照と呼ぶのじゃ。
 そうすると自己同一化がなくなるのじゃ。
 自我はもはや観察対象であり、主体ではないと気付くからのう。
 
>>335 見られたならば自我はなくなるのじゃ。
 ただの観念と知れるからのう。
 
 そうじゃ、記憶と照合するパターン認識がなくなるのじゃ。
 そして本来の認識が起るのじゃ。

>>336 違うのじゃ。
 ものごとを記憶によって分類し、照合するのが認識なのじゃ。
 それが阿頼耶識なのじゃ。

>>337 まだなのじゃ。
 自分も完全には観察できていないのじゃ。
 サマーディには達しているのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>338 違うのじゃ。
 ものごとを記憶によって分類し、照合するのが認識なのじゃ。
 それが阿頼耶識なのじゃ。
 その働きは思考よりも早く、自我によって修正などはできないものじゃ。
 ただひたすら観察に励むことで自我を超え、観察することも出来るようになるのじゃ。

344335 336 338:2017/02/15(水) 21:21:16 ID:Jg0hNPyA0
そうであるとすると、

記憶からくる物事の見方が「認識」であり、
ある特定の条件からくる感情の発露などが「自我」なんですか?

例えば、
20万の給料があるとして、
20万の給料は安いと自分の記憶から判断するのが認識で、
安いから劣等感を持ったりするのが自我というものなのですか?

345鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/15(水) 21:30:11 ID:1d4drIFg0
>>339 とらえどころの無い心を観察するためにお釈迦様は縁起の法を教えられたのじゃ。
 例えば名前を呼ばれたらそれによって起こるのが自己イメージなのじゃ。
 それを名前を聞くことで自己イメージが起こったと観察するのじゃ。
 悪口で怒りが起こるのも傷ついた自己イメージが起こるからなのじゃ。
 ほめられたら喜ぶのもよい自己イメージが起こるからなのじゃ。
 そのように自己イメージは言葉によってさまざまに変化して起こるものじゃ。
 それをありのままに観察するとよいのじゃ。

>>340 そうじゃ、レンショウなのじゃ。
 蓮祥よ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>341 数息観は座禅だけではないのじゃ。
 立ってやるのもあるものじゃ。
 全て瞑想でよいのじゃ。

それは観察ではないのじゃ。
 智恵が生じたのじゃ。瞑想なのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

 集中状態なのじゃ。
 瞑想をやめる時に体操をしたりして日常の意識に戻るのじゃ。
 それを怠ると注意が不足するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>342 どういたしまして、またおいでなさい。

346344:2017/02/15(水) 22:40:44 ID:Jg0hNPyA0
要はパターン認識が悪く、ありのまま見る認識が良い。

そして、ここで言っている認識とは、
通常では人が気付かないレベルで行われている
脳の情報の処理というものですよね?

そうすると、自我と認識は別モノと捉えた方が良いのでしょうか?

それで、認識を改める方が難しいので、
自我を厭離すると小悟、認識を厭離すると大悟というわけですよね?

347避難民のマジレスさん:2017/02/15(水) 23:13:54 ID:9XP4Lp720
>>345
鬼和尚さん、ありがとうございます。

つまり、私が厭離しようとしている自己イメージは、私が嫌な思い出を思い出した瞬間に作られたものだということですよね?
確かに、思い出した時にだけ、傷ついたという感覚がはっきりと感じられます。
そうやって自己イメージの感覚が起こる瞬間を観察すれば厭離できるという理解で合っていますか?
こうやって、その時その時にだけ生まれているような感覚が自己イメージであるならば、それは確かに自分ではないです。
まだ厭離できたかはっきりしませんが、できたかもしれません。
また嫌な思い出を思い出した時に確かめてみます。

的確なアドレスをありがとうございました。

348313:2017/02/16(木) 00:04:21 ID:6HMnteno0
鬼和尚、ありがとうございます。
これはより細やかな観察が必要となりそうですね。
それとも既に現れているのに、ただ見落として気づいていないだけなのか…。
もっと観察してみます。
アドバイス頂きましてありがとうございました。
またよろしくお願い致します。

349避難民のマジレスさん:2017/02/16(木) 09:10:30 ID:nWzXHqEc0
>>345
違いの区別つかなかったのが、よくわかりました。

智恵が生じることと観察は違うのですね。
でも確かに苦を滅するために囚われることはないですね。わかりました。

瞑想をやめても集中状態が続くことがあるのですね。今、試しに瞑想後にヨガをやったところ、頭がスッキリしました。

お導きありがとうございます。

350龍氣:2017/02/16(木) 14:04:15 ID:cVgUA7Co0
鬼和尚、お邪魔します。
ダンマパダ311 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、
地獄にひきずりおろす
正しい方法とはなんでしょうか?
修行の動機が邪なものであったりするならば、
より一層ひどいこともおきたりするのでしょうか?

351344:2017/02/16(木) 20:02:32 ID:Jg0hNPyA0
自我というのが、自分であるという意識で、
それが特定の事物と結びつく・一体化すると、執着などを生み出す。

それを厭離するのが、小悟。

観察によって、自分の自我を観察対象とするのは、
観察対象とする事によって、自我と事物との距離を作るため。

認識は、記憶と照合するパターン認識が悪く、ありのまま見る認識が良い。

ここで言っている認識とは、
通常では人が気付かないレベルで行われている脳の情報の処理。

自我を厭離するよりも、認識を厭離する方が難しく、
認識を厭離すれば、大悟。

これでいいのでしょうか?

352344:2017/02/16(木) 20:04:22 ID:Jg0hNPyA0
(追加です)

つまり、自我と認識は別物と考えた方がよい。

353鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/16(木) 21:28:05 ID:1d4drIFg0
>>346 そうじゃ、自我は認識されている観念に過ぎないのじゃ。
 それを過って自我が認識の主体と思っているのじゃ。
 それに気付くのじゃ。

>>347 そうじゃ、自我は刹那に起こる観念なのじゃ。
 それが原因によって起こる瞬間が見られれば消えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>348 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

354鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/16(木) 21:43:20 ID:1d4drIFg0
>>349 どういたしまして、またおいでなさい。

>>350 正しい方法とは本心を観ることなのじゃ。
 本心を観ずに偽りの心や観念を観ていたらそれに囚われてしまうのじゃ。
 そして驕り昂ぶり本人も周りの者も惑わすことになるのじゃ。

 動機が邪ならばもはや修業ともいえないのじゃ。
 金儲けや名声のために悪事をしているのと同じなのじゃ。
 そのように注意するとよいのじゃ。

>>351>>352 そのような理解でよいのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

355351:2017/02/16(木) 21:59:06 ID:Jg0hNPyA0
ありがとうございます。

実践はまだできていませんが、
和尚の考えをまず正確に理解しようと
質問攻めをしてしまいました。

お付き合いいただきありがとうございます。

これから実践していきます。

356避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 00:24:49 ID:GXTFMGi.0
>>343 >>278です。
ということは観照が起こると自我が観られる、というか観照が
起こった時点ではもうすでに観られる対象である自我(同一化の観念)は消滅している、
ということでしょうか?

357313:2017/02/17(金) 01:05:48 ID:ifOe7d1s0
鬼和尚、またひとつ質問ですみません。

自我というのは、六根ひとつひとつの働きから作りあげられた幻想のようなものだと観察しています。

例えば視覚が私の目の前にありますが、「私の目の前」と感じるのは微細なイメージによるものです。
視覚は誰の目の前にあるわけでもなく、ただここに起こったもの。

イメージも「私の中のイメージ」としていますが、観察するとこれも誰の中にあるわけではなく、ただここに起こったものです。

ですから自我は六根からの幻想であり、自我が認識しているのではなく、起こった六根が六根そのものを認識していると今は観察しています。

そして「六根」という意味付けさえも思考だったと観察すると、これは何とも言い難いエネルギーのようなものとなります。

ではこの起こっているエネルギーとは一体何なのか?という疑問が湧きます。
私はこのエネルギー自体が自我の素であり、その本質だと思っていましたが…。
一体これは何なのでしょうか?

何かヒントを頂けると幸いです。
よろしくお願い致します。

358避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 07:20:47 ID:czRftzgI0
和尚さん、ここでいう認識とは物につけたラベル(名前や性質)を頭の中で読むことですか?
例えば、目前のオレンジ色で丸い物体をかつてそれに似た物につけたみかんという名前(記憶)と照合してみかんと識別する作用を認識と呼んでいるのですか?

359蓮恵:2017/02/17(金) 08:01:06 ID:Bfk7ET5s0
和尚さま

例えばゲームのキャラって実体がない存在ですが、キャラクターのグラフィックとかボイスとか会話等の要素を見せられると、そのキャラクターが一人格として存在しているようの見える
絵師が描いたグラフィックで、声優が録音したボイス、シナリオライターが考えた会話の集合でしかないのですが

自我は本来の存在しないが、五蘊が集まると自我が存在しているように見える
また、五蘊の全てが自分の物ではない

同じ論理だと捉えることができるようになりました

360避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 08:23:53 ID:Y5LPInQE0
>>359
>自我は本来の存在しないが、五蘊が集まると自我が存在しているように見える
また、五蘊の全てが自分の物ではない

すみません、質問させてください。

>また、五蘊の全てが自分の物ではない

ここの、自分とは、自我のことでしょうか?
『五蘊の全てが自我の物ではない』ということですか?

361蓮恵:2017/02/17(金) 09:36:28 ID:Bfk7ET5s0
>>360
私は悟りを開いた訳ではないので、
回答が正しいかの責任が取れませんが、その上で答えさせていただきます
和尚さまとも違う見解かもしれません

自分の物とではないといっても、
自我のものではないといっても、
両者とも正しいし意味は通ると思います

しかし、私個人の脳内では、自我と自分という言葉は完全に違うものです
自我は認識を歪ませるイメージであり、自分は〜な存在であるとする、記憶から生まれる妄想のことです。レンズの汚れみたいなものです。
自分は、世界と世界を認識する主体を解釈する際の智恵から生まれた言葉で、仮説の概念であり、うまく生きるために定義されたものです。無分別の世界なら自分はありませんが、生きていく上でこれは自分であると分別できないと困るから、自分という言葉が使われるわけです。

362蓮恵:2017/02/17(金) 09:58:41 ID:Bfk7ET5s0
続き
>>360
自我というイメージがあると認識が歪むので、仮説的な主体(自分)をうまく定義できないのです。
自我というイメージがないと、大円境地とかいって、"ワシはこの世界と一体じゃった"的な言葉があるのは、正しい智慧で自己を定義できているから生まれる言葉です。
というわけで、自我はイメージでしかないのですが、自分は仮説的な主体でありむしろ智慧によって定義されるべきものです。

ということで、私は、「自我」を何かの所有格と見れないので、"自我のものである"というフレーズに、文法的に違和感を感じるのです。
「自分」は仮説的な主体の概念なので、 "自分のものである"という言葉には違和感は感じないのですが、両者とも意味は似たようなようなものです。

363としぼっくり:2017/02/17(金) 10:09:41 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、本心を観察しながら、自分を追求するのは、座禅しながら行った方がよろしいのでしょうか?それとも常日頃から行った方がよろしいのでしょうか?

364龍氣:2017/02/17(金) 14:13:27 ID:cVgUA7Co0
観察中に出てきた自分の気持ちがよい考えだったりに固執すると、
悪い結果をもたらすだろうな、というのはなんとなく想像がついてしまいます。

邪な動機とは願望成就等も含まれるのでしょうか?
禅の修行者等が勝負事に勝つために修行する、というのは
悪いことに含まれるのでしょうか?

365避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 16:48:54 ID:kbrYSHvs0
鬼和尚さん、また質問させてください。

お金について教えてほしいのですが、
例えば、誰かにお金で損させられてしまったと思うと、とても嫌な気持ちになります。
これはお金を自分だと思っているからなのでしょうか?
お金で苦しまないためには、お金をどう捉えたら良いと思いますか?

366避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 19:18:29 ID:eiZIpJOk0
鬼和尚のブログで、自我完成の後、自我放棄とありますが、
これはまず、他人から作られた自己イメージを自分で作った自己イメージに作り変え、
その後に、自分で作った自己イメージを放棄するということなのでしょうか?

367鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/17(金) 22:13:08 ID:1d4drIFg0
>>355 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>356 観照とは自我を観ることなのじゃ。
 観ているときはあるじゃろう。
 観ることでそれが観念に過ぎなかったと気付いて厭離されるのじゃ。
 
>>357 エネルギーなどないのじゃ。
 ただ観念あるのみなのじゃ。
 その事実に恐れを抱くといろいろ考えてしまうのじゃ。
 思考するのではなくただあるがままに観察するのじゃ。

>>358 そうじゃ、それが認識なのじゃ。
 その作用を止めようと思っても止まるものではないじゃろう。
 見た瞬間にもはや名前とイメージが起こってしまっているからのう。
 よく観察してみると善いのじゃ。

368鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/17(金) 22:19:43 ID:1d4drIFg0
>>359 そうじゃ、そのようなものじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>363 両方やるとよいのじゃ。
 瞑想している時も、日常も自分を追及すれば進歩も早いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>364 そうじゃ、そのようなものを昔から野狐禅とか言ったりするのじゃ。
  勝負に勝つためとかも悪いことになるのじゃ。
 ただひたすらに悟りを求めて瞑想するのが正しい動機なのじゃ。

>>365 自分ではないが、自分のものと思っているのじゃ。
 この世のお金は子供が遊びで葉っぱをお金としているようなものじゃ。
 交換のための道具に過ぎないのじゃ。
 生きているときだけ役に立つものじゃ。
 そのように道具として捉えたらよいのじゃ。

>>366 そのような理解でよいのじゃ。
 他人の言いなりでは悟りを目指すこともできないからのう。
 自分を自分の主とするのじゃ。

369としぼっくり:2017/02/17(金) 23:25:55 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。早速、実践していこうと思います。

370避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 23:35:15 ID:eiZIpJOk0
366
返答をありがとうございます。
私は自我完成からやっていきます。

371避難民のマジレスさん:2017/02/18(土) 00:27:19 ID:uCTaZ5cc0
>>368
鬼和尚さん、回答ありがとうございます。
でも、お金が道具だと考えたとしても、お金を貴重だと思ってしまい、失いたくないという気持ちになってしまいます。
お金に執着する苦をなくす方法を、もう少し詳しく教えてください。
お願いします。

372313:2017/02/18(土) 01:06:36 ID:OG.0SVTA0
鬼和尚、お答え頂きありがとうございます。

エネルギーなどなく、これは観念なのですね!!
もしかしてそうなのではないかと仮説を思考しておりました。
しかし今度は仮説や思考ではなく、実際に観察しきってみようと思います。

373避難民のマジレスさん:2017/02/18(土) 06:44:57 ID:czRftzgI0
>>358
はい、観察に努めます

374:2017/02/18(土) 12:36:54 ID:riPWbNKI0
「思いつき、発想、何かの拍子で思い出す記憶。
このようなものが沸き上がるプロセスを観察しなさい」その一連のプロセスがアラヤシキであり、認識であると理解しております。
こんな感じでいいのですよね?

375龍氣:2017/02/18(土) 20:08:09 ID:2Lxi7rds0
ありがとうございます。
どうやら私はまずいことをしようとしていたようです。申し訳ありませんでした。
とすると、悟りを求めていない場合、数息観や観察もしてはならない、ということなのでしょうか?
ダンマパダを読む限り、俺は何がしたいのと強烈に悩んでしまいます。煩悩も捨てようとしていないのにもかかわらず、osho やお釈迦様、鬼和尚の話を読んでいったい何がしたいんだ、と。

376鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/18(土) 22:20:16 ID:1d4drIFg0
>>369 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>377 そうじゃ、いろいろ試して見るのじゃ。
 またおいでなさい。

>>371 それも原因から追求すればなくなるじゃろう。
 お金が無くて苦労したとか、親からお金は大事だと教えられてきたとかの原因が有るじゃろう。
 そのような原因からお金に対する執着があり、それがなければお金に対する執着も無いと心を観るのじゃ。
 そうすればそれもなくなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>372 そうじゃ、観察によって気付きは訪れるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

377鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/18(土) 22:25:39 ID:1d4drIFg0
>>373 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>374 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。

>>375 実践するのはよいのじゃ。
 それを以って自分は悟りのための修業をしているとするのはいかんのじゃ。
 嘘をついていることになるからのう。
 それによって驕り昂ぶり自他を苦に陥らせることになるのじゃ。

 今のおぬしのように自分が何を望んでいるのか心を観察することによって明らかにする事もできるのじゃ。
 それを悟りのための修業とはいえないが、自分を知るために行なうというならば自分に利益はあるのじゃ。
 本心を知るために実践あるのみなのじゃ。

378避難民のマジレスさん:2017/02/19(日) 00:55:52 ID:4nJZYcxk0
>>376
鬼和尚さん、ありがとうございます。
なるほど、お金への執着も原因を観察すればなくすことができるのですね。

観察してみると、私はお金を貴重だと思わなくなってしまったら、お金を失いやすくなってしまうのではないかという不安を持っていることに気づきました。
お金がなくなったら好きなように生きていけないと思っていて、つまり、今の自分に執着していることに気づきました。
つまり、お金だけではなくて、自分に執着しているようです…。
そして、自分に執着している原因は、やはり自己イメージを維持したいということだと思います。

こういう場合の自己イメージは、記憶の想起によってその都度起こっている気がしますが、合っていますか?
この場合、記憶を想起する時にできるだけ自分を観察していれば、この自己イメージを厭離できますか?
…なかなかそこまで行けるかはわかりませんが…。

379避難民のマジレスさん:2017/02/19(日) 13:51:00 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちは。

↓こんな理解でよいでありましょうか?

無我とは、自分が誰だかわからなくなっちゃうことではないでのである。

自分のもの、自分の考え、自分の感情、他人と自分、と言うとき、自分のもの、自分の考え、自分の感情 自分の存在が傷つかないように守ろうとする。
守ろうとする自我がなければ、傷つく主体はなく、不安になることも、恐れることもない。

感受して、分別して、快不快を生じる過程を幾度も経験することにより、守るべき自我が消しがたく実感されるようになり、不快を避けたいがために、不安になり、恐怖する。

だけど、感受して、その反射として危険を避けることは、無我とは関係ないことでありましょう。
これは、分別思考の前の「反射」でありましょう。

無我とは、その感受を否定するものではなく、感受するものを主体と認識することが幻想だと言うことなのでありましょう。
分別したり、快不快を感じたりするものが、主体としてあり続けると感じていることが幻想であると言うことなのかなと思うのであります。

無論、このような理解が正しかったとしても、心身の痛みを感じる今の自分の実感とは異なるのであります。
そうであるのかないのか、確かめてみたいと思うのであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)

380蓮恵:2017/02/19(日) 16:55:52 ID:Bfk7ET5s0
和尚さま
死ぬのが怖いというのが、曖昧にしか感じられませんが
もし、来世で正しい仏道に出会えなかったらと思うと恐ろしいです
精進します

381龍氣:2017/02/19(日) 17:55:41 ID:cVgUA7Co0
何やら、私の中に大きな罪悪感みたいなものがあり、
これをいやすすべをしたたか酔っぱらう以外に知らなかったところがありました。
もしかすると、そのようなものを求めるのはこれから逃れたいがためなのかもしれません。
今までのことを家族や友人たちに償いたいと考えています。
鬼和尚、私は許されるのでしょうか?
後、ぜひうちで働いて、お前なら歓迎するよ、と言ってくれたところで働こうと考えています。
ですが、少々危険ととなり合わせな仕事なのです。
やっていいのかどうか疑問と不安があります。
もしかすると自分で自分に罰を加えようとするのではないかと懸念があるのです。

382鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/19(日) 21:41:19 ID:1d4drIFg0
>>378 合っていればお金への執着はなくなるじゃろう。
 なくならなければ違うのじゃ。
 観察が完全になればそれも消えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>379 そのような理解でよいのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>380 そうじゃ、今の世で精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>381 許されるのじゃ。
 その罪悪感もまた過去の記憶が原因に過ぎないかもしれんのじゃ。
 危ない仕事は避けて安全に自分を観るとよいのじゃ。
 原因がわかれば罪悪感も消えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

383としぼっくり:2017/02/19(日) 23:50:08 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、瞑想をするときに、数息観とは別に、自分を追求する瞑想を行った方がよろしいのでしょうか?

384避難民のマジレスさん:2017/02/20(月) 19:17:12 ID:izxhxeRQ0
>>382
鬼和尚さん、ありがとうございます。
観察してみたのですが、私にはまだ自分の自己イメージの生まれる瞬間を見ることができないようなので、瞑想して集中力を鍛えたいと思います。
でも、お金への執着が自分への執着だとわかっただけで、かなり不安がなくなりました。
さらに実践してみます。
ありがとうございました。

385鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/20(月) 20:43:48 ID:1d4drIFg0
>>383 そうじゃ、数息観は集中の行なのじゃ。
 自分を追及するのは観察の行なのじゃ。
 集中して雑念が無くなった状態で自分を追求するとよいのじゃ。
 それが止観の修行なのじゃ。

>>384 善かったのじゃ。
 またおいでなさい。

386としぼっくり:2017/02/20(月) 21:11:24 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問ですが、本心を観察するのも、観察の行になるんですか?

387龍氣:2017/02/21(火) 14:18:31 ID:cVgUA7Co0
鬼和尚、ありがとうございます。
善事をなし、驕りに気を付けて励みます。
ただこのままだと老いたときに路頭に迷いそうな気もしてます。
仕事を決めようとする際、自分の心を見なければ遠回りになるのでしょうか?

388:2017/02/21(火) 14:32:27 ID:n.IQ64bs0
心に浮かぶもの。
無意識の範疇ではかなりの情報が浮かび上がっていますが、その情報は高速で流れていきます。
これが認識であり、アラヤシキ。
自分に障りがない、対象に執着がなければこの高速の情報にアクセスすることはない。
従って認知することはなく消えていく。
それは寝ている時にも続いている。

これが答えと観ました。
永遠の意識といえるかどうかはまだわかりません。

389避難民のマジレスさん:2017/02/21(火) 19:03:51 ID:czRftzgI0
和尚さん、制感の法を行うには、座ってから目を閉じて視覚の制限から始めるのじゃ。
以下、目を閉じただけでは・・・肉体の感覚が全て消えれば・・・それは空無辺処定とか識無辺処定と呼ばれる境地じゃ。さらに言葉や分別する心の働きからも注意力を止め、言葉を使おうとする意志や「何ものかを分別する」働きも捨てたならば、速やかにサマーディは訪れるじゃろう。

Q,この「何ものかを分別する」は、物自体を認識する意味(例えばみかんと認識する)で、好悪を判断する分別(みかんの好き嫌い)の意味ではないですか?上の文は何ものかを認識する事自体を止めよということですか?

390鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/21(火) 21:17:35 ID:1d4drIFg0
>>386 そうじゃ、それこそが観察の行そのものなのじゃ。
 常に本心を観察するならば、正しく観察ができたといえるのじゃ。
 偽りの心を観察すれば正しくは無いのじゃ。
 そのように注意して実践するのじゃ。

>>387 そうじゃ、本当は自分に合わない嫌な仕事を無理にすれば心身ともに疲弊するじゃろう。
 結局体を壊したりして辞めて別の仕事を探す遠回りになってしまうのじゃ。
 自分の性質を知り、少しでも興味が持てる仕事をすれば、楽しくやれて心身も快調になるのじゃ。
 そのように理解するとよいのじゃ。

>>388 そのような観察でよいのじゃ。
 それにも囚われず日々新たなものを見つけるように注意するのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>389 そうじゃ、物自体を認識する意味なのじゃ。
 それを観るだけでよいのじゃ。
 止める事などは不可能であるからのう。
 まずは自我を忘れる忘我を目指すとよいのじゃ。

391としぼっくり:2017/02/21(火) 21:29:56 ID:DAY232aw0
丁寧なご説明ありがとうございます。どんどん実践していこうと思います。またわからない事があればよろしく

392としぼっくり:2017/02/21(火) 21:31:16 ID:DAY232aw0
↑お願いします。すいません。

393避難民のマジレスさん:2017/02/22(水) 06:11:33 ID:czRftzgI0
>>389
ありがとうございました。が、また新たに疑問が生じました

「自分では観察している積りでも、つい記憶から生じた観念を作り出している事もあるからのう。
常に今ここに集中し、心を観察しつづければ観るものを観るのも近いのじゃ。」

「心を観察しつづければ」とは、認識しないで(何も考えないで)ただ見るだけという意味でいいですか?よろしくお願いします

394避難民のマジレスさん:2017/02/22(水) 07:55:04 ID:czRftzgI0
思考を考えないで観察をしたことがないので、本当にそんなことで何か起きるのかがわからないのです

395蓮恵:2017/02/22(水) 10:00:24 ID:Bfk7ET5s0
和尚さま
思いつきですが、クンダリニーが上がるときの恐怖と自我が破壊される時の恐怖は似ているのでしょうか?

396避難民のマジレスさん:2017/02/22(水) 15:20:08 ID:awp6alaA0
ー警告ー
あんさん等は鬼和尚に依存し過ぎてる。

397鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/22(水) 22:22:35 ID:1d4drIFg0
>>391>>392 そうじゃ、何でも聞くとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>393 そうじゃ、無心に観察すると善いのじゃ。
 そして新しい何かを発見しようと努めるのじゃ。
 今までわからなかったことにも気付くじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>394 集中すればできるのじゃ。
 まずは集中の瞑想で無念無想に至るのじゃ。
 それから観察すれば動揺することもなくなるのじゃ。

>>395 人によっては似ていると感じるじゃろう。
 気が上れば自然に我を忘れるからのう。
 自分が無くなると言う感じを受けるものも居るじゃろう。

398蓮恵:2017/02/22(水) 23:35:10 ID:Bfk7ET5s0
>>397
クンダリニー(擬き)が上がるときは、
毎回死ぬかも知れないと思うのですが、むしろ抵抗せずに死んだふりというか、リラックスするとダメージもなく終わるのです
これが修行の障壁になる無我への恐怖に役立つかなと思いまして
確かにエネルギーが上がっている最中は無我かもしれません


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