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鬼和尚に聞いてみるスレ part6
339
:
<削除>
:<削除>
<削除>
340
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/09(土) 20:31:14 ID:UGwlSoj.0
>>337
そうじゃ、一切の観念が無くなれば悟ったといえるじゃろう。
それを現す事も、現すものも居らんからのう。
想像する事も出来ない境地なのじゃ。
>>338
お釈迦様はこのように言っているのじゃ。
240 、 鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。
両親とは少し違うが悪い事をすれば、業が悪い所に導くといっているのじゃ。
よく読んでみるのじゃ。
341
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/09(土) 20:54:23 ID:WWQkaV3A0
×両親 ○良心
342
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/09(土) 21:09:35 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さん、御回答くださり有難うございました。
343
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/10(日) 17:00:25 ID:dYDN.FYU0
鬼和尚、
自我観照からの逃避により、自己同一化の対象が変わるかどうかについて教えてください。
例えば自分を思考だと思っていた人が思考を観察して、自我観照が起こりかけたとします。
ところが恐れによって逃避してしまい、思考は自分ではないと分かりつつも無我になれなかったとします。
その場合その人の自己同一化の対象は思考ではなく、他のもの、例えば認識などに変わったりするのでしょうか?
344
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/10(日) 20:19:02 ID:UGwlSoj.0
>>341
そうじゃ、良心なのじゃ。
ご苦労さんなのじゃ。
>>342
どういたしまして、またおいでなさい。
>>343
それは人によって違うじゃろう。
あくまでも思考が自分と認識する者も居るじゃろう。
他のものが自分とする者も居るじゃろう。
一瞥でも多少は自己同一化の有り方が変化するじゃろう。
それにどのように対処するかは人によって違うのじゃ。
真摯に本心を観察すれば見極める事が出来るじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
345
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/11(月) 00:37:31 ID:/c3kLEmg0
心がすべての基づきならばよく言われるように
恐れや不安はやはり恐れや不安の現実を作るのですか?
私は劣等感罪悪感マイナス思考なのでやはり恐れや不安の現実を過ごしております。
マイナス思考の原因はなかなかつかめておりません。
のでなかなかプラス思考、明るく楽しく考えることができません。
今の現実を無視してもプラス思考でいればいつかそのようになるのでしょうか?
またプラスな思考をするにはどうすればいいのでしょうか?
346
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/11(月) 11:59:16 ID:Vrd9T/mQ0
初めて質問します。鬼和尚は海外に住んだことはありますか?
国内をあちこち旅行して、見て歩いたことはありますか?
見聞を広めることは、その人を精神的に成長させると思いますか?
1つの場所にとどまることは、何らかの弊害を生むと思いますか?
修行を行う上で、望ましい環境とそうでない環境があると思いますか?
今の日本は、精神的な成熟を得るために、望ましい環境といえるでしょうか?
もし、そうでないとしたら、どのような活動が、精神的な成長にとって、
もっとも助けになるだろう、とお考えでしょうか?
少し難しい質問ですが、お答えできる範囲でよろしくお願いします。
347
:
tukuyomi
:2016/01/11(月) 15:37:41 ID:/xI3jDuQ0
何か会話できることはありますか。
348
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/11(月) 20:17:13 ID:UGwlSoj.0
>>345
そうなるじゃろう。
しかし、そのような者も実は全てがマイナス思考ではないのじゃ。
自分の好きなことや得意な事はプラス思考でやっていたりするのじゃ。
無理に自分をプラス思考にするより、そのような時の自分を観察して思い浮かべるのじゃ。
そうすれば自然にプラス思考になるのじゃ。
そして今までの自分の記憶もそのような観点から見直すのじゃ。
そうすればプラス思考の者にもなるのじゃ。
>>346
海外にはいって居ないのじゃ。
国内は見たのじゃ。
旅に出れば自分について気づく事もあるものじゃ。
今までの自分の環境を離れて見られるからのう。
静かな環境ならば何処でも修行に向いているといえるじやろう。
この国にもそのようなところはあるじゃろう。
止観を行えば最も成長するじやろう。
心を止めて自分の心を見るのじゃ。
旅に出るのも良いのじゃ。
良い友と一緒に修行するのも良いのじゃ。
実践してみるのじゃ。
>>347
何でも書いてみると良いのじゃ。
何か得られるものがあるじゃろう。
349
:
346
:2016/01/11(月) 20:45:54 ID:Vrd9T/mQ0
ご回答ありがとうございます。
心を止めて見ようとしても、なかなか落ち着かず、日々の不安で
心が押しつぶされそうなときは、どうすればよいですか?
家族が日々の生活に干渉してくるため、なかなか落ち着いて自分の心を
見ることができません。かといって、家族から離れると、自分がいなくなったあと、
家がどういうことになるだろうか、と不安になり、なかなか離れることもできません。
色々な所を旅して、きれいな景色を直に見てみたいという欲求が常にあるのですが、
結局、その辺をいつもうろうろするだけで、終わってしまいます。
結局、自分の心を見ることによって変えられるのは、自分の心だけですよね。
他人の心を変える方法というのは、存在していないのでしょうか?
350
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/11(月) 22:21:09 ID:uKFv7ITk0
いつもおしえていただき、ありがとうございます。
ダンマパダ84は、訳者によって日本語訳が違うようです。
自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。(中村元訳)
自分のためにも、他人のためにも、子のためにも悪事を働いてはならない。(今枝由郎訳など)
どちらが、原文に、より忠実なのでしょうか?
前者だと、社会的な道徳観に反するという意見があるようです。
351
:
偽和尚★
:2016/01/12(火) 01:40:10 ID:???0
以前鬼和尚が書かれていたことなので書いておきます。
>>350
ダンマパダ84は鬼和尚が「鬼和尚に聞いてみるスレ part4」で質問されて解説している書き込みがある。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1407234590/585-586
原文に近い言葉の並びは前者だけど意味的には後者だろうね。
このページにパーリ語との対訳と解説が書いてある。
http://76263383.at.webry.info/201205/article_29.html
na が英語の not や no と同じ意味のようだな。
語順は英語や漢文みたいに所々ひっくり返すと日本語的になる。
352
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/12(火) 12:45:04 ID:pEe1v5Oo0
>>344
人によって違うのですね。
ひたすらに本心を観察しようと思います。
ありがとうございました。
353
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/12(火) 17:36:13 ID:fgAdqroE0
>>348
過去の記憶から楽しかったことをなるべくいつも思い出すようにします。
無理にプラス思考としなくても良いのですね。
ありがちとうございます。
354
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/12(火) 19:50:35 ID:RKrUXRoI0
>>351
ご指摘ありがとうございました。
過去ログは目を通したつもりでしたが、見落としたか、
忘れてしまっていたようです。
再度ログを見直して、質問が重複しないよう気をつけます。
355
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/12(火) 20:41:24 ID:TVF6Vhbs0
>>349
他人の心も言葉によって変えられるじゃろう。
その前に自分の心を観るとよいのじや。
そのように思う心には未だ家族への執着が多くあるのじゃ。
家族もいずれは別れなければ成らないものである事を想うのじゃ。
家族への執着が少なくなれば、自然に家族について悩む事もなくなるのじゃ。
執着が無ければ環境も静かに出来るようになり、心も観られるようになるのじゃ。
自ら決意して家族への執着を離れるようにするのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>350
文脈からすると執着によって邪なやり方でいろいろなものを望んではならぬという意味なのじゃ。
下が正しいのに近いのじゃ。
>>351
の通りなのじゃ。
ご苦労さんなのじゃ。
>>352
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>353
そうじゃ、プラス思考の元も自分の心の中にあるのじゃ。
今まで生きてきたのであるからのう。
またおいでなさい。
356
:
346
:2016/01/12(火) 21:15:15 ID:Vrd9T/mQ0
ご回答ありがとうございます。
家族への執着は、すでにほとんど断ち切っていると思うのですが、
経済的な事情で、なかなか家族から離れられずにいます。
自ら生計を立てることができれば、これほど深く思い悩むことも無いのでしょうが、
今の日本経済は、明らかに異常だと思います。
まじめに働いても、自分の身一つ養うことさえ難しい状況になりつつあるのです。
鬼和尚は、それなりに日本のありようを観察してこられたのではないかと思うのですが、
日本の行く末について、どのようなことを考えておられますか?
日本人の精神性の変化について、何かお感じになっていることはないでしょうか。
僕が思うに、今の日本人は、「お金」というものに執着しすぎではないでしょうか。
社会の「落ちこぼれ」にならないために、子供のころは学習塾に通わされ、
大人になってからは会社に入り、寝る間も惜しんで必死に働かされます。
ある程度お金を持っている老人は、社会奉仕するかと思えばそうではなく、
孫子(まごこ)のために、あるいは、自分たちの老後のために、
持っている資産を「投資」で増やそうと、日夜躍起になって経済情報を
にらみつけているのです。
「止観」とやらが、精神を成長させるとのことですが、止観を行うためには、
もう少しゆったりとした環境を必要とするのではありませんか?
このような状態で、日本人が高い精神性を維持することは、果たして可能なのでしょうか。
日本人は、「仕事」というものに執着しすぎているのかもしれません。
鬼和尚は、仕事について、どのようにお考えでしょうか?
357
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/13(水) 09:56:50 ID:shOvb9Lg0
和尚さま
例えばトランプカードを積み上げていくような集中力と、
瞑想時の集中力とはまた違ったものなのでしょうか。
前者の集中は終わったあとに疲労感があります。
またトラタカ瞑想などにおいても、没頭するような集中をすると頭が痛くなることがあります。
かといって力を抜いて笑顔で集中というと、これがなかなか上手くできず意識が散漫してしまいます。
これらは慣れの問題であって、単に今まで力を抜いて集中することがなかったからやりにくいだけでしょうか。
358
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/13(水) 21:02:14 ID:TVF6Vhbs0
>>356
わしは何も考えないのじゃ。
一日五分でも瞑想をすれば変わっていくじゃろう。
実践する事で人は進歩していくのじゃ。
仕事は身を養う手段に過ぎないのじゃ。
それができれば自らの心を整えることに専念すると良いのじゃ。
世界とか日本とかは観念であり、自分の心の状態でよく見えたり悪く見えたりするものじゃ。
実践によって自らの心を整えた者だけが安楽に成るのじゃ。
>>357
極めれば同じと判るのじゃ。
初めのうちは違って見えるのじゃ。
目的があると肩に力が入ったりして疲れるのじゃ。
リラックスしてやると却って上手く行くのじゃ。
いろいろ試してみるのじゃ。
359
:
346
:2016/01/13(水) 21:55:26 ID:Vrd9T/mQ0
ご回答ありがとうございます。
失礼ながら、「何も考えない」というお言葉には語弊があるように思います。
鬼和尚はこうして、ここで人々の質問にお答えになっているわけですから、
何らかの思惑があってしかるべきではないでしょうか。正確にいうならば、
「その手の質問には、興味がない」ということではないですか?
瞑想は、20代の頃にずいぶんやったのですが、(僕は今30代なのですが)
いつのまにか、まったくやらなくなってしまいました。
「仕事は身を養う手段にすぎない」とのことですが、問題は、その仕事が、
「身を養う手段」でさえなくなりつつあるという現実です。ニュースによると、
今から10年後には、人工知能がかなり発達して、世の中の半分の職業は不要になるそうです。
それは、労働者の立場がさらに危うくなっていく、ということを意味しています。
我々の「労働」に対する意識自体が変わっていかなければ、
未来はかなり危ういのではないでしょうか。
しかし、和尚はこういったことにはご興味が無いようですので、対話はあきらめます。
ありがとうございました。お元気でがんばってください。
360
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/14(木) 14:40:11 ID:iU8KcD060
>>358
和尚さま
同じ集中力なのですね。
リラックスしてやっていくことを心掛けます。
ありがとうございました。
361
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/14(木) 20:45:36 ID:TVF6Vhbs0
>>359
考えない事は考える事より簡単なのじゃ。
やらないことであるからのう。
考えてしまうのが苦の元にもなるのじゃ。
今の環境が悪いのならばそれを利用する事も出来るのじゃ。
その智慧を探すのじゃ。
瞑想が助けになってくれるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>360
どういたしまして、またおいでなさい。
362
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/15(金) 16:43:45 ID:xGbZIpVg0
鬼和尚さん
自分の部屋がなく、瞑想にふさわしい静かな空間を
なかなか作ることができないのですが、
家族の生活音・テレビなどの雑音の中でも
集中力さえあれば瞑想できるものなのでしょうか?
363
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/15(金) 20:39:27 ID:TVF6Vhbs0
>>362
瞑想に熟達すればそのような環境でもできるじゃろう。
初心者には難しいものじゃ。
家族が寝静まった夜とか、早朝にするとよかろう。
あるいは外の公園とか図書館とかでもできるじゃろう。
少しの間、静かに座っていられるところならば何処でも出来るじゃろう。
そのようにして熟達すればうるさくともできるようになるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
364
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/15(金) 22:29:56 ID:xGbZIpVg0
>>363
ありがとうございます
静かになったところを寝ながら瞑想してたのですが
アパートなので、今度は他の家から聞こえてくる
ドンドンドンの一定音がなって止むを繰り返す音が
どうしても気になり捉われて、中断しました;
やはり初心者には難しいのですね><
少しの間、静かに座っていられるところ」を見つけて再度、挑戦してみます
365
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/16(土) 19:31:15 ID:TVF6Vhbs0
>>364
そうじゃ、続けてみるのじゃ。
必ず役に立つじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
366
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/16(土) 22:30:01 ID:xGbZIpVg0
>>365
はい!精進します!
ありがとうございました。
367
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/17(日) 11:37:37 ID:V7QCtwwo0
鬼和尚、2つ質問があります
・過去のすべての感情は体に蓄積されているのでしょうか?
・四随観の具体的修行方法が分かりません、どうやればいいのでしょうか?観瞑想のほうです。
それによって心の病を治したいと考えています。
368
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/17(日) 18:01:28 ID:juUyMDn60
嗜好品は慎んだほうがいいのでしょうか?
パパジはアイスクリームとかコーラをとっていたし
ニサルガダッタはヘビースモーカーだったようです。
これらは本来肉体が要求しているものではありませんよね?
ということは自我の要求なのでしょうか?
悟った人もその要求に従うのでしょうか?
修行者は慎んだほうがいいけど悟ったら関係ないのでしょうか?
よくわからなくなってきましたがよろしくお願いします。
369
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/17(日) 20:27:24 ID:TVF6Vhbs0
>>366
どういたしまして、またおいでなさい。
>>367
全てではないのじゃ。
よほど強い感情だけなのじゃ。
ただ観察するのじゃ。
例えば手を観察してしわがあると気づくのが観察による気づきなのじゃ。
そのように身体、感覚と感情の反応、思考や認識の作用をありのままに観察するのじゃ。
心の病を治すならば、法に随って観察するのじゃ。
今、自らの心にある苦の原因を探すのじゃ。
原因がわかればその原因から苦が起こり、原因が無ければ苦がないことを心に観察するのじゃ。
それが縁起の観察なのじゃ。
詳しくはわしのブログなどを参考にするのじゃ。
>>368
健康の為には慎んだほうが良いのじゃ。
特に健康に注意しなければとってもよいのじゃ。
囚われれば執着になるのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
370
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2016/01/17(日) 22:42:57 ID:dCFkZ32w0
鬼和尚
見たり聞いたりしたことに対して何かを思ったり考えたり、
何かある出来事を何度も思い返して何かを思ったり考えたり、
ということが減ってきました。
371
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/17(日) 23:25:57 ID:RKrUXRoI0
数息観の初歩の段階について2点ご教授お願いします。
1.数字を数え、呼吸を意識していると、行為が単純なためか、飽きてしまい心が別にさまよってしまいます。
そうした雑念は流すとよいとのことですが、その感覚はまだ体得できていないようです。
数字の代わりに般若心経を繰り返し心に唱えると、雑念はあまり沸かないようですが、
呼吸への意識に加え、唱えることにも意識を割くため、一点集中ではないとも感じます。
最初は、力ずくでも呼吸一点に意識を注ぐ、という意志力を重視すべきでしょうか。
2.呼吸に意識を置く、とは、呼吸の感覚などを観察する、とは意味が別で、
自分が呼吸をしていることだけを、ただ意識するということでしょうか。
372
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/18(月) 06:52:18 ID:V7QCtwwo0
>>369
ありがとうございます
実践できるようがんばりたいです
373
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/18(月) 12:13:51 ID:O.gY7K/I0
和尚さま、こんにちは。
便乗質問させてください。
>例えば手を観察してしわがあると気づくのが観察による気づきなのじゃ。
>そのように身体、感覚と感情の反応、思考や認識の作用をありのままに観察するのじゃ。
実際に手のしわを見ていて、しわがあると思ったのちに、どこか地図で見る川みたいだぞと思ったりしたのですが、
この場合、川みたいに思ったということをそのまま観察しておればよいということでしょうか。
また続けていくと手のひらに感覚が生じることで、これは気かもしれないということを思ったりしたのですが、
この場合も、その感覚と気があるのかもしれないと思っていることを観察しておればよいということでしょうか。
しかしそうこうしていると、手の観察からはずいぶんとかけ離れてしまうため、果たしてこれでいいのかと思ってしまいます。
そもそもただ思考が散漫して集中できていないだけなのではと残念な気分になります。
その場合も、それらの気分や思考を観察しておればよいということでしょうか。
また別の質問となるのですが、
体調を崩して頭がガンガン痛んだり、嘔吐などをしている時などでも、
悟った人は苦しい、辛いとは思わないのでしょうか。
なにとぞご教授いただければと思います。
374
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/18(月) 16:10:51 ID:G1GOyA0U0
和尚さま
とある武術をやっていてその極意が
誰にも影響されない場所に立つというものです。
肉体的な面だけでなく、精神的な執着や恐怖に対しても影響されない状態をキープするように言われています。武術自体には仏教の影響はありませんが、仏教の叡智に通ずると思うのですがどうでしょうか。
375
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/18(月) 20:28:50 ID:TVF6Vhbs0
>>370
善いことじゃ。
囚われが少なくなってきたのじゃ。
囚われが少なくなれば苦も少なくなるものじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
>>371
1 そうじゃ、呼吸に集中するのじゃ。
集中していればいずれ雑念も流せるようになるのじゃ。
心をコントロールする力が身につくのじゃ。
それまでひたすら集中有るのみなのじゃ。
2 そうじゃ、集中する時は集中だけをするのじゃ。
観察する時は観察だけを行うのじゃ。
そうでなければ今何をしているかわからなくなって混乱してしまうのじゃ。
>>372
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>373
身体を観察する時は、身体の観察だけを行うのじゃ。
そこから何か連想しても、雑念として流していくのじゃ。
心の働きを観察するのは、心を観察している時だけなのじゃ。
感覚を観察するのは、感覚を観察している時だけなのじゃ。
そのようにはっきり分けなければ混乱してしまうのじゃ。
心は形が無く捉え難いものであるから、混乱しないように自らはっきり区別しなければならんのじゃ。
376
:
<削除>
:<削除>
<削除>
377
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/19(火) 00:18:55 ID:b7agDo.U0
>>376
こらこらw
378
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/19(火) 04:07:12 ID:ObI.o8W.0
質問じゃないけど観察はしっかり分けてやるんだな
適当に漠然と見てた
379
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/19(火) 10:56:15 ID:iU8KcD060
>>375
なるほど、カテゴリー分けして行わなければならないということですね。
確かにこれだと混乱せずに行えそうです。
とても参考になるご教授、ありがとうございました。
またよろしければもう一つの質問もお聞かせ願えないでしょうか。
というのは数日前に風邪を引いてしまい、とても苦しい思いをしたのですが、
こういう時、覚者はどのように捉えるのだろうと気になった所存であります。
>また別の質問となるのですが、
>体調を崩して頭がガンガン痛んだり、嘔吐などをしている時などでも、
>悟った人は苦しい、辛いとは思わないのでしょうか。
よろしくお願いします。
380
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/19(火) 21:20:11 ID:TVF6Vhbs0
>>374
そうかもしれん。
制感の行に似ているのじゃ。
執着を離れる法にもなるじゃろう。
集中力を養うのにも役立つじゃろう。
続けてみると良いのじゃ。
>>378
そうじゃ、身受心法にわけてやるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>379
そのような時は五分ぐらいでよいのじゃ。
続けていなければ集中力や観察力は落ちるが、一日五分でもやれば衰えないのじゃ。
目覚めていればもはや苦ではないのじゃ。
肉体の反応をただ観るだけなのじゃ。
必要ならば安静にしたりするのじゃ。
381
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/20(水) 19:48:57 ID:RKrUXRoI0
>>375
ご指導いただきありがとうございました。
実践あるのみであるところ、質問ばかりして申し訳ありません。
1.心をコントロールし、呼吸に集中する、を
ブログにおける心の模式図に照らして言い換える場合、
縁により生じている、感覚、思考、感情からの刺激のうち、
呼吸感覚の刺激のみを選択的に認識する、ということで、
その選択を行うのが意志力である、という理解でよいのでしょうか。
自分の中で、まだ集中という言葉の定義がはっきりしません。
2.仕事中にもできる集中力を高める修行に、呼吸に集中する、というものがあるとのことですが、
呼吸に集中しようとすると、仕事が止まってしまいます。
なにかコツのようなものがあるのでしょうか。
382
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/20(水) 20:05:59 ID:oqrlJiqo0
>>380
ありがとうございます。
やはり目覚めていれば苦はないのですね。
はやくその境地に至れるよう精進いたします。
あと、身受心法にわける方法ですが、
これは各カテゴリーを均等に修行していった方がよいのでしょうか。
個人的に心の観察がやりやすいと思っているのですが、
心なら心に特化して行っていても大丈夫でしょうか。
383
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/20(水) 20:18:46 ID:ZUoPNntY0
>>381
1 それでよいのじゃ。
なにがあってもただひたすら呼吸のみを認識し続けるのじゃ。
そうすれば集中力が身につき、心をコントロールできるようになってくるのじゃ。
2 それは初心者には難しいのじゃ。
集中力を身に付け、瞑想に熟達してきたらやると良いのじゃ。
熟達してきたら、最初は七割仕事に集中し、呼吸に三割ぐらい集中するのじゃ。
仕事が止まらない位の集中がどのくらいか、自分で確かめながら実践するのじゃ。
更に熟達すれば五割ずつ集中するとか、仕事に三割、呼吸に七割集中する事も出来るようになるのじゃ。
>>382
それは本人の執着の度合いなどで変わるのじゃ。
身体に強く執着しているならば身体の観察を長く行い、厭離するとよいのじゃ。
感覚に強く囚われているならば、感覚の観察を行うべきなのじゃ。
どこにも囚われが無いならば、もはややらなくてもよいものなのじゃ。
自分の今の状態をよく観察して深く理解し、最適な法を修行するのじゃ。
384
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2016/01/21(木) 00:22:11 ID:nXU9L4RQ0
鬼和尚
個人の感覚や考えや感情などや、社会や世間の価値観や思想や習慣などは、
観察の対象としてのみ存在し得るのではないでしょうか。
それらを観察できれば、囚われることがないということでしょうか。
言葉ではうまく表せませんが…
385
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/21(木) 09:16:07 ID:oqrlJiqo0
>>383
なるほど、まずは自分が何に囚われているかを知ることですね。
そのように最適な法を見つけ精進していきたいと思います。
ご教授、ありがとうございました。
386
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/21(木) 20:42:05 ID:UDzaewgU0
>>384
修行者にとってはそうなのじゃ。
世の人々にとっては安楽に見えるのじゃ。
一切の囚われを観察によって滅すれば真の安楽が訪れるのじゃ。
それまで精進有るのみなのじゃ。
>>385
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
387
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/21(木) 21:19:24 ID:RKrUXRoI0
>>383
教えていただきありがとうございました。
例えば、歩いて移動中だとか習慣でできる簡単な作業をしているときに、
別途、集中するでもなく自分の呼吸に意識をおいておくことは、
集中の訓練の足しになりえるでしょうか。
388
:
善慧
:2016/01/22(金) 00:03:36 ID:IMvK3srE0
鬼和尚さま、お釈迦様の『感興のことば』について解説をお願いできますか?
第27章 観察 六
この世は虚妄の束縛を受けていて、未来に変化する可能性のあるもののごとくに見られる。
愚者らは煩悩に束縛されていて、暗黒に覆われている。
(かれらには)無が有であるかのごとくに見られている。
真理を見る人には何ものも存在しない。
未来に変化する……見られる、の訳注では漢訳は「但見衆色変」とあります。
何となく意味はわかるのですが、このところ未来に期待してはがっかりする愚かな自分を
実感しているだけに、すごくひっかかるものを感じてしまいます。
わかりやすく教えてくださるとうれしいです。
389
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2016/01/22(金) 19:52:35 ID:27rUw.2.0
鬼和尚
最近は仕事中ほとんど思考しなくなりました。
思考しなくても仕事は進み、いつの間にか出来上がります。
無思考でした仕事を、意識して思考を使い、
よく考えて、もっと良くできないかと思ってやり直してみたのですが、
結局無思考でやったものの方がよかったです。
初めに答えが出ていました。
390
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/22(金) 21:13:38 ID:UDzaewgU0
>>387
なるじゃろう。
二つの仕事を一度に意識して出来る事がわかるじゃろう。
実践して見るのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>388
衆生は色身が変化していくと見るのじゃ。
変化する事によって生滅があると見ているのじゃ。
実には色身があるというのも観念なのじゃ。
観念に囚われれば生滅があり、そのために苦も起こるのじゃ。
囚われればそれによって苦も起こるのじゃ。
なにものにも囚われずに進むのじゃ。
>>389
善いことじゃ。
無思考の作為ができているのじゃ。
思考が無いほうが物事は上手く行くのじゃ。
肉体が最善の作業をしてくれるからのう。
更に精進あるのみなのじゃ。
391
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/22(金) 22:24:49 ID:RKrUXRoI0
>>390
日常でもなるべく呼吸を意識する時間を増やすようにやってみます。
ご指導ありがとうございました。
392
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/22(金) 23:39:04 ID:ObI.o8W.0
いつも教えてくれてありがとうございます。質問をお願いします。
過去の出来事を思い出すと(さっきバイトに落ちた)憂鬱な気分になる。
未来の出来事を思うと(これからどうしよう)憂鬱な気分になる。
忘れてれば問題ないのだけれど、思い出すと憂鬱。「明日は月曜日か・・・」の発想のように。
カレンダーの曜日は確定されてるように、私のダメさも間違いのない事です。バイトに落ちたなどの数々の証拠。
ダメさの原因はダメだという裏付けにしか繋がらないような気がします。止観もまだまだ甘いです。
漠然としてますが、どうすればいいでしょう。長々とすいません。
393
:
善慧
:2016/01/23(土) 00:24:46 ID:M9jQuB.o0
鬼和尚さま、ありがとうございます。続く七、八との繋がりがよくわかりました。
観念に囚われていることが、身に刺さった矢なのですね…。
今はただすべてが苦しくて悲しいです。
進むことも引き返すこともできなくなって、途方にくれています。
鬼和尚さま、申し訳ありません。何だか色んなことが重なって、弱気になってます。
そらいろさまを見習って、あまり考えないようにしてもう少しがんばってみます。
394
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/23(土) 20:37:20 ID:UDzaewgU0
>>391
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ・
またおいでなさい。
>>392
そのように思うのも自己イメージがだめな自分となっているからなのじゃ。
そうであるから自分がだめな証拠を数え みつけようとする心理が働くのじゃ。
自己イメージをよくするのじゃ。
神仏との合一をイメージするとか、自分が尊敬できる人間の真似をするとかするとよいのじゃ。
そして自分がうまくやったことや絶好調だった時のことを思い浮かべるのじゃ。
実践してみるのじゃ。
>>393
苦があるならばそこに何か執着があるじゃろう。
自らの本心を観察し
395
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/23(土) 20:40:09 ID:9gKVPfeU0
>>393
苦があるならばそこに何か執着があるじゃろう。
自らの本心を観察し原因となる執着に気づくのじゃ。
そうすれば苦は消えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
396
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/23(土) 22:42:21 ID:ObI.o8W.0
392ですありがとうございました。
397
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/24(日) 18:25:34 ID:zRw4EXLs0
338 たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。
具体的には、どうやって妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼすのですか?
398
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/24(日) 20:54:16 ID:UDzaewgU0
>>396
どういたしまして、またおいでなさい。
>>397
それは自分の本心を真摯に観察するしかないのじゃ。
最終的には自分があるという観念になるがのう。
自分があるという観念から、その名前とイメージをよくしようとする欲や執着が起こるのであるからのう。
自分があるという観念が無明と呼ばれるのじゃ。
無明が無くなれば囚われもなくなるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
399
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/25(月) 18:13:27 ID:ei/K2OvM0
>>398
ありがとうございます。
自分があるという観念は、生まれたときからもっているのでしょうか?
それとも成長する過程で、どこかで作り上げたものでしょうか?
400
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/25(月) 20:19:14 ID:UDzaewgU0
>>399
個我の観念は種子としてあるのじゃ。
自分という観念に発展するのは生まれて成長してからなのじや。
特に幼少期に作られるのじゃ。
401
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/26(火) 18:04:07 ID:1O9PXXKk0
>>400
個我の観念とはどのようなものですか?睡眠中や死後に、種子としてあるのでしょうか?
自分という観念を滅ぼしても、個我の観念は生き続けるのでしょうか?
そうだとしたら、個我の観念を滅ぼすにはどうしたらよいのでしょうか?
402
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/26(火) 21:11:53 ID:UDzaewgU0
>>401
主客を分ける観念なのじゃ。
見るものと見られるものを分別しているのじゃ。
それは寝ていても有るじゃろう。
自覚できなくとも夢の中でもものを認識している事でわかるじゃろう。
悟りを得ない者が死んでもあるじゃ。
自分の観念がなくとも個我の観念はあり、やがて個体として生じる事となるのじゃ。
認識をも観察して滅すればそれも滅するのじゃ。
403
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/27(水) 18:47:27 ID:z6sb0Ox.0
>>402
夢を見ることと死後に生まれ変わることは、同じ仕組みによって起こるということでしょうか?
悟った人は常に、自分という観念も個我の観念も滅ぼされているのですか?
そうだとしたら、悟った人が睡眠から覚めるのはどういう仕組みですか?
404
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/27(水) 20:46:57 ID:UDzaewgU0
>>403
そのようなものじゃ。
死の意識は生きている者の睡眠の意識と同じなのじゃ。
そうであるから夢で死者と会えたりするのじゃ。
目覚めた者は自我の観念も個我の観念も無いのじゃ。
肉体は寝ても意識は眠らないのじゃ。
意識は常に有るのじゃ。
405
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/28(木) 17:51:51 ID:tuKgAkYA0
>>404
今起きている意識も、睡眠の意識や死の意識と同じものでしょうか?
違うならどのような違いがありますか?
悟った人に個我の観念がないなら、対象を認識することもないのではありませんか?
睡眠から覚めるにはこの世のものを認識する必要があると思いますが
その認識の働きを個我の観念が担っているなら、睡眠から覚めないような気がします。
406
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/28(木) 20:01:56 ID:UDzaewgU0
>>405
本来は同じなのじゃ。
しかし分別のある者は違うように思うのじゃ。
大抵の者はそのように思うが実際は逆なのじゃ。
個我によって対象を認識できるのではないのじゃ。
個我は認識された観念に過ぎないのじゃ。
認識の主体が我であると思う故にそのような謬見も起こるのじゃ。
謬見を離れて真実のあり方を観察すれば、個我の観念も厭離されるのじゃ。
407
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/29(金) 18:54:47 ID:GyrWS2FA0
>>406
認識には主体など無い
認識の主体という観念を生み出したのが、個我の観念
認識の主体という観念を、自分が認識しているとするのが、自分という観念
これで合っていますか?
408
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/29(金) 20:40:29 ID:oJbGNF9g0
鬼和尚様
坐禅の際、骨盤を垂直に立てるとブログで拝見したのですが
感覚がつかみにくいです。
曹洞禅などでは、坐蒲を使いお尻を後ろに突き出すとありますが
この状態は骨盤が前傾し、腰に反りがあるように思えます。
鬼和尚様のおっしゃる骨盤を立てるというのは、坐蒲なしで仙骨
が垂直になるような感じなのでしょうか。
曹洞禅の例と比較してご教授いただければ幸いです。
409
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/29(金) 21:17:06 ID:UDzaewgU0
>>407
それでもよいのじゃ。
後は実践によって自らの心の中に証明するのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>408
座蒲団でも何でも使って良いのじゃ。
大抵の者は床に直接座ると骨盤が後ろに傾くから座蒲団でも何でも使って調節するのじゃ。
それによって地面と垂直にするのじゃ。
手で触って確かめるのじゃ。
上から糸で釣られているようなイメージでも良いのじゃ。
いろいろ工夫して試してみるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
410
:
408
:2016/01/29(金) 21:50:52 ID:Gw1kkjxg0
>>409
ご教授ありがとうございます。
いろいろと試しながら、実践の中で感覚をつかんでいきたいと
思います。
411
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/30(土) 11:00:41 ID:LC3de7YgO
(´・(ェ)・`)/鬼和尚、おはようございます。
禅をして、無思考の状態をキープする訓練を続ければ、誰でも多少は上達する。けど、その無思考の状態を維持しようとする意識、それを監視している意識の主体は常にある。
無意識に落ち込めばそれただは眠ってしまっただけでありましょうが、無思考をキープする訓練で、睡眠に落ち込まないぎりぎりのとこれまで近づいて行く。
「止観」により、集中力を高め心の観察を続ければ、無意識に近い無思考の状態からとつぜん「観念」が浮かび上がる瞬間を捕らえることができる・・・かもしれない。
睡眠から目覚める時の瞬間を捕らえようとする訓練も有効とのことでありました。
それらの訓練により、主体がある意識が生じる瞬間をとらえることによって、逆に主体のない意識の存在を自ら証明すると言う理解でよいのでしょうか?
見られるもの(=主体のある意識)は見るものではない。→主体はない。
412
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/30(土) 11:49:57 ID:1sAvBPl20
鬼和尚、
便乗で座る姿勢についてお教えください。
骨盤が垂直というのがイメージしにくいです。
座った状態で
http://yoshitakaabe.blogspot.jp/2015/03/blog-post_98.html
の骨盤中立になっており、かつ骨盤上面の左右方向も水平になっている状況でしょうか?
もし、googleなどのイメージ検索で、正しい姿勢で座れている画像などがありましたら、お示しいただけますでしょうか。
また外から見て、正しい姿勢が分かりやすい向き、例えば正面とか、があればそれもお教えください。
最終的には身体の快の感覚を頼りますが、目安として使いたいと思います。
413
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/30(土) 14:53:51 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さんに質問致します。
ダンマパダ(中村元訳)によれば多くの場所に神々なる言葉が使われていますが
例えばダンマパダ420 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知りえない人…
などとありますが、中村博士の注釈ではダンマパダ417の注釈のなかで、神々といっても、人間よりはすぐれた存在である
というだけで、やはり変化や苦悩を受ける生存者なのである。神々はまだ解脱していない。とあります。
鬼和尚さんは常々神は存在しないと言っておられますが、我々の観念では神とは完全であるものという意味に捉えられますが
そのようなものは存在しないが、この場合は私たち人間よりはすぐれた存在であるが、私たちのように肉体を持たない存在を
神々と呼んでいるという解釈でも良いのでしょうか。
414
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/30(土) 21:01:34 ID:UDzaewgU0
>>410
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>411
そのような理解で良いのじゃ。
後は実践するのじゃ。
実践によって証明されるのじゃ。
>>412
それでよいのじゃ。
わしが撮ったのではないがほぼ正しい写真があったのじゃ。
仏像も正しく座っているものは少ないものじゃ。
http://photohito.com/photo/375335/
横から見たほうが判り易いじゃろう。
前からではよくわからないのじゃ。
>>413
それは昔のインド人にわかりやすいように語っただけなのじゃ。
神が居る事を常識としている者達に神は居ないとか言っていては話も出来ないからのう。
彼等の語る神さえ限定された能力しか持たない存在であると、教えるほうが受け入れ易いのじゃ。
自他の観念が無い目覚めた者も、人に語るときには主語として我といわなければならないようなものじゃ。
観念に囚われている者には観念を利用して語るのじゃ。
415
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/30(土) 21:20:23 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さん、やはり我々人間が考えるような神というものは存在せず、観念でしかないということですね。
ということは、神々が住まいたもう天界も又、実のところは推して知るべし、ということになるのでしょうか。
416
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/30(土) 21:33:28 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さんは掲示板の質問には毎日答えているのにどうしてブログの方は中々回答しないのですか?
417
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/30(土) 23:25:40 ID:fVpo49MA0
はじめまして。最近、坐禅をしています。鬼和尚さんの言われるように、姿勢に気をつけながら、呼吸に集中を持っていけるように練習しています。そこで質問があるのですが、一つは、数息観をして集中してくると、目に映る物が、ぼやけて見えてきたり、モノクロになって見えるのですが、これは正しく数息観を出来ているのでしょうか?
もう一つは、半眼で目線を落として坐禅をしているのですが、正面よりも右(横目で見る様な)に視線を持っていく方が、呼吸に意識を集中しやすいのですが、やはり正面に目線を持っていった方がいいのでしょうか? 長文になってすいません。御指南頂けると嬉しいです。
418
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/01/31(日) 20:41:32 ID:UDzaewgU0
>>415
そのようなものじや。
人が思う神は幻想なのじゃ。
この世界はどのように創られたかという疑問に答えるために想像されたものじゃ。
そのようなものに頼らずとも、自らの努力精進によって安楽は訪れるのじゃ。
>>416
半月に一度しか見ないからなのじゃ。
そろそろ行ってみるのじゃ。
>>417
そうじゃ、正しくできているのじゃ。
集中力が強くなるとそのように見えるのじゃ。
後は景色がゆがんで見えたり、一部だけ大きくなったり小さくなったり遠くや近くに見えたりするのじゃ。
特に無くともよいのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
自分のやり易い方法で良いのじゃ。
肉体が微妙な歪みを取るためにそうなるのかもしれん。
肉体の動きに任せるのじゃ。
他人に見せるための修行ではないからのう。
体に任せれば深い瞑想にも入れるのじゃ。
419
:
避難民のマジレスさん
:2016/01/31(日) 22:44:54 ID:fVpo49MA0
>>418
本当にありがとうございました。囚われずに、坐禅を続けて行こうと思います。
420
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/01(月) 07:48:16 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さん、自らを灯火として法を頼りに精進せよということですね。
御回答ありがとうございました。
421
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/01(月) 12:38:50 ID:0nHrEkwc0
>>414
確かに上丹田、中丹田、下丹田が揃っているように見えます。
自分の場合ですと、頭が前寄りになることが多いことに気づきました。
さらに励みます。
わかりやすい写真を示してくださり、ありがとうございました。
422
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/02/01(月) 20:34:17 ID:UDzaewgU0
>>419
そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
またおいでなさい。
>>420
そうじゃ、法に依って精進するのじゃ。
またおいでなさい。
>>421
良かったのじゃ。
姿勢を良くすればそれだけでサマーディにも入れるのじゃ。
またおいでなさい。
423
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/02(火) 19:46:52 ID:3UUlHmG20
前世の記憶を読み取れるというのは本当ですか?
読み取れる人と読み取れない人は何が違うのでしょうか?
また、そのような記憶はどこに保存されているのですか?
424
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/02/02(火) 20:07:49 ID:9gKVPfeU0
>>423
今の環境からわかるじゃろう。
観察力が違うのじゃ。
報いの現れがどのように違うか判ればわかるのじゃ。
今の環境に過去の報いは全て現れているのじゃ。
それを読み取れば良いのじゃ。
425
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/02(火) 22:13:36 ID:xGbZIpVg0
鬼和尚さん
数息観だけしてるんですが、いまだに「観察」の仕方がよくわかりません
ただ思考を流してくことは観察とは言わないですよね?
無理に観ようとする意識や思考もまた違うと思うし、
できてるのかさえ、よくわかりません
出来ない「観察」と云う言葉?にばかり捉われて苦痛になりつつあります
426
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/02/03(水) 21:02:01 ID:UDzaewgU0
>>425
例えば手を観察してみて、指のしわが二重になっていると気づくならばそれが観察なのじゃ。
今まで知らなかったことに気づく事が出来るのが観察の効果なのじゃ。
或いは人差し指より薬指が長いと気づいたならば、それも観察によって気づいたといえるのじゃ。
そのように観察とは注意を集中して新しい事に気づくためのものなのじゃ。
大きな事よりむしろ細かい小さな事に気づく事が善い観察なのじゃ。
後には心のほんの小さな働きにも気づく事が肝心であるからのう。
実践してみるのじゃ。
427
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/03(水) 21:21:33 ID:xGbZIpVg0
>>426
大きな事よりむしろ細かい小さな事に気づく事
ですか・・・!
「気づく事」を大事にして、またやってみます!
丁寧な回答に感謝です、ありがとうございます。
428
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/03(水) 21:26:37 ID:LC3de7YgO
>>426
(´・(ェ)・`)こんばんは、鬼和尚。
自分の修行は何もかも中途半端であります。
鬼和尚が常に言われるように、止と観は別々にやるべきだと思いますが、数息観の場合それは呼吸に集中してその強弱等を観察することであり、そこで養われた集中力観察力が、必ずしも瞑想の時だけではなく有効に活用されるようになってるであります。
つまらね妄想にとらわれて苦しむことから解放され、教わったことの実践で受けている恩恵は絶大であります。
ぎゃくにその事により、自分ががサマディや観照、無我を体得したいと向かわせる強い動機を持つことを妨げてるような気がします。
何か自分はかなり長いことこの状況にとどまってるようであります。
どうか龍明にカツを入れつください。
429
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/04(木) 19:48:00 ID:amws/c7g0
いつも教えていただきありがとうございます。
感情の観察について教えて下さい。
例えば嫌なことが起こってお腹の下辺りがググっとなった場合、
「このような肉体の反応を、私は嫌な感情であるとみなしているようだ。
これは、おそらくは胃袋が収縮しているのではないだろうか」
などと、思考で解釈しながら、観察を進めるのでしょうか?
それとも、お腹の下辺りの感覚をひたすら感じ続けることが観察なのでしょうか?
430
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/02/04(木) 20:28:48 ID:UDzaewgU0
>>427
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>428
そのような意欲はあまり無い方が進歩はあるのじゃ。
意欲が強ければ執着にもなるからのう。
あまり期待せずに日々ひたすら瞑想を行うならばいつの間にかサマーディもやってくるものじゃ。
修行は一生続くと思ってやると良いのじゃ。
悟っても悟らなくとも修行あるのみなのじゃ。
>>429
思考を交えずひたすら観察し続けるがよいのじゃ。
感覚も下腹だけでなくいろいろな所で起こるのに気づくじゃろう。
そのような気づきが大事なのじゃ。
思考があれば気づきが邪魔されるのじゃ。
思考を交えず更なる集中力と注意で観察するのじゃ。
431
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/04(木) 20:58:20 ID:LC3de7YgO
>>430
(´・(ェ)・`)ゞ鬼和尚、こんばんは。ありがとうございます。
最近、偶然知り合った人からOSHOの信心銘をいただきました。毎日少しづつ読んでます。
何か独特な解釈、言い回しであり、あれっ?ちょっと違うんじゃないかなと思いつつ読み進めて行くと、いつのまにやら、ストンと納得の行く落ちをつけてくれます。
この本はもしかしたら講演録を書き起こしたものなのでしょうか
お話しの名手でありますね。
鬼和尚は金剛経を読んでる時に、悟ったそうでありますが、OSHOの本を読んでて悟ることもあり得ますか?
432
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/04(木) 21:20:23 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん
大きなことを成すにはどうすれば良いですか?
433
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/05(金) 20:52:48 ID:5LmyN94o0
和尚さま
いままで執着自体をある程度の不快感として見ていたのですが
手放そうとすることがとても怖いということに気付きました
まるで自分の生きる意味を手放すことになりそうでとても恐ろしいです
執着自体がいままで自分と共にあったものですし、愚かと思いながら
愛しくて手放そうとなると、なんというかほだされてしまいます
ここで必要なのは意思なのでしょうか
434
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/02/05(金) 20:55:42 ID:UDzaewgU0
>>431
あるじゃろう。
オショーは話が上手いのじゃ。
読んでいると瞑想がしたくなるのじゃ。
どんどん学ぶと良いのじゃ。
>>432
大きな目標を持つのじゃ。
人生をかけるほどの大きな目標を持てば大きな事も成せるのじゃ。
その目標をかなえるために今日出来る小さな目標を考え、実行するのじゃ。
そうすれば自然にできることになるじゃろう。
435
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/05(金) 21:15:04 ID:vhqXi4pM0
>>430
身体の感覚を観察しようとした時、
思考して確認しないと、観察ができているような気になってませんでした。
しかし、正しいやりかたとしては、変化に気づいた箇所の感覚に意識を置き、
その経過ぐあいを言葉に置き換えずに見守り続けるのがよいのですね。
ご教授いただきありがとうございました。
436
:
避難民のマジレスさん
:2016/02/06(土) 01:07:11 ID:LC3de7YgO
>>434
(´・(∀)・`)/鬼和尚、ありがとうであります。
くまのお経は、鬼和尚のレス、そうさんさんの信心銘、OSHOの本とするであります。
そのうち、グルジェフにも出会えればいいなと思うであります。
437
:
433
:2016/02/06(土) 03:42:38 ID:5LmyN94o0
何度も申し訳ありません
感情もしくは認識?観察者?を空観する方法が思いつきません。
よろしければお教えいただけないでしょうか
438
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2016/02/06(土) 20:19:11 ID:UDzaewgU0
>>435
どういたしまして、またおいでなさい。
>>435
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>437
何度でも聞くがよいのじゃ。
それにはまずその認識、感情。観察者を確実に認識していなければならんのじゃ。
それが感じられなければ空と観ることもできないのじゃ。
その対象が完全に感じられたら、ひたすらそれが無でありあるものでもないものでもないとみなすのじゃ。
何度も繰り返せばその観念は無となり、作用を失うのじゃ。
実践あるのみなのじゃ
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