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鬼和尚に聞いてみるスレ part4

685避難民のマジレスさん:2014/11/25(火) 19:52:06 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
何か物事に執着しているかどうか、自分で確認したいと思います。
物事に執着しているかどうかを確認するためのヒントがいくつかあるのではないかと思うのですが、それらをお教えください。

例えばもし何かに執着していたら、それを失うと観想すると苦が起きるとか、そのようなことです。

686そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/25(火) 22:03:05 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
自分の腕や脚が、例えば箸や茶碗のような、ただの道具のように見えます。
自分の肉体ではあるけれども、そうではないようにも感じます。

687鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/25(火) 22:15:03 ID:vRfRK0P20
 今日も続くのじゃ。

  22迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌

 そのように迷いは心の乱れを生むが、悟れば好悪も無いのじゃ。
 一切の二元の論は、自ら斟酌する故に在るのじゃ。

 迷いや囚われがあれば法でさえも心を乱すが、悟れば好悪の区別も無くなるのじゃ。
 それは全ての好悪や得失や是非などの二元論が、自ら分別し、斟酌するからある故なのじゃ。


 23夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却

 夢幻や虚ろな花は、どのように労力を費やしても捉えられないのじゃ。
 得失も是非も、まとめて一辺に放り棄てるのじゃ。

 夢幻や幻覚の花は、どのように苦労しても捉える事が出来ないじゃろう。
 そのような夢幻は、得る事も無ければ失う事も無く、好いものとすることも無ければ悪いものとする事も在りえない。
 そのように一切の得失や是非などの分別も、夢幻として両方とも一度に放ち、脱却するのじゃ。

 何故ならば得るという事があれば、同時に失う事もあり、是認する事があれば、否認する事も生じるからなのじゃ。
 正に夢幻の花が得る事も失う事も無く、是認する事も否認される事も無いように、一辺に捨て去るのじゃ。

 24眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如

 もし眼が寝ていないのならば、全ての夢が自ら除かれるように、
 心にもし不異がなければ、一切の法は一つの如くなるのじゃ。

 どれほど沢山の夢を見ていても、目を開けば夢は自分から消えるじゃろう。
 そのようにもし心に、あれとこれが違う、異なっているというような分別が無ければ、全てのものごとが一つであると認識されるのじゃ。
 

 25一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然

 一如として本体をも無為となれば、俗世間も忘れ去られる。
 全ての法は斉しく観じられ、自然に復帰するのじゃ。

 そのようにして一切が一つと認識し、自らも無為に帰したならば、俗世間も忘れられるじゃろう。
 一切が皆斉しく平等に観られ、在るがままに回帰するじゃろう。 

 今日はここまでなのじゃ。

688鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/25(火) 22:23:45 ID:72FX90sI0
>>684 そのような観察で良いのじゃ。
 それを更に原因から観察するようにすれば、いらつくような感情が根本から絶たれるのじゃ。
 さらにその原因からの観察を、自我に行えば自我も厭離されるのじゃ。

 その意識を前面に立たせないでも良いのじゃ。
 瞑想中に使用するだけで良いのじゃ。
 
 そのようなものなのじゃ。
 分別を行う意識であるからのう。

>>685 それで良いのじゃ。
 何かに執着していれば、それを失う事を想うだけでも苦が起こるじゃろう。
 更には強く執着しているものや人は、もしも失ったらと考えることすらも拒否する心の働きがあるじゃろう。
 そのような心の働きを観察してみるのじゃ。

>>686 肉体の厭離が出来たようじゃ。
 肉体への執着から起こる不安や苦や恐れがなくなるじゃろう。
 その感覚が大事なのじゃ。
 さらに感覚や思考なども厭離していくのじゃ

689そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/25(火) 22:59:17 ID:rzoJTJNQ0
>>688
ありがとうございました。

690避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 05:40:17 ID:LC3de7YgO
>>688
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

>その意識を前面に立たせないでも良い
>瞑想中に使用するだけで良い
 
「その意識」で、客観的に自我を観察できてる時、あと一歩で無我に到達できるのではないかと感じてしまいます。
無我を知るためには、自我が「生じる」瞬間を捉え、観察し、観照を起こすことが必要であり、観察されるもの=自我は、観察者=自分ではないと自覚できる…と鬼和尚の教えを理解しておりますが、これでよいでしょうか?
良かったとして、マナシキで、分別し客観的に自我を見つめることは、自我の生じる瞬間の観察ではなく、既に生じてる自我を単に客観視しているだけですが、この客観視できる状況を追求することによる、無我の体得は不可能でしょうか?

と言うのは、マナシキで自我を客観視できるのは、瞑想が深まりつつある時等に突然わき起こる雑念の観察の時に限られてる気がするのです。
思考実験的に、雑念=自我を爼上にのせ観察しても、通常の意識での観察と区別がつきません。

自我のマナシキによる客観視の常態化=無我の体得ということにはならないのでしょうか?

また、>そのような観察で良い
>それを更に原因から観察するようにすれば、いらつくような感情が根本から絶たれる
>その原因からの観察を、自我に行えば自我も厭離される

これは、縁起の法であると思いますが、教えていただいたこの方法でいつも、原因から観察、順逆の観察、で解消してるのですが、なかなか根本から断たれるところまで到達しません。
確かにそのような克服すべき状態が起こると頻度は低くなって来ておりますが・・・そんな風に、徐々に進むものなのでしょうか?

691避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 13:07:22 ID:/1ub1Cio0
>>688
執着の確認について、ありがとうございます。
拒否や逃避も含め、心の働きを注意深く観察するのが大切なのですね。
修行の妨げになっていない執着は、さしあたり放っておいても良いのでしょうか?

ここまで書いて気づいたのですが、やはり分別に囚われていますね。
掴まずに、ただ観察することに励みます。
ありがとうございました。

692避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 21:02:34 ID:jfWCoXjM0
+   +
  ∧_∧  + キョウノセッポウ
 (0゚・∀・)   マダカナマナカナ
 (0゚∪ ∪ +
 と__)__) +

693鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/26(水) 21:40:46 ID:/HbFv/.o0
終わりも近いのじゃ。

 26 泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

 その理由などを考えて、ああだこうだと比べてはいかん。
 動きを止めれば動きは無い、止まる事をやめて動けば止まる事は無い。

 法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
 例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。
 ものが動けば止まっていると言う現象は無いじゃろう。

 27両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則

 止まる事と動く事の両方が成立する事は無く一つである事は無い。
 究極の境地においては、もはや俗世間の論理などは存在しないのじゃ。
 
 そのように止まる事と動く事が、二つとも一緒に成立すると言うことが無いように。
 一切が平等の究極の境地は、俗世の規範を離れた所で成立するのじゃ。


 28契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直

 平等の境地に心を一つに止めて在るならば、所作は共に止む。
 疑いを浄め尽し、正にまことの心をもって直く調うのじゃ。 

 そのような平等の境地に一心に心を止めるならば、何事かを為すという事も無い。
 それが無為なのじゃ。

 疑いはきよめ尽し、正にまことの心が真っ直ぐに整えらるのじゃ。
 本心と離れた不浄の心はもはや一つも無いのじゃ。

 29一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測

 一切の観念を留めず、記憶すべきものも無い。
 無心にして自ら心を明らめ、心配事によって心を疲れさせない。
 思量も及ばぬ境地であり、認識や感情も届かぬ深い境地に入るのじゃ。

 一切の観念が無くなり、記憶すべきものも無いとは、記憶による認識を離れた真の悟りの境地なのじゃ。
 記憶による認識の生み出す自我の観念や、そこから生じる一切の苦をも永遠に離れているのじゃ。

 観念の無い心は虚ろであるが、自らの光で照らされている。
 他の観念の対象によって満たされぬ心が、観念の無い無心の境地によって自ら満たされ、一切は光り輝くのじゃ。
 そこにはもはや一切の苦も無く、心を疲れさせる事も無い安心の境地なのじゃ。

 思う事も無く、認識や感情もそこには無いのじゃ。
 そのような無認識の境地こそ真の悟りなのじゃ。
 

今日はここまでなのじゃ。

694鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/26(水) 21:51:07 ID:/HbFv/.o0
>>689 どういたしまして、またおいでなさい。

>>690 そのような理解で良いのじゃ。

 分別する意識が働いている時は、自我はその意識に投射されつづけているのであるから、それを観察する事は困難なのじゃ。
 例えば自分の目玉を見るのが困難なようなものじゃ。
 見ると言う意識そのものがその主体を見難くするのじゃ。
 それ故に自我が起こる瞬間を捉えて観察する方が実際に悟った例が多いのじゃ。
 
 本当に自我の起こる原因を追求して行けば、それも可能なのじゃ。
 原因を探すのが難しいのでは在るがのう。
 それこそ自我の抵抗が激しいのじゃ。
 自分自身の存在を否定する事と捉えるからのう。
 その謬見と恐れを徐々に消していくしかないのじゃ。
 集中も観察もそのようにして続けるのじゃ。

>>691 そうじゃ、今修行の妨げにならないものならば放っておくが良いのじゃ。
 執着は次々に現れてきりが無いからのう。
 囚われずに進んでいくのじゃ。

>>692 今来たのじゃ。
 明日もWKTKして待つのじゃ。

695避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 04:59:16 ID:LC3de7YgO
>>694
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

> 分別する意識が働いている時は、自我はその意識に投射されつづけているのであるから、それを観察する事は困難
> 見ると言う意識そのものがその主体を見難くするのじゃ。
> それ故に自我が起こる瞬間を捉えて観察する
→マナシキ自体が謂わば冷静な自我みたいなものであり、冷静な自我で混乱した自我を観察しても、無我にはたどり着けないのですね。
 
> 原因を探すのが難しい
→目覚める時や、まずサマディを体験できるようになり、そこから日常の意識に戻る瞬間をとらえるとかがそれをとらえるチャンスなのですね。
>抵抗が激しい
>その謬見と恐れを徐々に消していくしかない
→はい、漫画のように、これ見よがしに、邪魔しに来ます。邪魔しているのは他ならぬわたし自身であり、わたしの弱点を誰よりも一番知ってるはずですから、邪魔するのがうまいはずであります。
一人で独学でやっていたら、迷い込みそうな迷路かたくさんあるのですね。
精進します。

696避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 15:10:27 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。

>法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
>例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。

一度だけですが、プチ無思考状態で力を抜いて深く入ろうとしたときに、
深く入ろうと思っていることや、ここがそうかとか、この場所に居続けたらいいのかという思考があることに気づいたので、
それらもろとも頭から消し去ると禅定のようなものに入りかけたことがありました。

その時に何となく感覚というかコツのようなものがわかったのですが、
そのわかったことが新しい思考となってしまい、また「こうなる」とか「ああなる」と考えてしまうようになりました。
コツがかえって惑わせるのはスポーツにも似ているなと思った次第であります。

それで話は少しさかのぼるのですが、
>信心銘19 修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。

これは煩悩に対して過度に禁欲しなくても、節度ある状態でいれば問題ないということなのでしょうか。
というのもいま性欲に対して禁欲中なのですが、一ヵ月ともなれば活力というか興味というか、
全体的に「なんとなくどうでもいいわー」な感じになっておりまして。
欲が薄くなっていくのはありがたいのですが、瞑想などの自己向上に対する気持ちまでもが薄くなってしまい、
もしかして自ら縛りつけてるのではなかろうかと思っているところであります。
このことについて、ご意見をお聞かせ願えないでしょうか。

697そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/27(木) 19:32:28 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
今朝目が覚めた時、私は思考が始まる前に身体を動かし始めていました。
その後しばらく経ってから思考が起こり始めました。
この時私は思考が起こる様子を見ていました。
その直後に「今、私はこういう考えを起こしている」と観察を言葉に表しました。
すると、思考は自分が起こしていて、思考そのものは自分ではないように見えました。

このように対象として認識できるものがあるならば、実はそれは、私や私のものではなく、また、他者や他者のものでもないように感じます。

思考は幻のようであり、私が幻を創り出していて、幻とは気付かぬまま過ごしているようです。
まるで映画「マトリックス」の、マトリックスの世界が全てデータで出来ているにもかかわらず、そうとは気付かぬまま暮らしている人々のようです。

698避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 20:39:13 ID:7rD9T5220
>>694
確かに観れば観るほど、執着だらけです。
幸い修行には差し支えていないので、さしあたり放っておいて、
淡々と止観に励もうと思います。
ありがとうございました。

699鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/27(木) 22:06:34 ID:/HbFv/.o0
今日で終わりなのじゃ。

 30真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二

 そのような真理の世界には、自他の区別も無い。
 要求に応じて言うとすれば、ただ不二と言うしかないのじゃ。

 悟りを得て見る世界には、もはや自分とか他人と言う区別は無く、認識も無いのじゃ。
 それ故に目覚めた者は自分同じ事が他人もできると思ってしまうのじゃ。

 その世界はもはや言葉には到底できないものであるが、要請に応じて無理に言葉にするとすれば、不二というのじゃ。
 不二とは自他好悪得失等の区別無く、一切がただ一つの意識である事を表しているのじゃ。


 31不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗

 不二にして皆同じならば、包含しないものとて無い。
 全ての世界の智者は皆この本源に入ったのじゃ。

 そのようにただ一つの意識が在り、皆同じと感じるならば、その中にこの世の一切が含まれているのじゃ。
 一粒の砂から広大な台地まで、一つの雲から境界の無い天空まで、何もかも一つなのじゃ。
 
 一切の世界の智者、目覚めた者達は、皆この本源の世界に入ったのじゃ。
 それは本来の在り方であり、そこに回帰する事でもあるのじゃ。

 32宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前

 その本源の在り方には時の急迫も延伸も無く、ただ一瞬の念が万年の時間と同じなのじゃ。
 在るという事も無く在らない事も無い、一切が目の前にある。

 そこにはもはや時間の観念も無く、急がなければならないとか、まだ時間が在るとか想う事も無いのじゃ。
 一瞬の念が万年の時間と等しく、三千の大世界とも同じと感じるのじゃ。

 そしてもはや在ることも、在らない事も無く、一切が目の前に現れているのじゃ。
 
 
 33極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表

 極小と大は同じ、その境界も忘絶するのじゃ。
 極大も小と同じ、その辺も見られないのじゃ。

 不二であれば極小の砂粒さえ、大地と同じであり境界も無いのじゃ。
 極大の天空も掌中の空間と同じなのは、その辺縁が表われないからなのじゃ。
 何もかもが不二であれば、そこに境界は無く、縁も無いのであるから極大極小はいずれも同じなのじゃ。

 34有即是無 無即是有 若不如此 必不須守

 不二であればものごとが有るということは即ち無いと同じであり、無いという事も有るのと同じと感じられる。
 もしこのようにならないのであれば、未だ真の悟りには至っていないのであるから、その境地を守り続けてはいかんのじゃ。

 そのように不二の境地に在れば、もはや有ると言うことと無いという事も全く同じに感じるのじゃ。
 もしこのようにならないのならば、それは未だ小悟の境地であり、真の悟りには至っていないのじゃ。

 そのような境地は守るべきではないのじゃ。
 速やかに棄てて、真の悟りの境地を目指すのじゃ。
 

 35 一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢

 分別が無ければ一つの全てがあり、全てが一つであるのじゃ。
 もしこのような境地にまで到達したのならば、もはや涅槃を究極していないのではないかという想いも要らんのじゃ。

 分別を厭離して悟りに達したならば、一切が途切れる事の無い一つのものとして感じられるじゃろう。
 肉体も一つのものでありながら一切と感じられ、一切は一つと感じられる。 

 それこそ究極涅槃の境地なのじゃ。
 その境地にまで達したならば、もはや大悟徹底の境地であり、小悟に陥っているのではないかという思いも不要なのじゃ。


 36 信心不二 不二信心 言語道断 非去来今

 信とはまことであり、究極の真実、真理、悟りと同じなのじゃ。
 まことと心は一つである。
 まことと心が一つ在るのみなのじゃ。

 その境地はもはや言葉では現せぬ、ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 人が求めるべき究極の真実、真理、悟りとは、人の心そのものなのじゃ。
 それこそが人の求めるべきもの、知り尽くすべきもの、観察し尽くすべきものなのじゃ。

 人が自らの心を求め、知り尽くし、観察し尽くしたならば、その時こそ究極の真実を知り、真理を得て、悟りに達したと言われるのじゃ。
 心が真実そのものであり、真理そのものであり、悟りそのものなのじゃ。
 それ故に心と別の所に真実や真理や悟りを求めてはいかんのじゃ。
 

 それ以上にはもはや記すべき言葉は無いのじゃ。
 ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 以上で信と心について記銘すべき事は終るのじゃ。

700鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/27(木) 22:12:27 ID:/HbFv/.o0
>>695 そうじゃ、少しずつ進んでいくのじゃ。
 それが結局は近道なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>696 そうじゃ、禁欲にも囚われすぎては煩悩になり、修行の妨げになるのじゃ。
 節度を保つてコントロールするのが大事なのじゃ。
 抑圧する事とコントロールすることは違うのじゃ。
 抑圧ばかりしてはそのようにやる気が無くなったり、別のところで爆発したりするのじゃ。
 自らの性を知ってそれに身を任せよと言うのじゃ。
 試してみるのじゃ。

>>697 それでよいのじゃ。
 思考とも厭離が始まったようじゃ。
 さらに進んでいくと良いのじゃ。

>>698 そうじゃ、囚われずに進んでいくのじゃ。
 またおいでなさい。

701そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/27(木) 23:24:59 ID:rzoJTJNQ0
>>700
ありがとうございました。

702避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 09:00:49 ID:EunOHSdE0
>>700
和尚、お返事ありがとうございます。

>抑圧する事とコントロールすることは違うのじゃ。

確かにそうだと思いました。
抑圧は言うなれば、自分のものではない体を自分の思う通りにしようという無知のあらわれかもしれませんね。
自分の物ではない以上、うまく機能するようにコントロールしてやるのが最善であることに気が付きました。
これからは節度を保ちながら操縦術を磨いていきたいと思います。

また信心銘の翻訳おつかれさまでした。
すべて保存させて頂きました。
この経は都度読み直し、また写経などにも活用していこうかと考えております。

ありがとうございました。

703避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 14:52:39 ID:LC3de7YgO
>>700
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

ちょぴっとづつ進むであります。

夏頃に集中的に取り組んだ「気」の行は、今は、意念や呼吸法で動かそうとするのはやめ、集中の対象として「温養」するにとどめています。
「気」の行は自我を強めるような気がしていたのですが、もう一度積極的に取り組んでみます。

目覚めの際の観察は、なかなかうまく行かず、たいてい観察を忘れてしまうか、目覚め直前に見ている夢の中での思考が、そのまま続いて目覚めるみたいな感じです。

今のところ、それでわかるのは、普段の雑念と夢の中の思考の性格は全く同一のものであるという、当たり前なことくらいです。

704避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 17:57:03 ID:IX7Ppgdw0
鬼和尚
現実だと信じている世界は、想像(空想)と同じものですか?

705避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 21:31:34 ID:jfWCoXjM0
>>.699
信心銘の訳と解説ありがとうございました!
最後に信心銘の講評をお願いできませんか?

706鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/28(金) 23:21:54 ID:/HbFv/.o0
>>701 どういたしまして、またおいでなさい。

>>702 そうじゃ、抑圧は正に心をもって心を操るようなものじゃ。
 本心本性を知り、囚われぬ事が肝心なのじゃ。
 囚われずに進んでいくのじゃ。

>>703 そうじゃ、観察しつづければ気付く事も増えてくるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

>>704 実際はその通りなのじゃ。
 しかし人は信じることで空想も事実として捉えてしまうのじゃ。
 神とか社会とか国家とかありもしないものを守ろうと命まで棄てるのは、哀れの極みなのじゃ。

>>705 信心銘は迷いに入ってしまった修行者のための道標と言うようなものじゃな。
 初学者のためではないのじゃ。
 法に囚われてしまい、本心、本性を明らかにするのを怠ってしまった者に、正しい道を示すのじゃ。

 そうさんは真に悟っていたのじゃ。
 本来言葉にならない悟りを、ぎりぎりまで踏み込んで現したのじゃ。
 言葉の限りを尽くして現しながら、外道には陥らなかったのは、大きな手柄なのじゃ。
 善悪も無しと説くのは六師外道の説になるからのう。
 真に生き仏なのじゃ。

707避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 13:24:37 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ

そうさんは、鬼和尚の先輩みたいな人なのですね。

自他も生死も社会も善悪も時間さえも本当はなく、一切は幻想であるとすれば、自我が見ている幻想の世界を造り出しているものは、他ならぬ自我と言うことになり、これは、我は創造主なりと宣言しているようでありますが、これは世界の真相を表現したものではなく、修行者が既成観念を破壊し、思い込みを排して自らの心の深奥にせまり、言葉で表現できない、悟りへと導くための方便なのですね!


クリスマスでにぎわう街中で「神は死んだ!」と言うプラカードをもって行進する人たちの横を、「おればまだ、生きてるぞ!」と白髭の男が通りすぎる、というアメリカの漫画を思い出しました。

708避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 21:45:32 ID:jfWCoXjM0
>>706
講評ありがとうございます!

僧さんの返照は鬼和尚が説く観照と同じですか?

709避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 21:47:13 ID:jfWCoXjM0
それからまたお願いで恐縮ですが、
鬼和尚が好きなマハームドラーの歌の解説もしていただけたら嬉しいです_| ̄|○

710鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/29(土) 21:55:19 ID:/HbFv/.o0
>>707 そうじゃ、全て方便なのじゃ。
 よく現したのじゃ。

>>708 同じなのじゃ。
 禅も昔は観察する事をも説いていたのじゃ。
 後に文字通りに禅になったのじゃ。

>>709 それもどこかに無料で公開している原文が必要なのじゃ。
 大体そうさんと同じ事を説いているのであるがのう。

711避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:45:40 ID:jfWCoXjM0
>>710
古仏の残した言葉を鬼和尚の言葉で聞きたい!という欲が凄いですw
了解しました。また楽しみにしてます。
まず英語訳です。

Mahamudra is beyond all words and symbols,
But for you, Naropa, earnest and loyal, must this be said.

The Void needs no reliance; Mahamudra rests on naught.

Without making an effort, but remaining natural,
One can break the yoke thus gaining liberation.

If one looks for naught when staring into space;
If with the mind one then observes the mind;
One destroys distinctions and reaches Buddhahood.

The clouds that wander through the sky have no roots, no home,
Nor do the distinctive thoughts floating through the mind.
Once the Self-mind is seen, Discrimination stops.

In space, shapes and colors form
But neither by black nor white is space tinged.
From the Self-mind all things emerge;
The Mind by virtues and by vices is not stained.

The darkness of ages cannot shroud the glowing sun;
The long eons of Samsara ne'er can hide the Mind's brilliant light.

Though words are spoken to explain the Void, the Void as such can never be
expressed. Though we say "the Mind is a bright light," it is beyond all words and
symbols. Although the Mind is void in essence, all things it embraces and contains.

Do naught with the body but relax;
Shut firm the mouth and silent remain;
Empty your mind and think of naught.
Like a hollow bamboo rest at ease your body.
Giving not nor taking, put your mind at rest.
Mahamudra is like a mind that clings to naught.
Thus practicing, in time you will reach Buddhahood.

The practice of Mantra and Perfections, instructions in the Sutras and
Precepts, and teaching from the Schools and Scriptures will not bring
realization of the Innate Truth.
For if the mind when filled with some desire should seek a goal,
it only hides the Light.

One who keeps the Tantric Precepts yet discriminates, betrays the vows of
Awakening,

Cease all activity; abandon all desire; let thoughts rise and fall as they
will like the ocean waves.
One who never harms the Non-abiding nor the Principles of non-distinction,
upholds the Tantric Precepts.

712避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:47:40 ID:jfWCoXjM0
He who abandons craving and clings not to this or that,
Perceives the real meaning given in the Scriptures.

In Mahamudra all one's sins are burned; in Mahamudra one is released from
the prison of this world. This is the Dharma's supreme torch. Those who
disbelieve it are fools who ever wallow in misery and sorrow.

To strive for liberation one should rely on a Guru. When your mind receives
the Guru's blessing emancipation is at hand.
Alas, all things in this world are meaningless; they are but sorrow's seeds.
Small teachings lead to acts. One should only follow teachings that are great.

To transcend duality is the Kingly View; to conquer distractions is the
Royal Practice; the Path of No-practice is the Way of the Buddhas. 0ne who
treads that Path reaches Buddhahood.

Transient is this world; like phantoms and dreams,
Substance it has none. Grasp not the world nor your kin;
Cut the strings of lust and hatred; meditate in woods and mountains.
If without effort you remain loosely in the "natural state," soon Mahamudra
you will win and attain the Non-attainment.

Cut the root of the tree and the leaves will wither;
cut the root of your mind and Samsara falls.

The light of any lamp dispels in a moment the darkness of long eons;
The strong light of the mind in but a flash will burn the veil of ignorance.

Whoever clings to mind sees not the truth of what's beyond the mind.
Whoever strives to practice Dharma finds not the truth of Beyond-practice.
One should cut cleanly through the root of the mind and stare naked.
One should thus break away from all distinctions and remain at ease.

One should not give and take but remain natural, for Mahamudra is beyond all
acceptance and rejection.
Since the consciousness is not born, no one can obstruct it or soil it;
Staying in the "Unborn" realm all appearances will dissolve into the
ultimate Dharma.
All self-will and pride will vanish into naught.
The supreme Understanding transcends all this and that.
The supreme Action embraces great resourcefulness without attachment.
The supreme Accomplishment is to realize immanence without hope.

At first a yogi feels his mind is tumbling like a waterfall;
In mid-course, like the Ganges, it flows on slow and gentle;
In the end, it is a great vast ocean,
Where the lights of Child and Mother merge in one.

Jack Kornfieldさんの訳です。

713避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:50:29 ID:jfWCoXjM0
星川淳さんの日本語訳です

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり

714避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:51:09 ID:jfWCoXjM0
切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

715避難民のマジレスさん:2014/11/30(日) 08:39:19 ID:SO86/s7A0
鬼和尚は誰に教えているのですか?
教えを受けているのは自我ですか?無我ですか?無ですか?

716鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/30(日) 22:30:09 ID:VLcESpo.0
>>711 ご苦労さんなのじゃ。


 マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
 されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
 いまこの詩を与うべし

 まずはマハームドラーというのが何か知らなければならんのじゃ。
 マハームドラーとは、ヴェーダに語られるアートマン、大乗の仏性や空、原始経典のニルヴァーナなどと同じく、
 悟りを求める者のために設けられた、観念を破壊するための観念なのじゃ。
 それは無によってのみ表され、一切の言葉やイメージでの表われを超えたものとして教えられるのじゃ。

 それ故に先ずマハームドラーは全ての言葉と象徴を超えると教えに先立って言われるのじゃ。

 ナロパはティローパの弟子であり、この詩は修行の途中であるナロパにティローパから贈られたものであったのじゃ。
 後にチベットに伝えられた故に、この詩もチベットから広まったのじゃ。

 チベット仏教は密教が主になってしまったが、この詩には未だディヤーナと観察を主とする止観の教えが残っているのじゃ。
 この詩はインドに残っていた最後の真の教えであったのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

>>715 おぬしに教えているのじゃ。
 おぬしは自我じゃろうか?
 それとも無我じゃろうか?
 それとも無じゃろうか?
 速やかに答えてみるのじゃ。

717避難民のマジレスさん:2014/12/01(月) 11:21:13 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。

依頼者ではありませんが、
マハームドラーの和尚訳ありがとうございます。

今回の詩も非常に興味深いものがあります。
wktkしながら続きを待ちたいと思います。

718鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/01(月) 22:32:39 ID:zljf.XjA0
 今日も続くのじゃ。

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

 ここでは空とマハームドラーが、一つの系統に納まる事が示されるのじゃ。
 空とは何ものにも頼らず、無によってのみ表わされる。
 マハームドラーもまた何ものにも依らずと言う。

 それは他の縁に依って起こる心を観察する、縁起の法とは完全に異なっている事を示しているのじゃ。
 縁起と空は別の修行法であり、互いに相容れる事は無いというのがティローパの教えなのじゃ。
 他の修行者には縁起と空の融合を目指し、縁起空などという観念を編み出した者も居るが、ティローパの教えは完全に違うのじゃ。
 
 空とマハームドラーの観想によって、ものごとは一切が無によって表されるものと投射され、執着は無くなり、自然に厭離が起こる。
 それを長く修練が要らず、苦労する事も無い優れた法であると詠うのじゃ。
 
 執着を取り去り、囚われを無くし、自我をも厭離して解脱をも手にする事ができるものというのじゃ。 
 

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

 空において無を見て、心に何ものも思い浮かぶ事の無い状態になったのならば、心を観よという。
 これは正に止観の法なのじゃ。

 集中ではなく、空を観想する方法でも心は鎮まり、観察に適した状態になる。
 そして心を観察する。
 それは正に観照を起こす方法なのじゃ。

 そして分別は厭離され、ブッダフッド、仏陀の境地に到達するという。
 ここには認識が厭離される事で仏陀の境地に到達する事が、明確に示されておる。

 それは唯識論でも示された事であり、一部の目覚めた禅僧も教えた事であり、そしてわしも語ってきた真の目覚めた者の在り方を示すものなのじゃ。
 正に認識が打ち破られる時、人は真に目覚めた者となるのじゃ。


 今日はここまでなのじゃ。

719鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/01(月) 22:33:23 ID:zljf.XjA0
>>717 そうじゃ、今日も続くのじゃ。

720避難民のマジレスさん:2014/12/01(月) 23:03:02 ID:LC3de7YgO
>>718
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

鬼和尚の説明を読むと、バカな龍明でもわかる気がして、できる気がするであります


721避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 15:09:01 ID:LC3de7YgO
>>718
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
昨夜と今朝、早速やってみたであります。
 
今まで、「集中」「観察」「縁起の法」等の訓練をし、その有効性を実感してきたので、「空とマハームドラーの観想」も自分なりに理解できました。
自分にとって、集中の行において難しいのは、集中しょうとする「意思」の存在で、その意思がなければ雑念にまみれ座って考えことをしてるだけになることです。
ある程度慣れて、無思考の状態、意識のエアポケットみたいなものを作れるようになり、そこに浮かび上がる雑念を客観視する意識のようなものを実感できても、それもまた、意識であり、自分の意思にもとづくものにかわりありません。
空の観想も、最初にそれを教えられたなら、何をどうやったら良いか解らなかったでしょうが、
いきなり「空」「無」「無思考」をイメージすることにより、集中の行に要する「意思」の存在がぐぅっっ後退するように感じられました。
しかし、その状態を長時間維持するのは集中同様難しく、じきに、空を観想している自分と言うイメージがわいてくる。
これは、自我が生じる瞬間をとらえて厭離する技として、私にもできるのではないかと思ってしまいました。

722避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 17:17:22 ID:jfWCoXjM0
>>718
解説ありがとうございます。いつも楽しみにしてます(・ω・`)

723そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/02(火) 18:58:23 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
教えてください。
覚醒したという方のブログがあり、そこに自我と真我とカルマについて次の記述があるのですが、これは正しいのでしょうか。

「自我について、私に起こってくる考えそのものであると書きました。
では真我はと言いますと、それは私に考えである自我を起こさせる種(カルマ)なのです。
もう少し分かりやす言えば、真我とは自我が抱え込んでいる考え(執着)を溜め込むタンクであるとともに、そのタンクに溜め込まれた考えに基づいて私に考えである自我を生じさせる装置なのです。

真我に溜められたカルマは、起こってくる考えを自我が抱え込まないで流せば減っていき、いずれ空っぽになります。
しかし、多くの人は、起こってきた考えを掴み取り、抱え込んでしまうため、真我に溜められたカルマがなかなか減りません。
悟りを得るなどして、起こってきた考えのうち、それを抱え込む量の割合が減ると、真我に溜められたカルマも減り、それによって起こってくる考えも減っていきます。」


私の成り立ち(2) - 私を知る
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/d4c3c46981add517661cdcffc6ee0657/?st=1

724避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 20:09:35 ID:NpBkhqbI0
鬼和尚さんも何か、悟りを表現した詩を書いてみてください。

725避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 21:26:40 ID:VDi3L7Co0
鬼和尚、いつもありがとうございます。
空の法をしていたからでしょうか?
体の外の音が、自分にダイレクトに響いて
猫のくしゃみが自分の中に響いてビックリしたり、遠くのカラスの音も自分の中で鳴っている。
という感じになりました。
こういう話を聞いたことがありませんので、こういうものなのか確認したい思いが出ました。
何か間違っていますか?このまま続けていいですか?
アドバイスをお願いいたします。

726鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:19:34 ID:BPNow3.w0
今日も続くのじゃ。

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

 空を行く雲の如く、分別も根も家も無いとは、それが本来自我を根本としていない事を示しているのじゃ。
 人は分別や認識、思考感情などを自我から起こると認識しておる。

 自分が認識する、自分が思考する、自分が悲しむなどと自我から身心の働きが起こると思っているのじゃ。
 しかしそれらは謬見であり、分別なども本来は何の主体も無く自動的に起こるものと言っているのじゃ。

 自性心とはそのような分別を行う心、唯識論で言えば末那識と阿頼耶識の働きをする心なのじゃ。
 分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いものじゃ。

 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われるのじゃ。
 
 空間に幻術などで、形や色が浮かぶが、空間そのものは形にも色にも染められる事は無い。
 そのように一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
 
 どれほど長い間に暗闇となっていた所があっても、日の光が差せば一瞬で闇は消える。
 そのようにどれほど長く続いた輪廻でも、観察による気付きの一瞬があれば消え去るのじゃ。

 それは常に一切衆生に悟りのチャンスが在る事を示しているのじゃ。
 多くの者は自分には悟りなど得られないと思っている。
 長い間の修行が必要とか思っているじゃろう。

 華厳経などにも何回も生まれ変わって修行しなければいかんと書いてあったりする。
 しかしそれは間違いなのじゃ。

 認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れるのじゃ。
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすからなのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

727鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:32:11 ID:BPNow3.w0
>>720>>721 そうじゃ、何でも試して見たら良いのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>722 良かったのじゃ。
 今日も続くのじゃ。

>>724 趙州頭上無靴跡なのじゃ。

>>725 それでよいのじゃ。
 空間の意識と繋がったのじゃ。
 空間がおぬしの意識となったから体の中で聞こえたように思ったのじゃ。
 空無辺の始まりなのじゃ。
 瞑想の邪魔になるならば制感の行をすると良いのじゃ。

728そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/03(水) 07:42:34 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
>>723をお願いします。

729避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 11:30:48 ID:LC3de7YgO
>>727
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

信心銘とマハームドラの鬼和尚解説を通して今まで教えていただいたことの集大成を読めているようであります。

>>726
>分別(や認識、思考感情)なども本来は何の主体も無く自動的に起こるもの
→感覚や感情の自動性は理解できるし、思考も記憶の組合せと言う意味での自動性があるのかなと思いますが、記憶だけは個別のものという感じが拭えません。
しかし、その先の認識の自動性ということについては、なんとなくそんなものかもという気もするので、だとすれば、記憶も自動なのかな・・・と

記憶も認識も主体なく自動であるとすると、起こる事=認識や記憶の対象は自動ではないとしても、起こった事実に対する認識は主体がない以上一つの認識になるはず・・・うぅぅ

>分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いもの
 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われ
>一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
>認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れる
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすから
  
→重要なのはこの辺を実践により体得することなのですね。道は遠いですががんばります!

730避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 12:50:31 ID:nm8il/2Q0
鬼和尚さん、こんにちは。

最近、やっと数息観で集中力がついてきました。
息を数えながら意識を集中して、10分の間、気がそれても、すぐに元に戻れるようになりました。
それで、さらに進むには、どうしたら良いのかを教えてください。
気が逸れることもないほどに、10分間集中できるように、練習したほうがいいのか、
自分の心を観察する練習をはじめたほうがいいのか、どちらが良いでしょうか?

731素人A:2014/12/03(水) 14:35:46 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さんひまで落ち着いた性格のひとは数息感で歩いたりパソコン見たり
テレビ見たり出来ると思うけど今の私はあれも是もしたいで少しも落ち着きが
ない困ったものだ色々な物を求めるの網止められない別に色々手足を出しても
大したものないと解っているけど人間だもので楽しい事を求める数数える暇は
無い事もないのだけど次々であせるばかり此処で書いている時は落ち着いているか
ぽ師匠も無事帰還したし少し数数えようコンビニざ前だ

732避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 17:09:50 ID:LC3de7YgO
一つの意識に全ては包含されるということが実感できることが悟り一側面なのでありましょうが、その世界は、自他も明暗も美醜も快不快も時間も世界という境界もない世界であり、安らぎのみあり、他に何もないとしたら、そこへ行きたいと思えるほどに強く「苦」を観想できるか、実感できる経験がまず必要なののかもしれないと思いました。
心の深奥を観察すれば、「苦」はいくらでも掘り起こせそうに思えますので、修行に取り組む強い動機を失わないためには、縁起の法等で簡単に楽にならず、「苦」を温存した方が良いのでしょうか?
(´・(エ)・`)ゞ

733725:2014/12/03(水) 20:55:39 ID:Pbg1oRkU0
>>727
鬼和尚、ありがとうございます。
鬼和尚は私だったのですね!ウフフ
実を申しますとずっと遊んでおりましたところ、鬼和尚のおかげで尻に火が付いたのです。
本当に感謝いたします。ますます精進いたします。

734鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:51:29 ID:gKd/0M7o0
今日もつづくのじゃ。

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

 空の法は教えるには、言葉に依らないければならない。
 しかし空そのものは言葉によっても、何ものによっても表されない。
 なぜならば無によってのみ示されるのが空であるからなのじゃ。

 誰かが空とはこのようなものであると言うならば、それは間違いになるのじゃ。
 何を語ろうとただそのようなものでは無い、無であると語る事ができるのみなのじや。

 心も又輝くとかなんとか言われるが、やはり言葉では語りえないものじゃ。
 一切の言葉と象徴を超えた、空によってのみ表されるものと観想するのじゃ。

 空でありながら、一切が心から起こり、心に収まっていく。
 それを観想するのじゃ。

 心も空ならば、一切も空であるのみなのじゃ。
 空が空から起こり、空が空に収まって行く。
 そこに何の差別も分別も無い。

 その時、心は働きを停止するじゃろう。 


からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

 仏教では肉体と言葉と心の働きを身口意と総称する。
 人の行いの一切はこの肉体と言葉と心に依るものじゃ。

 その肉体を何もしない状態にしてくつろがせる。
 言葉も話さず沈黙する。
 心も又空によって思いを滅する。

 そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。

 竹のように背骨を真っ直ぐにして力を抜いてくつろぎ、取得や附与の思いをなくし、心も休ませる。
 何ものにも執着しない心に止まれば、それはマハームドラーに例えられる境地なのじゃ。

 そのように修行するならば、仏陀の境地に至るというのじゃ。

 身口意の働きを止める事。
 心に得失などの二元論を滅する。
 一切の思いを空と観じて滅する。
 
 そのような心得を守れば大いなる印と呼ばれる法も完成し、悟りへと導かれるのじゃ。

 今日はこれまでなのじゃ。

735鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:59:52 ID:gKd/0M7o0
>>728 すまんのう見落としていたのじゃ。
 >>723 悟っていないのじゃ。
 言葉の意味もわかっていないようじゃ。
 真我などないのじゃ。

>>729 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

>>730 そのまま続けるのじゃ。
 やがて雑念がありながら集中できる状態になるじゃろう。

 そしてさらに続ければ雑念が自然に止まるまで流していけるようにもなるじゃろう。
 雑念や思考が止まり、それにもかかわらず意識はある状態に気付くじゃろう。
 それが無念無想の状態なのじゃ。

 思考や雑念に邪魔されず、観察する事が可能になるのじゃ。
 そこまで行ったら観察をするのが良いのじゃ。

>>731 パソコンのやりすぎだとクリック一つでいろいろできるから散漫になるの字や。
 一日1時間とか時間を決めてやると良かろう。

>>732 特に苦が無くとも、他の衆生を観察すればいかにひとは苦によって苛まれるかわかるじゃろう。
 それを観るが良いのじゃ。
 自分の苦は少ないほうが良いのじゃ。
 できることが多くなるからのう。
 自分の可能性を広げるのじゃ。

>>733 どういたしまして、またおいでなさい。

736そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/04(木) 07:37:05 ID:rzoJTJNQ0
>>735
ありがとうございました。

737避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 10:21:52 ID:jfWCoXjM0
>>734
昨日も解説ありがとうございます。
>そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。
これは無想の変換ミスでしょうか?

738避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 12:45:30 ID:xqk39LY60
>>735
鬼和尚さん、ありがとうございます。
では、次は、雑念があっても集中しているという感覚が掴めるまで
やってみようと思います。
鬼和尚さんのように教えてくださる人がいて、本当に良かったです。
ありがとうございます。

739鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:09:06 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

 マントラや六つの完成の行 経文、戒、などの法もはなはだ深い真理の実現をもたらさないと言う。
 なぜならば、欲望に満たされた心が、欲望の目標を追う事を止めなければ、それらはただ心の光を隠す役に立つだけであるから。

 心に欲があれば人は真言や修行や経文さえも、欲を満たすために使うじゃろう。
 欲を離れる事が無ければ、それらの法や経文でさえも、却って人を深い闇に導くばかりなのじゃ。

 それらの法が間違いなのではないのじゃ。
 欲を離れようと言う意志が無ければ、全ての教えも無意味であり、逆効果なのじゃ。

 
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり


 タントラとは悟りに導く教えの体系なのじゃ。
 そしてサマヤとは大乗の密教による菩薩の誓いなのじゃ。
 タントラの道に入り、菩薩の誓いをしたのならば、識別を離れて修行に入らなけれならないのじゃ。

 それをしようとしないのは、ニセモノであるのじゃ。
 認識作用を離れずに我はタントラを行ずる者とか、タントラ修行者と言う物が居れば、それはニセモノなのじゃ。

 全ての行いを止め、全ての欲を避け、思考をも起こっては消えるままにする。
 そして安住するものはなく、差別するものもないという教えを守る者こそ、タントラの教えを正しく理解し、修行する者と言えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

740鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:10:51 ID:N4ZFFlx20
>>736 どういたしまして、またおいでなさい。

>>737 そうじゃ、無想なのじゃ。
 間違えたのじゃ。
 すまんのう。

>>738 そうじゃ、日々続けて行けばやがて出来るようになるものじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

741避難民のマジレスさん:2014/12/05(金) 18:47:48 ID:jfWCoXjM0
>>739
法は理解するだけでなく、本心に向けて実践すべきものと再認識できました。

鬼和尚の案内で道を間違えないですみそうです。いつもありがとうございます_| ̄|○

742そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/05(金) 20:26:25 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
感興のことば 第32章 修行僧のところで
『「わがもの」という観念がなく』の辺りを読んでいて、
私が思考する時はたいてい、何物かを我が物としようとしているのだと気付きました。
対象をとり挙げて、あれこれと考え、考えの中にオリジナリティを見出し、
他人はこうは考えないだろう、こう考えるのは自分ならではだと思い、
そうやって「我」という感覚を得ようとしていたようです。

743鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/05(金) 22:39:51 ID:N4ZFFlx20
今日も学ぶのじゃ。

切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて、人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

 欲を避け、なにものにも執着しない者は聖典の真意を知る者と言う。
 聖典に書かれていることは、正に欲を棄て、執着を離れる事であるからなのじゃ。

 マハームドラーにおいて、人の持つ一切の罪はなくなり、この世を離脱する。
 これが法の至高の光となる。
 疑う者は永久に不幸と悲しみに苦しむ愚者なのじゃ。

 識別を離れてこの世を離脱する事こそマハームドラーの法なのじゃ。
 識別が無ければこの世も、この世の慣わしも無くなるのじゃ。
 その時、世を離脱し、苦からも離脱する事が出来るのじゃ。

 疑いによってそれを実現できなければ、苦が続くばかりなのじゃ。

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

 グルとは導師、師匠の事なのじゃ。
 解脱を目指す者は、グルに依らなければならない。
 密教ではグルに対する帰依が重視されるのじゃ。

 しかしどのような者でも良い訳ではない。
 グルも又選ばなければいかんのじゃ。
 カルト宗教のニセモノグルに騙されるかも知れんからのう。
 自ら経典を読み、学んで知識も多くなければいかんのじゃ。
 
 真の悟りを得て更に学業に励むグルであれば、真剣に悟りを求める弟子に速やかに悟りを得さしめる事が出来るじゃろう。
 人が真の悟りを熱望する時、そのような真正なグルも顕れるのじゃ。

 ここまでなのじゃ。

744鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/05(金) 22:41:41 ID:N4ZFFlx20
>>741 そうじゃ、自らの本心を明らかにするのが真の実践なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>742 良い気付きなのじゃ。
 そのように気付く事が多くなれば悟りも近いじゃろう。
 見る者に気付くのじゃ。

745そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/06(土) 13:47:12 ID:rzoJTJNQ0
>>744
ありがとうございました。

746避難民のマジレスさん:2014/12/06(土) 14:46:04 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
ぷよぷよとかブロック崩しとか、誰でも勝ったり負けたりできるゲームは、普通の人がはまるので、定番の入門ゲームとして不動地位を占める。
チョピッと頭の良い人や反射神経のよい人はすぐに攻略法を見出だすのですぐに飽きちゃう。
ゲーム人口が増え、普通の人もみんな少しずつ上達し、ゲーム作家は飽きられないようにゲームは少しずつ複雑化してきた。
文明文化芸術等はきっと、こんな風だったのかなと・・・・「欲」についてボーッと考えてたら思い付きました。
どんなゲームにも、きっと、攻略法はあるのでしょう!

鬼和尚は悟る前、ゲームとかやったことありましたか?

747鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/06(土) 22:22:10 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

 この世の全ては無意味であり、悲しみをもたらすものでしかない。
 小乗は行いをしなければならず、それが観念を生み悟りから遠ざかる。
 大乗により無差別の境地に至れば悟りも近い故に、人はそれに従うべきじゃ。

 この世に意味を与えるのは、人の心であり、記憶による識別作用によるのじゃ。
 それは記憶によるものであるから執着を生じ、無常の故に苦を起こすのじゃ。

 それらを離れる教えは行いを生じ、それが又自我や執着の元となる。
 そのような悪循環を止めるには、識別そのものを空として離れる大乗の法が良いと言うのじゃ。

 実際には小乗と大乗の区別も方便であり、真の縁起の法もそれが向いている者には速やかに悟りをもたらすものであるのじゃ。

 二元性とは人が持つ対になる観念なのじゃ。
 自分と他人とか、家族と他人とか、敵と味方とか、観念の多くはそのように対になっているものじゃ。
 そのような単純な観念に因って人は争い、戦争まで起こすのじゃ。

 その二元性の観念を超える事こそ、識別を超える王者の立場であるというのじゃ。
 そして散乱を征服する王者の行とは、やはり識別を超えて一つの全体となる事なのじゃ。

 そうすればもはや行いは無い。
 そのような行いすらも無い道こそ、全ての仏陀たちの辿ってきた道なのじゃ。
 それ故に、識別を超える仏陀の道を歩む者も、仏陀の境地に至るのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

748鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/06(土) 22:23:35 ID:N4ZFFlx20
>>745 どういたしまして、またおいでなさい。

>>746 昔は将棋などもやったのじゃ。
 インベーダーとかもやったのじゃ。

749避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 01:00:56 ID:LC3de7YgO
>>747
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>小乗は行いをしなければならず、それが観念を生み悟りから遠ざかる。
> それらを離れる教えは行いを生じ、それが又自我や執着の元となる。

→小乗の観念を生み出す行い、執着の元となる「修行法(?)」具体的にはどのようなことをいうのでしょうか?

>真の縁起の法もそれが向いている者には速やかに悟りをもたらすものであるのじゃ。
→大乗では「止」を重視し、小乗では「観」を重視してきた。ここではマハームドラの法(「空」の法)をイチオシとしているけど、
 方法論としては相互補完的に、いいとこ取りで、目的に向かおうというような理解で良いのでしょうか?

>行いすらも無い道こそ、全ての仏陀たちの辿ってきた道なのじゃ。
→とは、単にマハームドラの法の言い換えという理解で良いのでしょうか?

750避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 20:06:33 ID:jfWCoXjM0
     (~)
    γ´⌒`ヽ
     {i:i:i:i:i:i:i:i:}   ブッコクドハ
    (  ´・ω)   ココデスカ?
      (:::O┬O
 = ◎-ヽJ┴◎ キコキコ

751鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/07(日) 22:18:44 ID:N4ZFFlx20
又続くのじゃ。

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

 儚いこの世は実体が無いものである故に、それを捨てて血縁の者とも別れるのじゃ。
 欲と憎しみをも捨てて、山林などで瞑想するのじゃ。

 行いを捨てて心の自然な状態を続ければマハームドラーにたどり着き、達成できない事を達成するというのじゃ。

 達成できないものとは、それを達成する自己が無いからなのじゃ。
 自己が無く、達成するという観念も無いときに、人はマハームドラーにたどり着き、悟りをも達成したといわれるのじゃ。

 木の根を絶てば木の葉は枯れるように、心の根を絶てば輪廻は消える。
 心の根とは無明であり、自己があるという観念なのじゃ。

 どのような灯りの光も、長く続いた暗闇を払う事が出来るように、気付きの一瞬があれば無明を払う事が出来るのじゃ。
 自己という観念が本当は実在せず、観念のみであると一瞬気付きがあれば十分なのじゃ。

 そうすれば自己を中心に今まで持ちつづけていた観念、自分と他人、敵と味方等の観念も一切が瞬時に消える。
 今まで無意味な事に囚われ、行い彷徨っていた全てを変えるのに、ただ一瞬の気付きがあれば良いのじゃ。
 
今日はここまでなのじゃ。

752鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/07(日) 22:22:48 ID:N4ZFFlx20
>>749 それらは自分が行うという観念があれば、全てがそうなるのじゃ。
 止観や四諦や縁起を観るのも自己という観念に囚われれば執着の元になるのじゃ。

 相互補完と見て良いのじゃ。
 自分がやり易い方法で進むのが良いのじゃ。

 それがマハームドラーで良いのじゃ。
 それも無というのがマハームドラーであるがのう。

>>750 おぬしの心がすでに仏国土なのじゃ。
 心の中心に仏が居るのであるからのう。

753避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 22:51:17 ID:LC3de7YgO
>>751
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
死すべきものとしての人が究極の「苦」であるその死を乗り越えるには、、まず、永遠普遍のもの以外は全て「実体」のないものと位置付け、実体のないものは観念に過ぎないものであり、その観念に過ぎないものをの根幹である「自我」をまず消し去る。
その上で更に意識をも消し去り、「空」「マハームドラ」と合一化する。

という理解で良いのでしょうか?

時間や実体等々に関する観念を乗り越えるために、ありとあらゆる修行方があると言うことでありますね。

754避難民のマジレスさん:2014/12/08(月) 18:59:52 ID:jfWCoXjM0
>>751
解説ありがとうございます_| ̄|○

気づきが起こって無明を払っても、これまでの習慣から無意識のうちに
以前の無明の状態に戻ってしまうことってありませんか?

755鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/08(月) 22:56:21 ID:0erK2p060
終わりも近いのじゃ。

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハームドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

 今の心に執着すれば、今の心を超えた境地に達する事は出来ない。
 法を行えば、行いに対する観念が生じ、行いを超越した境地に行く事は出来ない。

 このような迷いはあらゆる法につきものなのじゃ。
 修行をすれば修行をする自分が強まる。
 安楽になれば安楽な今の心に執着する。

 そのようにして法さえもが囚われの元になるのじゃ。

 今の心と行いを超えた境地に行くには、人は識別による無明を離れなければならない。
 一切の識別を離れた観察によって、身心をくつろがせるのじゃ。

 そのような囚われから自由になるには、心の根と呼ぶ無明、自分が在るという観念を離れる事が肝心なのじゃ。
 そして識別をも捨ててありのままの心で、一切の心の働きを捨ててくつろいで座りつづけるのじゃ。


 何かを与えるとか、取るとかの観念も捨て、識別も離れた本来の心のままに座るのじゃ。
 なぜならばマハームドラーとはそのような、一切の是非を無くしたものであるからなのじゃ。

 ここでマハームドラーとは容認する事も、拒絶する事も無く、一切をあるがままに生じ、消え去るままにする事と明らかになったのじゃ。

 阿頼耶識とは本来あるものではないから、誰もそれを妨げたり汚したりは出来ないのじゃ。
 生じるものも無いという境地に在って、一切は意識に溶け去り、意志とか傲慢などの観念は無くなるのじゃ。

 阿頼耶識とは記憶に依存した認識であり、それは習慣によってそのような働きをもたらしているのであるから、本来在るものではないのじゃ。
 あるものではないからそれを妨げたり、汚したりも出来ないのじゃ。
 それはただあるがままにする他は無いのじゃ。

 それが止まり、観念を脱して不生の境地に立てば、全ての観念も同時に消え去り、意識だけが在るのじゃ。
 その時、自己が無いから意志とか、傲慢すらも消えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

756鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/08(月) 23:00:07 ID:0erK2p060
>>753 それでよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>754 そのような事は無いのじゃ。
 例えばくちた縄を蛇と間違えていた者が、それを縄だと気付いたら二度と蛇とは思わないようにのう。
 気付くとは、文字通り今までの間違いに気づき、正しい認識を取戻す事であるから、戻る事は無いのじゃ。
 人と話をするために、自我があるふりをすることはあるがのう。

757避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 01:43:07 ID:LC3de7YgO
>>756
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

金剛般若経の暗記は中断して、般若心経から岩波文庫の解説の精読を始めました。
四回ほど熟読してみて気になるところが一ヶ所だけありました。
第21刷の21ページ、13行目に「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」と説明されているのですが、空=相関的という説明に違和感を感じます。
違和感の理由は説明できないのですが・・・。

758素人A:2014/12/09(火) 10:38:20 ID:lrr2AdnA0
真でも死んでも芯でも新でも解らないカラー空?
我々我求めても身得ない仕組みの言葉にもならない世界の仕組みが有る世うな
我々が生きている間は見える部分と見えない部分カラー成り立っている
枝の感覚は見えているけど見えないところもある。
見えない不文は肉体が新でも枝より身樹の部分で枝か落ちてもまた新しい枝が出る
それより元は限りなく枝分かれの逆で元の元を求めたら無限に続くのか
哲学的に最後は 嘘から出た真に たどり着いて居直るしかない。
このことわざの真の意味は凄い事いつている野鴨 嘘カラー出た誠もありの鴨
後は鬼和尚さんに聞くカラー 嘘空飛び出した独りの人は一人だけでは寂しいので
虹の世界を夢見るのでしょうか色々あるカラーでにぎやか過ぎるとうるさくて困るし

759避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 12:06:37 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ

Aさんの文章を読んでて「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」、空=相関的という説明に対する違和感の理由を思い付きました。
「空」とは生でも死でもなく、あるでもないでもない、ただ「無」のみによってあらわされる。
背景として、まず「無」があり、そこから「有」が生まれ、また「無」に帰る。
「空」を相関的と説明すると、生あっての死、有あっての無みたいな感じで、空あっての何なのか? みたいな発想を私がしてしまうので、違和感に繋がったのかなと思いました。
「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」とは、「無」を背景としつつ、全てを包含するその構造のことを説明しているのかなと思いました。

で、「空」とは、極めて希な確率でこの世に生まれ、死んで行く人の「死」のイメージそのものかなとも思いました。
「空」を観想することは、「死」を観想することと一緒で、自分を観察しつくすことは、自分の死を観察しつくすことなのかなと思いました。
こんな理解でも良いのでしょうか?

760避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 18:54:32 ID:QMm34KcU0
鬼和尚のような徹底した悟りを得てしまうと、普通の社会では、かえって生き辛くなるということはありませんか?

761避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 22:32:35 ID:jfWCoXjM0
>>755
解説ありがとうございます_| ̄|○

一切の識別を離れた観察と、無意志による観察と、観照は同じものですか?

762鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/09(火) 23:10:21 ID:q5vkUh4s0
今日で終わりなのじゃ。

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

 そのような境地において起こる気付きは一切を超越できる。
 執着の無い行いは智慧となる。
 己が行うという意志すらも無く、心の深奥にある意識を観ればそれが至高の成就、悟りとなるのじゃ。

 そこでは始めは己が無くなるという動揺や恐れがあるじゃろう。
 しかし実際に無くなればむしろ大河の如き安らぎがある。
 そしてついに全てに溶け合えば、永遠の意識に回帰するじゃろう。

 気付きが起こればこの世の全てが観念の遊戯であり、無意味であるとわかるのじゃ。
 そして一切の囚われから超越し、全ての苦を厭離する。

 そのような境地で行いは無為となり、智慧が生じる。
 肉体の能力として素縄っていた本来の智慧が、蘇るのじゃ。

 意志も無い観察である観照が起こり、心の働きの一切を明らかにする。
 そのようにして自我は消え、認識をも厭離するのじゃ。

 その時、未だ少しは残っていた恐れや不安が、生じるかも知れん。
 しかし直ぐに心は安らぎに満たされる。

 観念である自我を守ろうとする緊張が無くなり、自然に安らぎが起こるのじゃ。
 それは大河の如く、今まで味わった事の無い安らぎであるじゃろう。

 そしてついに心は本来の状態に戻り、識別されたものが無いただ一つであり、言葉のない無に溶け合うのじゃ。
 分かれていたものが一つになるのではない。
 始めから一つであったものが、識別により分たれていたと思っていただけなのじゃ。

 もはや自分も他人も無い。
 聖なる母子のように自他の区別も失い、全てが一つの意識と気付くのじゃ。
 そこでは時も空間も物も無く、ただ永遠の喜びだけがあるのじゃ。
 
  
 
 これでマハームドラーの解説は終るのじゃ。

763鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/09(火) 23:23:46 ID:q5vkUh4s0
>>757 そうじゃ、本当は無なのじゃ。
 学者なども本当は知らないのじゃ。
 縁起も無であるのが空なのじゃ。

>>758 仕組みも無なのじゃ。
 寂しさも無いのじゃ。
 それが在るのは何か執着が在るからなのじゃ。
 それを観察するのじゃ。

>>759 そうじゃ、一切を無であり空であると観るのじゃ。
 死もまた空なのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>760 突き抜けてしまえば辛くも無いのじゃ。
 全ては試であるからのう。
 むしろ無知な人々を哀れむのじゃ。

>>761 同じではないのじゃ。
 自我が観察できたら観照なのじゃ。
 それ以外は同じと言ってよいのじゃ。

764避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 01:31:05 ID:LC3de7YgO
>>763
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

今日は金剛般若経の訳文を読みました。
求道者は無我であるべしという教えでありますね。

暗記するのは、信心銘やマハームドラにしょうかと思います。
この二つは日々の瞑想に直結する詳細を説いていることが、鬼和尚の解説でよくわかりました。

765避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 02:35:46 ID:QMm34KcU0
>>763
>むしろ無知な人々を哀れむのじゃ。

哀れむということは、哀れむ自分とその対象である他人の区別がある
ということですね。
「悟っている自分」 と 「悟っていない他人」 を区別するということは、上の
マハームドラーの解説で言われている 「もはや自分も他人も無い」 という
ことと矛盾しませんか?

766素人A:2014/12/10(水) 08:14:45 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さんありがとう最近時間が無く年末に追われている。起きるのも遅く
太陽のせいで時間が短いと言う.昔の人は太陽を大事にしたが今は正確な
時計に支配されて.年末は今年の暮れで金稼げないで焦るけどもう遅い
あきらめて一休さんのなんとかなる使用しかないのだけど焦る

767避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 14:58:37 ID:jfWCoXjM0
>>762
マハームドラーの解説ありがとうございました!ヽ( ´ー`)丿

鬼和尚はどんな感じで解説を書いているんですか?
悟った人同士、僧さんやティローパの言葉を読めば
言わんとすることを即座に感じ取れるんでしょうか?

768避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 22:17:56 ID:cbrvr2Ew0
鬼和尚、いつ死ぬか分からないという無常観をといつめた方が菩提心も強くなるのでしょうか?
また和尚自身は無常観はありましたか?

769鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/10(水) 22:37:20 ID:uy5NHaGM0
>>764 そうじゃ、覚えたらよいのじゃ。
 日々読んで実践すれば何かつかめるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>765 対象と同一であるから哀れむのじゃ。
 全く無関係ならば哀れみも起こらないのじゃ。
 
>>766 なんだか知らんが稼げないとか考えるのは無駄な上にお金を遠ざけるのじゃ。
 どのような方法を行えばお金を稼げるかという事に思考を集中するのじゃ。
 その心構えがお金を生む道を作り出すのじゃ。
 
 実践あるのみなのじゃ。

>>767 そうじゃ、それを解説する時、わしは既にそうさんやティローパになりきるのじゃ。
 本人ならば良く判るのじゃ。
 おおかわりゅうほうではないがのう。

>>768 そうじゃ、それを常に意識すれば強くなるのじゃ。

 わしは常に死を恐れ、死を超える道を探していたのじゃ。
 そして死を超えて目覚めたのじゃ。
 無常観は菩提に行くための杖のようなものじゃ。
 常に思えば本当に死を超えた境地以外で満足する事はなくなるのじゃ。

770避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 23:33:33 ID:/Tir5mUE0
∵顔に見える

771避難民のマジレスさん:2014/12/11(木) 16:28:59 ID:cbrvr2Ew0
>>769
ありがとうございます

772鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/11(木) 21:59:45 ID:ZB7yU0ZY0
>>770 それが記憶によるパターン認識なのじゃ。
 似た形があれば記憶から顔であるとか感じるのじゃ。
 夜空の星も適当に並んでいるのに人とか白鳥などに見えるのじゃ。

>>771 どういたしまして、またおいでなさい。

773避難民のマジレスさん:2014/12/12(金) 01:18:25 ID:r1oLRRk20
自我と本心の違いはなんですか?
例えば宝くじを買ったとして、当たっていて欲しいと思うのは自我なのですか?本心なのでしょうか?

774避難民のマジレスさん:2014/12/12(金) 13:53:19 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ

鬼和尚にいろいろ質問しながら今までやって来たことをまとめてみます。
1)姿勢をただし、呼吸に集中して、雑念がわいたことにできるだけ早く気付き、集中にもどる。
ここでまず、日常の雑念の多さを知り、それらは制御されていない記憶が、不規則に溢れだしていることであることを知るとともに、それらは、集中対象に意識を戻すことにより、あっさり消え去るものであることも知る。
2)(1)だけでは消えない強い感情を伴う雑念については、「止」から「観」に切り替え、縁起の法で分析し、記憶=観念に基づき生じた感情には実体はなく、消えるものであることを実感する。
3)少しずつ無思考の状態をもてるようになると、(1)(2)により記憶や観念の実体のなさを実感していなければとても向き合いたくないような、心の深奥に隠されていた自分の、本心、本性、負の側面が、見えてくることを経験する。
4)(1)(2)によりそれらとも、向き合えるようになっており、完全に自らを暴き尽くせているわけではないが、様々な負の感情から解放が進んでいるのを感じる。
5)本心、本性、負の側面に蓋をしなおしたり、消し去るのではなく、それに苦しまなくなれば、経験、記憶により形成されたそれらの本心以前の、「無分別」の本心=「無我」を見いだせるかもしれないと座っている。←今ここ(´・(ェ)・`)

*)(1)で姿勢や呼吸を追求してる時に
生じるようになった臍下丹田の強い陽気による禅病・クンダリニ症候群対策から始めた「気」の行については、鬼和尚からも私には、「気」の行が私には向いているかもしれないと以前言っていただきましたので、陽気が充実していると感じたり、勝手に動き出した時には、積極的に取り組むようにしています。
このような身体技法で、途中(サマディ)まででも何等かの変容が起こるのであれば、解りやすくていいなと思います。

以上龍明のおすわりの途中経過であります。

775鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/12(金) 21:51:25 ID:nVVDF5XM0
>>773 自我とは観念なのじゃ。
 観念であるから存在せず、あると思うのが謬見なのじゃ。

 本心は自分が本当に思っている事なのじゃ。

 観念である自我はそれ自身の繁栄を願うから当って欲しいとするかも知れんが、本心は破滅したいと思っているのかもしれん。
 ギャンブラーなどは大体そうなのじゃ。
 そのようであるから自分の本心を知るように努めなければ、破滅するかも知れんのじゃ。

>>774 良かったのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 更に精進するのじゃ。

776避難民のマジレスさん:2014/12/12(金) 23:39:33 ID:r1oLRRk20
鬼和尚さん、ありがとうございました。

777そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/13(土) 13:06:40 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
死に対する意識が変わってきました。
以前は、単なる恐怖、終わり、生きてるうちに知ることのできないもの、などでした。
今は次のようなものです。

光とそれを視るものの別がなくなる。
音とそれを聞くものの別がなくなる。
匂いとそれを嗅ぐものの別がなくなる。
味と舌の別がなくなる。(どこまでが味でどこまでが舌なのか。)
触れるものと触れられるものの別がなくなる。
これらの統合としての個がなくなる。

778避難民のマジレスさん:2014/12/13(土) 16:04:54 ID:LC3de7YgO
>>775
鬼和尚、ありがとうございます。ヽ(・(∀)・)ノ

信心銘は、分別をなくすことが悟りへの道であると繰り返し説いてるのですね。
分別された自己が自我であり、経験と記憶により植え付けられた観念を全て捨て去り、生まれたばかりの最初の意識の種に立ち返り、物事を観れるようになることを求めるのが修行なのですね。
きっと、悟れば、裸眼で全てが見えるようになるのでしょう。
裸眼で見える世界は、鬼和尚が見る世界も私が見る世界も変わらないのでしょうから、私は記憶と観念という眼鏡を外すべく修行を続ければいいのですね。
要は、個は個だけど、裸眼で観るありのままの世界は一つで、倒錯した世界を見てしまう記憶に基づく観念の眼鏡を外すことに気付けは、あの個もこの個も一として、その中に永遠に生きつづけることができ、いつか、人類学滅び去っても、見ている個が一なら、見られる世界がどう変わろうと、滅びようと、見られる世界と一体であることには変わりがない。
「空」「マハームドラ」あるいは「死」とはそんなイメージでしょうか?

779鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/13(土) 22:00:37 ID:nVVDF5XM0
>>776 どういたしまして、またおいでなさい。

>>777 良い気づきなのじゃ。
 更に観察を続ければ他の気付きも起こるじゃろう。
 それにも囚われずに進むのじゃ。

>>778 マハームドラーと空にはいかなるイメージも無いのじゃ。
 何かイメージを持ちたくなるのが記憶による認識の習慣なのじゃ。
 何のイメージも無い、無によってのみ表されるのがマハームドラーであり、空と知るのじゃ。
 それは記憶によるイメージ照合の習慣を持つ人間には、困難であるがそれを超えて実践するのじゃ。

780避難民のマジレスさん:2014/12/13(土) 23:19:57 ID:LC3de7YgO
>>779
(´・(ェ)・`)ゞあっ! そうでありました。 鬼和尚、いつもありがとうございます。
信心銘 毎日3段(ふられてる数字の3つ)づつ暗記してるであります。

781そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/14(日) 11:16:02 ID:rzoJTJNQ0
>>779
ありがとうございました。

782避難民のマジレスさん:2014/12/14(日) 22:16:45 ID:ESomIESI0
鬼和尚
鬼和尚が死を超えたのは厭離の行の最後の一歩なのですか?
死を超えた後はどんな修行をされているのですか?

輪廻から解脱し来世に生まれる事はないのですか?

783避難民のマジレスさん:2014/12/14(日) 22:30:31 ID:JagcJSxo0
和尚、こんにちは。

改めて和尚のブログを最初から読ませて頂いているのですが、
数年前の記事に質問などのコメントを書いてもお返事を頂けますでしょうか。

システム上、コメントが見つけにくいようであるなら
こちらで質問させて頂こうかと考えております。

784鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/14(日) 22:36:52 ID:uVYxezU60
>>780 そうじゃ、何のイメージも無い事には分別の習慣が常に邪魔をするのじゃ。
 イメージがないとそこに何かのイメージを設けたくなるのじゃ。
 それこそが観念の罠なのじゃ。

 同時にそのような抵抗があるからこそ、観念を滅するために使えるのじゃ。
 
 精進する心に花が咲くじゃろう。

>>781 どういたしまして、またおいでなさい。


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