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鬼和尚に聞いてみるスレ part4

784鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/14(日) 22:36:52 ID:uVYxezU60
>>780 そうじゃ、何のイメージも無い事には分別の習慣が常に邪魔をするのじゃ。
 イメージがないとそこに何かのイメージを設けたくなるのじゃ。
 それこそが観念の罠なのじゃ。

 同時にそのような抵抗があるからこそ、観念を滅するために使えるのじゃ。
 
 精進する心に花が咲くじゃろう。

>>781 どういたしまして、またおいでなさい。

785避難民のマジレスさん:2014/12/15(月) 21:22:20 ID:LC3de7YgO
>>784
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>観念の罠
>抵抗があるからこそ、観念を滅するために使える
→鬼和尚によって、全てを悟りを得るために合目的的に配置し直して説明していただけるので、バガな龍明でも悟れそうな気がしてしまうであります! 
>精進する心に花が咲くじゃろう。
花を咲かせたいであります!


信心銘 4分の1くらい覚えたであります。

786鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/15(月) 22:12:59 ID:OTCU79po0
>>782 死を超えたのは悟ってからなのじゃ。
 認識をも厭離しなければ死は超えられないのじゃ。
 個我という観念を生起する認識が残っていれば、自我は又起こり、死もまた起こるのであるからのう。

 衆生を導くために衆生の心について学び、瞑想をしているのじゃ。

 もはや生まれる事は無いのじゃ。
 個我がないからのう。

>>783 一応、昔の記事のコメントも見られるがのう。
 直ぐに返事を望むならばこちらで聞くほうが良いじゃろう。

>>785 良い事じゃ。
 一事に通じれば万事に通じるのじゃ。
 信心銘に専念してわかればみんなわかるということなのじゃ。
 一事に精進するのじゃ。

787避難民のマジレスさん:2014/12/15(月) 23:23:50 ID:NwrrXpyY0
寒い中外にジョギングに行くのは嫌だ、とか腹筋運動は疲れるからやりたくない、とか注射は痛いからしたくないとかはなんなのですか?
これも自我なのでしょうか?

788避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 10:24:30 ID:JagcJSxo0
>>786
了解しました。
では質問があった場合はこちらでさせて頂きます。

と返事しておきながらいきなり質問なんですけど、
「姿勢が大事じゃ」で書かれている丹田の統一ですが、

①これは仙道や気功のような特別な訓練をしている者でなくても、
 ピッタリと揃えば気がのぼり快が生じるのでしょうか。

②瞑想状態ではなく、「こうかな、いやこれかな」などと思考をしながらでも、
 揃えば快は生じてくるのでしょうか。

よろしくお願いします。

789そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/16(火) 19:45:31 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
日常的にはこれといった苦が起こることがほとんどなくなってきました。
それに伴って気付きも増えてきています。

例えば、頭の中で他人のことを考えて、そして頭の中で自分のことを考えている時、
その他人は目の前には居なくて、頭の中だけにいるわけですが、
それと同じように自分というものも実は頭の中だけに居るのだろう、ということです。

また、瞑想中に呼吸の間隔が長くなってほとんど止まった時、
「これは死んでいるようなものじゃないか」と思ったのですが、
してみると、我々が一般に「生きている」と言うのは実はとても観念的なものではないかと。
生が観念なら、死も同様に観念なのだろう。
いわゆる生とか死というものは虚構のようなものだと。

それから、様々なことがどうでもよくなってきています。
以前と同じような出来事があっても、それに対する心の動きがとても少ないです。
そのような自分に対して「ほんとにそれでいいのか?」
と問い質す自分の声もありますが、それは旧い自分の声なのでしょう。

790避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 21:36:39 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。
厳密なやり方ではないまでも縁起の法をやることや、常に「記憶にもとづく観念に過ぎない自我の抱く感情」という見方をすることにより、ずいぶん前から感情の起伏が急低下しており、最近は、他者の発言や態度に感情を動かされることも、自らの行く末について不安を感じることも、どんどん少なくなってきました。
また、感情の起伏や不安を感じにくくなっていることが、そらいろさんが書いてるように、>様々なことがどうでもよくなってきているとも感じられたりします。
これは、かなり楽チンでいいやって感じになっています。それ以上の変容は今のところ特別ありませんが、どうせなら、最後の花が咲くところまで行きたいと思うであります
(´・(ェ)・`)

791鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/16(火) 22:27:18 ID:sPEHpKsg0
>>787 そうじゃ、自我や観念の働きなのじゃ。
 今までの経験からそれらは後には肉体に良いかも知れんが、今は苦しいと判っているから、避けようとするのじゃ。
 何も考えずにやってしまうと意外に簡単なのじゃ。

>>788 ① そうじゃ、本当に姿勢が正しければ下丹田に圧力がかかり、気が上るのじゃ。
       白隠は気功などはしていなかったが、座っているだけで気が昇りのぼせたのじゃ。
       気を下ろす行をして健康になったのじゃ。

     ② それも出来るのじゃ。
        気が昇れば思考は自然に停止するか弱くなるのじゃ。
        姿勢を正す事で初心者でも素早く深い境地には入れるのじゃ。

792鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/16(火) 22:37:06 ID:sPEHpKsg0
>>789 良い気付きなのじゃ。
 境地が深まっているのじゃ。
 そのまま恐れなく進めば永遠の意識に至るじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>790 良い事なのじゃ。
 自然な厭離が起こってきているのじゃ。
 悟りも近付いてきているのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

793787:2014/12/16(火) 23:41:46 ID:NwrrXpyY0
>>791
ありがとうございます。原因がわかりすっきりしました。

794避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 23:48:26 ID:LC3de7YgO
>>792
鬼和尚、ありがとうございます。

鬼和尚に教えてもらった通りにやれば、こんなに楽になれるんだから、みんなやったらいいのに・・・と強く思うであります。

難しいのかもしれないことを、簡単なことのように思わせていただけ、その気になって実践したら、全部自分で実感できることばかりであります。
けど、未だ、三昧も観照も遠くに感じるであります。
けど、がんばりますo(`(へ)´*)o

795そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/17(水) 07:42:45 ID:rzoJTJNQ0
>>792
まだまだ執着も多いですが精進します。
ありがとうございました。

796避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 11:38:01 ID:JagcJSxo0
>>791
和尚、こんにちは。お返事ありがとうございます。

姿勢はかなり重要のようですね。
武道やスポーツなど、体を動かすことなら姿勢の影響は直に感じることはできますが、
精神世界においてもそこまで影響してくるとは思ってもみませんでした。

今までは座ったらとにかく意識を置こうとしていましたが、
これからはまず姿勢をチェックしてみたいと思います。

797避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 20:10:46 ID:NpBkhqbI0
http://www.kaynotes.com/archives/7976419.html
悟りを開いた人があまり楽しそうでない理由

↑この記事の理解は正しいですか?
修行者は、必ず、この手のジレンマに陥ると思いますが。
悟りを開いた人の立場からコメントをお願いします。

798避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 20:21:58 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、白隠禅師坐禅和讃も止観の教えを説いたものでしょうか?
再々で恐縮ですが、もしよろしければ解説をお願いできませんか?_| ̄|○

wikiからコピペです。
※原文書き下し

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり

799鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/17(水) 21:38:02 ID:3LQWQGf.0
>>793 どういたしまして、またおいでなさい。

>>794 そうじゃ、苦しむものに教えたらよいのじゃ。
 すでにサマーディは近いのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>795 どういたしまして、またおいでなさい。

>>796 そうじゃ、姿勢によって瞑想も成功したり失敗したりするものじゃ。
 姿勢はいくら研究してもし足りないぐらいなのじゃ。
 正しい姿勢が判ればサマーディにも速やかにたどり着けるのじゃ。

>>797 正しくないのじゃ。
 我見によって観念妄想に陥っているだけなのじゃ。

 我見が消えれば全てが一つとなり、全ての喜びがあるのじゃ。
 それは一個人の味わえる喜びを超えた無限の喜びなのじゃ。
 我見による個我の喜びではないから、全てが喜び、全てが安楽なのじゃ。

 その境地は我見に陥っていればわからないのじゃ。
 サマーディにでも達すれば、その片鱗を僅かに垣間見ることが出来るのじゃ。

800鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/17(水) 21:57:53 ID:3LQWQGf.0
>>798 それは止観の止、座禅を勧めたものなのじゃ。
 座禅からサマーディに至り、悟りが本来のあり方と気付いたという教えなのじゃ。
  
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

 一切の生物は本来、目覚めたものなのじゃ。
 それは水と氷の関係のようなものじゃ。
 水を離れて氷は無く、衆生の他に目覚めた者は居ないのじゃ。

 悟りとは人が進化したり、変化したものではなく、本来の在り方に戻ることなのじゃ。
 記憶に依存した習慣を厭離し、本来のあり方に戻るから、本来の智慧が起こり、死も無い自然の状態に戻るのじゃ。

 それは氷と水の関係のようなものじゃ。
 水からできたものが氷であり、衆生が目覚めれば仏陀なのじゃ。

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず

 そのように衆生は自ら悟りに近い存在であると知らず、法を求めて遠くまで求めようとするのは無知の迷いなのじゃ。
 それは例えば水の中にいて、喉が渇いたと叫んだり、金持ちの家の子が貧乏な家に入って迷っているようなものじゃ。 

 悟りへの門、悟りへの道、悟りへの法は全て衆生自らの中にあるものじゃ。
 なかなか見ようとしない本心にそれらは全部あるのじゃ。
 近すぎて見えず、又執着や不安恐れの所為で観ようとしないだけなのじゃ。

 それは例えば水中で喉が乾いたと叫び、金持ちが貧乏の家に悩むが如くなのじゃ。
 ただ口を開いて水を飲み、財布を開いて金を見れば解決するような悩みを、延々と持っているようなものじゃ。

 悟りとはそれほど自らに近い、己の本心を見る事なのじゃ。
 しかしそれは自ら本心を観た仏陀の感じることであり、未だ迷いの中にある衆生には感知しにくい事じゃろう。

801避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 16:17:19 ID:LC3de7YgO
>>799
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)
信心銘、半分暗記しました。

信心銘を何度か読んで思ったことを書いてみます。

物事を認識し、認識対象が確かにあると実感されるとしても、現象としてある物全てが永遠に存在し得ない以上、今あることは確かだったとしても、いずれ無に帰するものとしてあるに過ぎない。

同様に、認識している自分自身の存在も、限られた経験と記憶に基づく観念的存在であり、観念にすぎないものは、夢幻のようなものであり、実体はない。
個としての観念の根底にある、「本心」に気付けば、そこに、個的経験、記憶以前の意識そのものを想定できる。
そこまで、実感としてたどりつければそれが「無我」である。
しかし、認識がある以上認識する主体が前提となり、いかに変容しようとも、残った「自我」の再生の契機となる。
そこで、認識も認識対象もない、有も無もない、善も悪もない、時間もない、「空」を想定することにより、認識を消し去り悟りに至る。

快を求め不快を嫌い、生を求め死を嫌い、善を求め悪を嫌らうのが本質であってもなくても、全てを包含する「空」であるということは、個の根底にある本心の求めるもののみに満たされることになる。

こんな信心銘の理解でも良いでしょうか?

802避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 20:50:40 ID:jfWCoXjM0
>>800
解説ありがとうございます!
今日も続くのでしょうか?楽しみに待ってます☆

803鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:42:59 ID:3LQWQGf.0
今日も続くのじゃ。

六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり

 六趣輪廻の原因は、自分の無明、己在りと言う我見の愚かさから来るものじゃ。
 自分の無明から迷いの闇路をさまよい、いつ生死を離れた悟りに至れるのか知れら無いほどなのじゃ。

 六趣輪廻とは、地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天人の六つの生存環境なのじゃ。
 衆生が延々とその輪廻をさまようのも、己が在るという無明からなのじゃ。

 その原因からさまざまな生きる世界が形作られるのじゃ。


 偉大にして広大なる禅定は、いくら称えても称え尽くすことができないものじゃ。
 お布施とか、戒を保つ事とかの完成の行、念仏や懺悔などの修行などの数々の善行も皆この中にあるのじゃ。

 その無明から抜け出す法として、偉大にして広大なる禅定があるのじゃ。
 人を悟りに導く法であるから、いくらたたえてもたたえ切れないほどなのじゃ。

 波羅蜜とは完成を意味する梵語なのじゃ。
 菩薩の行として大乗では六の波羅蜜、完成の行を行うのじゃ。

 布施、戒を守る事、耐え忍ぶ事、精進する事、禅定、智慧などの六なのじゃ。
 それらは全て禅定一つによって完成されると言うのじゃ。

 さらに念仏とか懺悔などの修行も、禅定一つで完成されると言うのじゃ。
 禅定を行い、悟りを得れば全ての修行は完成されることになるから、全ての修行は禅定の中に含まれるといって良いのじゃ。

 
今日はここまでなのじゃ。

804鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:44:15 ID:3LQWQGf.0
>>801 そのようなものじゃ。
 後は実践在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>802 そうじゃ、続くのじゃ。
 WKTKして待つのじゃ。

805避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 23:31:22 ID:LC3de7YgO
>>804
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)
目の前のあんパンやPCや、それを五感で認識するおのれの存在の確からしさを実感として否定できるとこまで行き着くのは、記憶の断片=観念の寄せ集めとしての自我という理屈の単なる延長戦上では無理でありますね。
それを、 見抜くためには、無分別=空を追求するか、自我が生じる瞬間を観察し切る実践しかないのでありますね。

けど、鬼和尚の説明で理屈も少しづつ、整理できてきた気がするので、励みになります。

806鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/19(金) 23:10:17 ID:rs5p.yDE0
今日も続くのじゃ。

一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず

かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し

 一度座った程度の行いでも、積み上げた無量の罪が消えるのじゃ。
 地獄とかの悪い環境に居る者も、その苦しみが何処に行ったのかと思うほどであり、極楽浄土も近くなるのじゃ。
 
 この禅定の法を聴くことが出来たものが、そのありがたさに喜び、称えるとき、限りない福が得られるのじゃ。

 まして自ら実践して、自性をあかせば、自性が無性であると気付き、空しい論を離れるじゃろう。
 原因も結果も一つであると知る、唯一の道が真っ直ぐに開けるのじゃ。

 自性とは本質的な性質とでも言うべきものじゃ。
 人が己と言うものを認識する時、己の本質的な性質によって自らを認識するのじゃ。
 
 己を強きものと思えば、強い性質を持つ者として認識するのじゃ。
 己を弱きものと思えば、弱い性質を持つ者として認識するのじゃ。

 そのような自性が、座禅によって実は無であったと気付けば、もはや一切の思考分別をも離れるのじゃ。
 原因も結果も一つであり、悟りへの道も、もはや容易なのじゃ。


  今日はここまでなのじゃ。

807鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/19(金) 23:14:10 ID:rs5p.yDE0
>>805 そうじゃ、観念や戯論をいくら重ねても進歩は無いのじゃ。
 実践する事だけが進歩の道なのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2014/12/19(金) 23:24:43 ID:/Tir5mUE0
wktkするのお
白隠はヒップホッパーじゃのお

809避難民のマジレスさん:2014/12/20(土) 20:59:11 ID:jfWCoXjM0
>>806
昨日も解説ありがとうございました_| ̄|○
禅定で思い出したんですが、以前偶然に下記のような体験がありました。
禅定とは1の状態でしょうか?
それと、なんで2の意識は生まれるんでしょうか?

1何も無かった
2何も無いことを意識した
3言葉が流れているのに気づいた
4言葉から景色が生まれた
5肉体を見つけた
6肉体に入った(?)
7感覚が生じていつもの自分目線に戻った

810鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/20(土) 22:17:56 ID:rs5p.yDE0
今日で終わりなのじゃ。

無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声

三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり

 無のありようを真のありようとして、行く所も帰る所も今ここにあるのじゃ。
 無の心を真の心として、歌う声も舞う姿も法に合致する。

 サマーディは開けきった空の如くに広大になり、四つの智慧が月の如く輝くのじゃ。
 もはや何かを求める欲望は無い、涅槃寂滅の境地が既に現れている故に。
 今ここが極楽浄土であり、自らが目覚めた者であったのじゃ。
   
 相とは相好というように、一切のものの姿形なのじゃ。
 人は他の物事を全てこの相を元に認識しているのじゃ。
 相とは特徴でもあるのじゃ。

 他と違う特徴を探し、それを以ってそれがいかなるものか分別するのじゃ。
 例えば人ならば鼻がでかい特徴から手塚君とか、腹がでかい特徴から山田君とか認識するのじゃ。

 そのような特徴を抽出する分別が無くなり、一切の相が無となれば、もはや分別は無く、一切が一つであり平等無分別の境地になるのじゃ。
 そこではもはや全てが一つであるから、生死によって行く所も帰る所も無く、一切が今ここにあるのじゃ。

 念とは思うことであり心の働きなのじゃ。
 それが無となれば心も無となり、法と一体となるのじゃ。

 そうであればもはや本来非法である、歌も踊りも法そのものとなるのじゃ。
 
 そしてサマーディによって心に障壁が無くなり、どこまでも突き通って心が明らかになれば、平等性智などの智慧が生じ、悟りも徹底されるのじゃ。
 そうなればもはや一切の欲は消え、涅槃寂静の境地に入るのじゃ。
 
 その境地によって極楽浄土の仏国土は今ここにあり、自ら目覚めた者であったと気づくのじゃ。、
  

 これで終わりなのじゃ。

811鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/20(土) 22:24:35 ID:rs5p.yDE0
>>808 そうかもしれん。
 なかなかの詩人じゃな。

>>809 1は無思考の状態なのじゃ。
 禅の原語であるディヤーナによる状態なのじゃ。
 
 2の意識は常に在るのじゃ。
 何も無くとも、それを認識する意識が無ければ、何も無いとはわからないのじゃ。

 意識が拡大したのじゃ。
 識無辺定とか空無辺の状態なのじゃ。
 集中力が身につけば容易に出来るようになるのじゃ。
 体験に囚われることなく進むのじゃ。

812避難民のマジレスさん:2014/12/22(月) 12:02:08 ID:/1ub1Cio0
鬼和尚、
生じた怒りを原因から滅した時に気づいたのですが、怒りも喜びも、100%自分の問題ゆえに、苦滅によってコントロールすることができるのですね。

ところで、深い瞑想などの時に感じられる安らぎは、物事が心に無い時にあるように感じられます。
これは怒りや喜びと異なり、作られざるものなのでしょうか?

813避難民のマジレスさん:2014/12/22(月) 20:40:19 ID:jfWCoXjM0
>>810
坐禅和讃の解説ありがとうございました!

まだまだ未熟者ですが、これまでの鬼和尚の解説をよく読んで、修行に励みたいと思います。

814鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/22(月) 22:27:58 ID:twUYCSy60
>>812 そうじゃ、自ら苦も滅する事が出来るのじゃ。
 自ら修行して悟りも得られるのじゃ。

 そのような安らぎは本来のものであり、心で創られた観念ではないと言えるじゃろう。
 日常で緊張している心が解放されたともいえるがのう。 

>>813 そうじゃ、修行に励むのじゃ。
 全ての教えは実践のためのものであるからのう。
 実践が全てなのじゃ。

815避難民のマジレスさん:2014/12/23(火) 15:43:23 ID:t0rzP/K20
大拙の鑑定を根拠つきでお願いします

816避難民のマジレスさん:2014/12/23(火) 17:30:33 ID:YWqLYYqo0
>>814
最近、自我を無くすことの恐れが減ってきているように感じられます。
さらに精進して、まずは自我を滅したいと思います。
ありがとうございました。

817避難民のマジレスさん:2014/12/23(火) 19:28:27 ID:QMm34KcU0
>>816
>まずは自我を滅したいと思います。

自我を滅するということは、場合によっては飢え死にするようなことも
覚悟の上なのですか?

818鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/23(火) 22:30:50 ID:o/6xvB9Y0
>>815 youtubeに動画が在るのじゃ。
 時々動かないのじゃ。見てみると良いのじゃ。
 
>>816 そうじゃ、恐れを超えて進むのじゃ。
 恐れが無ければ悟りも近いのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

819避難民のマジレスさん:2014/12/24(水) 12:25:22 ID:zymYeoR20
>>817
自我を滅したあとで、認識を滅し、それから戻ってきて教えを説くと決めていますので、飢え死にはしないと思います。
たとえ飢え死にするとしても、正しい認識もできずに死ぬよりは、悟りを得るほうを選びます。

820そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/24(水) 20:16:02 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
最近は希薄というか空疎という感覚があります。
何が希薄で空疎なのかと言っても、それが何であるのか言いようのない感じです。
仕事中も瞑想中も同じように希薄な感じです。
修行していないニートの人と比べると、おそらくニートの人の方が濃密だと思います。
「我」という感覚が薄れてきているのかもしれません。
こんなんで良いのでしょうか。

821そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/24(水) 21:21:14 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
もう一つお願いします。
今日、昼食にうどんを食べたのですが、食べながら麺を目にして、
「これは食べ物のうどんで、これから昼食をとるのだ」という認識をする自分と、
食べ物の認識を除外して、言葉にすれば「白、ツヤ、折り重なり」程度に捉える自分の、
それぞれ異なる二種類が重層的に居るような感覚があったのですが、
これはどういう状態なのでしょうか。

822鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/24(水) 22:24:59 ID:o/6xvB9Y0
>>820 条件付けがなくなってきたのじゃろう。
 確固とした世界や社会と言う観念が無くなり、自我から起こる感情も消えてきたからのう。
 そのほうが苦も起こらないか小さいじゃろう。
 むしろ瞑想の喜びを楽しむのじゃ。

>>821 分別が止まってきたのじゃ。
 一つの観念ではなく多層的に観察出来るようになったのじゃ。
 完全に止まった機に自分が観られれば悟道も訪れるのじゃ。

823そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/24(水) 23:39:32 ID:rzoJTJNQ0
>>822
ありがとうございました。

824避難民のマジレスさん:2014/12/25(木) 10:35:52 ID:JagcJSxo0
和尚、こんにちは。

物事に対して思考が自動反応するのはわかってきたのですが、
反応する思考の違いには何か決め手のようなものはあるのでしょうか。

例えば、朝起きて犬の散歩にでも行こうとしたとき、
ある時は何ら気兼ねすることのない思考の時もあれば、、
ある時は何となく面倒だなーという思考になったりもします。

同じ事象に対することなのに、なぜ反応が違うのだろうかと疑問に思ったわけですが、
これらはやっぱり、体調などその他もろもろのことが影響しあった結果なのでしょうか。

825そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/25(木) 18:12:12 ID:mw0Ye.zc0
鬼和尚
私の思考に顕著な思考パターンがあることがわかるようになりました。
その思考は怒りや憤りや悲嘆などの感情を生みます。
それが起こるプロセスを観ると、
個別の具体的な内容はそれぞれ異なりますが、
どれも似通っていて、
自我を守ろうとする防御反応であったり、
それが高じた他者への攻撃であることが、
とてもよくわかります。

826避難民のマジレスさん:2014/12/25(木) 21:11:06 ID:r1bO5aHo0
鬼和尚様
数息観の実践している者ですが、お聞きしたい事があります。
安般守意経にある、数息・相随・止・観・還・浄それぞれの意味
と実践法を教えていただけますでしょうか。
よろしくお願いします。

827鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/25(木) 22:51:01 ID:3O4ezeHw0
>>823 どういたしまして、またおいでなさい。

>>824 そうじゃ、体調や環境などの違いにより、反応も異なるのじゃ。
 体調がよければスポーツは楽しいが、疲れていれば楽しくないようにのう。
 それらも自我によって選択することなく縁によって自動的に起こるのじゃ。

>>825 良い観察なのじゃ。
 そのように気付く事が多くなれば世間の欲を離れ、悟りも近付くじゃろう。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>826 それらは実践する法というより、進歩する段階なのじゃ。
 最初は数息観をして外の世界の五感を遮断して集中力を高めるのじゃ。
 次には心を集中して法に心が随うようになるのじゃ。
 そして心は止まり、無念無想となるのじゃ。
 心が止まれば観察が出来るようになり、様々な執着から心が離れるようになるのじゃ。
 そして心が一つに還るサマーディに到達し、喜びが湧くのじゃ。
 さらに精進を重ねて対象の無いサマーディにまで達すれば心は清浄となり、悟りも訪れるのじゃ。

 そこまで到達するには中々大変であるが、日々精進すれば全ての境地は向こうから訪れるのじゃ。

828そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/25(木) 23:10:44 ID:rzoJTJNQ0
>>827
ありがとうございました。

829826:2014/12/26(金) 06:22:23 ID:GPo.LjOQ0
>>827
ありがとうございました。
これからも実践を続けていきます。

830避難民のマジレスさん:2014/12/26(金) 06:45:46 ID:6ZZgOq8Y0
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/BOOK-satori.html
鬼和尚様、この人は悟っていますか?
なんとなく、認識は破壊できていないような気がいたします。

831避難民のマジレスさん:2014/12/26(金) 11:17:11 ID:JagcJSxo0
>>827
和尚、お返事ありがとうございます。

>それらも自我によって選択することなく縁によって自動的に起こるのじゃ。

ということは反応そのものに自我はなく、
ただ記憶を参照して関連データにアクセスしているだけということでしょうか。

その機能は脳という臓器の働きにすぎず、
自我は、そのアクセスされたデータに囚われた時に生じてくるようなものと考えておいて問題ないでしょうか。

832避難民のマジレスさん:2014/12/26(金) 19:08:24 ID:wdE6cjYY0
鬼和尚の「今」についての説明が聞きたいです。

833そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/26(金) 21:35:15 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
観察について語ったり論じたり考えたりする時、
「主体と客体」とか「主観と客観」などの二元的なものの存在を無条件の前提として掲げてしまい、
主観なのか客観なのかなどと考えてしまいがちですが、
主観も客観も、生まれたり無くなったりするもでもなく、
分離されたり統合されるものでもないのではないでしょうか。
そもそも主観も客観も観念であって、
本来はそのようなものは無いと言えるのではないでしょうか。

834鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/26(金) 21:54:54 ID:1tAPJlTw0
>>828 どういたしまして、またおいでなさい。

>>829 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>830 悟っていないのじゃ。
 サマーディを体験したようでは在るがのう。

>>831 そのような考えでも良いのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>832 今とは過去を思わず、未来のことを考えずにいることなのじゃ。
 過去に起きた苦をえんえんと思うことから苦はくりかえされるのじゃ。
 そしてその苦をこれからも起こるかもしれないと考えるから不安が起こるのじゃ。

 そのように過去の苦から離れ、又起こるかもしはれないという思考が無ければ今ここに居る事になるのじゃ。

835そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/27(土) 13:39:29 ID:4QKujcG20
>>833に追記です。
私が昔読んだ本で「『甘え』の構造」(土居健郎著)というものがあるのですが、その中に

「われわれはむしろこれから甘えを超克することにこそその目標をおかねばならぬのではなかろうか。それも禅的に主客未分の世界に回帰することによってではなく、むしろ主客の発見、いいかえれば他者の発見によって甘えを超克せねばならないと考えられるのである。」

という文があって「禅的な主客未分の世界」という言葉が長い間強く記憶に残っていました。
しかし、主客というものも実体のあるものではなく、観念の産物なのではないでしょうか。

836避難民のマジレスさん:2014/12/27(土) 17:32:15 ID:epk3cmT20
>>834
和尚、お返事ありがとうございます。
引き続き実践に精進いたします。

837鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/27(土) 22:06:51 ID:QsT8JVWM0
>>833>>835 そうじゃ、本来は無いものじゃ。
 無理に在るとすれば主観だけが在るとも言えるが、それも客観との反対観念として在る言葉であり観念に過ぎないのじゃ。
 観念が無ければ常に主客一体なのじゃ。

>>836 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

838そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/27(土) 23:12:11 ID:4QKujcG20
>>837
ありがとうございました。

839避難民のマジレスさん:2014/12/28(日) 19:56:13 ID:3Acup.qo0
鬼和尚
飛んでいる物体は個体が飛んでいる。
動かない家具はそこに在りつづけると見ていましたが。
そうではなく
静止した絵が全体として変化しているように見える事があります。
全体がカラスの鳴き声と一緒になっています。
瞬間瞬間、何も残るものがありません。
これをもっと味わっても良いですか?

840鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/28(日) 22:47:15 ID:wjwUyevI0
>>838 どういたしまして、またおいでなさい。

>>839 そうじゃ、もっと味わってよいのじゃ。
 認識の習慣性がなくなり始めたようじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

841避難民のマジレスさん:2014/12/30(火) 20:38:55 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
信心銘024まで暗記しました。
信心銘の鬼和尚解説を契機に、他の禅書籍にも関心をもち、今↓のHPを読んでます。
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/index.html

842鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/30(火) 22:39:31 ID:Ji3gX.zY0
>>841 善いことじゃ。
 禅とはディヤーナの音訳の略なのじゃ。
 ディヤーナとはサマーディに至る前の集中状態なのじゃ。
 実践し集中しなければ禅ではないのじゃ。
 おぬしは本当の禅を実践するとよいのじゃ。

843避難民のマジレスさん:2014/12/31(水) 16:36:48 ID:9dZmJJkw0
鬼和尚、いつもありがとうございます。
受動的な瞑想を始めています。
無抵抗のまま、どこまでも明け渡せそうな切りがない感覚で、
開放感で全身が快になります。
この感覚でよろしいですか?

844避難民のマジレスさん:2014/12/31(水) 20:45:39 ID:/gu5sIKA0
今晩は鐘が鳴るのじや
禅定に入り観照を起こすのじや
あの鐘を鳴らすのはわしなのじや

845鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/31(水) 22:12:15 ID:Tt6ns1q60
>>843 そうじゃ、それでよいのじゃ。
 時々、自分が戻ってきそうになるがなるが、そのまま開放すると良いのじゃ。
 恐れを超えれば限界などなくなるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

846避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 00:24:14 ID:LC3de7YgO
ヽ(・(∀)・)ノ明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

847避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 01:03:09 ID:sbMeLyns0
鬼和尚さん、あけましておめでとうございます。
昨年もたくさんの質問に応えてくださって、ありがとうございました。
ありきたりな言葉になってしまいましたが、とても感謝しています。
今年もよろしくおねがいします。

848避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 01:35:22 ID:kpH2I4A.0
鬼和尚、あけおめヾ(゚∀゚)ノ

849龍昇:2015/01/01(木) 03:44:14 ID:w3wQ.Dc60
あけましておめでとうございます
今年も皆様にとって良い一年になりますように

850避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 04:30:13 ID:jfWCoXjM0
明けましておめでとうございます!
昨年は色々教えてくださって本当にありがとうございました_| ̄|○
だんだんと鬼和尚の言ってることがわかってきたので、今後は実践あるのみでいきたいと思います。
今年もよろしくお願いします\(^▽^)/

851避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 08:05:27 ID:kO15HDFw0
鬼和尚、皆様、あけましておめでとうございます。
お正月休みは鬼和尚のブログを隅々まで読んで理解を深め精進します。

852鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/01(木) 21:42:38 ID:uWUQQdpM0
>>846 あけおめことよろなのじゃ。今年もさらに進むじゃろう。
 
>>847 あけおめことよろなのじゃ。良かったのじゃ。
 精進すれば楽になるのじゃ。

>>848 あけおめことよろなのじゃ。今年も精進なのじゃ。

>>849 あけおめことよろなのじゃ。おぬしも良い一年になるように。

>>850 あけおめことよろなのじゃ。そうじゃ」実践すれば楽になっていくのじゃ。

>>851 あけおめことよろなのじゃ。そうじゃ、実践して喜びを食むものとなるのじゃ。

853龍華:2015/01/01(木) 21:47:58 ID:kl1CR23s0
新年あけましておめでとうございます

正しい月は旧暦だと思うのですがお正月!
まじめに坐るよ2015年!
本年もよろしくお願いいたしますありがとうございます

854避難民のマジレスさん:2015/01/02(金) 13:44:35 ID:W/a.g3nY0
和尚、あけましておめでとうございます。
本年もご指導のほど、よろしくお願いします。

年末年始は人との交流が増えるため、
瞑想時になかなか思考の波が静まりません。
しかし今年こそは禅定を得るため、
こういったことも含めて精進していきたいと思います。

今年も一切衆生が幸せでありますように。

855鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/02(金) 22:02:10 ID:YZmi17.60
>>853 あけおめことよろなのじゃ。
 そうじゃ、精進する者に道は開かれるじゃろう。

>>854 あけおめことよろなのじゃ。 
 良い事じゃ。求める者に道は示されるじゃろう。

856避難民のマジレスさん:2015/01/05(月) 12:59:10 ID:fcexXDZw0
鬼和尚、
善行について教えて下さい。
善行の対象は、必ずしも個我を持つ衆生には限らないのでしょうか?
もし怒りで石を蹴飛ばしたとしても、平等性智により、その報いは本人に返りますか?

857避難民のマジレスさん:2015/01/05(月) 20:48:11 ID:b/5GXrxU0
鬼和尚様
随息観についてお尋ねします。
呼吸の出入りに集中する際、頭の中で呼吸音を擬音化する癖が
自分にはあります。それだけでなく、日常で音楽や鳥の鳴き声な
どの音を聞く時も、聞くのとほぼ同時進行で音を擬音化して認識
しているようです。
このような認識の癖も、行が深まれば消えるものなのでしょうか。
また、随息観をする時のアドバイスがあればお願いします。

858鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/05(月) 22:14:02 ID:/zZoA6og0
>>856 帰るじゃろう。
 善行の元は心にあるのじゃ。
 怒りの心によって行った事は、被害者が居なくとも本人に何らかの報いが起こるじゃろう。
 自分の心が常に見ているから誤魔化すことはできないのじゃ。
 粗末にしたものがなくなるとか、そのような事が報いとなるのじゃ。

>>857 それで良いのじゃ。
 それは追唱といって、誰の頭の中にも起こっていることなのじゃ。
 字を読んだり、話をしていても起こっているのじゃ。

 それが観察できたことでよいのじゃ。
 それを消そうとか、消えないかとか思う必要も無いのじゃ。
 今ここにある心に起こっている事を、ありのままに観察するだけでよいのじゃ。
 さらに集中と観察が深まって、認識が消える時にそれも自然に消えるのじゃ。

 どこまでも呼吸に随うがよいのじゃ。
 肉体の生理も無視して集中すればさらに深い境地にいけるじゃろう。

859857:2015/01/05(月) 23:11:54 ID:0DFILKEk0
>>858
ありがとうございました。
さらに実践を続けていきます。

860避難民のマジレスさん:2015/01/06(火) 17:09:41 ID:wH0JIS760
>>858 ありがとうございます。
自分の心が常に見ているのですね。肝に銘じておきます。
ここでの自分の心とは、阿頼耶識のことでしょうか?

あと、知らないで悪を為したことも報いを受けるとのことですが、その悪を知らないのは表層の心だけで、奥深い心は善悪を判っているということなのでしょうか?
それとも、他に為したのと同じことを平等性智が自分に対して為すということでしょうか?

861鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/06(火) 21:50:53 ID:F4Z0hQac0
>>859 そうじゃ、実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>860 それは平等性智なのじゃ。
 本来の智恵が誰の心にもあり、見ているのじゃ。

 衆生は本来ひとつであり、他人も自分のひとつなのじゃ。
 例えば手が足を攻撃したら血が出て手も動かなくなるじゃろう。
 そのように本来ひとつなのであるから善悪の観念が無くとも、他人にしたことは自分に帰るのじゃ。

862避難民のマジレスさん:2015/01/07(水) 12:51:47 ID:qYQvs9ck0
>>861
ダンマパダでお釈迦様が何度も繰り返し、善を行うことを勧め悪を行うことを諌める理由がわかりました。
また、私がダンマパダ1を十分に理解していないこともわかりました。

さらに、考えと言葉と行動に気をつけつつ行に励み、本来ひとつであることを確かめたいと思います。
ありがとうございました。

863鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/07(水) 21:57:25 ID:6FmcCiu20
>>862 良かったのじゃ。
 善を行い続ければ心も清くなり、幸福と安楽が常に付き従うじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

864そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/08(木) 18:03:28 ID:AV7N7e4w0
鬼和尚
日々様々な気付きがあります。
これは誰が気付いているかというと、私が気付いているわけです。
しかし実は私がと言うよりは、誰であるとは呼べない者が気付いているのではないでしょうか。
つまり私は、その誰であるとは呼べない者と繋がっているのではないでしょうか。
同様に、他の人も皆繋がっているのではないでしょうか。

865避難民のマジレスさん:2015/01/08(木) 20:37:36 ID:W/a.g3nY0
和尚、こんにちは。

昔だと不安や怒りに飲まれていた事柄に対して、
最近ふと気がつくとなんとも思わなくなっていることがよくあります。

煩悩が落ちるというのは、あからさまに
「はい落ちた、いま落ちた、ほらほら落ちた」という具合ではなく、
気がつくといつの間にか落ちていた、というような感じなのでしょうか。

866鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/08(木) 20:47:46 ID:6FmcCiu20
>>864 そうじゃ、良い気づきなのじゃ。
 意識は本来、自分とか肉体に縛られているものではないのじゃ。
 自他の区別の無いところに気づきはくるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

>>865 そうじゃ、気づきは自覚できるが、その結果は後からわかるものじゃ。
 かつては苦を起こす原因となっていた観念も、気づいた後に苦の原因であることから離れるのじゃ。
 記憶がなくなった訳ではないが、苦はもはや起こらないのじゃ。
 それが厭離なのじゃ。

867そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/08(木) 23:16:21 ID:hw5NmCB20
>>866
ありがとうございました。

868避難民のマジレスさん:2015/01/09(金) 10:34:56 ID:W/a.g3nY0
>>866
和尚、お返事ありがとうございました。

なるほど、煩悩がその場で無くなるのではなく、
煩悩の原因となっていたものから離れるのですね。
だから同じ記憶を参照しても反応は起こらないわけですか。
とても腑に落ちました。

引き続き実践に励みます。

869避難民のマジレスさん:2015/01/09(金) 19:12:46 ID:JUIzF8vA0
鬼和尚
ご飯を食べる時に「そういえば受容的なってこんな時もできるのかな」と
思ったら妙な感覚になって笑ってしまいました。
食べていることに自分が一致してるというか一緒になっていて、
食べる人でなくて、食べる事が対象でない感じですよ。
自分が噛み砕きそのものになってます。

870鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/09(金) 22:08:08 ID:MOldaCw.0
>>867 どういたしまして、またおいでなさい。

>>868 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>869 かなり進歩しているのう。
 対象と一体になるサマーディに達したようじゃ。
 もはや出世間の定と知識が芽生えているのじゃ。
 さらに精進するのじゃ。

871鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/09(金) 22:21:56 ID:MOldaCw.0
また2ちゃんねるが書き込めないのじゃ。
おかしなことじゃ。

872素人A:2015/01/10(土) 15:11:54 ID:gOqWUDAs0
2ちやんに連絡できないから思いついた事鬼さんに聞こう。般若心経では感覚器官は実態では無い
と言っているけど感覚器官でも視覚や聴覚はテレビや映画で実態の無い世界をドラマで実現している
是から触覚も体験できるバーチャルなドラマ?ができ誰かの身に触覚で身体に入れたら
痛い体験ができ痛いのはいやで体験に引き使われてしまうのか?観るだけですよ
お客さんでは観光気分で温泉に行く気分だが触角まで実現されたら幻どころでは無い
もしかしたら今観ている現実はバーチャルで痛い感覚はどこから来たのか
玄沙和尚は旅に出ようとして足の指を思い切り痛い思いしてこの痛さは何処から来た
のかと考えたそうだし。私等痛い思いがないと真剣にならないし何聞きたいのか
感覚でも色々な違った作用があると言う事かちょっと暇なので相手してもらいたい野鴨
2ちやんはつながらないしでも私は独りでいつも会話しているしでもたまには

873鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/10(土) 21:17:20 ID:mQhlK7fM0
>>872 そうじゃ、痛みは本来は肉体の異常を知らせる警報に過ぎないのじゃ。
 しかしそれが一度経験されて記憶になると、痛みそのものが怖くなり、いつまた痛くなるかと不安をも引き起こすようになるのじゃ。
 本当の痛みより、痛みへの恐れと不安が苦になるのじゃ。

 そして痛みがあればこの痛みがこれからも続くかと、さらに苦を増やしたりもするのじゃ。
 そのように痛みよりも、痛みへの恐れと不安が苦になることをよく観察して気づくのじゃ。

874避難民のマジレスさん:2015/01/10(土) 22:46:25 ID:o2sAVcZE0
鬼和尚さま
うたたねをしていると急に昔住んでいた家が映像で詳細に頭に浮かびました。
実際にその場所にいるような感じでした。

今までも瞑想中に忘れてたことや場所が詳細に思い出されることはありましたが、
今回は実際その場所にいるように歩いて見て回ってたのですが、
あまり詳細に見ていると向こう側へ引きずり込まれるような感じで、怖くなって起きてしまいました。
ちなみにその家はもう取り壊されてありません。

昔同じようになったとき、幽体離脱したような感覚だったこともあります。
自分が自分からスポっと抜けてその場所に出たような。
抜けるときは幽体離脱、頭の中で見てるときは透視でもしてるような感じです。

同じような感じで自分と関係した過去の誰かなどを思い返すと悲しいような気持ちになります。
その人ともう会えなかったり失われた過去に対しての執着からだと思うのですが、
自分の記憶、過去への執着をなくしていく過程で起こることなのでしょうか。

悟った方はなんでも思い出せるようなことを聞きますが、
記憶や過去への執着が本当になくなると、逆になんでも思い出せるようになるんですかね。

875避難民のマジレスさん:2015/01/10(土) 23:42:29 ID:43oZw7ok0
>>870
鬼和尚、ありがとうございます。
精進いたします。

876避難民のマジレスさん:2015/01/11(日) 07:30:27 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
自我の観察について教えてください。
観察をしていて気付いたのですが、思考をしている時に生じている自我イメージと、観察をしている時に生じている自我イメージは異なるようです。

順観と逆観により自我を観察する時には、○○がある時に自我があり、○○が無いときに自我が無いと観察するのですよね。
この場合、思考によって生じる(特有の)自我イメージが、思考が無いときには生じないと観察すれば良いのでしょうか?
もう少し詳しくお教えください。

877素人A:2015/01/11(日) 09:24:25 ID:gOqWUDAs0
鬼さんありがとう 個人の自我も問題だか 社会が人間の本能や感覚を利用して
コントロールするのもある野鴨で.まうそうやつてこの世は動いていくけど
ほつとけ内仏もあるという事は信じて行きますか?大乗ぶだあ

878そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/11(日) 13:40:31 ID:hw5NmCB20
鬼和尚
背中の上の方から首の後ろの辺りにかけて、心地よさの塊のようなものがあります。
瞑想中のみならず、日常的にその存在を感じます。
様々な気付きは、この辺りからもたらされているようにも感じます。
これは、下記の引用のように、鬼和尚が言われている意識と同じものなのでしょうか。

>68 2 名前: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM Mail: sage 投稿日: 2014/03/14(金) 20:20:07 ID: kaXJvxhM0
>肉体の首や脊髄のあたりに在る意識なのじゃ。

879鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/11(日) 21:36:03 ID:mQhlK7fM0
>>874 そのような事もあることじゃ。
 まだ少し執着が残っていることを思い出しているのじゃ。
 完全に執着が無くなればそれもなくなるじゃろう。
 記憶は残っているのじゃ。
 執着による孤独感などはなくなるのじゃ。

 苦があれば思い出したくないことは心によって制限されるのじゃ。
 苦が無くなれば思い出したくないことも無くなるのじゃ。

>>875 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>876 思考によって起こるイメージが、思考が無いときは起こらないことをそのまま観るのじゃ。
 起こらないことを自分で観想してはいかんのじゃ。
 起こらない事をそのまま、ありのままに観るのじゃ。
 もし自我のイメージが起こったならば、起こったことをそのままに観察するのじゃ。
 思考が無い事を観察するのも難しいことではあるがのう。
 実践あるのみなのじゃ。

880鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/11(日) 21:49:31 ID:mQhlK7fM0
>>877 そのような事もあるじゃろう。
 しかし人が自らを深く内省し、老病死を免れないと知れば悟りへと向かうものじゃ。
 その最高の境地を目指すことができる環境ならば、不自由ということも無いのじゃ。

>>878 そうじゃろう。
 意識は肉体の位置によって違ったりするのじゃ。
 さらに観察すればもっと気づくこともあるじゃろう。

881避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 00:48:45 ID:o2sAVcZE0
>>879
そうですね。
記憶は根深いなと思います。
執着がなくなるにつれまた奥の記憶や執着が出てきますね。
地道に実践しようと思います。ありがとうございました。

882そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/12(月) 09:16:33 ID:hw5NmCB20
>>880
ありがとうございました。

883避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 14:22:13 ID:xQpSahzw0
>>879 ありがとうございます。
自我の観察の場合、自分で何かをするのではなく、起こったことをそのまま観察するのですね。観察しようとする意志をも放棄する必要があるということでしょうか。

また、思考が無いことを観察するのが難しいというのは、どういうことでしょうか?
意志により思考を止めるのではなく、思考が無いときに思考によって起こるイメージが無いことを(偶然)観察しなければならないのが難しいということですか?
それとも他に理由があるでしょうか?

884避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 20:56:23 ID:/T06nax.0
日頃の日常でも訓練するためにグルジェフのいう

885鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/12(月) 20:59:24 ID:mQhlK7fM0
>>881 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>882 どういたしまして、またおいでなさい。

>>883 いずれは観察する意志もなしに観察できるようになるじゃろう。
 それをしようと意識する必要も無いのじゃ。
 修練の結果できるようになるものであるからのう。

 そのようなことじゃ。
 通常の人間は思考が無い状態を意識することも難しいものじゃ。
 思考が無い状態に容易に到達できるならば、観察もできるじゃろう。

886避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 21:11:56 ID:/T06nax.0
数息観が合わないので額に意識を集中する瞑想をやっているのですが、熱が生じている感覚をより強めるほど集中できていると考えてよろしいのでしょうか?
またこの瞑想でチャクラが開いたら魔鏡が見えるようになるから危険と聞いたのですが本当ですか?
よろしくお願いします。

887避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 21:14:51 ID:/T06nax.0
884
すいません間違えて投稿しました。
スルーして下さい。

888避難民のマジレスさん:2015/01/13(火) 17:09:13 ID:AiqHe7aY0
>>885
この段階ですと、鬼和尚が以前山の喩えで書かれたように、やはり集中してひたすら心を観察し続けるしか無いようですね。
ありがとうございました。
覚悟を決めて修練に励み続けます。

889栄進:2015/01/13(火) 20:39:47 ID:3jRGFHJE0
2ちゃんが鯖落ちなので此処で聞きます。
鬼和尚、質問です。

①ワシには自我が無いと言う鬼和尚がどうしてワシこそが真の悟りを開いてると言えてしまうのでしょうか。
智慧があるから言えてしまうのでしょうか。

②智慧とは何ですか。

890鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/13(火) 22:16:08 ID:mQhlK7fM0
>>886 集中した時とそうでない時で違いが無いか試してみるのじゃ。
 集中が本当に強くなれば眉間と自分が一体化した感覚が起こるのじゃ。
 それがサマーデイなのじゃ。

 どこに集中していても執着から離れられないものには魔が出るのじゃ。
 執着が無ければどこに集中しても大丈夫なのじゃ。
 魔が出た時にも原因となる執着から離れれば消えるのじゃ。

>>888 そうじゃ、ただひたすら実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>889 ① 自我とは観念に過ぎないのじゃ。
 それに気づけばむしろ自我の観念が無いことが本来の状態とわかるのじゃ。
 自我が無ければ智恵があり、真の知識があり、真の自由意志があるのじゃ。
 そしてその本来の状態に至る事こそが悟りであると智恵によって示されるのじゃ。

 ② 智恵とは本来誰もが持っている、己を含む環境をありのままに観る事のできる能力なのじゃ。
 自我があれば自我の観念にゆがめられて独りよがりになる思考が、自我が無いことによって全てを平等に考察できる平等性智となるのじゃ。
 その他、記憶や観念によつてゆがめられていた観察力や把握力も妙観察智や大円鏡智などとして発揮されるのじゃ。

891避難民のマジレスさん:2015/01/14(水) 14:51:39 ID:I30uh0DE0
鬼和尚が真に悟りを開いているなら、悟りを開いてから既に30年近く経っていると思われるので
実社会で鬼和尚と接してる人の中にも何か感じる人が居て、質問をされたりする事も有りそうな
ものですが、そういう事は有りますか?
またそういう人達が何人か集まって実際の仏教勉強会を開いてくれと要請してきたら
勉強会を開いても良いと思いますか?

892そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/14(水) 21:46:28 ID:hw5NmCB20
鬼和尚
悟った後も娑婆世界と接するためには自我が必要でしょうか。

893鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/14(水) 22:00:24 ID:Uetd9HGw0
>>891 無いのじゃ。
 無いからしないのじゃ。
 わしに会えるのは真に悟りを求める者たちだけなのじゃ。
 いずれおぬしには会うかもしれないのじゃ。

>>892 不要なのじゃ。
 あるふりをするだけでよいのじゃ。
 あるふりだけで人と話せるのじゃ。

894そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/14(水) 22:25:00 ID:hw5NmCB20
>>893
ありがとうございます。
心置きなく自我の滅に励みます。

895素人A:2015/01/15(木) 07:45:33 ID:gOqWUDAs0
私には観られて居るカラー 無いと思える事は
みる処空(から)観れば我々は内で絵多さきに身得る絵画化
でも今は鉄今日いまは浜で今此処で無理しなく有る苦だけです
さあとりあえずはまあよいかで

896避難民のマジレスさん:2015/01/15(木) 12:43:59 ID:I30uh0DE0
>>893
このスレには実際に会って直に指導して貰いたいと思ってる人は結構居ますよね。
いずれと言わずそろそろ直接指導して貰える場を設けても良いのでは無いでしょうか。

897886:2015/01/15(木) 21:42:16 ID:CMFHiRxQ0
>>890
レスありがとうございます。
集中できた時のことを意識しつつ、魔境は気にせず頑張りたいと思います。

898鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/15(木) 22:24:58 ID:mQhlK7fM0
>>894 そうじゃ、精進あるのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>896 真摯に求めればいずれ会うじゃろう。
 それまで自らの心に己を求めるのじゃ。
 そうすれば指導しても速やかに悟りに至れるのじゃ。

>>897 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

899避難民のマジレスさん:2015/01/17(土) 18:51:47 ID:Hn2OuLzE0
静止したものについて考えていたら「五大に響きあり」と空海の言葉が浮かびました。
静止したそれそのものが振動しているのが五蘊、世界という理解でよろしいでしょうか?

ラーマクリシュナも同じ事を言っているようです。
「ブラフマンとシャクティ、真実在とこの世界は、火と燃える力のようなもの、蛇とうねる動きのようなもの、
どちらかだけであることはできない」

900鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/17(土) 22:30:21 ID:HElrJPz60
>>899 そのような事もただ観念であるのみなのじゃ。
  思考や観念を追い続ければいつまでもきりがなく迷い続けるのみなのじゃ。

 今ここにあり、観察できることだけを観察するのじゃ。
 今ここに心身の働きはあり、確実に観察できるじゃろう。
 それを観察し続けるのじゃ。

901避難民のマジレスさん:2015/01/17(土) 23:32:08 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。
今、↓こんな感じです。
サマディや観照などの何等かの認識の変容(?)らしきものは未だ未体験ですが、
1)無思考状態の深まりが実感される。
2)その無思考状態を観察している意識も希薄である
3)入眠状態による意識の希薄化ではないという自覚はある。(入眠に近い感じではある)
4)無思考そのものには、なんの感情も伴わない。

特に(2)は、集中を介さずにいきなり無思考をイメージすることにより、最近得た実感である。

こんな感じですヽ(・(∀)・)ノ

902鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/18(日) 22:24:11 ID:HElrJPz60
>>901 かなり進歩したのじゃ。
 それだけ心をコントロールできれば観察によって変容を起こすことも容易じゃろう。
 ただ単に肉体をくわしく観察するだけでも肉体からの厭離が経験できるじゃろう。
 肉体のもたらす刺激に囚われず、執着することも無いからそれを原因とする苦もなくなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

903避難民のマジレスさん:2015/01/19(月) 20:32:53 ID:LC3de7YgO
>>902
鬼和尚、ありがとうございます。ヽ(・(∀)・)ノ

>観察によって変容を起こすことも容易・・・という域にはまだ到っておりません。
しかし、呼吸に集中するという意思を離れ、いきなり無思考をイメージするようにしたことにより、結果的に、「集中」することに向けられていた「意思」が希薄化し、同時に、五感とりわけこの時期体感温度などの皮膚感覚が鋭敏になり、自然と肉体の観察に向かう傾向があります。そのことによるのかもしれませんが、通常、意識の存在は明瞭に肉体を起点として感じられていますが、何かフワッと胸の辺りを中心に「意識」が肉体から浮かび上がり、少しだけ肉体の外に拡大するような感覚を感じます。
これが、鬼和尚の仰る、
>ただ単に体をくわしく観察するだけでも肉体からの厭離が経験できる
 肉体のもたらす刺激に囚われず、執着することも無いからそれを原因とする苦もなくなる

ということのあらわれでしょうか?

904鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/19(月) 21:31:00 ID:kNmK6HOM0
>>903 そのように心身の働きを観察していけばよいのじゃ。
 さらに変化していく認識に気づくじゃろう。
 肉体も心の働きも自分ではないとわかっていくのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

905避難民のマジレスさん:2015/01/19(月) 21:35:06 ID:ozF4yASU0
空の場合でも集中力の養成が必要なんでしょうか?
また空は一度体得してしまえば、後はそれを当てはめるだけにみえるので、観察より楽そうに感じます。
なぜ空よりも観察の方を主に鬼和尚は語るのでしょうか?
よろしくお願いします。

906避難民のマジレスさん:2015/01/19(月) 22:44:26 ID:LC3de7YgO
>>904
鬼和尚ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
昨年末の、マハムドラの解説を参考に、いきなり無思考をイメージして瞑想してみたところ、予想以上に容易く無思考状態に入ることができただけでなく、邪魔に感じはじめていた集中する「意思」からも解放され、一歩前進できたように思えます。
しかし、これも、集中による雑念の炙り出しと受け流しによる消去が身に付いて、無思考の具体的状態を実感できていたからこそ、マハムドラ=「空」の行が実感できたのではないかと思います。
以前、鬼和尚ブログの「空の行」の解説を読んだ時は、ちんぷんかんぷんでした。

>さらに変化していく認識に気づく
 ことができるように
 精進するであります。

907鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/20(火) 22:04:10 ID:fy0MPBXU0
>>905 空と観想するにもやはり集中力が必要なのじゃ。
 雑念に囚われていては修行も進まないのじゃ。

 空と観想するにしてもやはり自分とは何か、知らなくてはならんのじゃ。
 それを知るにはやはり観察によるしかないのじゃ。
 結局は何をしても観察によることになるのじゃ。
 それ故に観察が一番の近道なのじゃ。

>>906 良かったのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

908避難民のマジレスさん:2015/01/20(火) 23:42:14 ID:T2T86c5w0
>>907
ありがとうございます。
引き続き、瞑想がんばりたいと思います。
ですが、結局観察が必要なら、なぜ空などというものがあるのでしょうか?

909そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/21(水) 18:50:23 ID:L0pOmFww0
鬼和尚
最近は仕事がどうでもよくなってきました。
どうでもいいと言っても、手を抜くとかやりたくないとか辞めたいとか、そういうことではありません。
仕事とそれらとの結びつきが薄れてきました。
薄れてきたことによって、今まではそれらと結びついていたことがわかりました。

また、以前は仕事のアイデアを出す時、考えに考えを重ねて捻り出す感じでした。
家に帰っても、あの仕事はどうしようかとよく考えていました。
しかし今は、課題と条件を頭に入れると、考えなくても必要な時に降ったように湧いてくるようになりました。

910避難民のマジレスさん:2015/01/21(水) 20:50:42 ID:VyqQ..rM0
仕事の手があいたり、座ってちょっと静かになるとすぐに沈黙に引き込まれ没入するようになりました。
その間は体中が心地よさでいっぱいです。
何かをしだすと薄まっていきます。
一日中そんな感じ。
こういうものですか?

911鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/21(水) 21:51:30 ID:UEdcjEGI0
>>908 それは観察も拒むような苦や煩悩が人にはあったりするからなのじゃ。
 あまりにも苦しい記憶は観察する事も恐れてしまい、観れないのじゃ。
 そのようなものには空と観想して恐れも消すことが近道となるのじゃ。
 修行の妨げとなる煩悩を消すために体質や性質によっては空を使うほうが良いことも有るのじゃ。
 そのために創られたのじゃ。

>>909 良かったのじゃ。
 執着が無くなり、智恵の働かせ方が判ってきたのじゃ。
 智恵は必死に考えるより、心を無にしたときのほうが良く働くものじゃ。
 定による智恵がわかってきたのじゃ。

>>910 そのようなものじゃ。
 快が生じているのじゃ。
 瞑想を楽しむことが出来れば進歩も早いのじゃ。

912そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/21(水) 23:43:08 ID:hw5NmCB20
>>911
ありがとうございました。

913避難民のマジレスさん:2015/01/22(木) 18:49:06 ID:SlB5RJYc0
鬼和尚、自分と他人に対する執着が強過ぎるので四念処をやってみたいと思いました
四念処は非常に重要な修行法なのに現代ではあまり行われていないのは何故でしょうか?

914鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/22(木) 21:28:28 ID:VnYNsnjs0
>>912 どういたしまして、またおいでなさい。

>>913 本当の観察がよくわかっておらず、効果も無いからじゃろう。
 本当は身受心法についてありのままに観察する方法なのじゃ。
 そのように観察すれば悟りにも至れるのじゃ。

 あらかじめ不浄とか無常とかの結論があってそれをあてはめるのではないのじゃ。
 それならば観察ではなく、観想になってしまうのじゃ。
 何が見えてもありのままに受け入れるのが本当の観察なのじゃ。
 おぬしは真の四念処の観察すると良いのじゃ。
 そうすれば大きな効果があるじゃろう。

915避難民のマジレスさん:2015/01/22(木) 21:33:20 ID:6p4ETLTs0
鬼和尚、
テーリーガーターとテーラガーターを読んでみたのですが、三つの明知(宿命通・天眼通・漏尽通)を体得してから悟りを得られる方が多かったようです。
宿命通は前世を知る能力、漏尽通は苦を滅する能力であるというようなことを以前書かれており、それらを体得する具体的な方法についても教えて下さっていますが、天眼通についてもお教えくださいますでしょうか?

また、なぜ上記の三つの明知を経て悟りを得る人が多かったのでしょうか?

916避難民のマジレスさん:2015/01/23(金) 11:42:21 ID:SlB5RJYc0
>>914
ありがとうごさいます

917避難民のマジレスさん:2015/01/23(金) 16:40:51 ID:T2l6Rsvo0
>>911
ありがとうございます
空は観察を助けるための一種の道具みたいなもので、直接観察できるものには必要ないという解釈でよろしいでしょうか?
これからは止観の行に励みたいと思います。

918鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/23(金) 22:37:15 ID:L2e50PvU0
>>915 それは眉間などに集中していれば頭の中に映像として見えてくるものなのじゃ。
 人によっては後頭部の方から見るとか、頭の中心に集中すると見えるのじゃ。

 集中力が身に付けば、智恵も通力も身に付くからなのじゃ。
 ヨーガスートラに詳しく書いて有るのじゃ。
 集中とその結果として生じた智恵も力も自分を観察するためなのじゃ。
 そればかりに囚われれば執着になり、逆に修行の妨げになるものじゃ。
 気をつけるのじゃ。

>>916 どういたしまして、またおいでなさい。

>>917 そうじゃ、人の性質によって法も違うのじゃ。
 観察が出来るものは観察をするのが近道なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

919避難民のマジレスさん:2015/01/24(土) 08:38:37 ID:7rD9T5220
>>918
自分の観察ができるのでしたら、通力は脇道ですね。
真っ直ぐに自分の観察に励みます。
ありがとうございました。

920鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/24(土) 20:59:11 ID:K1tObT/o0
>>919 そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
 またおいでなさい。

921避難民のマジレスさん:2015/01/25(日) 19:19:49 ID:LC3de7YgO
(´・(ェ)・`)/鬼和尚、今晩は。

悟りに急速に達する強力な修行方は何かないですかねぇ?

冬場の水ごりとか、断食に近い食事制限とかなら、チョピッと試したことあります。
多少ハードでもよいのでおすすめがありましたら、いうまでもなく自己責任で試してみたいたいので、ご教示ください。
長時間の座禅とかは有効でしょうか?

922鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/25(日) 22:32:09 ID:K1tObT/o0
>>921 長く座るのも有効じゃろう。
 一番良いのは自分の心を観ることじゃ。
 自分とは何か?
 どのような心身の働きが起こる時、最も自分を感じるのか?
 深く追求し、観察してみるのじゃ。

923避難民のマジレスさん:2015/01/26(月) 09:55:02 ID:LC3de7YgO
(´・(ェ)・`)/鬼和尚、ありがとうございます。

雑念少なく、座って呼吸や皮膚感覚等を五感で観察していると、観察している意識そのものが、まさに自我だと感じ、いったんそう感じてしまうと、「観察する意識がなければ自我はないと感じるか」 と縁起の法に持ち込むのはチョピッとむずかしくなりますが、その感覚を振り払い、いきなり無思考をイメージするようにすると、観察する意識が薄らぐ気がする。

ただ、観察する意識を自我だと感じる実感を潜り抜けて(?)、五感が直接感受する感覚そのものを観察していると、無意識に放置すれば、直に具体的記憶に基づく感情や雑念に転化して行くけど、五感そのものの観察に意識的にとどまろうとしているときに感じる、「観察する意識」=記憶による照合を受ける前の感覚を観察しようとする意識は、もしかすると「自我」の意識と多少異なるものなのかなと感じたりもしますが、果たしてこの先に道は開けるのか、錯覚なのか?
こんな感じであります。

以上要するに、観察する意識=自我 と感じることを縁起の法により乗り越えることに取り組むべきか、
記憶に基づく観念(=自我)による照合を受ける前の五感を観察する意識の存在を自我の意識にあらざる「意識」として、無我の実感に連なる可能性のあるものとして追求してみるべきかという感じであります。

924鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/26(月) 22:07:09 ID:bz1AwbfM0
>>923 あくまでも自我を追求するのじゃ。
 自分と感じるものをよりくわしく確かに感じるのじゃ。
 そしてそれが何なのか見極めるのじゃ。
 それが思考だと感じるのならばそれを観察するのじゃ。
 それが記憶と感じるならばそれを観察するのじゃ。
 より詳しく確かに観ることができるほど、悟りは近づいてくるじゃろう。

925避難民のマジレスさん:2015/01/27(火) 19:57:56 ID:IJ1xbrcA0
鬼和尚、
昨晩、何を自分と認識しているのかをしつこく追及してみたところ、世界が揺れるような奇妙な感覚があり、続けていると軽い吐き気が起きました。
集中力が続かなかったためか、元に戻ってしまいましたが、これは自我の観照が近づいている吉兆と捉えて良いのでしょうか?

926避難民のマジレスさん:2015/01/27(火) 21:24:03 ID:SlB5RJYc0
鬼和尚、眉間に集中する瞑想はただ集中するだけでいいのでしょうか?
それとも何か光りをイメージするなどしたほうがいいのでしょうか?

927そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/27(火) 21:31:58 ID:lk1MMNPI0
鬼和尚
日々観察を続けていますが、感情と思考と記憶について、少しばかり見えるものがありました。

初めは過去の記憶(何かの出来事。遠い昔のことでも、最近のことでも。)を思い出し、それを手のひらの上でもてあそぶようにしています。
そのうち、徐々に思考が始まっていきます。
記憶を何度かくりかえして再生しているうちに、それを元にした思考が整っていきます。
この時思考は既に、私の気付かないところで、後のことまで見通していて準備万端です。
そして、思考は他者の存在を作り上げ、私に認識させます。
他者は、人であったり、世の中全体であったりします。
その他者は私を攻撃し始めます。
攻撃といっても、悪口を言ったり、暴力を振るうわけではありません。
私が不安になることをしてくるのです。
してくるといっても、私の思考が既にそのように計画していたことです。
私は攻撃に対して怒ったり、憤りを感じたり、反撃(反論、言い訳)したり、悲観したりします。
思考が他者の存在を作ったとき、同時に私は「我」の存在を生みます。
このように、記憶を元に、無いはずの他者を作り、同時に守るべき我を作り、感情を起こし、苦につながっていきます。

上記のようなことは、期限の決められた仕事で、期限までに完成できるかどうかわからないときに、顕著に起こっていました。
いわゆるストレスです。
しかし、それが仕事を完成させるためには何の役にもたたないことも分かります。

928鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/27(火) 22:43:04 ID:bz1AwbfM0
>>925 そうかもしれん。
 自分が消える恐れによるストレスが強くて吐き気がしたのじゃろう。
 それにこりずに追求していけば自分も見えるじゃろう。
 精進在るのみなのじゃ。

929避難民のマジレスさん:2015/01/28(水) 03:03:58 ID:yBsj9SuA0
私達は単なる現象、反応なのですか?
例えればろうそくに付けた火のように様々な縁が組み合わさって
出来ているだけのように思えます。
火自体には決まった形もなく縁が無くなれば消えて終わります。
我々は火が自分だと思い込んでるけど本当はろうそくや空気のほうが
本来の自分、いわゆる不変な意識に近いのでしょうか?

930避難民のマジレスさん:2015/01/28(水) 12:17:43 ID:xQpSahzw0
>>928
世界が心によってつくり出されているということの片鱗を見た感じです。
自分が消える恐れの原因を観てみます。
また、結果はお任せして、自我の追求に励み続けます。
ありがとうございました。

931鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/28(水) 22:35:59 ID:bz1AwbfM0
>>926 それは自分のやり易い方法でよいのじゃ。
 何もせずに集中するだけが良いならそれでよいのじゃ。
 光とか神仏などをイメージしたほうが良いならばそうするとよいのじゃ。
 神仏を信じるものならばそれをイメージすることで集中力も高まるからなのじゃ。
 いろいろ試して自分にとって一番良い方法でやるのじゃ。

>>927 それもおぬしの心の中に在る条件付けの一つなのじゃろう。
 原因を観察すればそれも消えるじゃろう。
 大抵は親などから教えられたり、習慣として為されたものであるがのう。
 さらに深く観察してみるのじゃ。

>>929 自分と思っているものはそうなのじゃ。
 本当は実体がなく、記憶からの反応なのじゃ。
 それを観察して気付けば自分という観念から自由になるのじゃ。

>>930 そうじゃ、精進在るのみじゃ。
 またおいでなさい。

932避難民のマジレスさん:2015/01/28(水) 23:23:26 ID:SlB5RJYc0
>>931
ありがとうございます

933そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/29(木) 12:31:28 ID:gTqwEa360
>>931
ありがとうございます。
おそらく、これまでに読んできた本のうち、特に熱心に読んだものの内容が反映されていたのだと思います。

ところで、仕事中でも食事中でも何をしていても一日中気持ちいいときがあるのですが、もしもそのまま死んでしまったら気持ちいいままなのでしょうか。

934素人A:2015/01/29(木) 22:23:48 ID:R04/xEPU0
鬼おしょうさん時間が無ければ永遠不滅という変らない此処路なのか
時間の中では全て永遠が無いとおもいました。諸行無常の風が吹く
時間とは何ですか?過去はすぐ死んでいくし未来はまだ生まれていない
今はいつまでもいまで過ぎる事はないし?永遠の今?

935鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/29(木) 22:28:58 ID:BOCnrZnE0
>>932 どういたしまして、またおいでなさい。

>>933 そのままではないのじゃ。
 生きている時の行いによってふさわしいところへ行くのじゃ。
 誰も自らのお粉による報いから逃れられないのじゃ。

>>934 時間とは観念に過ぎないのじゃ。
 変化していく物事を説明するために作られた観念なのじゃ。
 本来はないものじゃ。
 全ては永遠の意識なのじゃ。

936そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/29(木) 22:57:47 ID:lk1MMNPI0
>>935
ありがとうございました。

937避難民のマジレスさん:2015/01/30(金) 12:42:51 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
自我の追求について、もう少し詳しくお教えください。
この追求は言葉無しで、ただただ自分と感じるものを観つづけるので良いのでしょうか?

自分と感じるものは観察の最中にも、座面の接触を感じる主体であったり、思考している主体であったり、観察している主体であったりと同時に複数存在し、それぞれが強くなったり弱くなったり、いつの間にか無くなったり存在したりしています。
私の感覚では思考が最も自分自身だと感じるのですが、思考を特に気をつけて観察するのでしょうか?
それとも、自分と感じられるものを複数同時にただ観察しつづけるのでしょうか?

938鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/30(金) 22:13:58 ID:Er6CYI2Y0
>>936 どういたしまして、またおいでなさい。

>>937 お釈迦様はそれらについて縁によって起こるものとして観察する事を教えているのじゃ。

 思考が起こる時に自分を感じるならば、思考が起これば自分が起こると観察するのじゃ。
 そして思考が無ければ、自分が起こらないとも観察するのじゃ。

 さらに自分という認識から感触が在ると観察し、その主体として又自分が起こると観察するのじゃ。
 自分という観念が無ければ自分の感触は無く、主体という観念も無いと観察するのじゃ。
 常に縁によって自動的に起こるものとして観察してみるのじゃ。

939龍華:2015/02/01(日) 01:40:07 ID:kl1CR23s0
倩女離魂について教えてください。
倩女は[肉体]と[魂]が別々となり其々が違う人生を過ごしたとありますが、この物語は設定がおかしい気がします。
分身の術で[倩女Aの肉体及び魂]と[倩女A´の肉体及び魂]とに分かれて其々が違う人生を過ごたと書かなければ
[本物はどちらか?]という質問が成立しないと思うのですが、どうなのでしょうか?
    
あと分身の術どうやるのか教えてください!
片方が修業して片方は遊んで暮らします

940鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/01(日) 20:53:09 ID:MwO44iSQ0
>>939 肉体と魂という区分が在ればそう思えるのじゃ。
 魂が実体と思うからのう。
 昔の人は肉体も実体と思っていたのじゃ。

 もう一人の自分の姿をイメージしていれば見えるようになるのじゃ。
 他人にも見えるようになるのじゃ。
 強い集中力があれば可能なのじゃ。

941避難民のマジレスさん:2015/02/01(日) 21:36:21 ID:SlB5RJYc0
鬼和尚
もし神通力によって実際に仏様の居る世界に行ってきたとして、それで仏への信が生まれて
死後は必ず善い処に生まれられるということはあるのでしょうか?

942避難民のマジレスさん:2015/02/01(日) 21:47:03 ID:SlB5RJYc0
>死後は必ず善い処に生まれられる
二度と三悪道には堕ちないに訂正させて下さい

943避難民のマジレスさん:2015/02/02(月) 00:02:11 ID:kjsnS1Rk0
>>931

>>929 自分と思っているものはそうなのじゃ。
 本当は実体がなく、記憶からの反応なのじゃ。
 それを観察して気付けば自分という観念から自由になるのじゃ。

お答え有り難うございます。

名称と形態→肉体 が自分ではないとわかるにはやはり悟りしかないのですか?
名称と形態にとらわれなければ二度と肉体に生まれることもないと
最近読んでいるスッタニパータに書いてありました。
スッタニパータもお釈迦様の言葉そのものと考えていいのでしょうか?

また実は我々は死への執着があるからこそ肉体に生まれるのでしょうか?

944素人A:2015/02/02(月) 10:19:36 ID:gOqWUDAs0
鬼おしょさん 日本語凄い 例えば海。生み出すつまり環境も生み出す海だす
まあ外に色々あるけど駄洒落でも馬鹿にできない我 画 環境 観今日?
でも感つまり観が悪いと目の前に身得でも見えないあさってで。掴むはッ感だ
頭に無駄な考えが残っていると感が悪くなるし

945避難民のマジレスさん:2015/02/02(月) 12:20:19 ID:IJ1xbrcA0
>>938 ありがとうございます。
縁によって起こるものとして観察するというのは、漫然と心の動きを観察しつづけるのではなく、観察対象の因果関係に気をつけて観察するということでしょうか?
それとも、認識の変わり目に気をつけて観察するということでしょうか?

その場で気をつけようとすると、その心の動きが生じるのですが、かまわずに観察しつづければ良いでしょうか?

946鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/02(月) 22:12:32 ID:MwO44iSQ0
>>941>>942 あるかもしれん。
 しかし人には自由意志があるから何でも自分の意志によって決められるゆえに、
 そうならないこともあるじゃろう。
 本人次第なのじゃ。

>>943 そうじゃ、悟りを得た者には、もはや肉体も己ではなく己のものでもないとわかるのじゃ。

 そう考えてよいのじゃ。

 個我があると思えば死への執着もあるじゃろう。
 自ら死ぬものも多いからのう。
 
>>944 そうかもしれん。
 しかし日本語にも囚われずに進むのじゃ。

>>945 そのように因果関係に気をつけて観察するというようなことじゃ。
 心を観察してみれば実際に縁によって起こることがわかるじゃろう。

 気をつけようとすると、心の動きが生じるというのも縁によって起こった心の働きなのじゃ。
 それも観察すると良いのじゃ。
 今ここで起こる全てを観察し続けるのじゃ。

947避難民のマジレスさん:2015/02/02(月) 22:30:58 ID:SlB5RJYc0
>>946
ありがとうございます

948避難民のマジレスさん:2015/02/03(火) 20:54:43 ID:zymYeoR20
>>946 ありがとうございます。
因果関係に気をつけて観察をしてみました。
確かに縁によって次々と心の働きが起こるのは観えるのですが、どうしても思考が起こるとそれに巻き込まれがちです。
また、2つ3つの因果関係はなんとか観察しながら把握できるのですが、それ以上になると言葉で追認しないと何がどうなっているのか分からなくなってしまいます。
もしかして、縁によって次々に自動的に起こるのを観れば良く、起こったことは覚えていなくとも良いのでしょうか?
以上のことも含めまして、何かアドバイスをいただけますとありがたいです。

949龍華:2015/02/03(火) 21:02:57 ID:kl1CR23s0
>>940
見えるようになる、 とは見えるだけの虚像なのでしょうか
お互いにどつき合ったり囲碁将棋を打ったりできないのですか

950鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/03(火) 23:06:23 ID:FOt16PP20
>>947 どういたしまして、またおいでなさい。

>>948 数息観などの集中力を養う瞑想をして、雑念を流せるようになれば思考にも巻き込まれないようになるじゃろう。
 それまで精進なのじゃ。

 それを記憶しておく必要は無いのじゃ。
 知識を集めるためではないからのう。
 次々に起こっては消えるその縁起を観察していけばよいのじゃ。
 その観察が、観察対象を厭離させる気づきをもたらすのじゃ。

>>949 おぬしには見えるようになり、上達すれば他人にも見えるようになるのじゃ。
 おぬしが考えることは何でも出来るようになるのじゃ。
 それも含めて現世は全て観念に過ぎないのであるからのう。
 それらに余り囚われないほうが良いのじゃ。

951避難民のマジレスさん:2015/02/04(水) 21:59:33 ID:TkQxuahg0
和尚、こんにちは。

和尚は氣の存在についてたまに触れていますが、
相手の氣によってこちら側が影響を受けることはあるとお考えでしょうか。

相手の性格をあらかじめ知っている場合ではなく、
例えば、内心が嫉妬や妬みで渦巻いている人に触れられたり、一緒にいたりしていた場合などにです。

仙道とかだと邪気をもらうなどと言ったりしますが、
実際に目に見えないエネルギーの移動のようなものはあるのでしょうか。

952避難民のマジレスさん:2015/02/04(水) 22:13:24 ID:SlB5RJYc0
鬼和尚
毎日仏壇で手を合わせていますが仏への信が足りません
どうすればより仏を信じれるようになりますか?
仏の持つ偉大な徳を信じるとかすればいいでしょうか?

953素人A:2015/02/05(木) 08:42:40 ID:gOqWUDAs0
この世うもあの世うも観念だと明らめて現実も幻実も拘らずに
仲善き道を歩けば色即是空は空即是色になる。みんな真っ直ぐ
歩いている?なのに真っ直ぐが解らないと.でも真っ直ぐは真っ直ぐ
歩いている野鴨

954避難民のマジレスさん:2015/02/05(木) 19:21:10 ID:zymYeoR20
>>950 ありがとうございます。
数息観で雑念を流すことはできるのですが、雑念を見守ろうとすると、3回に1回くらいは巻き込まれてしまうようです。
さらに集中の瞑想にも精進します。

縁起の観察で、複数の心の動きを同時に観察している場合には、それぞれの縁起を観るようにすれば良いのでしょうか?
例えば、耳から聞こえた音に対して生じる思考と、喉に生じた違和感から生じる思考がそれぞれあったとします。
その場合、片方に集中したりせずに2通りの縁起、すなわち耳識→思考と、喉の感覚→思考とを観察していけば良いのですか?

955龍華:2015/02/05(木) 20:09:06 ID:kl1CR23s0
>>950
ありがとうございました。
あまり囚われてはいないのですが、少しは囚われたい
お手頃な釣り餌とか手近な目標みたいなのが何かない物かと。
分身の術はちょっと遠すぎた梯ですが。

956避難民のマジレスさん:2015/02/05(木) 20:57:47 ID:SlB5RJYc0
鬼和尚
私は死後善い処に生まれたいので仏への疑いを完全に無くしたいのですが
疑いなく信じることは可能なのでしょうか?

957鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/05(木) 22:56:44 ID:Dnw.DIk60
>>951 気に対して非常に敏感ならば影響を受けることも在るじゃろう。
 大抵の者はそこまで敏感ではないから影響は受けないのじゃ。
 敏感なものはラジオの電波が受信できるようなものじゃ。
 感じなければ影響はないのじゃ。

>>952 今の信で十分なのじゃ。
 大事なのは善事や修行を実践することなのじゃ。
 それが信仰も生むのじゃ。
 信じるとは未だ真実かどうかわからないことを真実とみなすことなのじゃ。
 実践して真実を体現すればもはや信じる事よりも確実な効果が有るのじゃ。

>>953 自らの実践によって確かめたことを事実として進んでいくが良いのじゃ。
 それがまっすぐな道なのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

958鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/05(木) 23:02:12 ID:Dnw.DIk60
>>954 そうじゃ、心の働きが二つに分かれれば、それをありのままに観察すればよいのじゃ。
 それも集中力があれば出来ることなのじゃ。
 心に現れたことは何であろうとありのままに観るのが観察なのじゃ。
 そけが出来れば観察対象の心は厭離され、それが己ではなく、己のものでもないと気付くことも出来るのじゃ。

>>955 いろいろ試してみると良いのじゃ。
 失敗しても何かがわかるじゃろう。
 実践が全てなのじゃ。

>>956 疑ってよいのじゃ。
 信じていても人を苦しませる悪いことをしていれば悪いところにいくじゃろう。
 信じなくとも人を喜ばせる善い事をすれば善い所にいくじゃろう。
 人は行いによってふさわしい所に行くのじゃ。

959避難民のマジレスさん:2015/02/06(金) 01:06:18 ID:SlB5RJYc0
>>958
2つの回答ありがとうございます

960避難民のマジレスさん:2015/02/06(金) 07:51:06 ID:7iY4VAKQ0
鬼和尚は何か楽しいことありますか。悟るとみんな楽しめますか。

961避難民のマジレスさん:2015/02/06(金) 09:42:48 ID:TkQxuahg0
>>957
和尚、お返事ありがとうございます。

>感じなければ影響はないのじゃ。

なるほど。
ということは、知識があるために生じる思いこみ要素が強そうですね。
あまり気にしないようにします。
ありがとうございました。

引き続き実践に励みます。

962避難民のマジレスさん:2015/02/06(金) 12:10:19 ID:.h3KCDlo0
>>958 ありがとうございます。
縁起の観察をしているのですが、確かに心の動きは自動的に起こっているようです。
自我の生起の瞬間はまだ捉えられていないのですが、常に思考、感情、感覚の後に現れます。自我自体は何もしていないようです。
また、悟りを得るのを阻んでいることとして、実際に観察したことに対してさえ、それが本当かどうかを疑っているというのもあるのではないかと気づきました。

この疑いの心は苦滅によって厭離して良いと思うのですが、できれば手放したくないという気持ちです。今すぐに手放しても良いのでしょうか?

また、もし全てが縁により自動的に起こるのでしたら、何かを選択する時にも、選択をすることとしないことは、(自分の感覚に反して)自動的に行なわれるのでしょうか?
例えば目の前にサイコロがあったとして、それを振るか振らないかは主体なく決まるのではないかと思うのですが、それは、どうやって決まるのでしょうか?
やはり縁なのですか?

963鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/06(金) 22:51:27 ID:Dnw.DIk60
>>959 どういたしまして、またおいでなさい。

>>960 そうじゃ、苦が無ければ全て楽しいのじゃ。
 瞑想も楽しいのじゃ。
 世間の欲に心をすり減らすよりも、むしろ瞑想を楽しんだらよいのじゃ。
 健康にも成れるというのじゃ。

>>961 そうじゃ、まさに気のせいなのじゃ。
 気にしなければ悪影響もないのじゃ。
 
>>962 それに気付いた事で、もうその疑いの効力は無くなりつつあるじゃろう。
 それが気付くことの力なのじゃ。
 手放そうと思うことも無く、ただ観察し続けるのじゃ。
 そうすればより深く自分を知ることが出来るのじゃ。
 観察に身を委ねる事で、観察そのものになるのじゃ。

 条件づけられた習慣によって決まるのじゃ。
 それを縁起として観察する事も出来るのじゃ。
 例えばその行為が賭け事ならば、賭け事を悪いものとして教えられた者は振らないようにするじゃろう。
 そのような条件付けられた習慣によって、大抵の者の意志は決まるのじゃ。

964避難民のマジレスさん:2015/02/07(土) 10:36:51 ID:OdMybscU0
>>963
観察そのものになるのですね。
また、習慣と選択に関してお教えくださりありがとうございます。
これ以上のことは自分で確かめてみます。
ありがとうございました。

965善慧:2015/02/07(土) 20:18:59 ID:G4JyaHHU0
鬼和尚さま、この世界には本当は誰もいないのでしょうか?
かなり混乱しています。怖くなったというのが本心のような気がします。
アドバイスいただけるとうれしいです。

966鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/07(土) 21:08:58 ID:Dnw.DIk60
>>964 そうじゃ、精進在るのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>965 いないのじゃ。
 しかしそれほど気にしなくてよいのじゃ。他人も自分としてあるともいえるのじゃ。
 生活には何の支障もないからのう。
 あくまでも真実を求める修行者以外には意味はないのじゃ。
 
 ただ自分の観察したことを事実として受け止めればよいのじゃ。
 自分が何をしたいのか、自分の心を観察して決めればよいのじゃ。

967避難民のマジレスさん:2015/02/08(日) 09:09:49 ID:ToM741HY0
鬼和尚は悟った時の無とこの有の世界を自由に行き来できるのですか?
無の体験(悟り)は一度で良い。とある悟った人が言っていました。
一度すればもうしなくてよいのですか?

968避難民のマジレスさん:2015/02/08(日) 14:52:29 ID:7y8eTFSM0
動物を食べるという行為はどう思われますか?
私は以前生き物を殺してまで食べるのがどうも嫌で一時期
菜食になっていた時期も長かったです。
ここ何年かはあまり気にせず食べたいものを食べていたのですが
和尚様のブログやここやダンマパダを読んでいるうちに又
自分の食のために殺生するのはどうかなって考えが起こりました。
「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」とダンマパダに書いてありますが
生き物を食べることについてのご意見をお聞かせくださいませ。
和尚様は以前生きるために食べるのは仕方がないが利益や欲のための殺生は
よろしくはないと書いてあったのは覚えていますが。

969善慧:2015/02/08(日) 20:09:10 ID:aP2RwSrA0
真実は峻厳ですが、かぎりないやさしさも感じます。
心の中が涙でいっぱいでまだ前がよく見えませんが、
改めて修行の大切さを知ることができました。
鬼和尚さま、本当にありがとうございます。

970鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/08(日) 23:24:34 ID:M2rBv3mo0
>>967 有も無も無いのじゃ。
 その世界も無いのじゃ。
 ただ自分が在ると思っていたからさまざまな謬見があったと気付くだけなのじゃ。
 一度気付けばもはや二度と妄想には陥らないのじゃ。

>>968 それに囚われないのが一番よいのじゃ。
 食べないですむならば食べなければよいのじゃ。
 人に薦められたら食べてもよいのじゃ。
 食べ物に囚われるより、自らの心を観ることが大事なのじゃ。

>>969 そうじゃ、精進在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

971避難民のマジレスさん:2015/02/09(月) 14:32:53 ID:KUaEudG20
>>946のお答えと
>>970

お答え有り難うございました
スッタニパータは最近時間あるごとに読んでいます。

食にかぎらず何事にもとらわれずに心を観察していこうと思います。
人に進められたら頂きます。与えられたものはありがたくいただく ですね。

972鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/09(月) 21:46:33 ID:Dnw.DIk60
>>971 そうじゃ、実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

973避難民のマジレスさん:2015/02/09(月) 23:56:10 ID:aNxujPnI0
瞑想をしよう、集中しよう、とした時はあまりうまくいかないです。
何かやっていて眠くなってきたら、すかさず寝ないように瞑想すると、
うまくいくことが多いです。
これは集中ではないのでだめですか?
また、数息観が退屈で続かないので、音楽(バッハ)をかけてやっているのですが
だめですか?

974避難民のマジレスさん:2015/02/10(火) 09:14:33 ID:FqjD2ybs0
和尚、こんにちは。

悟った人は冬の寒い朝とかに布団から出るのが億劫になったりしないのでしょうか。
それとも、そういう思考は生じるものの、ただ生じているだけという感じなのでしょうか。

最近また寒くなったせいか、布団の温もりに対する執着がすごいです。

975鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/10(火) 21:01:45 ID:YQCrrY8.0
>>973 それでよいのじゃ。
 何でもあまり力を入れすぎるより、肩の力を抜いたほうがうまくいくのじゃ。
 力を抜いていても呼吸などに集中しているならばよいのじゃ。

 音楽をかけてもよいのじゃ。
 いずれ静かなほうがよくなったら消してもよいのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>974 ならないのじゃ。
 熱いとか寒いとかも気にならないのじゃ。

 呼吸法とかをやるとよかろう。
 体が温まるのじゃ。

976避難民のマジレスさん:2015/02/12(木) 00:12:45 ID:FqjD2ybs0
>>975

>熱いとか寒いとかも気にならないのじゃ。

すごい境地ですね。
お返事ありがとうございました。

引き続き実践に励みます。

977避難民のマジレスさん:2015/02/12(木) 15:04:14 ID:BwDSqr2o0
鬼和尚、
ダンマパダ 295の解説をお願いします。

295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

978鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/12(木) 21:31:22 ID:x2oWNnO20
>>976 どういたしまして、またおいでなさい。

>>977 それらは世間的な常識による価値観を滅ぼすために言われたのじゃ。
 愛着と我が在るという観念は世間の常識の根本になっているものじゃ。
 それはあたかも人の根本である父と母の存在のようなものじゃ。

 愛する事はあらゆる世間の法で奨励され、個我が在るという観念から一切の社会が生まれるのじゃ。
 それらは真実を求める修行者には生涯であるから滅ぼして進まなければならんのじゃ。
 
 そしてこの世が永遠に続くとか永遠ではないとかの観念による無用な論議をなくすのじゃ。
 いかなる観念も妄想でしかない故に、そのような観念を持つことは生涯でしかないのじゃ。
 
 さらに修行の道への疑いを無くせば、日々修行に励むことが出来るのじゃ。
 そのように世間の常識や観念の論議や疑いなどの五つの障碍を越えて修行に励むのじゃ。

979避難民のマジレスさん:2015/02/13(金) 10:29:51 ID:oPkJVoYw0
↑×生涯
  ○障害

980避難民のマジレスさん:2015/02/13(金) 11:05:38 ID:L0gmLFpo0
スーパーのうずらの卵からコンスタントにうずらが孵るという話を聞き、うずらを飼ってみたくなったのですが
糞のしつけができないために衛生を保つため頻繁に床に敷いた砂を洗う(具体的にどういった作業かも分かりません)必要があると知りました
どうしたらいいのでしょうか

981避難民のマジレスさん:2015/02/13(金) 17:52:28 ID:.h3KCDlo0
>>978
険しい道ですが、進むにつれてこれら五つの障害が弱まっていることも自覚できます。
さらに励みます。
ありがとうございました。

982sage:2015/02/13(金) 18:26:59 ID:Raj5VtbI0
鬼和尚
私はニートで毎日することも、したいこともありません。
瞑想も計一時間くらいしかできません。
誰にも合わず何もしないでただ居ると妄想をしだして気が狂ってきてしまいます。
私は何をすればよいでしょうか。何をすることが健全でしょうか。

983避難民のマジレスさん:2015/02/13(金) 20:47:14 ID:aNxujPnI0
>>975
ありがとうございます。
いまの感じで問題ないみたいなのでこのまま精進します。

984鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/13(金) 21:10:23 ID:x2oWNnO20
>>979 そうじゃ、間違えたのじゃ。
 障害なのじゃ。
 ご苦労さんなのじゃ。

>>980 猫とか犬用の砂で交換したらよいかも知れん。
 新聞紙とかを細かく切ったのでもよいかも知れん。
 外で飼うとよいかもしれん。
 いろいろ調べて試してみるのじゃ。

>>981 そうじゃ、精進在るのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>982 一時間も瞑想をするとはたいしたものじゃ。
 旅に出るとよかろう。

 あるいは体を良くするとよかろう。
 健康になれば意欲も出るものじゃ。
 西式健康法でもやるとよかろう。
 さらに肉体を鍛えるのもよいのじゃ。
 心身を鍛えて意欲を引き出すのじゃ。
 いろいろ試してみるのじゃ。

985鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/13(金) 21:11:05 ID:x2oWNnO20
>>983 そうじゃ、実践在るのみじゃ。
 またおいでなさい。

986避難民のマジレスさん:2015/02/14(土) 11:39:30 ID:FqjD2ybs0
和尚、こんにちは。

上記の漢字間違いについてですが、
和尚のような人でも間違うことがあるということは、
サマディを得られるような集中力を持っている人でも間違うことはあるということですよね。

私は仕事上、数値的なミスがあまり許されない環境にいるせいか、
間違えてはいけないという観念から強迫神経症のようになり、何度も同じことを確認してしまいます。
仕事だけならいいのですが、家のカギや水道の蛇口などもやはり確認してしまいます。

無意識でやっているならまだよいのですが、
自分でバカなことやってるなーと気づいていながらも確認してしまう時があります。
これもまた習慣によるものだということはわかるのですが、
なにか抜け出す方法のようなものはないでしょうか。
よろしければご教授ください。

987鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/14(土) 21:15:59 ID:x2oWNnO20
>>986 そうじゃ、お釈迦様でも間違えたりするのじゃ。
 
 それは特に気にしなくてよいのじゃ。
 確認するのはよいことじゃ。
 気にすることを気にしてはいかんのじゃ。

 何度も確認しなければ気がすまないならば、一度目に指差し確認とかをするとよかろう。
 自分の動作で確認すると、記憶が確かになって二度も三度もしなくてよいとわかるのじゃ。
 声に出して確認するのもよいのじゃ。
 なれれば小さな動作や声でよくなるのじゃ。
 いろいろためしてみるのじゃ。

988避難民のマジレスさん:2015/02/14(土) 23:00:30 ID:FqjD2ybs0
>>987

お返事ありがとうございます。

>確認するのはよいことじゃ。
>気にすることを気にしてはいかんのじゃ。

確かに、確認している時でも本当に確認している訳ではなく、
確認しているという行為そのものを気にしているだけでした。

確認するのは良いことと聞き、
ちょっと試しに「これは良いことなんだから何回も確認してやろう」と思って
水道の蛇口を閉めてみたのですが、不思議なことに一回で終わってしまいました。

たぶんですが、嫌気を覚えつつ行為に及んだ場合、
行為そのものよりも嫌だという瞋りの心の方にメモリが割かれてしまうのかと思いました。
これからは良いことだと思いながら確認するようにしてみます。

しかし意識のかけ方ひとつでここまで楽になるとは驚きました。
もちろんまだ完治は遠いでしょうが、
他にもアドバイスしてくださった五感を使った方法など、いろいろ試してみたいと思います。

ありがとうございました。
引き続き実践に励みます。

989sage:2015/02/15(日) 18:06:38 ID:Raj5VtbI0
鬼和尚
ラジニーシが言っている「古典的音楽」とはバッハとかモーツァルトの音楽じゃなくて、
風や水の音や動物の鳴き声とかの事ですか。

瞑想するとき、しばしば人為の音楽が脳内再生されて邪魔をするんですが、
音楽を聴くのはやめたほうがいいでしょうか。

音楽家と瞑想家を両立することは無理なんでしょうか。

990鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/15(日) 21:09:30 ID:x2oWNnO20
>>988 良かったのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

>>989 それぞれの民族に古くから伝わる音楽なのじゃ。
 それらはもともと神にささげる音楽であった故に、人を神聖な心境に導くのじゃ。

 それでよいのじゃ。
 その音に身を任せるのじゃ。
 音と一つになるのじゃ。

 音楽によって深い瞑想に入ることは容易になるのじゃ。
 オショーも薦めているのじゃ。
 音楽と一つになる道を探すのじゃ。

991避難民のマジレスさん:2015/02/16(月) 17:53:42 ID:.F64Ot560
炭水化物をしばらく絶ってケトン体とやらを脳の直接の養分にできる状態になると
いわゆるパラグラフ的でない古めかしい文章が良く理解できるようになったりと思考に(良い?)変化があるようです
現代人は飽食なのでなかなかなりませんが潜在的にそちら方面の能力が衰えたりしてしまわないのでしょうか
和尚様が普通に出されたものを食べよとおっしゃる心には何がありますか?

992鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/16(月) 21:38:29 ID:x2oWNnO20
>>991 そのように衰える機能も在るじゃろう。
 しかし環境も次々に変わる故に、囚われる必要も無いのじゃ。

 この肉体が在るうちに自分を観る修行に専念することこそ重要なのじゃ。
 食べ物が何であろうと日々の修行で悟りに必要な集中力と観察力は身に付くものじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

993避難民のマジレスさん:2015/02/16(月) 21:52:43 ID:.F64Ot560
炭水化物はやはり新しく発達した大脳に必要らしいので摂りたいのですがケトン体を使う頭脳も活性化したいのですがどうしたらいいでしょうか
そういえば1日程度の断食を細かく繰り返す人もいますが体に悪影響はないでしょうか
ココナッツオイルを摂ると勝手にケトン体とやらになって目的を達成できそうですが体に悪いと昔言われていた成分なので怖いです

994鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/17(火) 20:59:02 ID:UpGXeInk0
>>993 脳には糖分を与えたらよいのじゃ。
 炭水化物だけでよいのじゃ。

 わしも一日断食をたびたびしてみるが悪くは無いのじゃ。
 健康になるのじゃ。

 一度試してみたらよいのじゃ。
 悪かったらやめたらよいのじゃ。

995避難民のマジレスさん:2015/02/18(水) 08:32:39 ID:FqjD2ybs0
和尚、こんにちは。
気分の浮き沈みについて教えてください。

何かの物事に対して喜んだり落ちこんだりすることがあります。
というよりも、日々これの変動の中で生きているようなものです。

いま喜んでるなーとか、いま落ちこんでるなーとかいうのは
その都度その都度で気がついたりするのですが、
喜びや落ちこみという感情(反応?)がなくなるわけではありません。

これら反応は瞑想やサティなどをやっていると、やがてはなくなっていくものなのでしょうか。
また、普段どのような心持ちでいればよいか教えていただけませんか。

996避難民のマジレスさん:2015/02/18(水) 14:31:17 ID:ZJWwXXrc0
鬼和尚さま
肉体を持たない意識体、高次元の存在というものはいるのでしょうか?
そういったものはどこまで自分の脳内妄想かわからないので気にしないできましたが、
覚者の本でもそういうことに関しての記述をたまに見かけます。

意外なところでテーラワーダ仏教の本でもそういうことが書かれてますが、
どうなのでしょう。

そういったものは自分の心の生み出した妄想で気にするなという話と、
実際にそういう存在、領域があるのだという話がありますが、
鬼和尚さまはどういう立場でしょうか?

鬼和尚さまはそういった存在が見えたり交流したことはありますか?

997鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/18(水) 21:43:59 ID:UpGXeInk0
>>995 それらは心の中を深く観察して原因まで気付けばなくなっていくものじゃ。
 慣れれば日常でも滅することが出来るようになるじゃろう。

 そして瞑想が深くなればそのような起伏も少なくなっていくものじゃ。
 それが平常心なのじゃ。
 驚くようなことがあっても直ぐに平静になるのじゃ。
 何があっても過ぎ行くものとして観察して過ごすのじゃ。
 やがて囚われなくなるじゃろう。
 なにものにも囚われなければ心も乱れず、修行も進むのじゃ。

>>996 そのようなものはあるが、この娑婆世界とは無関係なのじゃ。
 おぬしが蟻や細菌の世界に無関係であるようにのう。
 それを知識で知っても生涯かかわりあうことは無いのじゃ。
 そのようなものは見えず、交流することも無いのじゃ。

 この世に居るものは自らの苦を滅するために修行すべきなのじゃ。

998996:2015/02/19(木) 00:56:49 ID:i.XQKOMM0
>>997
そうなのですか。
この世界に生まれてきたものはこの世界での修行をすべきとのお言葉に受け取りました。
ありがとうございました。

999素人A:2015/02/19(木) 07:57:18 ID:Ft/Zr72A0
>>966 鬼さんそうかも知れないね たとえば将棋で強い人し将棋で負かされてばかり楽しくないし
弱すぎる人の相手はいやだし、自分と同じ位の人と勝負して勝ったりまけたり
が一番修行になつて歩苦のかも?自分に会った問題を少しずつ歩くのが世界いや
正解鴨

1000避難民のマジレスさん:2015/02/19(木) 09:16:56 ID:FqjD2ybs0
>>997

>それらは心の中を深く観察して原因まで気付けばなくなっていくものじゃ。

なるほど。激しい起伏は気づきやすいので、すぐに原因を突き止めたりはしているのですが、
普段の何となく落ちこんだりしている気分に対してまではしていませんでした。
よくよく観察していきたいと思います。

お返事ありがとうございました。
引き続き実践に励みます。

1001避難民のマジレスさん:2015/02/19(木) 12:24:37 ID:wH0JIS760
鬼和尚、
瞑想をしていて、以下のことに気づきました。
思考や感情や感覚は起こったり消えたりするのですが、それらが静まるといつも、それら全てを観ている認識があります。
その認識は寝起きにも感じられるのですが、これが阿頼耶識なのですよね。

それで質問なのですが、阿頼耶識もまた縁起により起こったり消えたりするのでしょうか?

また、もし阿頼耶識に同調し続けられるのならば、他の何にも巻き込まれずに観察できるので、自我の起こりを観るのに有利なのではないかと思います。
サマーディの状態から自我の起こりを観た人は多いそうですが、阿頼耶識から自我を観るのとどちらが易しい道でしょうか?
それとも自我が忘れられているかどうかの違いだけで、結局起こることは同じですか?

1002避難民のマジレスさん:2015/02/19(木) 19:01:49 ID:.F64Ot560
http://world-fusigi.net/archives/7807516.html
極限まで集中力が高まると〜 と書いてありますが、仏教で鍛える集中力と同じですか?

1003鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/19(木) 20:34:13 ID:vSU0SxZE0
>>998 そうじゃ、この世で精進在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>999 そうじゃ、自分の道を行くしかないのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>1000 そうじゃ、観察力が上がればそれも可能なのじゃ。
 日々の精進で出来ないことも出来るようになるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>1001 そうじゃ、観ているのが阿頼耶識なのじゃ。
 それもまた記憶への依存から起きている、縁起によるものなのじゃ。
 
 それは人によるのじゃ。
 サマーディが向いてるものも居れば阿頼耶識から見るのがよいものも居るじゃろう。
 自分にあった道を行くのがよいのじゃ。

>>1002 そうじゃ、同じなのじゃ。
 集中力が強くなれば瞬時に起こることもゆっくりに観えるのじゃ。
 それによって素早い認識の働きも観察できるようになるのじゃ。

1004避難民のマジレスさん:2015/02/20(金) 15:45:04 ID:.F64Ot560
http://martin310.exblog.jp/20010391
これらの記述(水を飲まずに汗をかく)は真実でしょうか?

1005避難民のマジレスさん:2015/02/20(金) 16:07:54 ID:wH0JIS760
>>1003
今のところ自由にはサマーディに入れないので、同調するのが比較的容易な、阿頼耶識から見るほうを進んでみようと思います。
ありがとうございました。

1006鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/20(金) 21:00:50 ID:vSU0SxZE0
>>1004 本当ならもっと話題になっているじゃろう。
 学者も調べるじゃろう。
 食べない人も水は飲むというのじゃ。
 飲まない水が体から出てくるとはおかしなことじゃ。

>>1005 そうじゃ、自分の道を行くとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

1007偽和尚★:2015/02/20(金) 23:13:28 ID:???0
こちらはストップします。

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