[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
鬼和尚に聞いてみるスレ part4
586
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/05(水) 21:49:22 ID:.sHXjcvY0
>>583
そうじゃ、精進あるのみじゃ。
またおいでなさい。
>>584
それは何度か書いたことがあるのじゃ。
過去レスを色々探してみると良いのじゃ。
>>585
それは執着によって子供や財や国を欲してはいかんということなのじゃ。
自分や人の執着や欲によってそれらを望めば、争いとか競争が耐えぬものじゃ。
それらに熱中すればする程、お互いに汚い策略なども使うようになり、人も死んだりするじゃろう。
そして他人の怨みも多くかう事になり、長くは保てないのじゃ。
執着によってそれらのものを欲すれば、そのように多くの悪も成し、身を滅ぼすも事になるのじゃ。
正しい行いによって真理に従い、自ら得られるのならば良いのじゃ。
そうすれば他人の怨みをかうことも無く、長く保てるのじゃ。
それが正しい道なのじゃ。
587
:
<削除>
:<削除>
<削除>
588
:
<削除>
:<削除>
<削除>
589
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/07(金) 14:10:29 ID:W9x6FqRY0
>>586
執着によって欲してはいかんということだったのですね。
第2句と第3句のつながりが分からなかったのですが、ようやく理解できました。
お釈迦様の正しい教えを今、分かり易く伝えてくださり、ありがとうございます。
590
:
<削除>
:<削除>
<削除>
591
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/07(金) 19:28:32 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
最近、瞑想中に何かしたいという思い、例えば、電話を留守電にしたか確認したいとか、首にすれるシャツの襟を直したいとか、ほんの些細な思いが突然わいた際に、そのことを我慢するとか、雑念として受け流すというのではなく、そのように感じてる自我を意識が客観的にとらえるだけで、その思い自体がさぁーっと消えて行きます。
この自我の思いを客観的に意識する意識は、アラヤシキなのでしょうか?
何かそんな高度なものではなく、日常の意識で単に自分の意識を分析しなおしてるだけのような気もしますが、そのことにより、欲求がさぁーっと消える感じは、不思議でもあります。
考え過ぎでありましょうか?
金剛般若経は5ページで停滞中であります。4ページまでは適当な節回し()?で抑揚をつけ、調子よく暗記が進んだのですが、5ページの読みにうまく抑揚がのらず停滞しております。
お寺さんとかにお願いすれば唱えかたとか教えてくれるものなのでしょうか?で
592
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/07(金) 21:35:14 ID:.sHXjcvY0
>>589
どういたしまして、またおいでなさい。
>>591
観察が出来ているのじゃ。
それはまだ、まな識辺りなのじゃ。
分別があるからのう。
無理に唱えなくとも良いのじゃ。
意味が判らなくては何の効果も無いからのう。
現代文で読めば良いのじゃ。
593
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/07(金) 23:12:34 ID:LC3de7YgO
>>592
鬼和尚、ありがとうございますヽ(*・(∀)・*)ノ ちょびっと興奮気味の龍明であります。
まな識でありますか!!
早速調べてみるであります。
日常の意識からチョピッと前へ進めたのでありますね!
嬉しいであります♪
金剛般若経は、解説も全部読んでおりますが、より一層しっかり読むであります!
ただ、ボケ防止と集中力強化のため、暗記も続けたいと思います。
594
:
<削除>
:<削除>
<削除>
595
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/08(土) 06:57:39 ID:EO4mNeKg0
鬼和尚、
ダンマパダの210と211の解説をお願いします。ダンマパダの84と同様に、人に執着するなということでしょうか?
210 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
596
:
<削除>
:<削除>
<削除>
597
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/08(土) 19:09:23 ID:OSlXvtzA0
善慧です。鬼和尚さま、昔のことですが心の整理のために質問させてください。
子供の頃、手の感覚が大きなグローブのように、巨大化して感じられたり、
怒っているの顔だけが大きく目の前に迫ってきたりすることがよくありました。
誰にも相談できず、気が狂っているのではないかと、とても怖かった記憶があります。
気のせいではなくリアルな感覚でしたので、ずっと不思議だったのですが、
昨夜瞑想中、手が広がる懐かしい感覚を体験し、当時のことが蘇ってきました。
何かアドバイスをいただければ、当時の自分も救われると思います。
どうかよろしくお願いします。
598
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/08(土) 22:57:07 ID:.sHXjcvY0
>>590
そうじゃ、進んでいるのじゃ。
もはや心を観察する事が出来ているのじゃ。
さらに学び精進するのじゃ。
>>595
そうじゃ、愛着なのじゃ。
愛し執着する事を諌めているのじゃ。
愛するものと離れるのは愛別離苦なのじゃ。
愛さない人と会うのは怨憎会苦なのじゃ。
愛する者に会いたいという執着が愛別離苦を起こし、
愛さない者と会いたくないという執着が怨憎会苦を起こすのじゃ。
愛し執着する事がないならばそれらの苦もなくなるのじゃ。
全ての人に平等な慈悲を持つ平等心こそ苦を滅した境地なのじゃ。
なかなか難しい事ではあるがのう。
アナンダでさえお釈迦様への執着から修行が進まなかったと言うからのう。
悟りを得るまで去りがたい執着を離れたならば、苦も無いのじゃ。
>>598
ご苦労さんじゃ。正に菩薩の行いじゃ。
>>597
それは意識が広がっているからなのじゃ。
瞑想だけでなく催眠状態でもよく感じられたりするものじゃ。
意識は本来肉体に限定されるものではないのじゃ。
肉体よりも広く意識は広がっているのじゃ。
悟りを得れば全てが意識であるとさえ感じられるのじゃ。
やがて肉体の外に意識が広がり、肉体を抜けたとか感じられるのじゃ。
意志による体、意生身とか幽体離脱とか脱身とか言ったりするのじゃ。
空間にも広がったとか感じられるのじゃ。
その境地を空無辺定とか識無辺定と呼ぶのじゃ。
知覚も鋭敏になったりするのじゃ。
それは集中力が増した事による能力と知覚の拡大したものであるから囚われずに進むのじゃ。
599
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/09(日) 09:35:08 ID:LC3de7YgO
>>598
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
>観察が出来ている・・・が、しかし、
>それはまだ、まな識辺り・・・なぜなら、
>分別があるから
ということは、分別のない状態=日常の意識での「思い」が自動的、無意識にわかない状態を目指すのですね。 これはまた高いハードルではありますが、がんばりますo(`(^)´*)
例えば、かつてあんなにも瞑想の邪魔をした足のしびれが、いまや全く苦にならなくなったような感じで、思いがわいても気にならない、程度ではダメなのでしょうか?
潜在意識の自動的な表出自体を完全に封じ込め(?)るというか、そもそもわいてこない状態になるのでしょうか?
600
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/09(日) 09:56:25 ID:KYsRskK20
はじめに自己紹介をしてる人達は、名前欄にコテハンを入れておけば
自己紹介の手間が省けると思うんだけど、何故そうしないんだろう?
自分から名前を付けて欲しいと頼んだのに、コテハンにしない
理由がよく分からない。
601
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/09(日) 10:23:09 ID:QMm34KcU0
鬼和尚さんは 「完全な悟り」 を開かれているので、たとえ
「眼病で失明しても問題ではない」 と言えるのでしょうね。
しかし、今されている配達の仕事は出来なくなりますよね。
お母上様のお世話も出来なくなりますよね。 それでも
「困る事は無い」 「問題ではない」 と言えるでしょうか?
やはり、この世で生きている以上、「完全な悟り」 というもの
はないように思うのですが、鬼和尚さんはどう思われますか?
602
:
善慧
:2014/11/09(日) 19:39:00 ID:pjVQwsrk0
鬼和尚さま、ありがとうございます。
小学生の頃、暴力を受ける度に体と意識の乖離を願って、
「自分は身体では無い」と呪文のように心の中で必死に唱えていたことを思い出しました。
まさに物事は心に基づき、心を主とし、心によって作り出される…ですね。
自分が自分の囚われる原因を作り出していたことに、やっと気付くことができました。
本当に愚かでした。
正直かなりショックですが、貴重な体験だったと思います。
>>600
ご指摘ありがとうございます。
名前を頂いたのは、飽きっぽい自分が修行を続けるためのモチベーションを向上させる目的でした。
実は掲示板への書き込みは初めてで、書き込み時は心拍数が極度に上がる小心者なのです。
コテハンとして利用することに全く気がつかす、申し訳ありませんでした。
これからはちゃんと名前を入力しますので、よろしくお願いします。
603
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/09(日) 21:43:36 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。
自分はいかに善人のつもりでも、いかに不義理を繰り返してきたことか、いかに恥多き人生であるか…と言う思いが、最近少し薄らいできました。
反省しつつも、今に生きるしかないのでありますね。
>>600
ここはシタラバなのでコテ無しでも、端末変えなきゃ一緒でありましょう。
人のしたことしなかったことを気にするよりも、自分のそれを気にしたいであります。
by 龍明ヽ(・(∀)・)ノ
604
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/09(日) 21:47:03 ID:uLBoB1cw0
>>599
完全に集中した状態ならば肉体も思考も感情も感じなくなり、意識だけがあるようになるのじゃ。
それには集中しただけでは長くかかる故に、自我を観察して滅する法なども必要になるのじゃ。
無我になれば必然的に我を感じる事もないから深く集中できるのじゃ。
それが近道なのじゃ。
>>601
眼が見えなければ年金などももらえたりするのじゃ。
良い事じゃ。
死ぬべき時には抗わず素直に死ぬが良いのじゃ。
その覚悟があれば常に完全なのじゃ。
>>602
良かったのじゃ。
またおいでなさい。
605
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/09(日) 22:01:33 ID:NpBkhqbI0
>アナンダでさえお釈迦様への執着から修行が進まなかったと言うからのう。
私は鬼和尚への執着から修業が進みません。
この愛着も断ち切らねばなりませんか?
606
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/09(日) 22:32:22 ID:j1756nk.0
2ちゃんねるがなにやら規制のようじゃ。
607
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/10(月) 04:18:44 ID:LoicJ7Tc0
>>598
ありがとうございます。
アナンダは苦滅の法を知りながら、お釈迦様への執着を厭離しなかったのでしょうか?
私自身、悟りの障害となっているのは、家族と自我への愛着だと感じています。
これらは完全に厭離しなくとも悟りは得られるものなのでしょうか?
鬼和尚が悟りを得た時には、家族への愛着は残っていましたか?
608
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/10(月) 09:28:04 ID:KYsRskK20
>>603
そういうことじゃ無くて一回コテハンに名前を書き込めば
「ヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。」とか書き込む手間が省けると言ってるだけでしょ。
君が言うようにここはIDが変わらないから誰だと認識出来ると言うなら
その自己紹介も要らないって事になるよね。
609
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/10(月) 21:30:14 ID:HogqPWDY0
>>603
そうじゃ、ただひたすら進むしかないのじゃ。
またおいでなさい。
>>605
そうじゃ、執着があれば苦も起こるじゃろう。
悟りへの執着以外の全ての執着を捨てて進むのじゃ。
最後には悟りへの執着も消えた時に悟りが訪れるのじゃ。
>>607
そうじゃ、一番多く教えを聞いていたから当然知っていたのじゃ。
しかしわざと厭離しなかったのじゃ。
深い瞑想の中で観照の瞬間が訪れたならば厭離しなくとも悟れるじゃろう。
わしは自らの死を超える事で必死であったから家族の事も考えなかったのじゃ。
自分が死ねば家族ともあえないと想っていたからのう。
610
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/11(火) 17:57:56 ID:EIvcNESg0
お釈迦様に出会ったばかりのキサーゴータミーは、本当に愛別離苦を観察出来たのでしょうか?
観察は自分があると出来なくないですか?かなり難易度高くないですか?
611
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/11(火) 20:14:57 ID:7rD9T5220
>>609
家族にしても自我にしても、結局は記憶によって起こる言葉とイメージに執着していると、知識では分かっています。
確かに自分が死ねば、愛着しているすべての物事も失われますね。
自分の本心を再度確かめたところ、死ぬより前に悟りを得て本当のことを知りたいという思いが最も強く、次いで自我への愛着、家族への愛着となっています。
止観にさらに励み、もし進めないようなら、愛着の厭離をする意志を起こそうと思います。
お答えくださり、ありがとうございました。
612
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/11(火) 21:14:15 ID:tHugDETI0
>>610
出来たのじゃ。
それ故にもはや我が子を生き返らせようとは想わなくなったのじゃ。
それは自分の執着であり、真に子を想っての事ではなかったと気づいたからのう。
自分が在っても観察はできるのじゃ。
学者が研究対象を観察して新しい発見をするのも同じ観察なのじゃ。
自分の心を観察して今まで知らなかったことに気付くのが修行者の観察なのじゃ。
対象が違うだけで行いは同じなのじゃ。
日々練習すれば容易になるのじゃ。
>>611
良かったのじゃ。
本心に気付いたのじゃな。
さらに実践あるのみじゃ。
613
:
610
:2014/11/11(火) 22:27:56 ID:EIvcNESg0
鬼さまお答えありがとうございます。ぼけーっとしてる時に一つの執着が流れていくのを観たと思うんですけどね。
614
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/12(水) 09:57:14 ID:z17ZvuWQ0
和尚様公案です スズちゃんにおっぱいはありますか?
615
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/12(水) 14:52:51 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
最近、集中して意識のエアポケットみたいな無思考な状態を形成できる時間が少しずつ長くなってきました。
感情を伴う思考が雑念としてわいた際に、そのポケット内で、鬼和尚に仰っていただいたマナシキが察知すると、たちどころに消え去るようなことがよくあります。
しかし、日常においてはそこまで簡単に行きません。
観照とか悟りといったものは、ある日ある時突然壁が破れ視界が広がるような体験なのかと想像しているのですが、筋トレのように徐々に段階を踏み到達するという側面も大きいものなのでしょうか?
瞑想中の雑念処理と同じような状態に、日常においてもなって行くのでしょうか?
何か、そんな気配をチョピッと感じる今日この頃でたります。
616
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/12(水) 20:49:15 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。本日二度目であります。
今日座っていて、自分が他人に冷淡であった時の思いが突然わき上がりました。
瞑想時に限らずよみがえる負の感情を伴う記憶の多くは、他人からされたことや理不尽だと思うこと等自分が被害者的立場のものがほとんどですが、自分が加害者的立場の感情を伴う記憶が連鎖的に激しくわき上がったのは初めてかもしれません。
以前何度か、心の深奥を観察してみようと試み、色々試してみましたが、単発的にあらわれることはあっても、ほとんどは表面的なものでした。
今日突然それができちゃったのですが、自分が加害者であり、簡単にできる他人に対する優しさを示すことができなかったこと、ずるさ、卑怯さ、愚劣さ等々の自己のマイナス評価・・・劣等感の根拠みたいなものが、堰を切ったように吹き出しました。
もしかしたら、瞑想時にそれが起きたのではなく、一つの記憶を契機に連鎖的に類似の記憶がよみがえったのかもしれません。
以前、やろうとしてうまく行かなかった心の深奥の探求とは、まさにそういった側面をも含めて自分のありのままの姿を見つめ直してみようとしたのですが、その一部が突然できちゃった感じです。
自分が加害者的立場の感情は、いつもの雑念処理と勝手が異なり、頑として居座り消えませんでした。変な話ですが、それが光輝くような感じで存在を主張しているようにも感じられました。
相当に苦しく、短時間、多分10分くらいで今日は打ち切ってしまいました。
今後は、覚悟を決めて、苦しくてもそれらを観察して行こうと思います。
受け身的な記憶と主体的な記憶の質や強さの違いがよくわかりましたが、結局それらの記憶も観念にすぎず、乗り越えられるものなのでしょうが、まずは洗いざらい深奥をほじくり返してみようかと思います。
このようなことは、もしかしたら、無意味でしょうか?
これは、以前読んだbrownさんという人のコメントを参考にした自分なりの内観法みたいな感じなのですが、観照や悟りに近づくために役立つことであるなら頑張って続けてみようと思います。(´・(ェ)・`)
617
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/12(水) 22:26:17 ID:tHugDETI0
>>613
それで良いのじゃ。
そこに気付きもあるのじゃ。
執着が自分ではないと気付いているのじゃ。
そのように進んで行くのじゃ。
>>614
無じゃ。
>>615
そうじゃ、気付きは一瞬にして訪れるが、それには少しずつ進歩していく事も必要なのじゃ。
自分の本心に気づくには時間も掛かるものじゃ。
世間で頑張って暮らしていくうちに、自分に嘘をついたり誤魔化したりして本心が判らなくなるのじゃ。
本心が見えてこそ観察が出来て気付きも起こり、悟りは訪れるのじゃ。
>>616
本心が見えてきたのじゃ。
それも観念によるものなのじゃ。
消そうとか操作しようとせずに静かに観察するだけにするのじゃ。
そうすればそれに囚われているものに気づくのじゃ。
それも己なのじゃ。
618
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/13(木) 00:23:59 ID:QMm34KcU0
イエス・キリストの悟りの深さは、仏教で言えばどのぐらいですか?
619
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/13(木) 06:03:37 ID:LC3de7YgO
>>617
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>気付きは一瞬にして訪れる
自分の本心に気づくには時間も掛かる
>自分に嘘をついたり誤魔化したりして本心が判らなくなる
本心が見えてこそ観察が出来て気付きも起こり、悟りは訪れるの
→その訪れる一瞬に向けがんばります。
わからなくなった本心が潜在意識の底からあらわれると、それはかなり苦しいものであろうことは、端から想定内でありますが、自分の本心を探ることがこんなに困難だということは、想定外でありました。
ある程度修行が進み、精神がそれに耐えられるようになるまで、自我さんが蓋をしてくれてたのでしょうか?
今朝は、集中し、エアポケットを作ってから昨晩と同じ契機となる記憶を想起しても、何等の感情もわきませんでした。
なぜかはわかりませんが、まさか昨夜一瞬にして、燃え上がり厭離されてしまったわけでもあるまいし…自我の観察は一筋縄ではゆきませんですね。
620
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/13(木) 11:15:56 ID:PafroR2U0
>>617
悟れそうな気がします!ありがとうございました!
621
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/13(木) 20:40:32 ID:1DYWkec60
>>918
神と合一したサマーディにまでは達していたような記述があるのじゃ。
神から離れられなければそこまでなのじゃ。
神もまた乗り越えて進まなければ真の悟りは訪れないのじゃ。
>>619
そうじゃ、苦しいから見ないようにしていたのじゃ。
しかしそれを超えれば楽になるものじゃ。
すでに少し滅したようじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
>>620
どういたしまして、またおいでなさい。
622
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/14(金) 02:33:37 ID:QMm34KcU0
鬼和尚は神社仏閣に参詣されることはありますか?
合掌したり、拍手を打ったりされますか?
623
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/14(金) 14:00:59 ID:LC3de7YgO
>>621
鬼和尚、ありがとうございます。
ちょびっといつもとちがうアプローチをしてみたら、壁にぶつかってしまいました。
まず、自分は今あると言う実感を感じてみる。(なんかこんな書名の本がありましたですね。)
この実感は当たり前に簡単に感じる。
今あるという実感、一瞬前も、昨日も、10年前も、生まれてから今この瞬間までずっとあったという実感は確かなものとして揺るがない。
しかし、その実感は一瞬前の記憶に支えられている。
観念にすぎない記憶に支えられている。
いつもの雑念なら、その観念から離れ集中に戻れば、雑念は消える。(消そうとするのではなく、結果的に消える。)
その雑念が何らかの強い感情を伴うものである場合でも、原因である雑念が消えれば、感情もきえる。
観念に過ぎないものに実体はないという感じがわかりかけてきていたのに、「私はある」という記憶の確からしさは、同じ観念に過ぎない記憶でも、実体があるように感じられる。
うぅぅ…へんなことを思い付きでやってしまった。
アプローチ方法を間違えてしまったのでしょうか?
「私はある」という観念を観察してると、ますますその確からしさが強まるような気がしました。
これも、観察し続ければ、記憶は観念に過ぎない、実体はない・・・と言う実感に繋がって行くものなのでしょうが、けっこうしぶとい感じです。
(・(ェ)・)ゞ
624
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/14(金) 16:41:53 ID:pcrSfcf60
和尚、こんにちは。
>>615
で龍明さんが意識のエアポケットと言っていますが、
最近は私もそのような状態に入ることが多くなりました。
ですが、そこから先がどのようにすればよいかわからないため、
このあたりでいつも中断してしまいます。
おそらくは、ただそこに居続ければいいと推測はしているのですが、
推測である以上は「疑」が生じ、思考が暴れはじめてしまうのです。
エアポケット(プチ無思考?)に入った状態になったあと、
どのような心持ちを保っていればよいか教えて頂けないでしょうか。
625
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/14(金) 21:52:29 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
さっきの書き込みをしてから検索してみたら、『私は在る』(マハラジ)というのがありました。彼は真我を前提とするヒンデゥー教の立場(?)で悟りを解説してるのかなと思いました。
折角無我に接近しつつあるので、私なりの「私はある」も観察により是非見切ってやりたいと思いました。
626
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/14(金) 22:11:05 ID:ATEs0xlc0
>>622
無いのじゃ。
>>623
その実感が原因から起こることを観察するのじゃ。
今既に観察するほどますます確かになると感じると言うのじゃ。
その観察する行為が無ければ、実感も減るかも知れん。
それを観察するのじゃ。
>>624
そこからさらに力を抜くのじゃ。
思考が無くとも未だ自我があり、己を守ろうとする慣習の力は残っているものじゃ。
さらに力を抜いて何もかも棄てて、身を任せれば更に深い境地には入れるのじゃ。
そのようにして瞑想は甚だ深く微妙な段階に入っていくのじゃ。
深くなるほど難しいが快も大きく確かになるものじゃ。
実践してみるのじゃ。
627
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/14(金) 22:11:50 ID:ATEs0xlc0
>>625
何でも試してみると良いのじゃ。
実践あるのみじゃ。
628
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/14(金) 22:25:31 ID:LC3de7YgO
>>626
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>その実感が原因から起こることを観察する
>観察する行為が無ければ、実感も減るかも知れん。
>それを観察する
おー!!まさに目から鱗・・・であります!
今夜、やってみます!
629
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/15(土) 02:30:02 ID:QMm34KcU0
鬼和尚さんの家には仏壇はありますか?
ご先祖の位牌はありますか?
鬼和尚さんはご先祖の位牌や形見に
手を合わせたりすることはありますか?
630
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/15(土) 15:36:35 ID:sdxsOZmw0
>>626
和尚、アドバイスありがとうございます。
>思考が無くとも未だ自我があり、己を守ろうとする慣習の力は残っているものじゃ。
なるほど。生じている「疑」も自我が作り出しているトラップかもしれませんね。
また深くなるほど難しいとのことですが、それを聞いて逆に安心感ができました。
より力を抜き、さらに深く入れるよう精進します。
ありがとうございました。
631
:
素人A
:2014/11/15(土) 17:39:45 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さん私は公案力はあるが考案力はまるで才能無い皆が出きる
ああやっらこうなるの常識的計算の思考しいうか左脳の力不足を
感じる。まあ人それぞれ良いところも苦手な所もあるかで力を付けるには
努力といか訓練すれば半人前が一人前にはなると思います。何時も思考が
すっ飛び過ぎて分裂するでも統合失調症ではない。相手にもされない友達も少ない
でもまあ良いかで.なるようになるで
632
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/15(土) 18:12:25 ID:1i3yO3Jw0
鬼和尚さま、私は無を愛し信仰しています。
どうぞ私を無に引き込んでください!
よろしくお願いいたします。
633
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/15(土) 21:46:29 ID:BS2Fn79w0
>>628
そうじゃ、実践してみるのじゃ。
観がたい心の働きを観るために、お釈迦様は原因から起こる連鎖を観察することを教えたのじゃ。
それが法なのじゃ。
>>629
無いのじゃ。
位牌も無いのじゃ。
手を合わせることも無いのじゃ。
本当に故人を想う心だけが大事なのじゃ。
>>630
そうじゃ、力を抜くほどに瞑想は深くなってくるものじゃ。
体のバランスを保ちつつ、力を限界まで抜けばサマーデイも近いのじゃ。
人の感じられる限界を超えた喜びを味わうのじゃ。
>>631
考案力も使う事で発達していくものじゃ。
日々考案し、言葉の使い方も学べば考案力も身につくじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>632
既に一切が無なのじゃ。
おぬしの名前もイメージも無なのじゃ。
名前もイメージもあると想っているだけで本当は無なのじゃ。
肉体も無なのじゃ。
感覚も無なのじゃ。
感情も無なのじゃ。
思考も無なのじゃ。
分別も無なのじゃ。
記憶も無なのじゃ。
あると想う心も無なのじゃ。
無であると想う事も無なのじゃ。
もはや何も言うべき言葉も無いと想うのも無なのじゃ。
634
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/16(日) 18:26:36 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
あの「自分はある」の確からしさはなんだったんだろう?
鬼和尚に言われた通り、観察するのをやめ、ただ意識が静まったところで「自分はある」という思考を想起し、放置してみた。先日の確からしさの強い思いも混乱も起こらず、記憶に基づく観念の一つとして意識されるのみだった。
先日の強い実在感とのコントラストを感じてると、スゥーッと身体の実体感も薄らぎ、丹田の陽気のみがつよく感じらるた。
まだ、サマディとまでは行きませんが、それに近づいてるのかも知れないのかな…と思いました。
635
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/16(日) 18:58:19 ID:23AF/Pqg0
>>633
和尚さま
>本当に故人を想う心だけが大事なのじゃ。
とのことですが、
大事に想う心というのは万物に対する慈悲心のことですか?
それとも特に自分に縁のある故人に対して想うことも大事なのでしょうか?
仏教的には分別せず、特定の相手に対する感情やこだわりは捨てたほうがよいような気もするのですが、
そういう想いは想いとして持っていてもいい(むしろ大事?)のでしょうかね。
そういう想いを捨てようというほうがへんなこだわりなのでしょうか。
そのときそのときが在るだけで、故人を想うときは故人を想え、
現われる感情をいちいちどうこうしようとするなってことなんでしょうかねえ。
そういう自分に現われる心も、よくない心はもちろん生じないほうがよいのでしょうが、
どれもまた捨てていくのがいいのか、持っていてもいいのか、
修行がすすむと、心(想い、感情)は生じないというような話も聞きますし、
あるいは、心が生じるのは当然でそれに執着しなければいいという意見も聞きますが、
そのあたりどうなのでしょうか?
636
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/16(日) 21:32:15 ID:NIt2rEm60
>>634
良かったのじゃ。
我を想起しなければサマーディも近いのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>635
個人へのものでも自然に沸き起こる思いを滅しようとか想わなくて良いのじゃ。
強く執着して修行への妨げにならないならば、放って置いてよいのじゃ。
無理に滅しようとすれば本心を隠す事にもなるからのう。
修行とは心を変えようとすることではなく、あるがままの心の姿を観察して変容を自ずから起こるようにする事なのじゃ。
想いを無理に起こす事も滅する事も無く、自ら観られたならば変化するままにしておくのじゃ。
そうすれば深い境地にも至れるのじゃ。
637
:
635
:2014/11/17(月) 04:17:17 ID:23AF/Pqg0
>>636
なるほど
何事もあるがままにして観察して変わっていくにまかせることですね。
そう思うと、ちゃんと悟りきった方は少なそうで、すごく修行してる方も多いのになあとよく思っていましたが、
そういう方は無理に修行しようとしていたのがよくなかったのかもしれませんね。
修行でなかなか目に見えた結果があらわれなくても、自分でもわからないような深みで内面の整理のようなものが進み、
やがて機が熟し、ささいなきっかけからそれらが結果として現われることも多いような気もします。
お言葉を参考に実践していきたいと思います。
ありがとうござざいました。
638
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/17(月) 22:21:35 ID:NIt2rEm60
>>635
そうじゃ、なかなか難しい事ではあるが試してみるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
639
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/18(火) 01:03:04 ID:0bsJOsOA0
和尚様、ダンマパダを読んでいてわからないことがあったのでお教え下さいますか?
195、196 すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、
拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でも
それを計ることができない。
ここにある供養とは具体的にどのようなことなのでしょうか?
拝むこと?とは又違う気がするのですが。
640
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/18(火) 11:08:26 ID:LC3de7YgO
>>636
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>我を想起しなければサマーディも近い
これだけ聞いたのなら、どうしたらいいか戸惑ってしまうところですが、私は最近意識が静まってきたところで、わざと思考や感情を想起しそれを観察するみたいなことをやっていたので、その実験をやめればいいだけでしたので、簡単でした。
まだ、サマディには到達できませんが、思考、感情=自我の想起をやめるだけで、あっと言う間に安楽な瞑想状態になり、夜寝る前にやると、ぐっすりと良質な睡眠がとれる気がしました。
精進します。
641
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/18(火) 15:54:08 ID:Ixi5VWxw0
鬼和尚、
止観を続けているのですが、たまに止観に疲れて行を休みたい日があります。
このような日には、止観を自分で決めた最低限にして、ダンマパダなどの経を少し読み、あとは欲に流される日を送ってしまったりします。
大抵次の日には、やる気が復活するのですが、心の汚れも増えているように思います。
このような行をしたくない日の、より良い過ごし方がありましたら、お教えください。
642
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/18(火) 15:55:05 ID:Q7u.yQUU0
2chで勝つための戦法はありますか?
643
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/18(火) 18:58:41 ID:QMm34KcU0
鬼和尚は病気になっても西洋医学の治療は受けないのですか?
例えば、癌らしい病状になっても抗癌剤などは服用せずに、念力
などによって自力で治そうとするのですか?
644
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/18(火) 22:35:36 ID:NIt2rEm60
>>639
それは食べ物や服などを布施する事なのじゃ。
この国では死人に供物を上げる事になっているが、本来は目覚めた者や修行者に布施をする事なのじゃ。
修行者は布施が頼りであるから供えれば養う事にもなるのじゃ。
>>640
そうじゃ、何でも試してみるのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>641
近所の公園などに行って自然を観察してみると良いのじゃ。
木や草の葉一枚でも観察力がついた目で見れば、記憶とは違っている事がわかるのじゃ。
自然に親しめば健康にもなるのじゃ。
試してみるのじゃ。
>>642
何も書かない事じゃ。
いずれ消え去るのじゃ。
2ちゃんも消えるじゃろう。
心を鎮めていた者が勝ちなのじゃ。
>>648
受けないのじゃ。
念力ではないのじゃ。
西式健康法とかヨーガとか気功とか呼吸法とか天真療法とかいろいろともつとよい治療があるのじゃ。
手術などをするとむしろ寿命が縮まるというのじゃ。自然な療法が良いのじゃ。
645
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/19(水) 12:14:49 ID:dREx977M0
>>644
>>639
それは食べ物や服などを布施する事なのじゃ。
この国では死人に供物を上げる事になっているが、本来は目覚めた者や修行者に布施をする事なのじゃ。
修行者は布施が頼りであるから供えれば養う事にもなるのじゃ。
理解出来ました。ありがとうございます。
646
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/19(水) 12:56:35 ID:Ixi5VWxw0
>>644
最近内側の観察ばかりしていて、気づきませんでした。
自然を観察してみました。美しくて驚きました。
また、欲に流されようとするのは、結局は逃避の表れであることにも気づけました。
ほぼいつでもあり、どこまでも広がっている自我に圧倒されかかっていたのですが、肩の力が抜けました。
今後も苦滅の意志を奮い起こせない時などに、さらに試してみます。
ありがとうございました。
647
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/19(水) 18:56:34 ID:ZYMyGpV20
長くて気が引けますが、お時間のあるときにでも
信心銘の鬼和尚訳をお願いできませんか?
648
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/19(水) 21:42:56 ID:NIt2rEm60
>>645
どういたしまして、またおいでなさい。
>>646
善い事じゃ。
一休み一休みしながら続ければよいのじゃ。
またおいでなさい。
>>647
それも善い事じゃ。
しかし本が無いのじゃ。
信心銘が無料で公開されているサイトなどを探してみるのじゃ。
649
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/19(水) 22:24:44 ID:/Tir5mUE0
瞑想を初めて4ヶ月ぐらいたつんだけど
最近なんだか視界がおかしいんだよね
透明なノイズみたいなのがサーサーしてる
点滅しているように見えたり、流れているように見えたりする
おかしなだけで不便とかではない。はっきり見えないし気のせいかね
650
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/19(水) 22:50:00 ID:jfWCoXjM0
>>648
了解です。まずwikiからのコピペです。
至道無難 唯嫌揀擇 但莫憎愛 洞然明白 毫釐有差 天地懸隔
欲得現前 莫存順逆 違順相爭 是為心病 不識玄旨 徒勞念靜
圓同太虛 無欠無餘 良由取捨 所以不如 莫逐有緣 勿住空忍
一種平懷 泯然自盡 止動歸止 止更彌動 唯滯兩邊 寧知一種
一種不通 兩處失功 遣有沒有 從空背空 多言多慮 轉不相應
絕言絕慮 無處不通 歸根得旨 隨照失宗 須臾返照 勝卻前空
前空轉變 皆由妄見 不用求真 唯須息見 二見不住 慎勿追尋
纔有是非 紛然失心 二由一有 一亦莫守 一心不生 萬法無咎
無咎無法 不生不心 能隨境滅 境逐能沉 境由能境 能由境能
欲知兩段 元是一空 一空同兩 齊含萬象 不見精麤 寧有偏黨
大道體𥶡 無易無難 小見狐疑 轉急轉遲 執之失度 必入邪路
放之自然 體無去住 任性合道 逍遙絕惱 繫念乖真 昏沉不好
不好勞神 何用疏親 欲取一乘 勿惡六塵 六塵不惡 還同正覺
智者無為 愚人自縛 法無異法 妄自愛著 將心用心 豈非大錯
迷生寂亂 悟無好惡 一切二邊 良由斟酌 夢幻空華 何勞把捉
得失是非 一時放卻 眼若不眠 諸夢自除 心若不異 萬法一如
一如體玄 兀爾忘緣 萬法齊觀 歸復自然 泯其所以 不可方比
止動無動 動止無止 兩既不成 一何有爾 究竟窮極 不存軌則
契心平等 所作俱息 狐疑淨盡 正信調直 一切不留 無可記憶
虛明自照 不勞心力 非思量處 識情難測 真如法界 無他無自
要急相應 唯言不二 不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗
宗非促延 一念萬年 無在不在 十方目前 極小同大 忘絕境界
極大同小 不見邊表 有即是無 無即是有 若不如是 必不須守
一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢 信心不二 不二信心
言語道斷 非去來今
651
:
善聖
◆rgBot67fe.
:2014/11/19(水) 22:57:10 ID:4hgKdDEo0
想起される言葉によって感情が誘導されるのを観察しました。
人は悪い言葉によって悪く、良い言葉によって良くなるのかも知れませんね。
日頃から言葉は慎まなければならないと思いました。
652
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/19(水) 23:17:25 ID:jfWCoXjM0
>>648
読み下し文です。
01至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白
至道(しどう)無難(ぶなん)、唯揀(ゆいけん)択嫌(けんじゃく)。但(た)だ憎愛(ぞうあい)莫(な)ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり 。
02毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆
毫釐(ごうり)も差(しゃ)有(あ)れば、天地(てんち)懸(はる)かに隔(へだ)たる。現前(げんぜん)を得(え)んと欲(ほっ)せば、順逆(じゅんぎゃく)を存(ぞん)すること莫(なか)れ。
03違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静
違順(いじゅん)相争(あいあらそ)う、是(これを)心病(しんびょう)と為(な)す。玄旨(げんし)を識(し)らぞれば、徒(いたず)らに念静(ねんじょう)に労(ろう)す。
04円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如
円(まど)かなること大虚(たいきょ)に同(おな)じ、欠(か)くること無く余(あま)るこし無し。良(まこと)に取捨(しゅしゃ)に由(よ)る、所以(ゆえ)に不如(ふにょ)なり。
05莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽
有縁(うえん)を逐(お)うこと莫(なか)れ、空忍(くうにん)に住(じゅう)すること勿(なか)れ。一種平懐(いっしゅへいかい)なれば、泯然(みんねん)として自(おの)ずから尽(つ)く。
06止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種
動(どう)を止(や)めて止(し)に帰(き)すれば、止(し)更(さら)に弥(いよい)よ動す。唯(ただ)両辺(両辺)に滞(とどこお)らば、寧(なん)ぞ一種(いっしゅ)を知らんや。
07一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空
一種(いっしゅ)通ざれば、両処(りょうしょ)功(こう)を失(しっ)す。有(う)を遣(や)れば有を没(ぼっ)し、空(くう)に従えば空に背(そむ)く。
08多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通
多言多慮 (たごんたりょ)、転(うた)相応(そうおう)せず。絶言絶慮(ぜつごんぜつじょ)、処(ところとして)通ぜずということ無し。
09帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空
根(こん)に帰(き)すれば旨(し)を得(え)、照(しょう)に随えば宗(しゅう)を失す。須臾(しゅゆ)も返照(へんしょう)すれば、前空(ぜんくう)に勝却(しょうきゃく)す。
10前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
前空(ぜんくう)の転変(てんぺん)は、皆(みな)妄見(もうけん)に由(よ)る。真(しん)を求むること用(もち)いざれ、唯須(ただすべか)らく見(けん)を息(や)むべし。
11二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心
二見(にけん)に住(じゅう)せず、慎(つつし)んで追尋(ついじん)すること勿(なか)れ。纔(わず)かに是非(ぜひ)あれば、紛然(ふんねん)として心(しん)を失(しっ)す。
12二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎
二は一に由(よ)って有(あ)り、一も亦(また)守ること莫(なか)れ。一心(いっしん)生(しょう)ぜざれば、万法咎(とが)無し。
13無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈
咎(とが)無ければ法(ほう)無し、生(しょう)ぜざれば心(しん)ならず。能(のう)は境(きょう)に随(したが)って滅し、境は能を逐(お)うて沈む。
14境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空
境は能に由って境たり、能は境に由って能たり。両段を知らんと欲せば、元(もと)是(これ)一空(いっくう)。
15一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党
一空(いっくう)両(りょう)に同じ、斉(ひと)しく万象(ばんぞう)を含む。精粗(せいそ)を見ざれば、寧(いずくん)ぞ偏党(へんとう)有らんや。
16大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅
大道大寛(だいどうたいかん)なり、難無(なんな)く易(い)無し。小見(しょうけん)は狐疑(こぎ)す、転(うた)た急(きゅう)なれば転た遅(おそ)し。
17執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住
之を執(しゅう)すれば度(ど)を失(しっ)し、必ず邪路(じゃろ)に入る。之を放てば自然(じねん)にり、体(たい)、去住(きょじゅう)無し。
18任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好
性(しょう)に任(にん)ずれは道(どう)に合(がっ)す、逍遥(しょうよう)として悩(のう)を絶(ぜっ)す。繋念(けねん)は真に乖(そむ)く、昏沈(こんちん)は不好(ふこう)なり。
653
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/19(水) 23:19:33 ID:jfWCoXjM0
19好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵
不好(ふこう)なれば神を労す、何ぞ疎親することを用ひん。一乗に趣かんと欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ。
20六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛
六塵を悪(にく)まざれば、還って正覚に同じ。智者は無為なり、愚人は自縛す。
21法無異法 忘自愛著 将心用心 豈非大錯
法に異法無し、妄(みだ)りに自から愛著す。心を将(もっ)て心を用う、豈(あ)に大錯(たいしゃく)に非(あら)ざらんや。
22迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌
迷えば寂乱(じゃくらん)を生じ、悟れば好悪(こうお)無し。一切の二辺、浪(みだ)りに自から斟酌す。
23夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却
夢幻空華(むげんくうげ)、何ぞ把捉(はしゃく)に労せん。得失是非、一時に放却せよ。
24眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如
眼(まなこ)若し睡らざれば、諸夢自から除く。心若し異ならざれば、万法一如なり。
25一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然
一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず。万法斉(ひと)しく観ずれば、帰復自然(じねん)なり。
26泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止
其の所以を泯(みん)じて、方比すべからず。動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し。
27両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則
両(ふた)つながら既に成らざれば、一 何ぞ爾(しか)ること有らん。究境窮極(くぎょうくごく)、軌則(きそく)を存せず。
28契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直
心の平等に契(かな)えば、所作倶(とも)に息(や)む。狐疑(こぎ)尽(ことごと)く浄(つ)きて、正信(しょうしん)調直(ちょうじき)なり。
29一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測
一切留めず、記憶すべきなし。虚明(こみょう)自ら照らして、心力を労せず。非思量の処、識情測(はか)り難し。
30真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二
真如法界、他無く自無し。急に相応せんと要(ほつ)せば、唯だ不二(ふに)と言うのみ。
31不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗
不二なれば皆な同じ、包容せずと言うこと無し。十方の智者、皆な此(こ)の宗に入る。
32宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前
宗は促延(そくえん)に非ず、一念万年(いちねんまんねん)。在と不在と無く、十方も目前。
33極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表
極小は大に同じく、境界を忘絶(ぼうぜつ)す。極大は小に同じく、辺表(へんぴょう)を見ず。
34有即是無 無即是有 若不如此 必不須守
有は即ち是れ無、無は即ち是れ有。若し此(か)くの如くならずんば、必ず守ることを須いず。
35一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢
一は即ち一切、一切は即ち一。但(た)だ能(よ)く是(か)くの如くならば、何ぞ不畢(ふひつ)を慮(おもんばか)らん。
36信心不二 不二信心 言語道断 非去来今
信心不二、不二信心。言語(ごんご)の道断え、去来(こらい)今(こん)に非ず。
654
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/20(木) 02:01:20 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
いつもは半身浴をしながら金剛般若経を読むのですが、今夜はなぜかふと宇宙が無限だとしたら…ってなことを考えてしまいました。
鬼和尚に、世界も時間も生も死もないと、悟ったら実感できると聞いても、悟るまではそれはあり、又、修行道半ばで人生の時間切れになる公算が高い。
だからこそ、輪廻があると信じないと、救いがない。
悟り得ず、世界も時間も生も死もある者にとって、永遠に今の「苦」が繰り返されるのではなく、いつかはそこから脱したいと願い続け、次の機会にこそはと希望をつなぐ。
宇宙が無限だとしたら、今の自分と同じような遺伝子で、同じような環境で、同じような経験をすることも無限に繰り返されてしまうだろう。
それは、今の宇宙が終わり、次の宇宙が始まっても、無限に繰り返されるのだろう。無限とはそういうことで、輪廻とはその事を言ってるのかな…と思いました。
本当はそれはない! と実感したいなと思いました。
655
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/20(木) 10:09:54 ID:4ooIiclo0
その前に輪廻は有るっていう実感は有るの?
656
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/20(木) 12:59:00 ID:e1IGwoi20
おにゃにゃちは おにゃにゃちは おにゃにゃちは
信心銘 僧燦
http://procrustes18.blog.fc2.com/blog-entry-437.html
これ。
この通りだろ。すさまじい経文だ。
657
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/20(木) 22:01:23 ID:xqCs/SS.0
確認や注目をする事が、出来事を作ると感じています。
今、今にあるとき、そのように何かを掴む事は無いように思いますが
和尚様は注意、注目、関心。これらの取り扱いはどうされていますか?
658
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/20(木) 22:27:07 ID:vZYr84lw0
>>649
気が降ってくるのが見えるのかも知れん。
わしは見えないのじゃ。
朝にはよい気が多く降るというのじゃ。
観察してみると良いのじゃ。
>>650
ご苦労さんなのじゃ。
01 至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白
至上の道と言うのは難しいものではなく、ただ分別を嫌う。
ただ憎愛の想いが無ければはっきりと明白なのじゃ。
これは修行の道というものが分別によらず、憎しみや愛好の思いをを棄てるところから始まる事を示しているのじゃ。
修行が難しいというのは日常で使う分別を、修行の道でも使おうとするからなのじゃ。
修行の道は日常と違い、分別をなくし、憎愛を消す所から始まるのじゃ。
02 毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆
ほんの僅かな分別による差別の心が有れば、天地の如くはるかに隔たる世界が生まれる。
ありのままの世界を捉えようとするならば、順逆の分別をもあってはならん。
少しの分別の心があれば、そこから我と他人、人と獣、社会と個人などの全ての世界が起こるのじゃ。
在りのままの世界を見よううとするならば、これが正しいとかあれが間違いであるとかの分別をも捨てなければならんのじゃ。
03 違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静
あれは違う、それは正しいとかの争いが心に在れば、それこそが心の病なのじゃ。
その道理を知らなければ、静かな心も徒に消えてしまうじゃろう。
人々の中でも、己の心の中にも何が正しいとか間違っているとかの争いがあれば、それこそ心の病とするべべきなのじゃ。
それらの心掛けを知らなければ、修行しようとしても徒に疲れてしまうだけなのじゃ。
04 円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如
分別を棄てて天空のように心が円かになれば、欠ける所も余る所もない。
まことに取捨分別に依るが故に、意の如くならないとう事があるのである。
そのようにして順逆とか憎愛の分別を棄てて心が天空のように丸くなれば、何かが欠けているとか、余り過ぎるというような思いも無い。
本当に取捨分別の働きによって、一切が思い通りにならないという不満が起こるのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
659
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/20(木) 22:32:20 ID:vZYr84lw0
>>654
そうじゃ、無限に続く苦を抜け出すのじゃ。
おぬしには出来るじゃろう。
またおいでなさい。
>>656
おぬしもご苦労さんなのじゃ。
>>657
わしはもはや無為なのじゃ。
そのような働きもあるじゃろう。
しかしそうであっても何もせず、知らぬが如く流れるままにするのじゃ。
囚われれば雑念になるのじゃ。
囚われなければ行く雲の如く消えていく景色でしかないのじゃ。
660
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/20(木) 22:32:54 ID:/Tir5mUE0
さんきゅーべりまっちょなのぢゃ
ありがとうございます
661
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/21(金) 00:25:40 ID:LC3de7YgO
>>659
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
心強く思います。
がんばります。
もう既に、鬼和尚に教えていただいている方法の実践で今得ているものだけでも十分と思ったてしまいます。
サマディも無我も観照も、まだまだ遠い先でありましょうが、ご指導のお陰で着実に近づきつつあり、1ミリ近づくたびに、「苦」がボロボロと剥がれ落ちて行くような気がしています。 ありがとうございます。
662
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/21(金) 09:16:50 ID:EunOHSdE0
>>658
和尚、こんにちは。
依頼者ではありませんが、信心銘の和尚訳とてもためになります。
ありがとうございます。
663
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2014/11/21(金) 12:59:37 ID:M3BN5Lq60
鬼和尚
見性と観照は違うのでしょうか?
664
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/21(金) 21:29:45 ID:jfWCoXjM0
>>658
解説ありがとうございます。感涙しました(T-T)
次回も楽しみにしてます。
665
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/21(金) 22:27:46 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。
05莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽
俗世間の縁を駆逐せんとしてはならん、空に住もうと忍耐してもいかん。
己の根本の態度を平らかに抱けば、雑念は滅び、自ら尽きる。
修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり、空であるとの観念を持ち続けていてはいかんのじゃ。
それらは心を観る修行のための方法でしかないのであるから、本心を隠して続けても無意味なのじゃ。
むしろ分別の無い自らの根本に常に立ち返り離れなければ、雑念は自ら滅び、消えてなくなるのじゃ。
06止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種
動く心を止めて、静かにしようとすればその止める働きが更に動きを起こす。
止めるとか動かすなとかの分別を働かすよりは、ただ一つの根本の態度を知るが良い。
瞑想のときに心を止めようとすればますます心が動き回るじゃろう。
そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。
それはマハリシが私は誰かを追及せよと言うのと同じなのじゃ。
父母による観念の植付けすらも無い、不生の己こそ追求し、常に離れずに居るべきなのじゃ。
07一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空
自らの根本に通じなければ、何もかもいかんようになる。
有効な事をしようとすればなくなり、空の法にしたかって心を止めようとしても無理なのじゃ。
自らの本心、本性に還る事が無ければ、一切の法は意味が無いのじゃ。
自らに善い事をしようとしても上手く行かず、空の法をしようとしても駄目になったりするのじゃ。
08多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通
言葉や考えが多くては法も心に作用しないのじゃ。
言葉を絶ち、考えも絶てば自らの本心にも通じるのじゃ。
言葉や考えが多くては本心に還る事は出来ず、いかなる法も効果を無くすのじゃ。
心の中での言葉や考えも絶てば、自分の本心に通じないという事は無いのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
666
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/21(金) 22:34:37 ID:zYsaQfjM0
>>660
どういたしまして、またおいでなさい。
>>661
そうじゃ、どんどん実践して楽になると良いのじゃ。
喜びを食む者となるのじゃ。
またおいでなさい。
>>662
良かったのじゃ。
なかなかよいものじゃ。
そうさんも喜んでいるじゃろう。
>>663
見性は自らの本性を見る事なのじゃ。
理想的な観念による自己象を捨て去り、自らの醜さやこずるさや臆病な所などに気付けば見性と言えるのじゃ。
それは自らの本心、本性に還る事であり、修行の一歩と言えるのじゃ。
観照は自我を観察して気付く事であり、それによって自我の厭離が起こるのじゃ。
厭離が起これば自我は無くなり、無我になるのじゃ。
そうなれば悟りの八合目であり、小悟といえるのじゃ。
>>664
良かったのじゃ。
今日も続くのじゃ。
667
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2014/11/21(金) 23:39:34 ID:XD5os4.60
>>666
ありがとうございました。
668
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/22(土) 01:49:16 ID:LC3de7YgO
>>666
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>見性は自らの本性を見る事
理想的な観念による自己象を捨て去り、自らの醜さやこずるさや臆病な所などに気付けば見性と言える
それは自らの本心、本性に還る事であり、修行の一歩と言える
>>616
で経験したことが、これだったと言えるのでしょうか?
以前より少しずつ、他人を批判したり非難したりする気持ちは減ってきていましたか、おりにつけそのような気持ちが起こると、縁起の法で解消していましたが、
>>616
以来、そもそもそのような気持ち(批判したり非難したり怒ったり等)が起こらなくなっている気がします。
自分の本性を知ったことにより、批判したり非難したり怒ったりの気持ちが起こるとことは、他人の言動に、自分の本性を見いだし、いわば自分を非難・批判、怒ってるようなものだと見切れてしまったような感じです。
669
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/22(土) 16:49:59 ID:2NhnKUvU0
鬼和尚、
自分の中にある執着を厭離して行きたいのですが、どうやら逃避があるようで、なかなか、執着がこれである、と見つかりません。
本心を追及するために、自分で「逃げない」と誓ってから瞑想に入るのですが、それでも何やら逃げているようです。
それらをしっかりと観るために、他に何かできることがありましたら、お教えください。
670
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/22(土) 17:39:02 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
瞑想に修行感が全くありません。最初の頃は、毎日続けなければとか、少なくても30分以上は座らなければとか、集中を持続して雑念を少なくしなくてはとか、観察を緻密にしなければとか、修行感と言うほどではないまでも、何か頑張ってる感はあったのですが、今は座りたいから座ってるだけです。
最初は多少の努力を要した瞑想が座ると楽になるになり、それが更に、意識の変容と言うことではありませんが、物事の感じかたが自分なりに望ましい方向に変容しているようには実感してますが、サマディを経験できてる訳でもないのに瞑想中毒というか瞑想依存症のようになっています。
鬼和尚は1日20分ほどの瞑想を続けていたとのことでしたが、それは瞑想の安楽さに浸りすぎないように、わざとそのように規制されてたのでしょうか?
671
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2014/11/22(土) 19:03:36 ID:35GIq.IU0
鬼和尚
我々が何かを見たり聞いたりして、何かを思ったり考えたりするのは、機械的な反応でしかないのですね。
あらかじめプログラムされたものが、一定の入力に対しては常に一定の結果を出すように。
つまり、我々が自由だと思って為していることは、実はそうでもないのですね。
苦というものも、そのように機械的に起こっているに過ぎないのですね。
機械的な反応が起こらなければ苦も生じない。
苦という実体があるわけではない。
だから、どれだけお金がたくさんあっても苦がなくなるわけではないのですね。
672
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/22(土) 21:36:20 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。
09帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空
自らの根本に還れば一切法の意も得られが、分別に従えばその根本をも失うのじゃ。
その分別を一瞬でも観察できたならば、一切の観念妄想に打ち勝ち、脱却する。
父母の観念にさえも触れない自らの根源に帰れば、一切の法も明らかとなり、悟りも得られるのじゃ。
記憶の照会による認識を行っていれば、その根本の姿も失なってしまうじゃろう。
しかし、その認識の作用も一瞬でもかえりみられたならば、自我を滅し悟り萌えられ、観念妄想も無くなるのじゃ。
返照とはそのような認識の作用を見る気付きを言っているのじや。
10前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
観念妄想が止まないのは皆妄見による。
それを放って置いて真実を求めようと努力するのは無意味なのじゃ。
ただ分別の見解を止めるべきなのじゃ。
人の観念妄想は己があると言うような妄見によって起こるのじゃ。
仏教では我見といい、それが無明そのものなのじゃ。
その妄見による妄想を放って置いて、真実は何かとか追い求めるのは無意味なのじゃ。
分別によって生じる妄見をやすめることこそ大事なのじゃ。
11 二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心
有るとか無いとかの二元論を立たず、いつまでも囚われていてはいかんのじゃ。
これが正しいとかあれは悪いとかの見解に縛られていては、心も乱れ見失うのじゃ。
哲学者のようにさまざまな見解を追求していけば、論議は更に別れ自らの心も判らなくなってしまうじゃろう。
そのような自縄自縛の論理や見解があれば心も乱れ見失う故に、いかなる見解や依って立つ論理的な立場なども棄てるべきなのじゃ。。
12二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎
二元論の見解も一元論に帰するものであるが、その一元の論理さえ守ってはいかん。
一つの論理も無くなれば、一切の法が滞りなく作用するのじゃ。
論理が収束して一つの見解に落ち着いたといえども、その見解さえも守ったり囚われたりしてはいかんのじゃ。
何らの論理も見解も心に無い時、心もまた根本に回帰し、一切の法が明らかとなり、欠けることなく働くのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
673
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/22(土) 21:49:12 ID:zYsaQfjM0
>>667
どういたしまして、またおいでなさい。
>>668
そうじゃ、自分の性を見たといえるじゃろう。
さらに多くの性を見つづけていれば、たまねぎの皮のように何もかもが放着していくじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
>>669
逃避があれば観ようとして力めば力むほど、逃避の力も強くなるものじゃ。
逃避も執着も分別しようとするのを止め、囚われる事から心を離すのじゃ。
思考や言葉も離れた心に自然に答えは浮かんで来るのじゃ。
それを待つのみなのじゃ。
>>670
そうじゃ、瞑想はこの世で最も安楽なのじゃ。
お釈迦様でさえ楽しんでいたのじゃ。
わしも言葉が忘れられるから短くしているのじゃ。
修行者はむしろその楽しみを味わうが良いのじゃ。
>>671
そうじゃ、良い気付きなのじゃ。
父母から始まり友人や社会からの条件付けによって人は動いているのじゃ。
金が幾らあってもそこから起こる苦は逃れ様も無いのじゃ。
それを知る事が出来ただけでも幸運なのじゃ。
674
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/22(土) 23:33:05 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。
信心銘の意味について確認させてください。
>05 修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり〜
この「本心を隠して」の解釈ですが、
例えば道を歩いている時、女の人が通り過ぎたとします(毎度同じ例えになりますが。
その時に心では「うほっいい女」と思ったとします。
本心を隠すというのは、この時「おれはそんなこと考える人間じゃねーし」と心を上書きするようなことを言うのでしょうか。
また「いい女」と思ったということをしっかりと認識しつつ、
かつ、「そんな考えはやめないと」と自制する場合は本心を隠していないと解釈してもよろしいでしょうか。
例えば車を運転していて前に割り込まれたとします。
その時に心では「あぶねえな、何だこいつは」と思ったとします。
この時、「別に怒ってねーし」と心を上書きするのが本心を隠していることで、
怒ったということを認識しつつ、「怒らないようにしないとな」と自制するのは本心を隠していないと解釈してもよろしいでしょうか。
>06 そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。
この「自らの根本を追及する」の解釈は、
前の質問で教えて頂いたように、
プチ無思考状態になったらさらに力を抜き、すべてを棄てて身を任せることと考えても問題ないでしょうか。
答え合わせして頂ければ幸いに思います。
675
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/23(日) 00:54:29 ID:LC3de7YgO
>>673
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
信心銘の鬼和尚解説や
>>656
さんが添付してくれたサイトの訳などを指針にして精進します。
ん?楽しみつつも、何かがんばるぞ感はあるみたいです。
あれもこれも、すべて鬼和尚に出会えたればこそであります。
ありがとうございます。
676
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2014/11/23(日) 15:07:32 ID:3kxJAScI0
>>673
ありがとうございました。
677
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/23(日) 18:52:41 ID:CCZQU40.0
鬼和尚さま、お忙しい中申し訳ありませんが
>>651
の善聖さんへの返信もよろしくお願いします。
678
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/23(日) 21:01:36 ID:7rD9T5220
>>673
確かに、力みがあったように思います。
悟りを得たいという欲があって、しかもそれには囚われないというのがなかなか難しいです。
囚われる事から心を離し、心に浮かぶものをそのまま観つづけたいと思います。
貴重な助言をくださり、ありがとうございました。
肩の力を抜いて精進します。
679
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/23(日) 22:45:59 ID:72FX90sI0
今日も続くのじゃ。
13無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈
咎なければ法は無く、観念が生じなければ心も無い。
認識能力は世界が滅するに従って滅し、世界は認識能力が沈む事で駆逐される。
法が明らかに作用して心が観られれば、心の働きは止むじゃろう。
その時観念は生ぜず、観念が生じないからそれを対象とする心も起こらないのじゃ。
認識能力は境界を区別する力を失って止まり、境界を区別する事が無ければ認識能力も働かないのじゃ。
14境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空
境界は認識能力によって境界としてあり、認識能力も境界を認識する事でなりたっているからじゃ。
それら二つのありようを知ろうとすれば、一つの空として観ぜよ。
何故ならば認識は自他の境界を区別し、さまざまな万物を分別する事で成り立っている故に。
その区別された境界が更に認識を確固たるものに思わせ、疑い様が無いから認識と境界は互いにますます強め合っているのじゃ。
それら二つの仕組みを観察しようと欲するならば、一つの空なるものとして観察すべきなのじゃ。
15 一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党
一つの空として二つを等しく観察すれば、一切の認識するものが斉しく包含されているのがわかるじゃろう。
その特徴を探ろうとして観れば、偏りが生じ、見ることができないのじゃ。
心の内に深く秘められた認識と境界の仕組みを観察すれば、その中に一切のものごとが包含されているのがわかるのじゃ。
認識によって自他の境界があり、世界があり、万物の起こる縁となるのじゃ。
その世界が認識をますます強固とさせる故に、終わることがないのじゃ。
その働きをあまりにも集中して観察しようとすれば、自己同一化が起こり、観る事が出来ないのじゃ。
あくまでも両者を斉しく空なるものとして放念し、自ら起こるままに観察する事が肝心なのじゃ。
16大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅
大いなる道の本体は広く、難しくも無ければ易しくも無い。
小さな見方や疑いがあれば、焦りや遅滞を招く。
本来の修行の道のあり方は大きな道が広く、行くのに難しいという事も無ければ、歩みが易しすぎるという事も無いのじゃ。
ただ囚われた見解や疑いがあれば、焦りや遅滞を招き、自ら迷妄に陥るのじゃ。
17執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住
そのように執着すれば度を失い、邪道に入る。
自然に放念すれば、本来去る事も住する事も無い。
修行の道や心にさえも執着すれば心は鎮まることなく、邪道に陥るのじゃ。
心に囚われる事が無く、自然に心を解き放てば、心は居着く事も去る事も無く、鎮まるのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
680
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/23(日) 23:01:04 ID:72FX90sI0
>>674
そうじゃ、本心を隠すとは
「おれはそんなこと考える人間じゃねーし」と心を上書きするようなことを言うのじゃ。
一度認めて自制すれば本心を隠した事にならないのじゃ。
それと同じようなものと考えて良いのじゃ。
上手くしようとすれば力んだりするのじゃ。
むしろますます力を抜いてこそ上手く行くのじゃ。
>>675
良かったのじゃ。
またおいでなさい。
>>676
どういたしまして、またおいでなさい。
>>677
すまんのう、見落としていたのじゃ。
>>651
良い観察なのじゃ。
正しい言葉によって正しい修行も気付きもあるのじゃ。
さらに精進あるのみなのじゃ。
>>678
そうじゃ、 力を抜く事がむしろ難しいのじゃ。
進歩しようとすれば焦りが起こるからのう。
そのような心さえも観察して進んでいくのじゃ。
681
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/24(月) 11:12:04 ID:EunOHSdE0
>>680
和尚、お返事ありがとうございました。
答えが明確になりすっきりしました。
よくよく考えると、修行をはじめてからの方が本心を隠していたように思いました。
おそらく「修行しているおれはそんなこと考える人間じゃない」とプレッシャーをかけていたのだと思います。
これからは素直に認めて、それでいて自制を働かせていきたいと思います。
信心銘は読めば読むほど気づかされるものがありますね。
知識では何とか理解できるものの実行が難しい。
しかし難しもなく易しくもないというのであれば、私の今の思考は偏っているのだろうと思ったりもします。
より精進いたします。
682
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/24(月) 21:56:41 ID:72FX90sI0
更に続くのじゃ。
18 任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好
自らの本性に任せれば、却って道に合致し、逍遥として苦悩を絶てる。
何事にでも念を繋ぐ事あれば、真の法と乖離し、昏沈して好くないのじゃ。
己の本心、本性を知り、それに任せて力を抜けば、心は却って安らぎ、苦悩も無くなるのじゃ。
なにごとも念を囚われていれば、法でさえ上手く働かず、智慧も働かない状態になって良くないのじゃ。
19 好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵
好くないままに続ければ精神は疲労するから、何ものも遠ざけたり、親しんだりしてはいかんのじゃ。
修行の道をまっとうしようと想うならば、修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。
そのような良くないままに修行を続ければ、瞑想をしても精神は疲労するばかりであるから、何かを遠ざけたり、親しんだりしようとしてはいかんのじゃ。
そうであるから真の修行をしようとする者は、身心の刺激となる色や音や香りや味や触感や法などの六つを憎んでもいかんのじゃ。
本来のお釈迦様の教えではそれら六つを遠ざけるべきであるとされているが、それにさえも囚われれば却って良くないのじゃ。
20 六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛
その六塵を憎んで遠ざけたりしなければ、却って修行の道に還ることにもなるのじゃ。
賢い者はそのように無理に六塵を避けようとせず為すがままにするが、愚かな者はそれらを遠ざけようとして帰って自ら縛られるのじゃ。
六塵を憎んで遠ざけたりしないならば、それが却って修行の道としては正しい事にもなるのじゃ。
自らの本性に合わない法を棄てるのであるからのう。
賢い者はそのように法にも囚われず、縛られず、あるがままにして修行の道を進むが、愚かな者は自ら法に縛られて苦悩するのじゃ。
21 法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯
それは法が間違いなのではなく、妄りに自ら愛着するのがいかんのじゃ。
それは心を以って心をあやつるのであるから、大いなる錯覚というものに違いないのじゃ。
六塵を遠ざけよという法が間違いなのではなく、それらにも妄りに自分から愛着するから、法によっての苦も起こるのじゃ。
執着する心を、心によって操作しようとするから、法が苦悩を起こすことにさえもなるのじゃ。
それは正に大きな錯覚としかいいようがないのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
683
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2014/11/24(月) 21:58:41 ID:72FX90sI0
>>681
そうじゃ、おぬしの相談も今の信心銘と被っているようじゃのう。
シンクロニシティじゃな。
吉兆として実践に励むのじゃ。
684
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/25(火) 07:39:29 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、おはようございます。
もう一息で何かつかめそうな気がする…
けど、それは思い過ごしで、克服できていたはずの、迷路の中に戻ってしまう。
できてたことが、できなくなってしまう。
そうなると意識だけでなく、気にならなくなっていた足の痺れまでも瞑想の邪魔をしだす。
超、ガッカリして、イラダツ。イライラの克服くらいは前より少し簡単にできる。
今朝やってみたこと。
イラダツ自分という意識が、頑なにあり続ける。そのイラダツ自我を意識のエアポケットに浮かべ、放置する。イラダツ自我を眺める意識はイラダツていないらしい。
苛立ちとか焦燥とが、快不快とかから自由になるには、この自我を眺める意識(マナシキ)がいつも前面にでるように訓練すればよいのでしょうか?
マナシキというのは、感情とか観念とかの有無のみを認識する意識みたいなものなのでしょうか?
(´・(ェ)・`)ゞ
685
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/25(火) 19:52:06 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
何か物事に執着しているかどうか、自分で確認したいと思います。
物事に執着しているかどうかを確認するためのヒントがいくつかあるのではないかと思うのですが、それらをお教えください。
例えばもし何かに執着していたら、それを失うと観想すると苦が起きるとか、そのようなことです。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板