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お気に入りのローマ皇帝

1カイザー:2002/06/13(木) 23:16
人気投票にも、『ごく稀に』参加して頂いてる方もいらっしゃるようで
すので、ここでもカキコしてくれたら嬉しいです。

好き嫌いはともかく、オクタヴィアヌスはやっぱり偉大です。
アントニウスじゃ、どう考えてもライバルとしては役不足。いっそのこ
と、カエサルが暗殺されずに2人が天下を巡って争うという歴史IFの
方が面白そうです。

593カイザー:2003/06/11(水) 23:25
セスタスのオクタヴィア様の方が史実なんでしょうね。
ネロの好みって、全然共感出来ません。どう考えてもオクタヴィア選ぶでしょう・
・・ってのは、私の偏った好みですか?(笑)

ネロって普通にしてれば、ちゃんと天寿を全うしてオクタヴィア(それ以外でも)
の子供にでも帝位を継承させることが出来たと思うんですけどねえ。
疑心安疑にならず、ウェスパシアヌスとは言わないまでもホノリウスの様に図太く
生きていくというのは、そんなに高いハードルなんでしょうか?
本来、人間の心というのは弱いんでしょうね。

594マッティアス:2003/06/11(水) 23:43
オクタウィアが病死とか自然死でもしない限り、ネロが他の女性と再婚するのは、
というかオクタウィアと離婚するのは、彼の正統性を大きく損ねますよね。
なので、頑張って義務を果たさない限り、(つまりオクタウィアと子供を作らない限り)
子供に帝位を継がせることはできなかったでしょうね。
あとはまあ、強烈すぎる母上との葛藤があるから、難しかったですよ、彼は。

ネロがオクタウィアでは駄目なのは、彼女にクラウディウスの影があるからなのか、
彼が精神的に母親離れできなかったことが原因なのか(後者でしょうが)、もはや本人
ならではわからない理由があるのですよ。基本的に弱いから、強い個性に流されたい
人なんだと思います。そういうタイプは、貞淑で従順な女じゃ駄目なんです。きっと。

595カイザー:2003/06/12(木) 23:21
ネロは緊張感を与えてくれるお姉さんがタイプなんですよね。オクタヴィアの方が
10才ぐらい年上で、アグリッパと死別した頃のユリアみたいな感じだったら、ネ
ロは幸せな人生だったかもしれませんね。浮気されまくって、やっぱり破滅ロード
へネコまっしぐらな気もしますが(笑)。

ところで、明日でこのスレッドを私が作成してから満1年なんですよね。
気付いておられました?

596マッティアス:2003/06/12(木) 23:46
あ!本当だ!!そうかもう1年になるんですね。そういえば、W杯の頃でしたものね。
カイザーさんと出会って、ローマについてほぼ毎日即興でコメントするようになった
ものです。ありがとうございます。ていうか、ホントに他の参加者がないまま、ここ
まで来てしまいましたね(笑)。

そういえば、ユリウス・クラウディウス朝で出てくるオクタウィアは、どちらも夫に
恵まれないですよね。まあ、オクタウィアヌスの姉オクタウィアはもしかしたら最初
の夫とはうまく行っていたのかも知れませんけれども、死別しちゃったし。
ネロっちは、一時期は年増とはいえ心根優しいアクテみたいのと熱愛していたのです
よね。彼女がギリシア人というのが萌えポインツだったのかも知れませんけれども。

597カイザー:2003/06/13(金) 22:27
アントニウスは、奥さんを殺したりしなかったんで、そんなに酷いこともないですよ
ね。・・・無理矢理離縁されるだけでも、十分酷い気もしますが(笑)。
ユリウス朝の主要な女性で、ちゃんと寿命を全うしたのって、このアントニウスの妻
のオクタヴィアとティベリウスの孟母リヴィアぐらいなんじゃ。

ユリア、大アグリッピナ、小アグリッピナ、ウィブサニア、オクタヴィアと、一様に
死に様は悲惨ですよね。それ以外じゃ、カリグラとラブラブのドルシラが若死にとは
いえ普通に病死したというところでしょうか。

598マッティアス:2003/06/13(金) 23:50
祝!1周年\(^-^)/!!

>ユリ・クラ朝の女性達
主筋を外れると、意外に安泰だったり自然死できたりするんですよね。アウグストゥスの
姪たちは(長生きしてしまったためにカリグラに殺された小アントニア以外)多分、自然死。
権力の中枢に近ければ近いほど、危険はいっぱいなんですね。
ところで、死に様が悲惨扱いのウィプサニアって、どのウィプサニアですか?
実はよく把握してません。アグリッパの娘達。大マルケラとの娘のその後とか。

599カイザー:2003/06/17(火) 21:49
次は今年中に1000レス達成が目標ですね♪

ウィブサニアはティベリウスの元カノのつもりでした。確か結構若死にだったと記
憶してたのですが、手元の本を調べなおしても彼女の死因が良く分からない。どう
も勘違いみたいですね。そもそも、ユリウス家の人間とは違いますしね。

最近ローマのコンテンツ更新の為に、ヘラクレイオス朝の勉強中です。
ヘラクレイオス1世にイジメ殺された暴君フォカスは、残酷な弱虫くんで先帝マウ
リキウスとその血縁者を殺しまくった困ったちゃんなんですが、時のローマ教皇グ
レゴリウス1世は教義問題で味方になったフォカスを誉め殺しにしたという何だか
な〜なエピソードが印象的でした。

600マッティアス:2003/06/17(火) 23:09
だから宗教者って信じられないですよね(苦笑)。コンスタンティヌスを無理やり聖人君子に
祭り上げてみたりとか。政治がどうこうよりも、自分達の教会のことしか興味ないんですよ!

アグリッパと大マルケラの娘ウィプサニアって、いつ誰と結婚したんだろう。そもそも、い
つ生まれたのかもよくわかりません。とりあえず、アグリッパと大マルケラが前28年に結婚
して、アグリッパが前23年だかそこらにレスボス島(爆笑)に引きこもって、22年にユリアと
再婚でしょう?…とか一生懸命考えてみつつ、ホントにこの娘はユリ・クラ直系の歴史と関
わってこないんだなあ、としみじみ思いました。

ティベリウスの元カノのウィプサニアの年齢も、岩波文庫の系図はあからさまに間違ってい
るので、よくわからないのですが。再婚相手は毒舌政治家アシニウス・ガルスかぁ、とか。
ガルスはその後、大アグリッピナが再婚したがった相手だったり、ヘタなユリ・クラ家の人
よりもメジャーです。

601カイザー:2003/06/17(火) 23:44
ユリウス朝の細かい人物は私はさっぱり分からないですね。
その辺はもうマッティアスさんにお任せですね。

グレゴリウス1世の場合は、前の皇帝マウリキウスとの相性が悪かったというのも
あるようです。
マウリキウスは自主独立の動きを見せ始めたカトリック教会を警戒していて、ラン
ゴバルド族の侵略に直接抗議したグレゴリウスに越権行為であると圧力をかけてい
ます。
グレゴリウス1世からすれば、フォカスは理解ある皇帝なんですよね。東方で皇族
が大量に殺されても問題なし。むしろ、マウリキウスの血縁者なんてどんどん積極
的に殺してOKという立場なんでしょう。
グレゴリウス1世は歴代教皇の多くがそうであったように宗教者であると同時に、
政治家でもあるということですね。

602マッティアス:2003/06/18(水) 14:51
教会関係者も、政治力がないと生き抜けないんでしょうね。拡大すればするほど、組織
内部でもいろいろ調整能力やら何やら必要になってくるし、国家内で重要な位置を占め
るようになれば、王だったり皇帝だったり、世俗の支配層との競合も出てくるしで。
教えを誠実に守る、善い信仰者だというだけでは、教皇は務まらないのでしょう。

宗教を熱心に信じるほど、狂信的・偏狭的になりやすいですね。そうして、宗教的観点
から自分の正義を信じるほど、敵対者(不信心者)が酷い目に遭おうと、神罰扱い。
マウリキウスもキリスト教徒なはずですが、カトリックではなくやはり正教派だったの
でしょうか?ビザンツ皇帝だから。
まあ、世俗権と宗教的権威は、わりと不倶戴天なイメージありますけどね。

603カイザー:2003/06/18(水) 21:45
マウリキウスは正統派の皇帝ですね。
というか、ローマ皇帝はアリウス派だろうと単性論者だろうと、自分自身が正統派
の信仰を保持してるつもりなんですけどね。異端の神学者や司教なんかも同様です
が。

マウリキウスの感覚ではローマ教会はローマ皇帝の傘下の宗教組織であって、独立
的な権限を認めようとは考えていなかったようです。まだ、西方教会と東方教会が
分離もしていないですし、ローマ教皇は名目だけでなく実質的にもローマ皇帝の臣
下といえると思います。東ゴート時代には、東ゴート王の臣下みたいな状態でした
が。

カトリックと正教会の分離のきっかけの一つに、ヘラクレイオス1世の単性論融和
政策があるようです。断続的に離反の動きを示す東方属州の支配を固めるための政
策だったのですが、イスラム教徒にそれらの地域はあっさり奪われ、ローマカトリ
ック教会からは反発されるだけという、踏んだり蹴ったりの結末でした。

604マッティアス:2003/06/18(水) 23:50
教皇って、いつからそんなに偉くなったんですかね、そういえば。コンスタンティヌスや
その後しばらくは、一応皇帝の傘下というか、まあそういうカンジだったと思うんですけど。
とりあえず、帝国が強大なうちは、皇帝が選んだものこそが正統と解釈しておけば良いの
ですね?
再発掘する羽目になったギボンの3巻ですが、ユリアヌスが正帝になってからは、断然、
読みやすいですね。その直前の長〜い、コンスタンティヌス朝のキリスト教政策に就いての
章でかなりヘタれて投げっぱなしになっていたのですが。
ギボンのユリアヌス・シンパぶりが発揮されていて、ものすごく面白いんですけど。

605カイザー:2003/06/19(木) 19:12
ローマ教皇が独立的な立場にたったきっかけは、ランゴバルド王アイストゥルフのイ
タリア中北部征服ですね。これによって、751年ラヴェンナ総督府はローマ帝国の
手から失われ、ローマ市も蛮族の勢力圏の小島となってしまいます。
で、この状況の打破の為に、当時の教皇ステファヌスがフランク王ピピン3世に支援
を求めて、ランゴバルド族からラヴェンナを含む領土を奪回したのが、いわゆるロー
マ教皇領です。とは言ってもこの段階では、あくまでローマ帝国の一部としての教皇
領に過ぎないのですが。

完全にローマ教皇領の独立が果たされるのは、カール1世のローマ皇帝即位になるで
しょうね。もっとも、この時でもローマ教皇領はカロリング帝国の一部として見とく
べきでしょうが。

606マッティアス:2003/06/19(木) 23:07
そうなると、やはり第二帝国(という言い方はあまりしないのかな?)の成立過程に、その
萌芽があったというカンジですかね。王(皇帝)が教皇によって正統性を認知されるという
形式から、世俗権への教皇権の優位が確立されていったみたいな。カロリング帝国の一部、
とはいっても、その辺の力関係とってもビミョ〜。
ついでに思ったんですけど教皇が独立し、世俗権に迎合する必要が少なくとも表向きには
なくなったのは、ローマ帝国ではなく、言い方は悪いですが蛮族の王達が西欧世界の覇者
になってからなんですね。そう思うと、正統なローマ帝国であるコンスタンティノープル
政権が、他のキリスト教国のように教皇に従属しないのが、理解しやすいような。

607カイザー:2003/06/20(金) 00:00
カール大帝の頃だとローマ教皇は絶対的存在ではないんですよね。次代のルイ1世は
教皇によってではなく、父帝のカール1世によって帝冠を授けられたそうです。
ところが、ロタール1世以降のカロリング家の皇帝達は、ヴェルダン条約やメルセン
条約によって限定的な領土しか保持していなかったからか、自身への権威づけのため
か、ローマ教皇によって帝冠を受けることを選択するんですよね。

この辺の事情から叙任権闘争とか皇帝党と教皇党の政争なんかが、中世まで延々と続
くことになります。カール5世なんかも、ローマ教皇領は自身の勢力圏内の一部とい
う認識だったかもしれませんね。

608マッティアス:2003/06/20(金) 16:37
西洋中世史は十字軍がらみでしか本を読まなかったので、本当はとっても暗いのがバレ
バレですね、私。
権威付けのために何かを利用すると、結構足元すくわれますよね。ムスリムには教皇に
類似した存在がなく、特定の聖職者が存在しないため、こういう争いはあまりないです。
それが良いのか悪いのかは判断に困りますが。

聖職叙任権闘争って、宗教が政治に影響力を発揮するから起こってくるわけですよね。
政教分離がなしとげられていれば、教会内のヒエラルキーがどうだろうと君主が口出し
する必要はないわけだし。もしくは、いっそ宗教的権威と政治的権力者が一致していれ
ば、あんまり問題は起きてこないのではないかなあ、とか。とりとめもなく考えてしま
います。

609カイザー:2003/06/21(土) 13:31
イスラム教でいえば、教皇と似た様な存在になるのはカリフなんじゃないんですか?
初期の祭政一致の頃からして、前線指揮官や総督とカリフの関係は教皇と蛮族の皇帝
や王と類似するようなものを感じます。もちろん、根本は全然違うとは思いますが。

ついつい世界史で習った中世以降の自立した強大な権威を持っているイメージを想像
してしまいますが、ローマの影響下にある頃の教皇というのも本当はかなり微妙なポ
ジションなんですよね。おいそれとコンスタンティノポリスの意向を無視なんて出来
ないですし、そもそも教皇自身が皇帝の息がかかった東方出身者だったりします。

イスラムの征服が進んだことにより、失われた東方属州を諦められないローマ側が異
端への融和政策を打ち出したり、イコン破戒運動といった、ローマ教会の意向と相反
する姿勢を打ち出し続けたことが、本来は皇帝派の筈の歴代教皇にローマ帝国ではな
く蛮族のフランク人の庇護下に入ることを選択させたようです。

610マッティアス:2003/06/21(土) 14:21
カリフは、微妙。ムハンマドの後の4人はともかく、ファーティマ朝とかシーア系のカリフ
以外は、あんまり宗教的な面がないような。最も、フェトヴァ(祈祷)のときに名前を告げら
れるのは、カリフだけだから、宗教的催行権威と言えないこともないけれども。

アタナシウスへの迫害のときの、他の司教、教皇達の弱腰の事例をギボンで読んで、少なか
らずショックでしたね。カトリックの地位=ローマ教皇って、そんなに確立していたわけで
はないんだ〜、と。
ローマ側の宗教的な諸政策、異端への宥和策とか聖像破壊は、あからさまにイスラムの影響
ですね。いろんな意味で対抗しなければならない必死さが伝わってきます。

611カイザー:2003/06/21(土) 16:21
アタナシウスが生きてる頃のローマ教会は、コンスタンティノポリス、アレクサンド
リア、アンティオキア、エルサレムの5大司教座の一つに過ぎないですもんね。
コンスタンティヌス1世とリキニウスの主催したニケーア公会議には、当時のローマ
教皇シルウェステル1世は出席してなかったそうですね。(そもそも呼ばれてなかっ
た?)

ユスティニアヌス1世のイタリア再征服から、250年に渡るローマ帝国のローマ市
支配(不自然な書き方ですが)は西洋史を理解する上でメチャクチャ重要なことなの
に、世界史の授業ではスルーされまくってますよね。
西ローマ帝国の滅亡による、ローマ史とビザンツ史の断絶という歴史観はそろそろ修
正されてしかるべきかもしれません。

612マッティアス:2003/06/21(土) 17:10
ビザンツの事って本当に、日本の教科書では西欧とかイスラムとの関連でちょこっと出てくる
だけですしね。そもそも、当の西洋でさえ、ビザンツをローマ史の一貫として扱った著作は、
非常に少ないような気がします。
ユスティニアヌスの件で言えば、年表に旧帝国の領土を回復、と書いてあるだけで、ローマや
イタリアの領土との関連はどうなんだかさっぱりわからない。せいぜい、アヤソフィア聖堂を
作ったとか、そんな事ばっかり取り上げてますよね。日本の教科書の場合は。

おかげで、東帝国が1000年の永きにわたって存在したこととか、その存在意義みたいな事って、
ほとんど意識されていないカンジです。私もローマに興味を持つまで、メフメト2世に滅ぼさ
れたこととか、十字軍のきっかけになったわりに、十字軍とはうまくいってなかった事くらい
しか知らずにいました。

613カイザー:2003/06/21(土) 22:38
ローマの影響って中世西欧の成立過程では無視できない筈なのに、わざわざ無視しま
くってるから、特に関心のない人は曖昧にしか認識出来なくなっちゃうんですよね。
私自身も中高生の頃はマッティアスさんのように、教科書の通り一遍の知識しかなか
ったです。今でも分からないことの方が多いぐらいですし。

世界史の授業で当時から疑問だったのが、フランス革命をやたらと細かく習うという
ことですね。重要じゃないとまでいいませんが、半分以下にしても全然OKだと思う
んですけどね。

そういえば、本棚の中に「十字軍」(ルネ・グッセ)という本が放置状態なんですが
、読まれたことあります?

614マッティアス:2003/06/22(日) 01:15
グルッセは卒論の参考文献の一つです。でも高校生の時に何故か鎌倉で買って、その後
2年くらい放置プレイでした。旧字体が多くて挫けたんです(爆)。でも、よい本だった
と思いますよ。
ロベール・ド・クラリの『コンスタンティノープル遠征記』とかも、第4回十字軍参加
者が書いた記録で、わりに読みやすい訳だったと思います。仏王フィリップ2世に妹が
いた上に、ビザンツに嫁いでいたと知って、えらく驚いたものです。

中世西欧の成立とローマの関係で思い出したんですけど、ローマの文学では、教科書で
取り上げられるのって、ウェルギリウス、オウィディウスのほかは、「ガリア戦記」と
「ゲルマニア」くらいではないですか?しかも後ろ2つは、フランク族がどうだこうだ
という件で言及されるカンジで。

615カイザー:2003/06/22(日) 02:04
名前だけならホラティウスなんかも授業で聞きましたね。詩人系に拘らなかったら、
マルクス帝とかセネカとかの哲学者なんかも文学者になるのかな?
アウグスティヌスの「神の国」なんかは、文学的価値とかよりも宗教的な影響力なん
かを評価してるんでしょうか。単語しか覚えてないから、私も良く分かっていません。

ローマも周辺民族と積極的に縁組みしてますよね。カロリング帝国とか神聖ローマ
帝国なんかも、当時のイサウリア朝とかマケドニア朝と縁組みしてた筈ですよ。
100%作り話だと思いますが、カール大帝と女帝イレーネとの縁談もあった(け
ど途中でイレーネが失脚した)とかいう話もあったりします。

616マッティアス:2003/06/22(日) 10:46
王家の人間同士の縁組はよくあることのはずなんですが、何故かビザンツって文化圏が
違うというか、やけに遠いイメージがあって、西欧カトリック国家の諸侯との縁組とい
うのがいまひとつピンと来ないんですよね。
きっとそれくらい、ビザンツの事って授業で取り上げられなかったのでしょうね。
おまけに大シスマ、とかローマ教皇とビザンツ皇帝の対立、とかばかり強調されるもの
ですから、カール大帝もてっきり、ビザンツよりはハールーン・アッラシードとの方が
仲良かったのかなあ、などと誤解していましたもの。

617カイザー:2003/06/22(日) 18:41
周辺異民族と初めて縁組みした皇帝って誰なんでしょうね。復位したユスティニアヌ
ス2世が亡命中にハザル王の娘(テオドラ)と結婚したのが思いつく限りでは一番古
そうです。
皇后時代イレーネの夫レオ4世なんかは、母親がハザル人だったみたいです。

スティリコとかリキメールなんかが、ホノリウスやアンテミウスと縁組みしたりして
ますが、こっちはもうローマ内部の話になってしまいますもんね。

618マッティアス:2003/06/22(日) 21:01
異民族出身でも、ローマ市民権を持っていたら話は別ですものね。う〜ん…。
セウェルスとかは?ユリア・ドムナはシリアの祭司の家柄でしょう?彼女の父親は市民権
持っていたのでしょうかね?

それにしても、ハザルとはまたマニアックな。ユダヤ教に改宗したアジア系遊牧民族の
王国ですものね。ゼミ友が卒論を書こうとしたら、資料が全然無くて、半分文学のような
謎の本を読むしかなかったという、ハザル王国!
意外とビザンツ帝国とは深く関わっているんですね。結婚すると同時にキリスト教に改宗
させられるのでしょうか?気になる。

619カイザー:2003/06/23(月) 00:10
すいません、テオドラはハザル王の娘ではなく妹でした。直系相続してればどっち
にしても、王の娘なんですが。ギボンによれば、ユスティニアヌス2世の皇后テオ
ドラは洗礼を受けて改宗したそうですよ。

レオンティウスから帝位を簒奪したティベリウス3世は、ヘラクレイオス朝の正当な
血筋の元皇帝ユスティニアヌスを亡き者にする為、ハザル・ハン(名前分かんない)
に暗殺を要請するのですが、テオドラがこれに気付いてユスティニアヌスと共にブル
ガリアへ逃亡。
その後ブルガリアのテルヴェル・ハンの軍勢を率いてコンスタンティノポリスに進軍
し、帝位を奪回することになります。

620マッティアス:2003/06/23(月) 10:39
テオドラもやりますね。兄よりも夫を取りましたか。まあ、キリスト教的倫理観からは
ものすごく正しい選択です。
ユダヤ教側(というかハザル側)からみたら、テオドラって棄教者扱いになったりしない
のですか?そこまで排他的な国ではなかったのかな?

ブルガリアも結構、重要な位置にいるわりには、あんまりそこをピックアップした本て
ないんですね。しかし、ハザルのみならずブルガリアも“ハン”称号を使っていると
いうことは、なにげにアジア系(ていうかトルコあるいはモンゴル系)なんですか?

621カイザー:2003/06/24(火) 01:08
ハザルは良く分からないですが、かつてのブルガリアはトルコ系ですね。現在は圧
倒的多数のスラブ人に飲み込まれてしまったので、スラブ語族になっちゃうのです
が。

今考えると、ロシアとブルガリアが結びついてトルコから東欧を奪い取ろうとした
り、ブルガリアがバルカン戦争や第1次大戦でバルカン半島支配を目論だりという
のは、かつてのボリスやシメオンという栄光の時代があってこそなんでしょうね。
シメオンなんて皇帝の称号まで許されてますし。

622マッティアス:2003/06/24(火) 23:07
かつての民族の栄光、というのは覇権を目指す人物の目標にされやすいですからね。
アタテュルクが大トルコ主義(トルコ系民族すべてを統一した国家)を唱えたのと、同じ
ようなカンジですね。イスラエルとか。
ブルガリアはトルコ系でしたか。まあ、民族移動が起こると先住民との混血も進みます
からね。顔立ちから言語から、先住民に近い系統になるのは仕方ないですか。

623カイザー:2003/06/25(水) 23:43
フン族とかアヴァール族なんてのは、歴史から消滅しちゃいましたもんね。おそらく
は、政治組織の解体後はゲルマン人やスラブ人なんかに同化しちゃったんでしょうが。
今となっては、謎が多いですよね。ハザル族にしてもそうですし。

ギリシアなんかも、小アジアのエーゲ海沿岸とかキプロスとかマケドニアとかは、民
族固有の領土なのに他国の支配下にある理不尽な状況であると認識している筈です。

ユスティニアヌス1世やマヌエル1世なんかが、かつての西ローマの旧領を執拗に狙
い続けた頃と、根本は一緒なんでしょうね。さすがにローマ人を自称していた電波な
ギリシア人も、現在はイタリア半島とかエジプトまでギリシア人のものだなんて思っ
てないと信じたい所です。

624マッティアス:2003/06/26(木) 23:53
現在のギリシア人がそんなこといったら、リビアの人も黙っていないよ!フェニキア人を
なめたらあかんぜよ!つうか、モンゴルとかね、もうどうなのよ?ってカンジですね。
でもまあ、そういう祖先の栄光を復興させたい願望は、権力者には古今東西あるものでは
ないのかな、と思います。クレオパトラ7世の野望も、このラインですよね。
で、こういうのをもうちょっと庶民的に、覇権を握ろうとかあがこうとかではなく回顧
するのが「プロジェクトX」なんですよ(笑)。

先住民族との混血とか風土とかって、大きいですよね。ひとくちにインド・アーリア系
っていっても、ドイツ人とインド人、ペルシア人じゃ、えらい違いますものね。
ていうか、私、脱線しすぎですか?すぐに皇帝話でなくなってしまうんですけど。

625カイザー:2003/06/27(金) 21:19
そういえば、モンゴル人の定義って何なんでしょうね。現在のモンゴルは、ロシアの
社会主義革命のどさくさにまぎれて建設された国家ですもんね。
他にもチンギス・ハンの後裔を自称する遊牧民なんて、くさる程いてそうです。元は
ティムール朝の血筋とはいえ、インドのムガル帝国=モンゴル(自称)だったわけで
すから。

さすがに今となってはローマ皇帝を自称するような政治家っていないですね。ロシア
のロマノフ朝が最期なんでしょうか。
ヒトラーなんかが、第三帝国と主張したのは、ローマ帝国というより神聖ローマ帝国
、ドイツ帝国につぐというだけの意図なんでしょうね。

626マッティアス:2003/06/27(金) 22:04
そうですね。ナチスは全然知識がないので、まともなコメントはできませんが、そうだと
思います。高校時代の世界史の先生によると、ドイツ帝国は入らないようですけど。
第一=ローマ、第二=神聖ローマ、第三=ナチスドイツ、らしいです。

モンゴル人とトルコ人というのが、実は分けるべきか否か、ものすごく微妙な気がします。
どちらもウラル・アルタイ語族で、中央アジア起源の遊牧民族なわけでしょう。文化とか
王制(?)も似ているし、用語とかも多少かぶりますよね。

627カイザー:2003/06/28(土) 00:08
トルコ人も日本人も蒙古斑ありますもんね。モンゴル系の諸民族とご先祖様は一緒
なんでしょうね。

今のトルコ人の起源は
 柔然 → 突蕨 → セルジュク朝 → オスマン朝
という感じになるんでしょうか?

アヴァールとかブルガールなんてのは、エフタルとか突蕨が滅亡して枝分かれした
ような存在になるんでしょうかね?よく、分からないです。

628マッティアス:2003/06/28(土) 09:34
私もわからないです。ただ、突厥はチュルクを漢字表記したものですよね。
それから、ケマル・アタテュルクのあだ名「灰色の狼」は、チンギス・ハンの「蒼き狼」
とほぼ同じですね。どちらも青味がかったグレーの毛並みらしいですから。
ローマ帝国がビザンツ単独になってからは結構、アジア系民族とのいろんなイミでの交流
が増えたカンジですね。戦い含めて。中近東のセム語族をアジア系とカウントするのか
否かはよくわからないですが。

629カイザー:2003/06/28(土) 18:40
蒼き狼というのは草原の遊牧民の共通概念みたいな単語なのかもしれませんね。語族
的にもモンゴル系とトルコ系は近いとすれば、分かるような気がします。
この辺の民族って、どこも民族独自の文献がないのが、イタイですよね。ローマとか
ペルシアとか中国といった定住農耕文明圏の記述を見るしかないですもんね。

そういえば、ローマって直接モンゴル(イル・ハン国かキプチャク・ハン国かな?)
と接触してないのでしょうか?
小アジアのローマ領とモンゴル帝国の間には、ちょうどセルジュク系の生き残りと
初期オスマン朝がいた頃ですよね。

630マッティアス:2003/06/30(月) 22:07
モンゴルとローマは、ないかも知れません。
イル・ハン(と書くとサッカー選手のようだ)はムスリム諸国とは結構衝突して、大ダメージ
を与えたので、むしろ西欧諸国はキリストの助けだと思ったようですし。
キプチャク・ハン(バトゥの勢力)はビザンツを通らずにドイツの方まで攻め入ったはずです
から(1241年リーグニッツの戦い)。

のちのオスマン帝国がまだ部族集団に毛が生えた程度で、ルーム・セルジュク朝が完全に衰
退に向かっていたのが大まかな13世紀の小アジア情勢ですね。白羊朝とか黒羊朝とか、
小国が分立していて、微妙に権力の空白地帯になっていたから、ニケーアにローマの亡命
政権が何十年も入り込めていたんじゃないかなあ、とか。この辺も本当は面白い時代ですね。

631カイザー:2003/06/30(月) 22:42
アインジャールートの戦いでは、フラグの遠征軍にはアルメニア教会とかネストリウ
ス派が協力して、マムルーク朝には残り少ない残存十字軍国家なんかが協力してたみ
たいですよ。
・・・でも肝心のラテン帝国とかニケーア帝国の立場はさっぱり分からない(笑)。

その一年後にミカエル8世が、コンスタンティノポリスを奪回して、ローマ帝国を再
興するのですが。

632マッティアス:2003/07/01(火) 23:34
この辺押さえるには、かなりいろいろな国の歴史を扱った本を渉猟する必要がありそう
ですね。「アラブが見た十字軍」はアイユーブ朝滅亡後の内容を殆ど憶えていないので
すが。アルメニア教会とか東方系は意外とムスリムともうまくやっていたので、てっき
りマムルーク朝側かと思っていました。
十字軍国家はまあ、東方生まれの人間も増えて、なにげに欧州からきた同胞からはいい
加減だったり、裏切り者と言われかねない行動様式になりがちですからね。でも、むし
ろモンゴル側かと思ってました。全然ダメじゃん、私(爆)。

とりあえず、ニケーア政権がどうしたかはわかりませんが、おそらくは積極的に関わら
ないことで勢力を温存して、周りが戦乱で疲弊した隙を狙っていたのではないかなあ、
などと想像してしまいます。ラテン帝国のほうは多少、自壊作用が働いていたかもしれ
ないし。

633カイザー:2003/07/02(水) 23:21
末期の十字軍国家は、イスラム勢力と妥協的で聖地エルサレムの奪回にはさほど拘っ
てなかったそうですね。むしろ、教皇と結託したルイ9世の十字軍がアイユーブ朝や
マムルーク朝とどんぱちやってるのは、いい迷惑だったかもしれませんね。

東方系のキリスト教宗派がフラグに協力的だったのは、フラグの奥さんの影響のよう
です。フラグの奥さんはネストリウス派の信者で、フラグのモンゴル軍が占領した都
市を屠城する時も、奥さんの願いが通じてキリスト教徒の財産には手をつけなかった
そうです。

634マッティアス:2003/07/02(水) 23:43
知らなかった。イル・ハン朝はのちにイスラム化したし、どっちかというとそういう
イメージだったのですが、よく考えたら、モンゴルの宗教自体、マニ教の影響が強くて
東方系キリスト教とは近い関係なんですよね。そういえば。
「東方見聞録」の抄訳を読んだのですが、この頃になるとキリスト教徒も偶像崇拝に
対して、西ローマも健在、あるいは統一帝国だった時代のようには敵愾心を燃やして
いない気がします。ムスリムというわかりやすい敵ができたからでしょうか。

635カイザー:2003/07/03(木) 22:36
フラグはバグダッドを占領して、カリフを殺したという経歴の持ち主ですからね。
初期のイル・ハン国は、間違いなくイスラム教を抑圧する側でした。イスラム教は
寛容だったとか言っても、結局の所はイスラム教とネストリウス派などのキリスト
教とは潜在的な対立構造を内包してたんでしょうね。それが、モンゴルの侵攻で顕
在化したと。

イコン破壊運動は、
第1次 レオ3世が発布   726
    イレーネが解除   787

第2次 レオ5世が発布   815
    ミカエル3世が解除 843

というのが、死ぬほどおおざっぱな流れです。その後も散発的には、イコン破壊運動
の動きはあったようですが、ローマの国策になることはなかったようです。
イスラム教の統治下にあった東方の異端なんかは、これ以降もイコン破壊運動を繰り
返してたのかどうかは、私もさすがに知らないのですが。

636マッティアス:2003/07/03(木) 23:16
う〜ん…。ムスリムの庇護下に入った地域は、少なくともイスラム草創期においては、
東方系教会が自ら手を下すまでも無く、イコンが破壊されていそうな気がしますけど。
イスラムってそこまではやらないのか?いや、やったよなあ、初期は。
ネストリウス派とかはともかく、マロン派とかコプト教会とかは、結構ムスリム政権
ともうまくやっていた印象があったんですが、そうでもなかったのかあ。同じ宗教だっ
たり宗派だったりしてるわけではないですもんね。

637カイザー:2003/07/05(土) 00:05
そういえばコプト派がどうしてたのかとかは、よく分からないですね。フラグに協力
してエジプト内部でゲリラ戦とかはしてそうにないですよね。少数すぎて政治力が弱
かったのでしょうか?

アインジャールートの戦い以降はイル・ハン国、十字軍国家、セルジュク系諸王朝、
ビザンツ帝国とキプチャク・ハン国、マムルーク朝というのが基本的な対立軸だった
みたいです。

実際には、さらにシチリア王国のシャルル・ダンジューがビザンツを滅ぼしてラテン
帝国再興を目指してたりとか、フラグの後を継いだアバカがローマ教皇にマムルーク
朝に対する十字軍を要請したりとか、キプチャク・ハン国のベルケがコンスタンティ
ノポリスに圧力を加えてミカエル8世をマムルーク朝との同盟に引き込んだりとか、
箇条書きにしてるだけでも混乱してきそうです。

638マッティアス:2003/07/05(土) 00:52
その辺りの歴史をわかりやすくまとめた本が欲しいですね。売れなそうだけれども。
十字軍もいわゆる狭義の十字軍(7ないし8回)とその時代くらいしか扱われていないし、
マムルーク朝ってヘタするとザンギー朝以上に日本じゃ知られていないかも。なにげに
結構長い時代存続したし、モンゴルの足をとめた数少ない勢力なんですけど。
イル・ハン国のみならず、キプチャクも対エジプト(マムルーク朝)で暗躍していたの
ですね。ゼンッゼン知りませんでした。

コプト派がどうしていたのかもわかりませんが、ムスリム王朝ってそういえば、ユダヤ
教徒はそれなりに出世したりしていたけれども、キリスト教徒があんまり権力の中枢に
登りつめた話って聞きませんよね。

639カイザー:2003/07/05(土) 11:09
フラグやアバカの時代だと、基本的にはイル・ハン国をキプチャク・ハン国とマムル
ーク朝が南北から牽制しあうという構図ですよね。ローマもそうですが、他の国々は
完全に弱小勢力ですからね〜。

ローマを中心に見れば、シャルル・ダンジューvsミカエル8世ですが、それにフラ
ンスとラテン帝国のプロデューサーヴェネチアがシャルルを支援し、シチリアに野心
を持つアラゴンとヴェネチアのライバルジェノヴァがミカエルと手を組んでいるとい
う感じです。
さらに両陣営のローマ教皇を巡っての駆け引きとかもあって、シチリアの晩鐘に至る
までの経緯をキッチシ押さえるのは頭がパンクしちゃいそうです。

640マッティアス:2003/07/05(土) 23:20
徹夜のしすぎで脳細胞死にまくりの私は、もはやここ数日の会話の内容を理解するだけ
でもかなり頭パンク気味ですよ(爆)。年年歳歳バカになってますから。

シチリアの晩鐘、というとフィリップ3世大胆王でしたっけ?フランスもフィリップ2世
くらいしか興味なかったので、ぜんっぜんその辺憶えてないんですよね(汗)。
学生時代にカイザーさんとこういう会話をしていたら、もっと面白い視点から卒論書けた
のではないかなあ、と思えてなりませんよ、マジで。

641カイザー:2003/07/06(日) 01:09
私も完全に理解出来てないのですが、一応この辺りの年号です。

1258 フラグがバグダッドを占領して、アッバース朝を滅ぼす
1260 アインジャールートの戦いで、フラグの副将キドブカがマムルーク朝スル
     タンのバイバルスに敗死
1261 ニケーア帝国のミカエル8世、コンスタンティノポリスを占領してローマ
     再興
1262 マムルーク朝とキプチャク・ハン国が同盟
1266 アンジュー家のシャルル、シチリア王となる
1268 マムルーク朝、アンティオキア公国を滅ぼす
     シャルル・ダンジュー、ホーエンシュタウヘン家を滅ぼしシチリア支配
     を確定
1270 第7回十字軍、フランス王ルイ9世チュニスで病死
1274 イル・ハン国のアバカの呼びかけで、教皇グレゴリウス10世が十字軍
     を提唱したが教皇の死により挫折
1282 シチリアの晩鐘、シチリアはローマと結んだアラゴン領に
1291 マムルーク朝、アッコンを占領 エルサレム王国の滅亡

ついさっきまで、ルイ9世の次の王様はアナーニ事件でおなじみのフィリップ4世か
と思ってたんですが、3世なんですね。勘違いしてました。
この頃のアンジュー家は凄いですよね。フランスとシチリアを押さえて、ラテン帝国
やエルサレム王国の王位継承をも視野に入れて地中海制覇を目指していたんですから
ね。シャルル・ダンジューがもっと外交に強い人物だったら、可能性はゼロではなか
ったかも?

642マッティアス:2003/07/06(日) 12:53
弟王子シャルル・ダンジューもいまひとつでしたが、実際のところ、兄王フィリップ3世も
かなりダメダメだったとか、世界史人名辞典に書いてあったような。かなり弱腰でなかなか
政策を進められずにいるうちに、追い詰められると極端なことをしがちなので、結果的に
“大胆王”なんてあだ名になったそうです。

関係ないですが、キトブカって宦官ではないですよね?キトブカって名前は、“去勢牛”と
いう意味らしく、かくのごとく雄雄しくかつ従順であるというイミでついた名前のようです
が、何ゆえよりによってこんな名前なのか、気になってなりません。

643カイザー:2003/07/06(日) 22:57
キドブカが宦官かどうかは良く分からないですね。とりあえずはネストリウス派の
キリスト教徒らしいですが。そもそも、キドブカ様ってモンゴル人なんでしょうか?

キドブカの最期の言葉は
「束の間の勝利に酔うなかれ。生を受けてこのかた、われはハンのしもべであった。
汝らのように、主を殺すやからとは、人が違うわ。」
とうそぶいて、バイバルスにクビを刎ねられたそうです。カッコイイー!!

フィリップ3世って、世界史の教科書には出てきないから良く知らないんですよね。
アバカと協力して、マムルーク朝やビザンツ帝国と全面対決するなんてのも難しいか
ったのでしょうが、結局は十字軍国家もシチリアも見殺しにしちゃったのは、フィリ
ップの責任でもあるんでしょうか?

644マッティアス:2003/07/07(月) 23:18
よくわからないですが、大胆王は優柔不断で、事態がどうしようもなくなるまで放置
プレイしがちな人だったと、事典に書かれていた気がします。2世や4世とは違うの
ですね。

キトブカの最期はカッコイイですね。友人にバイバルス・ファンがいましたが、その
エピソードはなにげに紹介してなかった辺り、自分に都合の悪いエピソードは無かった
ことにしてしまう塩野さんと似ています(爆)。

645カイザー:2003/07/07(月) 23:37
別にキドブカを処刑したことが、バイバルスのマイナスになることはないでしょうけ
どね。そもそも、フラグはともかくキドブカなんてマイナーな人物でしょうし。

バイバルスも大した人物ですよね。キプチャク・ハン国とイル・ハン国の不和という
モンゴル内部の事情とか第7回十字軍でルイ9世が遠征先で病死したりというラッキ
ーもあったにせよ、マムルーク朝繁栄の立て役者として非の打ち所はなさそうです。
キドブカの発言は、ぶっちゃけた話、ただの負け惜しみでしょう(笑)。

646マッティアス:2003/07/08(火) 16:22
負け惜しみにしてもかっこいいなあ。友人はもしかしたら十字軍関連でしか、バイバルスの
ことにふれていなかったので、キトブカが出てこないのもそれだけのことかも知れません。
私がキトブカに関する記述を読んだのは、「暗殺者教国」というリリブロポートの本でした。

マムルーク朝の初期スルタンの中では、バイバルスがダントツにメジャーでしょうね。
ていうか、マムルーク朝って初期の(元アイユーブ朝のマムルーク出身)スルタンしか、大して
知らなかったりするのですが。

647カイザー:2003/07/08(火) 21:07
マムルーク朝のスルタンで本を見ずに名前が言えるのは、バイバルスの他ではアイバ
クぐらいですね。
今、マムルーク朝の系図を見てるのですが、10代目のスルタンの名前はキトブカー
なんだそうです。

系図しかないんで、何でこんな状態なのか分からないのですが、

9代目スルタン ムハンマド・アン・ナーシル(1293〜94、1295〜1308、
                      1309〜40)
10代目スルタン キトブカー(1294〜96)
11代目スルタン ラージーン(1296〜98)
12代目スルタン バイバルス2世(1308〜09)

の在位年数が入り乱れてる理由ってご存じですか?10〜12代目のスルタンは7代
目のカラウーン(ムハンマドの父)の奴隷だとの記述だけがありました。

もう、全然ローマでも何でもない話題ですね、これ(笑)。

648マッティアス:2003/07/08(火) 22:18
何をおっしゃいますか!イスラム帝国があればこそ、西欧にもローマ文化が伝わったのです。
関係あることにしましょう。ていうか、アリですよ、この際。
大学時代の講義ノートを出してきました。イスラム史専門の東洋史特講ノート。

俗に言う、カラーウーン朝ですね。アン・ナーシルやその兄ハリールはカラーウーンの息子
なのですが、アン・ナーシルが最初に即位した時にはまだ9歳かそこらの幼君であったため、
力のある壮年のマムルークに取って代わられたわけですね。殺されはしなかったけれども。
キトブカーはモンゴル系で、実はアイン・ジャールート以来、マムルーク朝領内にはモンゴ
ル人が多数流入しており、戦争捕虜としてのモンゴル系マムルークも当然、たくさんいた
ようなのです。当時は「後の十字軍」やらモンゴル人の流入やらで外圧が厳しかったのです。
次のラージーンも暗殺されると、アン・ナーシルは復位するのですが、実権を握っていたの
がバイバルス2世で、1308/9にナーシルのメッカ巡礼を機にクーデタを起こすのですが、
すぐにスルタンと総督たちの反撃にあい、1年後には第3期アン・ナーシル政権が始まります。
以後、30年にわたるアン・ナーシル治世はマムルーク朝の最盛期にあたります。

649カイザー:2003/07/08(火) 23:46
世界史年表を見てたら、ナーシル大活躍してますね。今日まで名前すら知らない人物
だったのに、メチャ重要な人物だったのですね。
イル・ハン国のガザン・ハンとかラシード・ウッディーンと同時代人になるのですね。
シリア戦争してたのは、バイバルスとフラグやアバカだけじゃなかったんですね。

ガザン・ハンもアバカ・ハンと同様に、ローマに使節を送ってvsマムルーク朝の十
字軍を要請したらしいのですが、肝心のボニファティウス8世が・・・。

650マッティアス:2003/07/09(水) 16:22
憤死しちゃいましたか? >ボニファティウス8世

アン・ナーシルなにげに重要なんですよ。私なんかは、カラーウーンまでは何とか知って
いたんですけどね。十字軍関連で。十字軍国家を海に追い落とした人ですし。
カラーウーンは一応若い頃はアイユーブ朝のアル・サーリフに仕えてたんですよね。
ついでに、ものすごいイケメンで高値で買われました。

651カイザー:2003/07/09(水) 22:38
ガザン先生もボニファティウス8世があんな死に方するとは夢にも思わなかったでし
ょうね。アバカの時のグレゴリウス10世といい、イル・ハン国は本当にアンラッキ
ーですね。

それにしても、フランスってドライな国ですね。ルイ9世が必死になって成し遂げよ
うとした十字軍に自らの手でトドメさしてるんですよね。ニコポリス十字軍とかもあ
るんで、正真正銘最後ではないでしょうけど。

冷静に考えたら、イスラム教に改宗した(1295)くせに、十字軍の派遣を要求す
るなんてガザン・ハンも図々しいですよね(笑)。
ちなみに、ガザン・ハンが使者を派遣したのは1302年。アナーニ事件でボニファ
ティウス8世があの世に逝ってしまったのが、翌1303年です。

652マッティアス:2003/07/09(水) 23:15
教皇のアビニヨン捕囚は1309年で、「坊さん飛んでくアビニヨン」と憶えました。
だから何だって気もしますが、年号暗記って、たまにとんでもなくツボに入るもので。
すっげ〜☆と思ったのは、1241年ワールシュタット(リーグニッツ)の戦いです。
「モンゴル来たぞ避妊の用意」ですって。兄の大学受験の頃だから20年くらい前ですが。

フランスの場合、やけに熱い(あるいは真面目な)王とドライな王が結構、交互に来ている
気がしますね。十字軍関連でいえば、ルイ9世がむしろ例外的に情熱的なくらいで。
第1回十字軍のとき、フィリップ1世は離婚だったか重婚とかそういう系で破門されてて、
かといって自分で東方に赴くほどの誠意も無く、弟のユーグを派遣してるんですよね。
フィリップ2世もさっさとリチャード置いて帰国した挙句、英国領荒らしまくるし。

そういうフランスのことを考えると、イル・ハン国もそんなに変なことやってるわけでも
ないのかもしれません。

653カイザー:2003/07/10(木) 22:11
昔、掲示板で書いたことあるはずですが、コンスタンツ公会議(1414〜18)を
『いいよ、いいよ、いや〜ん☆』と覚えるようにご指導頂いた、恩師のことは一生忘
れません(笑)。

ちょっとはローマの話題に無理矢理方向転換。
この間無理矢理更新しましたが、ヘラクレイオス朝の皇帝達の所業って、いまいちよ
く分かってません。
大帝ヘラクレイオスの孫、コンスタンス2世はシチリアで使用人に殺されてるのです
が、その動機とか黒幕の有無とかさっぱり分かりません。息子コンスタンティヌス4
世が、後を継ぐとシチリアに艦隊を派遣したみたいなことをギボンは述べていました
が、ぼやけた書き方で何が目的の艦隊派遣だったのか。父の復讐戦だとすれば、反乱
軍でもシチリアに存在したと考えるべきなのか・・・。

654マッティアス:2003/07/10(木) 22:18
う〜ん…。オイタ(脱線)が過ぎましたね。すみません。

私はカイザーさんよりもずっと事情が飲み込めないのですが、コンスタンティヌス4世の
シチリア派兵は、黒幕をつぶすためか、はたまた八つ当たりか。父上を見殺しにした住民
どもも許すまじ、みたいな。ちなみに、実行犯の使用人はとうに処刑されてるんですよね?
もし捕まってないのだとしたら、それこそシチリア派兵の充分な動機たりえると思うの
ですが。

655カイザー:2003/07/11(金) 00:17
「ローマ帝国衰亡史」には、コンスタンス2世暗殺下手人の名前も後日談も何も書い
てないんですよ。「生き残った帝国ビザンティン」とか他の本見ても、入浴中に殺さ
れたという程度の情報があるぐらい。

原典史料を読める立場なら常識なのか、そもそも具体的な史料が何にもないからなの
か。ヘラクレイオス朝の中期以降は、イスラム教との戦争の連続でまともな文献がな
いんだそうです。唯一の史料と言われる「テオファネス年代記」も8世紀か9世紀ぐ
らいの史料だそうですし。
「ローマ帝国衰亡史」って、この辺からマケドニア朝まで、はしょりまくっててビビ
リますよ。

656マッティアス:2003/07/11(金) 22:44
原点史料すらないという可能性もありますね。良い歴史家がいなくて後世に伝わらなかった
とか。それか、明史のようにつまらないことまで事細かに書かれ過ぎていて、到底読む気が
起こらない様な歴史書だったりとか。
まあ、戦争で忙しいと、次の時代の人が書くにしても(つうか、この先ずっとイスラムとの
戦いが続くじゃん)、その素材すらほとんど残ってない可能性も強いですよね。
それにしてもギボンがはしょりまくるというのは、すごいですね。

657カイザー:2003/07/12(土) 01:03
一年につき一行しか記述してない時代もあるという「テオファネス年代記」の和訳本
があればちょっと読んでみたいですね。

ギボンも史料がなかったからか、コンスタンス2世のイタリア滞在(実質的には遷都)
の解釈を露骨に間違ってたりします。ギボンの解釈では、コンスタンス2世は政治に
疲れてイタリアに亡命して隠居生活にあったとしています。で、コンスタンティノポ
リスに残された後のコンスタンティヌス4世を含む息子達は、人質であると。

ギボンの時代にはそういう説が主流だったのかもしれませんが、どの本をみてもイス
ラム勢力との戦いとローマ教会へ影響力を行使する為という軍事政治的動機だと解釈
されています。

658マッティアス:2003/07/12(土) 11:39
ギボンも当時の人にしては進歩的な視点を持つ人(ていうか教養人)だったとはいえ、
18世紀の人ですからね。今みたいに碑文学とかそういうのが発展してなかったら、
仕方ないかもしれません。18世紀は反ユダヤ的キリスト教徒としての視点が、ワー
ルド・スタンダードとしてまかり通ってますし。
第二次大戦前どころか、たかだか10年くらい前の定説でさえ結構、研究が進むと、
あれはものすごい過誤だとか、権威の強引な解釈とか言われてしまう世界で、ギボン
が突っ込まれまくるのは当然としても、それなりにマトモですよね。

「テオファネス年代記」というのは、ビザンツの御用史家の筆になるものですか?
1年につき一行って、タキトゥス風に書いたら「○○と××が執政官の年となる。こ
の年は異教徒どもとの戦いと、政治的粛清の嵐が吹き荒れる。」みたいなノリで、一
言評で終わっちゃうカンジですか?ひで〜(笑)。年代記作者すら、参考にできる資料
がほとんどなかったとか?

659カイザー:2003/07/12(土) 22:30
いやあ、私もちゃんと知らないのですが「テオファネス年代記」は9世紀初頭に記述
された本で、ベリサリウスの秘書官プロコビウス以来の久々の長編歴史書なんだそう
です。
で、年に一行しか記述がない時というのは、コンスタンティヌス4世時代の、ウマイ
ヤ朝によるコンスタンティノポリス包囲戦の頃です。現実問題として、滅亡寸前だっ
たから史料を残すとかしてる場飯豊もなかったんでしょうね。

今でこそ、イスラム側の史料とか考古学的な発見があったりして、それなりに状況は
改善されているのでしょうが、流石にギボンの頃は仕方ないですよね。つーか、そん
な悪条件の中で、「ローマ帝国衰亡史」を書き残したギボンは凄すぎです。

660マッティアス:2003/07/12(土) 23:03
偉大ですよね。当時の流行で古代ローマ熱が多少はあったにしても、よくぞローマ帝国
2000年(ていうかギボンの場合は序文ぽいの含めて帝政mp1500年くらいかな?)
の歴史をつづった物ですよね。
あれをもうちょっとPOPにしたのがモンタネッリで、それの日本版として書き始めた
のが、塩野さんでしょう?彼女の場合、むしろモンタネッリ寄りだと思うのですが、
出版サイドは塩野版「ローマ帝国衰亡史」と謳ってますけれど。

そうして、「テオファネス年代記」ですが、確かに描かれたのが実際ウマイヤ朝と戦って
いた時代よりも100〜200年は経っていますからね。古代ギリシアの歴史家のように
多少ドリーム入っていろいろ書くのではなく、タキトゥス路線の歴史書を書こうとする
ならば、かなり厳しい状況ですね。タキトゥスやスエトニウスのように議会日報とか
公文書にも恵まれていなかったでしょうし。

661カイザー:2003/07/13(日) 10:47
もしかして、塩野七生さんもギボンみたいに西ローマ帝国の滅亡で一端完結しておい
て、その後残りの東ローマ時代を記述しようと、20年計画で考えてるのでしょうか?
だとしたら、ちょっと塩野さん見直すかも?
それとも、塩野さんも結局は西ローマの滅亡=ローマ史の終焉という古典的な歴史観
の持ち主なんでしょうか?

この辺の時代について書いてる本ならどれにでも書いてるんですが、コンスタンティ
ヌス・ポゴナトゥス(髭皇帝)と呼ばれた皇帝が誰かをビザンツ史家ですら判定でき
ず、コンスタンス2世のことかコンスタンティヌス4世のことか20世紀まで判明し
てなかったそうです。

662マッティアス:2003/07/13(日) 13:46
ヒゲ皇帝?ものすごいあだ名なんですけど、てことは、ビザンツ皇帝って基本的には
ヒゲを生やさかしてなかったんですか?勝手に、バシレイウスはヒゲ生やしてそう、
とか思ってたんですけど(アホ)。そういえば、ユスティニアヌスもヒゲ生やしてなか
ったですね。

と、ヒゲ部発言はおいておき、ビザンツ関連の本は全くと言ってよいほど読んでない
ので、そのポゴナトゥスなるお方は、シチリアで入浴中に殺された方なのか、息子の
ほうなのか、わからないのですが。どちらだったんですか?

ついでに、塩野さんはモムゼン大好き、だったりするようなので、多分、西ローマと
ともにローマが終わったと考えていそうだと思います。さらに10年かけてビザンツ、
なんて塩野さんいくつになるんですか。

663カイザー:2003/07/13(日) 19:20
ポゴナトゥスはコンスタンス2世のことだそうです。結論しか知らないので、何でそ
ういう答えになったかという過程は全然知らないですけど。コンスタンス2世のコイ
ンに描かれている絵は、髭がバッチリあるそうですよ。

どうも、コンスタンスという名前は、小コンスタンティヌスみたいな意味らしくて、
コンスタンス2世のことをビザンツの年代記ではコンスタンティヌス4世と書いてい
るのもあるそうで、だとしたらコンスタンティヌス1世の息子のコンスタンス1世の
存在とかどうするんだろう、と考え出すと夜も眠れそうにないんで、もう気にするの
はやめました(笑)。

664マッティアス:2003/07/13(日) 21:02
コンスタンティヌス4世はヒゲじゃないのでしょうか?どっちでもいいことですが。
コンスタンス1世は、統一皇帝だったことがないから、とかいう理由で外されてるとか?
確かに考え出すと、仕事も手につかなそうですね(笑)。単純作業をしてると、ずっと
考え込んでしまいそうですけれど(爆)。
ていうか、え?ちょっと待ってくださいよ。息子もコンスタンティヌス4世なのに、
父親までその名前で書かれちゃったら、マジでわけわかんないんですけど。どう区別
しろと言うのですか?

665カイザー:2003/07/13(日) 21:28
コンスタンス2世をコンスタンティヌス4世と数える時は、コンスタンティヌス4世
は5世で、コンスタンティヌス5世は6世と一代づつずらして数えるそうです。

>コンスタンス1世は、統一皇帝だったことがないから、とかいう理由で外されてるとか?

いやいや、コンスタンティヌス2世も統一皇帝にはなってないから、そういうことは
ないでしょう。

確かホノリウス時代の僭帝コンスタンティヌスは、一時ホノリウスが妥協して正帝位
を承認したので、コンスタンティヌス3世と刻印された金貨を発行してた筈です。
ちなみにその僭帝コンスタンティヌスの息子はコンスタンスで、この辺も正統な皇帝
だとしたらいったい・・・・。

666マッティアス:2003/07/13(日) 22:32
考え出すと、ほんとにキリがないですね。うが〜。十字軍のカウントとかもそうですが、
統一されてないと、読む側はほんとに混乱しますよね。まあ、コンスタンス2世の場合、
現代の書物ではコンスタンティヌス4世なんて書かれるはしないのでしょうけれども。
あ、もしかしてそういう理由で、ビザンツ最後の皇帝って、○世っていうのが2つ表記
されているんですか?

667カイザー:2003/07/14(月) 01:14
いや、多分それは第4回十字軍の時のくじ引きで選ばれた一夜皇帝コンスタンティヌ
ス(11世)を数えるかどうかがあやふやだから、はっきりさせてないのだと思いま
す。
てな訳で、コンスタンティヌスと名の付く皇帝を○世と呼ぶか、こんがらがってきそ
うなので、日記で簡単な表作ってみました。

十字軍は、第5回以降が解釈の違いがあるんですよね。エルサレム王国がファーティ
マ朝征服を企んだ戦争を数えるかが、あやふやな十字軍でしたっけ。
ニコポリス十字軍とかレパントの海戦も十字軍でしょうから、第○回という数え方が
7(8)回で終わりというのも、おかしな話ですよね。

668マッティアス:2003/07/14(月) 16:11
いや、フリードリヒ2世のとか、教皇特使ペラギウスのとか、その辺を数えるかどうか、
です。7〜9回となるわけですが、同じ回数でもどれを可能とするか、人の好みによって
変わるようです。権威とされているものでも、4種類くらいあったはず。
十字軍と言われてしまうものだと、アルビジョア派(異端)に対する十字軍とか、いろいろ
ありすぎですよね(笑)。
つうか、第4回、あれは十字軍として出発したのは確かですが、アリなのか?と突っ込み
たくて仕方がありません。

669カイザー:2003/07/17(木) 22:08
へえ、フリードリヒ2世の十字軍って絶対に数えるもんだと思ってましたけど、十字
軍として認めない研究者もいるんですね。結局、戦争にならなかったからでしょうか?

第4回十字軍は十字軍でしょう。東方教会は、ローマ教皇が言明してようがなかろう
が、カトリック教徒からすれば異端なんでしょうね。
文盲であることに誇りを持っていた十字軍兵士達は、学問を重視するビザンツ人を軽
蔑しており、コンスタンティノポリスの往来を歩く時には文字を書く真似をして、そ
の差別心を表現したそうです。

670まってぃあす:2003/07/17(木) 23:48
でもでもー、十字軍自体が元はと言えば、コンスタンティノポリスの
要請で始まったわけじゃないですか、それが攻撃の対象にされて
しまうのって、ビックリ(@_@)だと思うんですけど。

十字軍と関連して。実はフランク人達がガイドブック代わりにしてたのが、
ヨセフスの「ユダヤ戦記」なんですよね。エウセビウスのおかげで、
すっかり名誉キリスト教徒な彼(^_^;。中世って、怖い。

671カイザー:2003/07/19(土) 19:33
アンティオキア公国なんて、形式的にとはいえ一時期エルサレム王国の影響から離れ
てローマ帝国の邦臣になってたりしますもんね。
地中海貿易を牛耳りたいヴェネチアの思惑に乗った十字軍の暴走は、不味いと言えば
不味いですね。異教徒との聖戦を主張してたであろう教皇の立場台無し。

そういえば、第4回十字軍の蛮行が東西教会の関係修復を不可能にしたという側面も
あるようですよ。この事件がなかったら、もしかしたらローマ教皇の影響力って今よ
りも遙かに大きなものになっているのかもしれませんね。

672マッティアス:2003/07/20(日) 16:41
第4回十字軍ではどうしても、黒幕ヴェネツィアのことばかり(西洋側の史料では仕方
ないですが)注目されますが、実際の所、ヴェネツィアに外交的に働きかけたのが、
アイユーブ朝のアル・アーディル(サラディンの弟)だったようです。
アーディルもヴェネツィアも、あんまり信仰心厚くなくて、実利主義者なんで、気が
あったんでしょうね。教皇とか聖職者連中には理解できない事件ですよね。

ところで、東西教会の関係が修復できたとして、ローマ教会の影響力はそんなに増大
しますかね?東方は東方で世界が出来上がってるから、せいぜい西方の権威というまま
かも知れないなあ、などと思ったりするのですが。理解が甘いかな?

673カイザー:2003/07/20(日) 20:15
第4回十字軍の裏でヴァレリー様が活躍してるというのは、知らなかったですね。
塩野先生の「海の都の物語」でそんなこと書いてたかな?ヴェネチアって、ローマに
とって本当最悪の存在なんだなと改めて思えてきます。

それにしても、ヴェネチア=エジプト同盟が十字軍を扇動して、ローマを滅ぼしたと
いうことは当時のローマ教皇とか神聖ローマ皇帝の耳には入ってなかったのですか?
入ってないからこそ、ヴェネチアが中世を生き抜くことが出来たんでしょうけど。

674マッティアス:2003/07/20(日) 20:42
ヴァレリー様言うなあ〜(涙)。あの小説は私の中では無かった事になってます(号泣)。
アル・アーディルは重商主義者ですからね。アレクサンドリアとかは、イタリア商人が
かなり自由に出入していて、交易で相当利得を上げていたはずです。そのあたりを匂わ
せて、「今度の十字軍はエジプトが目的地らしいじゃないよ?何とかなんないかな?」
などと言ったようですね。

戦利品がものすごかったのと、カトリックとは微妙に不仲なギリシア人たちがイタイ目
に遭おうと知ったこっちゃないのと、散々脅してから条件付で許す事によって、教皇は
充分に自分の権力を見せ付けられると思ったんじゃないかなあ?神聖ローマ皇帝は多分、
フランスなどとの領地争いとか、皇帝位をめぐる親族間のゴタゴタで、あんまり関わっ
てる余裕なかった気がします。

675カイザー:2003/07/20(日) 21:50
ヴァレリー様の小説大ヒットしてたじゃないですか。私も含めてアル・アーディルの
名前を知っている人間の99%は「ジハード」の影響でしょう。
現実から目をそらしてはダメですよ(笑)。

皇帝位争いというとコンスタンティノポリス側も酷い有様でしたね。
帝位簒奪を目指してヴェネチアに援軍を求めたアレクシオス4世と元皇帝でその父
イサキウス2世。十字軍の出現にコンスタテンィノポリスから逃亡した皇帝がアレ
クシウス3世、アレクシウス5世、コンスタンティヌス11世の計3人。
もう、この混乱時に即位した皇帝にはろくな人材がいなくて泣けてきますよ。

十字軍にお金を払ってお引き取り願うことが出来なかったのは、ヴェネチアとの対
立により既にコンスタンティノポリスの財力は枯渇していたということもあるので
しょうか?

676マッティアス:2003/07/20(日) 22:53
忘れちゃいました(爆)。でも、船を出していたヴェネツィアからの多大な謝礼の約束と、
第一回の時からしばしば十字軍参加者が陥る、コンスタンティノポリスの威容とギリシア
人の豊かさへの、欲望が出てしまったのではないかと思います。

アル・アーディルの名前を知っている日本人でも、「ジハード」関係なく知ってる人は、
1割くらいはいると信じたいのですけれども。「アラブが見た十字軍」読んでれば、絶対
知ってるはずだし。東洋史特講の授業でも彼と息子カーミルはそれなりに活躍してたもん。
あんなジャンプ漫画なみに辻褄あわせが強引で、「ロビンフッド」や「アイヴァンホー」
のファンを舐めくさった小説は…名前が同じだけのファンタジーです(涙)。
そういえば、ヴァレリー様って実はビザンツの貴族っていうか、皇帝の血を引く人じゃな
かったでしたっけ?ヴァレリウスなんとか、っていう。

677カイザー:2003/07/21(月) 01:16
確かにヴァレリーはギリシア人だという設定でしたね。コムネノス朝の血筋だったか
は記憶にないですけど。
サラディンは超有名人なので数千万単位の日本人が教科書で名前を知ったことと思い
ますが、アル・アーディルだと名前を知ってるのが30〜50万人ぐらいで、かつそ
れを初めて知ったのが「ジハード」だという人が大半を占めると思います。「ジハー
ド」がなかった頃の、日本のアル・アーディルの知名度って10万人以下だったんじゃ。
統計なんてない、只の想像なんですが。

アル・カーミルは、エルサレム王国の侵略を撃退したり、フリードリヒ2世と仲良し
さんだった人ですよね?

678マッティアス:2003/07/21(月) 01:38
そうです。あの小説だと元アサッシン教団だったり、10歳くらいしか年の離れてない
ヴァレリーの息子ということに無理やり合わせようと、かなり無理なことをやってる
ようですけど。多分、養女のシャーラザードが実はサラディンの一人娘ムーニサ・ハ
ートゥンになったのって、佐藤次高先生の『イスラームの「英雄」サラディン』が出
版されてから、慌ててそうしたんだろうな、とか。苦しくてツライの。
ともあれ、カーミルはなかなか素敵ですよん。伝書鳩900羽常備で、ローマ皇帝でい
えば、ウェスパシアヌス並みにしたたかで、王朝の3代目くらいなカンジの君主です。

またまた微妙に脱線してしまいましたが、十字軍について、ビザンツがそれなりに関
わってくるのって、実は第1回と第4回だけですよね。(あくまでも狭義の十字軍で)
しかもビザンツ側の記録がマットーに残ってるのが確実なのは、第1回のアンナ・コム
ネナによる「アレクシアード(アレクシオス1世伝)」くらい?

679カイザー:2003/07/21(月) 12:02
そういえば、昨日のNHKスペシャル、「実況パワフルプロ野球10」をプレイする
のに夢中になってて、存在を完全に忘れてました(笑)。
面白かったですか?

確か第3回十字軍の時のローマは、十字軍の小アジア通過を認めてる裏で、サラディ
ンと内通してたりしたはずです。まあ、直接十字軍に関わってないといえばそうです
が。

アイユーブ朝とかマムルーク朝に限らずイスラム史って、本当初期段階から現在に
至るまで、日本ではまともに知られてない分野ですね。一番マシなのがオスマン・
トルコになるぐらいでしょうか?
日本だとムハンマドとサラディンの名前ぐらいしか知らない人が大半なんでしょう
ね。

680マッティアス:2003/07/21(月) 15:48
近現代史は別として、そうかも知れませんね。サラディン、なにげにメジャーだなあ。
これってやっぱり、サダム・フセインが宣伝に使っていたおかげなんでしょうか(汗)?

昨日のNHKスペシャルは録画していましたが、TVは父がダビング作業に使っていた
ので見てません。他のサイト見る限りでは、それなりに見ごたえがあったっぽいですね。
コインを製造しているシーンとかあったみたいですし。

イスラムとビザンツは、日本で同じくらい知られていない分野だと思います。そうして、
イスラムの興隆から、ビザンツの滅亡まで、この二つの文明は思いっきり接している世界
ですよね。どちらを学ぶにも、お互いの存在を頭の片隅に入れておかなきゃならない。
西欧中心主義だと、ホントにもう、十字軍とかコンスタンティノープル陥落くらいしか、
重大事件として扱ってもらえませんからね。
観光地としては近年そこそこ人気のコースだというのに(笑)。

681カイザー:2003/07/21(月) 19:44
もしかして今の日本人て、ムハンマドもサラディンも知らないけど、オサマ・ビン・
ラディンとサダム・フセインの名前は知ってるという人がいっぱいてそうで、ちょっ
と考えるの怖いです。

ビザンツもマイナーなんでしょうね。普通ならユスティニアヌス1世の名前を知って
ればいい方でしょう。ヘラクレイオス1世とかレオ3世とかバシレイオス2世でも、
マイナー皇帝なんでしょうね。
統一時代は塩野先生の功績(←認めたくないけど)で、それなりには知られるように
なってきたから、次はビザンツ帝国の通史も誰か書いてくれないですかね〜。

682マッティアス:2003/07/21(月) 21:01
研究書ではなく、とっつき易い読み物としてですね。ついでにネームバリューのある人。
塩野さんくらい名が売れてないと、意味ないでしょうから。それか、「ジハード」みたく
軽くて読みやすいFT小説ですね。そうすれば、オタクが食いつくでしょうから、通史も
邦訳されるかも知れません。
主人公を若い頃のユスティヌスにしてみるとか、ベリサリウスにしてみるとかで、できな
いですかね?よくわからないけど、武将系か、成り上がり皇帝だと、好き勝手できそうで
良いかと思います。

683カイザー:2003/07/22(火) 23:47
私としては別にメジャーどころじゃなくても、ビザンツ史を統一した1人の歴史観に
よって通史的に叙述された作品が読めれば、メジャーになれなくても幸せいっぱいで
すけどね。
そういう作品が存在する為には、まずメジャーになる必要があるという所に、何か果
てしない矛盾と天より高い壁があるように思えてくるのは、私の気のせいなんでしょ
うか?(笑)

ユスティニアヌス1世の周囲って、卑賤の身から立身した人間ばかりで、ドラマの題
材に向いてるかもしてませんね。
叔父のユスティヌス1世もそうですし、テオドラとか宦官ナルセスとかフン族の部将
ムンドとか色々いてますよ。他でも悲劇の東ゴート女王アマラスウィンタなんかを、
ちょい役で登場させるとかもよさげですね。

684マッティアス:2003/07/23(水) 16:27
田中芳樹あたりに小説化してもらえば、ばっちりですね(笑)。
しかし、ほんとにまず邦訳の通史が普通に手ごろな価格で欲しいだけなのに、メジャー
でないと、邦訳なんてしてもらえない、というのは最大のパラドックスですよね。出版
業界も最近は不景気で売れ筋でもないものに、あんまり手を出さなくなりましたからね。

そういえば、「○○歴代誌」を出しまくっているクリス・スカーって、ビザンツ皇帝で
出していないんですか?最近、書店にあんまり行ってないもので(汗)。

685カイザー:2003/07/24(木) 21:30
田中芳樹は銀英伝で燃え尽きたと私は思ってるんで、彼に小説化して貰ってもあんま
し嬉しくないです。(←ひでーよ)
昔、ノブゴロド公国を舞台にした富士見ファンタジア文庫を見た記憶が微かにあるの
で、ライトノベルとかならあり得るかもしれないですね。

クリス・スカーの歴代誌シリーズ、ビザンツ皇帝のはないですね。もしかして、邦訳
されてないだけで原書は存在するんでしょうか?
ちなみに私の希望としては、神聖ローマ皇帝歴代誌(フランク時代からなら更にOK)
とかイスラム教カリフ歴代誌なんてのを出版して欲しい所です。

686マッティアス:2003/07/24(木) 22:48
>ノベル希望!
とんでも系なら、武上純希か定金伸治とかですね(薄ら笑い)。個人的な好みとしては、
酒見賢一辺りに短編とか書いてもらいたいですけど。あとは篠田真由美(ヴラド・ツェ
ペシュ小説を書いてました)とか、POPに桐生操とか。

>歴代誌
やっぱり出てませんか、ビザンツ。
イスラム教カリフっていうと、ウマイヤ朝以降だといくつかの王朝のカリフが同時に存在
しちゃったりしますけど。ファーティマ朝とかシーア派はイマームと扱うにしても。
オスマントルコだけでも出して欲しいような気はしますね。

687カイザー:2003/07/26(土) 23:24
ゲルマン諸王国歴代誌なんてのもあったらハッピーですね。
ヴァンダルと東ゴートは松谷健二の本で、概略史は理解出来ましたが、西ゴート、
フランク、ランゴバルドなんかはよく分かりません。しかもブルグンド、スウェヴィ
、ゲビデなんかのマイナー民族は、更に分からない。
末期帝国時代以降のローマ史を理解する為に、この辺の各国史を把握しときたいん
ですけどねえ。

そういえば、ハザル・ハン国の君主の名前って、私は1人も知らないのですが、
マッティアスさんはご存じですか?

688マッティアス:2003/07/26(土) 23:31
(満面の笑顔で)知ってるわけないじゃないですか!勉強してないし(笑)。気にはなります
けどね。ていうか、人名憶えるの苦手です。パルティアやアルメニアの王の名前ですら、
ろくすっぽ憶えてないですもの(←自慢にならない)。

ていうか、スエビって、タキトゥスの頃はゲルマン諸部族の総称だったようですね。
ドミティアヌスの北方での戦争は大概、スエビ・サルマタエ戦争と呼ばれていたようです
が、スエビ族の中にマルコマンニだとか何だとかが含まれていたようですから。

689カイザー:2003/07/27(日) 09:12
まあ、パルティアやアルメニアなんかの場合はいちいち覚えてないだけで、間違いな
くオスロエスとかアルタクセルクセスという感じの名前の王がいたのは分かるのです
が、ハザルの場合はそういう記録が存在するのかなと思って。
皇帝になった人物と血縁関係があったりするので、全員でなくても何人かは判明して
そうですけど。

タキトゥスの時代だと、末期帝国時代に活躍する西ゴート族はスカンジナビア半島か
北海沿岸にいた筈ですね。
サルマタエ族って、ヴァレンティニアヌス1世に無礼な使節を送りつけて憤死させた
部族なんですが、このイベント以降はローマ史関連では登場してないような気がする
のですが、どうなっちゃったんでしょうね。

690マッティアス:2003/07/27(日) 11:38
え、手紙で皇帝を憤死って…どんな手紙なんですか?すごいよ、ソレ。内容が物凄く
無礼千万だったのか、皇帝が単に激しやすい上に老齢とかだったのか、気になります。
そういえば、ハザル・ハンの妹はビザンツ皇帝妃になっていたんですよね。妃の名前
はわかってたんですよね、確か。でも、それも洗礼名とかでしょう?謎の王国ですね。

サルマタエも、よくわからないですね。これもいくつかの部族の総称でしたっけ?
とりあえず、ダキアとも敵対していて、ドミティアヌスはサルマタエ諸部族に対する
戦争をするために、ダキア領をローマ軍が通過できる事を、デケバルスと協定してい
たようですが。長い間存在するわりに、直接に領土を接していたわけでもないような
ので、そんなに詳しく取り扱われないというイメージがありますね。

691カイザー:2003/07/28(月) 23:57
すいません記憶があやふやなんでギボンを見直したら、ヴァレンティニアヌス1世を
激怒させた不届きなゲルマン部族はクアディ族でした。

ヴァレンティニアヌス1世配下の部将マルケリヌスが辺境で功績を挙げるために、ク
アディ王ガビニウスを騙し討ちにして殺害したことから戦争が始まり、イリリクムで
はサルマタエ・クアディ族が略奪を行います。

で、これを収める為に、ヴァレンティニアヌス1世は自ら現地に赴き、戦況が悪化し
たクアディ族は使節を送り弁明を述べ許しをこうと、直接使者と会っていたヴァレン
ティニアヌス1世は許すことは出来ないと、これでもかと怒り始めたあげくぶっ倒れ
て、まもなく死んでしまったそうです。
ちなみに、この戦争で活躍したのが後のテオドシウス1世だったりします。

692マッティアス:2003/07/29(火) 22:23
それって、ローマが悪いんじゃないんですか〜?クァディの王を騙し討ったんでしょう?
挙句、鎮圧したら和睦の使者の弁明に逆ギレして憤死ですか?アホかい!
ていうか、いい加減ギボンも続巻買わなくてはいけないのですが、給料入るまで結構、
いまキビシイのでなかなかです(爆)。

クァディですか。ドミティアヌスに粉砕されたイメージがあったのですが、その後も
存続したのですね。
テオドシウスって、どうしても教科書で憶えさせられた、法典しか思い浮かばないの
ですが、武将としても活躍していたんですね。




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