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放送大学テレビでアラビア語講義

100さーひぶ。:2011/04/24(日) 18:23:24
【イスラーム世界の歴史的展開('11)④】

第4回 軍人政権の分立:9-11世紀
西暦7〜8世紀、アラビア半島を出発したムスリム・アラブ勢は、それほど多くない軍勢で、
インダス川からモロッコに及ぶ広大な地域を席巻しましたが、ウマイヤ朝〜アッバース朝と
続いたさしもの大帝国も、9〜10世紀にかけて解体していきます。
今回は、イスラーム世界の分権化の時代が扱われています。

日本のイスラーム研究者による解説では、ムスリムによる征服は被征服民・異教徒に寛大で、
被征服地のイスラーム化が順調に進んだかのように語られることが多いのですが(本講義も)、
実際には必ずしもそうではなかったようです。
特にサーサーン朝の国教であったゾロアスター教は徹底的に弾圧され、その信徒の生き残りは
現在のインドでパールシー(「ペルシア人」という意味)と呼ばれて辛うじて存続するのみです。
イラン文明はアラブの支配による「暗黒の2世紀」を経験した後、9世紀にはペルシア語を
復活させて、アラブ化した西方地域(イラク以西)とは一線を画します(第6回を参照)。
アラブ、イラン、そして今回の講義で登場するトルコ系(チュルク)、ベルベルが加わって
現在に至るイスラーム世界の多様性の基が形成されるわけです。

今回の講義は「マムルークの登場」から始まります。伝統的にアラビア半島の社会にいた
褐色の肌の奴隷はアラビア語で「アブド」と呼ばれました。アラブには「アブド・〜」という男性名が
多いですが、これは「神のしもべ」を意味します。
これに対して、トルコ人やチェルケス人など、北方から連れてこられた白い肌の軍人奴隷は
マムルークと呼ばれるようになりました。

古代イラン帝国(アケメネス朝)はギリシア人傭兵を採用したが、やがてマケドニア・ギリシア連合軍に滅ぼされ、
古代ローマ帝国はゲルマニア人傭兵を採用したが、やがて西ローマはゲルマニア諸部族によって滅ぼされました。
トルコ人傭兵を採用したムスリム・アラブの帝国も、やがてトルコ系諸王朝の分立・進出など
によって解体の道をたどったことになります。

トルコ系王朝の武断政権が続いた時代は、日本でも武家政権の時代に対応しています。

101さーひぶ。:2011/05/07(土) 18:02:34
【初歩のアラビア語('11)④】

GW連休中は通常の講義はお休みでしたが、その前の回にレスしていませんでした。

第4課(4月27日放映)

文字などの学習が続いていますが、'06年版と同様に、必ずしもアルファベットの配列でない
順で教えていますね。単語を読んだり書いたりする便宜上から頻出する文字を優先して教えて
いるのでしょうか?
いずれにしても、入門から初級へ進んで辞書を引くようになるまでに、アルファベットの配列
を頭に叩き込んでおくことが肝要になります。

鷲見先生の文字の教え方はユニークかつ丁寧です。書道家が書くような綺麗な文字ではなく、
お手本としては初心者には親しみやすいでしょうが、文字を一字一字ずつ切って書くのは、
あまりアラビア文字的ではありませんね。

〔サカーファ:アラビア書道の芸術〕
放送大学の面接授業担当講師・和光大学講師などアラビア語講師も務める書家の佐川信子さんが、
現代の書家が書かなければならないとされる6書体やアラビア書道の魅力を紹介。
イランやトルコの書体が必須になっていることから推し量れるように、現代アラビア文字書道
の中心地は、アラブ諸国ではなくイランやトルコになっています。
個人的には、伝統的なアラブの書体であるクーフィー書体が紹介から消えたのは残念。
印刷教材のコラムは説明が倍増してより改善されました。

書体については、コラムにも説明されているように、ナスヒー書体が現代の印刷用標準書体に
なっているのに対して、ルクア書体が現代のアラブ人の手書きの主流になっています。
(飯森嘉助先生は、ナスヒー書体を「楷書体」、ルクア書体を「草書体」と表現されています。)
そんなわけで、日本人学習者がせっかくアラビア文字をナスヒー書体で習得しても、実際に
アラブ人が手書きするルクア書体を判読するのにてこずるという珍現象がよく起こるのです。

102さーひぶ。:2011/05/07(土) 20:14:03
【授業科目案内「初歩のアラビア語('11)」】

いま(19:45-20-00)放送大学のテレビで「授業科目案内」として「初歩のアラビア語('11)」
を紹介していました。

鷲見先生のユニークな教え方、映像表現のパワーアップなど、放送大学がアラビア語に力を入れていることをこれでもかと、見せつけられました。

特に今回の講義シリーズでは、総勢6名の在日ネイティヴスピーカーを投入。
「テレビでアラビア語」でおなじみになったリーム・アハマドさんも登場されるようです。

103さーひぶ。:2011/05/14(土) 17:25:59
【イスラーム世界の歴史的展開('11)⑤】

第5回 交流するイスラーム世界:12-15世紀(5月7日放映)

〔十字軍、アイユーブ朝とマムルーク朝〕
十字軍というと「キリスト教VSイスラーム教」という図式で見られがちですが、
ローマ教皇(ローマ=カトリック教会)の呼びかけで「聖地の奪回」をめざした十字軍は
イスラーム世界にあるキリスト教の東方諸教会の教区をも無視したものであり、十字軍の攻撃
はキリスト教徒やキリスト教国家に対しても向けられました。
一方、ムスリム国家どうしも互いに争う戦国の世で、ムスリム側で「キリスト教VSイスラーム教」
という見方が形成されるのはかなり後になってからのことです。
逆に現代では、「赤十字社」が十字軍を連想させることを嫌って「赤新月社」とするほどです。
十字軍と並行して、イベリア半島ではキリスト教徒によるレコンキスタ(再征服)が進みました。
12世紀頃からはアラビア語文献がラテン語に翻訳されだし、ヨーロッパ文化の基礎を形成する
「12世紀ルネサンス」が始まります。

十字軍を衰退へ追いやったサラディンことサラーフッディーンは、アラブ人から見ても英雄
ですが、クルド人出身の武将であり、アイユーブ朝もクルド出身の王朝ということになります。
モンゴル人の来襲は次回と重複しますが、これは別の講師が担当するからなのでしょう。
ファーティマ朝の東征〜アイユーブ朝〜マムルーク朝の時代に新しい都カイロ(アラビア語で
アル=カーヒラ、またはマスル)を中心する現代に至るエジプトの繁栄が築かれます。

〔イスラーム世界の拡大と交流〕
イスラームは、サハラ以南のアフリカやインド・東南アジア・中国に広まって行きます。
その大半の地域を旅した旅行家としてイブン=バットゥータが取り上げられます。本講座では
ふれていませんが、中国・明朝の宦官だった鄭和(ていわ)もムスリムで、大艦隊を率いて
マッカ(メッカ)のあるアラビア半島からアフリカ東海岸にまで大航海を行っています。
モロッコ出身のベルベル人(自称イマズィゲン)であったイブン=バットゥータや中国人の
鄭和など、多様な民族出自の人々がこの時代のイスラーム世界を行き交っていたことがわかります。
(誤植:72ページ8行目 ×終結 → ○集結)

104さーひぶ。:2011/05/22(日) 12:30:52
【初歩のアラビア語('11)⑤】

第5課(5月11日放映)

文字の学習もあと2回。

番組中ではふれていませんが、印刷教材には、ラーム(l)の音が2種類あるという説明が
今回の改訂で加わりました。
アラビア語には「こもった感じで」発音する、いわゆる強勢化音(軟口蓋化音または咽頭化音)
が4つ(サード、ダード、ター、ザー)あると説明するのが定番ですが、音声学的な観点では
アッラーフ('allah)のラーム(l)もこもった感じの強勢化音になるとされています。
(初歩を学んでいる学生は知らなくてもよいレベルの学習事項です。)

〔サカーファ:ベリーダンスの情熱〕
今回のインタビューは、レバノン人ベリーダンサーのアマーニーさん。
中東の音楽やダンスは、イスラーム以前から伝わる異教的な伝統芸能です。『千夜一夜物語』が
インド起源でイランからアラブに伝わったように、音楽やダンスもインドなどの影響を受けています。
音楽やダンスは、イスラーム教では奨励されない文化で、特に肌をかなり露出するベリーダンスは
保守的なムスリムからは白眼視されることでしょう。
中東でベリーダンスが盛んなのもトルコ・レバノン・エジプトなど世俗的に開かれた国々ですね。

ザガーリード(zagharid)は、ザグルーダ(zaghruda)、ザグルータ(zaghrouta)などと
さまざまな呼称で呼ばれ、アラブやムスリムの女性たちが祝い事があったときなどに、祝福や
歓びを表すために、手で口を軽くふさぎながら口の中で舌を小刻みにして震わせて発する奇声です。

ちなみに、第3課〜第4課のゲストのノウマーン・オマルさんはNHKアラビア語アナウンサー、
今回のゲストのフィラース・オマルさんはその弟さんです。

105さーひぶ。:2011/05/23(月) 07:18:54
【イスラーム世界の歴史的展開('11)⑥】

第6回 トルコ・モンゴル系国家とペルシア語文化:13-18世紀(5月14日放映)
講師:近藤信彰(東京外国語大学准教授)

〔モンゴル帝国〕
セルジューク朝に代表されるトルコ(チュルク)系の遊牧騎馬部族の王朝が中央アジアから
西南アジアや南アジアになだれ込む時代が西暦10世紀頃〜13世紀前半にかけて続き、
アラブ勢力は著しく衰えました。
13世紀にモンゴル高原を統一した武将テムジンは、大ハーンに即位してチンギス・ハーンと号し、
成立したモンゴル帝国は世界征服の大遠征を開始、瞬く間にインドと欧州を除くユーラシア大陸
の大半を制圧してしまいました。
大して多くない軍勢で、比較的短期間に、実に広大な地域の征服を成し遂げたという共通点により、
モンゴル帝国とムスリム・アラブの帝国は比較されることがあります。
しかしながら、アラブ帝国が解体した後もクルアーンとともにムスリム化・アラブ化が進んで
イスラーム世界が拡大していったのに対して、モンゴル帝国(諸ハーン国)が瓦解した後には
支配者モンゴル人たちは各地の社会に埋没・同化していきました。アフガニスタンのハザラ人は
植民して来たモンゴル人の末裔と言われています。
大規模な破壊と殺戮を行ったモンゴル人の支配は「タタールのくびき」と呼ばれて怖れられ、
当時のイスラーム世界の先進地域であった中央アジアも破壊と殺戮により衰えていきます。
チンギスの孫フラーグは、バグダードを占領、カリフを処刑してアッバース朝を滅ぼしますが、
アイン・ジャールートの戦いでバイバルスが率いるマムルーク朝の騎兵に撃退されます。
フラーグがイランを中心に建国したイル・ハーン国は、モンゴル国家(ウルス)の一つでしたが、
その王朝はやがてムスリムに改宗して、モンゴル国家とイスラーム国家の二重の性格を帯びる
ことになりました。80年ほどで滅びます。
モンゴル帝国の時代は、遊牧騎馬部族の諸国家(ウルス)が世界の半分を支配した時代で、
現在はパクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)とも呼ばれ、イブン=バットゥータのような旅行者
や隊商が安全に通行できるようになり、西のイスラーム世界と東の元朝時代の中国などとの
交易・交流が盛んになりました。
(106>>に続く)

106さーひぶ。:2011/05/23(月) 07:21:57
>>105の続き)

〔ティームール、遊牧騎馬部族〕
イル・ハーン国が滅びた後、西南アジアに強大な帝国を築いたのは、ティムール、より正確には
ティームールでした。わずか一代で彼ほどの広大な領土を征服したムスリムの武将は他にいません。
トルコ(チュルク)化したモンゴル部族出身であるティームールは、チンギス・ハーンの
世界帝国の再現を夢見て、中央アジア(現在のウズベキスタン)のサマルカンドを都として
カスピ海・イラクからインド北部に至る広大な帝国を築きました。
西に台頭しつつあったオスマン朝の君主バヤズィト1世をアンカラの戦いで破って捕虜としたり、
最晩年にはモンゴル国家(元朝)を北へ駆逐した中国の明朝を倒すために遠征しようとしました。
明朝の宦官・鄭和による大航海は、ティームールへの牽制ではなかったかとも言われています。
ティームール朝から次のサファヴィー朝の初期は、騎乗しながら弓矢を駆使する遊牧騎馬軍団が
最後の輝きを放った時代といえるでしょう。
>>107に続く)

107さーひぶ。:2011/05/23(月) 07:32:15
>>106の続き)

〔イランとペルシア語の復活〕
西暦7世紀にムスリム勢の大征服が始まると、被征服地のキリスト教徒・ユダヤ教徒・マンダ教徒らは
人頭税を納税すれば、ムスリムに改宗しなくてもズィンミー(庇護民)として遇され、
やがて彼らの多くが待遇改善と納税免除のためにムスリムに改宗して、アラブ化も進みました。

一方、ゾロアスター教徒には「(ムスリムへの)改宗か、死か」と厳しい態度で臨んだので、
抵抗する多くのゾロアスター教徒が殺されました。けれども、サーサーン朝治下にいた膨大な
数のゾロアスター教徒を皆殺しにするのは無茶なことであり、降伏したゾロアスター教徒は
ことごとく奴隷身分に落とされて事実上の庇護民になりました。
インドに落ちのびたゾロアスター教徒たちは「パールシー」として信仰を守って現代に至りますが、
アラブ支配下のイランのゾロアスター教徒の大半は、奴隷身分と人頭税から脱するために、
やむを得ずにムスリムに改宗せざるを得ませんでした。
9世紀にアラブ帝国がほころび始めると、イラン系のサーマーン朝が興り、イラン人ムスリムたちは
アラブの支配から脱して、ペルシア語をアラビア文字により復活させます。
セルジューク朝時代の数学者オマル・ハイヤームが書いた『ルバイヤート(四行詩集)』などは
近世ペルシア語の文学とし名高いです。
アフガニスタンの「ダリー語」もペルシア語です。

〔シーア派、サファヴィー朝〕
シーア派の中でもアリーとその直系子孫12人を指導者(イマーム)とあおぐ「十二イマーム派」は、
イマームはサーサーン朝の皇女の血筋を引いているというまことしやかな伝承がつくられて、
サファヴィー朝のもとでイランに広められます。

こうしてイランは、近世ペルシア語やシーア派を確立して、スンナ派を多数派とする
アラビア語圏やオスマン帝国と対峙していくのです。

108さーひぶ。:2011/06/04(土) 19:04:57
今期の放送大学では、アラビア語とイスラームの二つの新講義が進んでいますが、
番組や印刷教材を見てのレス(感想や関連する話題)が滞りぎみです。

「初歩のアラビア語('11) 」(水曜日の夜)は折り返しの第8課まで終わり、
「イスラーム世界の歴史的展開('11)」は第9課の世界大戦の頃まで終わって、イスラーム世界の通史はほぼ完了しました。

いま、アラブ諸国やイランで勃発している民衆蜂起や革命については当然のことながら
間に合いませんでした。
これらについては、今回の講義シリーズで扱うことは難しいでしょうが、
情勢が一段落したら、高橋和夫先生あたりの特別講義があるように期待します。

109さーひぶ。:2011/06/06(月) 01:56:20
【初歩のアラビア語('11)⑥】

第6課(5月18日放映)

この回で、文字や符号の学習は完了です。

〔2種類のハムザ〕
①単語の「語根」となるハムザ、語形変化(不規則複数形)や動詞Ⅳ型などに現れるハムザは
「ハムザトゥ=ル=カトア(断絶のハムザ)」といって、フスハー(正則アラビア語)では
そのまま表記され、声門閉鎖音(声門破裂音)で発音します。(方言では脱落する場合もあります)。
②冠詞アル('al)、派生型の動詞・動名詞、イスム('ism)やイブン('ibn)などの一部の単語の
語頭に現れるハムザは「ハムザトゥ=ル=ワスル(連続のハムザ)」といい、アリフを台座としますが、
別の単語に後続するときは発音されず、ハムザも表記しません。文頭や発声のはじめでは
声門閉鎖音(')を発音しますが、ハムザの表記は現代の印刷物などではたいてい省略します。
(ただし、本格的な辞典で冠詞アルを引くとハムザを表記しているものもありますし、
アラブ人が②のハムザを省略せずに書くこともあります。)

日本で刊行されている多くのアラビア語教本には、②のハムザトゥ=ル=ワスル(連続のハムザ)が
なぜ存在するのか、説明されていません。
正則アラビア語には、一つの音節において子音が連続してはならない、という規則があります。
この規則を破らないように、とくに語頭の子音連続(語頭のスクーン)を避けるために
補助母音とともに補われるのが、②のハムザトゥ=ル=ワスル(連続のハムザ)です。
例えば「名前」を意味するスム(sm)に補うとイスム('is-m)に、「息子」を意味する
ブン(bn)に補うとイブン('ib-n)になり、冠詞を示すル(l)に補うとアル('al-)になり、
子音(ハムザ)+母音+子音の「閉音節」を形成することによって、規則通りになります。
逆にいえば、便宜的に語頭に挿入したものだから、別の単語に後続するときは脱落するわけです。

〔サカーファ:アラブの青年ハーニーさんの生活〕
'06年版の二つのコラム(第9課「アラブの青年ハーニーさんの生活」と第6課「民衆のイスラーム信仰」)
を足して2で割ったみたいですね。礼拝用語には、アラビア語表記が付されています。

110さーひぶ。:2011/06/11(土) 18:26:09
「イスラーム世界の歴史的展開('11)」は、いま放映していた第10回から後半に入りました。

前回までで、ムハンマドの宣教から近現代に至る通史がほぼ終わりましたので、
今回からは5回にわたってイスラーム世界の社会的側面・文化などを扱います。

以前のラジオ講義から比べると新しい試みですが、
一口にイスラーム世界といっても、その社会的様相は非常に多様です。
時代は1400年以上にわたり、地域はモーリタニアからインドネシアにまで広がる
イスラーム世界・ムスリム社会の様相を網羅的に扱うことなどとうてい無理でしょう。

例えば、今回は「奴隷」「宦官」という言葉が出てましたが、現在は存在しないであろう彼らが
イスラーム世界でどのような変遷をたどったのか?とか、切り口は際限なくありそうですね。

111さーひぶ。:2011/06/12(日) 17:57:49
【イスラーム世界の歴史的展開('11)⑦】

第7回 オスマンの平和:14-19世紀(5月21日放映)

講師:江川ひかり(明治大学教授)

今回の表題は、パクス・オトマニカ(Pax Ottomanica)またはパクス・オトマーナ(Pax Ottomana)
というラテン語で、オスマン朝の軍事的覇権を平和として肯定する見方です。
元はエドワード・ギボン著『ローマ帝国衰亡史』において「パクス・ロマーナ(Pax Romana)」
すなわち「ローマの平和」と呼んで、ローマ帝国の軍事的覇権を平和な時代として賞賛した
ことに由来します。イギリスの平和(Pax Britannica)、アメリカの平和(Pax Americana)から
最近ではイスラームの平和(Pax Islamica)、徳川の平和(Pax Tokugawana)など多用されます。
パクス(Pax)は、多くの場合、敵対勢力を軍事力で威嚇・打倒・降伏させて得られる和平を指し、
第一次大戦後の欧州や第二次大戦後の日本で高揚した非戦主義・非武装の平和とは異なります。

オスマン朝は、ルーム(「ローマの」)・セルジューク朝がモンゴル軍に敗れた後の13世紀末頃に、
トルコ系ムスリム勢力とキリスト教徒が混在するアナトリアに興り、バルカン半島にも勢力を伸ばしました。
従来のムスリム諸国家と異なり、キリスト教徒がムスリムに改宗してもしなくても、国家や軍隊に
多数登用して力を伸ばし、やがて鉄砲や大砲などキリスト教徒の技術も積極的に採用していきました。
「稲妻帝(雷帝)」と称えられた英主・第4代君主バヤズィト1世がアンカラの戦い(1402年)で
あのティームールに敗れて捕虜になり、分裂・崩壊の危機に瀕しますが、やがて復興します。
この地域を支配してきた東ローマ帝国(ビザンティン)は、かつてはアラブの艦隊をも
可燃物「ギリシア火」により撃退していましたが、十字軍により一度は滅び、弱体化していました。

第7代君主のメフメト2世は、ギリシア語やラテン語も学び、アレクサンドロス3世やローマ帝国に憧れました。
彼は1453年にはビザンティンの帝都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)を
巨砲や「艦隊の山越え」などの奇策によって攻略してビザンティンを滅亡させました。
当地、後のイスタンブールにエディルネから遷都して、Kayser-i Rum(ローマ皇帝)と号し、
これ以降のオスマン「帝国」は「再興されたローマ帝国」として世界帝国へ邁進します。
>>112に続く)

112さーひぶ。:2011/06/12(日) 18:20:52
>>111の続き)
オスマン朝君主の称号は、当初はトルコ(チュルク)系の首長を指すベイ(君侯)でしたが、
第3代ムラト1世はカイロにいたアッバース朝カリフの末裔からスルターンを名乗ることを
認められたとされ、世界帝国の君主として公式にはイラン風のパーディシャー(帝王)、
さらにはシャー、ハーン、カイセル(ローマ皇帝)などさまざまな称号を用いました。

第9代君主セリム1世「冷酷者」は、「征服者」メフメト2世と最盛期のスレイマン1世の間に
あって扱いがそれほど大きくはありませんが、オスマン朝を大帝国に引き上げた功労者です。
アナトリアにシーア派を広めようとしていたサファヴィー朝に対し、スンナ派君主として抗します。
西暦1514年8月23日、ヴァン湖東方のチャルディラーンの野で両軍は激突しました。
当初はサファヴィー朝のキジルバシュ騎兵が優勢でしたが、オスマン軍の火砲が勝敗を決しました。
常備軍の中心であった近衛歩兵イェニチェリの鉄砲隊はマスケット銃(火縄銃)を持ち、
砲兵隊はカノン砲200門・臼砲100門などの野戦砲を装備していたようです。
これらの大砲・鉄砲による砲火が浴びせられて、サファヴィー軍の騎兵は壊滅的打撃を受け、
サファヴィー朝を興して常勝を誇っていた英傑イスマーイール1世も命からがら敗走しました。
この地が峻険な荒地にあり、焦土戦術もあったり補給が困難であったため、追撃は中断されました。
命拾いしたサファヴィー朝は、大砲・鉄砲の導入に努め、オスマンとイランの長い抗争が始まります。
セリムは続いて、1516年のマルジュ・ダービクの戦いでマムルーク騎兵を破ってマムルーク朝を滅ぼし、
エジプトからシリア、マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)を含むヒジャーズ地方をも
制圧してイスラーム世界の盟主を自認し、アラブ地域の大半がオスマンの軍門に降っていきます。
セリムは、火砲が騎兵に優越する戦果を示し、それまでの遊牧騎馬部族の天下を終わらせました。
戦争における火力の支配が始まり(長篠の戦いより61年前)、それは現代でも変わっていません。

第10代君主「大帝」スレイマン1世の時代にオスマン帝国は極盛期を迎えます。
スレイマンは、ハプスブルク朝の首都ウィーンを攻囲してヨーロッパ諸国を震撼させます。
オスマン帝国の軍事力を脅威と受け止めたヨーロッパ諸国は、兵器や戦術の開発に努め、
17世紀後半の第二次ウィーン攻囲の失敗により、オスマン帝国の軍事的優位は終わります。
すでに大航海時代に乗り出していたヨーロッパ諸国は、軍事技術の進歩とともに科学革命を
経験し、市民革命や産業革命を経て、「近代化」の大波を引っ下げてオスマンやイスラーム世界
の前にも立ちはだかって来ます。

113さーひぶ。:2011/06/27(月) 00:01:37
【初歩のアラビア語('11)⑦】

第7課(5月25日放映) 前回で文字の学習も終わり、スキットが始まりました。

○「私」を意味するアナー(أنا)は通常は短く「アナ」と発音する、と
 印刷教材(p.93)や番組中でも説明され、鷲見先生も意識して「アナ」と発音
 していましたが、ズィヤード役・ハディージャ役の人、ネイティブゲストの
 フィラースさんもリームさんも「アナー」と普通に長母音で発声していました。
 ('06年の番組のときのネイティブの発音もそうでした。)
○スキット:放送大学のアラビア語名が今回は جامعة هوسو に変わりました(後述)。
      サウジの(سُعودية)大学というところで字幕に「سَعودية」と母音符号の誤植。
○名詞の性:英語以外のヨーロッパ諸語を学んだ人は「性」を経験済みでしょうが、
      名詞の性は単語ごとに覚えなければならず、暗記するのに苦労します。
      それに比べてアラビア語の性は、判別しやすいものが多く非常に楽です。
○タムリーナート(練習)コーナー:リームさんが「アンタ・ムワッザフ أنتَ موظف」と
      読み上げているときに「アンティ・ムワッザフ أنتِ موظف」と字幕の誤植。
だんだん、字幕の誤植が目立って来ましたが、再放送時には修正されるのでしょうか?

〔サカーファ:アラブ人の名前〕
いままで、ほとんどトークマシンの役割だったネイティブにも板書の出番です。
ネイティブの手書き文字を見慣れておくのは、勉強になります。
フィラース・ユースフ・オマル(فراس يوسف عمر)さんと
リーム・アハマド・サーリフ(ريم أحمد صالح)さんの名前は分かりやすい例でした。
ザイナブ・ブラヒミさんの家名は、フスハー(正則アラビア語)なら多分
「アル=イブラーヒーミー(الإبراهيمي)」ですが、マグレブ地域の方言では
語頭のハムザの音(声門閉鎖音)と冠詞が脱落して「ブラーヒーミー」となり、
方言の説明が必要になるので説明がたいへん。
イーマーン・ブースィルワールさんのセカンドネームもフスハーではおそらくは
「アブー・スィルワール(أبو سروال)」でしょうが、やはりマグレブ方言では
語頭が脱落して「ブースィルワール(بوسروال)」と発音するのでしょう。

114さーひぶ。:2011/06/27(月) 00:46:52
>>113の補足

〔放送大学のアラビア語名〕
'06年版「初歩のアラビア語」第7課では、放送大学のアラビア語名は、
ジャーミアトゥ=ル=ハワーゥ(جَامِعَة الهَوَاء)となっていました。
当時の放送大学の英語名称は The University of the Air であり、
その直訳だったのでしょう。しかし、これでは「空気(هواء)の大学」
みたいだし、アラブ人に言ってもピンとこない感じでした。

前回、そのように書いていましたが、翌2007年秋に放送大学の英語名は
The Open University of Japan に改称されたようです。
そもそも日本の放送大学はイギリスのオープン・ユニヴァーシティ
(Open University)制度にならって創立されたもののようで、
北米などでは The University of the Air ともいうようです。

今回('11年版)は、放送大学をジャーミア・ホーソー(جامعة هوسو)と
音訳したわけですね。しかし、これもやや苦しいか?

本家イギリスのオープン大学(The Open University)はアラビア語では
アル=ジャーミアトゥ=ル=マフトゥーハ(الجامعة المفتوحة)と訳されており、
アラブ諸国によるアラブ・オープン大学(الجامعة العربية المفتوحة)や
パレスチナのアルクドゥス・オープン大学(جامعـة القـدس المفتـوحة)も
同様に訳されているので、
日本の放送大学もアル=ジャーミアトゥ=ル=ヤーバーニーヤトゥ=ル=マフトゥーハ
(الجامعة اليابانية المفتوحة)ぐらいの訳が妥当ではないでしょうか。

アラブ・オープン大学 http://en.wikipedia.org/wiki/Arab_Open_University
アルクドゥス・オープン大学 http://en.wikipedia.org/wiki/Al-Quds_Open_University

115さーひぶ。:2011/07/21(木) 02:37:32
「イスラーム世界の歴史的展開('11)」

は、7月16日(土)の放映でテレビ全15回の初回の放映を終えました。

後藤明先生によるラジオ講義のときに比べて、テレビという視覚化のもとに、単に時系列を
たどるにとどまらずに社会的・文化的側面からも論じるなど、意欲的な講義シリーズでした。
ただ、扱う内容の幅広さを考えると15回では短すぎますね。

イスラーム発祥の地である「中東」を中心に「イスラーム世界の歴史的展開」を扱うとのこと
でしたが、本講義の定義による「中東」は日本式の「中東」(中東・北アフリカ)でしたが、
実際に扱われたのはやはり欧米などで標準的な中東(エジプト・イラン・トルコとその周辺)が主体でした。

また、現代のムスリム人口の多い国は、インドネシア、パキスタンやバングラデシュなどであり、
南アジア・東南アジアに比重が移っています。これらの地域は中東・北アフリカよりも早く
大航海時代から欧米諸国の侵略と植民地支配を受け始めており、その過程で搾取され、
イギリスの植民地支配の下で先鋭化させられたムスリムとヒンドゥー教徒との対立は、
インド・パキスタン間の核戦争という現代イスラーム世界の最大の危機さえ引き起こしかねません。etc.

このような中東以外の地域史の重要性を考慮すると、本講義は「中東の近現代史」に偏り過ぎて
「イスラーム世界の歴史的展開」というテーマをおおい切れていないようにも思います。

昨年のチュニジアに始まり今年になって開花した「アラブの春」と呼ばれるアラブ諸国の革命やデモには
間に合いませんでしたが、これは研究者の誰も予想できなかったようだからしかたありません。

イスラームについての本講義の教科書的な説明には、現実のムスリムが聞いたら首を傾げそうな
解説もありました。じきに20億人に達する「ムスリム」の有り様は実に多様です。

イスラーム世界について、何がどのように語られるべきなのか?
これからも絶えず問われ続けるでしょう。

116さーひぶ。:2011/07/23(土) 18:26:12
「初歩のアラビア語('11)」

は、7月20日(水)の放映でテレビ全15回の初回の放映を終えました。

「初歩のアラビア語」としての基本路線は '06年版と大筋で同じ。
今回シリーズも文字学習にかなりの時間を割いたため、初級の手前の入門レベル止まり。
テレビ講義であることを考えると、「初歩」に抑えておく方が長続きするのでしょう。

印刷教材が大幅な増訂版だったところを見ると、人気講義のために基本路線はそのままで
ボリュームアップしたと思われます。
教材の執筆者が増えて、コラムや本文の補足、付録などが大幅に加筆されています。

番組自体も、クレジット入りのネイティヴ「ゲスト」だけで6名体制という豪華版。
欲を言えば、ネイティヴにトークマシン以外の役回りをさらに増やしてほしい。とくに、
アラブ人の手書き文字は、アラビア語の読み書きを習得する上でとても参考になります。

鷲見先生も、今回も駄洒落を言いながらマイペースの講義。
駄洒落といい、スタジオ背景や小道具の華やかさといい、放送大学らしからぬきわめて稀な特長が、
番組の人気を支えているのでしょうね。
毎回着ておられたあの民族衣装は自前なんでしょうかねぇ。

「初歩のアラビア語」は今後も定着することが期待されますが、
できれば「アラブ人」=「ムスリム(イスラーム教徒)」という固定観念の枠も少しずつ
はずしてゆければ、中東・アラブ・イスラーム世界の理解の助けになると思われます。

118匿名:2017/03/28(火) 19:59:36
放送大学の「初歩のアラビア語('11)」は残念ながら
2016年度で閉講しました。
初・中級への発展的授業もなく残念です。

119さーひぶ。:2017/03/31(金) 00:20:43
>>118
「初歩のアラビア語」、閉講は残念ですね。
でも、'06 と '11 で、2006年度〜2016年度の11年間も続いて来たのですね。
こんなに長く、良く続けてくれました。
できれば、ラジオ番組でもいいから、続けて欲しかった。


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