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日蓮聖人の僧侶観
1
:
管理者
:2008/10/23(木) 07:26:39
犀角独歩さんから、新しいスレッドの提案がありましたので、活発な議論を期待して、当「日蓮聖人の僧侶観」スレッドを立ち上げます。提案文は以下のとおりです。
「日寛崇拝から日蓮門下全般まで、その僧道のモデルは、日蓮聖人にあるわけです。しかしながら、日蓮聖人が述べている僧侶観というのは案外、語られないできたと思えます。「日蓮聖人の僧侶観から現代人が希求する僧侶観」というスパンで、議論をお付き合いいただけないでしょうか。」
新しいスレッドを立てていただくかどうかは、ご判断に任せます。
2
:
問答迷人
:2008/10/23(木) 07:33:44
日蓮聖人の僧侶観、という事ですが、僧侶の妻帯の問題、僧侶不在の在家教団の問題、等々議論が尽きないところかと思います。
まぁ、今日の創価学会や顕正会のような在り方を日蓮聖人がどう見られるか、直接お会いしてお聞きしたいほどです。
3
:
犀角独歩
:2008/10/23(木) 08:16:15
問答名人さん
わたしは、お坊さんの知り合いはたくさん、いるわけで、そうした意味で、今回のスレッドは、いわば棚上げにしてきたテーマの一つです。まあ、坊さんのことは坊さん自身が考えればよいという「他人事」という一面もありました。
しかし、日蓮というジャンルで考えるとき、実はこのテーマは避けて通ることができないことと一つです。
仏法僧は三宝であるといい、国の宝であるとまで言われてきたわけです。神聖にして犯すべからずという扱いでありました。しかし、大石寺がいう仏・法について、その虚構を、完膚無きまでに暴いてきたわけですから、残す僧ばかりを棚上げにしては、残してしまうことになります。やはり、論じないわけにはいきません。
ただし、その論じ方は、創価学会がやるような大石寺僧侶の糾弾といったことではなく、まずは、日蓮の僧侶観を俯瞰することから始めたいのです。
そもそも、大石寺の坊さんなど論外で、こんなものは批判以前に朽ちているわけですから、ああだこうだということ自体、時間の無駄というものです。ここの、仏も、法も、嘘であることは白日の下にさらしたわけですから、その嘘を担いでいる坊さんは、その生活態度や宗教的な資質を云々する以前に、土台が腐っている泥船の乗員です。乗員であるここの坊さんは、泥船は朽ち果てて、仏海の藻屑と化し、そのうち、溺死するわけですから、糾弾するまでもないでしょう。大地震前に逃げ出す鼠たちのように、その泥船から逃げ出すことを奨励するばかりです。まあ、その前に土下座して謝罪する人間性ぐらいは示してほしいという期待はありますが、そんなことを望める連中でもないでしょう。
わたしが今回、テーマとして考えるのは、こうした連中によって、泥まみれにされた「日蓮聖人」が本来、懐いていた僧侶観を、まず闡明にすることで、そして、その闡明になった僧侶観をもって、もう一度、論じたいということです。
以上の筋で、よろしくお願い申し上げます。
5
:
問答迷人
:2008/10/23(木) 08:44:15
犀角独歩さん
日蓮聖人の僧侶観で、僕が最初に頭に浮かぶのは、立正安国論のあの有名な一節、「夫れ出家して道に入るは法に依て仏を期する也。」です。
ここに、日蓮聖人ご自身の出家の目的が明確にされていると思いますが如何でしょうか。
6
:
犀角独歩
:2008/10/23(木) 09:09:33
問答名人さん
仰るように日蓮聖人の僧侶観、もっといえば三宝観は、『立正安国論』の頃には確定しいるように思えます。
挙げられた依文は、ご自身(自行)を含む出家の意義と拝察します。また、ここで論述されるところは、自身出家の立場から僧侶観全般を述べていくエッセンスとして、重要な意味を持っていると思えます。その意味で同論はしっかりと押さえてまいりたいと存じます。
その前提として、時系列に沿って、最初に『守護国家論』を見たいと思います。
この中に以下の一節があります。
奉随仏出家受十二部経壊欲界煩悩獲得四禅定 雖然悪知識値苦得外道依不信仏法正義失出家受戒十二部経功徳生身堕阿鼻地獄
仏に随い奉り出家して十二部経を受け 欲界の煩悩を壊りて四禅定を獲得せり しかりといえども 悪知識たる苦得外道に値い 仏法の正義を信ぜざるに依りて 出家受戒十二部経の功徳を失い 生身に阿鼻地獄に堕つ 苦岸等の四比丘に親近せし六百四万億の人は 四師と倶に十方の大阿鼻地獄を経しなり
この文を、どのようにお読みになりますか。
7
:
問答迷人
:2008/10/23(木) 09:24:02
出家の在家に対する責任を述べておられるのだと思います、上求菩提下化衆生です。出家が法を誤れば、その影響は甚大で、その出家の指導下にある在家を誤らせる、と。
8
:
犀角独歩
:2008/10/23(木) 09:37:38
僧侶の在家への責任という問題からすると、その点を述べていらっしゃいますね。
もう一つあると思うのです。
「出家受戒十二部経の功徳を失い 生身に阿鼻地獄に堕つ」
せっかく、出家したのに功徳を失って、生身で地獄に堕ちるということです。
「生身堕阿鼻地獄」というのが、どんな状態か特定はここではいたしませんが、生きながら実は地獄に堕ちている。それに気付かず、この出家に従っている人々もまた地獄に堕ちてしまうという2段階を論じていると拝察します。
9
:
問答迷人
:2008/10/23(木) 10:25:53
あっなるほど。「生身堕阿鼻地獄」ですか。これは見落としていました。一体、どんな姿なのでしょうね。
これから夕方まで外出します。よろしくお願い致します。
10
:
犀角独歩
:2008/10/23(木) 20:34:48
問答名人さん
先に引用した『守護国家論』の文は、善星の物語から、源空『選択集』を悪知識としていくわけですね。そして、善知識を法華涅槃としていきます。
わたしは、この件で重要なのは、出家の堕獄、それも在俗を巻き添えにしていくというコンセプトですね。
同論の「出家」の使用は6カ所で、僧、僧侶はありません。
問答さんが仰るように、日蓮聖人の僧・侶の定義化は、やはり、翌年の『立正安国論』に見いだせそうです。
この述作は文応元年(1260)7月ですが、先立つこの年(正元2年)2月に『災難興起由来』があります。この書で印象的なのは「出家」という成句が一度も使用されていないことです。反面、『守護国家論』で使用されなかった「僧」は、ここでは使用されます。文末です。いわば、結論といってもよいと思います。
一切衆生至于螻蟻蚊虻必有小善 謗法人無小善 故留施加苦治也
問曰汝以僧形顕比丘失豈非破不謗四衆不謗三宝二重戒乎
答曰守涅槃経云若善比丘見壊法者置不呵責駈遣挙処当知是人仏法中怨 若能駈遣呵責挙処是我弟子真声聞也[已上] 之文記之
一切衆生は螻蟻蚊虻に至るまで必ず小善あり 謗法の人には小善なし 故に施を留めて苦治を加うるなり
問うて曰く 汝僧形を以て比丘の失を顕すは あに不謗四衆と不謗三宝との二重の戒を破るにあらずや
答えて曰く 涅槃経に云える「もし善比丘ありて法を壊る者を見て 置いて呵責し駈遣し挙処せずんば まさに知るべし この人は仏法の中の怨なり もしよく駈遣し呵責し挙処せば これ我が弟子真の声聞なり」[已上] の文を守りてこれを記す
この文については、どのようにお考えになりますか。
12
:
問答迷人
:2008/10/23(木) 21:05:04
犀角独歩さん
>法を壊る者を見て 置いて呵責し駈遣し挙処せずんば まさに知るべし この人は仏法の中の怨なり
いわゆる、謗法与同罪の出典ですね。謗法与同も謗法に当る、という議論。呵責、駈遣、挙処、これらは国家権力による折伏に連動して行ったのではないでしょうか。ただ、そこまで行くと、国家権力による宗教弾圧にまで行き着いてしまいかねませんね。
この論理は、しかも、法華経安楽行品とは随分と食い違うように思います。いわゆる寛容の宗教としての仏教の面影は何処にも見られません。涅槃経の教えというのは、本当に大乗仏教の系譜なのでしょうか、と疑問を持ってしまいます。
まぁ、幾ら日蓮聖人が書かれていても、この論理は、時代遅れというか、むしろ、排除すべきものではないかと考えます。
13
:
犀角独歩
:2008/10/24(金) 06:49:13
問答名人さん
おはようございます。
『開目抄』でも引用されるこの一節は、たしかに寛容とはほど遠いものだと思います。
『守護国家論』から『災難興起由来』までの日蓮聖人の出家観というのは、出家受戒で「十二部経壊欲界煩悩獲得四禅定」を得る、しかし、悪知識(外道・選択集)によって出家は諸々の衆生を道連れにして地獄に堕ちる、そうならないために法華・涅槃に拠らなければならない、法を壊る者は弾劾し、呵責・駈遣・挙処しなければ仏法中怨・すれば真の声聞であるという二者択一論で徹底されていることが窺われます。
現代の日蓮門下の坊さんでこうした様を示すのは石山ぐらいで、門下一般では、問答さんが仰るような良識に沿って、社会化しているように思えます。
昭和30年代の創価学会、現代の顕正会、妙観講などの過激な様は、こうした有様と大いにダブりますが、しかし、一点、ずれていると思うのは、ここで日蓮聖人が取りまとめている考えは「出家」についてであるということです。
いわば、出家は在家化・在家は出家化のような倒錯が近代から現代にかけて日本仏教に起きているように思えます。
まずは『立正安国論』前まで、俯瞰できました。
14
:
らん 987
:2008/10/24(金) 21:40:58
横から 、ドーモ、、 します、、。 12、、問答名人さんの 言 言 には、、?? です、、。
貴方の、、言
では 、日蓮 さん をも、「、否定、、〜、、却下、、」、、に、、通じる かも ??
15
:
犀角独歩
:2008/10/25(土) 08:21:54
問答名人さん
『立正安国論』ですが、このテーマは、もちろん、念仏の停止(ちょうじ)であり、法然・選択・念仏をする僧を悪、法華涅槃によると善という二者択一によって論が展開されています。
しかし、そこで根拠とされる僧侶(出家・比丘)の善悪は、法華涅槃(善)と阿弥陀(悪)によってない点を指摘できます。
仏法における僧という視点から考えるとき、この前提となる、つまり、日蓮聖人が根拠として引用する経釈のほうにこそ、本来の僧侶の在り方を示すエッセンスがあると、わたしは読みます。
ややこしいので、もう少し書きます。
・経釈には僧侶(比丘)の善悪をいう
・・・持戒比丘:破戒比丘=善:悪
・・・壊法比丘:持法比丘=善:悪
・日蓮聖人は経釈でいう僧侶の善悪二分説は
・・法華涅槃僧:阿弥陀僧=善:悪
これはレトリックではないですか。
本来の経釈は、おおむね破戒・持戒、もしくは壊法・持法という点で比丘(僧)の善悪を決判しているのです。
ところが、『守護国家論』以来、もちろん『立正安国論」における善悪の分別は“戒”ではなく、のちにいう“権実相待”にあることが窺えます。
ここでは、たぶん、釈迦(仏)・法華涅槃(法)を捨てさせる行為が「壊法」に当たるという思慮がはたらいているのでしょう。しかし、権教(阿弥陀)であるといっても、それを捨てさせることは、択一論から離れれば、論法としては一緒なのであって、壊法に当たらないのかという疑問が残ります。
経典を一切釈迦の所説とすれば、阿弥陀といえども釈迦の説ですから、これを捨てることは壊法、破戒に違いありませんか。
たぶん、日蓮聖人その人に遡源できるこの二者択一論と、それによって導き出される法華涅槃持者が善僧・聖僧・聖人であるという「日蓮の僧侶観」は、従前の僧侶観と、かなり隔絶があると思えるのです。
この点について、問答さんのご意見を承りたいと思います。
§
○以下、主な『立正安国論』にみられる出家、比丘、僧・侶の記述
夫出家而入道者依法而期仏也
爾時多有為飢餓故発心出家 如是之人名為禿人 是禿人輩見護持正法駈逐令出若殺若害
是故我今聴持戒人依諸白衣持刀杖者以為伴侶 雖持刀杖我説是等名曰持戒。雖持刀杖不応断命
正法滅後於像法中当有比丘 似像持律少読誦経貪嗜飲食長養其身雖著袈裟猶如猟師細視徐行如猫伺鼠
涅槃経云若善比丘見壊法者置不呵責駈遣挙処当知是人仏法中怨 若能駈遣呵責挙処是我弟子真声聞也 余雖不為善比丘之身為遁仏法中怨之責唯撮大綱粗示一端
持戒比丘 名曰覚徳
主人喩曰仏閣連甍経蔵並軒僧者如竹葦侶者似稻麻
客猶憤曰明王因天地而成化聖人察理非而治世 世上之僧侶者天下之所帰也
於悪侶者明王不可信 非聖人者賢哲不可仰 今以賢聖之尊重則知龍象之不軽 何吐妄言強成誹謗。以誰人謂悪比丘哉
是非破仏哉 是非破法哉 是非破僧哉 此邪義則依選択也
早止一闡提之施永致衆僧尼之供収仏海之白浪截法山之緑林世成羲農之世国為唐虞之国 然後斟酌法水浅深崇重仏家之棟梁矣
16
:
問答迷人
:2008/10/25(土) 08:55:19
犀角独歩さん
らん 987 さん
>法華涅槃僧:阿弥陀僧=善:悪
この間の一番の問題点は、「法華涅槃」として、法華経と涅槃経を一括りにしてしまうことではないかと思います。確かに天台の五時教判では、法華涅槃時とされましたが、法華経と涅槃経は極めて内容が異質だと感じます。法華経に存在しない「呵責・駈遣・挙処」と論理をあたかも法華の説の如くに捉えてしまう事はおかしいと思います。
「お前は日蓮聖人に異を唱えるのか」とお叱りを受けましたが、それでもやはりおかしいものはおかしいと思います。
法華僧:阿弥陀僧=善:悪
これなら、法華経に「四十余年未顕真実」との文が有る訳ですから、日蓮聖人の法華経至上主義に合致すると思います。
17
:
犀角独歩
:2008/10/25(土) 09:50:02
問答名人さん
わたしも天台学において、法華と涅槃を一括りにする教学的な態度には反対です。また、仰るように「四十余年未顕真実」、また、「已今当三説」「正直捨方便」といった漢訳から導き出されることが法華至上主義となるという視点にも賛同します。
ただし、日蓮聖人のこうした至上主義、換言すれば、勝劣・善悪選択論は、結局のところ、法然『選択集』のロジックである選択論の影響を受けていないのかという観察はします。
つづきは、また、あとで記させていただきます。
18
:
問答迷人
:2008/10/25(土) 13:46:44
犀角独歩さん
阿弥陀仏しか救われる道は無いとして、阿弥陀仏以外の全ての神仏を投げ打て、という思想と、法華経以外に救われる道は無いとする法華経至上主義は形の上ではそっくりですね。強く影響を受けていると思われます。
しかも、法然の選択集の「捨・閉・閣・抛」に対抗して、涅槃経の「呵責・駈遣・挙処」を持ち出したのだと思います。
19
:
マターリ
:2008/10/26(日) 21:51:43
ご無沙汰しております。
日蓮聖人の僧侶観についてです。伝記や御書を読んだ印象では、僧侶と在
俗信徒の区別があまり無かったように思います。僧俗一体という印象です。
しかし、永眠する前に遺言として、次のように言っています。
1.日昭・日朗をはじめ六老僧が中心となり、教団の運営にあたること。
2.自分の墓を9ヵ年、住み慣れた身延山中に設けてほしいこと。
3.年少の弟子、平賀経一丸(当時14歳、後の日像)を成人後、京都布教に
赴かせること。(引用:日蓮の謎・百瀬明治)
これをみると、日蓮聖人は、本当の弟子を「僧侶」と考えていたと想像され
ます。やはり俗を捨てた僧侶でないと、身命を捨てるような徹底した信心
ができないと考えていたのではないでしょうか?
四条金吾・富木五郎・太田金吾・曽谷左衛門尉・工藤吉隆・池上宗仲・
波木井六郎など、多くの武士が在俗信徒として、日蓮教団を華々しく飾っ
ています。
しかし日蓮聖人は、真の核たる人々を、僧侶と考えていたと思います。
20
:
犀角独歩
:2008/10/27(月) 00:08:37
マターリさん
お久しぶりですね。
僧俗一体ってなんですか?
こんな言葉は、大石寺の標語ぐらいでしか、聞いたことがありません。
日蓮が弟子は出家ということですが、それは当たり前だと思うのですが。
あと、お書きになったことで、考証から一つ漏れていることがあります。日蓮の時代は「入道」がありました。
> 真の核たる人々を、僧侶と考えていた
これは、そのとおりですが、「入道」である富木さんなんかは、出家の弟子以上に重視していたかも知れません。
21
:
マターリ
:2008/10/27(月) 07:54:58
>犀角独歩さん、ちょっと学会用語が出てしまい、すみません。
伝記や御書を読んだ印象ですと、日蓮聖人は僧侶・在俗信徒の区別なく接
していたように感じます。
また、当時の日蓮教団には寺院が無かったこともあり、僧侶と在俗信徒は、
身分の上下差別無く平等に信仰生活を送っていたのでは、と思います。
>「入道」である富木さんなんかは、出家の弟子以上に重視していたか
も知れません。
そうですね。富木さんはその後、日常と名乗り、中山門流を形成しまし
たね。
遺言だけから判断してはいけないと思いました。勉強が足りず失礼しま
した。
22
:
犀角独歩
:2008/10/27(月) 19:14:01
マターリさん
いやいや、対等な議論の場です。謝罪の必要は何もありません。
> 僧俗一体
たしかに富要を検索しても見られませんし、かつての「日蓮正宗創価学会」では使われていた言葉ですね。ただし、近代以降、石山でも、よく使われる言葉です。
> 信徒
この語彙ですが、真蹟遺文のなかでこの使用はありません。
「信者」は、分類C断片存『四條金吾殿女房御返事』に「さゑもんどのは俗のなかには日本にかたをならぶべき物もなき法華経の信者なり」と1カ所あるのみです。
たぶん、マターリさんは檀那と信徒を区別なくお考えではないかと推測しますが如何ですか。「檀那」は、多用されています。
檀那と信徒は違います。前者は、供養する人であり、後者は単に信じている人々です。「弟子檀那」という括りは、出家弟子と供養する檀那に入道を加えた意味であり、ここに確たる区別があるからこそ、弟子と檀那を分けて書いているのではないでしょうか。
単に信じている人々は、消息文などが供養への返礼状であるという性質からして、対象外になっていると思えます。
区別差別といったことでこれらを論じる必要はないと思いますが、出家・在家の区別はもちろん存していたと思います。
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