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近現代史綜合スレ

1とはずがたり:2004/01/15(木) 18:45
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutu.htm
近代史の人物に関するデータベース

http://sound.jp/jyosyuu/gunkayougokaisetu.htm
軍歌用語解説

戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html

吸収したスレは>>2-6あたり。

2とはずがたり:2004/01/15(木) 18:45
http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1046858414.html
大東亜戦争
1 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/03/05(水) 19:00

大東亜戦争を史実を元に冷静に検証してみましょう。
主に
大東亜戦争開戦日(昭和十六年十二月八日)
から
サンフランシスコ講和条約発効日(昭和二十七年四月二十八日)
まで
の大東亜戦争そしてGHQの占領政策を分析してみましょう。
大東亜戦争から話題がそれても構いませんが、
大東亜戦争が話題の中心であることを忘れず
大日本帝国憲法施行日(明治二十三年十一月二十九日)
から
サンフランシスコ講和条約発効日(昭和二十七年四月二十八日)
まで
のことを話してください。

3とはずがたり:2004/01/15(木) 18:46
http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1071296674.html
旧日本領再考
1 名前: 日帝極右保守反動分子 投稿日: 2003/12/13(土) 15:24

旧日本領である
台湾、南樺太、朝鮮、南洋諸島などに
におけるかつての日本人の足跡を辿ってみましょう。

4とはずがたり:2004/01/15(木) 18:46

http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1071297789.html
満洲研究
1 名前: 日帝極右保守反動分子 投稿日: 2003/12/13(土) 15:43

満洲に関するスレッドです。
満洲に関する話題でしたら
高句麗からの歴代王朝、満洲国、満鉄、中国東北三省の現状
に関することなどなど何でも構いません。
満洲は古くは高句麗、近代では満州国と
日本と非常に縁のある地域です。
そんな満洲について皆さんで語ってみませんか?

5おりーぶの木:2004/01/15(木) 18:46
スレ立て乙でつ。
新撰組が始まりましたので幕末ものを改めて読もうと思っている今日このごろ。

6とはずがたり:2004/01/15(木) 18:46

http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1041730592.html
戦後の日本歴代政権の評価
1 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/05(日) 10:36

サンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復した
昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日以降の
日本歴代政権の政治を評価してみましょう。
ただし現政権は除きます。

8 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/13(月) 17:49
確認

吉田茂内閣 昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日から昭和二十九年十二月十日まで
鳩山一郎内閣 昭和二十九年十二月十日から昭和三十一年十二月二十三日まで
石橋湛山内閣 昭和三十一年十二月二十三日から昭和三十二年二月二十五日まで
岸信介内閣 昭和三十二年二月二十五日から昭和三十五年七月十九日まで
池田勇人内閣 昭和三十五年七月十九日から昭和三十九年十一月九日まで
佐藤榮作内閣 昭和三十九年十一月九日から昭和四十七年七月七日まで
田中角榮内閣 昭和四十七年七月七日から昭和四十九年十二月九日まで
三木武夫内閣 昭和四十九年十二月九日から昭和五十一年十二月二十四日まで
福田赳夫内閣 昭和五十一年十二月二十四日から昭和五十三年十二月七日まで
大平正芳内閣 昭和五十三年十二月七日から昭和五十五年七月十七日まで
鈴木善幸内閣 昭和五十五年七月十七日から昭和五十七年十一月二十七日まで
中曽根康弘内閣 昭和五十七年十一月二十七日から昭和六十二年十一月六日まで
竹下登内閣 昭和六十二年十一月六日から平成元年(一九八九年)六月三日まで
宇野宗佑内閣 平成元年六月三日から平成元年八月十日まで
海部俊樹内閣 平成元年八月十日から平成三年十一月五日まで
宮沢喜一内閣 平成三年十一月五日から平成五年八月九日まで
細川護煕内閣 平成五年八月九日から平成六年四月二十八日まで
羽田孜内閣 平成六年四月二十八日から平成六年六月三十日まで
村山富市内閣 平成六年六月三十日から平成八年一月十一日まで
橋本龍太郎内閣 平成八年一月十一日から平成十年七月三十日まで
小渕恵三内閣 平成十年七月三十日から平成十二年四月五日まで
  森喜朗内閣 平成十二年四月五日から平成十三年四月二十六日まで

7とはずがたり:2004/01/15(木) 18:49
その他の関連スレッド

第四十回衆院選後の政局を振り返る
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1039260401/l30

大日本帝国憲法改正新憲法制定
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1042000975/l30

8とはずがたり:2004/01/15(木) 18:52
>>5
幕末の激動から帝国主義,現代史と面白い話題は満載なのに余り盛り上がらないので統一スレッドを建てました。
『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』でも読んでみようかなあ。

9おりーぶの木:2004/01/15(木) 19:09
>>8
「世に棲む日々」をまだ読了してないのでそれを読もうかなあと思ってます。

10とはずがたり:2004/01/15(木) 19:14
恥ずかしながら司馬遼太郎,なぜか(メジャー過ぎてかな?)まだ一冊も読んでないのです…。

時間が出来たら読んでみたいがどの辺から読んだらいいかな?

11おりーぶの木:2004/01/15(木) 19:30
>>10
やっぱ「竜馬が往く」でしょう。基本ですね。「関が原」もイイッすよ。

12とはずがたり:2004/01/16(金) 17:39
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1068688996/288
>1947年に日本進歩党が民主党(芦田均、犬養健ら)に衣替えしたときは、
>市場原理を重視する「日本自由党」と、弱者救済のために市場への国家介入を主張する「民主党」という、
>当時の感覚では保守右派と保守左派、今日で言う保守とリベラルに対応する分類になっていました。

この辺の話しですな。

(1945頃)   (1947-8頃) (1950)   (1952)  (1954)    (1955)       
日本自由党─┬民主自由党─自由党─────────┬─┬┐
______↓___↑___________日本自由党┤├自由民主党―→
日本進歩党―民主党─┴─国民民主党─改進党─日本民主党┴┘
_____________↑
日本協同党─国民協同党──┘

民主党
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jiten.html#minsyutou
民主党は「進歩党で、幣原総裁に批判的な若手議員らを中心に、自由党内で吉田首相と対立していた芦田均を引き抜く形での新党結成が計画され、1947年3月31日、進歩党を母体に、自由党離党の芦田らに国民協同党や無所属の議員も加えて結成。修正資本主義的な中道政党の立場をとった」

民主自由党
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jiten.html#minjitou
1948年3月15日、日本自由党①119名と民主党①を離党した幣原派らで作る民主クラブ36名、無所属その他4名が合同して結成(翌日6名脱党)。

13憲政擁護者:2004/01/17(土) 14:24
>>12
おお、早速こちらに議論を移して下さいましたか!まさしくその辺の話です。
反吉田派保守政党については、民主党スレからの以下のコピペをご参照下さい。

>仰る通り、大日本政治会系政治家が集った日本進歩党(1945-47)、戦前派政治家が復帰して生まれた改進党(1952-54)、
>脱吉田路線を掲げた日本民主党(1954-55)は、国家主義的傾向が見られました。
>しかし、進歩党は戦前派政治家の大量公職追放で壊滅的打撃を受けたため、路線転換を図り、
>後継政党たる民主党(1947-50)、及び国民協同党との合同で生まれた国民民主党(1950-52)は保守中道路線だったのです。
>また、立憲政友会と立憲民政党が政権を争った昭和初期は、むしろ政友会が国家主義的で、民政党が国際協調派でしたね。

14とはずがたり:2004/01/17(土) 15:34
上の議論の引用とかの便もありますし一応民主党スレで議論は続けましょうか。
向こうでの議論が一段落したらこっちへリンク貼っつけときます。

15憲政擁護者:2004/01/18(日) 11:21
民主党スレの戦後史論も、第2保守党から吉田茂個人の話に移っています。
そこで、こちらで吉田の話をしたいと思います。

吉田は根っからの自由主義者であり、自由主義路線こそが日本の政治・外交の進むべき道と確信していました。
国際協調と自由貿易を進めることにより、世界や日本自身の発展を導くことができる、という訳です。
また、吉田は自由主義の強い英米との協調によってこそ、日本の自由主義が達成されると考えていました。
それ故に戦前は日英同盟の復活を熱望し、戦後は首相として日米安保条約を締結したのです。
とはいえ、決して米国追従の政治・外交を志向していたわけではありません。
現に首相在任中、GHQとは何度も渡り合っています。

吉田は自由主義者として、極右・極左両方の全体主義を毛嫌いしていました。
戦時中に終戦工作をして憲兵に捕まったり、マッカーシー旋風に併せて共産党幹部を公職追放したのです。
因みに、吉田は広田弘毅内閣で外相に起用される予定が、自由主義者故に軍部に話を潰されました。

ただ、吉田は自由主義者ではあっても、議会軽視と批判されるなど、民主主義者ではなかったと言われています。
古典的な自由主義者として、「民主政治は無知蒙昧な大衆による衆愚政治を招く」と考えていたようです。
ですから、吉田を「自由主義者」ではなく「リベラリスト」と書くと、今日の感覚では間違っていることになります。
またそれ故にエリート嗜好で、池田勇人や佐藤栄作に代表される官僚を次々と議会に送り込んで登用し、
大衆迎合的で政治理念がないとして戦前派党人政治家をこよなく嫌っていました。
因みに、河野一郎が吉田に嫌われた筆頭格でしたが、孫の麻生太郎が河野の息子・洋平の側近となったのは皮肉ですね。

一方で吉田は明治人の気風を持ち、日本の伝統を愛する民族主義者でもありました。
これは実父が土佐藩士で自由民権運動に携わったことと、大久保利通の次男・牧野伸顕が岳父だったことが影響しています。

吉田はよく、「軽武装経済優先路線」を築いたと言われますが、吉田本人の意図は違ったといわれています。
つまり、日本に共産主義革命が起こらない様にするために、当面は民生の安定が最優先であり、再軍備の余裕はないが、
それ相応の経済力を持つに至った場合には、専守防衛のための軍隊を持つべきである、と考えていたようです。
これは数々の国会答弁では触れていないので、そういう誤解も無理ないでしょう。

因みに私の思想は、吉田茂に関する著作を読み漁ったことが大いに影響しています。

16とはずがたり:2004/01/18(日) 11:37
> 国際協調と自由貿易を進めることにより、世界や日本自身の発展を導くことができる、という訳です。
まあこの辺は賛成ですね。経済繁栄すればこその弱者救済も可能と思ってますので,自分の中で左翼と自由競争は矛盾しません。

民主政治が衆愚政治に堕する危険もよく理解できますが(ばらまきの自民党政治がだらだら続く様はまさに),有権者の見識を期待しております。

17憲政擁護者:2004/01/19(月) 00:54
>>16
これは「参加民主政治論」の受け売りですが、
有権者の見識というのは、やはり政治参加の教育効果によって得られるものだと思います。
しかし、専門知識の多い国政レベルでの直接的政治参加には難があるので、
生活に身近で、一般有権者の判断し易い、基礎自治体レベルから始めるべきでしょう。
戦後日本は民主化が進んだと言っても、まだまだこの点で遅れていると思います。

18とはずがたり:2004/03/04(木) 21:23
http://www2.asahi.com/senkyo2003/localnews/kagawa/OSK200310140025.html
《検証 香川の総選挙史:上》小選挙区制で「自民王国」

 香川は、3つある衆議院小選挙区を自民が独占し、他党の国会議員がいない「自民王国」だ。しかし、かつて70年代には、県知事と高松市長が「革新」で、野党勢力を勢いづかせていた。どこにターニングポイントがあったのか。政権交代を問うといわれる今回の総選挙を前に、香川の選挙史を振り返る。まずは革新の動きから。

 「前川さんをかつぎ出した社会、共産、公明、民社各党幹部のどの顔もゆるみっ放し。そこへかけつけた革新の脇信男・高松市長と『新しい地方政治をやろう』とがっちり握手した」(74年8月27日付朝日新聞)

 元香川大学長の故前川忠夫氏(09〜88年)は野党4党に推され、この年の知事選で7選を目指す現職を破って初当選した。

 元社会党衆院議員の三野優美(よしみ)さん(72)は振り返る。「このころは『政権が取れる』という情熱にあふれていた」

 この時代、香川の革新の「看板」は、三野さんが秘書としてつかえた故成田知巳氏(12〜79年)だ。香川郡多肥村(現高松市多肥上町)生まれ。東大から三井鉱山などを経て、47年に旧香川1区で初当選。以後76年まで12回連続当選し、社会党委員長に上り詰めた。

 故脇信男氏(19〜97年)は、成田氏の秘書から高松市長になった。71年に社共共闘で初当選し、連続6期。全国革新市長会長も務めた。

 前川氏の知事当選は、脇氏の初当選から3年後のこと。「社会・公明・共産・民社」の4党共闘は当時でも珍しかった。以来3期12年、憲法擁護を看板に掲げて県政を担った。

 81年9月の朝日新聞に掲載された「新人国記」で、前川氏は「香川の革新の強さ」をこう語った。「琴平などは早くから全国の人が集まって都会化し、進歩的な人が多かった。農民運動も昔から盛んだった」。こんぴらさんに代表される「都会」としての活気が、革新を支えたという見方だ。

 それがなぜ、30年の時間の中で「自民王国」に変貌(へんぼう)したのか。

 三野さんは「小選挙区制のためだ」と憤る。三野さんは86年、90年、93年と旧香川1区で3期連続当選し、成田氏以来の社会党の議席を守った。

 しかし、与党となった細川政権時代の94年1月、小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革4法が成立。三野さんは党議に従わず、本会議で反対票を投じたが、流れは変わらなかった。

 一方、共産党県委員会の田村守男委員長(54)は「最初は『反自民』で県政をつくったのに、前川さんの引退後、社会党は自民と手を握った」と社会党を批判する。

 政権が取れると思った時代に取れず、取ったと思えば流れが急転する。自社さ政権が誕生すると、社会党は衰退。96年の選挙で、自民が香川の3小選挙区を独占。その時、社民党(旧社会党)は、四国全体で議席を失っていた。
 (10/12)

19とはずがたり:2004/03/04(木) 21:23
http://www2.asahi.com/senkyo2003/localnews/kagawa/OSK200310150039.html
《検証 香川の総選挙史:下》「大物」消えて調整の時代

 香川の革新・中道勢力は、成田知巳氏や、旧民社党を結成した西尾末広氏(1891〜1981)らを生んだ。

 一方で保守勢力も、総選挙中に急死した総理大平正芳氏(10〜80年)や、保守合同による自民党誕生に一役かった三木武吉氏(1884〜1956)といったそうそうたる面々が活躍した。

 しかし、こうした重鎮が舞台を去った80年代以降、政党や派閥の「大物」は生まれていないといっていい。

 「最近、口角泡を飛ばしておらぶ(叫ぶ)ような演説会がなくなったね。候補者に熱意がなくなった」。自民党県連の木村嘉己幹事長(74)は、そう話す。「落ちる心配がないからかな」という声もある。

 中選挙区時代、旧香川1区は成田知巳氏が長い間議席を確保。残る2議席を自民の木村武千代、福家俊一、藤本孝雄の3氏が激しく争う時代が続いた。旧2区も、70年代の初めごろまで福田繁芳、加藤常太郎、大平正芳の3氏によるつばぜり合いが展開されていた。

 総選挙となれば「自民の敵は自民」。自民の県議でも、代議士の系列が違うと選挙中は口をきかないとまでいわれた。その激しさが大物を生む素地にもつながった、と木村氏は言う。

 しかし、1選挙区で1人しか当選しない小選挙区制度が導入されると、選挙前の調整で「勝負」がつくようになった。旧2区でライバルだった大野功統氏(67)と森田一氏(69)は、森田氏が比例ブロックに回ることで折り合いがついた。前回、無所属で出馬した平井卓也氏(45)と現職藤本孝雄氏(72)の争いも、平井氏が当選して自民入り後、藤本氏が比例に回って収まった。

 この安定感をどう崩すか。近づく解散に備え始めていた連合香川の幹部はこの6日朝、新聞各紙を読み比べて顔をしかめた。「民主・自由の合併大会」が1面トップと思ったのに、若い石原国交相の「道路公団総裁を更迭」に押しのけられていた。幹部はうなった。「小泉内閣はうまい」

 小選挙区制は、中選挙区制よりも政権交代の可能制が高まるともいわれる。その中では、政治家個人よりも政党のイメージをどうアピールするかが重要な鍵を握る。

 一方で、「個」が政治に大きな波紋を投げかけるケースが地方から起きてもいる。そのひとり、田中康夫・長野県知事は民主党の立候補予定者を応援するため訪れた高松市で講演し、こう話した。

 「小異を捨てて大同につくという言葉がある。私はこれはあまり好きじゃない。小異を捨てる必要はない。小異を抱えながらも大同につくっていうことです。それは自分を捨てるってことじゃないです」
 (10/13)

20とはずがたり:2004/06/21(月) 02:00
杉原千畝記念館入館10万人!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040620-00000007-cnc-l21

八百津町八百津の「杉原千畝記念館」の有料入館者数が19日、10万人を突破し、10万人目の愛知県の男性と前後の2人に、記念品が贈られた。開館4周年を前にしての達成となった。

 記念館は、第2次大戦中に“命のビザ”を発給して多くのユダヤ人を救った同町出身の外交官・故杉原千畝氏の功績を伝えようと、2000年7月に開館。ビザや写真、肉声テープなどを展示している。

 10万人目となったのは、愛知県半田市の無職古川正春さん(92)。1人前は、三重県鈴鹿市の主婦豊田久乃さん(30)、10万1人目は名古屋市の会社役員桑原恵子さん(65)。

 赤塚新吾町長らと一緒に記念館前でくす玉を割って節目を祝した後、記念品として八百津せんべいやみそ漬けなど町特産品のセットが贈られた。古川さんは、「杉原さんの足跡を以前から見てみたいと思っていた。(10万人目となって)感無量です」と喜んでいた。

 町によると、最近は県内や愛知県の中学や高校の見学も多く、イスラエルからの来館者も増えているという。(中日新聞)
[6月20日11時24分更新]

21とはずがたり:2004/07/05(月) 20:50
下山事件で浮上、「ライカビル」解体 姿消す戦後史舞台
http://www.asahi.com/national/update/0705/019.html

 昭和史上最大の謎とされる下山事件が5日で55年を迎えた。連合国軍総司令部(GHQ)直属の日本人情報機関のアジトがあった通称「ライカビル」(東京都中央区日本橋室町3丁目)の解体作業が始まった。米軍将校や右翼関係者が出入りし、同事件の「謀略の拠点」として当時の東京地検も注目した。自他殺の結論が出ないまま半世紀がすぎて老朽化が進み、「戦後裏面史の証人」は姿を消す。

 戦前から残るビルはれんが壁の5階建て。「日本に3台しかない」と記された蛇腹式扉のエレベーターのほか、4階に巨大な金庫もあった。石造りの階段の床面はすり減っていた。

 事件が起きた1949年当時、1階にカメラのライカを取り扱うシュミット商会があり、「ライカビル」と呼ばれた。2〜4階は貿易会社「亜細亜産業」。GHQ直属の謀略機関「キャノン機関」につながる日本人情報機関の役割を担った、とも言われる。

 事件のあった7月5日午前9時半すぎ、国鉄総裁の下山定則氏が消息を絶った三越はビルの南約200メートル。ビル隣の建物にある地下鉄出入り口は地下道で三越につながっており、疑惑を深めた。

 下山総裁は翌日未明、足立区内の常磐線の線路上で轢死(れきし)体で発見された。衣類にぬか油と塩基性の特殊な染料が付いていた。朝日新聞が入手した東京地検の内部資料には、東京工業薬品染料協同組合名簿から63社がリストアップされ、ライカビルだけ「×」印があった。

 キャノン機関ナンバー2で米バージニア州に住むビクター松井氏(当時76)は99年秋、朝日新聞の取材に「キャノン機関は事件にはかかわっていないが、私もライカビルへは出入りした。右翼や大陸浪人、GHQ関係者らが交わるサロンのような存在で、キャノン専用の小部屋もあった」と証言していた。

 亜細亜産業は東南アジアから生ゴムを密輸したり、北朝鮮との密貿易で共産圏の情報を収集したりしていたという。同社は事件後に閉鎖され、社長は98年に死亡した。

 庶務課長を務めたことがある社長の弟(83)は「兄がどういう仕事をしていたかは知らない。ビルが取り壊されるのは寂しいけど、歴史ということだね」と話す。

 昨年、ビルを購入した不動産会社は「昭和史の裏舞台だったとは知らなかった。レトロな雰囲気にひかれたが、老朽化が激しかった」。6月下旬から解体を始めた。再開発計画は白紙だ。

 〈下山事件〉 国鉄が約3万人の人員整理を発表した翌日の1949年7月5日、下山定則・初代国鉄総裁が自宅を出たあと、東京・日本橋の三越に入ったまま行方不明になった。翌6日午前0時20分ごろ、足立区の五反野付近の国鉄常磐線北千住―綾瀬間の線路で遺体で発見された。東大の鑑定は「死後轢断」と他殺説の根拠となる結果を出した。しかし自殺説の根拠となる「生体轢断」との主張も他の法医学者から出され、米情報機関による謀略説も取りざたされた。 (07/05 16:04)

22とはずがたり:2004/08/06(金) 01:02

おいおい。凄いねぇ。血盟団事件ってのはまだ現代史なんか?!

歴代首相指南役、四元義隆氏が死去…血盟団事件で服役
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040805-00000512-yom-soci

 戦後、歴代首相の指南役と言われた四元義隆(よつもと・よしたか)元三幸建設工業社長が6月28日、老衰のため、神奈川県鎌倉市内の病院で死去していたことが5日、わかった。96歳だった。

 告別式はすでに、親族だけで済ませた。

 四元・元社長は、東大在学中の1932年、井上準之助・元蔵相らが暗殺された「血盟団事件」にかかわったとして、殺人罪で実刑判決を受けて服役。その後、近衛文麿、鈴木貫太郎両元首相らの秘書を務めて政界とのつながりを持ち、戦後、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作ら歴代首相と親交があった。中曽根康弘・元首相の在任中には「ご意見番」と呼ばれ、その後も、政治の舞台裏で活躍した。

 55年に三幸建設工業(東京都中央区)の社長に就任。2000年から会長となり、昨年4月に退任した。(読売新聞)
[8月5日21時53分更新]

23さむらい:2004/08/16(月) 23:38
戦後の日本は日本国憲法に守られたのではありません。
自衛隊、在日米軍、日米安保、
核の傘
つまりもし他国が日本を攻撃したら
アメリカは核(在日米軍基地に恐らく配備されているであろう核)を
使うかもしれないぞというプレッシャー
があったからこそ守られたのです。
実際これらの力の空白の生じた
南樺太、千島列島、歯舞諸島、色丹島、竹島
も侵略されてそのままになってますしね。
(樺太、千島守備隊がいましたが一旦武装解除しましたし
 南樺太、千島列島、歯舞諸島、色丹島を守るという意味では
 大量のソ連軍には無力でしたからね。
 あれだけの軍隊あのような補給等の状態から
 ソ連軍の北海道上陸を阻止したことはすごいことだと思いますが。 )
確かに吉田茂の軽武装主義で国防費の負担が少なくなり
経済復興、経済発展を成し遂げましたが。

24とはずがたり:2004/08/26(木) 00:34
AFPが復活60周年 パリ解放5日前、奪還秘話を配信 
http://www.asahi.com/international/update/0823/006.html

 フランス通信社(AFP)が20日に「復活60周年」を迎えた。1944年8月の「パリ解放」5日前、ドイツ監視下にあった仏情報公社(OFI)を元記者らのレジスタンスが自力で奪い返した。

 AFPは、1835年にできた世界初の情報配信サービス業、アバス通信が前身。1940年にフランスを占領したドイツは同通信をOFIに改め、対独協力政権の宣伝メディアにした。

 AFPが18日に配信した「奪還秘話」によると、44年8月20日朝、アバス時代の社員ら約10人がパリのOFI本部に自転車で乗りつけ、内部に突入した。驚く10人ほどの編集部員を前に、演説を始めたのは実行グループの最年長で、後に初代社長となるマルシャル・ブルジョン氏だ。

 「動かないで。みなさんは今後、ドイツ人のためではなくフランスのために働くことになる」

 ドイツの検閲官をみんなで地下室に閉じ込め、この日を待ちわびていた新聞人たちに電話した。

 記念すべき初配信は同日午前11時30分。「自由な新聞が続々と生まれそうだ。フランス通信はそのために初の配信を始める」。記事はタイプで打たれ、レジスタンスや地下新聞の拠点に自転車で届けられた。AFPの名もこの時からだ。

 現在、165カ国に取材拠点を持ち、ロイター通信(英)やAP通信(米)と並ぶ大手。欧州のほか中東やアフリカなどに濃密な情報網を築いている。

(08/23 19:18)

26とはずがたり:2004/10/13(水) 17:21
あった無かったの水掛け論は不毛だと思うが…

抗議受け漫画休載 南京大虐殺めぐり集英社
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041013-00000094-kyodo-soci

 「週刊ヤングジャンプ」で連載中の漫画「国が燃える」(本宮ひろ志氏作)に登場した南京大虐殺の描写に対し、地方議員グループが「歴史を歪曲(わいきょく)している」と抗議したのを受け、発行元の集英社は13日、28日発売号から当分、この漫画を休載することを明らかにした。
 集英社は「描写の参考にした写真は『ねつ造された』との指摘もある。そういう資料を使ったのは不適切だった」としている。
 「国が燃える」は昭和初期の官僚の半生を描いたフィクションで、2002年11月から連載。9月16日発売号と22日発売号で、旧日本軍が南京で市民らを殺害する様子を描いた。
(共同通信) - 10月13日12時39分更新

27とはずがたり:2004/10/16(土) 12:21
大町に疎開の「木崎会」が最後の里帰り
http://mytown.asahi.com/nagano/news02.asp?kiji=4755

 第2次世界大戦末期に東京都世田谷区から大町市の木崎湖畔に疎開した児童でつくる「木崎会」(約80人)が結成20周年を迎え、32人の会員がこのほど、大町市などに12回目の「里帰り」をした。里帰りのたびに老人ホームへの慰問や祭りへの参加を続け、世田谷区の区民まつりに同市の特産品の出展を持ちかけるなど、自治体を結ぶ橋渡し役も果たしてきたが、会員の高齢化などを理由に会としての里帰りは今回が最後になるという。

 木崎湖畔には44年8月から45年11月にかけて、世田谷区の多聞、祖師谷、塚戸、砧の4国民学校の児童延べ500人近くが九つの民宿に分宿する形で疎開していた。木崎会は84年、「40年ぶりの里帰り」を機に発足し、おもに隔年で里帰りを続けてきた。

 里帰りのたびに、「当時お世話になった感謝の気持ちを表そう」と、市内の養護老人ホーム「鹿島荘」を慰問し、寄付金を贈ったり、会員がダンスを披露したりするなどして交流を進めてきた。寄宿先の民宿は代替わりがあるものの、同世代の経営者やおかみさんたちと旧交を温めている。

 先月末の2泊3日の里帰りでは、結成当初の高橋恭男元市長や市幹部らを招いて、湖畔の温泉施設で20周年記念パーティーを開いた。席上、腰原愛正市長から「市と区の橋渡し役に尽くした」などとして、感謝状などが贈られた。45年5月から第3次の疎開先になった北安曇郡白馬村の旧神城国民学校(現白馬南小学校)なども巡った。

 会は、当時の6年生らが中心になって結成され、70歳前後の人たちがほとんどという。会長の阪上順夫・東京学芸大名誉教授(72)は「私たちもいつの間にか老人ホームにお世話になる世代になった。会としては最後だが、元気な者同士、声を掛け合って里帰りを続け、区と市の交流も続いてほしい」と話した。

 疎開当時、砧国民学校5年生だった浜砂和子さん(70)は「冬に軒先のつららがどんどん大きくなるのにびっくり。ガラス戸のない破れ障子から吹き込む風が冷たかったけど、全面結氷した湖面でげたスケートをしたり、氷がせり上がる御神渡り現象も見られたりして楽しかった」などと、思い出話に花を咲かせていた。

(10/15)

28とはずがたり:2004/10/17(日) 23:38
対米開戦通告の遅れ、最終電文修正が一因 元大使が新説

 昭和十六年の日米開戦で最後通告の手渡しが遅れたのは、軍部と外務省本省による工作があったからだとする研究報告が十六日の日本国際政治学会で発表された。真珠湾攻撃が米国から「だまし討ち」と非難された原因が、駐米日本大使館の怠慢にあったという通説の見直しを求めるもので、米大統領から昭和天皇にあてた親電を軍部と本省が差し止めて最終電文を修正したことが通告遅れにつながったと指摘している。
 兵庫県東浦町で開かれた同学会で、元ニュージーランド大使の井口武夫・尚美学園大教授(日本外交)が発表した。
 昭和天皇あてのルーズベルト大統領親電が東京電報局に届いたのは開戦直前の十六年十二月七日正午。井口氏は、親電の暗号が平易だったため午後三時ごろには、親電の解読を終了していたと推論。午後五時に、十四部構成のうち駐米日本大使館への打電が保留されていた最後通告部分の「十四部」を東京電報局から発電した。このため、「時間的には符合する」として、親電解読と最後通告修正の関連性が認められると指摘している。
 十四部は電文の十三部までが打電されたあとも本省で約十五時間保留されていたが、軍部の圧力を受けた本省が大統領親電を解読し、この内容を検討して十四部に修正を加える必要があったからだと初めて指摘。また軍部と本省が大統領親電を解読していた根拠として次の状況を挙げる。
 グルー駐日米大使が東郷茂徳外相に外相公邸で大統領親電を手渡したのは八日午前零時半。この後、東郷外相が首相公邸で昭和天皇への上奏文を東条英機首相に見せたのが午前二時。移動時間(十五分程度)を差し引けば、わずか一時間十五分で昭和天皇への上奏文を外相が決裁したことになる。井口氏は「事前に親電を解読し、要約を作成していたから可能だった」と推論する。
 大統領親電が一見和平を呼びかけながら仏印からの全面撤退を要求する強硬な内容だったため、軍部の開戦決意は一層不動のものになった、と井口氏は分析している。
 結局、十四部は原案で「合衆国政府が現在の態度を持続する限り今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず」と条件付きで交渉を打ち切る内容だったが「合衆国政府の態度にかんがみ今後交渉を…」と単刀直入に交渉を打ち切る文面に修正されていた。井口氏は「親電内容が判明した時点で修正を加えたもので最終的な通告の遅れにつながった」と指摘している。
 波多野澄雄筑波大教授(日本外交史)「軍部の圧力の有無は立証が不十分で、さらに検討が必要だ。ただ解読した大統領親電を最後通告の十四部に反映させた可能性は十分あり、通告遅れの責任を現地の日本大使館だけに押し付けるのは無理があろう」
(産経新聞) - 10月17日3時9分更新

29とはずがたり:2004/10/18(月) 19:52
>>28
ソース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041017-00000001-san-soci

30とはずがたり:2004/11/30(火) 23:11
宮崎の人でしたか。

小村寿太郎しのび、墓前祭−−日南 /宮崎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041130-00000165-mailo-l45

 日南市飫肥出身の外交官、小村寿太郎(1855〜1911)の命日の26日、同市楠原の墓地で墓前祭(小村寿太郎侯奉賛会主催)があった。市や地元関係者、遺族ら約20人が墓前に玉ぐしを供え、「誠(まこと)の人」の遺徳をしのんだ。
 来年は小村寿太郎の生誕150年、小村が日本全権を務めた日露講和条約締結100年。市や県、民間で各種の記念事業が計画されている。遺族の小村幸子さん(75)=飫肥2=は「侯の誠、正直を子供たちに伝える機会になれば」と話した。

11月30日朝刊 
(毎日新聞) - 11月30日17時50分更新

32とはずがたり:2004/12/08(水) 19:08
ほう,これは興味深い。>>31
個人的に更新による情報散逸は悲しむべきものだと思ってましたから。HPは基本的に雑誌みたいなものだし読み捨ての部分も大きいけど図書館は一部の雑誌はちゃんと保存の対象にしてますしねぇ。
「選挙でGO」の過去の履歴などどっかに全部残しといて欲しいものでした。

あとスレ違い等は余り気にせず書き込んで下さいな。俺が適当なところに貼り付け直したりしますし。

33とはずがたり:2004/12/14(火) 15:08
旧三井御三家だけに新御三家,物産・銀行・不動産辺りがカネ出すべきか?

「三井港倶楽部」が閉館 炭都繁栄の象徴 所有の三井鉱山 売却先募る 大牟田市
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041214-00000075-nnp-kyu

 産業再生機構の支援を受けて再生中の三井鉱山(本社東京)は十四日、福岡県大牟田市西港町に所有する明治建築の洋館「三井港倶楽部(くらぶ)」を売却したい考えを明らかにした。港倶楽部は三池港に出入りする外国航路の上級船員の宿泊所として建てられ、三池炭鉱で栄えた「炭都」の歴史を今に伝える建物。九州を代表する洋館でもある。現在、同社は結婚式場やレストランとして活用しているが、営業は二十五日で終了する。「現在の形のまま維持してくれるところがあれば」と引き受け手を募っている。

 港倶楽部は一九〇八(明治四十一)年に建てられ、三池炭鉱の主力坑・三川鉱の東隣に位置する。木造二階建てで、木組みの幾何学模様が白い外壁を飾る「ハーフティンバー」様式が特徴。三井系企業の社交場としても使われ、かつてはビリヤード室やボーイ部屋もあった。

 三井鉱山は昨年、同機構の支援が決まって以来、石炭やコークスの輸入販売・製造など主力事業以外の業務の整理に着手。今年八月には港倶楽部を管理運営してきた子会社の株式を売却し、倶楽部の経営は三井鉱山が行ってきた。倶楽部の営業は二十五日のランチが最後となる。

 同社は「社内でも閉館を惜しむ声は強い。公共性と歴史のある建物として今後も活用してほしい」と話している。
(西日本新聞) - 12月14日14時32分更新

34とはずがたり:2004/12/15(水) 12:36
こんなページみっけた。

昭和の注目の選挙区
http://www.geocities.jp/showahistory/history3/58e.html

35とはずがたり:2004/12/15(水) 14:52
こんなページも
むしろ面白かったのは筆保書記長の本音トークの部分。

救国のキリストか銀座のドンキホーテか
愛国党総裁 赤尾敏 24時間密着取材!
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/right1.htm

 しばらく、立ち話をした。私が、大喪の礼の日に見かけた金ピカ右翼の話をすると、「ああ、いいところに気づきましたね」と、腹にすえかねているものを吐き出すかのように、喋りはじめた。
 「今の右翼はもう、任侠右翼ばっかりですよ。ヤクザが右翼のふりをしている。だから、世間の右翼に対するイメージがどんどん悪くなっていく。真面目に政治活動やっているものが迷惑してるんです。だいたい、任侠の連中のやっていることは、要するに恐喝、ゆすりたかりだからね。街宣車買うと、頭金だけ払って残りは払わないし、マンションに事務所を構えると家賃を払わず、結局、大家がカネを積んで出ていってくれと頼むまでいすわる。そしてそのカネを握ると、その後もよそへ行ってまた同じことをやる」
 戦前の右翼と戦後の右翼を大きく分かつのは、一つは資金源の問題である。戦前は軍部と財閥が大きな資金源だった。戦後はそのルートが絶たれ活動は低迷するが、岸政権の時代の前後から、自民党と財界が左翼つぶしのために新たに資金を提供するようになる。その地下水のようなカネの流れのメカニズムは、ロッキード事件で児玉誉士夫が摘発され、一端が明るみに出たが、その後も日を追って街宣車の数が増えてゆくのを見ると、ガソリン代を提供するパイプはますます太くなりつつあるらしい。
 「街宣車が急に増えたのは、ロッキードの頃でしょう。あの頃、『田中打倒!』ってやってたら、公安じゃなくてマル暴の捜査四課が出てきて、『お前らが田中内閣打倒とか、自民党攻撃とは何事だ!』と言って取り締まりしてましたよ。警察はもう、自民党べったりだから。『お前ら右翼は、日教組と共産党だけ攻撃してればいいんだ』と、はっきり言う警察署長もいますしね」
 「この頃では、右翼というのが本来、純然たる政治活動だということがわからなくて、ただのシノギの一種だと思ってるヤクザも多いんですよ。愛国党でも、地方の支部なんかは地元のヤクザに嫌がらせをされて、迷惑してるんです。ここは俺たちの縄張りだからカネを出せって。政治活動に縄張りなんかあるわけないでしょう。それで断ると『覚えとれよ』と。広島や福山では、ウチの党員が地元ヤクザにバットでめった打ちにされたり、包丁で背中を刺されるという事件も起きてるんです。その後? いやこれは刑事事件ですから、警察に処置を頼みましたけど……任侠右翼とまともに正面からぶつかったら……やはり損でしょう……」
 「世の中、いったいどうしちゃったんだろうねえ……。70年安保の頃までは政治に熱気があった。左も右も人をひきつけたものだけど。昔は、街宣やってても人が集まったんですよ。何百人という人が赤尾総裁の演説を聴いてくれた。演説が終わると拍手がわきおこってね。新聞売るのでも、人が殺到してさばききれなかったくらい。それも安保がすぎたら、ぴたーっと人が集まらなくなった。この5年くらいは特にひどい。一人も聴衆がいないときもる。本当にどうしちゃったんだろう……ねえ……」
 私たちをぼんやり照らしだす、街頭の白い酷薄な光を、筆保は嘆息とともに見上げた。
 でも、と私は言った。天皇の御不例から崩御、大喪の礼に至るまでの国民の反応を見て、右翼は活気づいたんでしょう? あの記帳者の列を見て、体勢は我らにありと自信を深めたんじゃないですか?
 「いや、そうでもない。みんな困ってる。こうれからどうしたらいいのか……。もう国民に訴えかけるテーマがなくなってしまったでしょう。右翼はみんな困ってますよ。仕方ないからこれからは「切り取り」、企業を攻撃してカネをむしりとることですけど、それに専念しようって言ってるのもいますよ。任侠右翼の連中は特に、カネがかかるんですよ、接待で。大喪の礼の時も全国から集まってきたから、接待が大変だったらしいですよ。銀座とか赤坂とかで。ビラ貼りしてると、よく会いますよ。あいつらはビラ貼りなんて、こんな面倒で地道なことしないからね。飲んでるときに私の顔を見ると、照れくさそうな顔をする。『ごくろうさん』なんて言ってね」

36とはずがたり:2004/12/18(土) 13:24
みんなの国有地が税金を払わなくて良い宗教法人の元に。。どーなの?
時効も国に拠る接収も関係ないんだねぇ。
アイヌ人よ立ち上がれ!北海道からシャモ(和人)を全員追い出せ!(笑)
(magentaさんすんません,冗談です)

2004年12月17日(金)
富士山8合目以上の土地所有権、国から浅間大社に
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20041217/K2004121702890.html

 富士山の8合目から頂上にかけての土地の所有権が17日、国から富士山本宮浅間大社に移った。東海財務局が同日、土地の譲与決定を大社側に知らせたもの。所有権を巡っては、国側と大社の間で訴訟に発展し、74年の最高裁判決で大社側の所有が認められていたが、実際に所有権が移るまでに30年かかったことになる。同財務局は「静岡、山梨の県境が確定しておらず、登記手続きなどが取れなかった」と説明している。

 また、8合目から上が大社の私有地になるが、「登山客からの入山料は取らないと聞いている」(同財務局)という。

 富士山8合目以上の土地は約400万平方メートル。徳川家康が大社に寄進したとの記録があるが、明治維新後に国有地とされた。神社の施設などがある約16万平方メートル分については52年に大社側に譲与されたが、富士山頂が返還されなかったため、大社側が国を提訴し、最高裁まで争った。

 今回譲与されるのは、富士山測候所や県道用地などをのぞいた約385万1000平方メートル。

富士山頂付近の土地、浅間大社に譲与 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/society/story.html?q=18yomiuri20041217i112&cat=35

 徳川家康から寄進されたことを示す古文書が残されており、最高裁が1974年に、浅間大社の所有地と認定してから30年。財務省東海財務
局が同日、譲与通知書を大社に手渡し、所有権問題が決着した。

 譲与されたのは、8合目以上の土地(約405万平方メートル)のうち、すでに大社奥宮の境内地となっている約16万平方メートルと、富士
山測候所敷地や登山道など計約3万5000平方メートルなどを除く約385万平方メートル。

 山頂付近では静岡、山梨の県境や、地元市町村の境界線が定まっていないため、土地登記ができないなどの理由で、最高裁判決後も国が所有し
てきた。

 大社は1999年ごろから譲与通知の早期発行を国に働きかけており、財務、環境省などと協議を重ねた結果、譲与が決まったという。
[ 2004年12月18日1時40分 ]

37とはずがたり:2004/12/18(土) 13:40
意外と(?)ケチだったんだねぇ。

税務署と「わが闘争」?ヒトラー8億4500万円滞納 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/world/story.html?q=18yomiuri20041218i504&cat=35

 ナチス・ドイツ総統ヒトラーが、1933年に権力を掌握するまで税金逃れに奔走し、40万5000ライヒスマルク(現在の貨幣価値で約800万ドル=8億4500万円)を滞納していたことが17日、独研究者の調査で分かった。ヒトラーは首相就任後に支払いを免除されたという。

 税務専門家がミュンヘンの文書館でヒトラーの納税記録を発見。それによれば、ヒトラーは33年、アーリア人の人種的優越を説いた著書「わが闘争」の売り上げで123万ライヒスマルクの収入を得、うち60万ライヒスマルクについて納税義務が生じたが、納付しなかった。

 ヒトラーは記録には「著述業」と記載され、ほかにも新車のメルセデスを「社用車」として資産から差し引くよう試み、机の購入費などを他の「必要経費」と共に控除対象にしようと画策していた。

 ミュンヘンの税務署は33年以降、所得税免除などの措置を相次いで実施。税務署長はヒトラーに納税免除を提案後に、独税務当局のトップに昇進した。(ロイターES時事)

[ 2004年12月18日13時6分 ]

38magenta:2004/12/18(土) 15:19
>>36
実は私、元参院議員の萱野茂氏の主張にはかなり共感しているんですね。
(二風谷ダム問題など)
排除の論理に陥らず独自の文化を残していくのが望ましいというのが主張の中にあったはずです。

39名無しさん:2004/12/18(土) 17:45
>>36,38
北海道は日本の「植民地」ですから…
アメリカインディアンやアボリジニらと同様に、
収奪した土地に対して返還や補償をするのが本来はスジなんでしょうけどね。

40とはずがたり:2005/01/05(水) 18:45
安全保障スレや政治思想スレにも関連しそうだが取り敢えず現代史と云う事でこちらに。

【南京大虐殺関連資料】

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/535/1038323808/405-406
カマヤンさんとこから転載

405 名前: カマヤン 投稿日: 2004/12/02(木) 05:48

↓このサイトを作った方を、褒め称えます。すげえ大変なんだ、こういう作業は。

南京事件資料館
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/
★このホームページの目的
* 「南京事件はでっちあげ」という主張を,一次資料に基づいて検証します。
* 「歴史修正主義」に反対する人に,一次資料を提供します。
* 「自由主義史観」が欧米の「歴史修正主義」の日本版に過ぎないことを検証します。

資料一覧
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/sub1.html

南京事件論争史
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/ronso_history.html

南京事件FAQ
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/nankin_faq.html


406 名前: カマヤン 投稿日: 2004/12/02(木) 06:15

南京事件の真実
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm
「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ  

南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

南京事件小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/

41とはずがたり:2005/01/05(水) 19:03
>>40
厳然として日本軍の虐殺はあったのだ。
大東亜戦争中のアメリカの日本市民への無差別空襲や広島と同じく。

中国や朝鮮が謝罪と賠償を要求し続けるのはただ一つ自民党政治家が戦後続けてきた妄言のせいであるに尽きる。
なんであんな昔の事でギクシャクしなければならないのか,国益を損ねる莫迦な発言を発信し続けた売国奴・国賊の自民党政治家どもの猛省を促したい。


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