したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

2日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:42
今夏、松江城と米子城へ行きました。
それぞれの城の報告をします。

3日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:06
松江城
新たに二の丸の櫓が木造復原されていました。
三年前の地震の影響が懸念されましたが
十年前に訪れた頃と変わらず
黒塗りのきれいな天守閣で一安心でした。
(余談:天守閣最上階東側から創価学会の建物がすぐ近くにあって見えました。)

4日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:21
米子城
三年前の地震の影響か大、小天守台の石垣が新たに積み直されていました。
しかしこちらは石垣のみということもあって
手入れが良くなく大天守台の石垣には雑草が生い茂るばかりで
復原を希望する私としては寂しい限りの状態でした。
しかし景色は相変わらず抜群で
大山、中海、大根島、米子市街地、島根半島、鳥取方面、松江方面が
本当によく見えました。
しかも夕方でしたから夕焼けもきれいに見えました。
さぞかし天守閣があった頃はもっと景色が良かったんだろうと思いました。

5とはずがたり:2003/09/08(月) 19:24
松江城には多分中学生の頃だから20年近く前に行ったことがあります。
もう覚えて無いなあ。

6おりーぶの木:2003/09/08(月) 19:34
松江城か。山陰地方は行く機会がなかなかないけど萩、鳥取砂丘、宍道湖など魅力的な場所が目白押しでぜひ一度は行ってみたいですね。
俺は上田がお気に入りなのだが行ったことある?

7日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:35
松江城は運が良かったんですよね。
天守以外は全て取り壊されましたが
天守のみは旧松江藩の武士が有志を募って何とか残りましたからね。
それと比較すれば米子城は皮肉なものです。
同じく天守のみが残りましたが
こちらは結局、維持管理に困り結局風呂屋の薪になったそうです。

8とはずがたり:2003/09/08(月) 19:36
因みに米子の皆生温泉にも泊まったことがあります。
小学校の頃だから20年以上前か。

9日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:38
>>6
残念ながら上田城は行ったことがありません。
同じ長野県でも松本城には行ったことがありますが。
東日本は天守閣のある城を中心にしか回ってませんから。

10おりーぶの木:2003/09/08(月) 19:47
上田はいいよ。もし城だけでなく街並みにも関心があるのなら行って損する事はないからぜひお勧めします。
食べ物も美味いし。別所鉄道で塩田平の車窓や寺院を周るのも良し。特に塩田平の車窓はお薦め。これぞローカル線の醍醐味でああ田舎に着たなぁという実感が湧いてきます。
別所温泉も良いぞ。あれあそこの塔はなんて名前だったかな。泊まりで行くならお薦めでつ。ただ、外湯は狭くて勧められないが。

11荷主研究者:2003/09/23(火) 03:06
人吉城は球磨川沿いに石垣が残るきれいな城跡の印象がある。行ってみたいところだ。相良氏歴代の城郭である。

http://www.nishinippon.co.jp/media/news/news-today/20030915/kumamoto.html
人吉城跡を本格整備 「歴史館」05年度開館予定

 人吉市は、国指定史跡人吉城跡整備事業の一環として、同市麓町で「人吉城歴史館」(仮称)の建設を進めている。二〇〇五年度中に開館予定で、鎌倉時代から江戸時代にかけ、人吉球磨地方を治めた相良家ゆかりの品を展示する。

 人吉城跡は一九六一年、本丸跡を含む近世城郭部分が国史跡に指定された。整備事業では、江戸時代の人吉城一帯の雰囲気を再現するため、〇六年度までに長塀や舟着き場などを復元する計画。対象面積は二十一万六千平方メートル、総事業費は約四億五千万円。目玉の一つ、歴史館は平屋建ての展示棟と管理棟で構成し、今年八月下旬、建設に着手した。

 歴史館は、相良氏の肖像画や古文書、発掘調査での出土品などを展示するが、注目されるのは、九八年に相良藩家老の屋敷跡から見つかった地下室遺構の全面公開。遺構は、周囲を積み石で囲んだ、広さ約三十平方メートルという大規模なもので、同市教委によれば、江戸初期までさかのぼる地下室遺構の出土は、極めて珍しいという。現在でも地下室の建造目的は不明のままで、歴史ファンの関心も高い。遺構には、屋根を設け、露出した状態で見学できる。

 同市教委文化課の村田良一課長は「歴史館は人吉城整備計画の中核施設。相良藩七百年の歴史を分かりやすく伝えたい」と話している。

13とはずがたり:2004/02/23(月) 14:40

http://www1.odn.ne.jp/~notohatakeyama/keizu/keizutop.html
畠山家関連諸家系図

14荷主研究者:2004/03/08(月) 01:07

http://www.shikoku-np.co.jp/news/administration/200402/20040224000104.htm
2004年2月24日 09:45 四国新聞
高松城天守閣再建で市が本格調査へ

 高松市は新年度、高松城天守閣の復元整備を目指し、天守台石垣の耐久度強化のための本格調査に乗り出す。昨年六月の構造改革特区への提案を契機に、文化庁が復元に柔軟姿勢を示したのを受けた措置。調査は単年度を想定しており、文化庁から現状変更の許可が得られれば、二〇〇五年度にも石垣の解体・復元工事に着手する考え。過去に何度も論議が持ち上がった悲願の達成に向けて、ようやく一歩を踏み出したと言えそうだ。

 新年度一般会計当初予算案に天守台石垣の調査と、石垣全体の整備指針の策定に要する事業費計千八百七十万円を計上する。

 調査は、天守台石垣が老朽化に伴い一部が緩んだり、石が抜け落ちた状態となっているのを踏まえ、▽天守閣の重みに耐えられるだけの強度を確保する▽傾斜などを建築当時の形状に復元する―のが目的。解体に伴う発掘調査で、天守閣の復元に役立つ資料が見つかることも期待しているという。また、これに併せて石垣全体の整備指針も策定する。

 検討を進めるのは、建築史・意匠や古建築、日本庭園史、日本史学などの専門家六人で構成する「史跡高松城整備検討委員会」で、コンサルタント会社への調査委託なども行う。三月二日の初会合で市側が現状説明を行い、新年度から本格的な調査を開始。同年度中にも石垣の現状変更の計画を策定し、文化庁に提出する方針。

 文化庁の許可が得られれば、〇五―〇九年度に石垣の解体・復元工事を実施。天守閣の復元工事には市制施行百二十周年に当たる一〇年度に着手し、一四年度の完成を目指す。

15とはずがたり:2004/04/11(日) 01:42
武田・織田家が430年ぶり和睦、遺恨越えて握手 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/history.html?d=10yomiuri20040410i514&cat=35&typ=t

「風林火山」の旗の前で握手する武田、織田両家の子孫(右から武田邦信さん、織田信成さん、信和さん)

 戦国時代に覇を競った甲斐・武田信玄と尾張・織田信長の流れをくむ宗家の当主が10日、信玄公をまつる甲府市の武田神社をそろって参拝、武田家滅亡のきっかけになった長篠の合戦から約430年ぶりに“和睦(わぼく)”を果たした。

 参拝したのは、武田家16代当主で会社員の武田邦信さん(55)(東京都世田谷区)と、織田信長の宗家の12代当主、織田信成さん(82)(神奈川県相模原市)、埼玉県庁職員信和さん(57)(東京都港区)の親子。

 両家は2001年7月、長篠の合戦をしのぶ「設楽原決戦場まつり」(愛知県新城市)で対面し、「仲直りの機運が高まった」という。今回、武田神社の仲介で、信玄公の命日(12日)に合わせて開かれている「信玄公祭り」を織田家の親子が訪れることになった。

 3人は武田神社の社殿に玉ぐしを奉納した後、宝物殿の壁に飾られた「風林火山」で知られる孫子の旗の前でがっちり握手。武田さんは「旧来の遺恨を乗り越えて末永くおつきあいしたい」と話し、信和さんも「400年以上たった現代では、平和的な付き合いが望まれます」と笑顔で話していた。

 長篠の合戦は1575年(天正3)、織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲隊が、三河設楽原で、信玄の四男、勝頼が率いる騎馬隊を撃破、武田家は7年後に滅亡した。


[ 2004年4月10日(土)23時16分 ]

16とはずがたり:2004/08/17(火) 17:59
清洲・西枇杷島・新川3町の合併新市の名が「清須市」となったが清洲の古名の様ですね。
それを調べていて見つけたサイト。戦国マニアのまなざしが面白い。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/oscilloscope.htm
お城スコープ

http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/oda_kashin.htm
織田家・家臣団の城

17さむらい:2004/09/01(水) 14:58
今、姫路城の天守閣にいます。

18とはずがたり:2004/09/01(水) 14:59
おお,白鷺城?
俺も一度行ってみたいと思いながら中に入ったことは未だありません。

19さむらい:2004/09/19(日) 23:47
>>18
返事が送れましたが、そうです。

この日は姫路城も見に行きました。

20名無しさん:2004/09/20(月) 00:01
ウラヤマシイ

21荷主研究者:2005/04/11(月) 00:22:45

http://kumanichi.com/news/local/main/200501/20050128000031.htm
2005年1月28日 06:53 熊本日日新聞
八代城石垣 撤去方針を撤回 今秋にも国指定史跡へ申請

 八代市は二十七日、同市袋町の市道建設予定地から出土した八代城の城壁とみられる江戸初期の石垣について、撤去方針を撤回し、車道わきの緑地帯に約四十メートルを現状のまま保存することを明らかにした。同市は、八代城跡と、近世期の麦島城(同市古城町)、中世期の古麓城(同市古麓町)の三城を、十一月をめどに国指定史跡として申請、来年度指定を目指す。

 八代城の石垣は昨年七、八月の調査で、約六十メートルにわたり出土。城郭の特徴となる隅角(ぐうかく)部も見つかり、江戸初期の石垣の築造法をとどめる貴重な遺構とされている。

 市教委によると道路の設計を一部変更。約六十メートルの区間で歩道を数メートル後退させ、車道との間の緑地帯を拡幅。長さ約四十メートル、高さ約二メートル、幅約三メートルの石垣を出土した形のまま残す計画。崩落対策や新たな用地買収などは今後詰める。二十四日に地元説明会を開いた。車道部分は予定通り三月の完成を目指す。

 市はこれまで、現状保存は市道建設の支障となる上、崩落、交通の危険性もあるとして、記録保存にとどめ撤去する方針だった。しかし、市文化財保護委員会が「国指定史跡クラスの価値」として現状保存を提言。文化庁が「移設すれば国指定は不可能」との見解を示したため、保存策を再検討していた。

22荷主研究者:2005/05/22(日) 03:21:01

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20050218004.htm
2005年2月18日更新 北國新聞
金沢城、江戸前期の石垣を大手術 宮守堀跡の緑地化も

 「石垣の博物館」と呼ばれる金沢城の外周部が装いも新たに生まれ変わる。江戸前期に築造された石垣で、石の並びにズレが目立つ部分を積み直す”大手術”に向けて調査に乗り出し、県体育館裏の玉泉院丸庭園跡には石垣回廊が整備される。かつて宮守(いもり)堀(ぼり)があった県兼六園テニスコート跡は暫定的に緑地化され、城外周部と県庁跡地の一体的な整備も一歩前進する。石川県の新年度当初予算案に金沢城公園整備費一億八千九百八十万円が計上された。

 積み直しの調査が進められるのは県体育館付近の石垣で、寛永年間の一六三〇年代に築造され、江戸後期に修復されたとみられている。石と石のすき間が二十センチ近くに広がり、「見た目にも良くない」(県公園緑地課)状況となっている。

 県はまず、石垣の上にあったとされる土塀の埋蔵文化財調査を行い、石と石のすき間が広がった原因を調べ、積み直しの工法、範囲を専門家を交えて検討する。

 県体育館裏の玉泉院丸庭園跡に残る石垣は城内でも特に美しいとされており、県は新年度内に散策路を整備し、「石垣回廊」として県民に開放する。玉泉院丸庭園跡からいもり坂を経て、テニスコート跡に抜けるルートとなり、県民が貴重な石垣を見上げながら散策できるようにする。

 テニスコート跡の緑地化は県庁跡地の旧東庁舎・教育庁舎部分の緑地化と同じ九月に完成する予定で、宮守堀の遺構部分の幅十メートル、長さ二百メートルを約一メートル掘り、砂利を敷き詰める。

 金沢城の石垣の魅力を紹介する「金沢城フォーラム」が十一月二十日、金沢市内で初めて開催される。県教委に金沢城研究調査室が設置されて新年度で五年が経過するのに合わせ、これまでの研究成果を県民に示し、金沢城への理解を深めてもらう。

 金沢城の歴史を分かりやすく説明する「金沢城史」(仮称)の第一巻や金沢城史料叢書(そうしょ)「金沢東照宮(尾崎神社)」を刊行する。石川門の保存修理に向けた調査を進め、早ければ新年度内の着工を目指す。県新年度当初予算案に金沢城調査研究費四千三百十一万円が盛り込まれた。

23荷主研究者:2005/08/13(土) 03:18:35

http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2005/04/20050413t15017.htm
2005年04月13日水曜日 河北新報
仙台城跡整備 着手時期3段階設定

 仙台市は12日、国史跡に指定された仙台城跡の具体的な整備の在り方を示した基本計画を策定した。
 基本計画では、整備内容によって着手時期を3段階に設定。解説パネルや模型などを展示するガイダンス施設の建設が今後おおむね1―5年の「短期」とした。

 城のシンボル大手門の復元は6―15年の「中期」。巽(たつみ)門復元は、16年以上の「長期」とした。
 22カ所の整備場所は、史跡指定地の約66ヘクタール内に水系、本丸、大手門、三の丸、登城路、崖(がけ)地の六つのゾーン分けして設定した。
 市教委が昨年7月に設置した仙台城跡整備基本計画検討委員会(委員長・新谷洋二東大名誉教授)の中間報告案を基に、今年1―2月にパブリックコメントを実施。市民の意見を考慮して最終報告案をまとめた。

 藤井黎市長は「仙台城跡は、未来に引き継ぐべき貴重な文化遺産。歴史と風格あるまちづくりの中核として整備を進める」と話した。

24荷主研究者:2005/12/30(金) 22:58:29

http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2005/12/20051209t15028.htm
2005年12月08日木曜日 河北新報
仙台城跡 「巽門」跡に堀の遺構 東側にも石組み側溝

 国史跡の仙台城跡(仙台市青葉区)の発掘調査を進めている仙台市教育委員会は8日、3の丸跡(現市博物館)の南東に位置する「巽(たつみ)門」跡付近で、堀跡を確認したと発表した。堀は絵図で存在が推定されていたが、今回の調査で初めて確認された。

 市教委によると、堀は、巽門付近で敵の攻撃を防ぐために築城の際に設けられた。その後、規模や形状を変えており、今回確認されたのは幕末期の遺構とみられる。堀は明治時代に埋め立てられた。
 堀跡からは河原石などを並べた集石遺構が出土し、周辺のわき水を排水するための暗渠(あんきょ)と見られる。

 巽門跡の東側からは石組み側溝跡も見つかった。のみなどで加工された石材と河原石が敷き詰められていた。藩制時代の路面の高さは、側溝の縁石の高さから、現在より1メートル以上高かったと推定される。
 市教委は同日、2003年の三陸南地震で石垣が崩落、今年7―11月に積み直した中門跡と清水門跡を公開した。積み直し作業と並行した発掘調査では礎石などの遺構が見つかった。

 中門跡では門礎石3基と礎石を抜き取った穴1基が発見され、金箔(きんぱく)を施した瓦も100点ほど出土した。清水門跡からも門礎石と見られる礎石のほか、4基の柱穴遺構が見つかっており、建物跡や塀跡があった可能性がある。
 市教委は10日午前10時から市民を対象とした現地説明会を開く予定。

25荷主研究者:2006/03/30(木) 00:40:27

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200602010040.html
'06/2/1 中国新聞
最古の熊本城絵図を保管

 ■山口県文書館 江戸幕府成立期示す

 山口市の山口県文書館に保管されている萩藩伝来の「肥後熊本城略図」が、現存する同城の絵図では最も古いことが熊本大学工学部の北野隆教授(65)=日本建築史=の調査で確認された。これまで最古と確認されていた絵図より約二十年さかのぼる。天下の名城として知られる熊本城の絵図をなぜ萩藩が所蔵していたのかも謎だ。北野教授は「江戸幕府成立直後の萩藩の動きを示す貴重な史料」としている。

 文書館によると、略図は縦四十八センチ、横百二センチの和紙で、毛利家から県に寄託された「毛利家文庫」中の一点。天守閣や石垣など城の配置が簡略化して描かれている。

 熊本城は一六〇七(慶長十二)年、肥後藩主加藤清正が築いた。北野教授によると、これまでは三二(寛永九)年ごろ、新藩主の細川家が周りの屋敷に家臣を割り振るために作らせた「熊本屋(や)鋪(しき)割之絵図」が最も古いとされていた。しかし、その絵図には大天守築城後に増築されたとみられる小天守があるが、今回見つかった略図には、それが見えない。これらの点から時代がさかのぼると推定される。

 略図は北野教授が二〇〇三年、文書館で萩城の調査をした際に見つけた。毛利家文庫には一六一一(慶長十六)年と翌年、萩藩士が記したとされる、城の石垣や堀の数を報告した「肥後国熊本様子聞書(ききがき)」があり、略図は同時期に描かれたとみられる。

 当時は幕府が成立したとはいえ大坂の陣(一六一四、一五年)を前にした、先行きが不透明な時期。北野教授は「毛利家が生き残りをかけ、諸国の幕府への対応策を探るため調べたのではないか」と推測している。(有岡英俊)

26荷主研究者:2006/03/30(木) 00:43:47

http://www.chunichi.co.jp/00/fki/20060131/lcl_____fki_____004.shtml
2006.01.31 中日新聞
福井城完成から400年 県、新年度予算案に城跡整備盛り込む

 一六〇六年の福井城完成から四百年を迎えたのを機に、県は県庁や県警本部が建つ福井城跡の整備を本格化させる。三月末には石垣のライトアップなどを始めるほか、新年度予算案には西側に架かる御廊下(おろうか)橋を本来の姿に戻すための予算を盛り込む方針。地域の歴史遺産として、広く県民に親しまれる場所づくりを目指している。

 福井城は福井藩の初代藩主、結城秀康が築城し、天守閣は一六六九年の大火で焼失した。県財産活用課によると、城跡に県庁が建ったのは一九二三(大正十二)年。五一(昭和二十六)年からは土地も県所有になった。

 城跡の整備について県は、手始めに本年度九月補正予算で約一千九百五十万円を計上。天守台に向かう急な階段に手すりを設置するほか、南側の御本城橋付近から、御廊下橋にかけ石垣をライトアップするなどの作業を進めている。これらは三月末の完成を目指しており、今春には石垣上の桜が美しく照らし出される風景が楽しめそうだ。

 さらに、策定中の新年度予算には御廊下橋の復元調査や、石垣上の散策道の整備などの事業費を盛り込む方針。明治初期に撮影された写真には、屋根や壁の付いた往時の橋の姿が残っており、現在の御廊下橋(幅約三・一メートル、長さ十八メートル)とは異なる構造だった。

 同課は「事業化されれば、残された絵図などを参考に専門家の意見も聞きながら復元に向けた作業を進めたい」としている。 (北村 剛史)

27荷主研究者:2006/05/03(水) 22:21:38

http://www.chunichi.co.jp/00/mie/20060406/lcl_____mie_____001.shtml
2006.04.06 中日新聞
「二之丸帯曲輪」跡を復元 亀山城の面的広がり体感を

 亀山市教育委員会が、発掘調査結果や絵図をもとに同市本丸町で進めてきた「亀山城二之丸帯曲輪(おびくるわ)」跡の復元整備が完成し、八日から一般公開を始める。亀山城で唯一現存する建造物で、県指定文化財の「多聞櫓(たもんやぐら)」とは目と鼻の先。城の面的な広がりを体感できる造りとなっている。(谷村 卓哉)

 亀山城は一五九〇(天正一八)年に築城され、明治以降にそのほとんどが取り壊された。帯曲輪は城の敷地面より一段低い平地に築いた防衛線だが、二〇〇三年度からの二カ年で実施した発掘調査で、江戸時代前期には城主専用の庭園に改変されたことが分かった。

 復元されたのは江戸末期の帯曲輪。総事業費約一億三千万円をかけた。広さは百三十八平方メートルで、白土が美しい土塀や石組み排水溝のほか「埋門(うずみもん)」と呼ばれる半地下式の出入り口が現代によみがえった。門は、発掘調査で発見された遺構の姿を再現。門柱の礎石付近の玉石は、発掘された実際の石を使用している。

 同市教委の亀山隆学芸員は「これまで多聞櫓だけだった亀山城の広がりを感じてもらえれば」と話している。

 八日午前十一時と午後二時からの二回、現地説明会を兼ねた探訪ツアーを実施。問い合わせは、同市教委まちなみ文化財室=電0595(84)5078=へ。

28荷主研究者:2006/05/03(水) 22:48:16

http://www.kahoku.co.jp/news/2006/04/20060423t15027.htm
2006年04月23日日曜日 河北新報
政宗の若林城跡 砂で埋め戻し 宮城刑務所改築で遺構保護

 仙台市若林区の宮城刑務所敷地内で昨年11月に発掘された仙台藩祖・伊達政宗の晩年の居城「若林城」跡が、刑務所改築工事に伴い埋め戻されることになった。遺構をめぐって、保存を求める文化庁と、計画通りに刑務所の改築を進めたい法務省が対立。中央省庁を巻き込んだ論争は、砂をかぶせて遺構を保護した後に工事に入る「痛み分け」で決着した。「独眼竜」の居城は再び、刑務所の地下深くで永い眠りに就く。

 遺構の面積は1990平方メートル。刑務所管理棟の改築工事に伴う発掘で、約370年前とみられる4カ所の礎石建物跡や3カ所の石敷きなどが見つかった。規模や構造から城の表御殿の一部と推測される。

 文化庁と県教委、仙台市教委は、発掘された状態での保存を主張。若林城の現存絵図はなく、遺構が残っている可能性は低いとされていただけに、文化庁は「国史跡の仙台城と並ぶ価値がある。」(記念物課)と保存を求めた。これに対し法務省は「受刑者を監視する管理棟は刑務所の中枢機能。移設はあり得ない」と拒否した。

 宮城刑務所の受刑者は1033人で5年前に比べて1割増え、収容率は112%(昨年3月末現在)と手狭になっている。施設の多くが昭和30年代の建設で老朽が進み、施設整備は待ったなしという事情もある。

 ただ、法務省側は「政宗の城跡で無理に建設を進めることもできない」(仙台矯正管区)と譲歩し、遺構を砂で覆った後に鉄板を敷き、その上に鉄筋コンクリート3階の管理棟を建設することで合意、3月末に着工した。砂がクッションとなり、管理棟の加重で遺構が破壊されることはないという。

 矯正管区は「管理棟建設の工期に遅れが生じ、遺構保護の費用も負担するが、互いに納得した結末だ」。仙台市教委文化財課は「現状保存が最善だっただけにうれしさは半分だが、政宗の遺産を後世に引き継ぐことができた」と話している。

[若林城]伊達政宗の命で1628年に完成。政宗は死去するまでの約10年間を過ごし、遺言で廃城になった。1879年、西南戦争の政治犯を収容する宮城集治監が置かれ、宮城刑務所となった。

29とはずがたり:2006/06/07(水) 12:25:51
あんま地元では好かれてない??>建立以来初の本格清掃

<雑記帳>山内一豊の銅像、建立以来初の本格清掃 高知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060607-00000000-mai-soci

 高知城(高知市)近くの初代土佐藩主・山内一豊の銅像が6日、96年の建立以来、初めて本格的に清掃された。NHK大河ドラマの主人公が身ぎれいな姿で観光客と対面できるよう、四国電力高知支店社員が高所作業車で高さ9メートルの像の汚れを落とした。
(毎日新聞) - 6月7日1時16分更新

30荷主研究者:2006/10/09(月) 03:14:14

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/kitakyushu/20060818/20060818_004.shtml
2006/08/18付 西日本新聞朝刊
備後守屋鋪土塁跡を公開 19日小倉城 発掘中の屋敷跡など

一般公開される土塁跡(後方)と、石組みの排水溝などの屋敷跡

 北九州市教育委員会と同市芸術文化振興財団は19日、小倉北区大手町で発掘調査している小倉城の「備後守屋鋪(びんごのかみやしき)南側土塁跡」を一般公開し、現地説明会を開く。江戸時代初期、外敵の侵入から同城を守るために造られた土塁で、城と城下町を囲む土塁が現在まで残されている例は非常に珍しいという。

 公開されるのは長さ105メートル、高さ8メートル、最大幅約45メートルの土塁跡や、屋敷を支えた柱穴、石組みの排水溝など。現在の小倉城天守閣の南側約1.2キロにあり、当時は城の南端だったとみられる。昨年6月にマンション建設が決まったため、同財団などが7月から調査を実施していた。

 小倉城は1602年、当時の小倉藩主細川忠興が造り始め、城下町そのものを堀と土塁で囲む「総構え」という方法が取られた。同財団によると、城と城下町は、東西を川に、北を海に囲まれていたが、南側にはこうした天然の「堀」が存在しなかったため、巨大な土塁が築かれたという。

 調査は11月末まで。土塁の調査が終わり次第、盛り土の下の弥生時代の地層を調査する。同財団の栗山伸司埋蔵文化財調査室長は「土塁の規模・構造を知る上で非常に貴重。精密に検査して記録だけでも詳細に残したい」と話している。

 説明会は午前10時―正午。同財団メンバーが説明を行う。参加無料。備後守南側土塁跡調査事務所=093(583)9033。

31荷主研究者:2006/10/09(月) 03:16:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200608190097.html
'06/8/19 中国新聞
石垣崩れ40年 福山城跡復元始動

 福山市教委は近く、国史跡「福山城跡」の本格的な整備に向け、計画策定を担う検討委員会の準備会を発足させる。城下町・福山のシンボルである城の石垣の一部は、四十年以上前に崩落し放置されてきた。その石垣は準備会発足により、ようやく復元への一歩を踏み出すことになる。(古川竜彦)

 崩落しているのは、天守閣の西南に位置する二之丸の石垣の一部。断続的に幅二百メートル以上にわたり崩れ、落ちた石は周囲に野積みされている。市教委によると、一九六四年に城跡(約三万三千平方メートル)が国史跡に指定された際、既に一部は崩れていた。しかし、崩落に関する記録はなく、野積みの中には城の周辺整備で出土した石も含まれているという。

 市教委が年内に発足させる準備会は、近世史や城郭建築などの専門家ら学識経験者で構成。崩落している石垣や関連遺構について調べ、復元に向けた課題を整理する。さらに伏見櫓(やぐら)や筋鉄御門(すじがねごもん)(いずれも国重要文化財)など文化財の保存状況も把握する。

 続いて市教委は二〇〇七年度にも、準備会のメンバーを中心に正式な検討委員会を設置。福山城跡の全体整備計画策定に入る予定でいる。

 福山城は一六二二年、初代福山藩主の水野勝成によって築城された。天守閣は一九三一年に国宝に指定されたが、四五年の空襲で焼失。伏見櫓などは戦災を免れた。市は六六年、市制施行五十周年記念事業として天守閣や月見櫓などを再建した。しかし、文化財としての史跡整備は未着手のままとなっていた。

 石垣の復元などを四十年余も棚上げしてきた点について市教委文化課は「天守閣などを除き、城の全景写真や実測図などの資料が戦災などで焼失し、原型を復元するような計画策定が困難だった」と説明する。

 一方で文化庁は最近、文化財保護の観点から安易な現状変更に歯止めを掛けてきた姿勢を軟化させた。「適切な調査、検討作業を経た現状変更の計画ならば、審議対象となる」(記念物課)としている。こうした動きを受け市教委は、福山城跡の整備計画策定に乗り出すことを決めた。

【写真説明】崩れたままとなっている福山城二之丸の石垣。右奥は伏見櫓(撮影・天畠智則)

32荷主研究者:2006/10/09(月) 03:30:08

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20060830002.htm
2006年8月30日 北國新聞
金沢城河北門復元、国事業に採択 平成の築城・第2幕本格化 来年度予算概算要求

 平成の築城第二幕が本格化する。金沢城の第二期復元整備事業で、国土交通省は二十九日、石川県が来年度着工する河北門の復元工事を同省の都市公園事業に採択する方針を固めた。来年度予算の概算要求に同事業費千二百八十八億二千九百万円(全国枠)を盛り込んだ。県は河北門の本体工事費として初年度に約六億円を見込んでおり、同省に河北門の整備計画を示し、事業費の補助率を協議する。

 河北門は石川門、橋爪門とともに「金沢城三御門」と呼ばれ、金沢城の実質的な表門だった。県は北陸新幹線が金沢まで開業する二〇一四(平成二十六)年度までに三御門の復元、改修を終えたい考えで、河北門については〇九年度末の完成を目指し、既に門の位置や形状などを確認する埋蔵文化財調査や基本設計に着手している。

 文献や絵図などを基に、年度内に実施設計を終え、来年度から基礎工事や石垣の積み上げなどに入る予定で、年末の予算編成までに、国交省に来年度から三年間の整備計画を示す。

 国交省などによると、都市公園事業の補助率は事業費の二分の一までとなっている。〇四年度に行われた金沢城新丸広場の植栽工事などでも事業費二千四百万円の二分の一が補助対象となった。

 今回のように「史実を尊重した復元施設」は一般的な公園に設けられる休憩所や園路などに比べて事業費がかさむため、補助率が通常より低く抑えられるケースも多いという。熊本城本丸御殿などの復元整備でも補助率は四分の一に抑えられた。

 河北門の総事業費は約十五億円となっており、県は県負担分をできるだけ抑えるため、河北門の復元工事が国の都市公園事業に採択されるよう要望していた。

33荷主研究者:2006/12/31(日) 13:31:10

http://www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20061008002.htm
2006年10月8日 北國新聞
富山城石垣の遺構復元を視野に調査 富山市が来月から 藩政期の絵図には階段

 富山市は来月から、富山城の石垣のうち、裏門として利用されていた「搦手(からめて)門」横など二カ所で、遺構の復元を視野に入れた調査に乗り出す。江戸時代の絵図には、石垣に登るための階段が描かれており、階段の遺構が見つかれば復元する方針だ。市は五月から、富山城の別の個所で石垣の補修工事を実施しているが、遺構の復元は行われておらず、遺構が見つかれば藩政期により近い姿の石垣が平成の世に再現されることになる。

 来月から調査が行われるのは、搦手門側で佐藤記念美術館の東南にある石垣(九十平方メートル、高さ五・六メートル)と、大手門側で市郷土博物館の西にある石垣(百七平方メートル、高さ六・四メートル)で、補修工事に合わせて実施される。期間は今年度末までで、総事業費は約六千二百万円となっている。

 調査を担当する市埋蔵文化財センターによると、階段が描かれているのは江戸期後期の絵図「富山城図」(富山県立図書館所蔵)で、搦手門側の石垣二カ所に内部から石垣に登るための階段が描かれている。

 階段は現在、絵図に描かれている場所にはなく、一九五四(昭和二十九)年の富山産業大博覧会の際に埋められた可能性がある。このため、調査で石垣を崩す際に内部から遺構が見つかれば、復元する。

 富山城の石垣では、市が南側の正門「大手門」周囲と東側の石垣で実施している調査で、加賀藩主前田家の家紋「梅鉢紋」が刻まれた瓦が見つかるなどの成果が挙がっており、新たな埋蔵物の発見なども期待されている。

 調査に合わせて実施する補修工事では、石垣の石積みが安定して、きれいになるように解体した後に積み直す。割れていて再使用できない石などは、築造時に用いられた早月川の花崗(かこう)岩と取り換える。

34荷主研究者:2007/01/02(火) 11:49:16

http://www.hokkoku.co.jp/_today/E20061220001.htm
2006年12月20日 北國新聞
河北門の石垣修築へ 都市公園整備に補助金687億円 07年度政府予算財務省原案

 金沢城の第二期復元工事が本格化する。金沢城の実質的な表門だった河北門の復元工事が来年度、着工される見通しとなった。二十日内示の来年度政府予算の財務省原案に、都市公園整備事業費補助金六百八十七億七千四百万円(全国枠)が盛り込まれた。【5―7面に関連記事】

 河北門は石川門、橋爪門と並ぶ「金沢三御門」の一つ。県は今年度、三の丸ゾーンの埋蔵文化財調査を始めており、遺構の状態を確認したうえで、来年度、河北門の城内側にある二の門の石垣積み上げに着手する。

 河北門の復元費用は約十五億円。県は来年度の本体工事費として約六億円を見込んでおり、今後、国土交通省と事業費の補助率の協議を進める。

 県は北陸新幹線が金沢まで開業する二〇一四(平成二十六)年度末までに「三御門」の復元、改修を終えたい考えで、河北門は〇九年度末の完成を予定している。

 石川門の改修工事については国宝重要文化財等保存整備費五十三億二千百万円(全国枠)が計上された。引き続き附属右方太鼓塀の解体工事が進められる方向である。

35片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/02(金) 09:47:55
安東氏の「湊城」どこに 発掘調査で“土崎説”に懐疑
痕跡なし 秋田市教委困惑 讀賣秋田
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/akita/news006.htm

 勇壮な曳山(ひきやま)行事で知られる秋田市土崎港周辺で、道路拡幅に伴うある調査が行われている。一帯は、戦国時代に秋田平野を治めた安東氏の拠点「湊城」があったと長く信じられてきた場所。2005年度から満を持して、市教委の発掘作業が始まったが、出土するのは江戸期の町屋で使われた陶器ばかり。空振りに終始したこの2年間で、研究者や市教委内からは、“土崎説”の根拠となった古記録の信ぴょう性を疑う声が出始めた。(大須賀軒一)

■肩すかし■

 複数の古記録を総合すると、湊城は1436年(永享8年)、現在の土崎地区に築城され、1599〜1601年(慶長4〜6年)には大改修が施されたものの、安東氏国替え後の1604年(同9年)には廃城になったとされている。

 市教委の西谷隆・文化財保護主事によると、土崎説は「秋田史の通説、半ば常識」。城跡は南北約500メートル、東西約600メートルの範囲と推定されていたが、これまで発掘調査に入るチャンスはなかった。

 そこに持ち上がったのが、都市計画道路の拡幅計画。工事を前に緊急調査が実施されることになり、05年度は約170平方メートル、06年度も引き続き約330平方メートルの範囲で調査が進んだ。

 しかし、計250日近くを費やしたこれまでの発掘で、城の存在を示す痕跡はまったく見つからず、全容解明に期待をかけていた関係者を困惑させている。

■まゆつば■

 こうした中、疑いの目を向けられ始めたのが「秋田沿革史大成」。旧秋田藩士の手によるもので、築城年を明記した唯一の史料だ。

 しかし、市教委の湊城担当の神田和彦さんは「まゆつばの記録」と感じている。築城年を「永享八酉辰」と記述しているものの、同年は丙辰に当たるなど、誤記が散見されるうえ、編集が約450年後の明治時代というのも気がかりという。

 さらに発掘では、城跡どころか、1589年(天正17年)に起きた「湊合戦」に伴う焼土も出ていない。乱世だけに絵図面もなく、市史をはじめとする多くの歴史書が、疑わしい記述を引用し、いつしか定説化した可能性がある。

■“寺内”説■

 土崎でないとすれば、居城はいったいどこにあったのか。

 神田さんの仮説は「寺内後城か、飯島穀丁周辺」。低地の土崎は雄物川の水害を受けやすいが、穀丁には築城に適した小高い丘があり、隣接拠点であった脇本城(男鹿市)にも交通の便がいい。当時、穀丁と後城は川に面した港を抱えていた。過去には、戦国時代の陶器も出土している。

 「時代とともに移動した」との説を取るのは、「秋田県の歴史」(山川出版社)の著書がある歴史学者で、元市史編さん中世部会長の塩谷順耳さん(77)。塩谷さんの説はこうだ。

 戦国期は防御機能を重視したため、平地の土崎ではなく、後城、鵜ノ木、児桜といった丘陵地帯の寺内地区に築城した。湊合戦もこの周辺で起き、豊臣秀吉の天下統一後、平地の土崎に移転。これがいわゆる慶長年間の「大改修」で、長く土崎説の根拠とされてきた土崎神明社北東側のL字形水堀は、この段階で作られた内堀に当たる――。

■駅周辺も試掘■

 道路拡幅に伴う土崎周辺の発掘調査は07年度も継続される予定で、市教委は8日、JR土崎駅周辺で試掘調査を行う。「湊城の痕跡を探るには、飯島などを含む広範囲での調査が必要」との意見がじわじわと支配的になりつつあるが、すでに宅地などが広がっており、財政事情からも実現は難しい。安東氏の居城はどこに眠っているのか。謎は深まるばかりだ。

(2007年2月2日 読売新聞)

36片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/12(月) 22:35:05
金沢大学キャンパスの近くですね。

卯辰山に一揆勢の城?
http://www.chunichi.co.jp/00/ikw/20070210/lcl_____ikw_____002.shtml

 卯辰山には中世、一向一揆勢がこもった城があったという。二十年来、北陸地方の山城を調べている石川考古学研究会の南龍雄さん(66)=志賀町=が見つけたと聞き、現地に同行した。

 場所は金沢市東御影町の豊臣秀吉をまつった豊国神社。卯辰山中腹の標高一〇三メートル、浅野川にせり出した丘陵の先端にあるこの神社は、二代加賀藩主前田利長が山王社として創建した。

 南さんは昨年四月、南北朝時代の文献に見える“宇多須山城”を探して卯辰山を歩いていたところ、豊国神社の東斜面に、人工的に溝を掘った堀切(ほりきり)の跡を見つけた。神社は斜面を切り開いて築いた台の上にあり、南さんが示す堀切跡の高さは十メートル以上、二段に分かれていた。

 さらに、神社の境内を調べると、建物が建っていたと考えられる平らな郭(くるわ)が五つ見つかり、現在社殿が建っている本丸部分には外側の高さ三メートル、内側の高さ一メートル、幅一メートルの土塁も残っていた。

 石垣は見つからず、南さんは「一向一揆がこもった城と同じ特徴」と指摘。「一揆勢の拠点は、十五−六世紀の間に蓮如の息子蓮悟が築いた若松本泉寺(金沢市若松)から尾山御坊(現・金沢城公園)に移った。両方の間に位置する宇多須山城は中継地で、郭の数や土塁の高さなど規模が大きいことから、一揆勢にとって、非常に重要な城だったのではないか」と推測する。

 一方、文献史学では、この説に疑問を抱く研究者が多い。城で使われていた遺物が出土しているわけではなく、堀切や土塁もいつの時代に造られたかが分からないとの理由からだ。

 県立図書館史料編さん室の室山孝次長は「確かに一三六九(正平二十四)年、能登の武将得江季員が自らの手柄を記し、将軍に提出した軍忠状に宇多須山の城は登場する」としながらも、「卯辰山は一八六七(慶応三)年、十四代慶寧(よしやす)が西洋医学を取り入れた養生所や教育施設を整備し、豊国神社にも兼六園から卯辰天満宮を移している。堀切などは中世ではなく、幕末の産物ではないか」と話している。

記者から
 卯辰山にあった城はどこなのか。確定はまだ難しそうだ。豊国神社の河崎春夫神主によると、江戸時代、金沢城を見下ろす位置にあるため、くせ者が山に入ってもすぐ分かるように木が切られたはげ山だったという。いつの時代も重要な山だったことは間違いない。山城調査ではクマに出合う危険性も高いという。道なき山を歩いて城跡を探す南さんの努力には頭が下がった。 (高橋雅人)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板