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都市計画道路・高速鉄道スレッド

1■とはずがたり:2002/12/21(土) 09:07
都市計画に関するスレッド。田舎の道路開通も可。

188とはずがたり:2003/09/28(日) 14:24

http://www.niigata-nippo.co.jp/kokyo/kokyo-0411.html
第5部 2本の「橋」 
   万代下流 同時開通の真相

 春の日差しを受け輝く信濃川に、柳都大橋のスマートなアーチが白っぽく浮かぶ。同橋から直線でわずか2.4キロほど下流の川底では、新潟みなとトンネルの建設が順調に進む。新潟市の信濃川河口部。公共事業への逆風が吹きすさぶ中で、万代橋下流は別世界のようだ。
 柳都大橋300億円、みなとトンネル1200億円。国土交通省直轄の両事業に投入された額だ。皮肉にも構造改革の時代に開通する、至近距離に建設された2つの大動脈。昨年1月の省庁再編まで、旧建設省、旧運輸省が別々に手がけていた。

 <1>至近距離             ・
<揺らぐ公共王国 INDEXへ戻る>
わずか2キロに 1500億円を投入  

 「初めは、橋もトンネルもどちらもということではありませんでした」。2つの〝橋〟からそれほど遠くない同市入船町の自宅で、松田忠三さん(71)は述懐する。元同市職員で、都市計画部長などを務めた。
 「そもそも、先行していたのはトンネル。運輸省がかなり熱心だった印象がある。橋とトンネルの両方が実現したのは、事業主体が建設と運輸に分かれていたこと、景気も良かったことが大きい」と記憶をたどる。

  ■   ■

 万代橋下流にもう1本、橋を―地元住民の要望が、いつの間にか万代橋から500メートル下流の柳都大橋、海岸部のみなとトンネルの2つの構想に膨れ上がるのは、1983、84年度に行われた新潟港周辺地域整備計画調査後だ。万代橋下流域には、運輸省所管の港湾区域と建設省が受け持つ都市計画区域の2つがあった。調査は、この2つが住み分ける、新潟西港周辺の地域整備計画策定が目的だった。
 だが、国や県のOBらは「建設が橋を造り、運輸がトンネルを造る構想は、両省のバランスを取った妥協の産物」「両省の顔を立てた結果」と口をそろえる。橋とトンネルには官の側の思惑、省益の調整が絡み合っていた。

  ■   ■

 「当時は新幹線、高速道路ができて、新潟市の拠点性が増していった時期だった。市や県の都市計画サイドから陳情を受けて下流部に橋を架けようと知恵を絞った結果、あの調査を実施することになった」。建設省関係者は、初めに橋ありきの調査だったと強調する。
 一方、運輸省には調査実施以前から、事業量を確保したい事情があったといわれる。鈴木善幸内閣、次いで中曽根康弘内閣と続いた昭和50年代後半は行政改革が叫ばれ、旧第一港湾建設局など出先機関の整理統合がささやかれていた。行革がトンネル計画を後押しした、というわけだ。
 「あのころは、事業を発掘したいという運輸省の意向を強く感じた」「危機感から存在理由を明確にしたいとの思いがあったのではないか」。当時を知る関係者はこう、真相を語っている。

  ■   ■

 新潟市を流れる信濃川に5月19日、柳都大橋と新潟みなとトンネルが同時開通する。構想浮上から20年近くを経た2本の〝橋〟は、経済成長を背景に官の主導で計画された。いま、景気は低迷を続け、公共事業は社会の険しい視線を浴びる。時代と寄り添う中で生まれ、時代から徐々に距離を置かれ始めた巨大プロジェクトの姿を追った。

189とはずがたり:2003/09/28(日) 14:26
<2>幻の橋
>>178

http://www.niigata-nippo.co.jp/kokyo/kokyo-0413.html
<3>贈り物 
金子知事の下で 協議が本格化  

 新潟港周辺地域整備計画調査が生みの親となった柳都大橋と新潟みなとトンネルは、双子の事業といえる。だが、育つ道筋は異なった。建設準備のための調査などトンネルの事業着手は、構想浮上後間もない1987年。これに対して、橋は6年遅れの93年、ようやく事業着手となった。
 新潟市のOBによると、柳都大橋を含む万代島ルート整備具体化に向けた旧建設省、県、同市の協議が本格化したのは1989年ごろからという。「やっぱり、金子さんが知事になったことは大きかったと思うね」。同年は君健男知事が死去し、6月の「平成元年知事選」で金子清氏が初当選を果たした年に当たる。
 万代島ルートは国の直轄事業で、県も事業費の3分の1を負担する。「金子さんになる前、県は新潟市で事業をやろうという姿勢はなかったから」と、このOBは話した。

  ■   ■

 川上喜八郎市長以来の革新市政の流れが続いていた新潟市に対し、君氏は「革新嫌い」で知られた。県OBは「君さんは万代橋下流橋には決して積極的ではなかった」と証言する。川上市長の「みなと大橋」構想断念も影を落としていた。「県は下流橋建設を行わない」。このことは、県内部で暗黙の合意のようになっていた。
 新知事誕生が県と同市の間のこう着状況を打開し、柳都大橋建設のための話し合いが進んだとの見方は多い。
 翻って、市側には「下流橋は是が非でも造らなければならない」との思いが強かった。元同市都市計画部長の松田忠三さん(71)は「市にとってやはり下流連絡路は橋がメーン、トンネルはサブという気持ちだった」と思い起こす。
 下流橋を実現するため、88年には市役所に西港周辺整備対策課が発足した。「西港周辺整備」と名前は付いていても、実質的には万代島ルートを軌道に載せるための部隊だった。当時の担当者は「下流橋ができるかどうかではなく、絶対に造るつもりで仕事をしていた」と言葉に力を込めた。

  ■   ■

 「あんなに立派な橋が必要なのかという話もしたが、国がかなり熱心でやりたいという感じがした。新潟市も一生懸命だった。一義的には橋を造るという感じで、それ以外は先のことという印象を持った」
 県関係者は当時の三者協議の雰囲気を語る。こうした話し合いを経て万代島ルートは92年に都市計画決定されたが、「ルート全体が完成するまで、一体何年かかるのかと思った」と本音も漏らす。ただ、当時はまだバブル景気が続いていた。
 ある県幹部は語る。「公共事業削減の影響もあり、今の時点で橋とトンネルを2本とも造れるかといえば、それは無理。新潟市はいい贈り物をもらったと思う」

190とはずがたり:2003/09/28(日) 14:28
 「新潟島」は、1972年に関屋分水路が通水し、同市の中心市街地を含む一帯が島状になったことから付いた俗称。信濃川と日本海に挟まれた下町地区はかつて、水上交通の拠点として栄えた港町新潟の中心地だった。だが、車社会の成熟とともに〝どんづまり〟の不便な地域と化し、高度成長期には郊外への移住者が急増。地区人口は60年の約5万4000人が、80年には約3万人まで減少した。現在は約2万3000人。

 同協議会は68年に発足した。架橋や海岸決壊を防ぐ養浜事業の実現を求め、陳情などを重ねてきた。「2本開通なんて夢のよう。1本の何倍も精神面でプラスになる」。田宮理事長は「この地域に住まなければ分からない喜び」をぶつける。現協議会会長の本間茂・本間組会長と幼なじみ。長年、下町の明日を語り合ってきた。

 達成感のすき間には苦い思い出もよぎる。会長に地元大手ゼネコンの本間組社長、名誉会長に地元選出の小沢辰男元衆院議員を擁した協議会には、突き放した見方もあった。「本当に地元のために橋がほしかったのに本間組のための会といわれた。政治の力も陳情を成功させるには必要だった」と悔やしがる。

  ■   ■

 つきたてのもちが湯気を上げる会場を、佐藤豊・協議会青年部長(51)が大会の進行に駆け回る。気さくな笑顔には、2本の開通で生まれ育った下町が、開かれた便利な地域に変わる自信があふれる。

 大火や地震の経験から「災害時に逃げるための橋」の必要性を強調した先輩の運動が、とうとう実を結ぶ。だが「おれは、橋があれば逃げられると直接思ったことはない」と佐藤さんは冷静だ。〝命を救う橋〟は「『便利だから』では通用しない行政を説得する方便だった」。
 そうした切実な庶民の知恵を原動力に完成した、下町初の巨大インフラに期待は弾む。涙をのんだみなと大橋断念から30年近い時間がたつだけに、悲願達成のうれしさはひとしおだ。  「ここから羽ばたく子たちがもっと誇りを持てるように、下町の良さを伝える活動を続けていきたい。橋とトンネルをシンボルとしてね」

191とはずがたり:2003/09/28(日) 14:30
http://www.niigata-nippo.co.jp/kokyo/kokyo-0417.html
<5>部分完成             ・

いまだ進まぬ アクセス整備  

 強い潮の香りが漂う中、巨大な灰色の口がぽっかりと開いている。新潟市の信濃川右岸にできた新潟みなとトンネルランプ(出入り口)。今後、延びた道路が同市東部の幹線道路である主要地方道新潟港横越線(赤道)と国道113号に接続することになっているが、同区間の開通までにはまだ数年かかる。5月は、いわば部分完成だ。
 右岸ランプ近くの同市臨港一に住む滝沢宇平さん(72)は昨年7月、未完成区間の整備などトンネル開通に伴う関連事業の整備促進を求めて平山征夫知事に陳情した。滝沢さんは山の下地区自治振興協議会長を務め、地域の問題に積極的にかかわる。
 「初めはトンネルに期待していたが、今のところ何のメリットもない。かえって周辺の交通量が増え、生活環境が悪化するぐらい。工事が始まってかなり時間もたつ。だらだらやるのではなく、つぎ込んだ費用の効果が見えるようにしてほしい」
 滝沢さんは、開通後も使い勝手の悪さが残るトンネルへの不満を率直に口にする。

  ■   ■

 みなとトンネルを含む港口部ルートは当初、1996年度完成をめどに事業が進められていた。しかし、景気の悪化などもあって目標はずれ込んだ。開通を前に、当の国土交通省内部からも「巨額の費用に見合う交通量の確保は厳しい」と不安の声が聞こえる。こうした見方が出る背景には、周辺整備の遅れも影響している。
 ルート建設の主要な目的の一つが港湾交通の円滑化。将来の1日交通量は2万4000台を見込む。とはいえ、それは港湾整備が進展した場合の話だ。トンネル構想が出た後の86年に改訂された県の港湾計画では、新潟西港は2000年を目標に流通拠点化やレクリエーション施設の整備が進むはずだった。
 だが、ゴールとされていた00年に港湾計画が改訂され、先延ばしとなった。目標年次は当初計画より約10年遅れの「平成20年代前半」。将来像でマリーナや緑地を併せ持つ西港の完成が、いつになるかは不透明だ。
 県港湾課では「昔のように資金が潤沢なら、目標に合わせてやりたいが、今は経済が冷え込んでいるから」と先行きの厳しさを説明する。


  ■   ■

 新潟港周辺地域整備計画調査には、信濃川左岸部のみなとトンネルルートを西新潟の海岸部を走る道路とつなぐ構想もある。実現すれば、東西に長い新潟市域を結ぶ広域幹線として機能を発揮しそうだが、今のところ具体的なスケジュールが決まっているわけではない。
 「当初予定通りの成果が得られないといっても、巨大公共事業にはよくあること。長い目で見てほしい」。行政関係者からはこんな声が上がる一方、「結局はやりやすい部分しか事業化してこなかったのではないか」と疑問も漏れてくる。

192とはずがたり:2003/09/28(日) 14:35
 <6>眠りの時代             ・
http://www.niigata-nippo.co.jp/kokyo/kokyo-0418.html
空き地が点在 不況の影濃く  

 移転で生まれた空き地や空き家が点在する新潟市並木町。文字がかすんでしまった「万代島ルート反対」の看板が立つ。古くからの家並みが寄り添うように集まる風景がここ数年、懐かしい風景として注目を集める。
 その一角にある築70年の木造の自宅で、小林洋士さん(53)=同市南毘沙門町=は「10年早く、今みたいな状況が生まれていたらよかった」と残念がる。「下町(しもまち)の町並みと暮らしを守る住民の会」事務局を務め、柳都大橋を含む信濃川左岸部の万代島ルート計画に反対してきた。
 左岸側ルートの中でも、大橋から東堀通までの約1.3キロは既に事業化され、用地買収が進んだ。街の表情も変わった。古い街並みの再評価がもっと早かったら、公共事業費削減の兆しがもっと以前から表れていたら、計画は違ったものになっていたかもしれない―「10年早く」の言葉には、こんな思いがにじむ。

  ■   ■

 柳都大橋を含む万代島ルートは、バブル絶頂期の1992年に都市計画決定された。都市計画決定は私権の制限などを伴うため、いったん決まれば白紙に戻すのは事実上不可能だ。  しかし今、ルートは橋以外はほとんど手が着けられていない状態。さらに、長い景気低迷で公共事業は制約を受ける。時代の急変は計画にくっきり影を落とす。
 当初、「平成10年代後半」とされていたルートの完成目標は大幅に遅れた。国土交通省新潟国道工事事務所では、東堀通までの事業化区間工事は「5年以内には完了したい」と明言。一方で、右岸側計画には慎重な言い回しだ。
 右岸計画のメーンは幹線道路・栗の木バイパスを拡幅工事。中央に高架道路を造り、高架部分で新潟バイパス紫竹山インターチェンジから橋までをノンストップでつなごうというもの。同事務所は栗の木バイパス着工に関して「財政的制約も大きい。今後の交通需要予測を見ながら、時期や高架道路の形状を含めてチェックの必要がある」と説明する。

  ■   ■

 「旧大蔵省から新潟市に2本も連絡路が要るのかといわれたこともあった。それを当時のスタッフが力を合わせ、市の将来のために必要だと認めてもらった」。同市OBは2本の〝橋〟実現にこぎ着けるまでの苦労を語るが、バブル景気から平成不況に至る過程で、時代と計画との間にはズレが生まれつつある。
 「万代島ルート栗の木線沿線権利者同盟」事務局長で、栗の木バイパス高架化に反対してきた今井義隆さん(70)=同市明石2=は「役所の人も、異動すると年の初めぐらいはあいさつに来たもんだが、ここ2、3年は来ない。今は眠りの時代ですよ」と語り、拍子抜け、といった調子で苦笑いした。

193とはずがたり:2003/09/28(日) 14:36

http://www.niigata-nippo.co.jp/kokyo/kokyo-0419.html
<7>危機感             ・
商店街再生へ 住民自ら行動  

 信濃川左岸、柳都大橋たもとのほど近く、南北に伸びる「こんぴら通り商店街」は現在、ひっそりとたたずむ。港町新潟の発祥地ともいわれ、大正時代は新潟一のにぎわいと評判だった。商店街を取りまとめる西厩島町町内会の大西春子会長(72)は、海産物商の家に嫁いだ当時を思い出す。「店が狭い小路にまで軒を連ね、市も並んだ。本当に無い物がないほどだった」
 バブル崩壊後、急速に客足が落ち込んだ。現在の店舗数は往時の半分以下の24軒。店の跡が駐車場に変わってできた空間もちらほら目立つ。約150メートルの通りのうち、北端約20メートルが万代島ルートにかかる。この部分にあった花月公衆市場は3月末、取り壊された。
 ルート計画では、信濃川右岸から柳都大橋に続いてきた高架道路が、この北端の手前で着地する。「橋ができたら、常連客は大型郊外店に通うのではないか」「幅広い道路を横断してまで買い物に来るだろうか」。客減少に追い打ちをかけかねないルート計画の浮上は、商店街に危機感をもたらした。

  ■   ■

 「このままでは通りはさびれるばかり。昔のこんぴらに戻ろう。それには昔を知っているお年寄りを呼び、思い出を語ってもらおう」。1997年、店主ら約10人に市が加わり、商店街活性化プロジェクトがスタートした。少子高齢化に備え、お年寄りが快適に歩ける通りをめざそうという大西さんの提案を受けたものだった。
 会合や勉強会を開き、車道と歩道のバランスなどを議論した。その結果、通りの中で車を減速させるために車道をせばめてゆるく蛇行させ、その分歩道を広げるなど改良の方向が決まった。議論開始から5年を経て念願はかない、5月から工事が開始される。7月に完成の予定だ。
 歩行者を重視した商店街再生プロジェクトには、〝車社会への抵抗〟もあった。通りの周辺町内の住民や市から「通りを交互通行にしてほしい」との声も出たが、商店街を挙げて断り、従来の一方通行維持を守った。

  ■   ■

 「(計画に)反対したって何したって、私たちは残る所なんだ。生きていかなければなりませんから」。大西さんの鋭い口調に、にぎわい復活への情熱がほとばしる。カメラ店主の小林壹朗さん(69)は、もし柳都大橋ができなかったら、何もしないまま商店街は消滅していただろうと思う。「計画に自分たちの危機意識が奮い起こされ、行動を起こすきっかけになった」
 大西さんらの思いを受け継ぐ若手も燃える。酒店5代目の吉川章大さん(31)は「暗い話題が多い今、人々がきっと求めている心のふれあいは大型スーパーでは味わえない」と商店街の価値を強調する。「不安の声も聞くけど、近くの道路の交通量が増えるんだから逆にチャンス。個々の店のやる気とやり方次第で、客は来る」と前向きだ。

194とはずがたり:2003/09/28(日) 14:37

http://www.niigata-nippo.co.jp/kokyo/kokyo-0420.html
<8>船出             ・
両岸交流の夢 ネットで展開  

 柳都大橋と新潟みなとトンネル開通にちなんできょう20日、「臨港丸」という名のホームページ(HP)が開設される。開設するのは、インターネットやガイドマップで、生まれ育った下町地区の情報発信を続ける野内隆裕さん(34)=新潟市艀川岸町=と、山の下地区を紹介するHPを開いている、大倉淳一さん(32)=同山の下町=の2人。インターネットを通じて知り合った2人は、「信濃川を挟んで向き合いながら、すぐに渡れなかった両地区が橋やトンネルでつながる。今後の交流の証しとして開設した」と話す。
 HPのタイトルは、万代橋下流で1924年から40年まで、両岸を連絡していた渡し船「臨港丸」から拝借した。ピーク時は1回100人以上を乗せ、1日25往復もしたという。約六十年ぶりの両岸の〝渡し船〟復活。開通後には、インターネットで知り合った仲間が実際に会うオフ会を呼びかけ、橋とトンネルを散策する計画だ。

  ■   ■

 新潟の歴史に興味を持つ野内さんは、下町の寺や路地のお地蔵さんなど、地元の名所名物をHPでこれまで紹介してきた。「僕にできることは、今ある新潟の姿を記録に残すこと。新潟島と歴史的にかかわりの深い山の下をもっと知りたい」と語る。行きたいときに、すぐ対岸へ足を伸ばせる橋とトンネルは、歓迎すべき新スポットだ。「今まで見たことがない角度からまちが眺められるのは新鮮。新しい新潟の発見になる」と、開通を心待ちにしている。
 一方、大倉さんは「地元の情報を発信し合って交流すれば楽しいし、新潟全体のまちづくりにもつながる」と話す。その半面、橋とトンネルに投じられた1500億円の重みも感じる。「せっかくできたんだから、生かすも殺すも使い方次第」。新しいHPでは、野内さんの下町情報、大倉さんの山の下ガイドが一つのページに仲良く同居して、アクセスを待っている。

  ■   ■

 地元では5月19日の同時開通を前に、記念イベントの準備が進む。祝賀ムードが徐々に高まるなか、「欲しいときにできなくて、できるとなったら2本もできた」という住民の声も聞こえる。住民の手の届かないところで進められてきた巨大プロジェクト。「なぜ2本も?」の声はかき消されがちだ。
 2本の〝橋〟の後に続く大型公共事業が新潟市内にある。JR新潟駅の周辺整備構想だ。同駅を中心に約2.5キロの立体化と、それに伴う駅周辺整備で、全体の計画事業費は1800億円と巨額だ。駅前広場など周辺整備では、計画に市民意見を反映させる手法が試みられている。
 手法を立案したのは新潟駅コンペ市民窓口委員会の与田一憲委員長。成熟した時代に向かう中で、公共事業と市民のあり方について「市民一人ひとりが、地域全体をどうするかという視点で、意思を表明できるかどうかが重要」と指摘する。
       (おわり) (このシリーズは報道部・小林啓之、田島慶太、写真部・荒川慶太が担当しました。)


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