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都市計画道路・高速鉄道スレッド

190とはずがたり:2003/09/28(日) 14:28
 「新潟島」は、1972年に関屋分水路が通水し、同市の中心市街地を含む一帯が島状になったことから付いた俗称。信濃川と日本海に挟まれた下町地区はかつて、水上交通の拠点として栄えた港町新潟の中心地だった。だが、車社会の成熟とともに〝どんづまり〟の不便な地域と化し、高度成長期には郊外への移住者が急増。地区人口は60年の約5万4000人が、80年には約3万人まで減少した。現在は約2万3000人。

 同協議会は68年に発足した。架橋や海岸決壊を防ぐ養浜事業の実現を求め、陳情などを重ねてきた。「2本開通なんて夢のよう。1本の何倍も精神面でプラスになる」。田宮理事長は「この地域に住まなければ分からない喜び」をぶつける。現協議会会長の本間茂・本間組会長と幼なじみ。長年、下町の明日を語り合ってきた。

 達成感のすき間には苦い思い出もよぎる。会長に地元大手ゼネコンの本間組社長、名誉会長に地元選出の小沢辰男元衆院議員を擁した協議会には、突き放した見方もあった。「本当に地元のために橋がほしかったのに本間組のための会といわれた。政治の力も陳情を成功させるには必要だった」と悔やしがる。

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 つきたてのもちが湯気を上げる会場を、佐藤豊・協議会青年部長(51)が大会の進行に駆け回る。気さくな笑顔には、2本の開通で生まれ育った下町が、開かれた便利な地域に変わる自信があふれる。

 大火や地震の経験から「災害時に逃げるための橋」の必要性を強調した先輩の運動が、とうとう実を結ぶ。だが「おれは、橋があれば逃げられると直接思ったことはない」と佐藤さんは冷静だ。〝命を救う橋〟は「『便利だから』では通用しない行政を説得する方便だった」。
 そうした切実な庶民の知恵を原動力に完成した、下町初の巨大インフラに期待は弾む。涙をのんだみなと大橋断念から30年近い時間がたつだけに、悲願達成のうれしさはひとしおだ。  「ここから羽ばたく子たちがもっと誇りを持てるように、下町の良さを伝える活動を続けていきたい。橋とトンネルをシンボルとしてね」


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