レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。
「俳句ダービー」?
伏儀の子とペテロの対決
ローマ帝国での宗教争いも興味深い課題なのですが、
○○さんなど、詳しそうな人が多そうなので私は追いませんが、
キリストは伏儀派の一派、ミトラ教により作られた飾り。
「伏儀さまの権威に従いなさい」という思考なのだが、
ヒクソスが伏儀に屈服するはずがない。
ローマ帝国にマナセ族が関与している可能性を平御幸が指摘していたが、
「この岩(ペテロ)の上の私は教会を築く」教会は、
キリストの権威を、
教会(伏儀と関係ない人)が勝手に判断して使用できるという思考から、
ヒクソスが作ったと仮定したい。
なぜ自由の女神(イナンナ)がアメリカ、日本にあるのか理解できないので、
ローマ、ヨーロッパ史も複雑そうです。
イナンナの子をエフライム、マナセと捏造したいのかもしれませんが、
よくわからないところなので、私は別の課題に移ります。
秋刀魚の雑談(根拠なし)
「北太平洋に広く生息し、日本海を含む日本近海からアメリカ大陸沿岸の
アラスカからメキシコに分布する。
季節によって広い範囲を回遊する魚として知られる。」
↓
やや海洋民族と活動範囲が違うようだ。
インド洋で釣れるだろうか。
「志摩では天岩戸の神饌の一つ。11月23日には岩戸の前で秋刀魚を焼いて食べる。」
↓
ヨセフの相手などしたくなくて、イナンナは引きこもった。
「岩戸隠れの前と後でアマテラスの性格が変わっている
(岩戸隠れの前は独断で物事を決めているが、後では高木神の指示を仰いでいる)」
↓
天照はヒクソスに屈服させられたわけですね。
でも渋って出てこないので、岩戸の前で天照の好物の秋刀魚を焼いて釣った(苦笑)
私は歴史で釣ることにします。
関係ないのですが、
狛犬は、穢貊の繋がりで、
「八」の字、バールかイナンナを指すのかもしれない。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002343M.png
サンマなぞ
・・魚群探知機と囲い網があればたやすく捕れる。あわれなものよ。
・・「魚影の群れ」の夏目雅子はよかった。
*
ところで、tomboのトンちゃん!!
画像掲示板のnesuさんが心配してますよ〜〜〜
(無題)
>・・女媧(?〜?)
姓は風。女希、女皇。人頭蛇身の神。伏羲の妹にして妻でもある。大地に大洪水が起こり伏羲とともに生き残った。泥をこねて人間を造ったという。共工と祝融が帝王の座を争ったことがあったが、帝王となることができなかった共工が、怒り心頭に発して天を支える柱の山(不周山)を崩したため天変地異が起こった。女媧は五色の石をこねて天の亀裂を繕い、巨大な亀の足で天の四隅を支えたという。三皇のひとりと数えられることもある。伏羲とともに古代苗族の兄妹神説話・洪水説話から成立したらしい。
・・伏羲がバアル、女媧がアナト、というのはたしからしい。
・・アナトは穴門。長門のこと。
http://www.246.ne.jp/~y-iwa/hikojimakodaimojiiwa.htm
*
・・バアルはba-alで、dig、excavate… (511x: ED IIIb, Old Akkadian, Lagash II, Ur III, Early Old Babylonian, Old Babylonian) wr. ba-al; bal; bal3; bal4; pe-el "to dig, excavate; to unload (a boat)" Akk. herû
…to unload (a boat)というのはおもしろい>^_^<
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002345M.png
(無題)
http://umbra.nascom.nasa.gov/comets/movies/SOHO_LASCO_C3_closeup.mpg
・・2つの彗星があいつで太陽に衝突 【1998年6月3日 NASA発】
トンちゃんも釣り糸を垂らしていたか…
>>・・伏羲がバアル、女媧がアナト、というのはたしからしい。
フェニキア神話では、バール=伏儀、アナト=女カか、了解。
どうも西にいくほど話が付け加わっているように見える。
長江−伏儀+女媧
印度−伏儀+女媧+神農
メソポタミア−エンメルアンナの二人+ウバル
フェニキア−伏儀と神農が合体(同一視された)でバアル+アナト(女媧)
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Moto.html
「モトは自分を神々の会議に招かなかった腹いせに、バアールを冥界へ呼び出し、死者の食事を与え、彼を殺してしまう。妹のアナトは、彼を殺した犯人を捜し回った。そして、遂にモトを見つけた彼女は、モトの体を切り刻み大地にばらまいた。すると、バアールは無事生き返ったのである。」
フェニキアでは、モト(セト神、ゼウス系)が冥界王で、
体が切り刻まれているが、
エジプトでは逆にオシリスが体を切り刻まれている。
バアル−オシリス−伏儀の復活を願う思考は一緒だが、
西にいくほど、伝言ゲームのようにずれていく。
ミタンニで、死んだ伏儀の精霊が子供に乗り移る、ミトラ思考誕生。
エジプトのイナンナ派が、ミトラをイナンナの子供として取り入れた結果、
アマルナ一神教に繋がったか?
東が夫妹神話の元だとすると、伏儀は中華出身か?
平御幸説のように前2344年ごろに中華に洪水がなかったか?
もしくは前2344年ごろにほろびた遺跡が長江にないか、興味深い。
俳句ダービーの裏事情も興味深い。
歴史餌を釣り針に。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=unload&kind=ej&mode=0&base=1&row=0
「un・load
━━ v. (積荷などを)おろす, (船・車などの)荷をおろす; (心などの)重荷をおろす ((on, onto)); 厄介払いする ((on)); (銃・砲の)弾丸[弾薬]を抜きとる; (持株を)処分する; 【コンピュータ】アンロードする.」
to unload (a boat)
↓
船の積荷を降ろす。
↓
バールが、ドラヴィダで、伏儀と女媧を船から降ろして留まらせたことを指すか?
「to dig, excavate」
↓
土を掘る、農耕→神農。
考えようによってはぴったりはまる。
ミタンニのフルリ語
http://www.lingua.tsukuba.ac.jp/ippan/JGL/2004/2004-Ninomiya.pdf
「フリ人が確実にいたと推察される地域は、ミタンニ、ヌジ、
アララハ、ウガリット、カトゥナである。」
同サイトによると、この時代の共通語はアッカド語で、
アッカドはヒクソス勢力の言語と推定したが、
ミタンニがイナンナ派、ミトラ教、穢貊に繋がるので、
フルリ語使用者は、シュメール勢力の可能性と仮定できる。
調べてみたい。
以下のサイトによると、
http://www.ism.ac.jp/editsec/toukei/pdf/53-2-285.pdf
ヌジは、イラクのキルクークにある青銅器遺跡。
アラプハという小国の都市。
大半がフルリ人。
「フルリ人はヒッタイトの歴史でも大きな役割を果たした。」
「現在知られている彼らの根拠地はスバル(Subar)の地であり、
ハブール川流域や後には北メソポタミアと歴史的シリアのいたるところで小国を形成した。」
ハブール川はユーフラテス河の支流、北シリア。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Expedition/03/030400.html
「ハブール川流域のテル・カシュカショクの発掘権を得た。この遺跡も四つのテルからなる遺跡群であり、われわれが掘ったのは二号丘と名づけた舌状の部分である(一九八七、八八年)[挿図5]。ここでは、土器新石器時代に集落が営まれていたが、ウバイド期からウルク期に至ると一号丘の住民の墓地とされた。」
カシュカショク遺跡はウバイド期に当たるようだ。
「知られている限り最初のフルリ人の王国は紀元前3千年紀の終わりに
ウルケシュ市の周辺に登場した。」
「紀元前25世紀頃から記録に登場する。」
「ウバイド文明は、ザグロス高原北西部付近に文化的根拠地」
ウバイド人は文字を持たない先−言語学的シュメール人。
そこへペルシア湾からエンメルとウバル(伏儀の一派)が現れて文字をもたらした。
ウガリットにもフルリ人がいて、後のミタンニの主勢力のフルリ人は、
北シリアなどフェニキアとの繋がりも仮定できる。
ミタンニが穢貊に繋がり、百越に繋がるのなら、
東の海洋民族との繋がりも仮定できる。
地図は以下のサイトから、ハブール川。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Expedition/03/030600.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002349.jpg
ザグロス山脈とフルリ人
「ザグロス山脈(Zagros Mountains、ペルシャ語で???????????? ?????)は、イランの南西部からイラク、トルコそれぞれの国境線となる山脈である。最高峰はトルコ領内のアララト山(Mt. Ararat:5,165m)で、イラン領内にはザルド・クーフ山(Zard Kūh:4,548m)が聳える。山脈内にはアケメネス朝の首都、ペルセポリスの遺跡がある。」
ウバイド、ウルリ人はザグロス山脈と関係が深いらしいが、
アララト山がある。
「ノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山」
「紀元前9世紀から紀元前585年までアナトリア東部に存在したウラルトゥ王国」は、
「ミタンニ王国を築いたフルリ人たちの言語、フルリ語と近い関係にあり、
両者をまとめてフルリ・ウラルトゥ語族と呼ぶ」が、
「「ウラルトゥ」の名はアララト山(Ararat)とも関係づけられる」。
ウラルトゥ、ミタンニ、フルリ人、ウバイド、アララト山、ノア、伏儀、
前2000年付近のシュメール勢力が多く関わっていて、興味深い。
ウバイド(フルリ人)のところへ、ドラヴィダの3人が、
ペルシア湾から文字を持ってやってきた、と推定されるが、
イランとイラクの中間のザグロス、
なかでもアララト山が彼らに神聖視されたか?
地図は以下のサイトから、ザグロス山脈。
http://junta-enviro.blog.ocn.ne.jp/seasons/2005/10/index.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002350M.jpg
ミタンニとインドの関わり
http://www.wdic.org/w/CUL/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%AA%E4%BA%BA
「ザグロス山脈からシリアに至る領土を支配したミタンニ王国」
「フルリ語はインド・ヨーロッパ語ではないが、」
「ミタンニの支配階級である戦士は自分たちをmaryannu(marya、勇士)と呼んだ。これらのことから戦士はインド・イラン系(おそらくインド系に近い)の出自を持つと考えられる。」
「(ミタンニ王の名は)いずれもサンスクリットで解釈できる名である」
同じくフルリ人や、秋魚によるとアナト派と強い関連を持つヒッタイトが、
「紀元前1350年頃にミタンニに攻め込み、トゥシュラッタを暗殺した」
のも、インドとの関わりからイナンナ派と対立した、という仮定もできる。
「フルリ人社会あるいはミタンニ王国における支配階級が
インド語派の出自を持つためと想像されている。」
問題の紀元前1300年前後ですが、
ヒッタイト、エジプト、アッシリア、バビロニアが関わる、
ガデシュの戦いは、勢力の特性を知るために大きな手がかりになりそうです。
紀元前1285ガデシュの闘いの時点で、
エジプトはアマルナ革命が終わった後、
第19王朝、ヒクソス。
バビロニアは、カッシート王朝(バビロン第3王朝)、恐らくヒクソス
アッシリアは中アッシリア時代。
「中アッシリア時代の初期にはアッシリアはミタンニ王国の勢力圏下に置かれていた。このためこの時期のアッシリアに関する史料は少ない。アッシリア史における転機となったのがアッシュール・ウバリト1世の治世である。彼の時代に、アッシリアはミタンニの影響力を完全に排除し、大国としての道を歩み始めることになった。このことは彼がエジプト王へ向けて送った外交文書アマルナ文書からも確認できる」
ミタンニ勢力を妥当して中アッシリアを起こした、
アッシュール・ウバリト1世は、【極めて興味深いことに!!!】、
アマルナ革命を起こしたエジプト王アメンホテプ4世(アクエンアテン)を、
「我が兄弟」と呼んだ外交文書を残している。
中アッシリアもアマルナ革命と深い関係を持つようだ。
ミタンニのミトラ教も、アマルナ革命の思考との近さを感じさせるが、
アッシリアとアマルナも近い。
紀元前1300年前後の、
ミタンニ、ヒッタイトがわからないので追ってみたい。
地図は以下のサイトから。
http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/war/bc13/bc13assyria.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002351.png
ヒッタイトはフェニキア海洋民族?
ヒッタイトは、
「通説では紀元前1190年に、民族分類が不明の「海の民」によって滅ぼされた」
とされているが、
アナト=イナンナ=海の民で、近い関係と推定できるので、通説は誤り。
「紀元前1595年頃、メソポタミアの古バビロニアを滅ぼす」
↓
ハンムラビなどのシュメール系楚を滅ぼすのは、
ヒッタイトが周辺海洋民族だからか?
中華とは近いが対立もする。
「紀元前1450年頃、ヒッタイト新王国の成立。フリ文化の色彩強まる」
↓
フルリはウラルトゥ、ミタンニと近い。
ヒッタイト古王国と新王国の違いの情報も欲しい。
「紀元前1330年頃、シュッピルリウマはミタンニを制圧する」
↓
ミタンニと対立。
アッシリアとも対立するミタンニは、フルリ人ながら、
単純なシュメールではなさそうだ。
その原因はインド系支配層か?
「紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突。
ラムセス2世のエジプトを撃退する。」
↓
ヒッタイトの天敵はヒクソスのエジプトなので、
ヒッタイトはヒクソスではない。
トロイアの東に位置するヒッタイトは、
ヒクソスに滅ぼされたトロイア文明とも近かったようだ。
ヒッタイト新王国、中アッシリアにはシュメール色が強い。
http://homepage1.nifty.com/teruminasu/gaiyou.html
「なんと「ボアズキョイ文書」の中には、シュメール語、アッカド語、ヒッタイト語、ルウィ語、パラ語、(原)ハッティ語、フルリ語、の7種類もの言語が使い分けられていたそうです。
そして、当時の国際語であったアッカド語とメソポタミアの古典語のシュメール語以外の5つの言語が、ヒッタイトの国内語として使用されていたことがわかって来たそうです。この事は、当時のヒッタイトの国内に、それらの言葉を使っていた5つつの異なる民族が住んでいた事を意味します。」
「ヒッタイト帝国と一時期覇を競ったミタンニ王国は、フルリ系の人々が打ち立てたもので、ヒッタイトは、この国からも各種の影響を受けているようです。」
ヒッタイトは、イナンナ派の強い、海洋交易国家で多言語他民族か?
海洋民族はフェニキア、倭人に当たる。
地図は以下のサイトから、
http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/war/bc13/bc13egypt-hitti.htm
ウガリット、ビュブロス、シドン、テュルスなど、
フェニキアの重要都市は、ガデシュの闘いのすぐ傍にあり、
ヒッタイトとフェニキアの関係の近さを仮定できる。
話題はずれますが、
フェニキアの重要都市は、後の南北イスラエルのやや北西。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002352.png
ガデシュ時代の諸勢力
フェニキア人は、
「紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃にティルス、シドン、ビュブロスなどの
都市国家を形成して海上交易に活躍」
↓
ガデシュの闘いと、戦場、時代が同じで、
ヒッタイトとフェニキアの近い関係を仮定できる。
ヒッタイトはフルリ人の関係で、ミタンニと関係が近いが、
(倭人・フェニキアで同族かもしれない。)
ガデシュの闘いに力を削がれ、アッシリア−ミタンニの対立に介入できなかった。
アッシリアはミタンニから独立し、さらにミタンニを従属させたので仲が悪い。
(アッシリア(漢)−ミタンニ(ミトラ化して中華文化を受容した匈奴、もしくは倭人))
このように仮定しておく。
ミタンニについては、インドを調べながら後に考察する。
ミタンニを叩きたいので、
ヒッタイトからの、ミタンニへの援助を防ぎたいアッシリアは、
ガデシュの闘いにおいて、エジプトに「小規模の」援軍。
小規模なのはアッシリアもヒクソスと仲が良くないから。
カッシートは、海の国を滅ぼしているので、ヒクソス系と以前に推定したが、
推定を取り下げる。
「カッシート人は外来の勢力であったが、バビロニア文化を極めて好み、バビロニアの神々を祭る神殿を盛んに建築し、公文書その他はほぼバビロニア語(アッカド語)を用いるなどし、早い段階で現地に同化した。」
「言葉は主にバビロニア語(アッカド語)が使用されたが、バビロニア文化を愛好するカッシート人達によって、バビロニア以前のシュメール文化も再興され、宗教文学にはシュメール語が使用される場合もあった。」
↓
アッカド語はヒクソスを思わせるが、シュメール語は逆の方向。
「紀元前1595年にヒッタイトのムルシリシュ1世がバビロンを攻め倒すと
バビロン第三王朝を開いた」ように、ヒッタイトとも関わりがありそうだし、
ヒクソスのように強く反シュメール的ではないので、
素朴な遊牧民なのかもしれない。
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_History_West.html
「カッシート人の数は非常に少なかったので、
数世代で完全にバビロニア人の中に溶け込んでしまった。」
↓
カッシート王国は、徐々に長江系シュメールに同化されたと理解しておく。
そのカッシートはヒッタイトと同盟を組んで、
アッシリアに対抗するが、それは隣接する中華内の対立で、
ヒッタイトが力を強めれば、ミタンニが盛り返し、
隣接するアッシリアの力が弱まるから、と推定。
マッティヴァザMattivaza 紀元前1350年 - 紀元前1320年頃
サットゥアラ1世Sattuara I 紀元前1320年 - 紀元前1300年頃
ヴァシャサッタVashasatta 紀元前1300年 - 紀元前1280年頃
サットゥアラ2世Sattuara II 紀元前1280年 - 紀元前1270年頃
の時点でミタンニはアッシリアに従属し、滅亡している。
ガデシュの闘いの後、エジプトと講和したヒッタイトは、
関係の近いミタンニを援助しようとしたが、
戦争で疲弊していたため、逆にアッシリアに負けてしまい、
ミタンニは滅亡したと推定。
エジプトはヒクソスだが、
ガデシュの闘い以外は、地理的に距離が遠いので、
勢力争いへの関係が比較的に薄いと仮定。
以下のサイトからヒッタイトの製鉄。
http://www.atomlt.com/06school/sc04/sc04_02.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002353M.png
ヤマの起源がわかったあるよ。
以下、ウィキペディア+私見
閻魔
ヤマ
本来はインド・イラン共通時代にまで遡る古い神格で、
アヴェスターの聖王イマ(伏儀)と同起源である。
リグ・ヴェーダでは人祖(人は言葉を持つから人、伏儀)ともされ、
ヤマ(伏儀)とその妹ヤミー(女媧)との間に人類が生まれたという。
人間で最初の死者となったゆえに死者の国の王となった。
(オシリスは、エジプトで冥界の主。)
インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるヤマの国に行くとされた。
(天国の起源。)
しかし後には死者を裁いて地獄に落とす恐るべき神と考えられる様になり、
ついには単なる死神としても描かれる様になった。
(冥界の恐ろしさから。)
イエメン、オマーン、邪馬台国に連なる「ヤマ」は、閻魔=伏儀で、。
リグ・ヴェーダ時代のインドは、バールのシュメール、インダス文明。
「インドのサンスクリット語とは極めて近縁の言語で、
特にサンスクリットの最古層であるヴェーダ語(リグ・ヴェーダなどに用いられた言語)
とは文法的にも酷似している。」
「アヴェスター語は更に、開祖ザラスシュトラ自身の作と思われるガーサー(詩)
に用いられるガーサー語と、後年弟子や信者達によって付け加えられた部分に
用いられる新体アヴェスター語に分けられる。 」
↓
ゾロアスター教は、伏儀の白黒を元にしている。
「広義には、リグ=ヴェーダ(最古部は紀元前1500年頃)に用いられていた言葉にまで溯り、後の時代の、仏典などが記された仏教混交サンスクリットをも含む。
そのように古典時代から広く使われて多くの文献を残しているため、サンスクリットは、ヨーロッパで古典学術用語として栄えたラテン語・ギリシア語とともに「三大古典印欧語」と称されることもある。 同じインド・イラン(アーリア)語派に属する古典語であるアヴェスター語とは非常に類似している。」
↓
サンスクリット最古層=アヴェスター=ゾロアスターは、
紀元前1500年の、インダス文明滅亡の前の文化を継承する、
シュメール=伏儀系の文化。
アーリア人(?)によりインダス文明は滅亡したが、
同じ紀元前1500年頃に起こった、
支配層がインド系のミタンニは、インダス文明の逃亡者と、
フルリ人のシュメール系国家か?
兄妹夫婦伝説を探せあるよ。
失礼、インダス文明は前1800年に衰退したが、
「その後、前1500年頃にアーリヤ人がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に移住した」
ように、
ミタンニは徐々にアーリア人によりインドから追い出された。
↓
「紀元前1700年〜1500年ごろ - フルリ人による征服」
前1500年にいたって、国家としてミタンニに繋がるようだ。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002355M.png
ヴェーダにも濃い伏儀の痕跡
以下、ウィキペディア+私見
サンヒター(本集)
(ヴェーダの)中心的な部分で、マントラにより構成される。
リグ・ヴェーダ
ホートリ祭官に所属。神々の讃歌。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録。
アタルヴァ・ヴェーダ
ブラフマン祭官に所属。呪文集。他の三つに比べて成立が新しい。後になってヴェーダとして加えられた。
「アタルヴァ・ヴェーダ(Atharva-Veda)は主にバラモン教の呪術的な儀式のしきたりが記されているものである。4ヴェーダ本集のひとつ。古い部分は紀元前1500年ころには成立し、時代とともに書き加えられていったと考えられる。当初は、ヴェーダとして認められていなかったが、紀元前500年ころから徐々に認められるようになり、現在では4ヴェーダのひとつと称されるようになった。たとえば、古い仏典でヴェーダといえば「3ヴェーダ(リグ・サーマ・ヤジュル)」のことで、アタルヴァ・ヴェーダは含まれていないことが多い。また、仏典には「わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行ってはならない。」(スッタニパータ)とかかれている。」
「紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、インダス文明などを構成した
先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる」
ので、バラモン教には階級固定の狙いが強いのだろうが、
釈迦はバラモンと距離を置いたと理解できる。
まずインダス文明に連なるリグ・ヴェーダがあった。
↓
次に征服者のアーリア人が階級支配の正当化のために、
アタルヴァ・ヴェーダを付け加えた。
↓
バラモン教と対立する仏教が広まった。
↓
仏教に対して、バラモンはヒンドゥー教を作った。
↓
ヒンドゥー教は現在でも盛んで、
同じヒクソスだからか、イスラエルの10氏族も、
ヒンドゥーにはそれほど入りこんでいないように見える。
その代わりに、反バラモン的な釈迦を勝手に仏像化して、思想的に殺した。
バラモンにとって「カースト制度の維持」が何よりの課題だったから、
土着勢力を諭すために、ヴェーダを使用したのだろう。
私は土着思想に興味がないが、
エフライム族が記紀で、列島の歴史に自分たちを繋げる過程をみても、
支配には土着信仰の取り込みが有効。
(関係のない人同士を、勝手に関係あるように捏造するのは、よくある手口)
(私もこの手の詐欺から自分を守らないといけないのです。)
(かわいこちゃん好きは事実なので、捏造ではないです。)
メソポタミア、中華とは別系統の、
インダス・エジプト系シュメールの思考は、
インダス→ミタンニ→アマルナ→エルサレム、などの路線で、
ミトラ教、ユダヤ教、原始キリスト教に繋がった。
大雑把だが、このように仮定しておく。
転生と復活の類似
インドも神が多くて複雑なので、
今は深く追わないが、一つ訂正と、少しだけ推定。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-62.htm
「リグ・ヴェーダの賛歌に明らかに示されているように、
カースト制度の基本的な形式は、誕生ではなく職業に依存していたらしい」
↓
「リグ=ヴェーダ」の成立はBC1200-1000年頃で、
インダス文明滅亡後、何百年間か経過しているが、
「ヤマ」は伏儀としか考えられない。
インダスの伏儀信仰を、階級支配を正当化するための教説に徐々に変更し、
リグ・ヴェーダとして、庶民に普及させたと推定する。
リグ・ヴェーダ編纂の時点で、既にカースト制度が狙いにされている。
ミトラ、オシリス、キリストに繋がる、
伏儀の「復活」という思考は、インドの「転生」思想と近い。
インダス−エジプト・シュメールの思考は継続していると推定。
中華・メソポタミアは、「復活」「転生」のないバージョンのシュメール文化。
インダス系は神話体系を構築し、
メソポタミア系は泥泥した思考を持つ、シュメールの二つの枝分かれ。
個人的には、私は私で誰の転生でも代理でもありません、という立場で、
どちらかといえばメソ・中華型に近い思考をするが、
私自身は誰とも何処とも関係ない、ことが信条なので、
繰り返しますが、私は私。
区別なくただ面白い書物を求めて、勉強しています。
インダス型では「カラマーゾフの兄弟」。
メソポタミア型では「史記」。
この2冊が今のところ、私にとって最も重要な本です。
阿修羅はインダス系シュメールか。
ウィキペディア+私見
アスラとは、インド神話・バラモン教・ヒンドゥー教における神族または魔族の総称。
リグ・ヴェーダに見られるように、古代インドにおいてアスラは悪役的な要素はなく、
(インダス文明の担い手、アスラ)
デーヴァ神族(ヒクソス系?)の王インドラに敵対することもある天空神・
司法神ヴァルナの眷属を指していたが、
その暗黒的・呪術的な側面が次第に強調されるようになり、
時代が下った古代インドではアスラを悪として扱うようになる。
(インドの支配者がインダス文明からバラモンに変わったから。)
インド神話がバラモン教からヒンドゥー教へと発展し、シヴァ・ヴィシュヌが
新しく主神となると、アスラはヴァルナの眷属という設定が薄くなる。
そのうち、デーヴァ族(ヒクソス?)に敵対する種族であれば、
何でもアスラと呼ばれるようになった。
アスラが仏教に伝わると、呼び名が「阿修羅」と変わった。
ヴァルナは、ミタンニ・ヒッタイト条約文にその名があげられ、
『リグ・ヴェーダ』では友愛と契約の神ミトラと密接に結びつき、
ミトラとともに太古のアスラ族(インダス文明)、アーディティヤ神群を代表した。
ヴァルナは、ゾロアスター教の、アフラ・マズダーと起源を同じくする。
アフラは語源的にはアスラ(阿修羅)と共通とされる。
アーディティヤ神群は、女神アディティ(女カ系?)の息子たちとされ、
ヴァルナ、ミトラ(伏儀)を首領とする一群。
シヴァ(伏儀)の妻はパールヴァティー(女カ)で、
その間の子供がガネーシャ(キリスト)である。
また、シヴァ神の乗物はナンディンと呼ばれる牛(バール)で、
ナンディン(バール)も神として崇拝されている。
ヴァルナとミトラは表裏一体(白黒八卦で一体の伏儀)。
インドの神話が分かりにくいのは、
同じ神(伏儀と水共の対立)が、転生、化身、表裏一体などで、
色々な名の神に分裂するためと考える。
大まかに言えば、伏儀と水共の対立の派生と考えられると仮定。
インダス・エジプトの特色として、転生、復活、化身があり、
それがミトラ・キリスト教に繋がったという推論は既に述べた。
個人的には、私は集団、チーム、教え、などとは永久に無縁です(苦笑)
私と他人との関わりは、
1、かわいこちゃんへのおさわり
2、引用
3、茶飲み話
この3点のみ、という事実はすでに述べました。
これは永久に変わりません。
○○はカタカムナでワワ♪(秋刀魚釣り)
明日も調べ物あるね。
文学書とかわいこたむ生活はいつになることやら。
ガンダーラ、マトゥラの仏像仏教とチベット、吐蕃王朝、
大同などの経路を追いたい。
地図を見ると、ガンダーラもインドからは離れていて、
アレクサンドロスの流れは南下していないように見える。
アフガニスタン・キルギスなどに失われた10氏族が見つけられるのも、
北イスラエルによる仏像仏教の制作説と平行で納得。
地図は以下からガンダーラ。
http://www.inokozaka.co.jp/gandhara/0tiri.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002359.png
インド史をさらっと調べる。
以下、ウィキペディア+私見
十六大国
紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃にかけて古代インドに形成され
相互に争っていた諸国の総称。
アーリア人の指導者によって率いられパンジャーブ地方に勢力を築いたのは紀元前1500年頃であり、彼らは先住民を制圧して牧畜生活を始めた。この時期から500年間で、カースト制の原型が形成された。
紀元前1000年頃からの後期ヴェーダ時代にはいると、アーリア人達はガンジス川流域にも勢力を拡大し各地に定着していった。ラージャンが優位を確立していき、部族の足場が数多く形成されて行った。
その後、紀元前6世紀に16国時代にいたる。
マガダ国は、カースト制度がなく、バラモン勢力と対立した。
釈迦の釈迦族を征服したコーサラと、マガダ国は対立関係にあり、
「ビンビサーラはコーサラの内部撹乱を目的として釈迦に対し出家を思いとどまるように
説得し、戦象を提供して支援することを申し出ている。しかし釈迦はこの申し出を
拒絶した。後にビンビサーラは仏教に帰依し、釈迦に対し竹林精舎を寄進している。」
ように、
バラモンと対立したマガダ国は、釈迦とも関係が深く、
インダス文明の流れと推定できる。
バールハドラタ朝−シシュナーガ朝(釈迦を後押し)−
ナンダ朝(紀元前四世紀、シュードラ(奴隷)の王朝)と、
マガダの流れにはインダス文明が残ったようだ。
同じマガダの地で、ナンダ朝を滅ぼして起きたマウリヤ朝については、
後に調べたい。
ガンダーラ国
紀元前6世紀後半にはアケメネス朝ペルシアの支配下に入っていた。
こうした点において、インドの他の地域とは異なる運命に置かれた国である。
マツヤ国
伝説によれば、太陽神スーリヤの息子マヌ王(伏儀)に、
7日後に大洪水が起こり全ての命を破壊する事を予言した、
ヴィシュヌの第一の化身の大魚。
「彼(伏儀)に船を用意して七人の賢者と全ての種子を乗せるよう言うと
魚は姿を消した。やがて大洪水が起こり、マツヤは船にヴァースキを巻きつけて
ヒマラヤの山頂まで引張った。こうしてマヌは生き残り人類の始祖となり、
地上に生命を再生させた。」
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002360.png
チャンドラクプタはアレク3世の流れか?
マウリヤ朝の背後関係には裏があるかもしれないのですが、
わかる範囲でさらっと調べます。
紀元前317年頃 - 紀元前293年頃
チャンドラグプタが、シュードラ系のナンダ朝を滅ぼす。
ナンダ朝で「身分秩序が乱れていた」ことが背景と、ウィキには書かれている。
「なおギリシアのプルタルコスはチャンドラグプタが挙兵以前の青年時代に、
インドに侵入したアレクサンドロス大王と出会ったという
逸話を伝えているが確証はない」
↓
この記述が気になる。北西インド地方で彼は挙兵したが、
アレクサンドロス3世は、在位前336年 - 前323年で、
チャンドラクプタの挙兵と5,6年の差しかない。
「ペルシャ帝国を征服したアレクサンドロスは、次にインドへの遠征を目指した。
紀元前326年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、ヒュダスペス河畔で
パウラヴァ族の王ポロスを破り、さらにインド中央部に向かおうとしたが、
部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした」
わけだが、
その10年後に同じインド北西部から反乱を起こして、
インダス系王朝を倒したチャンドラクプタが、
プルタルコスによると、アレクサンドロスと会っていた、と記述している以上、
マウリヤ朝にアレクサンドロスの残党の関与の可能性は浮かぶ。
紀元前305年、セレウコス一世の侵入を撃退。
セレウコスもわかりにくい国だが、匈奴+南ユダと仮定しているので、
北イ系の可能性が高いマウリヤ朝との対立は納得。
ガンジス川流域とインダス川流域、更に中央インドの一部を含む
インド史上空前の巨大帝国を形成した。
ジャイナ教系の記録によればチャンドラグプタは晩年ジャイナ教を厚く信仰した。
ジャイナ教は、仏教の開祖釈迦とほぼ同時代のマハーヴィーラを祖師と仰ぎ、
特に不殺生の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られる
インドの宗教。
ヴァルダマーナは当時の自由思想家の一人として、バラモン教の供犠や祭祀を批判し、あわせてヴェーダの権威を否定して、合理主義的な立場から独自の教理・学説をうち立てた。
↓
バラモン(アーリア系インド上流階級)とヴェーダ(伏儀の痕跡が残る)を、
共に否定したジャイナ教は、アレクサンドロスの流れの、
チャンドラクプタには心地良かった、という仮定をしておく。
アショーカ王もアレクの流れか?
以下、ウィキペディア+私見
チャンドラクプタの孫、
アショーカ王が紀元前268年頃に即位。
紀元前259年頃、南方のカリンガ国への遠征をおこなった。カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。
カリンガ国は歩兵6万、騎兵1千、戦象7百を擁する一大勢力であったが、
恐らくインダス文明の流れであろう。
アショーカ王の石柱は、表面にサンスクリット語やギリシャ語が刻まれている。
↓
アレクサンドロスの残党の後押しがあったか?
彼は即位後、大量の兄弟や部下を殺しているが、
マウリヤ朝内にも、アレクサンドロス派、バラモン派など、
派閥争いがあったと仮定しておく。
「ある伝説ではビンドゥサーラの剃毛師をしていたダンマという女が
チャンパーのバラモンの娘であったことが発覚したため正妃とされ、
ビンドゥサーラとその女の間にアショーカが生まれた」
↓
このチャンパーが何処を指すのかわからないが、
始皇帝と同じような、出自の疑惑の可能性が浮かぶ。
その女がアレク派の手先だったなど。
「ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、タクシラで発生した反乱に際して
アショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせた」
↓
やはりアショーカを、
マウリヤ朝の内紛の一派が後押ししていた可能性を仮定しておく。
アショーカは仏教の庇護者として著名だが、
「仏教の教えを広めるためにヘレニズム諸国やスリランカに使節を派遣した」
↓
彼の仏教はヘレニズム=アレクサンドロスの流れを受けて、
北イスラエル化し始めた仏教である可能性を仮定しておく。
マイルストーンもアショーカ王によって設置された。
↓
マイルストーン(Milestone) とは、とは、
鉄道や道路等の起点よりの距離をマイルで表した距離標識の一つ。
ローマ帝国が、主要な街道に置いたのが始まり、
で、
紀元前3世紀のマイルストーンを置いたアショーカ王に、
ローマ帝国(マナセ族?)との関係の深さを仮定できる。
マウリヤ→ジュンガ
以下、ウィキペディア+私見
アショーカ王の死後、
王位継承の争いがあったことが知られているが、
王統をどのように再構築するかは容易に結論が出ない問題であり、
ともかくマウリヤ朝は分裂・縮小を続けた。
やがて北西インドで勢力を拡張するヤヴァナ(インド・ギリシア人)
の圧力を受けるようになった。
「…暴虐かつ勇猛なヤヴァナはサーケータを侵略し、パンチャーラ、マトゥラーも侵し花の都(パータリプトラ)にも到達するであろう。そして全土は確実に混乱するであろう。…
」
↓
このインド・ギリシア人が、チャンドラクプタ、アショーカを後押し、
その後、マウリヤ朝を分裂の原因となった、
アレクサンドロスの流れではないか、というのが私の仮定。
マウリヤ朝の将軍だったプシャヤミトラがギリシア人との戦いの中、
頭角を表し、マウリヤ朝を滅ぼしてジュンガ朝を起こす。
シュンガ朝はバラモン勢力
以下、ウィキペディア+私見
マウリヤ朝最後の王ブリハドラタに仕えたプシャヤミトラ・シュンガは
紀元前180年頃にブリハドラタを暗殺し自ら王位に付いてシュンガ朝を創設した。
インドの文献の多くによれば「シュンガ」はバラモン姓。
マウリヤ朝はその末期には分裂状態にあり、プシャヤミトラもかつてマウリヤ朝が支配した領域全てを制圧するには到底到らなかった。特に中央インドでは新たにウィダルパ国が創建されシュンガ朝の強力な敵となった他、北西インドにはギリシア人が勢力を持っていた。
↓
北西インドのギリシア人は、アレクの流れ。
ウィダルパ国については、情報が見付らない。
プシャヤミトラは仏教を手厚く保護したマウリヤ朝とは一線を画し、
仏教教団を弾圧してバラモン教の復興に努め、バラモン教的な儀式を好んで執り行った。
↓
前1500年にインドに侵入したバラモン系アーリア人と、
アレクでインドを狙い始めたヘレニズム仏教徒=北イ系の争い。
ジュンガ朝はバラモン系。
ヤヴァナ(ギリシア人)の王がサーケータ市とマディヤミカー市を包囲したとあり、
これはプシャヤミトラ治世下のことであったと考えられている。
このギリシア人はバクトリア系の集団であったと考えられている
↓
バクトリアはエフライム族、マナセ族と推定したが、
バラモン系アーリア人と対立してインド南下を狙ったようだが、
同じヒクソス同士で、バラモン系アーリア人も強いので、侵入しにくいようだ。
ジュンガ朝は部下に倒され、カーンヴァ朝が起こるが、
勢力は同じバラモンで、
実際にはカーンヴァ朝時代にもシュンガ家が何らかの影響力を保持していた。
サータヴァーハナ朝がカーンヴァ家を滅ぼすが、
北西部にはクシャーナ朝が起こっている。
一つずつ追いたい。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002364M.jpg
ベニヤミン系クシャーナ朝
以下、ウィキペディア+私見
クシャーナ朝は1世紀から3世紀頃まで栄えた王朝。
紀元前2世紀に匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民、月氏はバクトリアに定着した。
これを通例、大月氏(ベニヤミン)と呼ぶ。
このうち最も強大だったのは貴霜翕侯(クシャーナ)であった。
クジュラ・カドフィセスは、
アフガニスタン・バクトリアの北イ勢力と共同統治をする一方で、
これらを征服し、中央アジアにおける北イ系ギリシア人を叩いたが、
バクトリア地方の大部分は依然、北イ系の支配下にあった。
インドのパルティアと勢力争いをしていたが、
ガンダーラを奪取。
カブール周辺とガンダーラの支配は、後のクシャーナ朝の拡大の基盤になった。
その子、ヴィマ・タクトは、
北西インド、北部バクトリアを獲得した。
ヴィマ・タクトの発行したコインには、
ギリシア語で「ソテル・メガス(偉大なる救済者)」と言う称号が刻まれているが、
クシャーナ朝も南ユダ勢力なので、ギリシア語を使用したわけだ。
ヴィマ・タクトの孫(王朝交代説あり)
カニシカ王はガンダーラ仏教で著名。
ペシャワールに都を置いた。
カニシカはインドの更に東へと進み、パータリプトラやネパールのカトマンズの近辺にまで勢力を拡大した。こうしたインド方面での勢力拡大にあわせ、ガンジス川上流の都市マトゥラーが副都と言える政治的位置づけを得た。
ガンダーラ等を中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。
この時代に史上初めて仏像も登場している。
ガンダーラ仏像仏教は、ベニヤミンが作ったわけだ。
カニシカ王以降の記録は少ないが、
カニシカの3代後、
三ヴァースデーヴァ1世(波調)は魏に使節を派遣し、
親魏大月氏王の金印を贈られている。
倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印として有名。
↓
魏は匈奴+南ユダと推定。
倭国もフェニキアで南ユダ系。
クシャーナ朝もベニヤミンなので、
この三カ国の関係は納得がいく。
ガンダーラとマトゥラーの違いについては後に追いたいが、
自分の話をしますが、
文学者、思想家、そして一人の人間として、
私は仏像仏教は間違っていると考えています。
文学者、思想家は、文章のみを扱う仕事。
文学者、思想家が、像、映像、音声に結び付けられてしまうことは、
文章による作品のみを扱う文学者、思想家にとって、
無意味どころではなく、有害なのです。
少なくとも黒塗りあふぅの場合は、
私を像、映像、音声と結びつけることは、
まず、文学者、思想家の姿勢として禁じています。
次に、史上最も低俗な集団ストーカーに、犯罪を行なわれた個人としても、
プライバシーと自分の人生を守るために、
自分が像、映像、音声と結び付けられることを、禁じます。
黒塗りあふぅ、私は盗聴、盗撮の被害にあっていますが、
本人の意思として、永久にその音声、映像の使用を禁じます。
この決定は、誰にも、永久に変更できません。
私が禁じているからです。
俳句ダービーでの書き込みは、限定的に引用を許可していますが、
その条件については、既に書き込みましたので、そのルールに従ってください。
俳句ダービー以外の書き込みは、引用も禁止します。
サータヴァーハナ朝は、バラモン+ドラヴィダか?
以下、ウィキペディア+私見
サータヴァーハナ朝(前3c?前1c?〜後3c初頭)
パックス・ロマーナ期のローマ帝国と盛んに海上交易を行い、商業が発達した。
この時期の遺跡からは、ローマの貨幣が出土することで有名である。
王たちは、バラモン教を信仰したが、仏教やジャイナ教も発展した。
↓
クシャーナ朝もそうだが、サータヴァーハナ朝もローマとの交易で潤う。
バラモン教は前1500年からのアーリア系の可能性をしめすが、
ヴェーダ文献ではアーンドラ人はダスユ(夷狄 非アーリア人)と呼ばれており、
恐らくドラヴィダ系の集団であったといわれているので、私にはわからない。
前1世紀頃にカーンヴァ朝、ジュンガ家(バラモン勢力)を滅ぼして台頭する。
その後、2,3代のあいだに勢力を伸ばすが、
マウリヤ朝によって滅ぼされたドラヴィダ系カリンガの流れが、
マウリヤ朝の衰退をみて、チェーティ朝が起こされていて、
サータヴァーハナ朝はその攻撃を受け混乱。
1世紀頃まで歴史はほとんどわからなくなる。
サカ族(スキタイ?匈奴?)に圧迫されていたが、
ガウタミープトラ(106年頃 - 130年頃)が、
クシャーナの流れから中央インドを奪取、
更に西北インド方面に力を持っていたサカ人、ギリシア人、パルティア人に対抗して
これを抑え、デカン高原のほとんど全域を支配下に置いた。
↓
バラモン教を重視し、スキタイ、北イ、イラン、ベニヤミンと対立した、
サータヴァーハナ朝は、前1500年からのアーリア勢力と推定できる。
その後もクシャトラパ(クシャーナの流れ)と抗争を続けるが、
3世紀にに入ると中央政府の統制力は弱まり、
地方に派遣されていた王族や諸侯達が各地で自立して急速に崩壊した。
アーンドラ人は非アーリア系であると推定されているが、
サータヴァーハナ王家がドラヴィダ人の母系家族制の影響下にあったことも知られている。
バラモン教を基本としながら、仏教も保護されたのは、
アーリアとドラヴィダの妥協王朝だったためと仮定しておく。
地図は以下のサイトから、デカン高原。
http://www.saiyu.co.jp/osusume/110/india_dekan_ajanta_.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002366M.jpg
マガダ→カリンガ→チェーティ朝
以下、ウィキペディア+私見
マガダ→カリンガ→チェーティ朝は、
マウリヤ朝(アレクの流れ)、
ジュンガ朝(バラモン教アーリア)に対し、
インダス文明の流れを組む。
チェーティ朝がどのように権力を得て成立したのかは分かっていないが、
第3代の王と考えられているカーラヴェーラが、
バラモン系、サータヴァーハナ朝を攻撃、
ギリシア系のグレコ・バクトリア王国をも圧倒し、強勢を誇ったチェーティ朝は、
暫くの間、有力勢力として存続していたと考えられるが、
記録が少ないためによくわかっていない。
タミル系のチョーラ朝、パーンディア朝
以下、ウィキペディア+私見
チョーラ朝は、タミル政権で、
1〜3世紀頃にカーヴェリ河畔のタンジャーヴールよりやや上流のウライユールに首都をおき、全インドを征服したとかセイロン遠征をして多くの捕虜を連れ帰ったというカリカーラ王の伝承で知られている。
http://www16.plala.or.jp/vierzehn/P19_22.pdf
南端部にチョーラ朝,最南端部にパーンディア朝が存在→タミル語文学の発展
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/EurasiaBC2.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002368.jpg
サータヴァーハナ朝の分裂後
以下、ウィキペディア+私見
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/andhra.html
アーンドラ王国(=サータヴァーハナ朝)は、
「3世紀初め 西北のサカ族との争いが続き、王国は衰亡、分裂。
王国西部(ナーシク地方) → アービーラ朝
王国東部(アーンドラ地方) → チュートゥ朝
王国南部(クンタラ地方) → イクシュヴァーク朝……3世紀にアマラーヴァティを首都として仏教栄える。
これらの小王朝も長続きせず、デカン地方はヴァーカータカ朝の勢力下に入る。
また東南部海岸地方にはパッラヴァ朝が興隆。」
http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/b/krsna.htm
「「クリシュナ」(kRSNa)は、もとは「黒」を意味する形容詞である。肌の色が黒いためこの名がある。クリシュナは、ヴィシュヌの化身のうちでも、ラーマとともに民衆にもっとも人気があり広く信仰されている。
クリシュナも、ヴィシュヌに劣らず多面的な神で、いくつかの異なる神が複合されて成立した。クリシュナ信仰の成立と発展の過程はきわめて複雑で、西インドのいくつかの部族の神々が合体して多様な相をもつに至ったと推定される。正確なところは不明であるが、クリシュナを構成する主な要素として、次のようなものがあげられる。(1)ヤーダヴァ族の英雄クリシュナ、(2)ヴリシュニ族の一神教的なヴァースデーヴァの信仰、 (3)アービーラ族の牧童(ゴーパーラ gopAla)の信仰、さらに、(4)正統バラモン思想の伝統との融合によるヴィシュヌの化身としての信仰である。
(3) アービーラ族の牧童(ゴーパーラ gopAla)の信仰は、マトゥラー周辺に広まっていたと考えられる。現在もマトゥラーの北には、クリシュナの生誕地とされる所があり、そこにはクリシュナ・ジャナム寺院が建てられている。また、マトゥラー西北のヤムナー河畔にあるヴリンダーヴァンは、クリシュナが牧女たちと遊び戯れた森のあったところとされる。そこには寺院が多く建ち並び、クリシュナ信仰の中心地となっている。」
「インドでのクリシュナ人気は、非ヒンドゥー教のさまざまな逸話を吸収したことが大きい。」
↓
クリシュナはインダス系の神のようですが、
アービーラ朝はクリシュナ信仰で、マトゥラ−にも関わるらしい。
以下のサイトによると、
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/syakanyoraino.htm
マトゥラ−坐像の、
「釈迦如来の両脇には脇侍、台座前面の中央、両脇には獅子が浮彫りされております。
この獅子が台座から独立して、中国、日本で変化したのが唐獅子、狛犬、獅子舞、
沖縄のシ−サだったりするのであります。」
↓
仏像はアレクの流れのギリシア彫刻を取り入れた物だが、
獅子は狛犬にも繋がるシュメールの流れと推定できるので、
マトゥラにはクリシュナ+狛犬というシュメールの痕跡も残る。
以下のサイトから抜粋しつつ、私見。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage18.htm
「汝、偶像を祀るなかれ、の戒めを与えたヤーウェ神の国である筈の大ユダが、
何故、偶像仏教の導入を許すことになったのでしょうか」
↓
ヤーウェはシュメールの神。大ユダは南ユダ系でイナンナ派の倭人。
「既に、太子の頃の大ユダでは、ミトラ神崇拝という偶像崇拝が蔓延っていたからです。
ミトラは、大ユダでは、「マトゥラ」と呼ばれていました。」
↓
インダス−ミタンニのミトラ教は、偶像崇拝に繋がり、
ベニヤミンなどはミトラをマトゥラを呼ぶ、と彼は論じているようだ。
「後に、マトゥラ神像は、天台宗の仏寺に安置されて残ることになりました。
延暦寺に祀られている「摩多羅神」や、京都太秦広隆寺の牛祭りの祭神ともされる摩多羅神の由来は不明と言われていますが、共に大ユダ時代のマトゥラ崇拝の名残りなのであります。」
↓
牛祭りはバール信仰、マトゥラ像には狛犬もいる。
仏教はよく知らないのだが、天台宗はマトゥラ系と彼は論じている。
摩多羅神はどうやら、ダビデ崇拝(イナンナ系救世主思考)であり、
「マトゥラ崇拝が戦勝祈願の為の軍人教であったから…
偶像崇拝を禁じた教えが説かれていた大ユダに、
マトゥラ偶像崇拝が蔓延るようになった…
卑弥呼の時代には隆盛を誇っていたのであります。」
↓
邪馬台国は親魏倭王で、南ユダと関係が深いと推定するが、
ベニヤミン系クシャーナ朝が、同じく親魏大月氏王の金印を贈られている。
クシャーナ朝のカニシカ王の時代に、
ガンダーラ、マトゥラーで初めて仏像が制作されているので、
マタラ、ミトラ、摩多羅の音が同じというだけでなく、
勢力の背景から、同一の物である可能性も仮定できる。
「「魏志倭人伝」に記されている「末櫨国」(末羅〔記〕、松浦〔紀〕)は
ヘブライの部族名ではないので、マトゥラに充てたものでありましょう…
大ユダの兵士の多くがマトゥラ崇拝者であったことがそうした命名、
或いは通称名に繋がったのでしょう。
九州の北部は対馬列島と並んで、防衛の拠点であったことが考えられますが、
大ユダはそれらに軍を置いて、朝鮮海峡から対馬海峡を経由した
大陸からの侵入者に対して備えていたのであります。」
↓
彼の言う大ユダを倭人と理解して、
同じ南ユダ系勢力のマトゥラで起こった偶像崇拝が、
倭人の北九州王朝の地名にも残ったという説は、
可能性としてはありうる。
ただ、インド−エジプト型のシュメールの流れには、既に推定したように、
ミトラ−キリストなど、メソポタミアや中華と比べて、
偶像崇拝にまで繋がる特徴的な側面があり、
アレクサンドロスの北イのギリシア彫刻など、
非シュメール的な発想が混じって、
仏像仏教が作られてしまった、と考える。
この仏像という発想は、北イスラエルから来たのではないか?
個人的には仏像という思考は嫌いです。
彫刻と思想は異質です。
画像は以下のサイトから、マトゥラ−坐像。下に狛犬の元がいる。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/syakanyoraino.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002369M.jpg
クシャーナが衰退した時代
以下、ウィキペディア+私見+以下のサイトから抜粋
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/gupta.html
グプタ朝
クシャーナ朝衰退後マガダ地方から興る。
西暦320年から550年頃まで栄えた王朝である。
チャンドラグプタ1世の基盤、マガダの地は、
かつてマウリヤ朝を建てたチャンドラグプタが基盤とした土地でもあり、
それを継ぐ者という意識を持っていたようである(ただし、
チャンドラグプタとチャンドラグプタ1世の間に血縁などの関係は全くない)。
2代目はデカンのヴァーカータカ朝と姻戚関係を結んで、
南インドにまで政治的影響を及ぼすこととなった。
3代目のチャンドラグプタ2世は、
イラン系のサカ朝(西クシャトラパ)を下し、
ヴァカタカ朝やパンジャーブ諸国を臣従させた。
この時期、東晋の僧、法顕が訪れている。
なお、この頃、ヒンドゥー教が台頭し、仏教文化は衰退を始めた。
第4代クマーラグプタ1世(位415年頃〜455年)の治世は、
玄奘や義浄も学ぶことになるナーランダー僧院が設立されたことで知られるが、
遊牧民エフタルの侵入によって衰退。
その後は分裂し550年に滅亡。
エフタルは、白いフン、白匈奴。
5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、周辺のクシャーナ朝後継勢力を
滅ぼしてトハラ(バクトリア)、ガンダーラを支配下に置いた。
隣接するサーサーン朝と渡り合い、インドへと侵入してグプタ朝を脅かし、
グプタ朝の衰亡の原因を作った。
6世紀の前半には東はタミル盆地のホータン、
北ではテュルク系遊牧民の鉄勒、まで支配下においた。
しかし6世紀の中頃に、鉄勒諸部族を統合した突厥と、
サーサーン朝に挟撃されて滅ぼされた。
エフタルが単純に匈奴なのかどうかは、私にはまだ分からないので棚上げ。
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/ephthal.html
「= 起源 =
トルコ系 (モンゴル系) 説……元来トルコ系またはモンゴル系で、
天山・アルタイ山脈方面から興り、ソグディアナ・バクトリア地方へ南下。
イラン系説……クシャン族と類縁のイラン系で、アム・ダリヤ上流の
バダフシャン東方またはヒンドゥークシュ山脈方面から現れた。
高車説……中国文献は大月氏または高車の一種で、金山(アルタイ山脈?)
から南下しアム・ダリヤ上流に建国したと伝える。
いずれが正しいか、定説はないが、遺跡調査などからはイラン系説が有利。」
鉄勒、突厥については後に調べるが、
平御幸により突厥はベニヤミン。
クシャーナ朝の衰退によりガンダーラ文化は衰えて、
グプタ様式が盛んになる。
サンスクリット文学は最盛期の時代で、二大叙事詩である
「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」、カーリダーサの戯曲「シャクンタラー」
などが生まれる。マヌ法典も完成した。
アジャンター石窟はグプタ・ヴァーカータカ朝に再び活動を始めているが、
バラモン+ドラヴィダのサータヴァーハナ朝時代に開かれたもの。
グプタ朝は、
ヴィシュヌ神を信奉し、バラモン教を国教に、サンスクリット語を公用語にした。
↓
バラモンが支配層、インダス庶民をヴィシュヌ神で取り組みつつ、
アレクサンドロスの流れに対抗した王朝と仮定しておく。
その形式はサータヴァーハナ朝と同じ。
ただし、マウリヤ朝を意識していたように、
インダス勢力を好ましく思ってはいなかったように見え、
勢力の拡大と同時にヒンドゥー教が盛んになり、仏教は衰えている。
勢力が安定したので、インダス勢力の力を切り捨てたと仮定したい。
基本的には前1500年に侵入したアーリア系バラモンの王朝と推定。
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/Eurasia4C.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002370.jpg
インドとチベットのエロスの起源
インドからチベットを調べようと思っていたのですが、
その時代の前に、パルティア、ササン朝という大国が隣接しているので、
先にパルティア、ササン朝を調べます。
雑談ですが、
ベニヤミンは聖母信仰のためか、ストイックに見え、
メソポタミア・中華もエロスは好きだが、
性にのめり込んで、堕落することを諌める論調が多い。
私にとっても、エロスは読書の次に大切ですが、
あくまでも動物的な欲求にすぎず、強い動物的欲求であることを認めつつ、
理念や文学、思想として追求する価値はないと考えます。
一方、北イ系の文化は、ストイックさ、文化への反抗から、
他人のプライバシーや性の明け透けさ、盗み撮りを好むように見える。
対して、インド・チベット文化には、官能の側面があるようにみえる。
「アジャンター石窟寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの仏像、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだサールナート派の仏像が知られる」
「マハーシャーナカ王子が世俗の快楽を捨て去る決心をして、妃シヴァリーが踊り子たちとともに出家を思いとどまらせようとするが、引き止めきれず、王子はゾウの背に乗って王宮を去り、残された妃は深く絶望し、奴隷たちに囲まれて快楽にうずもれてゆくという場面である。」
アジャンター石窟の壁画を見ても官能的。
チベットよりも先に、少なくとも四世紀の時点で既に、
官能への志向がみられる。
これは、シュメール、北イ系のヒクソスとも違う、
前1500年に侵入したが、インダス系の釈迦の勢力が抵抗する。
その釈迦の禁欲への、インド−バラモンによる対抗が起源なのだろうか?
これはまだわからないので仮定です。
仏教はよく知らないのですが、
ベニヤミン系の仏像仏教とインドの仏教絵画の雰囲気が全く違うことに、
驚いたことがあって、よくわからないので一つ雑談しました。
バクトリアの残党がクシャーナ朝に残って仏像に繋がる。
以下、ウィキペディア+私見
バクトリア(紀元前255年頃 - 紀元前139年頃)
ギリシア人王国でヘレニズム国家の代表。
紀元前228年頃、同じくセレウコス朝より独立した、パルティアと同盟を結び、
西方を固めた。この同盟は、紀元前189年まで続いた。
紀元前2世紀に入ると、ガンダーラを占拠し、
北西インド進入し、パンジャーブ地方支配した。
しかし、このときセレウコス朝の支援を受けた、エウクラティデス王が
バクトリア本国を奪い、パルティアのミトラダテス1世によって侵入される。
しかしインドに進出したデメトリオス王はインド侵略を続け、
バクトリア王国の最盛期を築いた。
メナンドロス王(〜紀元前145年)はバクトリアから分裂し、北西インドを支配した。
この王は哲学議論好きとして知られ、仏僧のナーガセーナと議論を交わし、
最後に仏教に帰依したと言われている。これは仏典『ミリンダ王の問い』。
パンジャーブ地方を拠点とし、ガンダーラ地方、マトゥーラまで支配し、
シュンガ朝を攻撃した。
その後、バクトリア本体は、この二つの分派を制圧し取り戻す。
しかしその後、トハラ族、サカ族、パルティアの侵入を受け弱体化し、
1世紀初めにクシャーナ朝の侵入によって滅ぼされる。
このとき、インドのギリシア王朝、バクトリアは滅びたが、
ギリシア人はその後もこの地域に住み続け、
クシャーナ朝期のガンダーラ美術に大きな影響を与えた。
↓
アレクの流れのバクトリアの残党が、ベニヤミン系クシャーナ朝において、
仏像仏教が生まれる一因となっているので、
仏像へのギリシア彫刻や北イスラエルの影響は間違いない。
地図は以下のサイトから、グレコ・バクトリア
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/hensen1.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002372M.png
パルティアの概略
以下、ウィキペディア+私見
パルティア(紀元前247年頃 - 226年)
紀元前3世紀なかごろにセレウコス朝の支配力が衰え、バクトリアが独立した。
これとほぼ同時にアルサケス1世と弟のティリダテス1世が指導者として独立。
この後、セレウコス、バクトリアとの勢力争いに入り、
ミトラダテス1世(前秦の符堅)が、
バクトリア、メディア地方、セレウコス朝の中核地帯であるバビロニアを攻略した。
しかし、この広い征服地域に、アレクサンドロスの残党、
ギリシアのマナセ族、エフライム族を抱え込み、
彼らは親セレウコス朝、親ローマの政治傾向が強く、
パルティア内部の親ローマ派(マナセ族)の勢力の支持母体となっていた。
↓
セレウコス朝はアレクサンドロスの部下から始まる匈奴系だが、
パルティアがローマ帝国(マナセ族)と対立する時点では、
北イ勢力と仲が良いようだ。
セレウコス朝は匈奴+南ユダと推定したが、
推定を取り下げて、未だ不明に戻す。
南ユダの勢力も入り込んでいるように見えるが、政権による変化があるのだろう。
ミトラダテス1世はその後、インド北西部までを制圧した後、没する。
その後、マナセ・エフライム族の支援を受けて、
セレウコスの「ギリシア人王」(セレウコスは北イ系に変わったのだろう。)
が、メディア地方、バビロニアを取り返すが、
パルティアはこれを鎮圧する。
ミトラダテス2世は、
サカ族、ギリシア人、トハラ族(大月氏)、セレウコスと争いつつ、
パルティアの最盛期を作る。
前53年、三頭政治のローマ帝国を、
カルラエの戦い(第1回パルティア戦争)で破るが、その後、
ローマ帝国、アラン人(?サルマタイ)との争いを続けるが、
紀元後、198年、第7回パルティア戦争に敗れたのちに内紛をおこし、
第8回パルティア戦争でローマを撃退するものの、
混乱はますます激しさを増し、全土に反乱が多発する。
220年、それに乗じたペルシア王アルダシール1世はパルティアを侵攻。
サーサーン朝を設立した。
パルティアは、トハラ(大月氏)と闘っているが、
ローマ帝国(マナセ族)と対立し続けた南ユダ勢力と仮定。
東で対応する前秦がチベット系、氐族なので、
パルティアも同じ民族と仮定。
インド−イランの南ユダ系シュメールのミトラ教の影響が強く見られそうで、
ミトラダテスの「ミトラ」は、ミトラ教で、南ユダ系だろう。
ミトラ教もわかりにくいが、ゆっくり時間がとれたら、
東條真人さんの研究に目を通して勉強しようと思っているが、今は棚上げ。
地図は以下のサイトから、前2世紀のミトラ教分布。赤丸はミトラ教の中心地。
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_History_West.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002373.jpg
スパルタクス、ベニヤミン
紀元前73年から紀元前71年にかけてイタリア半島で起きた、
ローマ帝国への反乱。
スパルタクスはトラキア人の剣闘士奴隷。
「シチリア島に渡ろうとしたものであるが、何らかの理由により船が現われず失敗した。
スパルタクスは以前にも奴隷の反乱が起きたこの島を
拠点にしようとしていたと考えられている。」
↓
スパルタクスはベニヤミンで、シチリア島は加羅に当たるからか?
「反乱軍に加わったおよそ6000人の奴隷が捕虜となり、カプアからローマに向かう
アッピア街道沿いに生きながら十字架に磔にされた(この刑罰は同時のローマの
非市民に対する極刑に値する。イエス・キリストも同じ刑を受けている)。」
↓
原始キリスト教の十字はカタカムナの十字と仮定したが、
ローマ帝国(マナセ族)にとって、対外勢力は伏儀、ということで、
十字架にかけたのだろう。
スパルタクスがベニヤミンだとすれば、十字は伏儀、
イエス・キリストは子供に当たるので、十字架に相応しい勢力。
以前、ドーリア人(ベニヤミン)の奴隷思考が強いと述べて、
タルムードの「ゴイム(家畜)」という発想からも、
その傾向は強いと考えるが、
スパルタにおいてドーリア人が奴隷にしたのは、
100年前に、ミュケナイ文明を壊滅させたアカイア人(ヒクソス)なので、
スパルタにおいては、復讐としての動機は理解できる。
興味深いことに、
「ドイツの左派マルクス主義者たちによる政治団体。
第一次世界大戦中に発足した。ドイツ共産党の前身」が、
スパルタクス団。
「1917年のロシア革命をスパルタクス団は熱烈に歓迎し、
世界大戦は世界革命に転化し始めた、と判断し、
ドイツに革命を普及させるべく、
「ドイツ共産党(スパルタクスブント}」を作った。
ロシア革命がユダヤ革命という飛鳥昭雄の情報は、
スパルタクス、ベニヤミンの繋がりからも納得できる。
スパルトイは、テーバイ人の始祖カドモスが、
牡牛をアテナ女神(イナンナ)に捧げる為、障害の竜を退治したが、そのアテナ女神に、
退治した竜の歯を大地に蒔く事を薦められ、薦めに従い歯を大地に蒔いたところ、
地中から武装した男達が現われた。アレス(伏儀)に怒られたものの、
スパルトイはイナンナ信仰の戦士であり、ベニヤミンにつながるのだろう。
ちなみに私は私、誰とも、どの集団とも、関係はありません。
魔王→閻魔→ヤマ→伏儀…
エラム人、アーリア人の対立を抜きに、
東西の対照時に、イラン人を匈奴と推定していましたが、
非イスラエル系の遊牧民の区別は、未だそれほど行なえていません。
ササン朝とローマ帝国を、ミトラ、キリスト教を調べつつ調べます。
以下の地図の、よくわからない勢力を順番に追っていこうと思います。
ストーカーから逃げ切るまでに、21世紀まで調べきれないといいのですが(苦笑)
逃げ切れば、首切り娘、魔王とデートあるよ…
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/Eurasia4C.htm
(無題)
…
BC2000頃 アブラハム(ヘブライ人の祖)がカナーンに定着
BC1900頃 エジプトの呪詛文書に「エルサレム」登場
BC1700頃 ヘブライ人の一部がエジプトへ移住
BC1250頃 モーセの出エジプト、ヤハウェより「十戒」を受ける
BC1200〜BC1020 ショフティム(士師)時代
BC1020〜BC928 王政時代(サウル、ダヴィデ、ソロモン)
BC1004 ダヴィデがエルサレムに遷都
BC958 ソロモンがエルサレム第一神殿起工
BC928頃 北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂
BC722 イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされる
BC586 ユダ王国が新バビロニア王国に滅ぼされる。バビロン捕囚。第一神殿崩壊
BC538 ペルシア皇帝キュロス2世がバビロンのユダヤ人にパレスチナ帰国を許す
BC515 エルサレム第二神殿完成
BC323〜BC200 プトレマイオス朝エジプトのパレスチナ支配
BC200〜BC143 セレウコス朝シリアのパレスチナ支配
BC142 マカベア戦争によりユダ王国再建、ハスモン朝時代(〜BC63)
BC64 ポンペイウスによりユダ王国はローマの属領となる
BC37 ヘロデ大王、ユダヤ人の王として即位。
BC20 ヘロデ大王、第二神殿を大々的に改築
AD6 ローマの直轄統治下に入る
30頃 イエス刑死
66〜70 第一次ユダヤ戦争
70 ティトゥスがエルサレムを破壊。第二神殿崩壊
132〜135 第二次ユダヤ戦争。ユダヤ人はローマによりパレスチナから追放される
395〜636 東ローマ(ビザンツ)帝国によるパレスチナ支配
610 ムハンマド、アッラーより啓示を受ける
622 ムハンマド、メッカからメディナに聖遷(イスラム暦元年)
632 ムハンマド、エルサレムのアル・アクサー寺院で昇天(コーランにはそう書いていない)
638 イスラム軍、エルサレム占領(1091年までイスラム支配)
691 ウマイヤ朝のカリフ、アブドゥル・マリクが、第二神殿があった丘に岩のドームを建設※1
715 ウマイヤ朝のカリフ、ワリード1世がアル・アクサー寺院を建設※2
1091 十字軍がエルサレム占領
1099 フランスの十字軍参加貴族ゴトフロワ4世が、「聖地の守護者」としてエルサレムを支配。アル・アクサー寺院を王宮とする
1189 アイユーブ朝のサラディンがエルサレムを奪回
1228〜1229 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が一時エルサレムを奪回
1229〜1250 アイユーブ朝のパレスチナ支配
1250〜1517 マムルーク朝のパレスチナ支配
1517〜1920 オスマン=トルコのパレスチナ支配
1920〜1948 イギリスがパレスチナを委任統治領とする
以下保留
※1 第二神殿があった丘、つまり「神殿の丘」に岩のドームが建設されたのであって、第二神殿の跡地のすぐ上に建てられたわけではないらしい。岩のドームの中には、アブラハムが子のイサクを神に捧げようと横たえた岩がある。それは世界が築かれた「基礎石」と呼ばれ、元々、神殿の丘はモリヤ山の山頂であったといわれている。その岩の上からムハンマドが大天使ガブリエル(イスラム教ではジブリール)に連れられて昇天したとイスラム教ではいわれ、その岩にムハンマドの足跡とガブリエルの手の跡なるものが残っているらしい。
・・66〜70 第一次ユダヤ戦争 このあとの・・70 ティトゥスがエルサレムを破壊。第二神殿崩壊 ・・ユダの拡散ということではこの辺が決定的ではなかったか。
132〜135 第二次ユダヤ戦争。ユダヤ人はローマによりパレスチナから追放される
(無題)
>・・ベニヤミンの都市、ギブアでの蛮行(19:1-28)。イスラエルの四十万人の戦士がミツパに集結し、ギベアを攻め滅ぼすことを決定する(19:29-20:11)。ベニヤミンの他の都市の者たちはギブアを滅ぼすことに同意せず、二万六千人の戦士がギブアを救うために集結する(20:12-16)。最初の二日間はベニヤミンが優位に戦い、イスラエルの四万人が戦死する(20:17-29)。三日目に、ベニヤミンの二万五千百人が戦死し、六百人の戦士がリモンの岩場に逃れる(20:30-47)。ベニヤミンの全ての都市が滅ぼされる(20:48, 21:16)。ベニヤミン族に対する救済(21章)。
・・ベニヤミン族はイスラエル族と戦った。わずか六百人まで落ち込んでいるから勢力的にどうか。
・・ベニ、というのは鉄(金属?)にかかわるのでは?
かわいこたむだと良いのだが…
>>必ず、運命の絆とは、いくら離れても必ず引き合ってしまうほど
不思議な力があるそうでございます。
>>いくら出逢いを避けてもあっという間にひきつけられて、
離れられなくなってしまうそうでございます。
運命、ソウルメイトという発想は神話的。
マルクスの魅力、同時に間違いは、歴史に必然的な法則がある、などの、
インダス−エジプト型の神話を持ち込んだことで、
マルクスの哲学者、思想家としての価値は世界史でも屈指と認めつつ、
運命という発想は、私は退けます。
救世主信仰と、プロレタリアート必勝思想は、似てる。
もちろん階級問題は、社会の根幹に関わります。
私にとってドストエフスキー、司馬遷など幾人かの文学者を特別に重視するのは、
彼らの作品が、私の人生にとって最も大きものだからで、だから私は文学者になった。
ワワが今時珍しく風流なので、茶のみ話とか面白そうだな、
というのは、相対的な楽しみですね。
私の思想の根幹に関わるほどの存在ではないけど、
一緒にいて心地は良さそうだな、という程度の。
女性で、彼氏なしならなお良い…
>>赤文字、桃文字
個人的なことをいうと、文学は色彩とは無縁です。
視覚も、かわいこたんにしか、じっくり使用しません。
私はベニヤミンでもないし、聖書も読んだことはないのですが、
バビロン捕囚から、ローマでのキリスト教公認までは興味深いですね。
インダス、ゾロアスター、ネストリウス
以下のサイトから抜粋+私見
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kodai/33-iran.html
「ミトリダテス1世の治世の前半に鋳造された貨幣には「ギリシア文化の愛好者」
の銘がある。しかし後1世紀頃からはイランの伝統文化の復活の風が強くなった。 」
↓
パルティアにはミトラ教とともに、
ミトリダテス1世の前半にも、マナセ・エフライムが関わっている可能性がある。
カルラエの戦いで、ローマ帝国との争いになってから、
パルティアはイランの伝統=ミトラ教に傾倒したか?
「「ササン朝ペルシア(226〜651)の創始者であるアルデシール1世(位226〜241)は、
アケメネス朝の都であったペルセポリス付近の貴族から次第に勢力を拡大し」
↓
アケメネスは匈奴+南ユダ。ササン朝もこの勢力か?
「ササン朝は、イランの伝統文化の復興を図り、イラン民族文化を確立した。このことはイランの民族的宗教であるゾロアスター教を国教としたことによく現れている。ゾロアスター教の経典である「アヴェスター」の成立年代は不明であるが、現存の経典はササン朝の時代に編集された。 」
↓
アヴェスター語は、
「サンスクリットの最古層であるヴェーダ語(リグ・ヴェーダなどに用いられた言語)
とは文法的にも酷似している。 」
ように、インダス文明とササン朝の繋がりは強そうだ。
ゾロアスター教もインダス文明から発生と考える。
「特にネストリウス派キリスト教は比較的自由な活動が許されて発展し、
中国にも伝播し、唐代の中国では景教と呼ばれ一時栄えた。」
↓
ネストリウス派は、ゾロアスター教と仲は悪くない。
景教はイラン系?
キリスト教の異端とイラン系信仰の繋がりについてよく知らないので、
少しずつ調べていきます。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
カトリック・東方正教会・プロテスタント等、キリスト教主流派では、
ネストリウス派は異端とされる。
↓
異端キリスト教は、イラン系信仰に近いのではないか?
キリストを生んだ「マリア」が神の母であることを否定する。
↓
景教は、イナンナ派とは別なんですかね。
唐の王朝は景教を保護した。
モンゴル帝国のチンギス・ハーン家の一部家系などに、
熱心に信仰する遊牧集団が多かったため、元の時代に一時中国本土でも復活した。
↓
以前、チンギス・ハーンを北イ系と推定したが、取り下げる。
唐→モンゴルの景教信仰は何を意味するか?
景教とは中国語で光の信仰という意味であり、
景教の教会を唐の時代、大秦寺という名称で呼んでいた。
↓
光の信仰は、ゾロアスター教か?
大秦寺は、イラン系か?
ササン、大まかな概略
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
サーサーン朝の起源については不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのは
アルダシール1世であるが、彼の出自は謎に包まれている。
まず王朝の名に用いられているサーサーンと言う人物が何者であるのかもはっきりしない。
↓
サーサーンという名はインダス文明からミタンニに関係ないか?情報求む。
サーサーン朝とローマ帝国(東ローマ帝国)はサーサーン朝が滅亡するまで
断続的に衝突を繰り返した。
↓
ミトラ−イラン、と、マナセ−ローマ帝国、
という対立の図式が、後期パルティアからササン朝に見られそうだ。
宗教的には、バチカン教皇対イランの光の宗教。
ゾロアスター教の祭司、カルティールは権力を握り、
マニ教や仏教、ユダヤ教、ネストリウス派キリスト教を排斥した。
↓
これはササン朝の態度というより、ゾロアスター教の権力志向のためと仮定したい。
シリアやアナトリアがフン族に攻撃されるものの、
サーサーン朝の領土が攻撃を受けることはなかった。
↓
匈奴=フン族はイラン系と推定したが、
ササン朝もイラン系なので、激しく敵対しなかったと仮定。
ヤズデギルド1世には、キリスト教徒の医師が友人にいたために、
キリスト教に改宗したと勘違いされ、「罪人」のあだ名で呼ばれたとされる。
↓
この時代のキリスト教は、マナセ族の宗教。
東方からエフタルの侵入があった。
以後エフタルはサーサーン朝にとって悩みの種となっていく。
↓
エフタルの特定はまだできていない。
ササン(イラン系)、クシャーナ(ベニヤミン系)、グプタ朝(バラモン系)と対立、
突厥(ベニヤミン)と、サーサーン朝に挟撃されて滅ぼされたのをみると、
エフタルには、北イ系の可能性をみたい。
東ローマ帝国ではキリスト教学問の発達に伴って異教的学問の排除が進み、
529年にはアテネのアカデミアが閉鎖された。このために学者がサーサーン朝に移住し、
この結果ギリシア語やラテン語の文献が多数翻訳された。
↓
キリスト教公認後のキリスト教は、アテネ(マナセ系)とも違うのか?
ローマ帝国は後に調べたい。
エフタルに対し突厥と同盟を結んで攻撃をかけ、エフタルを滅ぼすことに成功したが、
今度は突厥の脅威に対抗しなければならなくなった。
↓
エフタルが北イ系、突厥がベニヤミンだとすると、
ササンはイランで、インダスの流れなので、南ユダともやや違う。
インダス−ミタンニ−アナトリア−エジプトという救世主信仰の流れにおいて、
西はイナンナ的、東はゾロアスター的、になったと仮定しておく。
サーサーン朝はアヴァール人と共同で、皇帝が不在な東ローマを攻撃。
↓
アヴァール、柔然も特定できていないが、
突厥との微妙な違いは、柔然(イラン)、突厥(ベニヤミン)の、
インダス−エジプト系の東西2派の違い、と仮定しておく。
それで、アヴァールはササンと組む。
642年にイスラム帝国に敗北、サーサーン朝は事実上崩壊した。
661年 ヤズダギルド3世の子、ペーローズ、唐王朝に亡命。
↓
景教の繋がりもあり、ササン朝と唐の繋がりが気になる。
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/eurasia3.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002381.jpg
マニ教
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
マニ教
ササン朝ペルシャのマニ(210年 - 275年ごろ)を開祖とする宗教。
マニ教の教義は、ユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、グノーシス主義、
仏教、道教からも影響を受けている。
マニがサーサーン朝のシャープール1世に重用されると、ペルシャを中心に信者を増やしたが、その後ササン朝がゾロアスター教を国教と定めるとともに迫害された。
ローマがキリスト教を国教とする前は、マニ教はローマ帝国全域にまで拡大していた。また、アジアにも拡大し、ウイグルではマニ教が国教となった。
唐においては694年に伝来して「摩尼教」と称し、景教・ゾロアスター教と共に、三夷教と呼ばれた。843年に唐の武帝によって禁止されたが、その後もマニ教は「明教」とも呼ばれ、仏教や道教の一派として流布し続けた。
明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、朱元璋が建てた明の国号は明教に由来したものだと言われている
マニ教の宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、預言者の印璽、断食月)は、後にムハンマドのイスラム教の成立に影響を与えた。
マニ教は、西方伝道においてはイエス・キリストの福音を、東方への布教には仏陀の悟りを前面にするなど、各地域毎に布教目的で柔軟に変相したため、東西に発展した世界宗教となった反面、教義・経典が混乱気味となった。
スペインから中国まで大陸を横断する世界宗教であった。
↓
マニ教の神話では、ヒクソスと伏儀が混乱している。
原初の世界で光(伏儀)と闇(ヒクソス)の戦いが開始された。
光の勢力によって原人(カタカムナ)が創生されたが、
原人は敗北して闇によって吸収された。
その後、光の勢力は太陽神ミスラ(伏儀)を派遣して、
闇に奪われた光を部分的に取り返すことに成功した。
闇は手元に残された光を閉じ込めるために、
人祖アダムとエバ(伏儀と女カ)を創造した。
元は、アダムもミトラも伏儀なのに、マニの教義で対立しているのは、
新旧聖書で、伏儀信仰が、教会の正当化によってヒクソスに利用されたからか?
ユダヤ教の起源は、伏儀のイナンナ信仰で、
ヤーウェがシュメールの神だという事実が忘れられた。
このように、伏儀とヒクソスの両勢力がミトラを信仰するので、
エフライム族が、イナンナ像を祭り、
インダス文明の末裔がアダム(伏儀)を攻撃する(苦笑)
ゾロアスター教
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
宇宙の法たる神(光明神)アフラ・マズダーを主神とし、アフラ・マズダーに従う善神スプンタ・マンユに代表される善の勢力と、アフラ・マズダーに背く悪神(暗黒神)アンラ・マンユに代表される悪の勢力の二つの原理により、世界は成立しているとする。このため、火や光を崇拝する。
↓
アフラ・マズダーの起源は、
ミタンニ・ヒッタイト条約文にその名があげられるヴァルナ、
アフラは語源的にはアスラ(阿修羅)と共通とされているので、
ヒクソスの敵。
光と闇が争い、神は真理を教えるため、人間に救済者・預言者を定期的に送り出し、
人間に救いを齎すという教えは、後のユダヤ教の宗教思想に継承される。
↓
ユダヤ教に継承される、というより、
インダス−エジプトの線、例えばミタンニ−ヒッタイトなどで、
元は同族だった。
イスラム教もまた、ザラスシュトラの教え、すなわちゾロアスター教の影響のもとにある。「隠れイマーム思想」は、サオシュヤント思想に多大な影響を受けている。
↓
スンニー、シーアの違いは、
イナンナとゾロアスターという、インダス−エジプト線の、
東西の違いも強く関わる。
やや先の時代の話題だが、イスラムの急激な発達は、武力よりも、
伏儀勢力を正当化しつつ、各勢力の違いを抱擁できる良いルールだったから、
と仮定しておく。
イベリア半島がイスラムになったのは、
イナンナ派(カタルーニャ)、バスクからポルトガル(伏儀)など、
元々、伏儀派だったからだろう。
アケメネス朝ペルシアの歴代の大王たちが、ザラスシュトラの教え、すなわちゾロアスター教に帰依していたことは事実である。ユダヤ人のバビロン捕囚に対する解放者として、キュロス大王が登場する。
↓
アケメネスは、匈奴+南ユダと推定した。
アレクサンドロス(マナセ族)と対立し滅ぼされたアケメネス朝から、
パルティア−ササンというペルシアの流れは、ローマ帝国と対立し続けた。
その宗教はミトラ−ゾロアスター教。
中華(メソポタミア)に漢、モンの政権は作られなくなったが、
変わって、インダス勢力が台頭した。
南ユダは、ローマ(マナセ)とは聖書で繋がり、イランとはミトラで繋がり、
バビロニアは元夫という、微妙な立場。
マニは、イラン系ユダヤ。ゾロアスターとしては、
マニ教の、マナセに繋がる要素を排除せざるを得なかったのだろう。
マニ教は逆に、ローマ帝国からは、そのイラン的な要素のために追放された。
唐では、景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教と総称して三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市であった長安を中心に盛んであった。
↓
唐の李淵は鮮卑出身らしいが、三夷教はイラン的。
太宗が東西対照でムハンマドに当たる可能性を考えていて、
唐の初期はイラン系の可能性も浮かぶ(適当な仮定)。
北魏から隋唐はまた後に調べる。
ジャーヒリーヤ時代
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/jahiriya.html
後世のアラビアの史家が、イスラム出現前夜の4〜6世紀のアラビア半島を呼ぶ言葉。
この時代は定住から遊牧の時代へと移り変わる激変の時代だった。
特に南アラビア(イェメン)では砂漠化の進行が著しく、
ヘレニズム経済圏との交通路を途絶されて経済は破綻した。
→ 農耕民の遊牧化、北方への大移動開始
南アラブ族の北方移動の結果、次のような勢力が中央〜北アラビアに出現した。
ガッサーン族……イェメンから北上し、4世紀末にナバタエ族の故地
ペトラを占めて王国を築く。王国は636年イスラム軍に滅ぼされる。
ラフム族……同じくイェメンから北上し、
ユーフラテス川河口に近いヒーラに王国を建設。
http://pathfind.motion.ne.jp/isram.htm
実はイスラム誕生のきっかけを作ったのは、
東ローマ帝国とササン朝ペルシャの間で続いていた戦争だった。
戦争がない平和な状態であれば、この両国の国境付近、
シリアからメソポタミアのあたりというのはちょうど東西世界の通商の十字路となり、
世界の富が集まってくる地域に相当していた。
ところが戦争によってこのあたりが通れなくなってしまった。そのため
通商ルートが大きくまとまって南へ迂回を始めたのである。
そしてそのちょうど中継点に当たる場所こそがメッカだった。
キリスト教系アラブ人のガッサーン朝のペトラは南ユダの地。
紅海の傍、エジプトとシリアの間にあり、
イエメンはシバの女王、原始キリスト教とイナンナ派と推定される。
ローマ(マナセ)、ササン(イラン)の対立の隙間、
ガッサーン朝、ラフム朝で、南ユダ勢力はフェニキアから続く、
交易をしていた可能性を仮定しておく。
「ムハンマドの5代前ハーシムの時代ササン朝ペルシアとビザンツ帝国の抗争が激化し始めた。危険を回避するためアラビア半島を南に迂回し、イエメンからマッカを経てシリアにいたる交易路が栄え始めた。」
「アブー・ラルブはムハンマドの保護を取りやめ、ムハンマドは仕方なく信者達をエチオピアのキリスト教の国アクスム王国やヤスリブに脱出させなければならなかった(ヒジュラ)。」
クライシュ族内部でのムハンマドの闘いの背景はよくわからない。
627年クライシュ族はユダヤ教徒と組んでムハンマドと戦っていて、
ムハンマドを後押ししたのも、イナンナ派原始キリスト教。
クライシュ族の多神教の情報求む。
近い勢力同士の勢力争いと仮定する。
どうして急激にササン朝に勝てたのかは、後の課題にしたい。
地図は以下のサイトから。
http://pathfind.motion.ne.jp/isram.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002384.jpg
北周はガド+南ユダか?
以下、エフライム工房から抜粋しつつ、
ウィキペディア+私見
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/yamataikoku8.htm
北魏は代(君が代)に続く、拓跋、エフライムだったが、
6代目から漢人化、皇帝も拓跋から元に変わる。
儒教的礼制を採用→南ユダが漢人と組んだか?
北魏は、西魏、東魏に分裂。
西魏→北周
は宇文部(私は自信なくガド族と推定している。)
「ライバルの北周は仏教と道教を禁止したという事です(エフ工)」
「すると、禁止されなかった宗教は儒教ですか…(エフ工)」
↓
北周のガド族線は、南ユダ、漢人とも手を組んでいたのではないか?
宇文部は元は匈奴で、後漢末に鮮卑に加わり、
マナセ・エフライムのような北イの中核ではないので、
南ユダ系とも手を組める。
東魏→北斉
この線は、鮮卑高市で、エフライム工房によると、
原始キリスト教、「北斉はベースが呉」コーカサス系
↓
仏教は原始キリスト教と結びつくらしいが、
このあたり私はまだよく分からないので棚上げ。
この高市系キリスト教は、儒教と対立するのか。
よくわからない。
西魏→北周の線が、東魏→北斉の線を降し、
高氏が立てた北斉を滅ぼして華北を統一した。
北周、3代の武帝は廃仏をおこなったことで知られる。(三武一宗の廃仏の第2)
この北周はガド族、南ユダ、漢人の連合と自信なく推定。
4代目の時に、楊堅が台頭。
5代目の時に禅譲させている。
楊堅は女に弱いか?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
前の書き込みで北周が漢人とつながりがあると仮定してが訂正。
「隋唐帝国との大きな違いとして、鮮卑復古主義がある。儒教の経典である周礼に基づく官制をとり、また周という古代に通じる国号を用いながらも、西魏・北周は、北魏の孝文帝以来の漢化政策に逆行する鮮卑固有の習俗への回帰を標榜していた。」
↓
北周はガド族+南ユダで、漢人とは対立と仮定。
五代静帝は楊堅に禅譲し、隋が建てられて、北周は滅亡した。
やがて北周の皇族の宇文氏は前皇帝の静帝を初めとして多くが
楊堅によって皆殺しにされて途絶えたという。
↓
隋は北周の鮮卑、ガド族、匈奴+南ユダ路線とは対立。
楊堅は、鮮卑の名門貴族である普六茹部の末裔。
「『隋書』の「本紀」には、楊堅の誕生に関して非常に興味深い話を載せている。それは、楊堅が生まれたのは、西魏の大統7年6月13日であり、生まれた場所は、馮翊(陝西省大茘県)の般若寺という仏寺であったというものである。しかも、その幼名は金剛力士をあらわす那羅延であったというのである。ただ、この時代、それほどの仏教信者でなくとも、名前に仏教語を使用するのは、ごくごく一般的なことではあった。しかし、楊堅の場合は、それだけに滞まらず、乳母役を引き受け、彼を養育した女性は、智仙という尼僧であったという。
また、初唐の護法僧、法琳の『弁正論』によると、その般若寺は、北周武帝の廃仏によって廃毀されてしまったが、楊堅は即位後の585年に出生地を懐かしんだのと、父母への追善供養の意味も込めて、その場所に後の日本の国分寺に相当する大興国寺を建立し、華麗な荘厳を施された堂塔伽藍を建立したと記している。」
楊堅は、『周礼』と鮮卑回帰政策を進めた北周の路線を改めて北斉の制度も参照しつつ改革を行った。
↓
楊堅は、仏教との結びつき、北斉との繋がりが伺える。
「文帝皇后の独狐皇后は非常に強い女性で、文帝に対して「自分以外の女性と子供を作らない」と誓約させていた。これは当時の皇帝としては極めて異例なことであり、しかも独狐皇后は文帝の周囲を厳しく監視し、文帝がほかの女性に近づくことを警戒していた。」
↓
独狐皇后は、武川鎮軍閥、八柱国の独孤信の娘。
楊堅は女に弱かったのではないか?
最初は独狐皇后の武川鎮軍閥に取り入られたが、
「楊堅は正妻の独孤皇后が病没してからは一気に女漁りに奔走し」
↓
「陳の皇室に対してはその正反対に手厚く厚遇したという。
これは楊堅が寵愛する妃の宣華後主が兄の後主らを助命する
嘆願が積み重ねたからともいう」
↓
宣華後主により、南朝の陳の勢力に取り入られた。
この陳は、呉、東晋の流れだが、
南朝系の漢人化した北イスラエルと組んだか?
これがエフライム工房のいう高市の線か?
北斉の高市の線は、北周に滅ぼされた後に、
楊堅と組んで、北周を滅ぼした。
その後、武川鎮軍閥から、南朝+北斉に以降。
漢人はこの時代、実力を持たなかったが、南朝の隋に加担か?
「楊堅は寵愛する宣華後主の介助で病床の床に伏し、宣華後主が別室で休息している間に先手を打った太子の楊広に命じられた楊素・張衡らよって毒殺されたという説も有力として残っているという。」
↓
宣華後主=陳を排除すべく、楊堅を暗殺。
隋と並んで、突厥(ベニヤミン)が大勢力なので、
隋は南ユダではないのだろう。
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/eurasia6C.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002386.jpg
隋唐を追う。
ササン朝と唐のつながりから、唐をイラン系と適当に仮定したが、
唐は基本的には武川鎮軍閥のようだ。
則天武后など、反武川鎮軍閥の時に、
外交も変化しているはずなので、唐とイランの繋がりは後に追いたい。
以下、通鑑記事+私見
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/zuikenn.htm
「臣の位は徐廣程ではありませんが、想いは楊彪と同じです。」
楊堅は怒って言った。
「朕は、それ程書物に詳しくないが、卿のその台詞が不遜だとゆうことくらいは見当が付くぞ!」
(徐廣は、東晋から宋にかけて出仕していた。東晋から宋への禅譲の際に参列して、
辺りをはばからずに泣き濡れた。楊彪は魏の頃の人間。)
上柱国竇毅の娘は、隋の受禅を聞くと、悔しがって言った。
「私が男じゃなくて舅氏の患を救えなかったのが恨めしい!」
竇毅と襄陽公主は、慌てて彼女の口を押さえた。
「滅多なことを言うな。一族が滅亡してしまうぞ!」
だが、竇毅は、これ以来彼女を特別に見ていた。やがて、彼女が長じると、
唐公の李淵へ嫁いだ。
↓
北周から隋への禅譲を司馬光は否定的に描き、
この記述から、唐の李淵が、北周に繋がるように見える。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/zuibunn.htm
宮中では文帝と独孤皇后を併せて「二聖」と呼んだ。
この後の記述において、独孤皇后が絶賛されているが、
司馬光は北イ系であり、武川鎮軍閥を賛美したい可能性を仮定しておく。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/zuiyoukenn.htm
蘇威失脚
↓
蘇威は武川鎮軍閥の有力者に見えるが、
失脚したことを見ても、隋の勢力が入れ替わりつつあるか?
これも武川鎮軍閥を賛美する司馬光の片よりと仮定したい。
猜疑心が強く、讒言はすぐに信じ込んだ。
↓
これも、武川鎮軍閥から陳に味方を変えたことへの記述とみる。
蘇威失脚後の楊堅は愚かに記述されている。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/zuikou.htm
高潁は独孤后の父親の知り合いだったので、彼女は高潁を礼遇していた。
↓
蘇威と並ぶ権力者、高潁は独孤后と親しく、武川鎮軍閥との繋がりをうかがわせる。
文帝は、仁寿宮で尉遅迥の孫娘を一目見て夢中になり、手を付けた。
これを知った独孤后は嫉妬に狂い、文帝が朝廷へ出ている隙に、彼女を殺してしまった。
これを知った文帝は、半狂乱になり、馬に乗ってメチャメチャに駆け、
山の中へ入り込んだ。高潁と楊素がこれに追いつき、文帝の馬を抑えて苦諫した。
文帝は言う。
「朕は皇帝となったのに、ちっとも自由がない!」
高潁は言った。
「陛下、たかか一婦人のために、どうして天下を軽視なさるのですか!」
↓
楊堅に力はなく、高潁や独孤后に逆らえなかった。
その後、高潁と独孤后は仲違い。楊堅は独孤后に従う。
高潁は牢獄へぶち込まれた。
↓
このあたり、司馬光は気に入らないのではないか?
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/zuihaicha.htm
楊堅の皇太子は独孤后に嫌われて、謀略で廃立される。
文帝は、元皇太子の楊勇を東宮に幽閉し、楊廣(後の煬帝)に監視させた。
元皇太子の楊勇は、でっち上げの罪で廃立されたので、冤罪を訴えようと
文帝への謁見を求めたが、楊廣はこれを全て握りつぶした。とうとう楊勇は、木に登って大声で叫ぶようになった。その声か文帝へ聞こえて謁見が叶うかことをこいねがったのだ。だが、楊廣は、これを文帝へ奏上して言った。
「兄上は、錯乱なさいました。癲鬼のせいでしょうか。もはや恢復しないでしょう。」
文帝も同意し、遂に謁見しなかった。
↓
煬帝は独孤后の勢力。
ウィキより、
「彼(楊堅)はかつて廃した長男の楊勇を再び太子に戻し、とんだ喰わせ物だった
次男の楊広(後の煬帝)を廃嫡する動向を見せたといわれる。」
↓
楊勇についた勢力は陳の宣華後主なのだろう。
陳を排除したい楊広(後の煬帝)と武川鎮軍閥は、
宣華後主が別室で休息している間に楊堅を毒殺した。
隋から唐はわかりにくいので、通鑑記事で、
勢力の移り変わりを追ってみたい。
明日は煬帝から調べる。
(無題)
・・大神島、wowokami-sima …ベニヤミンの島。
煬帝は南朝+突厥
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/youdai1.htm
楚公楊素は大功があったが、煬帝から猜疑されており、上辺は重んじられていたが、実権はなかった。
↓
+
ウィキ
楊素は、601年には行軍元帥として突厥の達頭可汗(西可汗)の騎馬隊を撃破して、文帝(楊堅)の信頼をますます高めたという。
↓
楊堅と武川鎮軍閥と近いように見える楊素を追いやり、
楊堅が敵対した突厥が入貢していることから、
煬帝は、楊堅時代の勢力と手を切ったようだ。
煬帝の嫁は、
蕭皇后(後梁の公主、蕭?(後主)の姉)
蕭嬪(蕭皇后の族妹)
で、二人とも南朝。
煬帝自身も北斉を好むような記述が見られる。
やがて煬帝の時代になり、突厥の啓民可汗が入朝することになると、
↓
煬帝の時点で突厥と組んだか?
煬帝は、晩年の楊堅と同じように、女で南朝派に取り込まれ、
南朝仏教(エフ工の言う高市の線)と突厥と手を組んだ。
それで、中華史上最悪の暴君とされているが、
ウィキペディアにもあるように、誇張と考えられる。
南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。
↓
やはり、煬帝は南朝仏教の線と組んだ。
この南朝仏教勢力について、私はまだ理解できていないので、後に調べる。
李淵は突厥→漢人
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
隋の滅亡に繋がる反乱は、李密が中心。
武川鎮軍閥中の名家の一つである李氏を出自とする。
煬帝の首をとった宇文化及は、
代郡武川鎮の出身でやはり武川鎮軍閥か?
後に化及の首は突厥に嫁いだ煬帝の娘である義成公主に送られた。
李淵は北周の八柱国の家系で、隋の楊堅の外甥でもある。
煬帝の失政で国内が騒然となると突厥より兵を借りて隋に対して反乱を起こした。
↓
隋の滅亡には武川鎮の力が大きそうだが、李淵は突厥から兵を借りているのは、
どういうことか?
統一戦に著しい戦功を上げた李世民とその取り巻き達が皇太子の座を狙って策謀するようになった。これを止めるために高祖は世民の謀将房玄齢・杜如晦の二人を引き離し、天策上将の称号を与える事で世民の不満をなだめようとした。
しかしこれらの策は成らず、626年に玄武門の変により皇太子李建成と三男の斉王李元吉は李世民により殺され、高祖も軟禁され、その後李世民に対して譲位して上皇となった。その後も半軟禁状態で635年に死去した。
↓
李淵と太宗で勢力が入れ替わっている可能性がある。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/rienkekki.htm
劉文静は、突厥と同盟を結ぶよう李淵へ勧めた。李淵はこれに従い自ら書状を書き、
腰を低く賜を厚くして始畢可汗のもとへ使者を派遣した。
突厥は唐と交易しようと、柱国の康鞘利等へ千頭の馬を与えて晋陽へ派遣した。
そして、李淵が入関の為に出陣する時には、援軍を出すと許諾した。
↓
李淵は突厥と組んだ。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/rien1.htm
独孤懐恩は、
ある時、彼は腕を振るって言った。
「我が家で尊いのは、どうして女性だけだろうか。
(周の明帝の皇后、隋の文帝の皇后、そして上の母は、全て独孤氏だった。)」
遂に、麾下の元君寶と共に、造反を考えた。
李淵は、独孤懐恩を呼び付けた。独孤懐恩は、まだ事が露見したとは思わずに
軽舟でやって来たところを捕らえて獄吏へ引き渡し、党与を捕まえた。
↓
独孤は武川鎮軍閥。李淵は武川鎮軍閥と対立したのではないか?
隋滅亡後、李淵の好敵手で、中華統一を争った李密も武川鎮軍閥。
夏、四月。庚子朔、天下へ恩赦を下す。この日、新しい律令を頒布した。
これは開皇の旧制と比べて新格が五十三條増えていた。
六月、辛丑。上が仁智宮へ避暑に行った。その後、国内では楊文幹が造反し、
国外では突厥や吐谷渾が屡々侵略した。
↓
後に調べるが、中華が安定し始めたので、
李淵は突厥と手を切り、新しい律令を定めたか?
まだ太宗に乗っ取られていない。
四月、太史令傅奕が上疏して、仏法排除を請うた。
↓
この次の次の月に玄武門の変で李淵は、太宗に位を譲るのだが、
この仏教排除の記述が長く、極めて興味深いので長いがそのまま引用する。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/rien2.htm
「仏は西域にあり、その言葉は妖しく、路は遠うございます。漢代に胡書が翻訳されましたが、今ではそれが都合の良いように解釈されています。彼等は不忠不孝にも髪を剃って君親を見捨て、働きもしないで衣食に満ちて、租税を逃れます。三塗(地獄、餓鬼、畜生)や六道(三途+修羅、人、天)のようなでっち上げを広めて愚夫を恐喝し、凡庸を騙す。過去の罪を妄りに赦し将来の福の空手形を与えるので、民は一万倍の報酬を求めて萬銭の布施を行い、百日の糧食を欲して一日の斎を差し出す。こうして功徳を妄りに約束された愚迷達は、法律を憚らなくなり、憲章を犯すようになるのです。そして遂には悪逆を行い、牢屋へぶち込まれるに至っても、彼等は獄中で仏を礼拝し、罪を免れるよう希うのです。
それに、生死や長命夭折は自然の力、刑徳威福は人主が与えるもの、そして貧富貴賤は功業が招くものなのに、愚僧達は、事実を歪曲して全て仏の力だと説いています。彼等が人主の権威を盗み、造化の力に仮託することで、政治がどれ程害されましょうか。まことに悲しむべき事です!
伏ギ、神農から漢代へ至るまで、仏法とゆうものはありませんでしたが、主君は賢明で臣下は忠義、王朝は長く栄えました。漢の明帝が始めて胡神を立て、西域の桑門からその法が伝来しました。西晋の頃は国に厳しい法律があり、中国の人が簡単に髪を剃るなど許しませんでした。苻、石、キョウ、胡が中華を乱す頃は、主君は凡庸で臣下は奸佞。政治は残虐で王朝は短命となったのです。梁の武帝や斉の文襄は、明白な鏡ですぞ。
今、天下の尼僧は十万を数え、そのような無為徒食の人間の贅沢の為に多くの繪綏が浪費され、萬姓を苦しめております。彼等を還俗させれば十万余戸となります。彼等へ子供を産育させて、十年養った後教えれば、兵とすることができます。そうなれば四海は無駄飯食いの殃がなくなり、百姓は権威を持ち福を与える者が誰か思い知ります。そうすれば妖惑の風潮は自然になくなり、純朴な風俗が戻ってきます。
北斉の頃、章仇子佗が『僧尼が多くなれば国家は疲弊し、寺塔が奢侈になれば金帛が浪費される。』と言ったところ、諸僧や諸尼が宰相や妃・主へ取り入って誹謗讒言した為、子佗は捕らえられ、都市にて処刑されました。北周の武帝は、斉を平定すると、彼の墓へ封戸を付けてやりました。臣は不敏ではありますが、北周の武帝の業績を慕っているのです。」
上は、百官を集めて、これについて協議させた。すると、ただ太僕卿の張道源だけが奕の言葉が理に叶っていると称した。対して、蕭禹が言った。
「仏は聖人です。奕は、これを非難しました。聖人を非難するのは無法者です。その罪を窮治めするべきでございます。」
奕は言った。
「君父は人の大倫です。それなのに仏は、世嫡のくせに父親に叛して出家し、匹夫のくせに天子へ逆らいます(釈氏の法として、君親へ拝礼しないことを指す)。蕭禹は木石から生まれたわけでもないのに、父親を無視する教えを尊んでいます。『孝にあらざる者は親無し(非孝者無親。孝経の一節)とは、彼のことです!」
禹は言い返すことができず、手を合わせて言った。
「地獄は、こんな奴のために造られたのだ!」
上は、沙門や道士が戒律も守らないくせに戦役を逃れていることを憎んでいたが、それは奕の言葉通りだった。また、寺観が邸宅に隣接すると、(あたりが汚れきってしまう?)。辛巳、役人達へ詔を下して命じた。
「天下の僧、尼、道士、女冠のうち勤行に励んでいる者は大寺観へ移して衣食を給与して不自由させないように。また、勤行を怠けている者は全て還俗させて郷里へ返還させよ。」
京師にはただ寺を三ヶ所、観を二ヶ所、諸州には各々一ヶ所だけ留め、残りは全て壊させた。
傅奕は謹密な性格。占候の職務にあった時から交遊を途絶し、災異を奏上すると、すぐに文書を焼き払ったので、人々は彼の功績を知らなかった。」
↓
突厥と手を組み、武川鎮軍閥を押さえ込んだ李淵は、
まず突厥と距離をとって、武徳律令 - 624年で漢人と手を組んだか?
儒教と対立する南朝仏教はエフライム工房の高市の線で、南北イスラエル。
上の仏教排除の記述に伏儀、神農な名が見えるが、
これは漢人による勢力奪取だった可能性を仮定したい。
この二月後に太宗により、李淵は強引に位を譲らされているが、
その背後を追いたい。
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板